知識/教養を身につけ時代を切り開くための7つの心得

 

知識社会で充実して生き、社会にも貢献するには

 

ここしばらく、現代日本における教養の重要性について何度も書いてきたわけだが、『大学の深窓にいる人たちは教養ある人たちのはずだが、そこにも日大アメフト部のような権力構図があったり、新しいことを頑固に否定するばかりでとても未来を切り開くような人種に思えない』という類のご意見や質問をたくさんいただくことになった。

 

実は、記事中に、今の日本の教養教育には問題があり、決して現代日本のいわゆる『教養人』をそのまま肯定しているわけではないことを指摘しておいたつもりなのだが、伝わっていなかったとすれば、あらためてこの場を借りて強調しておきたいと思う。

 

ただ、今度は、『お前のいう教養とは一体何なのか』『どうすれば教養を培うことができるのかよくわからない』、あるいは、『結局問題を嘆くだけで解決策は示さないのか』、というようなご意見をいただくことが予想されるし、そのご意見はごもっともではある。今回はその問いかけに私なりに答えてみようと思う。

 

但し、『教養』の定義については踏み込まない。むしろ、『知識社会で生き残り、それ以上に生きることに真に充実を感じることができ、社会を良くすることにも貢献するために、個人としてどのような姿勢でいればよいのか』、という点について絞って述べようと思う。もちろん、速効性の魔法の薬があるわけではないし、私の答えが誰にも該当するとは限らない。あくまで自分自身で試行錯誤する際の参考にしてみて欲しい。

 

 

具体的には、次の7つを提唱しようと思う。

 

1. 独学で学び続ける覚悟を決める

2. 目標/目的を決める

3. 自分で問いをつくることを習慣化する

4. 発信し続ける

5.語学を勉強する

6. 歴史をおさらいしておく

7. 古典を読む

 

 

■ それぞれの説明

 

1.独学で学び続ける覚悟を決める

 

何よりまず『独学で学び続ける』覚悟を決めることだ。独学でなければ絶対ダメというわけではないし、逆に独学だけでは学べないこともあれば、独学固有の問題もあることを認めた上で、少なくともその『覚悟』を決めることが重要と考える。

 

この点は、あえて『教養』に限定するまでもなく、仕事に必要な実用知を含めて現代は学校教育終了後も、継続して学び続けることが不可欠であるという認識は常識になりつつある。言うまでもないことだが、特にインターネット本格導入後に起きたことをあらためて振り返ると、知識/情報の重要性が急上昇し、知識で勝者になったものが『一強総取り』となる構図が時を追うごとに強くなった。世界市場は相互に緊密に結びつき、競争は国の壁に関係なく行われる。労働コストが高ければ、資本の方で海外に流出してしまう。今後、人工知能が社会に浸透するようになれば、ますます仕事をめぐる競争は激しくならざるをえない。

 

知識はもちろん従来から重要な資源ではあったのだが、これまでは、石油や食料のような物的資源であったり、金銭資本であったり、企業の持つ商権であったり、場所であったり、有名大学卒、あるいは一流企業にいるという権威であったり、多くは企業や大学のような組織に蓄積された(あるいは組織であるがゆえに持つことができる)、多くの場合、知識以外の資源の方が、企業活動における価値は上回っていた。だから、一旦企業に入れば、専門知識を磨いたり、教養を培ったりするより、上司や顧客にいかに覚えめでたくふるまえるか、どうすれば空気を読めるか、という類のノウハウの方が、はるかに価値があった(これも『情報』ではあるが、独学では学べない)。だから、企業は学生に対しては、偏差値の高い大学へ合格した、という足切り指標としてのパスポートがあれば、大学で学んだ学問など評価対象外だった。特に文系の学問など百害あって一利なしで、文系の大学院生など、大抵自意識ばかりが肥大化していて企業内では使いづらいことがわかっているから、できれば採用したくない、というのが企業人事の本音だった。銀行等のように大学で与えられたカリキュラムを要領よくこなせるかどうか、という指標としての成績を採用の際に重視することはあっても、学問としての大成など求めていなかった。それよりも体育会系のように、企業でもすぐ通用するコミュニケーション手法と忍耐力を身につけた学生の方がはるかに価値が高かった。流石に技術系の場合、専門知識の習得度合いが採用にあたって重視されてはいたが、だからといって、技術系の学生が技術知識だけで企業で生きていけるなど誰も思ってはいなかった。

 

職場の空気を乱さないことが最重要となれば、なまじ専門知識とかあっても、それをひけらかしたりすると、嫉妬されて足を引っ張られて逆効果になる。同僚の嫉妬もさることながら、上司(あるいは先輩)であっても、自分より知識豊富で優秀な部下というのはしばし自分を脅かす危険な存在で、よほど優れた上司でなければ、自分に逆らわないという何らかの確信がない限り、実際には巧妙に(あるいはあからさまに)潰されたりすることも少なくなかった。昔から本当の実力者としてのし上がる者の中には、熱心に勉強し続ける者も、もちろんたくさんいたわけだが、決してそれを周囲には悟られないで、嫉妬をかわないように勉強するような智恵は不可欠だった。

 

ところが、今、それが急速に変わろうとしている。どの資源より知識/情報の価値が高くなろうとしているのだ。現行の仕事のほとんどがアルゴリズムで実行できるようになろうとしている。ロボットや人工知能がほとんど何でもやってくれるようになる。これからは、インターネットのようなバーチャル空間だけではなく、物理空間に関わる変革が本格化する。未来学者のジェレミー・リフキンの『限界費用ゼロ社会』という著作があるが、これは、IoT/人工知能によって、コミュニケーション、エネルギー、輸送のインテリジェント・インフラが形成され、効率性や生産性を極限まで高めることが可能になり、モノやサービスを一単位生み出すコスト(限界費用)は、限りなくゼロに近づき、モノやサービスは無料になって、企業の利益は消失するという未来像を提示する、非常にセンセーショナルな未来予測の書だが、多少の程度や時期の見通しの違いはあれ、これから起きようとしていることを端的に指し示してくれていることは確かだ。知識以外の資源の価値は暴落するという予測には十分な根拠があるのだ。

 

今後の競争社会で生きていくため、知識の重要性が極端に重要であることはわかったが、どうして独学なのか、と言う疑問が出てくるかもしれない。その答えは簡単で、教えてくれる『誰か』や『教育機関』をさがそうにも、知識の陳腐化が激しく専門化が進む中では、それがものすごく難しいと言うことに尽きる。特に教育機関の教育メニューに闇雲に飛びつくとお金と時間の無駄になる恐れが大きい。

 

かつては大学には普遍性のある知の体系があり(少なくともあると思われており)、優れた企業にはその企業が成功することに寄与したノウハウが蓄積しており、いずれもそこに参入することでしか学べないか、学ぶためには参入することが一番手っ取り早かった。ところが、今はそれも驚くべきスピードで陳腐化してしまう。当然、組織の側でも新しい状況に併せて知識を更新していく必要があるのだが、歴史が長かったり、組織が肥大化してしまうと往々にして臨機応変には対応できず、『権威』だけが生き残り、現実から乖離してしまう。

 

自分の例を出すのは気恥ずかしいが、私もそれを身を以て体験した一人だったりする。私は大学時代は経済学部に所属していたが、当時の私の大学では、いわゆる近代経済学者とマルクス経済学者が拮抗していた。専門課程でもその両方を履修する必要があった。だが、すぐにベルリンの壁は崩壊し、冷戦は終了し、マルクス経済学は、少なくとも私が習った内容は(当時からそのきらいはあったが)現実解釈には事実上使えなくなってしまった。近代経済学も当時から私は合理的経済人仮説に大いに疑問を持ったものだが、その後の行動経済学等による攻撃は実に鮮やかで、かつて私が習った近代経済学は現実の説明能力を失ってしまった(というより、それが妥当する範囲は極めて狭く限定されてしまった)。そのように述べると研究者からお叱りを受けることは多いのだが、少なくとも、私が大学で習ったことがそのままで企業で役にたつかと言えば、それは絶対にないと断言できる。一方で、最新の学説を一渡り勉強してみると意外にも、現実解釈のヒントをたくさん見つけることができる。

 

また社会人になって最初に入った自動車会社(トヨタ自動車)は、ご存知の通り、トヨタ生産方式のおかげで、日本一を飛び越えて世界一を狙う自動車会社に成長した。トヨタ生産方式は、そのシステム自体の合理性もさることながら、現場改善を徹底的に社員の行動様式として叩き込む、いわば宗教のような性格を帯びていた。そして、それは本当に会社全体に一種の信仰体系として浸透しており、その徹底ぶりが現場を非常に強固なものにしていた。こんなことは、どんなに市販のトヨタ生産方式の本を読んでもわかるはずがない。現場にいないとわからない暗黙知の巨大な体系がトヨタ生産方式の真の姿であることを(少なくともその一端を)知ることができた。その意味で企業に参入しないとわからない知の体系の存在を私は身を以て学ぶ機会に恵まれた。

 

だが、IT化、というか『デジタライゼーション』が世界を席巻している現在、明らかに旧来と同じままではいられなくなっている。トップの危機感は最近報道も多いのでご存知の方も多いかもしれないが、それ以上に古くから現場にいる者の混乱ぶり(あるいは無知ぶり?)は大変なものだ。それでも『改善』で対応しようとする組織の遺伝子が生きているのは大したものだと思うが、一方で、神話的とも言える存在となったトヨタ生産方式が足かせになっている部分があることは否定しようがないはずだ。

 

組織に頼らずとも、インターネットが普及した現代では、自分で正しい探求ができれば、かなりの(ほとんどの)ことを学ぶことができる。確かにインターネットには、ゴミのような情報やフェクニュースで溢れていることは確かだが、驚くべき最新の情報に繋がるチャンスが開けていることもまた確かだ。だから、まずは独学の覚悟を決める。そうして探求していけば、自分にふさわしい『師』や『教育機関』を見つける可能性も広がる。

 

しかもこのことは、いわば、知識/情報、そして教養が人間を組織の束縛から解放し、自由を与えてくれる存在になろうとしていることを意味しているともいえる。独学の覚悟を決めることで、長く、多くの日本人が陥ってきた『精神の奴隷制』から名実ともに解放されるチャンスが広がっている

 

 

2.目標/目的を決める

 

独学を続ける覚悟と同じか、それ以上に大事なことがある。目標/目的を決めることだ。しかもその目標/目的を自分だけの満足だけの範囲に留めず、自分の家族や友人知人と共に喜び合えること、さらには、日本人全体、できれば人類全体にでも広げて共に喜びあえるような、同心円を描けるような目標を据えて、そのために学び続けることを自分に宣言することだ。

 

独学で一番難しいのは、自分を規制するものがないので、すぐにやめてしまう恐れがあることだ。3日坊主になって自己嫌悪に陥る、というのがありがちなことなのだ。だが、目標が決まっていて、しかも他人と共に喜び合えるとなると、それが勉強を続ける大きなインセンティブになる。但し、他人のために自分を犠牲にする(親の期待する通りに生きる等)、という考えを持ち込む必要はないし、それはむしろ有害と考えるべきだ。まず第一に自分が本当に実現したいことを思いっきり書き出して、そこから絞り込んでいく。ある程度絞り込めた時点で、他者と喜び合えるかどうか、という基準でスクリーニングするくらいのアプローチで最初はいいと思う。そして、目標を途中で変えることもいとわないことだ。大目標ができたら、中期目標と短期目標をブレークダウンして、進めていくうちにどんどん入れ替えていけばいい。

 

そうすることで、もう一つ独学で非常に問題になりがちな、具体的に何を学べばいいかわからない、という疑問が解消していく。目標/目的が決まっていると、不思議と学ぶべきことと、後回しにしてよいことが選別できてくる。

 

 

3. 自分で問いをつくることを習慣化する

 

知識/教養を身につけることは非常に重要だし、それは人工知能化が進むこれからも変わりないが、それ以上にその知識を得るごとに、自分で『問いを作る』ことを習慣化することはもっと重要だ。ある問題に対して、正しい問いを発することができれば、その問題の理解が確然と進んでいることの証拠と言っていいくらいだ。目標を持って独学を進めていれば、疑問が山のように湧いて来る。そして、それはとても良い兆候と言える。ただし、ちょっとネットを調べればすぐにわかってしまうような『問い』だけではなく、どんなに調べても脂汗が出るくらい考えても回答が見えてこないくらいの『問い』をつくることが肝心だ。そして、それを徹底的に考え抜くことだ。その問いを朝から晩まで考えて、考えたままいつの間にか寝てしまう、というくらいになると、非常に不思議なことだが、ふとインスピレーションが降りてきて、突然わかったり、突然何を調べる、あるいは誰かに聞くべきことを思いついたりするようになる。イノベーションには何らかのインスピレーションの招来は不可欠だが、そのために一番いい方法は、この『問い』をつくって、徹底的に考えることだ。慣れないうちは、1日3つの問いをつくる、というような目標を設定してもいい。そうして慣れてくると問いをつくることがどんどん上手になっていく。

 

 

4. 発信し続ける

 

これも非常に重要なことなのだが、情報を吸収する以上に、あるいはそのためにこそ重要なのは、発信すること、発信し続けることだ。面前で誰かに教える機会を作ってもいい。おすすめは私がこうして書いているようにブログで発信することだ。もちろん、フェイスブック等でもいい。ただ、Twitterのような短文ではなく、ある程度しっかりした文章としてまとめるほうがより効果がある。

 

発信することで、同じ問題意識を持っている人と繋がれる可能性があることはもちろん大きなメリットだし、発信している間に必ずそういう機会が出てくることを私は身を以て知っているつもりだ。また他人から意見をもらうことで、思わぬ発見もある。自分の至らなかったことや間違いを認めるのは正直楽ではないが、そのような発見のある学びは、そうではない学びに数倍する価値がある。

 

仮に、他者からの反応がまるでないとしても、他人に読んでもらうことを前提に何かを書く(あるいはしゃべる)というのは、独学の中で最も学びの効果が大きい手法であることに変わりはない。本当に手前味噌で恥ずかしいが、私のブログは私にとって非常に大きな学びの機会となっている。毎回ブログを書こうと思ってそれなりのネタの着想を得て書き始めるのだが、書く前の事前の情報収集より、書き始めてからの情報収集のほうがはるかに密度が濃い。しかも、そうしているうちに自分の先入観の誤りに気づいたりすることもすごく多い。書いている最中に貴重な参考文献を見つけて、そこから大幅に書いている方向を修正することもしばしばだ。もちろんこれは大変骨がおれる作業だが、この渦中での情報収集や資料や本の読み込みはほど価値のある学びはない。また、そうしているうちに、いわゆる論理的思考能力も鍛えられることは言うまでもない。

 

 

5.語学を勉強する

 

次に、勉強の中に、語学を入れることだ。誰もが一番身近なのは英語だろうから、英語でいいが、最近では中国語という方法もある。もちろん、もっとマニアックは言語でもいい。一つの言語ではなく、二つ、三つというのは尚いい。これは、日本語以外の情報アクセスルートを広げることができることにつながり、特に、世界中に情報が溢れている現在では昔よりはるかにメリットが大きいということもある(そういう意味ではやはり世界に使う人が多い英語の価値は大きい)。だが、語学を勉強する意味は単なる情報ルートを広げるためだけにあるのではない。日本語と違う語学を学ぶことには、まったく違った思考様式や文化の構造を知ることにつながる。翻訳を通さず他の言語に直接触れて理解することで、普段無意識にはまり込んでいる日本語のもたらすバイアスに気づくことができようになる常に自分を相対化する目を持つことができるようになるわけだ。これは非常に重要なことだ。

 

 

6. 歴史をおさらいしておく

 

歴史を勉強することの重要性は、私がここで述べるまでもなく、多くの識者が語っている通りだが、歴史というのは本当に奥深くて、探求すると限りがない。実のところ普通の人にとってはかなりハードルが高いとも言える。(それでも、深く勉強することはもちろんおすすめではある。)だが、その前に、高校の教科書でも良いし、理想を言えば、市販の全集物(『世界の歴史』とか『日本の歴史』というあれだ)を通読してみることをお勧めする。できれば二度、三度と読むことができれば効果は絶大だ。

 

実際にそれをやってみるとわかると思うが、中学校や高校で歴史を勉強したはずなのに、実はまったく不十分だったり、自分が間違って理解していたことを発見するはずだ。あるいは『流れ』として把握していなかったことを思い知るかもしれない。どんなことを勉強するにせよ歴史の中で理解することの重要性はどんなに強調してもしすぎることはない。歴史の全体像を知ることで、自分の知識が体系だって自分の頭に収まるようになる。目の前に起きていることが実は初めてではない、と言う感覚が目覚めてくればしめたものだ。それが未来予測を行う上でも、非常に重要な『装置』であることがわかるようになる。そして、もっと深く歴史を勉強したい、という気持ちが強くなって、良い学びの循環が確立できていく。

 

 

7. 古典を読む

 

これは亡き恩師が大学卒業時に、卒業生の我々に送ってくれたアドバイスなのだが、卒業から時間が経てばたつほどその重要性を痛感している。恩師からは年間一冊でもよいと言われたが、年間一冊読むことでさえ、ハードルが高いのが正直なところだ。だが、本当にこれが継続できれば、どうして『教養』が重要なのか、もはや私が説明する必要はなくなっているはずだ。

 

そんな古臭い本など読まないで、最新の本を読む方が時間効率が良いのではとあなたは言うかもしれない。だが、あなたのいう『最新の本』が一体何年陳腐化しないで読む価値があるままでいてくれるだろうか。大抵、3年程度が限度ではないだろうか。一方、いわゆる古典として評価されている本は、およそ古くなるということがない。私も大学時代に、マルクスとかマックス・ウェーバーとか恩師に促されて読まされて、あまりの難しさに辟易していた類だ。ところが、大学を出て何十年もたった今冷静に振り返ると、そのような古典は、何度読んでも(もちろん、今この時に読んでも)新たな発見があり、現代の先端の問題を検討するにあたっても大変参考になる。大学時代に同時期に読んでいた他の大半の本など、今思えばクズ同然で、よくあんなものを読んで時間を無駄にしたものだと自分自身に呆れてしまう。

 

特に昨今は、知の陳腐化は早く、フェイクニュースが世に溢れかえっている。前のブログ記事にも書いた通り、本物を見抜く目を自分で養わない限り、この偽情報の洪水の時代を渡っていくことは難しい。その能力を養うために一番いいのは、古典と格闘することだ。そのような力が培われて初めて、本物のインスピレーションを見極め、本当に正しいことを言っている人物を見つけ、価値ある情報を選び取ることができるようになる。

 

 

自戒して、自分でもあらためて取り組む

 

まあ、言いたい放題、まるで聖人君子のような上から目線で語りまくったが、もちろん私自身がこのすべてを完璧にできているなどと言うつもりは微塵もない。ただ、その一部は自分で実践して得た体験知であることは間違いない。そして、もっとちゃんど実践していれば、自分の人生ももっと輝かしく、納得のいくものになっただろうという気持ちはものすごく強い。もっとも、いくつになっても、チャレンジは大事だ。やり直すこともできる。まして、これからは人生100年時代だ。こんな記事を書いた私自身、あらためて自戒して、再度ちゃんと取り組んで行こうと思う。