日本人の政治リテラシーを格段に上げないと危ない!



◾️構造的な政治無知/音痴の大量生産

今の日本人の多くは(誰よりも私がそうなのだが)政治に関心が薄く、知識も乏しいから、国家運営や民主主義が健全に機能するために期待されるレベルに達しているとは到底思えない。もちろん日本にも政治に高い関心を持って真摯に取組む人たちが少なからずいることを否定するものではないが、問題は政治への無関心や無知が個人の性向とか趣味嗜好ではなく「構造」として再生産されてきたと考えられることだ。


例えば私のような昭和生まれの中でも、学生運動が実質的に消滅してしまった後に大学時代を過ごした年代は、政治に関わることのメリットより無力感、さらにはデメリットの方を感じて育ってきたと言える。(それどころか、「連合赤軍の総括」*1を例に挙げて露骨に嫌悪感を口にする者さえ少なくなかった)。多少は興味が持てる政治的なトピックがあっても、それを人前で語ったりすると、それ自体、周囲から浮き上がってしまうような空気を感じたものだ。現実に両親や学校の先生等からも、友人とは「政治」と「宗教」については決して語り合ってはならず、まして議論を戦わせるなどとんでもないと、真顔で諭された記憶さえある。就職活動にあたっても、具体的な政治活動は勿論、単に政治志向が強いことでさえ就職には有利にならないことは、表立って語られることはなくとも、暗黙の不文律となっていたと思う。このような空気の支配が私たちの年代の後、どれくらい続いたのかは定かではないが、内実は多少は変化したとしても、政治無知、政治音痴の量産自体は、その後も連綿と続いたと考えられる。

 

私のケースでは、早くから海外ビジネスの現場に出ることになり、各国の市場を知るためには現地の法律や政治状況の理解は不可欠で、ロビーイングについても常に意識しておく必要に迫られたため、学生の時には避けてきた、政治や法律関連の勉強に取り組むことになった。おかげで、日本の政治についても、少なくとも学生時代に比べれば、多少なりとも理解度は上がったのだと思う。

 

だが、それも今にして思えば、ほんの上澄みをすくった程度で、テクニカルな情報はそれなりに持っていても、深層の問題把握や、思想レベルの理解にはまったく至っていなかったことを後年思い知ることになる。それが少しはましになったのは、このブログを書き始めて、政治に関わる本を精読したり、IT系のビジネスの現場にいて、しかもその法律に関わる業務を担当する立場で、政治を理解することの重要性を肌で感じるようになってからだ。

 

そうして、政治に関する知識がたまってきて、理解が一定の閾値を超えたとたん、自分が裸であることに気づいた裸の王様状態とでも言うのだろうか、自分のそれまでのあまりの欠落が恥ずかしくもあり、そのような状態で社会生活を送ってきたことも、ビジネスに取り組んできたことについても、とんでもなく危ない状況、あるいは明らかに損をする状況に何度も出くわして来ていることに気づいた。同時に、それまでビジネス全般にある程度の知見があると自惚れていた自分のあまりの未熟さを突如自覚して、その場にへたり込んでしまいそうになった。


さらには、自分自身に対する恥ずかしい気持ちもさることながら、自分の友人等、自分たちの世代全体について大変な恥ずかしさを感じることになった。私達の世代は、社会のどの分野でも今では部下や後輩を指導する立場にいる者が多いが、その実、本当は大抵が裸の王様なのだと思うと、何とも申し訳ないというか、気恥ずかしい。そして、それなりに権力を持ち、権限もある一方で、政治理解は子供と変わらないでというのでは、昨今のように政治が非常に難しい環境に置かれていると、とんでもない方向に社会の舵を切ることに加担してしまう恐れがある。実際そういう兆候を様々な局面で目にするようになってきた。

 

 

◾️扇動に突き動かされやすい大きな母体

 

私の友人達も企業に就職した者の多くはそれなりの立場にいるわけだが、最近、安倍政権支持者が増えている印象があるので、話を聞いてみると、経済を安定させているから、というのがほぼ共通する理由と言えるようだ。企業の経営に近いところにいれば、経済の安定という要素は非常に重要だし、その運営に長けた政権を望むのは当然とも言える。

 

だが、一方で現政権が悲願とする憲法改正について、2012年に公開された、自民党憲法改正草案*2 *3について問いを向けてみると、ほぼ誰もその中味のことは知らない。特に秘匿されているわけでもなく、解説記事も数多く出ているのだから、その気になれば自分で読んで考えることにさほどの労力はいらないはずだ。この草案は、現行憲法に織り込まれた重要な概念である、「国民主権」「基本的人権」「政教分離」等が軒並み否定されたり弱められたりしていることに始まり、果ては本来国家を縛るはずの憲法が国民を縛る内容になっていたり、「家族は互いに助け合わなければならない」というようなおよそ憲法に規定するにふさわしくない道徳律のようなものが織り込まれていたり(そもそもどうやってこれを法制化するんだろう?)本当に目を疑うような代物に私には見える。

 

もちろん、どのような主張を支持するのも自由なのだから、自民党憲法改正がもたらす社会を是とする人を私が頭ごなしに否定することは出来ない。だが、およそ政権の支持というのは、経済政策のような具体的な政策ももちろんだが、他の政策や、何より、このような政権の信条、思想、目標等についても可能な限り情報を取得した上で総合判断するべきものだろう。だが、「経済政策がまともなら後は好きにやらせたら?中国や北朝鮮も危ないから憲法国防軍に格上げして自衛隊にもっと頑張ってもらったら?」という程度の意見しか出てこないのはどうしたことか。何だか、大学の新入生と話しているようで、話しているこちらが恥ずかしくなってくる。政治無関心の空気は何とも物騒な階層というか母体を作り上げてしまったものだなと思う。こんなことでは、意図を持って世論誘導をやろうとする悪賢い政治家の扇動に、いざとなると呆気なく転ばされてしまうと考えざるをえない。ヒットラーナチス党が合法的に独裁政権となったのと同じことが今ここで起きそうに思えて、冷や汗が出てくる。

 

 

◾️「被害者」ではなく「共犯者」の自覚を持つべき

 

こんな有様だから、社会学者の西田亮介氏の新刊、「なぜ政治はわかりにくいのか」*4のような本を読み始めると、まさに針のむしろを転げているような気持ちにさせられる。確かに世界規模で見ても、昨今の政治は非常にわかりにくくなっていることは確かだが、本気で取り組めばいつの時代も政治というのは本来非常に難しく、それほど簡単に竹を割ったように理解できるものではない。ただ、今そのような警鐘とも言えるタイトルが非常に生々しく見えるとすれば、今の世界は政治を知らないで安寧に過ごせるほど、牧歌的な場所ではなくなっているからだろう。

 

西田氏は本書で、「政治を理解せず、そこに背を向けているのが、この社会の一つの特徴だとすれば、メディア・教育、そしてそれらを包括する社会という、非政治的な側面の影響が反映された結果でもあるわけです。」と述べているが、私達も、政治無関心にさせられた「被害者」ではなく、その社会を継続させてしまった「共犯者」として、「共犯者」に向けられた警句と受け取って、襟を正していく必要を強く感じる。日本人が正しく政治を知り理解することこそ、日本の安全保障の根幹ともいえる。

 

 

◾️政治のゲーム化の恐ろしさ

 

西田氏が指摘する問題群の中でも、昨今特に私自身危機感があるのは、インターネットと政治の問題だ。今にして思えば、インターネットを活用して、政治をポジティブに変えることを高らかに宣言していたオバマ元大統領の時代のインターネット(特にSNS)に対する期待感は大変なものだった。日本でも米国を見習って公職選挙法を改正すべしという議論が最も盛り上がったのもこのころだろう。だが、前回の大統領選挙では、選挙活動の主役がインターネットであることは同じでも、その評価は180度反転することになった。

 

選挙戦で、トランプ陣営と契約した「ケンブリッジ・アナリティカ」のような、データマイニングとデータ分析を手法とする選挙コンサルティング会社が主導する、SNS分析や個別の有権者への働きかけなどを見ていると、政治のゲーム化も究極まで来ていて、民主主義のルールや精神とはまったく関係なく、ゲームの熟達者が政治というゲームを支配するようになってきていると言わざるをえない。だが、それ以上に問題なのは、金銭目的でマケドニアから大量の偽情報が発信されたり(そのことによって世論が歪められたり)、ロシアが政治的意図を持ってフェイクニュースを流していた疑いがあったり(最近でも、ロシアによる選挙妨害に関わるTwitterのボットが50000あまりもにも登ったという報道があった)。*5 こうなると選挙の正当性自体が危いことは誰の目みも明らかだ。西田氏は、この点、米国の法学者、ジョナサン・ジットレインを引用して次のように述べている。

 

法学者ジョナサン・ジットレインは「デジタル・ゲルマンダリング」という概念を通して、IT技術を用いた政治的利便性の向上と伝統的な民主主義は両立困難であると指摘しています。その中でジットレインは、政治的影響力が行使されたことさえ気付きにくいというリスクを主張します。

「なぜ政治はわかりにくいのか p131」

 

日本は日本語の壁に守られ(日本語を流暢に使いこなすことは他言語以上に難易度が高い)、また英語圏のような地理的広がりもないため、他国からの干渉にインセンティブが働き難いという利点(?)はあるものの、すでに日本の政治においても、テクノロジーによって世論を歪ませようという水面下の戦いは活発になってきているようだ。2014年の日本の衆議院議員総選挙Twitterの分析による政治的な意見やキーワードの共有・拡散の研究を行った、ドイツのエアランゲン=ニュルンベルク大学日本学部教授、シェーファー・ファビアン博士は、日本でもプログラムされた「ボット」による大量の投稿があり、それらが結果的に言論の多様性を弱めるような働きをしているのではないか、と述べている。*6

 

日本の公職選挙法も2013年4月の改正によって、ある程度選挙におけるインターネット利用を許容するようになったわけだが、まだ完全に解禁されたわけではなく、米国等と比較すれば様々な規制も残っている。

 

全面解禁については、米国の事情に詳しいビジネスマンやインターネット・リバタリアンとでも言えそうなIT系企業の経営者や幹部等を中心に、賛成する者は少なくないが、米国の状況等も勘案した上で、西田氏は慎重な姿勢を取る。私も、西田氏の姿勢に原則賛成だ。選挙のゲーム化の土俵となり避難の矛先が向けられた、FacebookTwitterもそれなりに対策を講じつつあるし、今後とも進展することは期待できるが、一方でそれらもビジネスである限り、コミュニケーションの自由度を制限することへの抵抗感はあるはずだ。また、ケンブリッジ・アナリティカのタイプの会社は世界中に大量にあって、しかもそのスキル/技術は日進月歩で進歩している。政治のゲーム化にインセンティブがある限り、イタチごっこになることは目に見えている。しかも、日本でも、先に述べたように、政治的に非常にナイーブで扇動に突き動かされ易い大きな母体があることを勘案すれば、全面解禁は時期尚早のように思えてならない。

 

 

◾️「正論」をサポートすべき

 

このように偉そうに書いては来たが、私自身、やはり政治については本気で勉強して来てなかったつけは十分回って来ていて、自分のレベルの低さと無知に愕然としてしまうことも少なくない。今回のような内容のブログ記事を書くのも、少しでも西田氏のような「正論」のサポートになれば、という懺悔の気持ちもあるわけだが、ちょっとした火種があれば、あっという間に燃え広がってしまいかねない、可燃性の高い、政治的にナイーブなマスを抱えた日本全体をどうすればいいのか、正直明快な答えを見つけるのは容易ではない。だが、それでも、私達も「被害者」ではなく「共犯者」であり、「当事者」としての自覚を持つべきと今は衷心よりそう思う。