不透明な未来を生き抜くために『教養』が最重要である理由とは?

 

 

▪️ 不透明な時代の指針とは?

 

人工知能(AI)のような先端技術に関わる報道は、そのインパクトが強烈だったこともあり、『仕事がすべて機械に奪われてしまう』から始まって、『人間の知性を上回る存在になる』『人類は滅ぼされてしまう』というような極論まで、この数年、大変センセーショナルな言説がメディアを賑わせてきた。さすがに最近では比較的冷静な現状分析も出てきて、トーンダウンしてきたが、今度はその反動もあってか、先端技術の影響力を過小評価する論調も目立ち、また、さらにはアンチ先端技術を標榜する立場も勢力を盛り返してきている(欧州のGoogle嫌い、トランプ大統領のアマゾン嫌い等も広い意味ではここに括られると思う)。加えて、昨今ではフェイクニュースまがいの真偽が不明確な情報もすごく多いため、先端技術のもたらす未来像に関わる不透明感は以前よりむしろ濃くなってしまったように思える。

 

こんな時代に、これから一体何を指針にしていけばいいのか。どのような未来がくるにせよ、自分や自分の家族や大事な人を守っていくためには、どうすればいいのか。

 

このような問いを立てると、何よりまず、プログラミングを学んで、AIに使われる側ではなく、使う側になるべき、という意見は当然のように出てくる。単なるコーディングをかじる程度では、さほどの役には立たないという専門家の意見もあるが、それでも、まずは入り口として参入して見ることは(食わず嫌いで敬遠しているのに比べれば)貴重な第一歩ではある。そしてこれが突破口になって、個人としても社会全体としても、論理や数学の基礎力養成にしっかりと取り組んで行くべきとの認識に昇華するのであれば、次の時代のサバイバル戦略として、正しい道程にいると言える

 

しかしながら、それだけではだめだ。AIと対話は出来ても、さらに進んで本格的なAIの研究を目指すことが出来たとしても、『AIには出来ないこと』に取り組まなければ、早晩AIに飲み込まれてしまうだけだ。特に仕事に関して言えば、皆が思う以上に現状の仕事はAIが進歩すれば十分代替できてしまうものが多い。では、AIでは出来ないこと、人間でなければ出来ないことを学ぶにはどうすればいいのか。そもそもそのような環境で生きるということはどういうことなのか。しかも、幸か不幸か、これからは平均寿命も100歳を軽々と超えてくるだろうし、健康寿命も伸びることは確実なので、100歳が極端だとしても、相当な高齢まで元気で活動できることを前提に人生設計を考える必要が出てきている。制度も追いつかないし、見本となるロールモデルもない。誰もが海図もなく未開の大海原に漕ぎ出すようなものだ。もちろんAIに聞いても正しい答えを教えてはくれないだろう。

 

 

▪️ 日本は実学重視にシフトして来たが・・

 

その問いに対して、昨今ブームと言っても良いくらい持ち出されている回答が『教養』だ。教養こそ、今後もっとも重要だというのだ。実際に教養について学ばせるために、教育機関に社員を派遣するような企業も増えているという。企業教育もMBAからデザイン思考へシフトしてきていると思ったら、さらに教養にシフトする傾向が見られるという。 

 

だが、その『教養』の中味というか、意味が問題だ。これを聞いてすぐにピンときた人は、すでに未来社会を迎えるにあたっての心構えができている上位数%に入っているとさえ言えると思うが、大半の人はそうはいかないはずだ。むしろ教養など一部のエリート気取りのスノッブの優雅なお遊び、というくらいの認識の人が特に今の日本では多いのではないか。

 

実際、1990年代以降、特に新設学部を中心に『実学重視』を標榜する大学が急増した。産業界でも、日本の大学の実学からの乖離を批判し、実学重視を説く人の影響力は明らかに大きくなった。比較的最近でも、文部科学省が2014年の10月に開いた有識者会議の委員を務める経営共創基盤の冨山和彦CEOが『日本の大学の大半を職業訓練校にするべきだ』と提言して物議をかもしたことは記憶に新しい。

 

2015年になると、文部科学大臣から『国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて』という通知があり、その中に、教員養成系学部・大学院人文社会科学系学部・大学院について、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう提言があったことが、大変な反響を呼び起こした。この背景にも『実学重視/人文系の教養軽視』という文脈があったと言える。国家にとって重要なのは、実用的な情報や技術であり、その『量』であるという考え方が透けて見える。

 

ところが、皮肉なことに一方では、多くの大学が『役に立つ』『実学』を身につけた人材を育てるために行って来た専門教育は、その専門のことは詳しいが、それ以外は知らないという社会では役に立たない人材を生み出しているという批判が、産業界からも頻出することになる。しかも、AIが未来社会を席巻することを現実として受け止め、AIと共生する未来像を描こうとしてみると、ここで言う実学に基づく仕事』こそ、AIが真っ先に代替してしまうであろうことがわかってくる。

 

 

▪️ 陳腐化が早い先端技術より『リベラルアーツ』を重視する米国

 

それどころか、今では最先端の技術分野でさえ、5年も経てば陳腐化して次の先端と入れ替わってしまうため、米国のMITのような先端科学の総本山のような大学でも、最先端の科学も、すぐに役立つ技術もほとんど教えないという。それより、自らの考えや知のベースになる『リベラルアーツ』を豊かに学んだ方がはるかに役に立つという明確な教育方針を持っているというのだ。そして、そのような方針は一人MITだけのものではなく、ハーバード大をはじめ、米国の一流大学全体の基本方針となっているという。

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MITは理系の大学でありながら、その教育は、哲学、人類学、歴史学等、文系の学問分野だけではなく音楽のようなアートにも及んでいて、しかも音楽の理論を教えるだけではなく、実際に楽器の演奏まで教えているというから徹底している。これを読むと、今はな亡きアップルのスティーブ・ジョブズ氏が、『われわれは常に、テクノロジーとリベラルアーツの交差点に立とうとしてきた。技術的に最高のものを作りたい。でもそれは直感的でなければならない。これらの組み合わせがiPadを生み出した』と語っていたことを思い出してしまう。どうやら、米国における『リベラルアーツ』と現代の日本において『教養』として一般に認識されているものにはかなりの違いがあるようだ。

 

 

▪️ 日本の『教養』教育の問題点

 

文科省の方針もさることながら、一方で、今の日本の多くの大学の文系学部の方も、米国の『リベラルアーツ』教育のように目的意識を持って本気で取り組んでいるとは到底思えない。確かに大抵の大学には『教養課程』もあれば中には『教養学部』もあるとはいえ、自覚を持って『教養』に取り組んでいいる学生は少ないし、教える側(教員等)でも専門課程に比べて日陰者扱いされているのが実情だろう。

 

日本では、高校から数学の成績(あるいは好き嫌い)で『理科系』と『文科系』に分けられ、『文科系』に進むと、理科系の教科はほとんど履修することもなく、大学に入っても、教養課程があったとしても、最新の理科系の学問の到達点を学ぶ学生は稀だろう。だが、これは非常に危機的な状況と言わざるをえない。今や技術進化が世界全体の構造を根本的に変えてしまいかねない状況なのに、日本の『文科系』にはそのような認識を持つための素養がほとんど涵養されていない上に、仮に多少の素養があっても、情報の真贋を見極めるための基礎力がないから、正しい認識を持つことも期待薄だ。逆に、昨今の自動運転でも、生命科学でも、最先端技術を社会にどのように位置付けていくのか、そのための哲学なり倫理の重要性が盛んに喧伝されているが、日本の『理科系』の中で、哲学や倫理を本格的に学んだ人に出会うことはまずない。では、『文科系』の学生が哲学や文学等の人間理解の助けになる学問に真剣に取り組んでいるのかと言えば、これもかなり怪しい。

 

 

▪️ 京大総長の山極氏の『賢人の知恵』

 

このように、日本の大学の『教養』に対する取り組みは、根本的な改革が必要に思えるだけに、人文社会系軽視とも取れる文科省の提言に対しては、私も違和感を禁じ得ない。京都大学総長の山極寿一氏はこの提言が出た時に『幅広い教養と専門知識を備えた人材を育てるためには人文社会系を失ってはならない』と述べて反旗を翻したが、AIに関連して、『教養』に注目が集まっている今だからこそ、あらためてその意味をよく考えてみる必要があると思う。

 

その山極氏だが、『これからの教養 激変する世界を生き抜くための知の11講』*1という著書で、インタビューされる側の11人目として登場しており、自らの専門である霊長類研究に基づきインターネットが普及した現代に独特の警鐘を鳴らしていて、これが極めて興味深い。まさに『教養』の重要性を自ら体現している。

 

霊長類の中で、サルには人間のような高い『共感力』がない、という。例えば、母ザルにとっても子ザルは大切な存在だが、わが子の能力は自分より未熟である、ということがわからないから(共感できないから)、肉食獣が迫ってきた時、目の前に川があれば、子供が泳げる能力がないことがわからず、自分だけ川を渡って逃げ、子供は食べられてしまうようなことが起きるそうだ。共感力のない猿は、サル社会の中で、お互いの関係を調整するために、強い・弱いという序列というルールを設けて争いを避けているのだという。人間で言えば、法律を作って調整しているイメージだ。

 

これは驚くべき指摘だ。高い『共感力』は人間ならではの能力で、このような身体感覚を生かすことで信頼社会をつくってきたのに、今では人間はどんどんルールや法律を作ってそのルールに従うことで安心を得ようとしている。これはまさに人間の『サル化』で、しかも『サル化』された社会というのは、すごく脆弱な砂上の楼閣なのだという。インターネットでバーチャルに、身体感覚とは関係のないところでの繋がりが増えれば、ルール化、立法化はある程度やむを得ない方向とは言え、これが信頼や安心を損ねる元凶となっていることを山極氏は指摘する。だが、このような認識はあまり今の社会で共有されているとは言えない。われわれが本当に信頼できるのは、生身の身体を通して得られる感覚なのだ、という知見(=教養)は、今後の社会のあり方を考えるにあたっても極めて重要だ。

 

また、第三世代のAIは膨大なデータで賢くなり、また膨大のデータを一瞬で解析することができるが、裏を返せば、データがなければ賢くもならず、何もできない。人間には、データがなくても判断し行動できる『直感力』という能力が備わっていることを山極氏は指摘する。そして、このことを説明するのに、経営の神様松下幸之助氏を持ち出して語る。幸之助翁が新入社員を面接した時に『こいつは将来リーダーになる』と思える条件としてあげているのは、『愛嬌があること』『運が良さそうに見えること』『背中で語れること』の三つだったというが、いずれも幸之助翁の長年培った直感力があればこそ見えてくる参照点と言える。しかも彼の見立ては非常に鋭く、人を見る目は人後に落ちなかったことはよく知られている通りだ。これは浅薄な科学者は、『非科学的』と簡単に切って捨ててしまいかねないところだが、過去に成功した人物の評伝等を丹念に読んでいれば、このような『直感力』の存在は『常識』以外の何物でもない。本物の教養を養っている人にとっては、それこそすぐに『直感』できることだろう。

 

 

▪️ 根本的なフェイクニュース対策

 

昨今、世界にはフェイクニュースが溢れ、これが大変な問題となり、実効的な対策を見出せずにいるが、いくら小手先の法律をつくったり、制度をいじったところで、一人一人がフェイクでない情報、本質的な情報を見分ける洞察力を持たなければ、根本的には解決できない。東京大学名誉教授の村上陽一郎氏は、この洞察力を養うためには、フェイクの恐れがない『本物』、すなわち『古典』にじかに出会い、正面から向き合って格闘してみることが一番確かな道だと述べているが、*2 私も本当にそうだと思う。古典と格闘することこそ、本物の教養を養う道でもあり、それが溢れかえる情報から本物を掴み取るためにも、一見遠回りだが一番の近道ということだ。昨今、フェイクニュースの問題に関わる議論は、百家争鳴と言える騒がしさだが、村上氏のような見解をほとんど見かけることがないのは、今の日本で教養が軽視されていることの証左とも言える。

 

 

▪️ 本当に人間らしい生き方を見つける時

 

AIの登場で、人は隅に追いやられるのではなく、本当に人間らしい仕事や生き方を見つけることができるかもしれない。皮肉なことにAIのおかげで、『人間とは何か』という問いに真剣に向き合う気運が高まっている。だからこそ、AIのような技術が氾濫する時代に生き残るための最も有効な策は、実は人間形成のための教養を見直し、追求することにあり、しかも、先端技術やビジネスで先端を行く米国でこそ、そのような認識がしっかりと根付いていることは、この際日本でもあらためて、よく考え直してみるべきだろう。