日大アメフト部が提示する問題は通り一遍では解決しない

 

根深い構造問題から浮かび出た氷山の一角

 

今、メディア騒がす大問題となっている、日大アメフト部の反則タックルの問題は、次々と新しい展開が出てきて、どのように収束するのか、どこまで広がるのか現段階では予想がつかない事態となっている。おそらく何らかの第三者委員会の調査は始まるだろうし、被害者は刑事告訴にも言及しているようだから、今よりは真相がクリアになることは期待そうだが、それでも臭いものに蓋をされてしまう可能性もあり、真相がはっきりするまで発言を控えているといつまでたってもその機会が来ない恐れもある。よって、見切り発車ではあるが、今言えること、言いたいことを述べておこうと思う。


本件に対する世間の注目度は、異例と言っていいほど高い。それは、おそらく、大半の人の身近に、多かれ少なかれ同様の事例があることを感じているからだろう。すなわち、本件は日本の根深い構造問題から浮かび出た氷山の一角と考えられる。但し、その受け取り方は年齢によってはっきりと二分される。切れ目は、40代の半ばくらいというところか。(もう少し上かもしれないが・・)しかもそこには皆が思う以上の、思想的ともいえる対立構図がある。



かつてはありふれていたパワハラやセクハラ

 

かつての日本では、少なくとも『昭和』の時代まで遡れば、日大アメフト部のような大学の体育会組織はもちろん、企業でも、官僚でも、政界でも、今回と同様とまでは言わないまでも、どこでも似たような光景があたりまえのように見られた。そこは男性支配が徹底した村社会で、実力に関係なく年長者の意向に逆らうことは許されず、特にその組織の最上部にいる者の言は、理屈が通っていようがいまいが絶対で、体罰も日常茶飯事、今でいうパワハラやセクハラはどこにでも普通にあったが、それが公的な問題として糾弾されるようなことはなかった。当時でも、特に新入社員など、そのような組織のあり方に内心違和感を感じたり反発していたものはいくらでもいたが、村組織で村八分になってしまうと、日本社会の中ではどこにも生きる場所がなくなってしまう。中途入社というのは、特に大きな企業では大変なハンデになったし、今のようにSNSなどなく、社外のコミュニティを頼ることもできなかった。村八分になることによるデメリットは、今の若年層には想像できないほど大きく感じられた。

 

成功体験と組織としての整合性


このように書くと、日本はとんでもなく悪辣な国だったように思う人もいるかもしれないが、そうとばかりも言えない。当時には当時なりの組織道徳もあって、整合性もあり、少なくともある時期の企業は非常な成功をおさめていたこともあって、このような組織を持つ日本に、当時の男性(男性社会)は自信と誇りを持っていた。


また、日大アメフト部の事例だけ見ていると、中のメンバーは皆奴隷のように扱われて、何か問題が起これば上位者の保身のために、下位のメンバーが無慈悲に切り捨てられてしまうのが典型的な昔の日本の組織のように見えてしまうが、それも必ずしもそうではない。むしろ、ある点では今以上に包摂性があり、無能な社員でも抱えて生かそうとする姿勢もあった

 

例えば、今でも昔でも、どの組織にもどうしようもないお荷物のような構成員はいるもので、現代の企業では、何らかの理由をつけてリストラしたり、直接手は下さずとも、最低の処遇で仕事も与えず、自ら企業を去るよう仕向けて、追い出してしまうだろう。しかしながら、かつては企業でも、そのような者にもそれなりの居所を与えていた。理屈の通じない、理不尽な組織で、先輩から殴られ、貶され続けていても、しばらく黙ってそれに耐えていれば徐々に組織内に自分より年齢の若い構成員も増えていき、そうなると実力の有無に関係なく、今度は上位者として、若い社員に威張りちらすことができる。その中から本当の実力者は、権力の階段を登っていくことになるが、そこまで実力がなくとも、ある年齢になるまで同期に極端な差がつくこともあまりなかったし、権力者の腰巾着のようなポジションは今以上にあったから、その組織の構成員としてそれなりに居心地よくすごすこともできた。組織の理不尽を我慢して耐えていれば、それなりの見返りはあった、ということだ。


今回の日大アメフト部のケースで、販促タックルで相手のクオーターバックを潰してこい、というような指示が、まるでヤクザの鉄砲玉のようだという意見が出ているが、そのヤクザの鉄砲玉も、ムショで臭い飯を食ったとしても、出所してくればヤクザ組織の中で幹部の立場を保証されていたはずだ。実は、企業内でも、総会屋担当とか、談合担当とか、必要悪のような組織や担当は(あまり大きな声ではいえないが)いわば、企業の鉄砲玉のような立場だったが、ちゃんとそれなりの処遇がなされていた。そのまま組織から追い出すようなことをしていては、さすがに鉄砲玉の役割を引き受ける者はいなくなってしまう。もちろん、表立ってそういうことをやっていることがわかるとまずいので、外からはわかりにくい構造になっていたとはいえ、企業内では、それほど悪い扱いはされないことを皆知っていた。


当時の企業の多くは、やることは大方決まっていたから、人がやりたくないようなことでも、低賃金で黙って長時間懸命に働く社員がいることは大変な競争力になった。それは、一時期海外企業との競争でも明らかに日本企業に優位性を感じられるくらいの差となっていた。海外の友人達は、低賃金で文句も言わず、休みもとらず、場合によっては過労死するくらいに長時間働く日本の労働者に呆れていたものだが、それでも、そのおかげで日本企業が世界を席巻していた時には、日本的経営は賞賛され、その仕組みを学ぼうとする者は海外にも多かった。

 

理想的なリーダー像


今回の日大アメフト部では、表に出てくる監督が指導者として尊敬できる人物には見えないが、かつての日本の組織の長がみなそうだったわけではない。全てを包摂するような包容力に富み、節度を重んじ、場合によっては理屈や利害を超えて社員に情愛を感じ、自らも質素で、一兵卒とも腹を割って気軽に接する、そういうタイプの、いわば『人格神』のようなタイプのリーダーは確かに存在したし、日本の労働者の多くは、そのようなリーダー像を理想としていた。そして、そんなリーダーがいる組織では、社員は、組織内に多少の暴力やパワハラ、あるいはセクハラがあっても、リーダーのために、身命を賭して働くことを厭わなかった。それがいわば日本人の勤労道徳のエートスであった。そして、暴力、パワハラ等も組織で人が成長していくための砥石のような存在で、そこで理不尽を耐えて成長した者こそ、次世代のリーダーとなる資格があると下位者を諭す上位者さえいた。この点でよく引き合いに出されるのが、明治の元勲、二大巨頭の西郷隆盛大久保利通だ。冷徹な切れ者で海外の研究者にも非常に評価の高い大久保利通より、客観的に見ると何が実績なのかよくわからないが、部下に対する愛情にあふれていた西郷隆盛のほうが日本人には好まれるリーダーだ。この理由を言語化して説明するのは意外に骨がおれるが、当時の日本の労働者なら皆わかっていたはずだ。



麻生大臣の言い分


昨今、今回の日大アメフト部のケースに限らず、レスリングでオリンピック4連覇を成し遂げた、伊調馨選手のパワハラ告発、セクハラで辞任した、財務事務次官のケース等、非常に多くの同様の事例が相次いでいるが、本件に関連して、思想家の東浩紀氏が日経新聞への寄稿記事で述べている通り、*1どのケースにも共通しているのは、対象となった男性達の常識と現代の社会常識に非常に大きなズレが生じていることだろう。このような男性達の中には、ズレが生じていることを本当に知らない人もいるだろう。だが、それ以上に、本音のところ、自分たちの常識の方が正しいし、あるべき姿であるとの確信を持っている人は少なくないはずだ。その典型的な例は、麻生財務大臣の非常に物議をかもした、『セクハラという罪はない』という一連の発言だろう。*2この背景には、モラルの問題を何でも法律問題に落とし込んで人を裁くようなことは日本人の美意識に反しているし、そのような風潮がはびこることは好ましいことではない、というような思いがあると考えられる。

 


麻生大臣を弁護する意図はまったくないのだが、この点には別の重大な問題があることも確かで、かつては共同体の中で解決すべき問題まで、法律や規制を持ち込むような風潮がいつのころから日本でもはびこり、その影響もあいまって今では共同体は崩壊し、個人の孤立感/孤独感は深まり、猜疑心ばかりが強くなってしまった。麻生大臣や同年代の人から見れば、本当に大事なことを忘れ、日本が『美しくない国』になっていると言いたいに違いない。もちろん、それだからといって、セクハラやパワハラが許容されるわけではないが、分断された両者(上の年代と下の年代)は別の思想に基づく信念を持って対峙していることを前提として認識しておく必要がある。そして『昭和』の理想を信じた人たちの中では、理想はまだ死んでいない。だから、自分たちのコントロールが効く組織の中では、相変わらず『本音』で組織運営に関わっている。



変質/組織の『ブロン』化


ただ、このような理想は理想として、日本の現実を見ると、すでにそのような理想が機能せず、それどころか各所で逆効果となり、問題が噴出していることは冷静に見ておく必要があると思う。


特に企業について言えば、国際社会での日本企業のかつてのプレゼンスはもはや微塵もなく、日本の経営や組織について学ぼうとするものは皆無といっていい。当の日本でも、バブル崩壊後は特に欧米流の経営手法を導入していくべきという風潮は強くなった。かつて、従業員とそれほどの差はなかった企業の役員報酬は欧米企業を見習って高騰し、従業員との格差はかつてないほど大きくなった。その従業員も、パートや派遣など、いわゆる「非正社員」が占める割合が、2015年には全体の40%に達した(1990年には20%。25年間で倍増)。解雇については、日本の法律の運用は今でも厳しいことは確かだが、自主的に退社に追い込む『社内いじめ』のような陰湿で巧妙な手段が横行するようになった。日本人の雇用を維持しようとする経営者も、安価で優秀な労働者のいる海外への進出をためらっていると株主から首をすげ替えられてしまう。


ところが、そんな企業のトップはかつての日本の家父長的な経営で育ってきた世代で、昔の日本の企業の手法やメンタリティと、欧米流の経営手法が奇妙なキメラ状態になってしまっている。しかもこれが星新一の小説で出てくる『ブロン』(ブドウとメロンを掛け合わせた架空の新品種。ブドウのように小さな実がメロンのように少ししかできない。)のように、両者の悪いところだけ選って合体したような状態になっている。

 

従業員は今では転職は当たり前で、しかも年功序列で賃金が上がることは期待できなくなっているから、かつてのような忠誠心を持ちようがなく、訴訟へのハードルは低くなっているから、法的手段を厭わないし、インターネットでの内部告発など日常茶飯事だ。一方経営者は、従業員には相変わらずかつてのような忠誠心を要求し、全人格を企業に預けて、規定の労働時間を超えて働くことを求め、組織防衛のためには法的な問題があっても隠蔽し、一方では、上意下達、強権、パワハラ体質をそのままに無軌道に保身を図る。しかも、仕事以外に能がなく全てを会社で過ごしてきた無教養な人が多いから、かつての良質な経営者のように人格が陶冶されていないし、社会の変化と自らの企業の正しい相対位置を客観視できない。官僚も政治家もかつてのように日本を背負い、献身的に働く、という気概が生かせるような環境がなくなって、油断するとすぐに訴訟やSNS等による炎上に巻き込まれる。


日大アメフト部事件のような問題が噴出するのは、『ブロン』組織が社会に溢れ出してきているから、と言ってもあながち間違いではないのではないか。日本の組織が軒並み『ブロン』状態にあるとすると、単純に過去を懐かしんで『美しい国』や『昭和の理想』を目指しても、逆に法律をさらに精緻に組み上げたり、関係者を訴えて糾弾しても、それだけでは解決しない。そのような自覚をもって現状を眺望し、表面的な問題の奥にある真の問題に対処しないと、問題が解決するどころか、さらに一層の『劣化ブロン』化を招きかねない。

 

では、この問題の解決のための具体的なアプローチにはどのようなものがあるのか。多少の腹案はあるが、それを語り出すと本稿も終わらなくなってしまうので、とりあえず今回はこれ一旦終了して、次回以降にあらためて述べてみたい。