サイエンスから美意識へーコンプライアンス活動の未来

 

◾️ セミナー概要

 

7月19日に、レクシスネクシス・ジャパン社主催で、『競争戦略としてのコンプライアンス~攻めのコンプラはオモシロい~』というタイトルのセミナーが行われたので、出席してきた。

※満席のため受付終了【Executive Seminar】 競争戦略としてのコンプライアンス~攻めのコンプラはオモシロい~ - LexisNexis

 

下記に、開催概要を引用しておく。 

 

通常、「コンプライアンス」という言葉を聞いて元気が出る人はいません。コンプライアンスという言葉は不祥事を起こした企業の謝罪や、マスコミによる非難という場面で用いられるものだからです。また、細かい法令解釈ばかりのコンプライアンス・マニュアルは、見ているだけで食欲がなくなってしまいます。このように、コンプライアンスは、ビジネス活動を委縮させるものと理解されがちです。

  

本セミナーは、そのような古い概念を打ち破ることを目的としています。コンプライアンスはビジネスの「足かせ」となるものではなく、変化する時代や社会での能動的リスクマネジメントであり、「ストーリーとしての競争戦略」の一環として位置づけられるものなのです。本セミナーでは、コンプライアンスを「ものがたり(ストーリー)」として理解し、企業価値を高める鍵となるものという意識付けをおこない、従来のコンプライアンス活動の見直しを提言します。

 

<プログラム>

 13:00 統計からみるコンプライアンス

  斉藤 太(レクシスネクシス・ジャパン株式会社取締役社長)(10分)

 

 13:10 講演1「ストーリーとしての競争戦略」

  楠木 建(一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授)(40分)

 

 13:50 講演2「ものがたりのあるコンプライアンス~競争戦略の武器として~」

   國廣 正(弁護士、国広総合法律事務所弁護士)(40分)

 

 14:30 講演3LINEの成長戦略とコンプライアンスについて」

   出澤 剛(LINE株式会社 代表取締役社長 CEO)(40分)

 

15:25 パネルディスカッション・Q&A90分)

  ファシリテーター菊間千乃(弁護士、松尾綜合法律事務所)

   パネラー:楠木 建教授、國廣 正弁護士、出澤 剛氏ほか

 

 

◾️ レクシスネクシス社の意図と成果

 

レクシスネクシス社は、米国のオハイオ州デイトンに本社を置くリサーチデータベースプロバイダーであり、主な事業は、英米判例データベースや海外特許データベースといった、オンラインデータベースの提供で、その他、法律雑誌や法律書出版を行っている。そのグループ会社である、レクシスネクシス・ジャパン社も同様に、法律関連のオンラインデータベースによる情報提供、雑誌発行、出版、イベントの企画等が活動範囲である。従って、同社主催のイベントの主なターゲットは法律実務家あるいは、コンプライアンス対応を含む社内統制系業務従事者ということになる。そのため、『コンプライアンス』系のイベントはこれまでにも手を変え品を変えて数多く開催されている。

 

ただ、今回が多少異色なのは、テーマ設定と講師の選定だ。本職の企業のコンプライアンス対応に関わるアドバイザーとしての弁護士(國廣弁護士)に加え、企業経営戦略の専門家(楠木健教授)と先端のITビジネスの経営者(井澤社長)をプレゼンターとして起用しつつ、この3者をパネラーとして主催者の主張である、『コンプライアンスをものがたり(ストーリー)として理解し、企業価値を高める鍵となるものという意識付けをおこない、従来のコンプライアンス活動の見直しを提言』するという趣旨に関連した発言をパネラーから引き出してみせ、メインターゲットの『ビジネス活動を委縮させるものと理解されがち』であり、社内ではしばし疎まれて意気消沈しがちな企業のコンプライアンス担当』に意欲を持って仕事に取り組める道があることを示し、ほぼ予定調和の形に納まってイベントは無事終了した。

 

もっとも、これで本当のところどれだけの出席者が納得して帰ったのかはよくわからない。ただ、少なくとも、この業務の本質を理解している企業のリスク担当であれば、結構複雑な思いをしたであろうことは予想がつく。私自身も、正直なところ、もっと語るべきことがあるのに今一つ踏み込めていないと思い、フラストレーションを感じていた。まあ、今回の出席者の選定(ターゲット層の設定)についてはレクシスネクシス社の思惑もあるだろうから、私のようなオフターゲット(標的外)の参加者が期待するようなことまで全てカバーせよ、というのは酷であることはわかっている。ただ、私の感じる『物足りなさ』に共感する人は案外多く、しかもおそらく重要な問題の入り口になっているように思える点もあるので、この機会に(多少辛口に感じれれるかもしれないが)思うところを書いておこう。

 

 

◾️ コンプライアンス業務の実際

 

従業員の多い大きな企業では特に、コンプライアンス活動というのは、時にビジネスの実態から乖離しているようにさえ見えてしまう、難解だが、内容に誤りのない正確なマニュアルを作成すること、およびそれを従業員に浸透させるための『目に見える』活動を行うもの、というのが一般的な認識だ。この活動には、一定の法的理解を従業員に促すという目的があるのは言うまでもないが、もう一つ、関係者の暗黙の了解として、何らかの問題(従業員の法律違反の露見等)が起きた時に、企業としてはできる限りの回避努力はしていた、ということを目に見える形で示すことで、世間の非難を緩和したり、裁判になった場合に少しでも有利な状況としておく、という目的がある。監督官庁やクライアント企業に対するアピールという意味もあるだろう。必要悪という面があるということだ。だから、社内の従業員からは疎まれ、コンプライアンス担当が意気消沈しても、リスク低減という意味では、これを行うことのそれなりの『意味』はある。

  

だが、単に形式的に実施して、エビデンスを残しておけば良いというような単純な話ではない。水面下では、関連する多くの情報を集めて様々に想定される事態に備えておく必要がある。(判例の傾向、炎上を含む世間の反応と対応の仕方、監督官庁の担当官の癖の把握や過去の事例等)。実は単純に見えるコンプライアンス活動の裏面には一般の人があまりよく知らない、プロにしかわからない活動がある。これも広義の経営戦略であることは確かだが、楠氏や出澤氏が通常意識しているような経営戦略の範疇とはかなり異なった、特殊な領域である。もちろん、こんな構造を知りもせず、単純にマニュアルを従業員に押し付けて回るコンプライアンス担当は論外で、そんな担当はビジネスの現場から鼻つまみ者扱いされて、意気消沈でもなんでもしていればいい。だが、一般の従業員には理解されずとも企業の価値を毀損しないための裏面の戦いが現実に存在することを理解しているプロの担当者であれば、一時的には煙たがられたり嫌われるようなことになってもプロとしての仕事に誇りを持っているから、苦笑しながらも自信と尊厳に揺らぎはないはずだ。

 

 

◾️ 法律が未整備な場合には

 

ただ、そんなプロであっても、昨今の技術進化の影響を強く受けるIT企業のようなケースでは、経営者がどのようにリスクに対応しているのか、という点には興味を持ったかもしれない。技術進化の渦中にいる企業においては、新しいビジネスを始めようとすると、しばしば法律が未整備で、リスク対応についても、過去の事例がほとんどない中で、なんらかの判断を求められる。そんな企業のコンプライアンス担当はどんな判断を下すのか、という課題だ。その点、LINEの井澤氏の回答は明快だった。企業の活動の方向を『フェアネス(公正性)』という観点からチェックするようにしているという。法律がかりにあって、その法律を遵守していたとしても、世間から非難されてしまようでは企業活動としては失敗だし、特にリスク対応という点では評価されないはずだ。一方、世間が評価し納得する姿勢を堅持できていれば、法的な問題でひっかかっても、修復は早いはずだ。だから、井澤氏の経営としてのリスク対応は正しい方向を向いていると私も思う。

 

だが、それでも気になる点がある。LINEのような新しいビジネスを展開する会社にとっては、具体的な法律がないとすると、頼れるのは『倫理観』のみということになる。この倫理観の柱として出澤氏は『フェアネス(公正性)』を挙げた。國廣弁護士は、『お天道様に恥じない行為』と述べた。そして、國廣弁護士はこれを『誰にでもわかるあたりまえのこと』と述べた。だが、今日、『誰もがわかるあたりまえ』という概念はそれほど自明だろうか。

 

 

◾️ 自明とは言えない『お天道様』概念

 

『お天道様』という概念が出てくるのは、外国ならいざ知らず、同質的な日本人の間では、価値観は共通しているからわかりあえるはずだ、という含意があるのだと思う。だが、本当にそうだろうか。例えば昨今の労働問題など時々思わぬ認識の齟齬に出くわすことがある。昭和期を過ごした経営者など、労働哲学に関わる信念は欧米流、あるいは昨今の若年層が持つ常識とはかなり違うはずだ。もちろん法律で決められたことを無視してしまうことは問題だが、一方でアジア諸国とのコスト競争を余儀なくされている経営者など、自分の本当に言いたいことを飲み込んだような顔をしている人が多いことは少し気をつけて見ていればすぐにわかる。

 

また、『内部通報制度』というのがあるが、この制度、私が知る限り、あまり期待されたような成果を上げているとは思えない。それには様々な理由があると思うが、そもそも『お天道様』は内部告発者をどのように評価するだろうか。悪いことをしている者(法律違反をしている者)を告発するのは社会人としての当然の務め、と褒めてくれるだろうか。どちらかというと、同じ釜の飯を食っている同じ会社の仲間を内部で解決せずにいきなりチクるのは人間として恥ずかしい、とか言うのではないか。今の日本では『会社コミィニティ』は急速に消えつつあるから、後者の判断は古いとおっしゃる方も多かろう。だが、昭和を過ごしたサラリーマンの心中は結構複雑ではないだろうか。

 

実のところ、法律とその国やコミュニティの持つ規範意識(常識)とは必ずしも一致しない。特に、日本の場合、明治維新以降、海外の法律体系を導入してきた経緯もあり、日本人的な常識との齟齬は時々表面化して人を驚かすことになる。しかも、そもそも人間の社会は、法律のような概念言語だけでできているのではなく、音楽等の芸術、愛情、感情のような概念言語でないものがあり、その両方のバランスで成り立っており、法律のような規範ばかりに頼ろうとすると、会社内でさえ従業員の素直な合意を得られないことが少なくない。法律の指示することとお天道様の目とはここでも必ずしも一致しない。こんなケースは実際のコンプライアンス活動ではしばし表面化することであり、レベルの低いコンプライアンス担当者は、このような内心の齟齬を無視してマニュアルを押し付け、レベルの高いプロは、このような齟齬から来る不協和音の緩和に対処を怠らない。

 

 

◾️ グローバルとローカル

 

このような齟齬や矛盾は法律だけの問題ではない。昨今では、経済はグローバル化して、そのグローバル競争に勝ち抜くことをどの企業でも要求されている。だが、日本企業の大抵の従業員が持つ経済倫理というかビジネス倫理はグローバル化に対応したものとは言えず、極めて『ローカル』なままなのが普通だ。グローバルという点で突出している米国企業など、今では企業は株主の持ち物という考え方が突出していて、企業のステークホルダーは株主だけという認識が一般化しつつある。ところがその米国でさえ、以前は従業員、地域社会、納入業者等、様々なステークホルダーの調和が社会的存在としての企業の役割であり、企業の長期的な存続のためには不可欠との認識が常識だった。日本でも、古来、事業の社会的意義は非常に重視されてきた。例えば、売り手よし、買い手よし、世間よし。いわゆる『三方よし』は、高島屋伊藤忠商事住友財閥などわが国を代表する企業のルーツとされる近江商人の経営哲学をあらわす言葉として有名である。だが、そんな日本企業も、昨今の資本や労働が自由に国境を超えることを前提としたグローバル競争にさらされて心理的にも引き裂かれるような決断を迫られることが多くなっている。ローカルの従業員の雇用を重視しようと思っても、コスト競争を勘案すると生産を海外に移転せざるを得ないとの決断などその典型だ。このような場合、お天道様は誰に味方をするのだろうか。今後、人工知能やロボットの導入が進むと、世界的に労働者の仕事が奪われるような現象が相次ぐことになるだろう。この場合も、経営者は悩ましい決断を迫られることになるはずだ(たぶんお天道様もそうだろう)。

 

 

 ◾️ 差し迫るさらなるグローバル競争

 

まだ日本国内であれば、同質性幻想に浸って、それを前提に経営を行うこともぎりぎり可能かもしれないが、いったん日本の外に出るとそういうわけにはいかない。お天道様も、仏様も、キリスト様も、モハメット様も、沢山の聖人や神様がいらっしゃる中で、非常に難しい舵取りを強いられることになる。だからこそ、『最低限の合意としての法律』が重要になっているわけだが、先に述べたように、法律が未整備な技術進化のスピードが速い業界で、国際競争を迫られて、様々な人種を抱えてビジネスをやらざるをえなくなると、一体どうすればいいのか。そのようなケースはまだ例外とたかをくくっていられる時間はもうそれほど長くは残されていない。デジタル技術のさらなる進化は、インターネットだけでは超えることができなかった、国境の壁をさらに楽々と超えていける環境を整備しようとしている。(ブロックチェーン、3Dプリンター等)。どんな『ローカル』な企業にもこのグローバルの波が押し寄せてくることを前提として考えておく必要がある。

  

逆にそうであれば、倫理やお天道様などと言わず、むしろ狭義の法律の範囲だけを意識したほうがいいのでは、という意見も出てきそうだ。ところが、昨今の日本の状況を見てもわかる通り、事はそれほど単純ではない。炎上という問題がある。一部の人の倫理観や信念を傷つけて炎上に巻き込まれてしまうのであればまだしも、誹謗中傷、誤解、さらにはフェイクニュースによって炎上に巻き込まれて企業価値を毀損してしまう恐れがあることも忘れるわけにはいかない。企業としての正しさ/信念を持って、そのような炎上に屈することなく善意の第三者の賛同を訴えかけていけるように普段から備えておく必要もあるはずだ。

 

 

◾️ 経営は『サイエンス』偏重から『美意識』へシフトしている

 

このような状況が迫りくることを前提として、今コンプライアンスという業務を真面目に考えることは極めて難しい。もちろん、抽象的に言えば、経営戦略として、ストーリー性を持って取り組むべきという言い方に収まってしまうかもしれないが、問題はその『経営』の中身のほうだ。経営コンサルタントの山口周氏は、新著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』*1

において、これまでのような『分析』『論理』『理性』に軸足をおいた経営、いわば『サイエンス重視の意思決定』では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない。世界は『測定できないもの』『必ずしも論理でシロクロつかないもの』だらけになっており、そこで決められた時間で正しい判断を行うために、リーダーには『美意識』=経営における『真・善・美』が求められている、と述べる。これは、山口氏だけがそう考えているのではなく、実際に世界のトップレベルの経営者は、難易度の高い問題の解決力を高めるためにこそ、論理的・理性的なスキルに加えて『芸術、デザイン、哲学、教養』を学び、この『美意識』を身につけることの重要性を認識して、そのためのプログラムを積極的に履修しようとしている。そのような変化に言及しなければ、単に『経営』を議題として持って来てもあまり意味がないとさえ言っても過言ではない。

 

 山口氏は、この状況を前提として、上記で私が言及した問題も取り上げて、さらに突っ込んだ議論を展開している。

 

現在のように変化の早い世界においては、ルールの整備はシステムの変化に引きずられる形で、後追いでなされることになります。そのような世界において、クオリティの高い意思決定を継続的にするためには、明文化されたルールや法律だけを拠り所にするのではなく、内在的に『真・善・美』を判断するための『美意識』が求められることになります。

 

 グーグルは英国の人工知能ベンチャー=ディープマインドを買収した際、社内に人工知能の暴走を食い止めるための倫理委員会を設置したと言われています。人工知能のように進化・変化の激しい領域においては、その活用を律するディシプリンを外部に求めることは大きく倫理に悖るリスクがあると考え、その判断を内部化する決定を下したわけです。先述した旧ライブドアDeNAと比較すれば、企業哲学のレベルとして『格が違う』と言わざるを得ません。システムの変化に法律の整備が追いつかないという現在のような状況においては、明文化された法律だけを拠り所にせず、自分なりの『真・善・美』の感覚、つまり『美意識』に照らして判断する態度が必要になります。

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』より 

 

 

この『美意識』が意味するものは、単なる自己満足でも、『お天道様』のような日本でしか通用しないものでもなく、まして何もしなくても、常識として誰もが持っているものでもない。世界レベルの評価にさらされても揺らぎなきものにするべく、学び探求する必要があるということだ。そしてそれはまた、『サイエンスだけの経営者』も『明文化された法律しか扱わない法務担当(法曹界)』も不要になろうとしていることを意味する。

 

 

 ◾️ 課題は山積み

 

 私の感じた、今回のイベントの『物足りなさ』や、もっと突っ込んで議論して欲しかった点はまさにここにある。しかも、私の知る限りだが、今回の登壇者の楠木氏や、出澤氏は、このような問いかけに十分答える力量がある。それだけに、残念だったという思いがつのる。しかも、美意識や倫理観、哲学等が重要といっても、一方で、コンプライアンス関連の業務に不可欠とされる、『アカウンタビリティ』をどうするかというような難問もある。美意識による判断を客観的に説明することは至難の技と言わざるを得ない。

 

さらには、これも山口氏が述べていることでもあるが、明文化されたルールだけを根拠として、判断の正当性そのものの考察には踏み込まない、『悪法もまた法である』というような考え方、すなわち『実定法主義』から、自然や人間の本性に合致するかどうか、その決定が『真・善・美』に則るものであるかどうかを重んじる『自然法主義』が今後は主流となってくることは確実であり、そのために何に気をつけ、具体的にはどのように対処していけばよいか、というのもまた重い課題だ。

 

このごとく、まだ議論すべき点はいくらでもある。昨今、日本だけではなく、世界の経営が非常に大きな転換点を迎えているが、それなのに、多くの日本企業では必ずしもそのような理解ができていないと思えてならない。今回のイベントで、そのことをあらためて意識化し、言語化するきっかけを与えていただいたように思う。そういう意味では私自身にとっても大きな成果を得ることができたイベントだったといえる。