合理性を重視しない日本の組織には見切りを付けたい
■日本航空の再生・再建についてのお話
先週金曜日(2月22日)に、私の会社が所属する、国際企業法務協会*1の月例会において、日本航空の更生・再建に関わった、同社法務部の小林部長のお話があって、非常に面白かった。日本航空と言えば、一時期は再建は不可能とみる人も少なくなかったし、再建されたとしても、当面国営航空会社(100%国営化)としてしかその名を残すことは難しいと思われていた(失礼ながら私もそう思っていた)。ところが、蓋を開けてみると、上場廃止からわずか2年8ヶ月で再上場をはたし(史上最短)、再上場後初の決算である、平成24年9月期中間連結決算では、営業利益で過去最高を更新したというのだから驚きだ。
■経営組織・人事制度の改革
いくつもあった興味深い施策のお話の中でも、特に印象的だったのは、新しい経営組織と人事制度にまつわるエピソードだ。かつての日本航空と言えば、職種別に存在する労働組合の力が強大でリストラはもちろん労働条件の切り下げはいっさいできず、官僚的な年功序列で大量の役職者が滞留していて、上位の役職者は実力より派閥内の論功行賞で決まる、というようなことが(特に業績が悪化して以来)盛んに取りざたされていた。
プレゼンターの小林部長は、ずっと前からこのような状態を改革したいと考えていながらどうしても出来なかったのが、今回のように本当に『日本航空』の名前が消えてしまうというかもしれないという瀬戸際で、やっと改革が実現できたと感慨深げに語っていたのが大変印象的だった。これほどの改革ができるのなら、会社がつぶれかかるのも悪い事ばかりではないというのは本音だろうし、それはまた、今まで如何に改革が進まなかったかという苦い思いの裏返しでもあるだろう。
■つぶれる間際まで改革はできない
いずれにしても非常に面白い話ではあるのだが、私はそれを少し複雑な心境で聞いていた。旧来の日本の組織というのは、結局ここまで追い込まれないと変わらないということをあらためて見せつけられた気がしたからだ。輝かしい栄光に包まれた日本航空がまさかつぶれてしまうようなことになろうとは、全盛期を知る私にとってはとても信じられないものを見る思いだったが、今の日本では、過去の栄光が如何に華やかでも、つぶれてしまったり、身売りしたり、存続ギリギリという企業がすごく多い。しかも、自主的な経営改革も組織改革も進まず、まったく展望が見えない企業があまりに多い。このような見た目は生きているように見えるが実質的には死んでいる企業を称して、ゾンビ企業と呼ぶ人がいるが、まさに言い得て妙だと思う。こういう企業では『合理性』や『理性』は消え失せ、自力で生きることはできないため、目先の存続のために他者(政府、グループ企業、従業員等)の生き血を吸い、肉を食らい尽くす。そのような状態で長らえることに比べれば日本航空など、幸福な一例と言えるのかもしれない。
■日本は近代化に失敗したまま
今の私は、ゾンビ状態の企業を内側から見る機会に恵まれ(?)ているため、ここで何が起きているかしっかりと観察することができる環境にいるが、日本人がつくる組織というのは、企業でも政府でも官僚組織でも、旧帝国陸海軍となんら変わらないことを身を切られるような思いをしながら再確認しているような気がする。3.11以降の原発事故をめぐる一連の騒動、政府や官僚の利己保身と利益誘導ばかりの行動パターン、空気と煽動に支配された選挙などを見て、評論家の大塚英志氏が最近また『日本は結局近代化に失敗したまま』と繰り返し主張しているようだが、企業経営を内側から見てみていても、まったく同じことを感じてしまう。例えば、補給も確保せずに、将兵を戦線に送って大量の餓死者を出したインパール作戦を指揮した旧帝国陸軍の牟田口中将のことを調べていると、ほとんど同じようなメンタリティーの持ち主を現行の組織の中にもいくらでも見つけることができる。残念ながら一度は世界を席巻したはずの日本企業の内側も、実情は昭和初期の頃の組織とほとんど変わりないと言うしかない。
■日本の組織は合理性を重視しない
これも社会学者の宮台信司氏の受け売りということになろうが、本当に日本の組織には、構造的に『合理性を重視しない』という特性が織り込まれているとしか思えない。誰が責任者かまったくわからない。結果責任という意味では、何であれ経営者に責任があるということになるはずだが、責任を追求すること自体がタブーとされる空気でもあるかのようだ(オリンパスの例などまさにそうだ)。そもそも誰が責任者なのかわからないことのほうが圧倒的に多い。合議で決まった後に、一人一人に意見を聞いてみると、『空気にあらがえないから何も言わなかった』『とても言い出せる空気ではなかった』と口を揃える。中期経営計画等で何かを決めたところで、その通りに遂行されないことは誰もがわかっている。では、何のためにそれを作るのかと言えば、習慣になっているからという程度のことでしかない。(いわば、お正月なのだからお餅を食べてお屠蘇を飲もうマインドとさほど変わらない。)変わる可能性があるとすると、唯一、日本航空のように会社がつぶれかかった瀬戸際ということになるが、それでも変わらない会社のほうが実際には多いのではないか。
■唯一多少違っていた自動車会社
今にして思えば、自分のキャリアの中で唯一、多少なりとも他とは違っていたのは、最初に入った自動車会社だった。あくまで私が体験した範囲では、という前提だが(実際、部署によってかなり大きな違いがあったようだが)、そこでは、仕事の場での決定と施行については、皆、非常に合理性にこだわっていた。企画や計画の策定にあたっても、非常に現実的かつ合理的だし(抽象性は排除されるし)、一度決めたら、妥協は許されず、愚直に実行することが求められる。言い訳は一切通用しない。出来るかできないか、やるかやらないか、その中間はない。普通の日本人の常識から言えば、明らかに『非常識』と感じられる行動特性がそこにはあった(そして、業績は他社と比べると圧倒的に良い。)それは、その後他の業種、他の会社を経験するようになってやっとわかったことだ。
『そこまで人を追いつめなくても・・』『言い訳にも多少の理はある』『そこまで突き詰めるとスピードが落ちてしまうのでは?』等、普通の日本人の常識をそれなりに刷り込まれた私には、やはり非常に違和感があった。だが、最初の会社ということもあり、それが普通なのかと思っていた。いわゆるブラック企業と、境界線はかなり近かった印象もあるが、『合理性』にはこだわりがあった。出来ない事ではなくて、本当に出来ることしか目標には据えられなかった(もちろんそれでも目標は非常に厳しかった。)明らかに、『日本離れ』しているといつも感じていた。
■小さな組織単位なら改革の余地はある
その経験があるから、国というような大きな括りでは無理でも、企業組織(できれば小さいほうがいい)単位くらいでなら、こういう日本離れした社風を作ることで、成功することができる可能性はあると今でも思えるし、その点は悲観していない。だが、一旦『日本の組織の常識』が染み付いてしまうと、これを変えることはすごく難しい。残酷なようだが、やはり若くて頭が柔軟なうちにきちんと教育しないことには、身に付かないのかもしれない。私の先入観も多分にあるが、既存の日本の大企業の大部分が望み薄に見えてしまうのも、『日本の組織の常識』が浸透しすぎていて、今だに日本の経営者や上級役職者はさほど仕事がないのに権限は強く、そのわりに責任は取らず、居心地のいいポジションを守ることばかりに汲々としている事例が多過ぎるからだ。
■日本の旧来の常識につきあう暇はない
明治の元勲大久保利通は、若い頃、島津久光に取り入るために囲碁を覚えたというエピソードがあるが、かつて私が最初に社会人になった頃など、この種の心得は多かれ少なかれ常識だった。ゴルフ、麻雀、カラオケ、囲碁、将棋、果ては詩吟や長唄なんていうのまであった。仕事ができるというのはこういうスキルで上司に取り入り、客に気にいられ、空気を読むことにたけていて、人間関係を良好に保つことができる、ということを意味した。自分が目立ちすぎて他人から嫉妬されないようにする、というのも重要な教えだった。田中角栄元首相など、地元の後援者の家族や親族の構成まで赤鉛筆片手に日々一生懸命覚えていたという。こういう類いのスキルに長けていなければ、仕事の成果を得ることなど期待できないし、小賢しい業務上の合理性ばかり振り回すのは『子供の所行』というのが常識だった。こんなメンタリティーは基本的には変えることは難しい。少なくとも、もう変えることは無理と考えて、それでも出来ることを考えた方が生産的と言わざるをえない。
■開き直り
良い悪いではなく、現実的に自分の残された時間を少しでも有効に使うには、次のように開き直ることが賢明だと思うようになってきた。
1. 日本全体(会社全体等でもそうかもしれない)を一度に良くする
というようなことを語ることは意味がないのでやめる
2. 他人(政治家、政府、官僚、経営者等)にお願いしたり期待することは
効果がないからやめる
3. 自分で掌握できる範囲で、自分自身ができることを最大限やる
■本当に賢明なのはどちらなのか
最近、同様の考えを語る人がすごく増えている。先週の記事で取り上げた、思想家の東浩紀氏、評論家の岡田斗司夫氏も実は対談の最後に同様な覚悟を語っていた。私塾のようなものを作って教えている人も実に多い。組織で勝ち上がるために『日本の常識』の達人になって、その組織のトップグループに入って、やりたいことをやれるまで我慢する、というのでは、自分がトップに立っても、語るべき言葉の蓄積もなければ、情熱もしぼんでなくなってしまうだろう。結局、その地位と権利を守ることに汲々とすることになってしまいかねない。それよりも今は、自分と価値観が共有できる人とともに、語るべき思想、かたるべき言葉を積み上げていけるような実践をすることのほうが、将来投資としては質が高い。しかも、そのためにこそ、インターネットは非常に役に立つインフラとして最大活用できるはずだ。そういう意味ではかつてないほどにインフラは充実している。そして、日本航空の小林部長のように、チャンスが巡ってくれば自分が蓄積してきたものを一気につぎ込んで、所属する組織そのものを蘇らせるようなこともできるかもしれない。