中国理解を促進してくれる良書:『おどろきの中国』
■関係が改善しない日本と中国
昨年の尖閣諸島での衝突以来、日本と中国の関係はいまだに非常にぎくしゃくしていると言わざるをえない。去る1月には、中国海軍の艦船が尖閣諸島沖で海上自衛隊の護衛艦に射撃管制用レーダーを照射していたことがわかり、日中双方が時間と共に多少なりとも冷静になることを期待していた向きに冷や水を浴びせかけたことは記憶に新しい。内閣府の世論調査では、中国に対する親しみの気持ちを表明する日本人は、過去最低となり、はじめて20%を下回った。
■悪化するビジネス環境
ビジネス環境という点でみた中国も、一時期の追い風だった風向きがまったく反転して、逆風ばかり、といった印象だ。大規模な反日デモこそ沈静化して見えるが、相変わらず日本製品に対する不買運動や嫌がらせは続いている。中国での労働コスト上昇は歯止めがかからず、安倍新政権の経済政策に起因する円安の影響もあるが、特に円換算でみたコストは現地生産のメリットをどんどん相殺している。また、もっと構造的な問題として、2015年頃には、人口ボーナス(一国の人口構成で、子供と老人が少なく、生産年齢人口が多い状態。豊富な労働力で高度の経済成長が可能。多産多死社会から少産少子社会へ変わる過程で現れる)が終了する。しかも最近では、全土に広がる大気汚染や水質汚染が非常に深刻な問題になりつつある。(皮肉なことにこのせいで、日本製の空気清浄機が飛ぶように売れているそうだ。)
日本企業の中国進出の支援をしているコンサルタントも、最近は進出のためのセミナーをやっても全く人が集まらず、持ち込まれるのは撤退に関する相談ばかりだと嘆く。中国ビジネスに係わる私の知人・友人の話を聞いても、『撤退』や『移転』の話がやたらに多い。大手企業は投資金額が莫大だから、軽軽にそのようなことは口にできないようだが、資源配分という意味では明らかにシフト(脱中国)が始まっているようだ。
■中国理解促進の名著
斯く言う私も、どれほど研究しても、理解不能な中国に半ばさじを投げたい気持ちになっていたことを告白せざるをえない。他にやることが山ほどある中で、中国の研究に時間をさくのがもったいないと感じるようにさえなっていた。だが、たまたま手にした本を読んで認識をあらたにした。如何に大変でも、この試練は乗り越えていくべきで、また、乗り越えたときの成果も大きいということを教えられた気がする。その本とは、社会学者の、橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司の3氏の対談をまとめた『おどろきの中国』*1だ。3氏の中でも橋爪氏は、中国研究のスペシャリストで、奥様が中国の方なのだという。そのスペシャリストの橋爪氏に、大物社会学者の二人が、選りすぐったレベルの高い質問を次々に投げかけていく。その高度な質問に対して、今まで私が見聞きしたこともないようなレベルの高い回答がかえってくる。私の器が汲める量は残念ながらあまり大きくないが、それでも、今回私は今までの自分の中国理解を根本的に見直す必要があることを知ることになった。
■中国理解だけにとどまらない
加えて、さらに大きな発見は、この本を読んで得られる成果が単なる中国一国の理解にとどまらないということだ。少なくとも私は、自分の『社会』理解全般に如何にバイアスがかかっていて、中国の理解どころか、自分たちのいる日本社会の理解もままならなくなっていたことに気づき愕然とした。私達は学校で『社会科』を習っても、実際に社会に出てみると、大抵、自分の所属する会社を含む身近な『社会』でさえ、まるで分析も理解もできないことを知る。学校で習うのは、西洋社会、というより、キリスト教から生成されてきた社会とその分析ツールだからだ。そして、日本社会は、『それとは違う何か』だ。もちろんこのツールでは、西洋とも日本ともまったく体系の違う中国社会など分析できるはずもない。本書のまえがきに、まさにこのことが書かれている。
社会学の理論を研究してきた三人が、この主題をめぐって集まったことには、理由がある。中国という社会や文化を理解するのが難しいのは、われわれが中国との交流が足りなかったから、だけではないのだ。われわれが、社会や文化を理解する上での基本となる理論や枠組みが、学問のレベルでも、また常識のレベルでも、西洋を標準としてきたことに、大きな原因がある。簡単に言えば、社会学を含む社会科学は、無意識のうちに西洋仕様になっているのである。したがって、中国について論ずることは、社会学の理論を反省し、批判することにもなる。
同掲書 P4
■最初の関門
無意識のうちに西洋仕様になっている社会科学のツールでは、『日本人特有のわかりにくさ』も、『中国特有のわかりにくさ』も理解できない。だが、その『西洋仕様』についても、自分が果たしてどこまで理解できているのか、突然おぼつかなくなった気がした。ただ、自分が何もわかっていないことを自覚することこそ、世界がこれほど緊密に結びついてしまった今の時代、そして、これからの時代を生きる上での智慧を習得するための、最初の関門というべきなのだと思う。この場合、中途半端な知ったかぶりや半可通ほど始末の悪いものはない。先入観が理解を阻害し、探求がそこでストップしてしまうからだ。
■特に印象的な気づき/中国人の日本人批判
この本で得た『気づき』はすごく沢山あるが、今回はその中でも特に私が驚きとともに認識をあらたにしたことを二つ取り上げて書いておきたい。
まず、その一つは、中国人の日本人批判についてだ。大抵の日本人は、中国人の批判は理解できないと言うだろう。『何故、もう終わってしまった過去にこだわるのか。過去は忘れてもっと未来志向で行こう。まったく理解できない人たちだ。』そう思っているだろう(私もそう思っていた)。だが、今の日本人は、批判の原因になった日中の戦争における日本や日本人のことが理解できているだろうか。
そもそも先の戦争についてはわからないことが多いが、とりわけ、日中戦争のことは、今でもよくわからない。この戦争は、本当に不思議な戦争だ。本来この時点の帝国陸軍の仮想敵国は、ノモンハンで惨敗したソ連のはずで、中国には背後を襲われないように、友好的中立を保つのが戦術的には一番正しい選択のはずだし、それは当時も理解されていたようだ。ところが、実際には、中国側の誘いがあったかもしれないとはいえ、ずるずると戦線は拡大し、いつの間にか南京を占領し、『南京虐殺』としてメディアに発信され、歴史に拭い難い汚点を残してしまう。『現地軍の暴走』と学校で習った記憶があるが、仮にそうでも、中枢が本気で止めようと思えば、いくらでも方法はあったはずだ。中国側から見れば、義和団の乱のように、現場の暴走に本部が相乗りしたとしか見えなかっただろう。日本人の私でもそう疑いたくなるくらいなのだから。
実際、当時の日本人自体、どうして日本の軍隊が中国にいるのかよくわからなかったという。主観的には中国のことを考えているようで、『明確な目標も、手段の合理性もない。同掲書 P236』状態だった。後に『八紘一宇』等の思想的スローガンも出てくるが、本来の意図はまったく骨抜きになってしまっている。また、日露戦争の頃にはあった、国際法の遵守という意識もまったくなくなってしまっている。その上、兵士は補給を確保されず、結果的に中国全土で略奪や殺人を繰り広げることになってしまったという。
これを逆の立場で考えてみると、中国人の怒りがわかりやすい、ということで、面白い『架空の話』が書かれている。
神奈川県や長崎県が、イギリス、フランスの植民地にされてしまった。日本がかわいそうだ、助けてあげると、中国軍がやってきた。で、イギリスやフランスと戦争するのかと思ったら、なんと日本軍と戦争を始めた。『中国軍の言うことを聞け。これは日本のためなんだ』。日本政府が『いやです』と言うと、『これだけ日本のためを思ってやっているのに、まだわからんのか』と、首都の東京を占領しに攻めてきた。途中の村々は厚木でも八王子でも、物資を奪われて、火をつけられて、日本人の女性がおおぜい暴行されたり殺されたりした。東京では、逃げ出した人びとも多かったけれど、逃げおくれた民間人や東京を防衛していた兵士たちが、五万人か何十万人か殺されてしまった。こんな無茶を黙っていられるか、断固戦うぞ! と、誰だって思うでしょう。そこで、首都を、甲府に、そして松代に移して、国をあげて徹底抗戦する。
この怒りの核心がなにかと言うと、具体的な被害もさることながら、言ってることとやってることがちがうじゃないか、ということじゃないのか。
同掲書 P268
■継続している!
もう昔の日本人のやったことで、現代に生きる日本人は違うし関係ない(継続性はない)と言いたいところなのだが、本当にそうだろうか。日本軍の『よくわからない』決定は、どうやら、『空気』にしたがって決まり、誰が責任者かよくわからないという。これは、ちょうど前回の記事でも書いたが、今の日本人の組織の決定過程でもまったく変わっていない。合理的ではなく、非合理そのものなのだが、その非合理をまだ日本人は乗り越えているとはいい難い。「『空気』の責任なので、私達は関係ありません』」と『空気』に責任転嫁するわけにもいかないとなると、21世紀の現代日本に残された深刻な課題といわざるをえない。
はじめから日本人と中国人の関係が悪かったわけではない。その例証として、本書にも、明王朝が清に攻められたとき、江戸幕府に援助を求めてきた話とか、中国の革命の父孫文や、蒋介石が日本を理想のモデルにしていたことが出てくるが、結局みな台無しにしてしまった。
■暴走する一面も持っている
日本人の誠意が歪んでいるわけでもなければ、義侠心もちゃんとあったはずだ(今もある)。それは疑いえない。それなのに、時として、『空気』に暴走を許してしまう面も日本人が持っていることをまだ忘れるわけにはいかない。日中の外交的衝突を冷静に見れば、中国側にも問題が少なくないことは確かだ。だが、それで日本側にある問題が相殺されるわけではないし、そんな恥ずかしいことを自分たちに許してはいけない。正々堂々自分たちの問題に向き合う日本人でありたいものだ。
もう一つ、本書で非常に感銘を受けたことは、毛沢東と文化大革命の説明のくだりだ。
中国のわからないことの中でも、文化大革命のわけのわからなさは極めつきだ。
かつてあれほど統一が早かった中国(2千年以上も前の話だ)も、近代化の局面では、伝統に阻まれて一向に改革が進まず、日本に先行を許した。それなのに、毛沢東の指導の下、文化大革命という極めつきの蛮行が行われて、中国全土ががたがたになってしまったと思ったら、その後、あっさりと経済成長を成し遂げるというのもまったくわからない。残念なことに、本書を読んでも毛沢東のことはまだよくわからない。カリスマとして巨人であることは確かだが、人格的にも思想的にも当時も今でも、評価できるようなところはほとんどない一方、文化大革命と言えば、一説によれば数百万人とも1000万人ともいわれる膨大な数の同胞を死に追いやる、史上まれに見る愚挙としかいいようがない。
ところが、まさに『文化』大革命で、中国の伝統的価値観(儒教的な価値観)は一掃されてしまった結果、いざ、蠟小平が『社会主義市場経済』などという、思想的にはサーカスのような理論をひっさげて登場すると、中国は劇的な経済成長を遂げることになる。
ふつうは、文化大革命がとてつもなく中国の経済の足を引っ張って、それを克服するために改革開放が進んだと理解されます。もちろん、それは基本的にはそうなんです。ただ、文革の思わぬ作用、意図せざる効果がやっぱりあったのではないか。
つまり、文革は、市場経済に適さないような、さまざまな中国の伝統や習慣、行動様式を一掃したところがあるわけです。伝統の桎梏から解放された人々を結果的に大量に生み出した。そういう状況で一挙に改革開放がおこなわれたので、人々は自由に新しい制度に対応できた。あるいは、こんなふうに言ってもよい。改革開放こそ、文革の最終的な仕上げだったのだ、と。 同掲書 P303〜304
本書の別の部分でも、『歴史のアイロニー』『歴史の狡知』として説明されている部分だが、ここに中国で市場経済、改革開放がすすんだ本当の秘密が説明されているように思う。この点はまた自分でも完全に咀嚼できているわけではないのだが、今後の探求のための大きなヒントをいただけた気がする。
■自分で確認を
その他にも本書には沢山『気づき』をえることができるポイントがある。特にこれまで中国のことを懸命に探求してきた人なら余計そうだと思う。是非自分で確認してみて欲しい。そして、その気づきが自分に内面化するたびに、自分自身の境界が広がって行く爽快感を感じることができるはずだ。文句なく、おすすめできる一冊だと思う。