『ルールを守りマナーが良い日本人』はいつまで維持できるのか?

 

 

W杯で世界から賞賛された日本人のマナー

 

サッカーのW杯はいよいよ佳境に入ろうとしている。日本は直前で監督が交代する等の混乱もあり、下馬評では一次リーグで全敗する可能性が高いと酷評されたものだが、それを見事に跳ね返して決勝トーナメントに進出したばかりか、有力な優勝候補とされたベルギー(同じ優勝候補のブラジルも撃破した!)を相手に堂々と渡り合って、後一歩のところまで追い詰め、世界の賞賛を浴びた。

 

賞賛と言えば、日本選手やサポーター(掃除をしてからスタジアムを後にする等)のマナーの良さは、試合での健闘とあいまって、今回も世界から高い評価を受けることになった。*1やはり日本は世界に誇れる『礼節』の国であると誇らしく感じた人も多かったと思う。世界に、『日本、ここにあり』との強烈なメッセージを届けてくれた選手や関係者、現地で応援していたサポーターにあらためて感謝したい気持ちだ。

 

ただ、この日本人の『ルールを守りマナーが良い』という性向だが、困ったことに、今のままでは維持出来なくなっていくのではないかとの危惧を最近感じるようになった。また、表面上はルールも守るし、マナーが良いように見えて、それがむしろ日本人の心を蝕み、社会を停滞させている面もあることを意識させられるようにもなってきた。もしかすると、この日本人の大切な『ソフトパワー』は、意識してメインテナンスしていかないとエネルギーが抜けて霧散してしまうのではないか。

 

今回は、この点につき、思うところを述べてみたい。ルールやマナーという点で、日本と対局にあると言われる中国人と比較しながら論点を詳らかにしていこうと思う。

 

 

正反対の日本人と中国人

 

訪日中国人観光客数は6年連続で年間1,000万人を超えており、2018年も今のペースなら3,000万人を超える可能性は高いという。*2 今や日本の観光地はどこでも中国人で溢れ、一般の日本人が中国人との接点を持つ機会も圧倒的に増えたため、中国人の行動や振る舞いを目の当たりにする日本人は激増した。同時に、日本を訪れた中国人が日本人や日本の風物に接触する機会も増えて、その結果、従来のような政府のお仕着せの日本人像ではなく、自らの体験を通じて得た率直な感想を持つ中国人の方も増えたばかりか、それがSNS等を通じて漏れ聞こえるようになった。

 

その結果、両者(日本人と中国人)が全く正反対の性向を持つことが(従前より直接接触があれば誰でもわかっていたことだが)一般人のレベルにまではっきりと認知されるようになった。

 

日本人から見ると、

『中国人ルールを全く守らず、マナーも悪い』

 

中国人から見ると、

『日本人は皆ルールを守り、礼儀正しい』

 

確かに、普通の日本人の感覚からすれば、中国人観光客は、列に並ばない、静かにすべき場所でも遠慮なく大騒ぎして食事中にも騒ぎ散らかす、トイレを流さない、どこにでも痰を吐くなど、ありえないほどルール無視で、マナーが悪いと感じてしまう。

 

 

ルール遵守/マナー向上を推進する中国政府

 

但し、中国人でも、特に若年層など、海外の情報に触れる機会も多く、旧世代よりマナーが良くなって来ていると言われている。日本への訪問経験のある若い中国人の中には、日本人のマナーの良さに影響を受けたと語る者も少なくないと聞く。それどころか、日本を崇拝し、自身が中国人であることを恥じ、精神的には日本人になりたがる『精神日本人*3と呼ばれる中国人さえ出現していて(しかも増えていて)問題になっているという。

 

習近平政権も、発足当時から党の規律や規則に違反した党員や幹部を徹底的に摘発し(場合によっては粛清し)、ルール遵守の意識を強めようとしてきた。それには権力闘争の一面があることは言うまでもないとしても、目的はそれだけではない。中国今や世界第2位の経済大国となり、海外企業とのビジネスは拡大の一途だ。しかも、一帯一路構想等、ある種のグローバル化を先導する存在になり、ニューヨーク市場への上場や海外企業とのM&A等も急増している。よって、中国人にしか理解できない『コネ』や『賄賂』を排除して、透明かつ公平でわかりやすいルールの確立と遵守を徹底する必要に迫られている。この一連の施策は、『制度化』と呼ばれ、政治や経済、社会面でも『制度化』を進め、環境問題や食の安全、労働の安全等についても厳しいルールを設けて推進しようとしている*4

 

また、ルールやモラル遵守は、文明的かどうかを見る指標であるとの認識に基づき、中国では『文明』という文字が広く使われるようになって来ているようだ。地下鉄では『文明乗車』(秩序正しく乗車し、他人に迷惑をかける行為をしない)、空港では『文明旅行』(訪問国のルールを守り、その国の文化や習慣を尊重する)というスローガンを見かける機会が多くなっているという。

 

 

なぜ日本人はルールを守るのか

 

このように述べてくると、最近では日本は経済やビジネスの点ではすっかり中国にお株を奪われているが、やはり文明の成熟度では上、と胸を張りたくなる人も多いだろう。だが、喜んでばかりもいられない。そもそも日本人がルールを守るのは、民族としての特性とか、民度が高いから、というような理由(少しはあるかもしれないが)ではない。文化の違いでもない。社会心理学者の山岸俊男氏『信頼の構造』*5 等で述べているように、社会の仕組みの違いに起因するという分析が一番納得できる。

 

日本の社会は、いわゆる『ムラ社会』で、営利企業でさえムラ社会的に運営されている企業が圧倒的に多い(多かった)。こうした社会では、集団の意思に反する行動には激しい制裁が課されるため、ルールを守り、お行儀よくすることが重要な生存戦略となる。(ある年代以上の日本人にとっては、ルールやモラルというより『世間体』と言ったほうが実感があるかもしれない。)

 

そんな日本人は、キリスト教徒やイスラム教徒のように内側に神が居て監視されているわけではないから、誰も見ていない環境、例えば海外旅行等では『旅の恥はかき捨て』になりがちで、一昔前の悪名高き『農協ツアー』*6を思い起こすと、中国人の爆買いも、マナーの悪さも笑えたものではない。

 

また、日本人は、状況や空気に合せて法規制でさえ柔軟に解釈する傾向がある。法規制完全遵守が理想だが、理想と現実は異なるケースなど、大筋ではルールを守りつつ、現実にはルール違反が常態化している例は結構多い。そのあたりは、ルールを完全に無視する傾向のある中国人とは違っていて、日本人には主観的には一応ルールを守っているという認識はある。

 

自動車の速度規制などその最たるもので、公道の40キロ規制など厳密に守るドライバーは一人もいないと言い切っていいだろう。取り締まる側も、完全に守られることは期待せず、通常は、片目をつぶり、時々見せしめのために捕まえたりする。このような例は、特に一昔前の日本企業にはいくらでも見られた。例えば『残業』もそうで、社内のQCサークルなど実際には業務起因の活動であっても、『勉強』という灰色な概念を持ち込んで(労働法にそのような概念はない)、残業認定しないという暗黙のルールがあったりしたものだ。

 

 

ルールの源泉『ムラ社会』が解体しつつある日本

 

ところが、昨今では、そのムラ社会が解体しつつある。会社共同体も、地元共同体も、崩壊過程にある。もちろん、まだ完全に解体しきってしてしまったわけではないし、特に大企業などいまだに頑なに『ムラ社会』を維持しようとする経営者は多いが、それでも、若年層の意識や社会の空気には明らかに変化が見られる。上記の『残業』の解釈もそうで、企業内にあった暗黙のルールより、社会全体に広がる空気のほうが優勢になろうとしている。

 

大半の日本人はそれでも、自分を囲む『空気』には敏感に反応し、若年層もSNS内におけるローカルなルール(メッセージを受け取ったら即座に返信する等)でさえ遵守して村八分的なバッシングを避けようとする。しかしながら、それは内発的な動機から来るものではなく、外部環境との調和をはかることが目的だから、その外部環境が激変している今、日本人のルール厳守が非常に不自然で意味がわからない、ということも起こりがちだ。世間体は取り繕いたいが、肝心な世間が見えにくくなっている。

 

 

不自然な日本人のルール遵守

 

だから、このような日本社会の事情を知らない外国人の目には、日本人のルール遵守が時に非常に不自然にうつる。中国メディアからの翻訳に基づく次の記事はその視線がわかりやすく表現されている。

 

中国人から見ると「日本人は誰もが疑うこともなく、ただひたすらルールを守る」ように映るようで、その様はまるで「何かの病気にかかっている」かのようらしい。中国メディアの網易はこのほど、「すべての日本人はまるで『病』に罹患しているかのように、ひたすらルールを守り続ける」と論じる記事を掲載した。

 記事は、敗戦国である日本が戦後、瞬く間に復興を遂げ、世界の経済大国となった背後には「国民がルールを守る」という要因があったとしながらも、ルールを守るということは「古いやり方に固執する」ことにもつながりかねないことだと指摘した。

 続けて、日本人は確かに礼儀正しく、日本社会には秩序が存在するとしながらも、日本に活気がなく、大都市であっても生き生きとした感覚がないのは「日本人がルールに縛られ過ぎているためではないか」と主張。日本人が「古いやり方」かどうかを疑うこともなく、誰に言われるでもなくルールを守ろうと固執する様子はまるで「病気のようだ」と主張し、ルールや規則を守りすぎるのも問題ではないかと主張した。

誰もがルールをひたすら守る日本人はまるで「病」にかかっているようだ!=中国メディア

 

中国人も、もっとルールやマナーを守るようになった方が良いと認めながら、『自分の行動が見えない鎖に縛られたようだった。話す、食べるといった日常的な行動すべてに細心の注意を払わなければならず、窮屈さを覚えた』というのが、中国人観光客の一方の本音のようだ。

 

実際、日本人の側でも、ルール遵守の裏面にある問題点について意識する機会は明らかに増えて来ている。先に指摘した『残業』関連の問題について言えば、日本人の労働時間が他国と比べて圧倒的に長く、その割に能率が悪いため、労働生産性が非常に低いことは広く指摘されるようになって来ているが、それも、企業に根強くある、暗黙のルール(上司や同僚より先に帰ると評価が下がる等)に従わざるをえなかった結果と言える。少なくとも以前は、そのルールに従がうことによる見返りがあった。だから、いくら『働き方改革』というようなスローガンが出て来ても、たてまえはそうでも本音は違う、というような不整合が起きてしまう。

 

今は、見返りがあるかどうか最早よくわからないが、相変わらず暗黙のルールが残っているのでは、との疑心暗着から会社から早く帰れないようなケースも目につくようになった。自分の上司は、世間のスローガンに本当に納得しているのか、それとも、本音は昔と変わらないのに、表面だけ変わったふりをしているのか、それを見誤ると結局自分の評価は下がってしまう。そのような疑心暗着に駆られる日本人が幸福であるはずはない。労働生産性が上がらないのはもちろん、臨機応変な対応も不得手で、創造性も阻害されていることは、盛んに指摘されるようになって来た。*7

 

激変の渦中にある日本人の慣習

 

厚生労働省の調査によれば、今や、企業における男性の約20%、女性の60%は非正規社員であり、企業共同体的な内向きのルール遵守の意識は年々薄れて来ている。地域社会共同体も弱体化の一途にある中、冠婚葬祭等のルール(慣習)が煩雑/面倒で意味がない、という本音もあからさまに聞かれるようになった。特に都市部など一昔前と比較すると冠婚葬祭に関わる行事は、圧倒的に簡素になって来ている。

 

さらに言えば、かつては、共同体的な『人情』も日本の良さの一つとされて来たが、当然それも『簡素化』と共に薄れて来ている。時々、日本に長くいる中国人に、『人情味』に溢れた中国が懐かしいと言われてハッとしてしまうことがある。今の日本は、共同体的なルール遵守からのみならず、『人情』からも離脱しようとしているとすると、今後、『ルールを守りマナーが良い日本人』『人情の厚い日本人』は何を源泉として維持していけばいいのだろう。今まではそれを意識しないでも済んだのが、これからは自分で意識しないと、実質的な価値もないのに疑心暗着からくるルール遵守の強迫観念に振り回されるだけになってしまいかねない。

 

 

『人情社会』の中国

 

中国社会はもともと『人情社会』だった言われる(日本語の漢字として読み取れる意味とは異なることには留意が必要)。一族や同郷の結束が固く、コネが何より優先される。何かする時にはまず友人に頼る。それはお上(政府)が不正だらけでまったく信用が置けなかった数千年の歴史の中で、中国の民衆が生きるための知恵だったとされる。そんな環境では規則や法律を守るといった意識が育たなかったのは当然だが、一方、それを補完するものとして、独自の人間関係が形成され、そこから生まれた『人情味』の良さの部分を今でも感じている中国人は少なくないようだ。(もっとも、昨今ではそのためのあまりの負担の大きさに耐えきれないと述べる中国人もいる。)

 

中国人の人間関係や『人情味』を日本人が実感し理解することは難しいが、ただ、想像できる部分やそのための材料もある。例えば、中国の古典小説である三国志だ。三国志は日本人にもファンが多く、そこに出て来るキャラクターやエピソードについては(誤解も含めて)馴染み深い。特に、劉備関羽張飛の三人が桃園で義盟を結び、それ以降は、他の何よりその義盟が重視され、命をかけてこれを守る姿に感動する日本人は多い。そこには時の行政府が決めた法律より、さらには自分の命より他人を大事にすることがあるという中国人の意識の源流が垣間見える。そこには『ルール無視の中国人』とは全く別の、『命をかけて盟約を守る中国人』がいる。

 

 

変革の時代の拠り所

 

日本人が中国人のように理解することは難しいものの、日本人にもこれに感動できる感性があることは間違いない。例えば、雑誌少年ジャンプに連載される漫画で描かれる『友情』の中には、多分に桃園での義盟に通じるものがある。義盟を交わした相手に限定されるとはいえ、自分の命より『友』との関係を大事にする姿勢、他人のために命をかける姿勢は、国を超えて感動を呼ぶということだ。これが、『友』を超えて『人類全体』に広げることができれば世界はものすごく住みやすい場所になることは想像がつくはずだ。少なくとも、『人に真剣に向き合うことは』社会が崩壊し変革の時期を迎えても、いやそのような時期だからこそ、拠り所とできる、拠り所とすべき価値だと考える。

 

もっとも、自分の縁故の関係だけ大事にして、他は関係ないという意識が広まっても困る(昨今の日本の政界はそのような傾向が強まっているように見える)。日本人は中国人より法意識が高く、法治国家である、という『常識』も実は怪しい。日本の三権分立は建前にすぎず、行政にすべての権力が集中していて、立法府とは関係なく一般国民のわからないところで、『政令』やら『築城解釈』やらがまかり通る。そのことに散々悔しい思いをして来た身としては、司法制度改革の方も不可避だと思うが、1999年以降取り組まれて来た、日本の司法制度改革は、法科大学院の失敗に見られるように、迷走して藪の中に入ってしまっているように見える。だが、簡単に諦めてもらっては困る。これも大事な論点なので、次回以降また取り上げて行こうと思う。

 

*1:日本代表は敗退も…W杯会場で清掃し続ける日本人サポを海外メディアとファンが絶賛!【ロシアW杯】 | サッカーダイジェストWeb

*2:

mainichi.jp

*3:

gendai.ismedia.j

*4:2014年10月の中国共産党第18期中央委員会第4回全体会議(18期4中全会)で「依法治国(いほうちこく)に関する重大決定」が採択された。これは、『法に依って国を治めること』を意味し、法に基づき私権すなわち市民の民事権利を保障しようとする社会の実現であり、従来の関係(コネ)による物事の処理に比べてはるかに公平性が高まると期待される。

*5:

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

 

 

*6:作家の筒井康隆氏の『農協月に行く』など、当時悪名高かった『農協ツアー』を軽妙な風刺で描いていて面白いし、今では大変参考になる資料の一つと言える

*7:

blogos.com