豊田真由子議員から見える日本の困った姿

 

 

◾️ 異彩を放つ豊田真由子議員

 


今、日本中が注目しているといっても過言ではない強烈キャラである、豊田真由子議員の謝罪会見がとても印象に残ったので、忘れないうちに感じたことを書き残しておこうと思う。(といっても大分旧聞になってしまったが・・)


 
今年は(今年も、というべきか)、国会議員の失言・スキャンダルの類が非常に目につく年となった。そもそも組織のトップ(安倍首相)自体が疑惑の中心にいて騒がしかったわけだが、自民党の議員の醜聞も実に多かった。
 


だが、その中でも、特に異彩を放ち、強い印象を残した筆頭と言えば、何と言っても、豊田議員をおいて他にはない。不倫であったり、政治的に不適切な発言等については、醜聞と言ってもすでに慣れっこになってしまった国民は、ニュースを聞いた途端に、自分の頭の中にある分類箱に放り込み、すぐに誰が誰だかわからなくなってしまうのが普通だろう。おそらく、どんなに記憶力の良い人でも、一年も経てば、ほとんど忘れてしまうに違いない。まさに「人の噂も75日」である。

 


ところが、豊田議員の場合はそうではない。スマした議員としての表の顔の裏側の般若の顔を「このハゲー!」というような怒声と共に暴露されてしまったのだから、前代未聞もいいところだ。しかも、「ハゲー!」だけではなく、「ちーがーうーだーろーーー!」とか「豊田真由子様に向かって」だとか、お笑い芸人の一発芸のような決め台詞が次から次に出てくる。

 


現代では、こんなネタが出てくれば、ネット上を無限に駆け巡ることは目に見えているわけだが、ネットに加えて、マスメディアでも耳にタコが出るくらい聞かされることになった。音声を繰り返し聞かされることによる記憶への定着度は恐るべきものがある。例えば、雪印集団食中毒事件で、当時の社長、石川哲郎氏がマスコミに放った失言、「私は寝てないんだ!」という逆ギレ発言など、あなたもしっかりと覚えているはずだ。背景や経緯を忘れてしまっても、この強い印象と声は簡単には忘れられない。そして、すぐに思い出す。


 
もっとも、お笑い芸人の決め台詞であれば、どんなに流行ったところで賞味期限のマックスはこれも1年くらいだろうが、本件は(少々気の毒な気もするが)、政治史を彩る残念な事件として、ずっと語り継がれるに違いない。
 

 
 
◾️ 起死回生のチャンスも・・

 


だが、この失態を大転換できる起死回生の機会がただ一度だけあった。謝罪会見である。ここでの印象操作に成功すれば、ものすごく大きく膨らんだ風船のようになっていた大衆のネガティブな空気も、一気に破裂して霧散する可能性はありえた。だからこそ、私もこの機会を見逃すまいと見守っていた。だが、結果はすでに報道でご存知の通り、失敗としか言いようがない。しかも、同時期の雑誌でのインタビュー記事等が輪をかけて逆効果を際立たせてしまっている。では、どうすれば良かったのか。大変難しいところだが、次の記事の見解は私も的を得ていると思う。
 

 これは謝罪会見をおこなう企業、役所、政治家が必ず陥る「落とし穴」である。「危機管理のプロ」を名乗る人のなかにも勘違いをしている方が多いが、危機管理に「勝ち」はありえない。不祥事や事故というマイナスからスタートしているので、「いい負け方」か「悪い負け方」しかないのだ。捲土重来するために、どのような「負けっぷり」をしておくべきなのかを決断して、それをメディアに介して世の中に知らしめるのが、「謝罪会見」である。

豊田真由子氏から学ぶ、謝罪会見大失敗の根本的な理由 | 情報戦の裏側 | ダイヤモンド・オンライン

 

 


法廷闘争だけを前提とするのであれば、「いい負け方」作戦は場合によっては致命的となる恐れもあるが、昨今のようにSNSが社会の隅々にまで浸透して、そこで問題があれば、法的に正しくても炎上(時に、正しければ正しいほど炎上することもある)する。それを勘案すれば、「いい負け方」の追求は、本件に限らず、公的に仕事に携わる誰もが意識して追求すべき価値となっていると言わざるを得ない。

 

 

◾️ おかしくなってしまった日本人の価値観

 


だが、これは言うほど簡単ではない。特に、豊田議員の履歴を見れば、子供の頃から「自分は正しい」「自分は負けない」ゲームを徹底して繰り返してきた典型的な人物と言える。しかも、事は一人豊田議員だけの問題ではなく、今の日本のエリート組織全般に言えることで、偏差値は高くても、生きるうえでの美意識を欠いており、計測可能な指標をひたすら伸ばして行くことばかり重視している。*1(この点は、コンサルタントの 山口周氏の受け売りながら、私自身本当にそう思う)。

 

国会議員に限ってみても、豊田議員に限らず、いわゆる「安倍チルドレン」あるいは、「魔の2回生」と呼ばれる若手議員が昨今特に評判がよろしくないが、総じてこの法則が当てはまってしまっているのではないかと思える「What the World Thinks in 2007 The Pew Global Attitudes Project」という調査で、「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と答えた人の割合が、各国比較でみると日本人がダントツ(38%。独立心の強い米国でさえ28%程度)で高いことが以前話題になったものだが、豊田議員を含む「魔の2回生」は、日本全体を覆うこのような傾向の典型事例のように見えてしまう(自民党片山さつき議員が、生活保護の不正受給者に非常に厳しくツッコミを入れて炎上したこともあった)。

「成長論」から「分配論」を巡る2つの危機感:日経ビジネスオンライン

 

 

ちなみに、この割合は日米以外の各国では、どこも8〜10%くらいで、「自分の力だけでは生活できない人を見捨てるべきではない」と感じる人が9割くらいいるのが人間社会の相場とされているというから、今の日本に違和感を感じるほうが正常な感覚といっても許されるだろう。

 

 


◾️ 弱者に寄り添える人間の魅力

 

 

俳優の渥美清主演で、日本の映画史に残る作品「男はつらいよ フーテンの寅」*2をみればわかる通り、寅さんのように一見負け続けている人にこそ滲み出る魅力は厳然としてあるし、それがわからないようでは弱者を虐げるような政治家ばかりが跋扈する困った世の中になってしまう。(なりつつある?)また、これも時代が違うし、毀誉褒貶あるので、同レベルで比較することができないことはわかっているが、かつての田中角栄元首相など、今で言う不倫どころか外に子供をつくってそれが公開されても平然としている人だったが、一方で徹底的に弱者に向き合って「負けている人」の気持に寄り添える人だった。悪人と罵られても、滲み出る魅力は否定できなかったし、現実に最後まで非常に人気があった。

 


こうなるとまさに美意識の問題にもなるので、人にその価値観を押し付けることはできないが、豊田議員や「魔の2回生」に違和感を感じるのであれば、自らを振り返って、弱者に寄り添えなくなっている自分がいないか、そのような議員を選んでしまっていないか選挙も近いことだし少しは考えてみてもいいのではないか。