『遺伝子工学』に革命が起きてる!/『ゲノム編集』が凄過ぎる


最も差し迫った分野は?


昨今の先進テクノロジーの進化とその影響が破壊的であることはこのブログでも繰り返し述べてきたし、最近では同種の情報が急増して、私が多少の発信をしたところですっかり埋もれてしまうようになった。しかも、どの分野のテクノロジーも、破天荒ともいうべきポテンシャルを持ち、それこそSFの世界を凌駕しかねない話が目白押しだ。人工知能が人類を滅ぼすかもしれないという懸念などはまさにその代表的な一例といえる。しかも、そう長く待つ必要もない。2020年前後には、その人工知能を使った自動運転車が続々と市場に投入される見通しだ。


では、そんな中でも、今最も進化し人類社会に差し迫った回答を求めて来そうなのはどの分野なのだろうか。少々意外に聞こえるかもしれないが、『遺伝子工学』、もうすこし広めに言えば『生命科学』だと今私はかなりの確信を持ってそう言い切ることができる。



 意外に注目度が低い


『意外に』というのは、私自身の率直な感想でもあるのだが、これほど急激に進化していて、しかも及ぶ影響範囲の広さも、社会的なインパクトも桁外れに大きい割には、他の技術と比較して、あまりに露出が少なく、話題にもなっていない。これはいったいどういうことなのか。


例えば、最近、米ガートナー社より『テクノロジーのハイプサイクル2016年版』が発表されたが、生命科学に関わる技術は一つも載っていない。2015年版にあった3Dバイオプリンティングも今年は消えている。何も知らない人がこれを見たら、『生命科学の進化も目覚ましいと聞くが、思ったより進展がなく停滞しているのでは』と思うかもしれない。だが、そうではない。事実はその全く正反対だ。


 遺伝子組み換え技術


生命科学における先端技術と言えば、『遺伝子組み換え』については誰しも耳にしたことがあるはずだ。たとえば、農業分野では、米国のミズーリ州に本社を持つ多国籍バイオ化学メーカーである、モンサント社の除草剤(ラウンドアップ)や、その除草剤に耐性を持つ遺伝子組み換え作物(ランドアップ・レディー)など世界的に拡散している事例もある(遺伝子組み換え作物の種のモンサント社の世界シェアは90%にものぼるという)。


日本では、消費者の遺伝子組み換え作物に対する忌避感が強いこともあり、日本企業による商業的な栽培は行われていない。ただ、日本で流通している大豆の94%は輸入(2011年)で、日本の大豆の7割は米国から輸入されており、米国で栽培される大豆の94%は遺伝子組み換えというから、日本で流通する大豆は8割方遺伝子組み換えということになる(但し、いくつかの抜け道があり表示義務を免れている)。

遺伝子組み換えの基礎知識 | サルでもわかる遺伝子組み換え
日本のGM表示の仕組み | サルでもわかる遺伝子組み換え


その他、糖尿病の治療に欠かせないインスリンや、肝炎を治療するインターフェロンなど、遺伝子組み換え技術の産物だ。日本では忌避感が強いといったが、一方で、現在は不治の病とされるガンや心臓病等の治療や、急増する世界人口を支える食料の増産等への貢献の可能性もあり、もちろん期待も大きい。


だが、その遺伝子組み換えというのは、非常に不安定で、成功の確率も低く、時間もかかり、難易度が高く誰でも扱えるような技術ではないことはご存知だろうか。加えて、副作用等、安全性にも課題が多く、当然コストも高いから、それほど急速に広がるような性質のものではなかった。



 状況を一変させた『ゲノム編集』


ところが、ごく最近、2013年ごろになって、この状況が一変する。驚くべき画期的な技術が実用段階に入ったことによって、将来的な可能性や懸念ではなく、眼前にある、今すぐ対応すべき課題としていきなりクローズアップされることになった。


その技術は『ゲノム編集』と呼ばれていて、その中でも特に『クリスパー』と呼ばれる最新技術は、精度も完成度も高く、遺伝子の文字列のどの部分でも、切りたい鎖をピンポイントでカットしたり、書き換えることができるという。


詳しくは、最近出版された、次の2冊の著作をご参照いただくのが手っ取り早い。おそらく、私が感じた戸惑いとめまいのような感情に少なからず共感していただけるのではないかと思う。


ゲノム編集の衝撃―「神の領域」に迫るテクノロジー

ゲノム編集の衝撃―「神の領域」に迫るテクノロジー


ここでは、如何に凄まじい進化を遂げているのかをご理解いただくために『ゲノム編集とは何か「DNAのメス」クリスパーの衝撃』にまとめてある、遺伝子組み換えとクリスパー(ゲノム編集)の違いに関わる記述について、引用させていただこうと思う。



 遺伝子組み換えとクリスパーの違い

遺伝子組み換え


1 従来の遺伝子組換えでは、「制限酵素によるDNAの切断」や「遺伝子導入」、あるいは「相同組み換え」や「伝統的な交配作業」など、複数のステップを組み合わせる必要がある。

2 各々のステップを見ても、たとえば「DNAを切るための制限酵素が、実はDNAを好きな場所で切ることができない」など激しい制約を課せられている。

3 遺伝子組み換えの根幹である「相同組み換え」が、たとえばノックアウト・マウスのように「100万分の1」といった極めて低い確率でしか、狙った通りに起きない。

4 従来の遺伝子組み換えは、極めて汎用性に乏しい。



クリスパー


1 従来の遺伝子組み換えが基本的にはランダム(確率的)な手法であったのに対し、クリスパーはゲノム(DNA)の狙った場所をピンポイントで切断、改変することができる。もちろん現時点では「オフ・ターゲット効果」などの誤操作の可能性も残されているが、それは本質的に「ランダムなプロセス」というより、むしろ「狙った結果からの誤差」といった範囲に収まる。そして、最近の研究によって、その誤差は休息に縮まりつつある。

2 従来の遺伝子組み換えとは異なり、クリスパーでは父方と母方、両方のDNA(相同染色体、ゲノム、対立遺伝子)を1回の操作で同時に改変できる。これによって(従来のノックアウト・マウスなどを作るのに必要だった)複雑で手間のかかる交配実験が不要になった。

3 従来の遺伝子組み換えは、1回の操作で1個の遺伝子しか改変できなかったが、クリスパーでは1回の操作で複数個の遺伝子を同時に改変することができる。

4 クリスパーは非常にシンプルで扱いやすい技術であるがために、たとえば高校生のような素人でも短期間の訓練で使えるようになる。つまり遺伝子工学の裾野を広げることが期待されている。

5 同じ理由から、従来の遺伝子組み換えに必要とされた膨大な時間や手間、コストなどを大幅に削減できる。

6 クリスパーは(人間を含む)どんな動物や植物(農作物)のも応用できる汎用的な技術である。


従来の遺伝子組み換え技術についても、期待の背後で懸念される予想できない危険性、生態系に対する取り返しのつかないインパクト、対応策のない毒性の強いウイルス等の出現の懸念、生殖細胞を操作することで予想もできない遺伝を子孫に伝えてしまう懸念、人間と動物のキメラの出現の懸念等、これまでも議論されて来たが、議論が一巡した後では、やや鎮静化していた感がある。


だが、これは、どうやら、本来交わされるべき真剣な議論が単に停滞していたに過ぎないとも言えそうだ。気がつくとすぐにでも答えを出す必要があるのに、簡単には答えを出せそうにもない、超難問が目前に突きつけられている。『背筋に冷たいものが走る』というのは、まさにこういう状況のことを言うのだろう。



 懸念点ばかり気になる


それでも、現在までのところ医療関係者等による自主規制は、一定の歯止めとして機能しているように見える。だが、クリスパーのような技術革新によって、この歯止めがはずれてしまう懸念が払拭できない。というのも、やはり汎用性があって広い領域で活用できる上に、高校生のような素人でさえ短期間の訓練で使えるほど裾野が広がるということになると、倫理的な歯止めが効かなかったり(歪んだ思想や宗教にかぶれる等)、また、悪意はなかったとしても偶発的に取り返しのつかない事態を招いてしまうことは多いにあり得る。しかも、昨今では、テロでの利用の懸念はかつてないほど大きい。最近の事例でもわかってきた通り、現代のテロリストは最新技術の利用に非常に長けている。


しかも、クリスパーのような技術と、それまでの遺伝子組み換え技術との違いそのものに起因する新たな問題もあるようだ。例えば、自然界にも稀に突然変異で『白いカエル』は出現する。これはクリスパーによって、今後比較的簡単につくることができると言われている。ところが、クリスパーで作ったのか自然界で偶発的にできたものなのか、区別する術はないという。偶然1匹見かけただけならともかく、バケツいっぱいに白いカエルがいれば、人為作用を疑うことにもなろうが、悪意のある行為者が秘匿しようとすれば出来てしまうとなると、何らかの歯止めを設定するにしても、具体的にはどうすればいいのか、大変悩ましい問題になる。


しかも、研究者や企業の立場で言えば、自然界に出現する可能性のあるようなものを、場合によっては人類への多大な貢献が見込めるにも関わらず、過剰に萎縮して自主規制してしまうのでは、むしろデメリットの方が大きいのではないかとの意見も出て来ているという。



『倫理』と言っても・・


高度な人工知能について議論するにあたってもそうだが、議論が行き詰まると『倫理』が重要になると誰もが言う。だが、その重要なはずの倫理やその背景にある思想、あるいは、宗教の諸相について、少数の、それこそ『専門家』を除けば、一般人が真剣な議論を交わしているところをついぞ見たことがない。どちらかというと、現代では思想や宗教等については、よほどの問題(テロや破壊行為等)を起こさない限り、多様性と個人の選択の自由を認め合うことが是とされる方向だろう(つまりどうせ喧嘩になるから議論しないのが賢明、ということだ)。そしてそれは必ずしも悪い方向ではない。特定の思想や宗教を強要するとろくなことにはならないことは歴史の教訓とも言える。だが、そうだとすると、異なる思想や宗教を背景とした人々が倫理において合意できるものなのだろうか。いわば『人類共通倫理』とでもいうべきものが、普段まったく議論もしていないのに、いきなり見出せるものだろうか。甚だ心もとない。


だからこそ、特定の思想や宗教とは切り離して、せめて『人類の生存』『人命の尊重』という一線で合意したいところなのに、それさえ合意が難しくなるケース(オウム真理教や、イスラム系テロリスト等)もあるというのだから、本当に厄介な時代になったものだ。


だが、どうにもならないかもしれないが、どうにもならないと投げ出してしまっては、それこそどうにもならない。一人一人が、せめて自分が対処できる範囲で答えを出す努力をやめないようにすることを習い性にしないことには始まらない。そういう自分も、今更ながらではあるが、昔を思い出して、倫理、思想、宗教等についても、できる限り探求してみようと考えている。そんなにのんびりしている場合ではないのかもしれないのだが・・・。