今の世を読むテクストとしての『村上海賊の娘』
■売れている理由を解明したくなる本
こんなに長い時代小説を一気に読んだのは本当に久しぶりだ。2014年の本屋大賞を受賞した和田竜氏の『村上海賊の娘』*1 *2である。上下巻合わせて合計1000ページ近い大作にして、100万部を突破したというから、市場も大きく反応しているようだ。確かにストーリーは面白く、著者の筆力にも並々ならぬものがある。だが、それ以上に、この作品には読み解いてみたい『プラスα』を沢山見つけることができる。何だか妙に『売れている理由』を解明したくなってしまう。
■紹介文
いきなり書き始めるのには、あまりに話の取っ掛かりがないので、取りあえず、まず、公式の紹介文を引用しておく。
内容紹介
『のぼうの城』から六年。四年間をこの一作だけに注ぎ込んだ、ケタ違いの著者最高傑作! 和睦が崩れ、信長に攻められる大坂本願寺。毛利は海路からの支援を乞われるが、成否は「海賊王」と呼ばれた村上武吉の帰趨にかかっていた。折しも、娘の景は上乗りで難波へむかう。家の存続を占って寝返りも辞さない緊張の続くなか、度肝を抜く戦いの幕が切って落とされる! 第一次木津川合戦の史実に基づく一大巨篇。
内容(「BOOK」データベースより)
和睦が崩れ、信長に攻め立てられる大坂本願寺。海路からの支援を乞われた毛利は村上海賊に頼ろうとした。その娘、景は海賊働きに明け暮れ、地元では嫁の貰い手のない悍婦で醜女だった…。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
和田/竜
1969年大阪生まれ、広島育ち。早稲田大学政治経済学部卒。2007年『のぼうの城』で小説家デビュー(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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■魅力的なキャラクター設定
この小説の最大の魅力の一つは、何と言っても、「海賊王」と呼ばれた能島村上水軍の当主である村上武吉の娘、主人公の景(きょう)のキャラクター設定だろう。ただ、かなりトリッキーで意表を突いている。正直、読み始めて早々、かなりたじろいだ。『海賊働きに精を出し、他の男兄弟以上に父親の資質を受け継ぐ傑物と噂されながらも、長身、怪力、粗暴で、奸婦にして醜女。誰からも嫁の貰い手がない当年20歳』とある。醜女? どんなに怪力でも粗暴でもよいが、この設定では『目の覚めるような美女』でなければ、誰からも感情移入してもらえないのではないのか? 少々下衆な突っ込みを入れたくなってしまう。だが、これには、後に思わぬどんでん返しが用意されている。
上巻は、典型的な『ビルドゥングスロマン(主人公が旅に出る等、様々な体験を通して内面的に成長していく過程を描く小説)』仕立てだ。景は海路、本願寺に参戦に向かう信徒を送り届ける途中、後に死闘を繰り広げることになる泉州の海賊達と出会い、交流を深める。さらにはその海賊達が織田連合軍の一勢力として、本願寺方と激突する戦を観戦させてもらいながら、送り届けた信徒に感情移入して、単身救出に向かうような『青臭い』『愚行』に走る。だが、自家の存続に命を懸ける戦場の漢達に打ちのめされ、自分の甘さを思い知る。そして、一度は、海賊働きをしたり戦場(いくさば)に出るのをやめる覚悟を決める。しかしながら、本願寺に依頼を受けて目と鼻の先まで補給物資を運んでいながら、毛利・村上水軍連合軍は、毛利の知将小早川隆景の意を汲んで戦端を開かずに帰還しようとしていることを知って、『義』にかられ、再び戦場に舞い戻る。
■意外などんでん返し
旅の途上、景が醜女とみなされているのは、実は、この時代の美女の基準に照らしてであり、背が高くて、細身、顔立ちの彫りが深く、目も大きい、というような外国人のような顔立ちの景は、現代人の基準でいえば見れば、『目の覚めるような美人』であったことがわかって来る。だから外国人を見慣れた地域(泉州など)の男達にとってみれば、絶世の美女であり、そのように遇されることになる(現代人の我々読者も俄然、前のめりに感情移入することになる?)。景も生まれて初めて、自分を美女として扱われて戸惑いながらも、内心喜びを隠せない。しかも、海賊気質を何よりも重んじる者どうし、あっというまに肝胆相照らす間柄になる。あまり例のない『自己発見』の設定で、作者の苦心と独特のユーモアがうかがえる。
■戦闘を通じて成長する主人公
下巻は、今度は、織田方の泉州の海賊と毛利・村上連合軍のスリリングな激突が描かれていて、展開が非常にスピーディーになる。だが、その戦闘の折々に、海賊らしい破天荒さと潔さ、敵味方を超えて勇者を尊重する気風等が溢れていて、本来残忍で、血なまぐさい戦闘場面が陰惨にならず、何やら大きなお祭りでひしめき合っているような気分にさえさせられる。
下巻の景は、海賊達の禁じて『鬼手』(女性を戦の全面に立てることで、海賊の熱狂的な戦意を解き放つ手だて)の依り代として、そして、泉州の海賊との死闘を演じる村上水軍の総帥の娘として、大立ちまわりを演じる。だが、上巻に描かれる泉州の海賊達との交流が伏線にあるためか、自分を初めて認めてくれた『愛すべき』存在を乗越えて行く景の悲痛さに胸が締めつけられる。特に泉州の海賊の頭目、海賊の中の海賊とも言える剛強無双の巨漢、真鍋七五三兵衛との死闘は、時にユーモラスな雰囲気さえ漂わせながらも、景にとっては実に熾烈な『通過儀礼』となる。
景はもともと、『醜女なのに面食い』という設定で、毛利家直属の警護衆の長、児玉就英のような、色白の美丈夫に、どんな手を使っても輿入れすることを目論むような、『器の小さな』奸婦だったが、戦いが終ると、その児玉就英からの求婚も自分から断ってしまう。『理に聡い、こせこせした生き方』を超越し、からりとして開放的で、海賊としての鮮烈な生き方を貫くためなら笑いながら命を捨てるような剛毅な気質を生まれながらに受け継いでいる自分に目覚め、その生き方を体現する自分に自然な誇りが持てるようになる。
■ヤンキー気質
こんな気質について最近話題にしたことを思い出した。
『マイルドヤンキー』の楽観と悲観/奥深いヤンキー問題 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る
『感性的行動主義』『おのれの感性を信じて行動する』『判断より決断が大事』『計画や戦略といった小賢しさを嫌う』『逃げることや判断保留、妥協や保険をかけることを嫌悪する』『体当たり至上主義』
心理学者の齋藤環氏の定義する『ヤンキー』だ。海賊といえば、まさにヤンキーの元祖の一つといっていいわけだから、当然ともいえる。日本人なら多かれ少なかれ持つといわれる、この気質の琴線に触れれば、爆発的に売れるというセオリーはどうやらここでも生きているようだ。
■日本人の美意識の本質
国学者の本居宣長がそうであったように、日本人の多くは事物に対する抽象的・概念的なアプローチは好きではない。概念は『死』の世界であり、生きて躍動する生命はそこにはなく、生きた事物を生きるがままに自然で素朴に、そのままに感じる心のほうを大事にする傾向がある。小賢しい計らいと秩序をものともせず、感じるがままに生きる海賊の奔放な気質に、善悪を超えて日本人の美意識の本質が垣間見える、ということだろう。
■女性の生き方のロールモデル
また、もう一つ、女性の生き方に係わる問題も提示されているともいえる。
今ちょうど、ディズニー映画、『アナと雪の女王』*3が大ヒットしていて、その分析を評論家の中森明夫氏が行っていて、非常に面白かったのだが、中森氏は、女性の中には、女性らしさを強要する親や周囲に順応して良い子に振る舞う自我と、本来の自分の欲望や本来の能力を制御し、抑圧するうちに隠れてしまうもう一つの自我があり、何かのきっかけでこの抑圧されていた自我(雪の女王)が開放される時、女性は心から開放感を感じることができるという。抑圧された自我を開放してもいいのだ、というメッセージの魅力ゆえに、この映画は世界的に大ヒットしているというのだ。ここには、『素敵な王子様が現れて結婚する』というような伝統的な解決策は微塵も見られない。
その文脈で言えば、景は雪の女王そのものだろう。しかも、初めは、狭量で、粗暴で、世間知らずな奸婦だった景の内面の成長物語は、まさに中森氏の分析する『アナと雪の女王』に通じるところがある。中森氏は、雪の女王が初めから表に出ている人の例として、松田聖子やAKB48の指原莉乃の名をあげていたが、その指原は、AKB48の総選挙での史上初の連覇に向けてばく進中だ。ここには、21世紀に最も輝く女性のロールモデルのヒントがあるように思えて来る。そして、『村上海賊の娘』が売れるもう一つの理由がここにあるように思えてならない。
アナと雪の女王 ヒットの理由を中森明夫が分析 松田聖子はエルサ、小保方晴子・指原は? - YouTube
■熱狂について
あと一つ、熱狂について。
本願寺の(一向宗の)戦いを扱った作品では、死を恐れない宗教的な熱狂にかられた、『死兵』がテーマになることが多く、本作品でも同様にその『気持ち悪さ』が伏流するテーマの一つになっている。戦国時代には命の値段が限りなく安く見えるが、逆に戦国時代こそ、『死兵』はルール違反だ。手柄をたてて恩賞をもらい、自家を存続させるといういわば、戦国時代のフォーミュラがなし崩しになってしまう。武士が死をいとわないのは、家の存続という目的があるからこそであり、初めから死ぬことだけを目的にする存在は、『土台の破壊者』でしかなく、そこには何の『美』もない。
村上水軍の『鬼手』も、熱狂を発動させれば、兵が圧倒的に強くなることはわかっているが、一方で、兵が安易に命をすてる戦い方をするようになり組織(軍団)をガタガタにしてしまう。それを知るがゆえに、『鬼手』は村上水軍兵法書では禁じ手とされる。ナショナリズムだろうが、宗教だろうが、『熱狂』の扱いを取り違えると、組織も国も滅びてしまいかねない(フランス革命の例等)。その点で、本書が、ただ『熱狂を発動しさえすればいい』、と読まれてしまいかねないことに若干の危惧を感じた。右傾化する昨今の日本の情勢を見るにつけ、皆この歴史の貴重な教訓も、忘れないで欲しいと願わずにはいられない。
■世の動向を読み込む『テクスト』
何だか、小説の書評とはかけ離れてしまった気もするが、本作品が、世の動向を読み込む『テクスト』としても、とても面白い存在であることが多少はわかっていただけただろうか。そういう意味でも、一読をおすすめしておきたい。
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*3: アナと雪の女王 オリジナル・サウンドトラック -デラックス・エディション- (2枚組ALBUM)