若者 vs. 『おじさん』/理は若者にありそう

若手社会学古市憲寿 


若手社会学者の古市憲寿氏の新刊(新書)、『だから日本はズレている』*1が面白いという話を聞いたので、早速、読んでみた。


古市氏のことは、私のブログでも、すでに何度か言及してきているし、気鋭の若手(当時26歳)社会学者の注目作として、非常に大きな話題になった『絶望の国の幸福な若者たち』*2については、早々に書評を書かせていただいた。当時はまだ氏に関する情報も少なく、歯に衣着せぬ率直な発言で場を煽る『炎上マーケター』の一人か? とまで思ったものだが、著書を読み込んでみると、着眼点がユニークで、語り口は淡々としているものの、論旨は意外にわかりやすい。そして、氏が切り取ってみせた問題は実に印象的で、その後ずっと私の頭から離れずにいる。



恐るべき近未来像


今回の新刊では、そんな古市氏の当時の問題意識はそのままに、より一層、古市氏が相対する問題の全体像がわかりやすく提示されている、という印象を受けた。特に、「このままでは『2040年の日本』はこうなる」と銘打った最終章は、恐るべき未来像なのだが、古市流リアリズムの集大成ともいえる内容で、非常に興味深い。ご紹介方々、いくつかのキーワードをピックアップしてみる。


相対的貧困率4割
2030年で日本の人口は一億人割れ
2019年 合計特殊出生率は1.0を割り込む


毎月一定の電子マネーを配布するベーシックインカム制度が導入される
プロザック抗うつ剤配布


2020年代からは中流層の海外脱出が目立つようになる
工場はほとんど海外に分散


世界中が都市の時代に移行
日本では東京と福岡がアジア地域の『中心都市』として
世界各国から優秀な人材を集める地域になって持ちこたえる


地方はコンパクトシティ化して生き残りをはかる
限界集落は消滅
東京の繁華街はほとんどが老人


専門性のない中高年がつける仕事は、移民相当職くらい。
驚くほど賃金は安い


救急車や消防車はお金をはらわないと来ない
公立学校からは体育や音楽などの実技系の授業が姿を消す
(多額な教育費用がかかるわりに成果が見えにくい)


福島第一原発は技術者不足で一向に処理がすすまない。
海外の会社が原発の跡地を買い上げ、世界中の核廃棄物を集める
最終処分場をつくる計画がある。


2020年の東京オリンピックの時に新設されたスタジアムや競技場の
いくつかは廃墟へ


まさに、『絶望の国』だが、意外にも多くの人が満足して生きる幸福な階級社会になるという。


こんな絶望の国なのに、多くの人が満足? そう、古市氏の『絶望の国の幸福な若者たち』の主題はそこにあったのだった。



生活満足度が高い理由は『コンサマトリー


増える一方の非正規雇用、低賃金のワーキングプア、格差の拡大と固定化、クレージーなほど厳しい就活戦線・・、古市氏が『絶望の国の幸福な若者たち』を書いた当時も、アベノミクスで好景気と言われる現在に至っても、この国の若者の置かれた環境が改善する兆しはまったく見られない。それどころか、厳しさはどんどん増している。今厳しいだけではなく、将来に夢を抱くこと自体がまた絶望的に激しい。古市氏が一貫して仮想敵とみなす、『おじさん』ならずとも、今の若者は『不幸』なのでは、と言いたくもなってくるだろう。ところが、古市氏は、内閣府の『国民生活に関する世論調査』のデータを参照して、20代の生活満足度が、バブル以降の日本の経済指標が悪くなって行くのに反比例して、どんどん高くなって来ていることを指摘する。(そして、なんとそれは78.4%にも達する!)


その理由の説明として、『絶望の国の幸福な若者たち』では、親と同居していてあまり貧しさを感じていないこと、インターネットを利用するお手軽なコミュニティは花盛りで手軽に承認欲求を満たせるようになったこと、自己実現欲求や上昇志向から降りることで小さなコミュニティの比較しかしなくなり不満が減ったこと(相対的剥奪等もあがっていたが、今回は「その謎を解く鍵は『コンサマトリー』という概念にある」とズバリ指摘する。

社会学では、『今、ここ』にある身近な幸せを大切にする感性のことを『コンサマトリー(自己充足的)』と呼ぶ。何らかの目的達成のために邁進するのではなくて、仲間たちとのんびりと自分の生活を楽しむ生き方のことだ。
 若者たちの生活満足度の高さは、このコンサマトリーという概念によって説明することができる。高度成長期のように、産業化が途中の社会では、人は手段的に行動することが多い。「車を買うために、今は節約しよう」とか「家を買うために、がむしゃらに頑張ろう」とか。
 だけど、衣食住という物質的な欲求が広く満たされた社会では、人々は「今、ここ」の生活を大切にするようになっていく。特に1990年代以降、「中流の夢」が壊れ、企業社会の正式メンバーにならない人が増えていく中で、若者のコンサマトリー化は進んでいった。 『だから日本はズレている』より


すなわち、生活満足度は国内総生産等の数値の上下より、基本的なマインドセットによるところが大きく、客観的な経済指標がどうあれ、コンサマトリー(自己充足的)なマインドを持つ人が増えるほど満足度はあがる、というわけだ。


もう少しだけ、定義にこだわってこの用語の解説を別のところからも引用してみる。

コンサマトリー(化)とは)アメリカの社会学タルコット・パーソンズの造語であり、道具やシステムが本来の目的から解放され、地道な努力をせずに自己目的的、自己完結的(ときに刹那的)にその自由を享受する姿勢もしくはそれを積極的に促す状況のこと。対義語はインスツルメンタル(化)。非経済的な享楽的消費の概念を「消尽(consumation)」と呼び、非生産的な消費を生の直接的な充溢と歓喜をもたらすもの(蕩尽)として称揚したフランスの思想家・作家ジョルジュ・バタイユの考え方とも相通ずる現象解釈といえる。

http://i.impressrd.jp/e/2008/04/18/500


インスツルメンタル(化)


コンサマトリー(化)の対義語はインスツルメンタル(化)とあるが、このインスツルメンタル(化)こそ、明治期から高度成長期くらいまでの日本人の主要なメンタリティーであり、『空気』であった。そして、社会も中間共同体(会社等)もこのメンタリティーを一種の道徳として、同調圧力をもって強要した。『車を買うために、家を買うために、子どもをいい大学に入れるために、老後の蓄えをつくるために、会社が大きくなって安定するために・・・』皆のマインドはどこまで行っても手段、また手段だ。


その結果、日本人の貯蓄率は他国を圧倒して高くなった。老後に備えて蓄え、老後にも節約し、死ぬ時に、たしか平均2千万円くらい(正確な数値ではなく多少曖昧な記憶ではあるが)を残して死ぬ。(イタリアではほぼゼロ、すなわち、老後を楽しむために使い切るという話を聞いた記憶がある。)こんなメンタリティが骨の髄までしみているのが『おじさん』たちだ。



バブルを期に正反対の方向へ


この『おじさん』たちも、バブル期には人が変わったように消費した。個人的な感想を言えば、これはコンサマトリー(自己充足的)というより、ジョルジュ・バタイユのいう蕩尽(非生産的な消費を生の直接的な充溢と歓喜をもたらすもの)の方がより近いように思える。バブルという時代は、まさにお祭りで、堰を切ったように今まで押さえつけられていた欲望が溢れ出し、皆が日常を忘れて狂ったように消費に耽溺した。


バブルが破裂した当初は、これまでのように経済を成長させていればまたバブルは戻って来ると『おじさん』たちは比較的楽観的だった。ところが、戻って来るどころか日本経済はどんどんおかしくなって、経済指標も悪化の一途をたどる。それを見て、『おじさん』たちもやっと我に返る。ふと周囲を見ると、中国や韓国のような新興国が強力なライバルとして浮上してきて、このままでは日本経済は奈落の底に転落してしまいかねない。俄然、インスツルメンタルなメンタリィがよみがえり、若者に対して経済成長を煽ることになる。このままでは日本人は再び貧困に沈むことになる。結婚も子育ても持ち家もできなくなる。だから、今を犠牲にしてでも猛烈に勉強して、猛烈に働いて、グローバルな競争で遅れをとらないようにしないといけない。そんなことは当たり前だろうとばかりに『おじさん』たちの信念は非常に強固で妥協の余地はない。


つまり、若者たちはバブル期以降、『おじさん』たちの路線からは降りて、『身近な幸せに幸福感を見いだすこと』を始めたのに対して、『おじさん』たちはむしろ、インスツルメンタル・マインドを再度強化しようとし始めた(本当にそうなのかって? そう思うなら『おじさん』の中の『おじさん』の集まりである経団連に注目して、会長始め会員企業のトップの発言の数々をチェックしてみるといい。きっと私の見解に納得してもらえると思う。)つまり、バブル期以降、若者と『おじさん』たちとはそのマインドにおいて、正反対の方向に向かったことになる。これでは両者が交わることは、それこそ『絶望的』に難しいだろう。そんな『おじさん』たちから見れば、若者は、イソップ寓話『アリとキリギリス』のキリギリスに見えてしまうはずだ。『今さえよければ』というようなことでは、やがて冬がくると困ることになるだけなのだから、もっとアリのように働けと言いたい『おじさん』は多いはずだ。



『おじさん』のマインドの限界


では、客観的にみて、どちらが正しいのだろう。あるいは、この両者のバランスをとるような折衷案などあるのだろうか。正直この問に答えることは簡単ではない。だが、あえて言えば、私は若者ほうに、やや時勢の理があると思う。若者の基本的なスタンスをベースに、もう少し普遍性のあるモデルに昇華させていくことを模索するのが現実的だと考える。少なくともインスツルメンタル・マインド一辺倒には無理がある。そう考える理由は3つある。



1. もう額に汗するだけでは夢は叶わない


『おじさん』が強固に維持するインスツルメンタル・マインドが最も機能したのは、欧米という目標があって、得意な製造業で、『追いつけ追い越せ』と頑張っていた時代だ。成熟した今の日本では、いくら歯を食いしばって働いても、これ以上賃金や生活が向上するとは限らない。相対的にコストの安い海外に工場が移転することを押しとどめることも難しい。そもそも、もう、『汗』よりも『知恵』がなければ付加価値を増すことはできない。



2. 幸福になれない


インスツルメンタル・マインドに駆り立てられるほうが、人は働くかもしれない。長時間労働にも耐えるかもしれない。富国強兵や高度成長には機能したことは確かだろう。だが、インスツルメンタル・マインドは言い方を変えれば、『飢餓意識』だ。どこまで行っても満足できない。自分を常時他人と比べて、いつも不満と不安を持ち、その強迫観念を経済成長のエネルギーへ転化する。しかしながら、歯を食いしばって働くことで多少なりとも経済的に豊になったとしても、いつまでたっても満足度/幸福度は上がらない。


しかも、将来のために(将来出世するために、家を買うために)『今、ここ』にいる仲間や家族を犠牲にする/軽視するのは、特にこれからは、見合わない。会社はいつなくなってしまうかわからないのだ。会社の仕事だけではなく、家族や社会もバランスよく重視する姿勢のほうが幸福を長期的に維持できる可能性は広がる


また、日本人は、アリとキリギリスの寓話を、『アリのように将来の危機の事を常に考え、行動し、準備をしておくのが良い』ということを語る教訓と読むが、一方、この寓話には、『アリのように夏にせこせことためこんでいる者というのは、餓死寸前の困窮者にさえ助けの手を差し伸べないほど冷酷で独善的なけちであるのが常だ』という寓意もある。今の時代には、アリのようにせこせこためこんでも、世の情勢が急変して自ら困窮者の立場に転落してしまう恐れもおおいにある。そうなったら、アリのように餓死寸前の困窮者を助けなかった、独善的なけちには、誰も助けの手を差し伸べてはくれないだろう。



3.将来見通しに固執することのリスク


インスツルメンタルであるためには、ある程度見通せる将来があることが必要だ。ところが、これからどうなる、という、正確な将来の見通しを持つことは、今や誰であっても難しい。天才であってもだ。だから、将来見通しを持つのはいいが、そんなものはすぐにでも変わってしまっておかしくないくらいに考えておく必要がある。ビジネスで成功する秘訣も、どんなチャンスが来るかわからないから、何が来てもよいように『今、ここ』に最大限集中し、いざチャンスが来たら、そのチャンスを逃さずに全力を注ぎ、成功へと導くような姿勢が求められている。『将来はこうだから、今から何々をやって備えておく』ことは否定しないが、過度にコミットしてしまうような柔軟性のなさは命取りになりかねない



高次のコンサマトリー


それでも尚、『おじさん』は『コンサマトリー』の例を聞くと、『享楽的』『刹那的』というような、『反道徳』を想起してしまいがちだ。無理もないこととも言える。特に、現代の若者がSNSで意義ある討論を行うでもなく、だらだらと単なるつながり(つながりの社会性)に耽溺しているように見える様(典型的なコンサマトリーの一つ)には我慢ならないという人も多いだろう。


私が思うに、『コンサマトリー』にも段階があって、家族やごく近い仲間とだけに閉じて、場合によっては刹那的とも享楽的とも見える段階の上に、もう少し広いコミュニティ(あまり広げ過ぎはしないが)のために、今ここでできることに全力を尽くす、というような、高次の段階があるというべきだろう。


実際、古市氏も、『今、ここ』を大切にする若者たちはまた、社会変革の可能性も考えているようだという内閣府の調査によれば、『社会のために役立ちたい』と考える20代は2013年で66%もいて、調査を開始した1975年以来最高の数値なのだそうだ。現代の若者は、他人と競争するよりも協調することを好み、身近な仲間たちとの関係を何よりも大事にするという。『今、ここ』で暮らす自分や仲間を大切にして、自分たちが生き易い環境をつくろうとすることが、抽象的な革命や一瞬のお祭り騒ぎで終ってしまうような『政治』より、余程社会を良くすることに寄与するという意見には、私も基本的に賛成だ。


古市氏はまた、『おじさん』は『今ここにないもの』に過剰に期待してしまい、『今ここにあるもの』に潜んでいるはずの様々な可能性を見過ごしてしまっているという。これはとても大事な視点だと思う。『今ここにあるもの』に潜む様々な可能性を最大限に生かして行くという意味での『コンサマトリー』にはよりレベルの高いやりがいと満足感がついてくるだろうし、これからの時代に社会を良くする秘訣も潜んでいると考えられる。



元『おじさん』に期待


古市氏の定義では、『おじさん』とは『いくつかの幸運が重なり、既得権益に仲間入りすることができ、その恩恵を疑うことなく毎日を過ごしている人』で、人は今いる場所を疑わなくなった瞬間に誰もが『おじさん』になるという。だから、そんなおじさんには、実は性別や年齢は関係ない。『おじさん』は自分たちの価値観を疑わない人のことであり、今の日本はそんな『おじさん』だらけだ。社会を変えること=『おじさん』が変わることなのに、確かにそれはものすごく難しそうだ。だから、日本の未来は、このままでは古市氏の描くような未来になる可能性がかなりあるように私にも思える。


ただ、年齢にかかわらず、『おじさん』になることを敢然と拒否する少数の人達はこの日本にもちゃんと存在すると信じたい。そんな人達もまだ、コンサマトリー/インスツルメンタルの思想対立には必ずしも決着をつけていないように私には見える。だから、せめて、私が指摘した、インスツルメンタル・マインドの限界については(必ずしも賛成ではなくても)、自分の頭でじっくり考えてみて欲しいと思う。自分を疑いはじめた『おじさん』は古市氏の定義では『おじさん』ではなくなるので、元『おじさん』とでも呼んべばいいのだろうか。今の日本を本当に変えることができるのは、そんな元『おじさん』だけだ。少なくとも私はそう思う。

*1:

だから日本はズレている (新潮新書 566)

だから日本はズレている (新潮新書 566)

*2:

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち