『ケータイ小説的』に喚起される多くの気づき
■若者像の把握のしにくさ
現代の若年層の本当の姿を把握することは、正直なところ本当に難しい。専門的にフィールドワークや調査をする訳ではないため、自分の周囲から得られる情報程度では、どうしても限界がある。それでも、関心を持って情報収集につとめていると、ある程度の情報は集まってくるし、面白いことに、若い人たちにも、会える機会が増えて来たりする。ところが、今度はその集まった情報がなかなかうまく分類整理できない。あまりの多面性に困惑してしまうのだ。
特に私が戸惑ったのは、ケータイ小説の爆発的な流行とともに浮かび上がるそのケータイ小説を支える大きなセグメントだ。若年層の傾向についてある程度スタディが進むと、共通する性向として、対人接触に際してしばしば病的と思えるほどに繊細な様子が浮かんでくる。それは、自然と引きこもりやオタクをイメージするのに結びけることができる。だから、『一億総オタク化』というのは、案外うまい言い方で、時代を現す象徴的な表現であると本当に思っていた。しかしながら、一方で、ケータイ小説の作者、読者層、実際の小説の内容等を見ると、どうしても自分の持つオタクの典型的なイメージとは重ならないことに気づかざるを得ない。両者に共通点があることは確かなのだが、この違和感は何だろう、と思っていた。
その私の疑問に対する、非常に鮮やかな回答として出会うことになったのが、速水健朗氏の著作、『ケータイ小説的』*1だ。対人恐怖とも見える人間関係における繊細さ、ケータイ依存症とも見えるケータイによる仲間との断続的な接触、私的空間の広がりと公共性の減退等共通の、但し他の世代とは明確に違う母集団を構成しながら、そこには所謂オタクとは一線を引けるセグメントがある。しかも、ケータイ小説の販売実績*2に見るように、非常に大きな集団を構成しているようだ。その集団の特徴を、速水氏は下記のようなキーワードによって説明している。
浜崎あゆみ ー 笑わない歌姫たち(山口百恵、中森明菜、安室奈美恵) ー ヤンキー*3 ー リアル系(情緒の無さ、ストレートなメッセージ) ー 本音の言葉/情緒が苦手 ー 相田みつを*4 ー 東京の欠如(東京に行かない) ー 電車に乗らない ー サラリーマン不在 ー 地元つながり ー 成熟願望(子供ではないというアピール) ー カタカナ職業への憧れの無さ ー 男性中心 ー 女性の阻害 ー ドメスティックバイオレンス/デートバイオレンス*5 ー アダルトチルドレン*6
この一連のキーワードが実に見事にケータイ小説セグメントを活写しているではないか!
■オタクとヤンキーは違う!
この分析、『オタク』に『ヤンキー』を対置してあることろが出色で、このヤンキーで説明されることによって、多くの疑問が解消する。(『ヤンキー』というキーワードがどこまで市民権を得て、一般に通用する言葉なのかについては自身がないが、少なくとも90年代には比較的ポピュラーな存在だったと考える。)
中でも、決定的な違いは、オタクが『大人になることを忌避する人たち』とされるのに対して、ヤンキーは『成熟願望を持って子供ではないことをアピールする人たち』であることだ。 私は、日本のオタク大発生の背景には、戦後急速に増えた過保護で、非常に長い母子密着の心地よさに遠因があると考えている。(これは、正高信男氏の著作、『ケータイを持ったサル』を主として引用させていただいた、私のブログ変貌する若者たち(後編) - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る にまとめておいた。) 興味深いことに現代のヤンキーは、ドメスティックバイオレンスやアダルトチルドレン、すなわち幼少時代から親から正当な愛情を受けられなかった人たちが多いのではないかとする速水氏の分析が正しいとすると、『過保護→オタク化』、『虐待/冷遇→ヤンキー』、という対比になると考えられる。断定はできないがリアリティのある仮説だ。
また、『自分探し』『ニート』に対する好対照なヤンキーの労働観というのも、実に興味深い指摘だと思える。
P141
就職に対し、自己実現のための手段であるといったような、優等生的な思い込みはしていないのだ。つまり、ここに見られるヤンキー像とは、『自分探し』『ニート』などという言葉とともに語られる、モラトリアムに生きる現代の都会の若者像とは好対照な存在としても見ることができそうだ。
岸本裕紀子氏の『なぜ若者は「半径1m以内」*7で生活したがるのか?』に幾つか紹介される、若者の行動様式、すなわち、職人を目指す若者、地元大好き、『和』の世界への憧れ、などはまさにこのヤンキーの行動様式ということではないのか。一方、若い男性の車離れなどは、主として都会のオタク系の性向と考えられる。当初この著作を読んだ時には、とても戸惑ったものだが、オタクに対して、ヤンキーというもう一つの存在を前提とすると、すっきりと理解できる。
その意味で、私は速水氏の著作の説明は実に納得のいく、切れがよいものだと思う。そして、今一度、若年層の行動特性をよく振り返って研究してみようという意欲をかき立てられる。だが、不思議なことに、オタク分析が世に溢れているわりには、ヤンキーのことがあまり語られていないのは、いったいどういうことだろう? ヤンキー文化が速水氏が指摘するような、『被差別文化』かどうかはわからないが、確かに、もっと研究されていいテーマだと考える。
■地域社会の守り神 ヤンキー
そして、もうひとつ考えさせられたのは、ヤンキーによる地方共同体再活性の可能性だ。私自身も、地方共同体の解体の進行という基本理解を持っている。これは、90年代に宮台真司氏が指摘した、地方の共同体の解体、地域性の衰弱論に基づくものだ。ところが、ゼロ年代以降の郊外化には、一方的に解体される共同体という構図とは違った姿が見られるようになっているという。
そして、社会学者の土井隆義氏の説として、以下のように語られている。
P135〜136
最近の若者に見られる、「生得的な属性への思い入れの強さ」と携帯メールが、「地元つながりを維持」していく装置として機能しているからだという。つまり、携帯電話の普及が、郊外化という現代の兆候に変化を与えているのだ。大きな流れで言えば、宮台が指摘するように、「大きな物語」が消滅し、共同体は解体され、郊外は流動化するという流れは否定できないものであるだろう。しかし、一方で新しい『地元つながり』が維持され、再生産されるベクトルもうまれているのだ。
これを読んで、私は、以前私のブログでの紹介した、国際大学グローバルコミュニケーションセンターでの研究のことを思い出した。ここでも、インターネット(含むケータイ)を介することによる地域コミュニティーの活性化について研究されているが、速水氏が、『ヤンキーの聖地回復』と規定する、地元つながりの活性化現象は、国際大学の研究の実りある成果を予感させる兆候になるかもしれない。グロコムのセミナー「人のつながり」の理論と社会・インターネット - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る
このように、現代の深刻な問題の幾つかに対する、一つの回答の可能性という意味でも、『What is Y-a-n-k-e-e ? 』を私もテーマにして探求してみたい。
*1:
*2:2007 年にヒットした主なケータイ小説は、美嘉「恋空-切ナイ恋物語-上・下」が 207 万部、メイ「赤い糸 上・下」が 100 万部、美嘉「君空」が 54 万部、凛「もしも君が。」が 40 万部と驚異的な売れ筋が並ぶ(日本出版販売調べ;2008 年 1 月末現在
*4:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E7%94%B0%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%92
*5:DV(ドメスティックバイオレンス)の知られざる恐るべき実態
*7: なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか? (講談社+α新書)