『行動経済学』雑感


行動経済学』の広い影響範囲


行動経済学』は今ではすっかり市民権を得ていて、次々と提示される興味深い理論や実験結果は多くの注目を集めている。私も、ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞を受賞して行動経済学への世間的な関心を一気に高めた、ダニエル・カーネマンの著作はもちろん、古くは行動経済学の始祖、ハーバート・サイモン著作に至るまで、関連図書はこれまで何冊か読んで来た。


自分自身が経験してきた、マーケティングや、商品企画あるいは人事労務と言った領域にも幅広く応用が効くであろうことは最初に関連図書を手にした時から感じていたし、実際、今ではこれ以外にも様々な領域で利用され、また影響を及ぼしている。行動経済学から派生した、行動ファイナンスとか、行動ゲーム理論等の研究成果も、それ自体非常に興味深い展開が見られる。


例えば、以前ご紹介した例だが、IT業界における新興のベンチャー企業/スター、トアップ企業において、企業やサービスを急成長させる仕掛け人である『グロースハッカーと呼ばれる人達の手法など、行動経済学と密接な関係があることが指摘されている。そして、TwitterFacebookDropbox等を含め、わずか数年で数億人のユーザーを引きつけるようなシリコンバレーの企業の背後には、必ずこの『グロースハッカー』の存在があるといわれている。彼らの手法は、既存の大企業の手法と比較すると全く異質で、宣伝広告等にはほとんど費用をかけず、ビジネスモデルや具体的なサービスの仕組みについて仮説を立て、小規模なユーザー相手に実験的にその仮説に基づいたサービスを提供して、その結果を計測して効果を検証する。そのプロセスを短期間で繰り返して、最適な機能や手法を掘り当てる。まさに、『行動経済学』と同様のコンセプトを実際の市場で実践してその成果を実証している人達と言える。
『グロースハッカー』/世界を震撼させる魔法使いたち - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る



行動経済学』を学ぶ価値


企業は内側に従業員を抱え、外には顧客に相対し、株主等のステークホルダーに囲まれている。本来、人間の行動原理を知り尽くしたプロの集団であるはずだ。ところが、実際に何社かの企業で勤めた経験で言えば、大抵の企業は、とてもではないがプロと呼べるレベルにあるとはいいがたい。特に個人の価値観もライフスタイルも急激に変化している現代ではその傾向が著しい。


中には、レベルの高い知見を持つ個人もいないわけではないが、大抵は企業内の『バカの壁』に阻まれて、はかばかしい成果を上げていないケースが多い。かつての日本企業には、その企業に全人格的にコミットしていれば、自然に身につく『暗黙の了解』のようなものがあったものだが、昨今それがうまく機能しなくなってきている。その場、その時毎に異なる『限定合理性』を実践的に見つけていく知恵は必須になって来ているように私には思える。そういう意味でも『行動経済学』のような、本音の人間の行動原理を探求する学問やその実験方法を学ぶ価値は非常に大きいと思う。



リスク


ただ、最近、やや気になることもある。しばし『リアルな人間の行動を解明』しようとする企業の動機が、どうしても、人の行動を隠れてコントロールしたり、支配しようとする態度を誘発し、助長する傾向が見られることだ。仮に企業にそんな意図がなかったとしても、外側からはそのように見られがちだ。昨今のように企業活動が世間からも従業員からも監視され、内部告発も珍しくない中、このような姿勢が見えてしまうこと自体のリスクは大きく、時としてまったくの逆効果になりかねない。せっかく人間の行動を解明しても、一方で人間の不安な心理を煽って態度を硬化させてしまうようでは、本当に人間の心理を理解しているとはいいがたい。



公共政策に成果を出す『行動経済学


そういう意味では、『行動経済学』自体、もっと公共的な問題に積極的に取り組み、社会的な課題解決に役立つところをアピールしたほうがよいのではないかと以前から考えいていたが、最近出版された、『その問題経済学で解決できます』*1という本は、特にその点で好著だし、内容的にも非常に面白い。貧しい子供の教育、女性やマイノリティの差別の解明と対処法、恵まれない子供への寄付を増やす方法等、縦横無尽に効果的な策を見つけ出して、課題を解決していく。


ただ、中には、退学比率が非常に高い公立校に通う貧しい生徒を学校に通わせるためのインセンティブとして、成績が上がれば金銭を渡したりするような、日本の教育現場で実践したら、非難囂々となってしまいそうな事例もある。特に、規範的な言説が支配的で、かつ、少しでも怪しげなものは徹底的に排除しようとする不寛容さが社会の全域に及んでいる今の日本では、この手の『現実主義』が受け入れられる余地は少なそうだし、どちらかといえば大きな反発を招きかねない。日本における『行動経済学』やその影響下にある学問領域が、成果の割に今ひとつメジャーになりきれないのも、今の日本人の気質や空気と整合しにくいところにも一因があるのではないか。


とはいえ、ネットサービスの場は、すでに巨大な実験場と化していて、日々実験結果が積み上がっているともいえるし、今以上の試行錯誤が要請されてもいる。学問としての経済学における『行動経済学』の評価がどうであれ、実務家としては『行動経済学』の成果には引き続き注目していくべきだし、そのメリットは大きいと思う。

*1:

その問題、経済学で解決できます。

その問題、経済学で解決できます。