時代の潮目の変化と備えておくべきこと

東浩紀氏の語りで気になったこと


思想家の東浩紀氏が主催するゲンロンカフェでのイベントはネット配信されていて、有料であれば全て視る事ができるが、7月の配信プログラムにつき東氏自身が解説をしていて、この動画がものすごく面白い。プログラムの説明もそこそこに、最近の世の出来事につき思うがままに語る東氏は、破天荒だし、コミカルだし、ハチャメチャだが、一方でとても深い。大変印象的な思考の断片をたくさん拾い集めることができる。せっかくなので、その中でも、今回私が特に気になったトピックについて(その断片に私なりに肉付けした上で)、若干のコメントを書き残しておこうと思う。



スマートモブ


2000年代の初め頃、 作家のハワード・ラインゴールドは、彼ので著書*1で『スマートモブズ』という概念を提唱した。 モブ(mob)とは「群衆、 大衆、暴徒」といった意味で(『スマート』といっても、必ずしも肯定的な意味ではない) そのような人々が、携帯電話やインターネットといった情報技術を使って活動し、ビジネスや政治に影響を与えることをライン ゴールドは指摘する。



マルチチュード


2000年代の半ばには、アントニオ・ネグリマイケル・ハートネグリ=ハート)による著書、『マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義』*2が出てきて、グローバル空間を自在に往来する資本の流れの中、国民国家経済の枠組みでは捉えることができないグローバルな主権/資本主義システム=<帝国>の支配下にあってこれに対抗するすべての人々のことを、『マルチチュード』という政治概念(最初は、マキャベリが使用し、その後スピノザも用いた概念。『群衆』『民衆』『多数』等の訳語があてられる)によって再定義する。この『マルチチュード』は情報技術によりパワーアップされた存在であり、『スマートモブ』とは完全に重なり合うわけではないが、同類型の概念といえる。



アラブの春


だが、そのような『群衆』が実際の政治を目に見えて動かすようになるには、2000年代後半以降の、FacebookTwitterに代表されるソーシャルメディアや、iPhoneやアンドロイド等のスマホの本格的な普及を待つ必要があったが、2010年代になると、機が熟したかのように、世界的に活動が活発化する。その皮切りは、2010年から始まる、いわゆる『アラブの春』だ。チュニジアの暴動(ジャスミン革命)を手始めに、アラブ世界全体を広く巻き込むことになるこの暴動の連鎖は、実際に独裁者を政権から引きずりおろし、アラブ世界を超えて世界的に波及する勢いを見せる。この『アラブの春』を起こした『群衆』はフェイスブック等のソーシャルメディアにより連絡を取り合って連帯しており、まさに情報技術に駆動された新しい『群衆』だった。



ウオール・ストリート〜中国、そして世界へ


2011年秋には、ウォール街近くのズコティ・パークを数百人の若者が占拠して始まったこの活動は、『オキュパイ・ウオール・ストリート』と命名され、ウオール・ストリートを超えて、全米はおろか全世界に波及し、全米100都市、全世界で1500都市で同様なデモ行進が行われることになった。


FacebookTwitterを表向き禁止していた中国でも、中国版Twitterともいうべき、ウエイボーはあっという間に、2億人とも3億人ともいわれるユーザーで膨れ上がり、情報統制が緩んで各地の暴動や騒乱の情報は国外に流れ出し、共産党一党独裁の終焉さえ思わせる盛り上がりを見せることになる。『動員の革命』は世界中を巻き込み、世界がもっと自由で住み易い場所になるのではないか、という期待は確かに盛り上がった。



急速に萎んだ年


だが、2013年に入ると、あれほど全世界に波及していたはずの、インターネットに駆動された活動は、急速に萎むことになる。気がつくと、ロシアによるクリミア編入やら、イラクでのアルカイダ系組織台頭による国家分裂の危機など、非常に旧式の、20世紀的な騒乱が世界を覆うようになってきた。まるで歴史のネジが大きく巻き戻されたかのようだ。2013年には、日本でも、インターネットによる政治改革や社会改革の盛り上がりが急速に萎む年になったが、東氏が指摘するように、これは世界的な潮流といって間違いなかろう。



当たり前の現実


サイバー空間の拡大や、『スマートモブ』の増大は、人々を国家や独裁者という抑圧から開放し、自由と自主独立が花開く世界を本当に実現するという夢を人々に見せた。しかも、その夢は、完全な自由を求めるリバタリアンにも、独裁者からの開放を臨む民衆にも、金融を支配するエリートに反発する一般大衆にも、政治的な左右に関係なく共有されていた。だが、皆、一斉に目を覚まさせられた。自由が花開く社会を構築するには社会の抑圧的な勢力を除けばすむというものではない、という当たり前の現実を突きつけられたのが、2013年だったといえそうだ。


東氏は、『もうインターネットが社会を変える』というようなことは言えなくなってしまったと嘆く。私も、インターネットによる『動員の革命』が政治を一気に良い方向に変える、とか、インターネットのパワーを利用して旧勢力の抑圧を取り除けばそれだけで社会に自由が花開く、というような『ナイーブ』な期待にはここらあたりで、一旦終息を宣言することはやむをえないと思うようになった。



それでも世界は変わっている


だが、これまでがどうあれ、インターネットを始めとした情報技術等の進化は世界を今も変え続けているし、今後もっとドラスティックに変えていくことはもはやまちがいない。


例えば、ちょうど、米ベンチャーキャピタルKhosla VenturesのKV CEOサミットで、Googleの創業者であるラリー・ペイジ氏とセルゲイ・ブリン氏がVinod Khosla氏のインタビューを受ける映像が公開されていて、Googleの頂点に君臨する二人が思うがままに未来(5年〜15年)を語る様子が非常に印象的だが、自動運転車が実現することで訪れる駐車場も自動車の所有も渋滞もない世界、思考するマシンが既存の仕事を肩代わりする世界など、もはや絵空事でも何でもなく、すでに訪れることが確実な未来であることがひしひしと伝わって来る。

Fireside chat with Google co-founders, Larry Page and Sergey Brin | Khosla Ventures

ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン、Googleの原点と未来を語る - ライブドアニュース



動員し、破壊するだけでは、世界を本当のところ変えることも救うこともできないが、一方、自分が大切にする『価値』を明確にかかげ、アルゴリズムを案出しコーディングできる能力のある個人(組織)は、実際に世界を変えてしまう。それが本当に良い世界かどうかは別として、だ。


いずれにしても、すでに賽は投げられていて、好むと好まざるとにかかわらず、世界は激変する。その大きな潮流に翻弄されたくなければ、意図をもって準備し、備えなければいけない。『動員』の勢いの背に乗っているだけではもうどうにもならないと覚悟を決める必要がある。



備えるべきこと


でも、どう備えればいいのか(このあたりは、東氏の語りとは何ら関係なく、私見であることはお断りしておく)。


第一に、あらためて、自分がどのようなライフスタイル、社会、政治を求めているのか、思索し問い直すことが不可欠だ。自由にフリーハンドでそれを描ける環境になっても、このイメージが貧困だと、結局、昭和や明治の頃の型に先祖帰りするだけになったりする(今、多分にそういうことが起きていないだろうか)。


第二に、人的ネットワーク、コラボレーション、コミュニティ、どう呼んでもかまわないが、意識的に自分に最適な人間関係/環境をつくる努力をしておくべきだと思う。ただ、これは、第一のステップの後であることが非常に重要だ。そうでなければ、結局居心地が悪くなって飛び出してしまうことになるだろう。


第三に、スキルの習得だ。但し、ここでいうスキルは、人工知能/コンピュータの得意不得意を知り、できれば使いこなせるスキル、少なくとも住み分けることができるスキルのことだ。


そして、何より、この三つを全てカバーすることが不可欠だ。どれかに偏り過ぎてはいけない。自分なりの最適ミックスをいつも意識して行くことが肝心だ。そして、具体的な中味は状況に応じて変化させる柔軟性が望まれる。



仕込み期間


何だか上から目線の紋切り型の語りになってしまって気恥ずかしいが、これは自分自身の覚悟を述べたものともいえる。今の日本では有数なトレンドセッターである東浩紀氏にして先行き不透明な現代を乗切るのは誰にとっても大変だ。東氏は、今は『ポジ出し』が難しい時期だという。確かに、何かを始めるのが難しい時期であることは私も感じる。そんな今は雌伏して準備に取り組むべき時だ。しばらくの間『仕込み期間』と腹をくくって、準備することが必要な時期なのだと思う。そして、今の準備は遠からず、必ず実を結ぶに違いない。

*1:

*2:

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)