『食』で読み解く日本人の政治意識/速水健郎氏の一連の著作を読んで

何も変わらなかった日本の政治


先日の東京都知事選は舛添要一氏の圧勝で終った。神奈川県民の私は選挙権があるわけでもなく、また積極的に応援したい候補がいたわけでもないから、正真正銘の傍観者なのだが、それでもそこに日本の政治における変化や希望の兆しをほんのかけらでもいいから見つけたいと思い、祈るような気持ちで見守っていた。


だが、残念ながら、私にとってほとんど何も得るところはなかった。結局日本の政治が『55年体制*1の頃に先祖帰りしたことを再確認しただけだった。日本人はイデオロギーも政治運動も基本的には嫌いで、経済を安定的に維持してくれる保守と、その保守が行き過ぎたときに少しお灸をすえてくれる、政権には野心のない野党がいればそれでいい。そして、何より、政治のような面倒なことには、すべて専門家におまかせして自分は考えないですましたい。こんな日本人の基本的なメンタリティは長い(20年にも及ぶ)『政治改革ゲーム』を経ても何ら変わらなかった。(いや、公平に言えば、田母神氏の若年層の支持ぶりを見ると、単に右傾化が進んだという以上に、自民党支持者とは別の新しい保守勢力が生まれているという実感はあり、これは新しい潮流というべきかもしれない。)


そもそもそれでは(55年体制では)もうダメだ、という前提で、一連の政治改革は進んで来たはずだったのに本質的な問題は何一つ解決できないままだ。それなのに、日本人が一番得意とする旧来の解決方法がいつのまにかまた支配的になってしまっているように見える。すなわち、『皆で問題は何もなかったように振る舞えば、問題が皆の視界から消えるから、さも問題がなかったかのように、再び元の日常がかえって来る』というわけだ。


だが、それで万事解決なのか? もちろんそんなことはない。このままでは本当にカタストロフィー(大崩壊)がやって来かねない(国家/地方政府の破産、国債の暴落等)。どう表面を取り繕ったところで、水面下で起きている『事実』を押さえこんだまま『建て前』だけでそう長く国を維持できるとはとうてい考えられない。では、どうすればいいのか。もはや手を拱いているしかないのか。



日本の政治意識のモニター


正直、私にも明確な答えはない。ただ、一つだけ確信を持って言えることは、どんなに霧がかかっていても、というより霧が濃いからこそ、日本人の政治意識の本音をきちんとモニターし続ける必要がある、ということだ。見えていなければ、解決の糸口は永遠に見つからない。しかも、表層的にではなく、本質的なところを押さえておく必要がある。その上で、日本の歴史をもう一度徹底的に勉強し直して、西洋からの借り物のイデオロギーではなく、この国を動かす力学の根幹を正味把握し直した上で、『日本人の政治意識の本音』と接続していくしかないと思う。だが、どうやってそれをモニターすればいいのか。


ちょうどそんな問題意識を抱いている時に、ライターの速水健郎氏の新著、『フード左翼とフード右翼』*2を読んだのだが、これは非常にタイムリーだった。この本で速水氏は、標準的な日本人は表向きは政治に感心がない風体で、自らの政治思想や政治選択を声高に語ったりはしないが、『食』については、自らの意志を明確にして選択(行動)するようになって来ており、この選択にははっきりと日本人の政治意識の反映が見て取れると指摘する。同様の言説は、以前出版された『ラーメンと愛国』*3でも展開されている。その意味でこの二著は兄弟作と言えそうだ。



旧来の意味とは違う


しかも、ここでいう『左翼』も『右翼』も、旧来の日本の政治シーンでイメージされていたものとはかなり違う。例えば、『フード左翼』は有機農法でつくられた野菜等を好むが、この生育にはコストと手間がかかり、高価だ。このような食物を継続的に選択できる経済力を持つことが『フード左翼』であることの前提となってて、しかも、それを主張をする集団はほぼ都市居住者に限られている。つまり、『フード左翼』の母体は、都市富裕層ということになる。旧来の共産主義者の定義では、そのような人種は、『ブルジョア』『高額納税者』『インテリ』の類いだ。毛沢東時代の中国、あるいは、ポルポト時代のカンボジアであれば、真っ先に粛正されてしまうはずだ。


『フード左翼』の『左翼』意識は、従来の左翼イデオロギーが引きずる『結果としての平等』とも『貧しさの平準化』とも無縁なようだ。どうやら、ここでいう『左翼』の定義は、ある種の『社会構築主義者』*4、すなわち、理想や 理念で社会が変革できると信じる人達のことであり、一方、『右翼』は、ハイエクに代表されるように、そのような人工的な構築は不可能と退ける人達、と理解するほうがすっきりしそうだ。さらには、速水氏が別の場所(ゲンロンカフェでの講演:速水健朗「フード左翼講座 〜消費と政治、その分かち難いランデブー)でも明らかにしたように、『フード左翼』の底流にある思想は、米国西海岸の『ヒッピーカルチャー』に代表されるような思想、さらには、いわゆる『カリフォルニアン・イデオロギー』として定義されるような、現在のシリコンバレーに集まる人種が標榜する思想に通じるところがある。



カリフォルニアン・イデオロギー


社会学者の鈴木謙介氏は著書『サブカル・ニッポンの新自由主義*5にて、この『カリフォルニアン・イデオロギー』について言及し、これは、あらゆる管理から逃れた真の自由や感性の全面開放を理想とするヒッピーの思想に、テクノロジーによる解法を目指すハッカーの思想が融合し、自由な情報空間と個人の能力の発現を求める思想として現代のネット技術発展を駆動してきたと語る。そして、そもそも『既得権益批判』が原点にあり、その思想が今に至るも貫かれているが故に、『カリフォルニアン・イデオロギー』をバックボーンに持つネット社会は怨嗟に満ちた『既得権批判』を生み出しがちであると指摘する。


日本の今の『フード左翼』は概して政治的なイデオロギーは語らないが、実際には身を以てこのイデオロギーを体現し、言外に主張しているとも言える。また、速水氏は、『フード左翼』はしばし、『リバタリアン的』*6と語る。そもそも『カリフォルニアン・イデオロギー』は、徹底した個人主義と自由な能力の発現を標榜するのだから、相通じるところがあるのも当然とも言える。


だが、鈴木氏によれば、『カリフォルニアン・イデオロギー』は、『個人の能力』の発露を至上のものと崇め、あらゆる既得権に攻撃を仕掛ける『新自由主義』の気分を形作っていくことになったとし、ここには、時間がたつと後続世代からは『既得権』『権威』と批判されてしまうような無限循環の構造が見られるという。確かに、昨今の、GoogleAppleFacebookなどを見ているとその指摘は正鵠を得ているように思える。



フード右翼


その『新自由主義』はいわゆる『グローバル資本主義』に通じているわけだが、90年代末以降の日本は、グローバル資本主義に対するアンチとして、当のネットの内側からも『右翼』『ナショナリズム』勢力が台頭してくる。いわゆる『ネット右翼ネトウヨ』だ。しかも、今では先に指摘した田母神氏を支持する新保守層の台頭に見られるように、単にネット内だけの問題ではないというべきだろう(そしてこの心情には、中国や韓国等の近隣諸国に対する日本の相対的な経済力の低下という背景もあろう)。だが、どこを探せばそのような動向を継続的にトレースすることが出来たのか、これからも出来るのか。これも日本人の『食』に顕現していたことを、速水健郎氏は、著書『ラーメンと愛国』で指摘する


速水氏は、90年代末以降の日本のラーメンは、かつてラーメンが持っていた中国的な意匠をはぎ取って、『日本の伝統』らしきフェイク(偽物、模造品)で塗り替えられていったと指摘する。この時期の日本の右傾化は、日本の本当のオリジナルでなく、『遊戯的』『リアリティーショー(番組)的』*7なフェイクと結びついたフィクションといえなくもない。だが、このフェイクであるはずのラーメンが、魅力ある日本の歴史や伝統を呼び起こそうとする意識の媒介者になっていることは否定できないという。

固有の風土や特産品を反映するものだという『ご当地ラーメン』という物語、大量生産ではない職人の匠が再評価されるラーメン職人の世界、復活した近代以前の風習であるのれん分け制度等々といった、日本社会が一旦は捨てたはずのさまざまな伝統や制度が再びラーメンの世界に浮上してきているように見える。
ラーメンにナショナリズムパトリオティズム(郷土愛)、地産地消、スローフードといった思想が入り込んでくるのも、一度壊れてしまった、流れが途切れてしまった歴史や伝統を、再び取り戻そうという意志なのだろう。

『ラーメンと愛国』 P262


ラーメンという表象がフェイクであっても、それを駆動するメンタリティの方は、日本社会の伝統や古い制度の持つそれであることは実に興味深い。ラーメンチェーン店で、作務衣を着たり、精神訓話的な張り紙が貼ってあったりというような事例がものすごく多いのは一体どういうことなのか、かねてから疑問を感じていたのだが、このように指摘されるとすごく自然に腑に落ちる。



日本人は語らないが食で体現する


今の日本人はイデオロギーは語らないが、有機野菜等の食を媒介として、西海岸的な思想、『カリフォルニアン・イデオロギー』を体現し、ラーメンを媒介として日本のナショナリズムパトリオティズム(郷土愛)を体現する。ほとんどの日本人が『自分は無宗教』といいながら、縁起をかつぎ、お盆には先祖の墓参りをかかさず、外国人から見ると非常に信仰心の篤い行動が日常に織り込まれているのとどこか似ていないだろうか。


『本音と建て前』ではないが、日本人は表層では語りきれず、理解もできない。日本人の本音の政治意識や政治思想を知りたければ、日常生活、中でも『食』に注目する必要があるという速水氏の視点には、実にリアリティがあるように私には思える。そしてそれは、西洋の借り物である、『民主主義』でも『共産主義』でも、『合理主義』でも読み解けない。日本の政治を諦めないためには、『急がば回れ』ではないが、従来の観点を少し(かなり)ずらして再出発することが必要なようだ。