米国型でも北欧型でもない日本独自のスマート社会のビジョン


2012年度 FTM 第4回グリーンテーブル


国際大学GLOCOM主催の、未来の技術と社会のための研究と実践を行う産学共同プログラム、「フューチャー・テクノロジーマネジメント(FTM)フォーラム(村上憲郎議長)」のラウンドテーブル(Green-Table)に参加してきた。今回が2012年度の第4回目の開催になる。またも大変遅くなってしまったが、感想を書いておこうと思う。

ラウンドテーブル(Green-Table) : FTMフォーラム


開催概要は、下記の通り。


日時: 2013年1月31日(木)18時〜20時30分
会場: 国際大学グローバル・ コミュニケーション ・センター
    (東京都港区六本木6-15-21ハークス六本木ビル2F)

概要

FTMフォーラムでは、2011年度の議論を踏まえ2012年4月に「持続可能なスマート社会づくりを急げ ― 電力改革をイノベーションの最重点課題に ―」という提言を行いました。この提言は、Green Tableと並行して開催されているRed Tableの議論が元になっています。Red Tableでは今年度も電力改革を中心とするテーマで提言を作成する予定です。
FTMフォーラム(Red Table)
ラウンドテーブル(Red-Table) : FTMフォーラム

プログラム

18:00 〜 「Red Tableのこれまでの議論とFTM提言がめざすもの」
       砂田薫氏(国際大学GLOCOM准教授/主任研究員)

18:15 〜 「前回までの議論の整理と今回の議論の位置づけ」
       庄司昌彦氏(国際大学GLOCOM講師/主任研究員)

18:35 〜 ディスカッション(予定)
       川崎裕一氏(株式会社kamado 代表取締役社長)
       玉置沙由里氏(MG(x)サロン主催)
       西田亮介氏(立命館大学大学院 特別招聘准教授)
       藤代裕之氏(NTTレゾナント株式会社 新規ビジネス開発担当)
       森永真弓氏(株式会社博報堂DYメディアパートナーズ
             i-メディア局 i-メディア戦略部
             メディアプロデューサー
             (兼) メディア環境研究所 上席研究員)
       庄司昌彦氏(国際大学GLOCOM主任研究員/講師)

19:45 〜 オピニオンメンバー・会場も含めた全体ディスカッション

20:30  終了



重要な役割を担うグリーンテーブル


このプロジェクトは、並行して進んでいるもう一つのラウンドテーブルである、レッドテーブルと2つのワークショップの合計4つの活動を軸に進められているわけだが、この機会に活動の全体像を見渡すと、グリーンテーブルの期待されている役割とその重要性があらためてわかってくる。来るべき『日本のスマート社会』における仕事、ライフスタイル、価値観等、具体的にはどうなっていくのか、どうあるべきなのか。どんな提言ができるのか。これをまとめていくのは並大抵のことではない。



議論は収斂しない


それでも、一昨年から、この内容を語るのにもっとも相応しいパネラーが選出され、日常の実感をそのままに、この場に持ち込んで議論を交わしてきた。そこでは、単なる建て前は通用せず、少しでも疑念があれば、容赦なく突っ込まれる。ただ、それだけに、皆の意見は簡単にはまとまっていかない。


残念ながら、というか、いつも通りというべきか、今回も論点が拡散して、提言がまとまったとはいい難い。パネラーから個々に出てくる現状認識や意見は、それぞれ新鮮で興味深いところも多いのだが、結局、語るべき課題がまだ沢山あり、問題も難解であることを再確認してしまったと言えなくもない。どうして、これほどまでに議論は収斂しないのか。最終回ということもあってか、今回はそのことが最後まで気になった。



モデルは米国型から北欧型へ


旧ソ連を始めとする東欧諸国の共産主義の崩壊以降、日本でも、米国型の市場主義、自己責任主義、低福祉低負担といった経済社会モデルのほうが優位であり、北欧型の高福祉高負担では労働者の意欲がそがれ、競争力が弱まる、というのが定説となった。日本や西欧諸国は、米国型と北欧型の中間に位置する中福祉中負担型だが、日本が西欧と違うのは、国家の代わりに企業に福祉の肩代わりをさせる、いわば『企業社会主義』とさえ言えそうな独特な形態だ。それは、企業が右肩上がりで成長している間は機能するが、企業業績が不安定になると途端に立ち行かなくなる。だから『失われた20年』の間、日本では、ずっと米国型への転換の可否や是非が議論されてきたと言える。


ところが、リーマンショックにより、米国型の問題点が一気に表面化し、加えて日本では3・11が起きて、環境や資源の制約/持続可能性が本来非常に大きな課題であったことを皆再認識するようになると、この点でも米国型に欠陥があることがはっきり意識されるようになった。さらには、米国発の多国籍企業である、アップル、google、アマゾンのような企業が、自国(米国)ではあまり雇用を生まず、税金も小額しか納めていないという事実が明らかになると、ますます米国型がお手本として据えにくくなる


そんなおり、競争力がないと言われていたはずの、北欧諸国の高福祉高負担/所得再分配施策は、競争力を削ぐどころか、経済の活性化に寄与していることがデータで示されるようになってくると、俄然、日本の今後目指すべき理想像に見えてくるのも無理からぬところがある。実際日本では、ここしばらくで、急に北欧の研究が盛んになった印象がある。他ならぬ国際大学GLOCOMでも北欧型モデルの研究に取り組んでいたはずだし、今回のグリーンテーブルの司会であるGLOCOM所属の庄司氏も、来るべき日本の社会のあり方として、都度、北欧型モデルを参照したり、紹介していた。



日本への導入は難しい


ただ、3・11以降の日本を見るにつけ、私には、日本には北欧型を導入することは難しいとの確信が深まってきた。北欧型というのは、何より税負担を重くし、大きな政府を持つことを前提とする。その政府は透明性が保たれ、効率的でなければならず、一方、そのためには、国民の民度も政治参加意識も高く、政府は厳しく監視されている必要がある。だが、大変残念なことに、日本ではまさに真逆だ。政治は不透明、非効率、それなのに国民は相変わらず依存心が強く、政治への参加意識は低い。そんな日本で北欧型を導入できるわけがないし、無理に導入したら、今よりもっと酷い機能不全を起こしてしまうだろう。


欧州はその過酷な歴史を経て、『近代的個人』を生み、政府は油断するとすぐに腐敗し、危険な存在になるという教訓を、いわゆる『悲劇を共有』しつつ国民が皆、胸に刻み、受け継いできた。だが、日本はそうではない。



世間は助けても社会は助けない日本人


以前も書いたが、極論すれば、日本の個人は『世間』の中に生きる個人であり、西洋的な個人は日本には存在せず、独立した個人が構成する社会など日本にはない。日本人にとって自分に関係ある世界は『世間』でありその中のルールやマナーは守る。しかしながら、自分に関心のない『社会』は無視する。税負担をあげてまで自分に関心のない『社会』を助けようとはしないのが日本人だ。このことは、統計数値にもちゃんと現れて来ている。自分の書いた記事で恐縮だが、以下、ご参考に引用しておく。


2007年に行われた調査(出典:「What the World Thinks in 2007」The Pew Global Attitudes Project)によると、『自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない』と考える人の割合が日本が世界でダントツに高いというのだ。(38%) 自由と自己責任を原則とするアメリカ(2位)でさえ、28%と日本が10%も上回っている。この数値にはさすがに慄然としてしまう。

社会を壊わしてしまわないためにこそ/『自助論』再考 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

歴史的な経緯の違い


特に日本人が怠惰で冷酷、というわけではない。単に歴史的な経緯が違い、社会に蓄積する常識感、いわば社会思想が米国とも北欧とも全く違うということだ。 例えば、歴史学者の與那覇 潤氏は著書『中国化する日本』で近世から近代、そして現代に至る日本の実像を鮮やかに描いているが、この本を読むと、日本人のほとんどが西洋の影響の下実現したと考えている明治維新も、実は『中国化』と呼んだ方が正鵠を得ていることがわかる。

そこに松平定信寛政の改革のように、部分的に中国式の処方箋として朱子学を公的な学問に指定し、科挙的な試験を導入すると、これが完全に裏目にでて、『徳さえ身についていれば身分は関係ない』『腐り切った日本は根本的に(革命的に)変えなくては国が滅びる』というような過激な思想を吹き込むことになる。その結果、中国化が濁流のように日本独自の近世(江戸時代)を押し流したのが明治維新ということになる。欧米化に目を奪われて見えにくくなっているが、天皇に政治権力を集中し、道徳的なイデオロギーに基づく正統性を強化する等、確かにこれは西洋的な民主化立憲君主制というよりは、明らかに中国化だ。日本近代史や日本思想史のプロの議論では、明治期の改革は西洋化以上に中国化としての性格のほうが強いという見方が主流だという。 

『中国化する日本』は日本の真の姿を見せてくれる - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る


このごとく、結局、社会が危機的な状況になると、歴史的な出自が全く違う欧米のイデオロギーより、日本の歴史を通じて日本人の意識の奥底に蓄積した秩序感のほうが表に出てきてしまうというのは私には当然のことに思える。



組織から個人へのシフト


では、グリーンテーブルのアジェンダ設定は、初めから無理筋で、長い議論も意味がなかったのかと言えば、そんなことはない。少なくとも私はこの議論を実に興味深く聞かせてもらったし、今後の参考にもさせていただくことができた。何故そう思うのか。


私は、今の日本の最大の課題の一つは、『組織から個人へのシフト』だと考えている。それはけっして西洋的な『近代的個人』のことを言っているのではない。日本人なりに、意識の焦点を組織から個人にシフトしていくことが必然に思えるのだ。『政治はお上を信頼してすべて任せる』『企業に入ったら企業人として一所懸命で頑張り組織の良質な歯車になることを目ざす』等、かつては、謙譲の美徳とさえ讃えられたこのような姿勢が、国家も、企業もすべてリセットが必要な今、何よりも大きな障害として立ちはだかる。現状維持に執心する中高齢者だけでなく、今だに多くの若者が、安定と終身雇用の幻想を振りまく大企業に入ることを第一に願う。これでは、幻想の先にある穴を深く大きくするだけであり、希望も何もない。


だが、そんな日本にも、組織に属しながら、和して同せず、自立した『個』として立ち、ソーシャルメディア等を最大活用して、優秀な『個』のネットワークを確立して、ビジネスにも成果をあげ始めている若者が出てきている。しかも、安直に自我を肥大させてしまうバブル長者のような怪しいタイプではなく、他者や社会との関係、仕事とプライベートのバランス、自然環境の保持等の重要性を自然に体得している人たちが少なからずいる。私の見立てでは、それは非常に良質で探求に値する資質といえる。グリーンテーブルで選ばれてきたパネラーにもそのような資質ある人たちがちゃんといた。



新しい日本人


彼らは(おそらく)、テレビをあまり見ない。新聞をほとんど読まない。ソーシャルメディアを通じて幅広いネットワークを持っている。社会やコミュニティの繋がりを大事にする。結婚しても共稼ぎが原則だから、職住は接近するだろう。必要を感じないのにブランド品を買って見せびらかすこともないし、海外旅行にもあまり興味がない。自動車は憧れの対象ではなく、機能を最低限満たしていればそれでいい。必要がなければ買わない。場合によってはシェアにもこだわりがない。こんな人たちが作る社会を従来の延長上や、欧米の既存のモデルで語ることが妥当だろうか。グリーンテーブルの場における議論が、結果として照射していたのは、そのような問題意識というべきではないか。とすれば、これを『言語化』することこそ、グリーンテーブルの最大のミッションというべきではなかっただろうか。



GLOCOMへの期待


もちろん、このような人たちはまだ日本社会全体でみれば、ほんのわずかであることは言うまでもない。だが、そのエッセンスは広く共有される素地は出来てきていると思う。いつの間にか無意識の奥底に生成されてきているものを言語化して、新しいモデル、新しい働き方、新しいライフスタイルとして意識にのぼらせることができれば、来るべき日本にとって、非常に有意義な貢献になるはずだ。だから、国際大学GLOCOMのスタッフには、せっかくここまで続けてきた試みを小さくまとめるのではなく、より大きくインパクトのある提言にまとめていくべく、更なるチャレンジを期待したいと思う。