環境保護でイメージ向上をはかる企業の落とし穴


高まりつつある環境保護への関心


断っておくが、私は、環境保護派である。しかも、年期が入っている。大学時代から、ゼミには環境問題を研究する先輩や同級生に囲まれ、自らもいくつかの課題に取組んだものだ。その後も長らく、この問題が世間でどのように取り上げられるのか見守って来た。だから、それなりに一家言あるつもりでいる。だが、熱狂的なイデオロギストでもなければ、教条主義的な思想には加担できない。それなりに経済発展とのバランスも考慮する現実派を自認してきた。


その私から見て、本当に世界的な規模で環境問題が日常の企業活動のレベルまで浸透してきたのは、比較的最近のことだと思う。様々な問題と議論はあるが、世論の『空気』が本当に変わって来たのは、『地球温暖化二酸化炭素犯人説』が有力となり、取組みが始まってからだ。だが、米国ではブッシュ前大統領が乗り気でなかったこともあり(あからさまに石油ロビーの利益代表という立場だった)、かなり出遅れた感があったが、オバマ大統領になって、不況対策とからめて、新エネルギー開発を明確に宣言してようやく、米国も政府レベルで意思統一ができてきたかに見える。環境破壊の進行から見て、もはや手遅れとする人も少なくないが、少なくとも世界世論の高まりは、おそらく第一次・第二次オイルショック当時以来と言ってよいと思う。原則好ましい傾向だと考える。



おかしな議論も多い


但し、大変残念ことに、現状をつぶさに見て行くと、実に様々な問題点が見えてくる。とても成熟した取組みとは言えないし、逆効果であったり、まったく的外れの議論も少なくない。そもそも、最近では、地球温暖化二酸化炭素犯人説』自体への疑念というのもあながち無視できなかったりする。

丸山茂徳 - Wikipedia
講義『地球環境問題と企業の取り組み』を聴講して - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る


ただ、この議論に深入りすると、どうしても、Pro(賛成)とCon(反対)の二項対立の図式にはまりがちで、特に専門家でもない私が語ったところで、あまり面白みもないだろう。そこで、今回は、世論の高まりとともに、『環境対応』を余儀なくされて、商品開発、マーケティング、会社のスローガン作り等にやむなく取組む企業の担当に、比較的語られていないが重要な留意点を喚起する、という視点で2点語っておこうと思う。



二酸化炭素低減だけ?


まず、二酸化炭素低減を表に出しすぎることの問題について。


最近は、環境保護=二酸化炭素低減、という図式が前面に出過ぎた結果、本来の趣旨から逸脱した議論が横行している。私は、『地球温暖化二酸化炭素犯人説』を否定するつもりもなければ、全面的に賛成するわけでもない。それでも、二酸化炭素低減が、『低エネルギー消費社会実現』とベクトルが大方あっている限りは、その活動は支持したいとは考えている。だが、例えば、二酸化炭素が出ないクリーンエネルギーとして原子力発電を推進する向きには、やはり疑問を持たざるを得ない


これも誤解されたくないので、明言しておくが、私は原子力を今すぐ廃止すべき、というような立場を主張しているわけではない。だが、現段階では、原子力発電が従来から抱えるリスクは軽減されたとは言えず、中長期的には縮小の方向を模索することがリーズナブルだと考える。(今はこの議論も深入りはしない。)一見二酸化炭素排出が少なく見える原子力も、原料であるウランの開発から運搬、精製への行程には膨大なエネルギーが消費される。しかもその多くは化石燃料。電力発電のタービンを回転させるところだけで議論することはそもそもおかしい。しかも二酸化炭素以外の環境への負荷拡大という意味では、比べものにならないくらい影響が大きい。仮に『地球温暖化二酸化炭素犯人説』が間違っていたことがわかれば、ただ意味も無く取り返しのつかない負の遺産を将来世代に渡って残すことになりかねない。前提は違うが、バイオエネルギーが注目が浴びた結果、主原料のトウモロコシ価格高騰が世界的な非難の的になったケースにある意味で似ているのかもしれない。


肝心なことは、総エネルギー消費の低減、エネルギー消費の効率化であって、それを前提としない二酸化炭素低減の議論は要注意だと思う。最近は、世界的に金融技術に対する風当たりが強いこともあってか、あまり前面に出てこない印象があるが、二酸化炭素排出権を一種の先物商品として(証券化して)、その結果国家的な原子力発電促進がはかられる、というような図式は、如何に一部に肯定的な側面があったとしても、やはり安易に賛同することはできない。特に、環境問題を企業のイメージ戦略にしたいと考えている企業は、ここのところは良く吟味したほうがいい。イメージ向上策のはずが、まったくの逆効果になりかねないリスクがある事は知っておいた方がいい。



環境保護だけ?


次に、環境保護=正義を主張しすぎることの問題について。


環境保護は、現代では非常に優先順位が高い問題との認識は、原則正しいと思う。だが、状況にまったく関係なく、絶対の正義というわけではない。著名な経済学者らが集められて世界の重要課題に順位付けを行う、コペンハーゲン・コンセンサス(2008年版では、子供への微量栄養素供給(ビタミンAと亜鉛)が1位。グローバル・ウオーミング関連(低炭素テクノロジー)は14位。)の結果を見ても、本来世界規模で取組むべき問題は、環境問題だけではないことは明白だ。むしろ特に日本にいると見過ごしにされがちな、子供の栄養不足とか、疫病対策等で埋まったリストを見ると、少なくとも私など、自分のバランス感の崩れに絶句してしまう。このコペンハーゲン・コンセンサスを立ち上げた、ビョルン・ロンボルグ氏には、環境問題の重要性から目をそらそうとしている等の批判も多いが、先入観を持たずに冷静に見れば、環境問題とて、様々な重要な問題の中の一つであるとの認識こそもっと必要なのではないかと思う。少なくともこういう多くの問題群の存在を忘れ、環境問題への関心を持って足れりとする態度は、知性と配慮に欠けていると見なされても文句は言えないのではないか。そして、企業の単位で見れば、軽薄なイメージとなりかねない。
Copenhagen Consensus Center | Copenhagen Consensus Center
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諸刃の刃


そもそも環境問題に限らず、何らかのイデオロギーに影響された『正義』を過度に振りかざす態度は、時に非常にグロテスクだ。特にそれを他者への批判に向けるとき、如何に完全無欠に見える「正義」だったとしても、違和感を払拭することはできない。そういう微妙な機微に気づくことは、企業イメージ向上を仕掛ける側にいたいのなら、必須と言っていい。これを企業と消費者の関係に置き換えても、消費者は企業の欺瞞には敏感だ。昨今、環境問題の世論の高まりに押されて、しかも昔ながらの横並び意識丸出しで、環境問題への取組みに参入する企業も少なくないが、自らを切り刻む諸刃の刃を弄んでいるようなケースが多くてハラハラする。


繰り返すが、私は環境問題対応賛成派である。だからこそ、この問題が正しく理解されて、正しく取組まれることを切に望む。一時的な流行に踊ってすぐに廃れてしまうことのないように願いたいものだ。