ものすごい表現力と感性を持つ写真家がいる

不思議な写真家


先日、大学時代の同級生で、作家/翻訳家をやっている田中真知氏の誘いもあって、ある写真家の個展に言って来た。
gallery bauhaus 横谷宣写真展 「黙想録」
横谷宣写真展 「黙想録」 のお知らせ: 王様の耳そうじ



この写真家(横谷宣氏)のことは、田中氏の著書*1 *2にもその出会が書かれているが、不思議な魅力に溢れた写真を撮る人ではあるが、世俗的な欲望はまったくない仙人(あるいは種田山頭火?)のような人物として登場する。横谷氏はカメラレンズを自作し、特殊な現像方法によって手作りで写真を仕上げるため、作品が完成するのに半年もかかるという。世はスピード万能の時代である。商業的な成功指向とは対極にあると言っていい。


すでに岡山に引き蘢った、世俗欲のないこの写真家の作品が、田中氏の熱心な努力が実って世に現れる。私も興味津々だった。



すごいとしか言いようがない


おそらく、写真を見た印象を表現しようとしてもうまく行くまいと事前にも思っていたが、実際に見るとそれ以上だ。とても私の稚拙な表現がかなう相手ではない。ものすごい表現力と感性を持つ写真家だ。それでもあえて感想を言うなら、そこにあることで、均質で等間隔な空間をゆがめてしまう何か、とでも言えばいいだろうか。とにかく、写真が展示されているギャラリー(gallery bauhaus)*3がものすごい場所になっている。


この gallery bauhausは、JRお茶の水駅を降りて、湯島聖堂の前を通り過ぎ、大通りから少し入った静かな場所にある。こじんまりしたとてもオシャレな感じのギャラリーだ。だが、一歩中に入ると、横谷氏の写真がその空間を外からの印象とは全く違うものにしている。何でもない東京のある一角に、異次元への落とし穴が出来ている感じだ。これを何かに例えるなら、一番近いのは柳田國男氏の描く、『異界』だろうか。氏の著作に『山の人生』*4という小品があって、山の中が時間も空間も里とはまったく違う様子が描かれているが、あの世界への入り口が21世紀の東京に開かれている感じなのだ。



均質や効率と対極にある個性


近代以前にはどこにでもあった、あの異界は、今日本でその入り口でさえ見つけることが難しくなった。おそらくなくなったのではないだろう。見つけることが出来る人がほとんどいなくなってしまったのだ。効率、スピード、物欲と言ったような、力は強いけれど鈍重な価値に捕われた感覚には映じることも感じることも難しい。いつのまにか、日本はどの空間も均質で、等価値な抽象空間になってしまった。魔物も消えたかもしれないが、わくわくするような夢も冒険も消え失せた。均質な時間と空間は、効率の良い自動車や電化製品を生んだけれども、皮肉な事に、もはやそんな無機質なプロダクトに高いお金を払う人は少なくなってしまった。


学校でも会社でも、個性化を追求し、違いを求め、皆イノベーションとか言う、わけのわからない概念を偉そうに振り回す。その一方で、学校でさえ、費用対効果の追求だの、短期利益志向だのを目指すとか言うのだから、始末におえない。個性化は均質化や効率化とは対極の概念ではないか。今回のような体験は、時に発想の根幹を揺さぶってくれる。そして、それ以上に社会の豊かさの意味が、今は根本的に間違った設定で考えられてることを確信させてくれる。そういう意味でも、できるだけ多くの人が横谷氏の写真にぶちのめされるとよいと思う。

*1:孤独な鳥はやさしくうたう

*2:

孤独な鳥はやさしくうたう

孤独な鳥はやさしくうたう

*3:gallery bauhaus ギャラリー概要

*4: