『オタクはすでに死んでいる』んですか?

日本のオタク文化は世界に普及


日本のオタク文化が世界的に受け入れられた、ということはどうやら一般的にも認知されてきたと言って良さそうだ。オタクの聖地アキハバラを目指して、遠く異国の地からやってくる外国人の勇ましい話もさることながら、欧米/アジアだけでなく、中近東からアフリカに至るまで、日本のアニメ/ゲーム/漫画等は子供たちを中心に広く受け入れられているという。そしてその子供たちが成人しても、そのようなすばらしい作品を、『クール・ジャパン』と、高く評価しているという。ごく最近も、スピルバーグ監督が『甲殻機動隊』を実写化するという報道があったが、すでに『マッハGoGoGo』『ドラゴンボール』、そして『仮面ライダー』等の実写化など、日本のキャラクターが好まれている実例は最近ではいくらでも見つけることができる。


世界で受け入れられているのが、オタク文化であることが、当の日本の大人たちにとっては違和感は隠せないとはいえ、日本文化の洗練、創造性等が世界から認められたというのは、実に画期的なことである。



文化のない日本』の時代


80年代の後半に自動車の商品企画担当をやっていた頃に遡るが、当時日本の自動車の製品としての評価は非常に高くなり、特にオイルショック以降に自動車の小型化/低燃費化を世界に負けない技術力で乗り切り、アメリカへの集中豪雨的輸出が問題となっていたころの話だ。日本の自動車が、低燃費で耐久性に優れ、性能や品質もよいことをアメリカの消費者には高く評価されるようになっていた。そこで、政治的な配慮から、『輸出自主規制*1』の元、台数制限を課せられた日本の自動車会社の次の課題は、単価と付加価値の高い高級車市場への進出だった。すでに、世界的にも非常に高いレベルの技術力を持っていた日本企業は、当時から高級車と言われていた、ベンツやBMW等と比較してもスペック上は遜色ない高級車をつくること自体は可能だった。出来上がった試作車で試乗を繰り返し、スペック比較をしても、どう見ても自分たちの製品のほうが上だった。


ところが、市場やマスコミの評価は、『メカに優れ品質は良いが、文化の香りを全く感じない』だの、『静粛性が良すぎて気持ち悪い。自動車に乗る楽しみをわかっていない』だの、それはもう惨憺たる評価だった。当時、日本自体の評価が、『成金』『悪趣味』『コピー文化』『創造性のない民族』と言ったような、大変ひどいものだった。そして、それはバブルを迎えてピークに達する。プラザ合意*2後の急激な円高を背景に、対ドルでの日本に資産は膨れ上がり、海外旅行が大流行した。ブランド品と見ればそれだけでよくわかりもしないで買いあさる日本人。ニューヨークのロックフェラーセンターのようなアメリカの文化の象徴のような不動産を金でほっぺたをひっぱたくようにして買いあさる日本企業。当時、海外のビジネスマンと話すと異口同音に言われたのは、『君たちはお金を儲けるのはいいけど、それで一体世界に何を残すつもりだ』という痛烈な一言だった。恥ずかしいことこの上ない。


アメリカの大学のサマースクールに参加しても、お金のある日本人で大学は溢れているのだが、大半はほとんど英語が話せない観光気分の学生で、日本人同士かたまっている。多少英語でコミュニケーションできた私のところに、欧州の学生がやって来ては『君は日本人としては特殊だな』というようなことを話して行く。穴があったら入りたい気分だった。


それが今や、日本文化は大変洗練されてすばらしく、日本というのは創造的な民族と評価されるようになって来ているという。オタクのおかげでだ。でも、そうだとすると本当にすばらしいことだ。私は心からこれを誇りに思う。



しかし、すでにオタクは死んでいる?


ところが、岡田斗司夫氏によれば、『オタクはすでに死んでいる』という。これはどうしたことだ。せっかくこれから、日本のおじさんたちでさえ応援しようと言う時に、また、海外市場への橋頭堡にしようと多くの企業がもろくんでいる今、すでにオタクが死んでしまったとはどういうことだろう。

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)


岡田氏によれば、オタクは世代によってその考え方がかなり異なり、第一世代、第二世代は、いわばオタクの道を追求する一種のストイシズムを持ち、『私はまだまだオタクと言えない』『オタクの濃さが足りないと思います』『いやぁ、まだまだ俺なんか、オタクとは言えないですよ』という物言いが存在していたという。SFオタクの間では『一冊読んでもダメ、百冊読んでもダメ、千冊読んだらSFってなんだかそろそろわかるんじゃないかな』と本気で言われており、そこは自分の趣味というより人間形成とか人間修行の場でさえあったとする。こういう気合いの入ったオタク世代こそが、オタクを世界に通じる文化に押し上げたのだという。ところが、今の時代のオタクは、そういう強いオタクの持つ自意識、自負心は霧散し、『オタクとして必要な教養』を排除し、萌えのように自分だけが短絡的に楽しめればよい、という『自分の気持ち至上主義』となっている。その結果オタクどうしの共通概念は生まれず、オタクはマニアになっていく。 そして、この主義はオタクだけの特徴ではなく、今の日本社会全体に広がっているとする。


オタクはそもそも子供っぽい趣味領域を大人になっても持ち続ける人と定義されるが、第二世代までのオタクは、職人的こだわりと連帯感、いわば大変大人らしい価値観を持ち込んで洗練を高めていたということになる。ところが、第三世代に至って、そういう部分は抜け落ちて、取り組みも『子供化』してしまったというわけだ。


この状態について、岡田氏はかなり強い危機感を表明している。

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『自分の気持ち至上主義』は、我慢や強調を強いる共同体の縛りつけを解きます。その代わり、共同体の結びつきによってかろうじて維持されていた同族意識や強度幻想、すなわち『文化』自体も破壊してしまうのです。SF界と同じ滅びの歴史を、オタクは辿りました。だとすれば、『自分の気持ち至上主義』の蔓延は、オタク以外の集団、ひいては日本全体の崩壊にもつながっていくのかもしれません。


これは困った。



現代の若者をもっと知らなくては


仮にこれが本当だとしたら、一企業を競争に勝たせたいという立場からも、社会全体を良くできないかというもう少し上位概念からも、何とか旋回回帰する方法を考えてみたいと思う。これはやはり、現代若者論をちゃんと把握する以外になさそうだ。オタクにたどり着いたと思ったら、もっとメタな部分として、若者のことをもっと徹底して知る必要があるということが見えて来た。先入観や誤った情報が錯綜する、大変な領域だが、自分なりのスタディと総括をしておかないといけないようだ。