日本人の政治リテラシーを格段に上げないと危ない!



◾️構造的な政治無知/音痴の大量生産

今の日本人の多くは(誰よりも私がそうなのだが)政治に関心が薄く、知識も乏しいから、国家運営や民主主義が健全に機能するために期待されるレベルに達しているとは到底思えない。もちろん日本にも政治に高い関心を持って真摯に取組む人たちが少なからずいることを否定するものではないが、問題は政治への無関心や無知が個人の性向とか趣味嗜好ではなく「構造」として再生産されてきたと考えられることだ。


例えば私のような昭和生まれの中でも、学生運動が実質的に消滅してしまった後に大学時代を過ごした年代は、政治に関わることのメリットより無力感、さらにはデメリットの方を感じて育ってきたと言える。(それどころか、「連合赤軍の総括」*1を例に挙げて露骨に嫌悪感を口にする者さえ少なくなかった)。多少は興味が持てる政治的なトピックがあっても、それを人前で語ったりすると、それ自体、周囲から浮き上がってしまうような空気を感じたものだ。現実に両親や学校の先生等からも、友人とは「政治」と「宗教」については決して語り合ってはならず、まして議論を戦わせるなどとんでもないと、真顔で諭された記憶さえある。就職活動にあたっても、具体的な政治活動は勿論、単に政治志向が強いことでさえ就職には有利にならないことは、表立って語られることはなくとも、暗黙の不文律となっていたと思う。このような空気の支配が私たちの年代の後、どれくらい続いたのかは定かではないが、内実は多少は変化したとしても、政治無知、政治音痴の量産自体は、その後も連綿と続いたと考えられる。

 

私のケースでは、早くから海外ビジネスの現場に出ることになり、各国の市場を知るためには現地の法律や政治状況の理解は不可欠で、ロビーイングについても常に意識しておく必要に迫られたため、学生の時には避けてきた、政治や法律関連の勉強に取り組むことになった。おかげで、日本の政治についても、少なくとも学生時代に比べれば、多少なりとも理解度は上がったのだと思う。

 

だが、それも今にして思えば、ほんの上澄みをすくった程度で、テクニカルな情報はそれなりに持っていても、深層の問題把握や、思想レベルの理解にはまったく至っていなかったことを後年思い知ることになる。それが少しはましになったのは、このブログを書き始めて、政治に関わる本を精読したり、IT系のビジネスの現場にいて、しかもその法律に関わる業務を担当する立場で、政治を理解することの重要性を肌で感じるようになってからだ。

 

そうして、政治に関する知識がたまってきて、理解が一定の閾値を超えたとたん、自分が裸であることに気づいた裸の王様状態とでも言うのだろうか、自分のそれまでのあまりの欠落が恥ずかしくもあり、そのような状態で社会生活を送ってきたことも、ビジネスに取り組んできたことについても、とんでもなく危ない状況、あるいは明らかに損をする状況に何度も出くわして来ていることに気づいた。同時に、それまでビジネス全般にある程度の知見があると自惚れていた自分のあまりの未熟さを突如自覚して、その場にへたり込んでしまいそうになった。


さらには、自分自身に対する恥ずかしい気持ちもさることながら、自分の友人等、自分たちの世代全体について大変な恥ずかしさを感じることになった。私達の世代は、社会のどの分野でも今では部下や後輩を指導する立場にいる者が多いが、その実、本当は大抵が裸の王様なのだと思うと、何とも申し訳ないというか、気恥ずかしい。そして、それなりに権力を持ち、権限もある一方で、政治理解は子供と変わらないでというのでは、昨今のように政治が非常に難しい環境に置かれていると、とんでもない方向に社会の舵を切ることに加担してしまう恐れがある。実際そういう兆候を様々な局面で目にするようになってきた。

 

 

◾️扇動に突き動かされやすい大きな母体

 

私の友人達も企業に就職した者の多くはそれなりの立場にいるわけだが、最近、安倍政権支持者が増えている印象があるので、話を聞いてみると、経済を安定させているから、というのがほぼ共通する理由と言えるようだ。企業の経営に近いところにいれば、経済の安定という要素は非常に重要だし、その運営に長けた政権を望むのは当然とも言える。

 

だが、一方で現政権が悲願とする憲法改正について、2012年に公開された、自民党憲法改正草案*2 *3について問いを向けてみると、ほぼ誰もその中味のことは知らない。特に秘匿されているわけでもなく、解説記事も数多く出ているのだから、その気になれば自分で読んで考えることにさほどの労力はいらないはずだ。この草案は、現行憲法に織り込まれた重要な概念である、「国民主権」「基本的人権」「政教分離」等が軒並み否定されたり弱められたりしていることに始まり、果ては本来国家を縛るはずの憲法が国民を縛る内容になっていたり、「家族は互いに助け合わなければならない」というようなおよそ憲法に規定するにふさわしくない道徳律のようなものが織り込まれていたり(そもそもどうやってこれを法制化するんだろう?)本当に目を疑うような代物に私には見える。

 

もちろん、どのような主張を支持するのも自由なのだから、自民党憲法改正がもたらす社会を是とする人を私が頭ごなしに否定することは出来ない。だが、およそ政権の支持というのは、経済政策のような具体的な政策ももちろんだが、他の政策や、何より、このような政権の信条、思想、目標等についても可能な限り情報を取得した上で総合判断するべきものだろう。だが、「経済政策がまともなら後は好きにやらせたら?中国や北朝鮮も危ないから憲法国防軍に格上げして自衛隊にもっと頑張ってもらったら?」という程度の意見しか出てこないのはどうしたことか。何だか、大学の新入生と話しているようで、話しているこちらが恥ずかしくなってくる。政治無関心の空気は何とも物騒な階層というか母体を作り上げてしまったものだなと思う。こんなことでは、意図を持って世論誘導をやろうとする悪賢い政治家の扇動に、いざとなると呆気なく転ばされてしまうと考えざるをえない。ヒットラーナチス党が合法的に独裁政権となったのと同じことが今ここで起きそうに思えて、冷や汗が出てくる。

 

 

◾️「被害者」ではなく「共犯者」の自覚を持つべき

 

こんな有様だから、社会学者の西田亮介氏の新刊、「なぜ政治はわかりにくいのか」*4のような本を読み始めると、まさに針のむしろを転げているような気持ちにさせられる。確かに世界規模で見ても、昨今の政治は非常にわかりにくくなっていることは確かだが、本気で取り組めばいつの時代も政治というのは本来非常に難しく、それほど簡単に竹を割ったように理解できるものではない。ただ、今そのような警鐘とも言えるタイトルが非常に生々しく見えるとすれば、今の世界は政治を知らないで安寧に過ごせるほど、牧歌的な場所ではなくなっているからだろう。

 

西田氏は本書で、「政治を理解せず、そこに背を向けているのが、この社会の一つの特徴だとすれば、メディア・教育、そしてそれらを包括する社会という、非政治的な側面の影響が反映された結果でもあるわけです。」と述べているが、私達も、政治無関心にさせられた「被害者」ではなく、その社会を継続させてしまった「共犯者」として、「共犯者」に向けられた警句と受け取って、襟を正していく必要を強く感じる。日本人が正しく政治を知り理解することこそ、日本の安全保障の根幹ともいえる。

 

 

◾️政治のゲーム化の恐ろしさ

 

西田氏が指摘する問題群の中でも、昨今特に私自身危機感があるのは、インターネットと政治の問題だ。今にして思えば、インターネットを活用して、政治をポジティブに変えることを高らかに宣言していたオバマ元大統領の時代のインターネット(特にSNS)に対する期待感は大変なものだった。日本でも米国を見習って公職選挙法を改正すべしという議論が最も盛り上がったのもこのころだろう。だが、前回の大統領選挙では、選挙活動の主役がインターネットであることは同じでも、その評価は180度反転することになった。

 

選挙戦で、トランプ陣営と契約した「ケンブリッジ・アナリティカ」のような、データマイニングとデータ分析を手法とする選挙コンサルティング会社が主導する、SNS分析や個別の有権者への働きかけなどを見ていると、政治のゲーム化も究極まで来ていて、民主主義のルールや精神とはまったく関係なく、ゲームの熟達者が政治というゲームを支配するようになってきていると言わざるをえない。だが、それ以上に問題なのは、金銭目的でマケドニアから大量の偽情報が発信されたり(そのことによって世論が歪められたり)、ロシアが政治的意図を持ってフェイクニュースを流していた疑いがあったり(最近でも、ロシアによる選挙妨害に関わるTwitterのボットが50000あまりもにも登ったという報道があった)。*5 こうなると選挙の正当性自体が危いことは誰の目みも明らかだ。西田氏は、この点、米国の法学者、ジョナサン・ジットレインを引用して次のように述べている。

 

法学者ジョナサン・ジットレインは「デジタル・ゲルマンダリング」という概念を通して、IT技術を用いた政治的利便性の向上と伝統的な民主主義は両立困難であると指摘しています。その中でジットレインは、政治的影響力が行使されたことさえ気付きにくいというリスクを主張します。

「なぜ政治はわかりにくいのか p131」

 

日本は日本語の壁に守られ(日本語を流暢に使いこなすことは他言語以上に難易度が高い)、また英語圏のような地理的広がりもないため、他国からの干渉にインセンティブが働き難いという利点(?)はあるものの、すでに日本の政治においても、テクノロジーによって世論を歪ませようという水面下の戦いは活発になってきているようだ。2014年の日本の衆議院議員総選挙Twitterの分析による政治的な意見やキーワードの共有・拡散の研究を行った、ドイツのエアランゲン=ニュルンベルク大学日本学部教授、シェーファー・ファビアン博士は、日本でもプログラムされた「ボット」による大量の投稿があり、それらが結果的に言論の多様性を弱めるような働きをしているのではないか、と述べている。*6

 

日本の公職選挙法も2013年4月の改正によって、ある程度選挙におけるインターネット利用を許容するようになったわけだが、まだ完全に解禁されたわけではなく、米国等と比較すれば様々な規制も残っている。

 

全面解禁については、米国の事情に詳しいビジネスマンやインターネット・リバタリアンとでも言えそうなIT系企業の経営者や幹部等を中心に、賛成する者は少なくないが、米国の状況等も勘案した上で、西田氏は慎重な姿勢を取る。私も、西田氏の姿勢に原則賛成だ。選挙のゲーム化の土俵となり避難の矛先が向けられた、FacebookTwitterもそれなりに対策を講じつつあるし、今後とも進展することは期待できるが、一方でそれらもビジネスである限り、コミュニケーションの自由度を制限することへの抵抗感はあるはずだ。また、ケンブリッジ・アナリティカのタイプの会社は世界中に大量にあって、しかもそのスキル/技術は日進月歩で進歩している。政治のゲーム化にインセンティブがある限り、イタチごっこになることは目に見えている。しかも、日本でも、先に述べたように、政治的に非常にナイーブで扇動に突き動かされ易い大きな母体があることを勘案すれば、全面解禁は時期尚早のように思えてならない。

 

 

◾️「正論」をサポートすべき

 

このように偉そうに書いては来たが、私自身、やはり政治については本気で勉強して来てなかったつけは十分回って来ていて、自分のレベルの低さと無知に愕然としてしまうことも少なくない。今回のような内容のブログ記事を書くのも、少しでも西田氏のような「正論」のサポートになれば、という懺悔の気持ちもあるわけだが、ちょっとした火種があれば、あっという間に燃え広がってしまいかねない、可燃性の高い、政治的にナイーブなマスを抱えた日本全体をどうすればいいのか、正直明快な答えを見つけるのは容易ではない。だが、それでも、私達も「被害者」ではなく「共犯者」であり、「当事者」としての自覚を持つべきと今は衷心よりそう思う。



私なりの西部 邁氏への追悼文

 

◾️YouTubeのコンテンツ

 

2月中旬に、突然腰のあたりが痛くなり、動けなくなった。それから約一週間、痛みもあって睡眠もままならず、特に最初の3日は24時間中半覚醒状態にあった。他に何もできないこともあり、手元にあったiPadYouTubeを起動して夢遊病者のように様々なコンテンツを漁って、流し続けていた。今にして思えば、非常に不思議なことではあるが、ほとんど無意識な状態でありながら、肝心なところはいつも以上に鮮明に記憶に残り、これまでずっと長い間疑問に思っていたことの答えにもなっていることに気づく。その中でも、一番印象に残った、評論家の西部邁氏について(それでなくても、何か書いておきたいと考えていたこともあり)少し書いておこうと思う。

 

西部邁氏は、ご存じの通りさる1月21日に自裁し亡くなった。個人的にも非常にショックだったこともあり、西部氏の最近の言動をできるだけチェックしてみたいと思っていたところではあった。近著(そして絶筆となったわけだが)として出版されていた「保守の神髄」*1は早々に読んだが、YouTubeにはそのような著作にはない、人間西部氏を知るための「参考点」となる要素で溢れている。文字情報では伝わってこない、息遣いや、表情、声のトーン等、皆、貴重なメッセージだ。しかも、思った以上に西部氏のインタビューや講演録のようなものは沢山残っている。

 

西部氏と言えば、歯に衣を着せず、場合によっては厳しく人を批判することから、疎ましく感じていた人も少なくなかったと思われる。だが、幅広い経験と深いと教養に基づいた言説自体には説得力があり、賛否は別としても、誰もが一目置く評論界の「重鎮」だったことは確かだろう。私も、近年では、西部氏のご意見に全面賛成と言うわけにもいかないことも多く、「違和感のある言説」に突き当たることも少なくなかったが、その度に自分が持つ見解との差異の分析を通じて、自分自身の現状を検証する「よすが」とさせていただいてきた。

 

 

◾️西部氏の言説との出会い

                                                                                                                                              私自身が最初に触れた西部氏の言説は、西部氏が、スペインの思想家ホセ・オルテガ・イ・ガセット(オルテガを参照して述べる、近代批判、および当時の日本のビジネス文化やビジネスマンに対する批判だった。まだバブル崩壊前ということもあり、日本的経営が称賛され、「ジャパン・アズ・NO1」と持ち上げられ、日本の経営者も舞い上がりつつある時期だったこともあり、オルテガを評価して持ち出す人など他にはいなかった(知らなかっただけかもしれないが・・)せいか、大変新鮮に感じたのを覚えている。ちょうど当時の私も、日本的経営礼賛が次第に陳腐なイデオロギーと化していく様や、思考停止したまま礼賛してまわる輩に辟易しはじめた頃でもあった。

 

確かに、通常ビジネスにおいては、あらゆる活動を数量や金銭価値という一元的な尺度に還元し、それを極大化することが求められる。現代では、株価時価総額至上主義を金科玉条とする米国のグローバル企業等に、最も先鋭化した姿を見ることができる。当時の日本企業では、まだ、村社会と同様の企業コミュニティが良かれ悪しかれ支配的だったこともあり、今にして思えばかなり牧歌的なところもあったが、これからバブル経済に傾斜していくタイミングということもあって、独特の金銭至上主義的な狂奔の兆しが出現しつつあった。

 

株主だけではなく、全てのステークホルダーに配慮し、短期利益だけではなく中長期的な利益を重視し、そのビジネスを通じた文化価値の増大であったり、経済社会に対する貢献等を重視する姿勢等、かつて一流のビジネスマンの「徳」とされたようなものは急激に軽視されるようになり、当時の私達から見ても、あきらかに狭量で歪んだ人物像が新しいビジネスマン象として横行するようになった。後で振り返ると、西部氏のこの当時の言説は非常に予言的でもあった。

 

 

◾️大衆/大衆化批判

 

手元に、NHK市民講座で西部氏が講師として語ったときのテキストが残っている。我ながらよくぞこんな古いものを残していたものだと思うが、当時の西部氏の主張が非常にコンパクトにまとまっている。「大衆化」「大量化」等、当時はいずれも半ばポジティブな文脈で語られていた用語も、西部氏は容赦なく論難する。

 

大衆化あるいは大量化は、いいかえると、物質的快楽や社会的平等といったような単純な価値を過剰に追い求めた結果として達成される。感受しやすいもの、観察しやすいもの、測定しやすいものに執着することによって、いわば統計の世界が出現する。統計の世界は均質化、標準化あるいは平均化を基軸にして編成されるのである。しかし、統計の世界のおける単一価値もしくは少数価値の過剰追求は文明の質的な歪曲であり、退廃である。(中略) 実は、量的表現のなかに質的表現の劣位をみようとするのこそが、ここ二百年におよぶ大衆論をつらぬく不動の視点だといってよい。容易に統計化することのできない人間の特質および活動をないがしろにすまいと構えるとき、均質化・標準化・平均化は凡庸であり、低俗であるとみなされることになる。

NHK市民大学 1986年7-9月期 大衆社会のゆくえ」

 

フォーディズム人間疎外の象徴として批判の対象とされる一方、フォードの工場労働者のような中流のワーカーでも安価で自動車が手に入れることを可能にしたという意味で、経済的平等実現の原動力でもある。日本でも戦後の高度成長期を経て、中流の暮らしは非常に豊かになり、しかもその中流の裾野は急速に広がっていったが、そのことを可能とした大衆化、大量化には一定の評価できる側面があったことは否めない。

 

だが、問題はそこからだった。さらに豊かになれる条件が整い、世界も日本に注目し、日本が世界にどんな貢献ができるのか、それが問われていた。自動車のようなモノづくりにおいても、「安かろう悪かろう」の段階を脱して「安くて高品質」と世界で評価を受けるレベルまで到達していたが、さらにその上を目指すにあたって、自分たちができる自動車文化の進歩への貢献は何か、高いレベルの文化価値を有するプロダクトとは何か、そのような問いかけに責任を持つべき立場に到達していることを自覚することができた。実際に自分たちも自動車の企画に関わっていたから、このような高いレベルを目指せることの高揚感をひしひしと感じていたものだ。しかしながら、そこからの日本は、西部氏が語ったとおりの退廃と低俗に向かい始めた。企業内でも、レベルの高い思想は「大衆」の狂乱にかき消されていった。

 

西部氏は、狭い専門領域における知識しか持たない学者や官僚、ビジネスマン等を含む「エリート」こそ典型的にオルテガの言う「大衆」に該当し、そんな専門家=大衆が社会に横暴で狭量な意見を無節操に押し付ける愚を嘆く。これこそ、まさに当時の自分の周囲で起きていることそのものに感じられた。いわゆる日本を代表する会社の「ビジネスエリート」に囲まれつつも、そのほとんどの者が空疎でまともな議論もできないことに失望していたこともあり、西部氏の言説に救われた思いをしたものだ。

 

 

◾️理性はたかが知れている

 

YouTubeに出てくる西部氏は、東大で経済学を学びながら、「つまんねぇな」と思っていたと述べる。それもまた、まさにかつての私自身の嘆きそのものだった。説明能力を上げるために、高度な数値化や狭い専門領域を設定する当時の「近代経済学」は、私自身(私も経済学部だった)、本当に「つまんねぇ」し「わかってねぇな」と思っていた。そして、人間に関わる現象を説明したければ、「ホモ・エコノミクス」というような隙の多い概念に閉じこもるだけではなく、もっと人間に関わる現象を広く深く探究することは不可避ではないのかとずっと感じてたものだが、どうやら西部氏はもっとはるかに大きなスケールでこれを感じ、実際に渉猟を行った人だったようだ。心理学から、文化人類学社会学等ありとあらゆる分野に関心を持って関連文献を読破していったのだという。

 

その後、行動経済学というような、心理学的に観察された事実を経済学の数学モデルに取り入れていく研究手法が大きな地歩を占めるようになったごとく、時代はある程度、西部氏の正しさを証明していったように私には見える(もちろん西部氏本人は、そんなものは評価できるうちに入らないとおっしゃる気もするが・・)。ただ、広く範囲を広げてしまえばしまうほど、専門家の持つ刃の鋭さをなくし、結局のところ語るべき何がしかに到達すること自体できなくなってしまうのではないか、というしごくごもっともなご意見が出てくる。実際、昨今の大学の実状を見れば、細分化は究極まで進み、どの学問分野でも重箱の隅をつつくことが専門化の証とでも言わんばかりの状況となってしまっている。だが、これでは、表面を薄く切り取る刃物にはなり得ても、決してその奥にあるもっと本質的な理解にたどり着くための武器になるとは到底思えない。

 

もちろん、西部氏のような異彩の人が広く深く探究したところで、神のごとく何でも見通せる理性を会得できるわけではない。結局のところ、人間の理性ができることなどたかが知れている。そこで人間の理性があてにならないとすると、規範をどこに求めるかが問われるわけだが、西部氏は、英国の思想家で保守思想の始祖、エドモンド・バークの思想を是として受け入れて行く。バークは人間の行動規範として理性ではなく、人間が長い時間をかけて住みあげて来た営為の結晶としての「伝統」を重視することを説く。それはたとえ不完全であっても、歴史を通じた「自然のなりゆき(natural cource of things)」の中で生まれた社会の価値観を尊重するほうが間違いは少ないとする。そして、これもその後、経済学者のフリードリヒ・ハイエクの言うところの「理性主義」「設計主義的合理主値」に基づく、ソ連のような共産主義国諸国が瓦解したこともあり、西部氏の「面目躍如」の一つと言える。

 

 

◾️求道者のような生き方

 

それにしても、西部氏の真実を求める求道者のような生き方には、あらためて感嘆の念を禁じ得ない。かつては、大学闘争時代の学生側の幹部であり、それは「極左」というべき立場だろう。だが、そこから転じて最終的には、保守論客の本流、いわば最右翼にまで行き着く。しかも、その経緯もすごい。大学闘争に挫折した後は、パチンコや博打にあけくれ、やっと東大に復学した時は、30歳を超えていたという。しかもそうした苦闘の結果得た東京大学教授をいわゆる「東大駒場騒動」の結果、あっさりと投げ打ってしまう。地位や名誉、金銭等の世俗の価値観にほとんど捕らわれることのない、求道者の姿がここにある。

 

ちなみに、この「東大駒場騒動」のきっかけは、西部氏が東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手(当時)の中沢新一氏を推薦したことにあった。この思想家の中沢新一氏関連のコンテンツについても、YouTubeで幾つも見つけることができる。この時は、「ラジオ版学問のススメ」を聴いていたのだが、学問に対する姿勢と言う点で、あらためて中沢氏と西部氏が同心円上にいたことがうかがえる。

 

中沢氏は大学に入る以前から、大学の既存の学問の範囲では自分が本当に知りたいことを知ることができないと考えていたという。そして、その大学も、早稲田大学文学部に入学しながら、翌年には東京大学教養学部理科二類に入り直し、生物学者を目指すものの、在学中に宗教学者の柳川啓一の講義を聴講し、それがきっかけで宗教学に転じて文学部宗教史学科に進むという遍歴を持ち、さらに驚くべきことに30歳を前にチベットに行って3年間もの密教修業を行っている。学問をキャリアとして立身出世を目論む者は少なくない(というよりそういう人がほとんど)が凡そその対極の姿勢と言える。

 

中沢氏は、その言説や行動に批判も少なくないが、現在までの到達点としての、「カイエ・ソバージュ」シリーズ(旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、人類の考え得たことの全領域を踏破してみるとことをめざして、神話分析、宗教、芸術等に幅広い領域について考察された、中沢氏の講義録をまとめたもの)など、オリジナリティに富み、その壮大なスケールに圧倒されてしまう。重箱の隅をつつくタイプの専門家には絶対に到達できない境地であることは確かだ。

 

二人とも東京大学の出身ではあるが、私の知る多くの東京大学出身者とは別種の人間というしかない。特に、受験戦争を勝ち抜き、優秀な成績で官庁に入省するエリート官僚とはおよそ正反対だ。だが、その日本の誇るエリート教育の結果生まれた人材が、非常に未熟で残念な醜態をさらす事例を特に昨年など次々に見せつけられると(「このハゲー」と絶叫して暴力をふるった官僚出身の元国会議員等)、豊かさを実現して以降の日本が残せたものの貧しさに愕然とする思いだ。西部氏や中沢氏のような巨人と自分を比較しても詮無いが、基本姿勢として学問に限らず、ビジネスでもそうだが、どのような姿勢を自分の基軸におくべきか、という点でずっと師として仰ぎ見て来たが、自分の成果がどこまで出たのかは別として、やはり原則間違っていなかったとあらためて思える。

 

 

◾️西部氏の思想との差異

 

かつて西部氏を通じて知ることになった、オルテガもバークもいまだに自分の貴重な思考の基軸ではあるが、特にバーク流の思想の咀嚼に関して言えば、この10年くらい悶々としてきた。特に直近では、「日本企業の生き残り」をテーマの一つとしてビジネスの在り方について探究してきた(そしてブログ等でも書いてきた)わけだが、そうしていると、日本人の深層に巣食う悪しき「伝統」が今また怨霊のように組織や人間に憑依して、日本を奈落に引きずり込もうとしている様がありありと見えてくる。日本人にとっては、近代的個人の確立の努力がその悪しき「伝統」と荒れ狂う感情を相対化することに寄与する可能性があり、その努力を安易にやめてしまうべきではないと思えてならない。(この点、評論家の大塚英志氏のご見解にやや近いのかもしれない。)

 

また、近代文明の在り方に強い反感を持つ西部氏の技術楽観論者に対する嫌悪は相当なものだったが、私もその基本姿勢には少なからぬ賛意を共有しながらも、一方で米国『WIRED』誌の創刊編集長である、ケヴィン・ケリーが著書「テクニウム」*2で述べるような、人間にとって半ば外的な「自然」として進化する「技術」に背を向けるだけではいかんともしがたい現状(および将来像)を前に、技術の有用性をある程度認めつつ、妥協点を見つけ、それに飲まれてしまわないような関係のあり方を模索することが重要と考えて来た。もちろん私も技術進化が自動的に人間の幸福に直結するというような楽観論は幻でしかないと考えているが、技術進化を完全に退けてしまうことは事実上の思考停止となりかねないとも思う。

 

荒れ狂うような技術の進化の只中にあって、世界は旧来の分析装置では読み解くことが難しくなってしまっており、自分自身の心のバランスを保つことにも苦心し、自信がなくなることも少なくない。そういう時には、今までと同様、これからも時々西部氏の思想にふれて、自らの立ち位置を振り返り、場合によっては修正していきたいと思う。西部氏の冥福をお祈りする。合掌。

*1:

 

*2:

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

 

 

変貌する中国と日本の差は広がるばかり

 

◾️激変する中国のイメージ

 

昨今では、経済であれ政治であれ、何がしかを議論する場では、中国の最新事情を勘案せずにはすまないことが多くなって来ている。私自身、何かを語ったり、こうしてブログを書くににあたっても(特に私の場合、経済やビジネスをトピックとすることが多いわけだが)、中国の動向を常に把握しておく必要があると感じることが非常に多くなって来ている。この数年特に、中国の情報に驚かされる頻度が激増しているが、表面的で脈絡のない賑やかしのような情報だけではなく、一つ一つが非常に大きな構造変化(あるいはこれから起きて来るであろう構造変化)を示唆するものであることも多くなってきており、受け入れる自分の方もその都度、根本的に自分の理解の体系全体を見直し、更新せざるをえなくなっている。そうしているうちに、わずか数年前に持っていた中国のイメージが、今ではすっかり変質してしまった。

 

先日、あるイベントに参加して、その参加者とも意見交換する場があった。その参加者のほとんどは、日本社会の最上層部にいるエリートと言っても過言ではない人達だったから、自分の感じている中国観の真偽を問い、場合によっては更新できる機会になることを期待した。だが、驚いたことに、全員とは言わないまでも、多くの人は私がかつて持っていた中国観、すなわち日本人の多くがこれまでに無意識に受け入れてしまっている中国観がほとんど修正されないままになっていることを確認する場になってしまった。しかも中国との比較対照としての日本の固定的なイメージが一方にあり、未だにステレオタイプな「優越感」を保持したままになっている。これでは議論を始めることもできない。これが日本の現実であることを再確認した、という意味では貴重な場ではあったが、同時にこれから数年間の間に起きることが確実な、日本側の混乱と怨嗟の声はただならぬものになるであろうことを直感した。

 

もちろん、日本の識者の中にも、この恐るべき状況を正確に理解して伝えている人たちが増えて来てはいる。だが、どうやらそれが正確に理解されて、一般常識となるまでにはまだかなりの時間がかかりそうに思える。そうであるなら、私が他の識者の発言との重複をいとわず、思うところを述べることにもそれなりに価値があるように思える。

 

 

◾️起きている現象の意味をどう理解するか

 

昨年(2018年)に、ハイテクの話題で最も話題になったものの一つは、「フィンテック」関連だったと言っていいだろう。中でも、ビットコイン等の仮想通貨については中国発の話題もすごく多かった。だが、実はそれ以上にメディアを賑わしたのは、中国での決済手段が大掛かりに現金やカードからスマホによる決済にシフトしてしまっていることだ。具体的には、中国のIT企業である、アントフィナンシャル(アリババグループの金融子会社)が運営する「支付宝」(アリペイ)と騰訊控股(テンセント)の「微信支付」(ウィーチャットペイ)だ。日経新聞等、日本のメディアでも盛んに取り上げるようになったから、その名を知る人は今ではすごく増えた。

[FT]テンセント、中国の電子決済でアリババ猛追 :日本経済新聞

 

 だが、その現象の意味の理解は人によってかなり違う。大半の日本人は、これを単なる対岸の火事として見るだけで、日本に及んでくるであろう深刻な問題にはほとんど関心を寄せていないように見える。もっとも、対岸の火事と思われているのにもやむを得ない事情はある。「アリペイ」にしても「ウイーチャットペイ」にしても、いずれも情報管理という点では、少なくとも日本や欧米諸国の視点から見れば、リスクてんこ盛りだ。個人情報は、国家に検閲され、どこでどのような使われ方をしているのかもわからない(ダダ漏れの可能性も大)。日本を含む欧米先進国では、プライバシーは人権に関わる権利として、議論の蓄積もあり、どこでも厳しく管理されている。その観点で言えば、中国のサービスは、あり得ない管理レベルということになる。

WeChatの危険性 - chiwate

 

よって、日本では、日本在中、あるいは日本への旅行者である中国人が使うことはあっても、日本人の間で流通することはありえないと一般には考えられている。だが、本当にそうなのだろうか。日本には何の影響もないのだろうか。このまま思考停止してしまっていいのだろうか。もちろんいいわけがない。大急ぎで視野を広げて、この背後にある動向と本当の問題を洞察しておく必要がある。

 

 

◾️日本の金融業界を中国企業が席巻する近未来

 

このあたりの事情を語るのに、先ず、フィンテック関連でも貴重な情報提供者として著名な経済学者の野口悠紀雄氏による、ダイヤモンドオンラインの最新記事が大変参考になるので、抜粋させていただきつつ議論を進めたい。

日本の金融が中国フィンテックに制覇される日 | 野口悠紀雄 新しい経済成長の経路を探る | ダイヤモンド・オンライン

 

昨今日本の大手銀行も危機感を持って取り組むようになったいわゆる「フィンテック」だが、日本のフィンテック企業には世界で高い評価を受けている企業はほとんど(まったく?)ない。逆に、中国企業は世界的に見ても躍進している。世界の最も優れたフィンテック関連企業のリストであるFintech100」2017年版ではトップ3社はいずれも中国企業

 

The Top 10 companies in the 2017 Fintech100

 

Ant Financial - China

ZhongAn - China

Qudian (Qufenqi) - China

Oscar - US

Avant - US

Lufax - China

Kreditech - Germany

Atom Bank - UK

JD Finance - China

Kabbage - US

 

https://home.kpmg.com/xx/en/home/media/press-releases/2017/11/the-fintech-100-announcing-the-worlds-leading-fintech-innovators-for-2017.html

 

「アリペイ」と「ウイーチャットペイ」は、少なく見積もっても既に10億人以上の会員がいると言われるが、特に、決済、送金については、利便性の点でも手数料の点でも非常にメリットのある洗練されたサービスとなってきている。アリペイは、外国企業と提携して、現在34ヵ国に進出していて、国外利用者も約2.5億人いるという。日本の銀行口座からアリペイに振り込むことができるようになれば日本市場でもこのサービスが広がる可能性は大きいと野口氏は述べているが、私もそう思う。何らかの手段で日本人の不安感を払拭するサービスに再設定できれば、爆発的に普及する可能性もあると考えられる。

 

加えて、この大量の会員をベースに、インターネット保険、消費者金融等の金融サービスが展開され、しかもビッグデータを背景にして、洗練された医療保険が開拓されたり、信用調査のノウハウが蓄積されたりしている。第三世代の人工知能(AI)が活用される時代には、この情報の規模の意味するところは限りなく大きい。

 

資金力も半端ではない。アリババはニューヨーク証券取引所に、バイドゥNASDAQに上場しており、アリババの時価総額は4708億ドルもある。(トヨタ自動車時価総額は2282億ドル)。フィンテック関連投資額(アクセンチュアのデータ)は、2016年の中国と香港の合計で102億ドルもあったという。一方で、日本でのフィンテック関連投資額は、わずか1億5400万ドルというから、スケールが全く違う。

 

 さらには、フィンテックを支える人材についても、昨今の中国の躍進は凄まじい。USニューズ&ワールドレポートが作成する「Best Global Universities for Computer Science」(コンピュータサイエンス大学院の世界ランキング)の2017年のランキングでは、中国の清華大学が世界一になっている(100位までに、中国の17の大学がランクインしている)。昨年、精華大学に留学しようとしている東京工業大学の学生と話をする機会があり、その時は正直私は驚いたのだが、こうして見ると、今の学生にとってはこれが合理的な選択肢の一つであることがよくわかる。米国の大統領府が2016年10月に発表した「National Artificial Intelligence REsearch and Development Strategic Plane」によれば、深層学習に関する研究論文の発表数は、2013年に中国が米国を抜いて世界一となり、さらにその差は広がっているという。

Top Computer Science in the World | US News Education

 

野口氏の今回の記事にはないが、世界のスーパーコンピューターの開発競争でも中国はトップの地位を占める。昨年11月に発表された、スーパーコンピューターの計算速度の世界ランキング「TOP500」では中国勢が9連覇を達成したばかりだが、世界最速のスーパーコンピューター上位500に占める台数でも中国はトップ(202台。2位は米国(143台)、3位は日本(35台))であり、さらには、スパコンの総処理能力でも米国を抜いて首位に立った。

スパコン「TOP500」、中国がランクイン数トップに--HPCG指標では「京」が1位 - CNET Japan

 

こうして並べてみると、今の情勢では、日本のフィンテック企業が競争に勝てる理由が見当たらない。法律で禁止する等、鎖国的な政策を取らない限り(もちろんこれは、世界中が繋がっている現代の金融市場では、自殺行為というしかない)、近い将来、日本の金融業界を中国企業が席巻している可能性が大いにあると私が考える理由はご理解いただけただろうか。昨年は、マイナス金利政策が本格的に効いて来たこともあり、大手都銀のリストラ計画(3メガバンク合計3.2万人のリストラ計画等)が衝撃を持って報じられたが、今後はこんな程度では済まなくなる可能性が大だ

 

 

 ◾️成果をあげる国家戦略

 

中国躍進の背景には、政府の国家戦略があることは言うまでもない。2017年8月に発表された「次世代AI発展計画」によれば、2030年までに中国を世界の主要な「AIイノベーションセンター」とし、AI中核産業規模は1兆元(約17兆円)、関連産業規模は10兆元(約170兆円)まで成長させることを具体的な目標に掲げている。

スパコン「TOP500」、中国がランクイン数トップに--HPCG指標では「京」が1位 - CNET Japan

中国の人工知能技術が、米国を追い抜く日は近い? (1/4) - ITmedia エンタープライズ

 

BBCニュースによると、すでに世界全体の科学への支出に中国が占める割合は約20%に達するという。そして、その成果は続々と出始めているようだ。昨年も、宇宙開発や量子暗号等で大きな成果があがっていることが報じられたが、AI関連でも、つい先頃、アリババのAIが史上初めてスタンフォード大学読解力テストで人間よりも優れた成績を挙げたことが話題になった。現段階ですでに、中国の戦略は着実に成果を出していると言える。

アリババのAI、成績が人間上回る-スタンフォード大の読解力試験で - Bloomberg

 

 

◾️中国の情報戦略と西欧先進国のジレンマ

 

 第三世代のAIに必須の要件とも言える「情報」についてあらためて見ると、こちらも戦略と実体がうまく噛み合って、驚くべき成果があがりつつある。

 

アリババは、米国のアマゾンと同様、超巨大な顧客データベースを構築しているが、これが、アマゾン以上に情報密度が高く統合された信用度採点のデータベースとなって来ているようだ。

 

BtoCの購入代金や公共料金支払いの履歴から始まって、個人の同意を得て学歴・職業・交友関係などのデータベースを紐付け・統合して、どれくらい信用度が高い人かを950点満点で採点する仕組みだ。

 

700点以上の高得点者になると、様々な恩典が付与される。最初はホテル宿泊時のデポジット手続きが不要、優待料金といったものだったが、政府がこの仕組みに相乗りし始め、北京空港のセキュリティチェック専用レーン通行権、シンガポールルクセンブルグのビザ支給など魅力的な恩典がリストに加わったため、中国では多くの人がこのシステムに登録するようになった。 

「デジタル・レーニン主義」で中国経済が世界最先端におどり出た(津上 俊哉) | 現代ビジネス | 講談社(2/5)

 

中国のように、自分たちの一族以外には「信用/信頼」はほとんどなかった社会にこのような信用度指数が出現する意味は実に大きい。これによって、商取引が格段に広がることが期待できるからだ。実際、すでに融資等のビジネスに利用されて成果を挙げている。

 

中国政府自体もこれと同様、巨大データベースによる「社会信用体系」づくりを進めているという(社会信用体系建設企画要綱 2014-20202) 。もっとも、こちらは、どうしても国家による国民の完全な情報管理という暗黒面に目が行きがちになる。確かにテクノロジーの進歩に加え、誰もがスマホを持っているという条件が重なれば、位置情報から、買い物の履歴等市民の日常も詳細に把握され、それを国家が監視するわけだから、全体主義国家のディストピアを描いた、ジョージ・オーウェルの小説「1984*1がリアルに再現されているように見えてしまう。だが、暗黒面ばかりに目が行くと、ここで起きていることの本質を見誤りかねない。

 

繰り返すが、今までの中国の最大の問題の一つに、自分たちの一族以外には、社会に「信用」が行き渡っておらず、それが商取引の広がりを制限していたことがあった。ところがこれからは信用が可視化され、その効果で商取引の範囲も規模も拡大することが期待できる。しかも正直者が得をするという常識が一般化すれば、これが加速度をあげて促進されて膨大な経済効果につながる可能性もある。一方で、AI技術を含む科学技術で世界トップレベルとなり、一方で、莫大な情報が集め放題ということになると、2020〜2030年代は、世界経済市場では、中国の一人勝ち状態となる可能性すらある。もちろん、経済だけではない。人工知能での優位は軍事力の優位にも直結する。

 

この情報という点では、これから日本を含む欧米先進国は大いなるジレンマに悩まされることになるだろう。極端な言い方をすれば、中国は国家も、企業も「人権」を犠牲にして情報という資産を掻き集めているようにさえ見えるらだ。(しかもこれは必ずしも中国だけの問題ではなく、新興国発展途上国のスタンダードとなっていく可能性もある。)この「情報」が中国の経済力も軍事力も格段に増強する可能性があるのだから、他国は穏やかではいられない。欧米諸国は、当然、「人権」を盾に欧米に近いスタンダードをあらためて世界標準として中国にも受け入れるよう要求するだろう。だが、もはや以前のように、技術レベルが劣っていて、人材もいなかったころの中国ではない。それどころか、巨大市場かつ巨大生産地となった上に人工知能等の新領域では世界の最先端に立ちつつある今、中国が世界標準の中心地となりかねない勢いだ。あえて欧米先進国に下手に出る必要もなくなりつつある。

 

一方、現代のプライバシーに関わる思想は、西欧の思想風土から醸成されて来た比較的新しい概念ということもあり、中国やインド、あるいはイスラム圏等の思想や宗教の背景が異なる国や地域との合意を形成していくのは、相当な難事と考えざるをえない。人権を盾に個人情報収集に制限をかけようとするにしても、よほど、しっかりした理論構築をして臨まないと蹴散らされてしまうだけだろう。特に日本の場合、世界では、人権を語るには相応しくない国と評価されてしまっている。女性差別報道の自由のなさ、刑事司法制度、長時間労働ブラック企業等、日本人は日本なりの反論はあるかもしれないが、世界標準という意味では、褒められたものではない。まず、足元を綺麗にして臨まないことには、まさに足元を見られてしまうだろう。

 

実は人権侵害だらけだった日本

欧州が日本に「人権条項」要求・・・実は人権侵害だらけだった日本 - NAVER まとめ

男女平等ランキング 日本116位

【国際】世界「男女平等ランキング 2016」、日本は111位で昨年より後退。北欧諸国が上位独占 | Sustainable Japan

報道の自由ランキング 日本72位

報道の自由度ランキング - 世界経済のネタ帳

 

グローバリズムが浸透してきて、国民国家の意義を問われるような状況にあって、民主主義国家でも、合意形成が声の大きさで競われるような現象が繰り返し起きて来ており、民主主義自体に対する懐疑論もあらためて声高に語られるようになって来ている。確かに、習近平首席とトランプ米大統領を比べれば、習主席の方が、リーダーとしての資質が上回っていると言わざるを得ない。だが、だからといって中国のやり方がこれからの世界標準と言い切るような単純な議論に与するわけにはいかない。

 

 

◾️思考停止している場合ではない

 

日本人にとっては目を背けたくなるような状況かもしれないが、こと経済的な問題で言えば、長い間本質的な問題から目を背け、本当の改革を先送りしてきたツケが本格的に現象化していることを素直に認め、さらには、思想的な問題は日本人には対応不能というような姿勢を改めないと市場開拓一つできなくなる恐れがあるという事実を噛み締めて見るべ時だと思う。日本人には無理どころか、日本人にしか出来ないことは間違いなくあるこんな時だからこそ、世界で本当に尊敬を集める思想や行動とは何か、どうすればそれを商行為を含む行動の規範として据えていけるのか、そして世界で賛同を得ていくにはどうするか、原則に帰って探求していくことこそ重要なのだと信じる。テクノロジー利用という点でも、ブロックチェーンなど、脱プラットフォーマーを可能にするテクノロジーとしても注目されて来たわけだが、これを最大限活用するビジネスモデルを案出していくことも、できること、やるべきことの一つだと思う。思考停止している場合ではない。

 

 

*1:

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

 

2018年とそれ以降をどう予測すればいいのか?    

            

2025年くらいまでをどう予測するのか

 

2018年が明けた。昨年後半は特に、ブログを描くペースを落としたこともあり、恒例にしていた年末のその年の総括も書かなかった。言い訳がましくなるが、この1〜2年というもの、変化のあまりの速さにショートレンジの予想の難しさを痛感することしきりで、2017年に起きたことを列記するのはいいが、それに対するコメントを書くことに戸惑いがあった。それは今も変わらないのだが、せっかくの年初なので、それでも何か書いてみようと思う。

 

将来の見通しを聞かれたとき、最近いつも答えているのは、「2030年くらいの未来については、シンギュラリティとは言わないまでも、テクノロジーの影響がかなり浸透して、否応なく、世界は大きく変わっていることは間違いないと考えている」、ということだ。だが、本当に予測が難しいのは、テクノロジーの過激なほどのスピードと、短期間に変化を迫られる社会や人間の側の対応能力が限界を超えて、混乱の最中にあるであろう、2025年くらいまでの間だ。しかも日本の場合、2025年に団塊世代後期高齢者入りすることに象徴されるように、高齢化や人口減少の影響も大きく顕在化してくることが予想され、それでなくても政治的にも、経済的にも、社会的にも非常に難しい時代に突入することが予想されている。

 

もちろん、ここで噴出する問題の解決については、まさに技術、特に人工知能関連の技術の寄与するところは大であり、可能な限り問題解決のために利用されて行くことは間違いない。だが、技術が先導し社会に変化を要求するスピードのあまりの速さに、受容する側の社会が追いつかず、特に日本の場合は制度の変更にも通常極めて長い時間がかかるため、今から数年で問題が解決している姿は想像することが難しい。しかも、これまで以上に本質的に解決が難しい問題が次々に表面化してくることになる。(この「解決が難しい問題」については、別途、日を改めて少し詳しく書いてみようと考えている。)

 

 

変化のスピードが対応能力を大きく上回っている!

 

「フラット化する世界」*1の著者、トーマス・フリードマン氏は最新の著書、「Thank you for Being Late」*2 でこの問題、すなわち技術の進化と社会の需要の問題を取り上げている。1000年前までは、人間が何か新しい生活習慣を身につけるのに、2〜3世代(約100年)の時間が必要だったが、 1900年代以降、一世代(約30年)くらいに、今では10〜15年で対応できるまでに対応能力を上げてきたと述べる。ところが、昨今では、社会を支えるテクノロジー基盤が57年で完全に入れ替わるようなことがあちこちで起きているという

 

しかも、このスピードアップはこれからが本番だ。そして、その程度も、範囲も、規模も、どんな識者にも、専門家にも最早予測不可能となりつつある。世界中で不安の渦が大きくなるのは当然だ。社会が受容するためには、ある程度の時間が欲しいと誰もが感じているはずだし、それは人間社会にとって当然の要求ではある。だが、その一方で、社会で受容が遅れることは、その社会(国)の企業が競争に負けることに直結するから、とにかく早く受容しろという企業側(場合によっては国家)からのプレッシャーが強くのしかかることになる。ところが、企業が競争に勝っても、米国が典型例だが、企業と富裕層(上位1%)の資産を増やすことには貢献しても、その他(99%)にその恩恵が及んでくるどころか、仕事が海外に流出したり、IT技術やロボット等による省力化で仕事が奪われてしまったりする。

 

 

驚くべき2017年の米国の実情

 

 In Deepというブログで、今年 1月1日に、米国の人気ブログ「エコノミック・コラプス・ブログ」で発信された、「信じるにはあまりにも狂気じみた 2017年の 44のことがら」という記事が紹介されているが、これが実に興味深い。米国の実情をリアルに見せてくれている。

数字からわかる「狂気じみていた2017年」。そして、おそらくはこの狂気は今年も継続する | In Deep

44 Numbers From 2017 That Are Almost Too Crazy To Believe

 

内容を見ると、一方で先端技術が浸透していることを示す内容がある。

2. ビットコインの価格は 2017年に 1,300%以上も上昇した。

14. 2017年のある時点で、すべての暗号通貨(ビットコインリップルなどの仮想通貨のこと)を合わせた時価総額は、5000億ドル(55兆円)を超えた。

 

その一方で、先端技術や先端技術を駆使する企業等の影響によって、社会が大きく変化していると考えられることを示す内容が目白押しだ。

6. アメリカでの小売店閉鎖件数の記録は、2017年に壊滅的なものとなった。最新の数字によると、2017年は、アメリカで 6,985の店舗が閉鎖された。 2018年も同じペースでアメリカの小売店の閉鎖が起きると予測されている。

7. 信じられないことに、2017年のアメリカ国内の小売店閉鎖件数は、2016年に比べて 229%増だった。(TEC

10. 最新の数字によると、現在 4,100万人のアメリカ人たちが貧困状態で暮らしている。 (TEC

24. 超自由主義的な都市であるシアトルでホームレス状態が拡大しており、市の周囲には 400の無許可のテントキャンプが出現している。

25. 2017年に実施された調査では、アメリカの全常勤労働者のうちの 78%が給料ぎりぎりのその日暮らしをしていることがわかった。

26. 米連邦準備理事会(FRB)によると、アメリカの平均的な世帯は現在 13万7,063ドル (約 1500万円)の負債を抱えており、その数字は平均世帯収入の2倍以上だ。

31. ビル・ゲイツジェフ・ベゾスウォーレン・バフェットは、その3人の資産だけで、アメリカの最も貧しい人口の 50%の資産すべてを合わせた以上となる。

32. 2017年の時点で、アメリカすべての世帯のうちの 20%は、「資産0、あるいはマイナス資産」となっている。

39. すべてのアメリカ人のうちで 1万ドル(110万円)以上の貯蓄をしているのは 25%にしか過ぎないことが報告された。 (TEC

40. 連邦準備制度理事会が実施した調査によると、アメリカのすべての成人のうちの 44%は「予想外の 400ドル(4万5000円)の出費をカバーする」ことのできる資金を持っていないことが分かった。

 

極めつけは、これだ。

44. 調査によると、今、アメリカ人の 40%が「資本主義より社会主義のほうが好ましい」と考えていることが判明した。michaelsnyderforidaho.com

 

どのような状況でこのアンケートが行われたのか、詳しく知りたいところではあるが、本当にこの数値が米国民の実態に近いのであれば、この国は早晩統合することができなくなって、崩壊してしまうのではないかとさえ思えてしまう。

 

トランプ大統領は、米国のプアーホワイトの経済状態の改善を公約に掲げて大統領になったわけだが、少なくとも2017年について言えばその公約が実現したとは言い難い。それどころか、格差はむしろさらに広がってしまったとしか考えられない。33.にある通り、アメリカの株式の総資産はトランプ氏が大統領に選ばれて以来、 5兆ドル(550兆円)以上増加しているのだ。その恩恵が大多数の国民には及んでいないと言わざるをえない。

 

米国の例は極端ではあるだろう。だが、すでに日本でもこのような兆候は見られるし、今後は同じような状況になりかねないことは、覚悟しておく必要がある。しかも、日本では米国以上にコミュニティが崩壊しており、日本の方が、社会に包摂性がなくなりつつあるのではという懸念もある。

 

 

物理インフラシフトの本格化/エネルギー革命

 

2018年が社会の大きな混乱が顕在化してきそうと考える理由には、直近のテクノロジーの影響の方向性にもある。と言うのも、これから2030年くらいまでに起きて来ることの中で、社会の屋台骨に関わると考えられることの一つが、社会のインフラ/システム/プラットフォームの入れ替えだ。

 

第二次産業革命によって出来上がって来たインフラ、すなわち中央集権型の電気通信、化石エネルギー、原子力発電、内燃機関による運輸、鉄道、水道、航空輸送だが、これが、デジタルによって統合されたスマート・インフラに今後そっくり入れ替わることになる。そして、5G通信インターネット、デジタル化された再生可能エネルギーインターネット、電気および燃料電池自動車によって推進されるデジタル化された自動モビリティ・インターネットで構成され、IoTによってノード同士が接続されたスマートなビル群の上に構築される。このあたりのイメージは、著書「限界費用ゼロ社会」*3で知られる、文明批評家のジェレミー・リフキン氏が昨今、ネットニュースサイトのNewsPickesや日経ビジネス等でも勢力的に語っているので、ご確認いただきたいが、リフキン氏に言われるまでもなく、昨今の趨勢をきちんとウオッチしている人であれば、「常識」の範囲だろう。

 

これまでは、デジタル革命=情報革命と見なされがちだったが、これからは、それが物理的なインフラ、目に見えるインフラを根こそぎ変えるフェーズに入ると考える。それが本格化するためには、「モビリティ」の領域が本格的に構造変化を起こすことが前提となると私は考えてきたが、どうやらそれが現実に具体化する情勢となってきた。(自動運転、EV自動車への転換の動向等)。2018年にどこまで顕在化するかを   正確に言い当てることは正直難しい。だが、2025年までということであれば、すでに主要プレーヤーの中では、具体的な市場投入案件として扱われてきている。そして、もちろんこれは狭義の「モビリティ」の問題ではなく、エネルギー革命の本格化を示唆している。

 

エネルギー革命の本格化ということになると、これまでのインターネット革命と比較して、格段に社会や経済に与える影響は大きくなる。それが見えてくると日本の場合も、「第二次産業で出来上がったインフラ」従事者、およびこれに乗っかった(戦後営々と構築され、高度経済成長期には全盛を誇りながらも、昨今では、変化を阻む遅れの象徴とも見なされるようになった)「日本的経営」に馴染んだ企業や従業員にも、自らの身に迫る危機や不安感としてリアルに感じられるようになるはずだ。

 

ただ、これは日本経済にとって悪いことであるどころか、昨年好調で本年も上昇が期待されている株高を引っ張る原動力ともなっている。具体的には、IoT、ロボティクス、自動運転、半導体等、まさに新しいインフラ関連企業は、今非常に潤っている。先行する世界の動向を見ても、もはやこの流れが逆転することはない。賽はすでに投げられたのであり、2018年は「旧インフラ」の終わりの始まりがはっきりと見えてくるだろう。そして、社会の混乱と不安感は従来に増して大きくなるこれを如何にうまく、良い方向で乗り切れるよう、それぞれの立場で身の振り方を考えておかないと、時が進むとともに変化の振れ幅は(ある時点からは幾何級数的に)大きくなっていくことはもはや避けることができないトレンドだ。

 

繰り返すが、2018年というショートレンジではっきりとこういうことが起きてくるという具体的な見通しを語ることは極めて難しいが、上記のように少し中期的なレンジでの傾向、そして、そこで予想されること、すなわち「2018年はこのインフラシフトがはっきりと見えてくる」「社会の混乱と不安感は非常に強くなる」ということであれば、ある程度自信を持って予測として申し上げることができる。

 

 

常識にもイデオロギーにも捕らわれない態度

 

問題はこれをどのように解決していくのか、あるいは、どのような解決のされ方が世界で起きてくるのかだが、安易な先祖返りやノスタルジーは論外だし、これまでの常識に捕らわれたままでは問題が解決するどころか、問題をこじらせてしまいかねない。

 

例えば、米国で言えば、この国の富の偏在が社会に及ぼす影響は、自由競争を至上の価値とするお国柄でありながらも、場合によっては、その国柄自体に変革を迫ることにもなりかねない。だからといってトランプ大統領のような技術進歩にあからさまに抗おうとする政策が有効とは思えない。それ以前にトランプ大統領は、この歴史上類を見ない変動期を乗り切る世界のリーダーとしての資質に疑問を感じざるをえず、米国の行く末を大きくミスリードしかねない。

 

一方で、中国の習近平国家主席など、自由主義陣営から見ると恐るべき覇権国家の親玉として忌み嫌う人が多い事は承知の上で言えば、むしろリーダーとしての資質はトランプ大統領を凌ぐと言っていい。直近でも、世界最悪と言われたMP2.5の数値を短期間にすっかり改善して見せたり、中長期的にも先端技術の促進策はもちろん、徹底した情報収集/情報管理を通じて「社会信用体系」を構築し、「約束を守らない国」として知られる中国を「約束が守られる国」へ矯正しようとするビジョンなど、時代の要請を理解し、中国の強みを最大限強化する方向性がはっきりしており、非常に合理的だ。直接真似をすることは難しいが、日本にとっても大いに学ぶべきところがあることは認めるべきだと思う。

 

このごとく、従来のイデオロギーや思想、歴史的経緯等に過度に捕らわれているようでは、問題の本質も、進むべき方向も見えてこない。そういう意味では、日本にとっても、理系脳以上に今こそ文系脳がフル回転すべき時で、存在価値も大きく問われるようになる」ということを予測に加えておいても良さそうだ。

*1:

フラット化する世界 [増補改訂版] (上)

フラット化する世界 [増補改訂版] (上)

 

 

*2:

Thank You for Being Late: An Optimist's Guide to Thriving in the Age of Accelerations

Thank You for Being Late: An Optimist's Guide to Thriving in the Age of Accelerations

 

 

*3:

限界費用ゼロ社会 〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭

限界費用ゼロ社会 〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭

 

 

世界を理解するための入り口?「カイロ大学」

 

今は必要ないのか、今だから必要なのか

 

敬愛する著述家で冒険家でもある田中真知氏がブログでとある本(「カイロ大学*1 )を紹介しているのを見て、ハッとした。今、この切り口(エジプトのカイロにある有名大学に関する著作)が非常にタイムリーだと感じたからだ。少なくとも、今の自分にとっては、この角度から中東問題を見直してみることが、この複雑怪奇な問題の理解を深めるために(というより、少しでも理解に近づくために)非常によい切り口になるであろうことを直感した)。

 

といっても、ほとんどの人には、私が何を言いたいのかわからないだろうし、そもそも、大半の日本人にとって、カイロ大学と言えば、小池百合子東京都知事の出身大学としての印象くらいしかないだろう。(それさえもピンとこないかもしれない)。だから、この本の企画が商業的に有効だったのは、小池氏が都知事に当選したころ、あるいは、先の総選挙で小池氏が「希望の党」を立ち上げて国民が一時的に非常に盛り上がり、政権交代の騎手となるとの幻想がかきたてられた時期までなのでは、と思われているはずだ。まあ、実際だれが考えてもそうだろうから、小池氏の賭けが失敗に終わり、あれほど膨らんだ期待も萎みきったばかりか、残るのはネガティブなイメージばかりということになれば、本書のセールスにも悪影響しか残っていないのではと、訝ってしまう人の方が多いのも無理はない。


それ以上に、9.11同時多発テロイラク侵攻、「イスラム国」が急速に膨張していた頃等であれば、もっと切迫した意味で日本人にも、カイロ大学で行われている教育や、卒業生の思想について知りたいというニーズがあったようにも思える。というのも、この大学は、これらの事件に絡む著名な人物を数多く輩出しているからだ。だが、イラクにある「イスラム国」の拠点の中心部を政府軍が奪回したというニュースが流れたのは8月のことだが、喉元過ぎれば熱さをすぐ忘れてしまう日本人は、あれほど大騒ぎした中東の騒乱に対しても、そろそろ関心が薄れかかっているように見える。(少なくともそのような空気が支配的だろう)。そういう意味でも、今がセールスに適正な時期とは言えないし、読むべき必要性があるとも思えない、というようなことを、「空気がよめる」普通の人のなら言うのではないか。

 

だが、そのような空気がどうあれ、中東問題は本当にもう沈静化したのだろうか。事実はその真逆だろう。世界はトランプ大統領という旧来の常識が遠く及ばない怪物に掻き回されていることもあり、中東問題もこれまで以上にこじれつつある。次の暴発がいつどこで起きてもおかしくない。例えば、トランプ大統領は、オバマ大統領の時代のイランとの核合意破棄を宣言したり、つい最近でも、イスラエルの首都をエルサレムと宣言した。これを受けて、パレスチナ自治区や、中東、アジア等でのイスラム教徒の抗議デモが沸騰している。

 


世界を理解したいという渇望

 

一体今後の世界をどう理解すればいいのか。中東問題に限らないが、これまで積み上げられてきた政治の常識はもはや通用しない。出口の見えない不安感は、日本でも非常に大きくなってきている。それに呼応する現象と考えられるのが、2017年に思想書等の硬派な人文書が非常によく売れたことだ。小林秀雄賞を受賞した思想家の國分功一郎氏による「中動態の世界 意志と責任の考古学」*2毎日出版文化賞を受賞した哲学者の東浩紀氏の「ゲンロン0 観光客の哲学」*3はじめ、非常に印象に残り、しかもよく売れた名著が数多く世に出た。書籍や雑誌全体の売り上げが激減している中、ちょっとした事件と言っていいレベルだ。世界を根本的に理解し直す必要がある、そういう渇望は実のところ今とても大きくなってきている。本書(「カイロ大学」)はその渇望に連なる需要の一端を満たす切り口を持つように思えるのだ。

 


混乱と闘争に生き抜く強さ

 

あらためてカイロ大学の出身者で、テロに関わる重要人物を列挙してみると、これが本当にすごい。


オマル・アブドゥルラフマン(世界貿易センタービル爆破事件の首謀者)
ハメド・アタ(アルカイーダのテロリスト。同時多発テロの首謀者/実行犯)
アイマン・ムハンマド・ラビーウ・アッ=ザワーヒリー(アルカイーダの最高指導者。)
サダム・フセイン(元イラク共和国大統領)
中田考イスラム法学者。「イスラム国」に戦闘員として参加を希望する日本人学生に、「イスラム国」司令官に参加を仲介。但し、中田氏がテロリストというわけではなく、中立的な第三者の立場。)
マハムード・アルザハル(イスラム主義組織ハマスの共同創設者)

 

これだけ並べると、まるでカイロ大学というのは、世界のテロリスト養成大学のように見えてしまうかもしれないが、一方で平和運動に貢献した人物も数多く輩出している。

 

プトロス・ガリ(アフリカ初の国連事務総長
ヤセル・アラファト(元PLO議長。ノーベル平和賞受賞)
ムハンマドエルバラダイ(元IAEA事務局長。ノーベル平和賞受賞)
ワエル・ゴニム(2011年エジプト革命に貢献。ノーベル平和賞候補)
アハマド・マヘル(エジプト民主化運動の若きリーダー)

 

著者の浅川氏が述べているように、カイロ大学は、世界で一番「混乱」に強い卒業生を輩出する場所となっていて、実際にそれを卒業生が実証して見せてくれているように思える。ここに列挙された錚々たる人物を見ると納得がいくはずだ。また、カイロ大学は「中東のハーバード」とも「混乱と闘争で生き抜く強さで世界一」とも言われているというが、後者の「価値」こそ、今後の世界で何より重要視されて行くに違いないと考えるのは私だけではないはずだ。

 


命がけのアイデンティティの探求

 

本書で私が特に印象的だったのは、歴史的にこの大学の教職員や学生が苦闘し、模索している自らのアイデンティティの探求だ。

 

アラブ人
世界的な文明発症の地としてのエジプト人
イスラム教徒(スンニ派シーア派、その他)
西洋主義
軍閥ナショナリズム

 

エジプトだけではなく、周囲の国々からの優秀な留学生を迎え、激しい議論の応酬を繰り広げる。そのような環境の中から、感染力の強い思想を練り上げ、優秀なリーダーが育ち、国を超えて連帯していく。しかも単なる抽象度の高い「遊戯」とは正反対の、生死をかけた闘争の中でこれが行われている。昨今話題になった日本の学生のデモをこれに対比させるとその違いは明らかだろう(SEALDsとは何だったのか、カイロ大学での政治活動との対比で考え直してみることも有効に思える)。

 

それは、外側からでは、全く理解も想像も及ばない何かだ。本当に理解したければ、内側にいて、この場を体験すること、すなわち実際にカイロ大学のような場所に身を置くことだろうが、せめて、カイロ大学という切り口で、ここで起きていることを理解する努力をしてみるというのは、一つのきっかけになるように思える。本書を読むとその入り口が開いていることを感じることができる。


日本から海外の大学への留学生は著しく数が減っていると言われて久しい。それは、日本という国にとって、やはり本当に危機的なことであることを、あらためてひしひしと感じてしまうのも、ある本書を読むことの「意味」の一つと言えるかもしれない。

 


グローバリズムの世だからこそ

 

グローバリズムというと、世界のルールが統一され、文化の差異が目立たなくなり、世界が均一の場所となることをイメージする人は今でも少なくないが、残念ながら、それは大変ナイーブな幻想というしかない。ルールが取り払われて、人の交流が増えた結果、実際に起きたことは、こういう場でこそ人は自らのアイデンティティを意識し、ちょっとした違いに敏感になり、その結果紛争も増えるということだ。だから、繰り返すが、そのような紛争や混乱に強いことの重要性は今後ますます高まって行く。カイロ大学に実際に行くかどうかは別としても、もっと理解を深めていくことの意義は特に今の日本人にとって大きいと思う。

*1:カイロ大学 (ベスト新書)

カイロ大学 (ベスト新書)

 

 

*2:中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

*3:ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

AI(人工知能)で本当に勝てる企業とは?

 

 

具体的な戦術に落とし込まれているか

 

AI(人工知能)等の新技術は、昨今、経営者なら誰でも口にするような(というより一応口にしておかないと恥ずかしいとみなされるような)バズワードになってきた。この技術の本当の意味もわかりもせずに口にする人が大量に溢れるようになった現状を横目で見ていると、次に起きることを言い当てることができる気がする。おそらく、遠からず「言葉の過剰」のバブルは弾け「実際の達成」との落差に愕然とすることになり、多くの人が失望の憂き目を見ることになるだろう。だからといって、AIが企業の競争戦略上無用ということではなく、むしろまったくその逆だ。この時点で、AIによって勝つ企業と負ける企業が峻別されていると考えられるからだ。勝ち残る企業であるためには、現時点で漠然と口にしているようでは話にならない。AIを自社の競争力向上のために、どのように応用していくのか、どのような準備を進めて行くのか、というような具体的な戦術に落とし込まれているようでなければ手遅れだ。少なくとも手遅れになる可能性が高い。

 

 そういう観点で少し冷静に市場をウオッチしていると、大半の日本企業が具体性どころか、方向喪失して右往左往している様が見えてくる。例えば、その典型例が、自社の方向性も決まっていないのに、いきなりAIを専攻したエンジニアを採用しようとしたり、自社のエンジニアにAI講座を履修させたり、経営者が具体的な事業プランもなくシリコンバレーの有力企業を表敬訪問するようなことだ。もちろんそのような行動自体がまったく意味がないとまでは言わないまでも、そのレベルで止まってしまっている企業は、断言してもいいが、「来るべき選別の時」を乗り切ることは難しい。

 

 

正しいデータ戦略推進が鍵

 

では、その選別の時を乗り切ることのできる企業はどんな企業なのか。生き残る企業の共通点として指摘できる特徴はあるだろうか。私が考える共通点は、「正しいデータ戦略を推進していること」である。

 

先日、最近は IT批評家として幅広く活動している、尾原和啓氏による、News Picksの有料記事の寄稿の一節が、かねてから私自身述べていた論旨に非常に近いため、我が意をえた思いをした。 尾原氏はAIの強みは「データ×アルゴリズム×計算インフラ」で決まると述べる。このアルゴリズムの部分は、Googleのような米系企業が非常に強力な競争力を発揮して世界に覇を唱えていることはご存知の通りで、例えば、Google傘下のDeep Mind社が開発したAlfaGoが囲碁の世界チャンピオンを撃破して世界を驚かせたことは記憶に新しい。今やAI専攻の学生はメジャーリーガー並みの報酬で先進企業に迎えられ、激しい開発競争が繰り広げられているわけだが、ここに今から日本の普通の企業が新規参入することは極めて難しいと言わざるをえない。一方、計算能力のほうも、スーパーコンピュターや、AIチップ等の能力向上の競争に見られるように激しい競争が繰り広げられており、こちらも新規参入は難しいのが現実だ。(余談だが、例外として、日本のスーパーコンピューターの少人数で後発のベンチャーでありながら、世界クラスの競争力があって非常有望視されていた、「Pezy computing」の斉藤元章社長は、詐欺の容疑で逮捕されてしまった。事情通からは、日本は大丈夫か?という嘆きが噴出している。)

 

ところが、このアルゴリズムと計算インフラは、AIのビジネス利用を目論む参入者が自社開発せずとも、昨今では、GoogleAmazonマイクロソフトのような会社が、クラウドサービス(GoogleTensor Flow等)の形で提供しており、プログラムを書いたこともない文系出身者でさえ、AIを使うことができるようになっているという。従って、AI利用という点では、競争力の焦点は、データ、それも、AIが育ちやすくなるような学習データが自然と湧いてくるような構造をつくることに移ってきている。これを短くまとめて尾原氏は「学習データが自然と独占できる生循環をつくること」と述べている。そして、その「3つのパターン」として、gumi社長の国光宏尚氏の発表を引用している(コストダウンの生循環、付加価値の生循環、需要アップの生循環)。

 

いずれも、AIによって予測・自動化ができて、付加価値が高いプロセスを見極めてAIの機能を織り込み、その付加価値があるがゆえに、利用者がそこに集まり、集まってデータの軌跡を残すから益々AIの精度があがり、付加価値も高まるという循環を意図したものだ。具体例として、Google Maps等の例があげられているが、Google Mapsが大量のデータをもとに渋滞予測をすると、その精度が高いが故にたくさんのユーザーがこれを利用し、たくさんのユーザーの情報が収集できることで、リアルタイムの渋滞を感知できるようになり、そのようなデータがあれば渋滞予測の精度が上がるばかりか、ドライバーが抜け道を使う時の情報がリアルタイムでわかるため、本道に戻す誘導のタイミングの精度があがる。そうするとさらに多くのユーザーがGoogle Mapsを使うようになる。このような正の循環の存在とメリットは、すでに実際にこのアプリを使っている人なら、誰しも実感しているはずだ(かくいう私もすごく実感している)。

 

 

GAFAに負けないためには

 

ただ、このような大規模なインフラに関わるサービスは特に、結局のところ、規模の経済がものを言うから、GoogleAmazonフェイスブックのような企業(昨今では、これにAppleを入れてGAFAと略称されることが多い)が市場を席巻してしまう可能性が高い。規模を大きくすることのメリットがある限り、ベンチャー企業が先行しても、企業買収等によって巨大企業がこれを飲み込んでいく力学には抗しがたいように思われる。

 

そういう意味で、日本の「普通の企業」が今からでも参入できて、しかもある程度成長しても、GAFAのような企業に押しつぶされないためにはどうするべきか、という条件を加味した上でなければ、結局のところ参入には現実味がないことになる。そのため、情報全般ではなく、あるカテゴリーに特化したり、日本の文化(含むサブカルチャー)を誘因の核としてユーザー投稿や視聴ユーザーを収集できるしくみをつくることが(料理レシピのコミュニティウェブサービスクックパッドや、日本独自のオタクカルチャーを誘因の核として投稿や視聴ユーザーを集めるニコニコ動画等が具体例)、GAFAとの直接の競合を回避し、競合力を中長期的に担保する拠り所となる、ということを私のブログ記事でも何度か述べて来た。

 

あるカテゴリーに特化して、「プラットフォーム・オン・プラットフォーム・サービス」(アップルやGoogleスマホのプラットフォームの上で機能するプラットフォーム等)を作り上げる、という意味では、ライドシェアのウーバー等もその代表例ではあるが、クックパッドのように、コミュニティが育つように仕掛けて、集まった熱心なファンのエネルギーを投稿のエンジン(原動力)としたり、ニコニコ動画のように、日本のサブカルチャー(オタクカルチャー)を理解してサービス設計するなど、より特定の(この場合日本のユーザー)にアピールするほうが、競争上の防壁を作りやすい。

 

この戦略のキーワードを並べると、「ユーザーコミュニティー」「プラットフォーム」「日本文化、習俗、思想等」ということになるが、これをうまく生かしてベストミックスのサービスをつくり、ここに、「学習データが自然と独占できる生循環をつくること」を工夫していくことが今後の日本企業の競争戦略上の一つの鍵になると考える。

 

 

無印良品は優等生

 

ただ、困ったことに、例にあげた、クックパッドニコニコ動画の業績が最近芳しくないようだ。それでも、クックパッドは内紛、ニコニコ動画は「画質の悪さ、重さ」が原因のようなので、ここで述べているロジックを毀損するものではないと考えられる。とはいえ、移ろいやすいユーザー心理に立脚することの難しさ、特に、安定的な収益モデルとすることの独自の難しさが露呈していることは否定できない。日本文化を背景にして成功したと評価される「ポケモン」にしても、爆発的な人気はあくまで一時的で移ろいやすいことは確かだ。

 

もう少し、安定的で普遍的という意味ではネットサービスではないが、(株)良品計画が提供する「無印良品」など、日本文化をベースとして、日本発世界標準として成功している典型例にあげることができそうに思える。良品計画の松﨑曉社長は、「無印良品の商品は、無駄を省いた日本的な『わびさび』なものと消費者に受け止められ、特徴を出せている」と述べている(日本経済新聞、2016年3月20日)が、確かに、そのシンプルさの中に、日本的な美意識が実現されていることを感じることができるし、市場でもそのように評価されてもいる。

 

(株)良品計画は、AI等のハイテクを押し出しているわけではないが、実は、このような成功の在り方にこそ、来るべき本格的なAI普及の時代の勝ち組になる前提条件が形成されている。無印良品は自らを「アナログ」と称しているようだが、実際の活動をつぶさに観察すると、「ユーザーコミュニティー」「プラットフォーム」「日本文化、習俗、思想等」のキーワードがすべて生かされていることが見て取れる。この先には、AIを最適利用して次の大きな競争上の優位につなげていく条件がそろっているように私には見える。

 

 

急いだ方がいい

 

「正しいデータ戦略を推進していること」が重要と述べて来たが、もちろん、「アルゴリズム」や「計算インフラ」、あるいは、情報収集インフラ等の部分についても、アプローチは様々にありうる。戦略性のあるAIに対する取組み手法のほうも、まだ工夫次第で競争できる余地はある。ただ、いずれにしても、今重要なのは「正しく理解して、具体的な戦術に落とし込む」レベルまで早急に到達することだ。あまり時間は残されていない。急いだ方がいい。

日本の異界(名古屋)の持つポテンシャルを生かす未来

 

◾️ 日本の異界

 

 「日本の異界 名古屋」*1という本のタイトルの奇抜さに思わず目をとめてしまった。私も、昔、仕事の関係で7年くらい愛知県に住んでいて、その文化の特殊性に、辟易し、反発しながら、時に包摂され、それまで真面目に振り返ることのなかった「文化」という非常に高い壁に直面して悶々としていた体験がある。そのためもあってか、当時のことが走馬灯のように浮かんできて、つい購入してしまった。

 

よく見ると著者は、かつて「蕎麦ときしめん*2という名古屋の特性を非常に巧みに表現することで喝采を受けた本の著者でもある、清水義範氏ではないか!だとするとこれは単なる上滑りのマーケティング本でも、単なるルサンチマンのはけ口でもなく、洒脱でリズミカルな文章の妙味を期待できると直感した。そして、実際その通りだった。

 

 

◾️ 誰も名古屋には行きたくない?

 

名古屋ネタですでに何冊かの著作のある清水氏が、今回また名古屋本を書くに至った理由は、2016年の6月に行われたインターネットによる「都市ブランド・イメージ調査」*3の調査結果だという。このような調査は昔からあって、今回も「文化不毛の地:名古屋」を名古屋人が自虐的に調査データで実証してみせる、というような調査の焼き直しなのではないかとも思っていたが、調査結果を見て驚愕してしまった。名古屋市への訪問意向指数(訪問したい指数-訪問したくない指数)があまりにぶっちぎりの最下位なのだ。下から3位は福岡市25.7ポイント、大阪市16.8ポイント、何と名古屋市は一桁以上低い1.4ポイントだというそのような傾向があることは十分認識していた私も、この数値を見て、そのまま捨て置けなくなってしまった。

 

もっとも、この調査結果は、すでに旧聞もいいところだ。この「衝撃」を受けて週刊誌の特集記事が出たり、ブログ記事も多数出たようだ。そういう意味では今まで気づかなかった自分の情報感度の低さに恥じ入る思いなのだが、それでもあらためて議題として取り上げておきたい気にさせられるほど、この調査結果にはインパクトがある。   

 

この結果を見て、私が一番初めに知りたいと思ったことは、「どうしてこれほどまでに数値が低くなってしまったのか」という点だ。昔からこのような傾向があったとはいえ、さすがに私の知る名古屋の評価はここまでは低くはなかったはずだ。アンケートのバイアスや何等かの不備がなければだが、何か私が知らないことが起きているのか。だとすれば、一体何が起きているのだろう。残念ながら、本書から(他の情報をあたっても)直接回答を見つけることはできなかったが、ある程度の仮説を思い浮かべる役にはたったように思う。

 

◾️ どこよりも住みやすい名古屋

 

 本書でまず私が注目したのは、清水氏の主張する次の重要な指摘だ。すなわち、他所から訪問したくない/する興味のない名古屋だが、今住んでいる人/名古屋の地元民(あるいはこの文化や習俗を受け入れしまっている人)にとっては、名古屋はどこよりも住みやすい場所であると感じていることだ。だから、地元民は、他所から人を招くことにほとんど興味を持っていない。

 

今、自分自身が観光地である鎌倉に住んでいるから余計感じるのだが、住民としては他所から来る人が多すぎることは決してうれしいことではない。混雑、騒音、犯罪等の増加が不可避だからだ。だが、それでも地元の経済の活性化に寄与すると思えばこそ、アンビバレントな思いや、地元民どうしの意見対立を乗り越えて、他所からの訪問者や移住者の増加を受け入れる。たいていは観光客を迎える必要がなく自足している名古屋のようになろうと思ってもなれないのが実情だ。ただ、何らかの策で本当に名古屋のようになれるのであれば、今の日本の危機的と言われている状況に対する一つの解決策を名古屋が提示しているようにさえ思えてくる。

 

清水氏によれば、名古屋で生まれた人たちは、名古屋を出ないで地元の大学に行き、地元で就職する人の比率が高く、その結果として、小学校や中学校くらいのころにできた人間関係が一生続くという。そして、緊密に助け合い、その関係の絆の中で生きていくことができる。さらには、結婚しても夫婦ともに地元という人が多いから、両親と住む人が多く、同居に伴う葛藤もどうやら他地域に比べるとずっと少ないようだ。しかも、名古屋では早く「大人っぽくなること」が若者の一般的な価値観というから、親の世代に反発してやんちゃな若者文化を作り上げるというような気運に乏しい変わりに、周囲の大人たちに溶け込みやすいと言える。

 

かつて、私もこの地域に住んでいたとはいえ、ここまで一般化して語ることができるほどの経験/情報はないが、それでも、地元出身の友人たちが、とにかく地元の人達と普段から非常に緊密なつながりを持っていることはひしひしと感じたものだ。最初のうちは個別の友人の個性かとも思ったが、少なくとも私の周囲の友人たちには、誰にもそのような傾向があったことを思い出す。名古屋の友人宅に行くと、ご両親が気軽に登場して話しこみ、場合によっては、そのご両親と直接連絡を取り合う友人のようになることも少なくない。考えてみるとこれは他地域ではあまりないことだ。しかも、その頃にはまだSNSなど普及していなかったから、今のように「Facebookで友達になった」というような気軽な関係とはわけが違う。

 

◾️ 日本で一番「安心」が確保されている?

 

 今の名古屋が相変わらずこんな様子だとすると、今日および今後の日本の問題として盛んに喧伝されている、コミュニティの崩壊」「少子化」「孤独な老人」というような問題に対して、一番耐性があるのは名古屋ということになるのではないか。清水氏自身が述べているように、過剰なほどの「べたべたした人間関係」が苦にならなければ(苦になる人も私を含めて多いと思うが)名古屋では、今日本から急速に失われつつある「安心」がどこよりも確保されているようにさえ見える。もっとも、どの地域でも地元のコミュニティを維持したいが、仕事がなくて、若者が他地域に流出してしまうことが問題になるわけだが、名古屋には地元に仕事がある(逆に言えば、地元にしっかりと雇用機会があることがこの独特な文化を支える重要な要因と考えられる)。

  

だから、名古屋の地元民は、この環境を変えてしまうようなよそ者に来て欲しくないと思っているというのも、よく理解できる。積極的に排除するかどうかはともかく、積極的に受け入れるインセンティブはないのだ。となれば、同質性の高い者どうし、ハイコンテキストなコミュニケーションが交わされ、文化は保守的かつ閉鎖的、よそ者が益々入り込みにくい構造になるのは当然とも言える。よって、この傾向がスパイラル状に強まることになった結果、私の昔の認識より、今はもっとよそ者が入り込みにくい、あるいは訪れるインセンティブのない場所になっているということではないのか。検証はできないが、ありそうな仮説だと思えるのだが、どうだろうか。

 

◾️ 持続可能とは言えない

 

では、今後の日本が目指すべきなのは、名古屋のような場所/あり方なのだろうか。昨今の巷の議論に耳を澄ましていると、ダイレクトに「名古屋」とは言わないまでも、このような未来像を持っているようにしか考えられない「識者」は少なくない。世界はすでにグローバルで競争できるエリート層と、そこにはついていけず、自分の生まれた場所を離れたくても離れることができない層(下層)に二極化しつつある。この「下層」のロールモデルとして、名古屋は適当に見えるのだろう。

 

繰り返すが、この議論が成立するためには、そこに仕事があることが条件となるのだが、名古屋の場合、日本でも有数の製造業出荷実績を誇り、製造業を中心としたしっかりとした企業とその仕事がある。しかも、工場だけではなく、開発拠点や営業本部を含む本社機能があるから、いわゆる「エリート層」の担う仕事も多い。そうしてみると、名古屋には、戦後の日本の発展を支えた社会モデルが崩壊を免れて最後まで残っているとも言えそうだ。なんといってもこの地域には、戦後の日本の輸出産業の中核を担ったトヨタグループがある。清水氏は、名古屋出身ということもあるのだろうが、大いなる田舎:名古屋はそのままでいいではないか、というご意見のようだ。まあそれは私も理解できないわけではない。少なくとも、ここに無用の混乱の要素を持ち込んでも、今より良くなるとは考えられない。但し、これが持続可能なモデルなら、という条件付きだ。だが、この条件が問題だ。

  

今後の持続可能性、という一点において、正直私は悲観的だ。トヨタを代表とする日本の製造業がそのまま生き残れる可能性は低いと考えているからだ。それは会社としてのトヨタに生き残れる可能性がないと言っているのではなく、もがきながらも生き残るであろうトヨタは、戦後の日本を支えた代表的ロールモデルではなくなっており、大きな変化を余儀なくされているだろうと考えているのだ。過去のブログ記事でも何度も語ってきたように、今後、世界市場で起きているデジタル技術革命を逃れられる企業はなく、その勝者は、そこでの勝利条件を理解して最大限生かすことによって世界に覇を唱えているGoogleやアマゾンのような会社だ。となると、いかにトヨタであれ、生き残っているのであれば、地元の雇用を頑なに守り、地域のコミュニテイの守護神のような今の顔を維持することは難しいと考えざるをえない。

 

そのため、今後(地方都市を含めた)都市のあり方を検討するにあたっては、デジタル技術革命を乗り切れる企業(Google、アマゾン、UberAirbnb等)およびそこに集う従業員にとって、拠点を置きたい/住みたいと思うのはどんな場所(都市)なのか、という観点に焦点をあてざるをえなくなると思えてならないのだ。

  

◾️ 豊田市の特殊なモデル

 

ただ、このような議論を展開すると、どうしても、鉄筋コンクリートを利用し、平面と技術と伝統から切り離された合理性を追求し、規格統一によって均質な製品を効率的に大量生産する、モダニズム建築のことを想起する人が今でも少なくない。実際、戦後の日本もそのようなコンセプトで開発された都市ばかりだった。名古屋圏で言えば、トヨタ自動車の本社のある愛知県豊田市など、まさにそのようなコンセプトの代表格のような街と言える。少なくとも私が在籍(在住)していた時は、そのような都市づくりと共にある「豊かな社会」の理想が何の衒いもなく語られていた。ただ、トヨタの場合が特殊なのは、モダンな住宅&街づくりと、会社コミュニティの同心円状に展開する密接な地域コミュニティが合体することによる「豊かな社会」だったことだ。そこで語られていたのは、自由主義経済学者のフリードリヒ・ハイエクが批判したような「社会設計主義」の一種だったと言っていい。自由主義経済をリードする先端企業の表の顔と違って、この場所は、社会主義的な「設計」と「統制」がはばをきかせていた。私を始め、その思想に強い違和感と居心地の悪さを感じていた人は少なくなかったが、一方で心酔している人も決して少なくなかった。ここの思想を受け入れた社員=住民にとっては安価で清潔かつ会社に最寄の住宅と自家用車を取得でき、さらには、強力に価値統一されたコミュニティがあり、会社に在籍している限りは「安全」で「安心」、ということになる。箱物としての街と住宅だけあっても、コミュニティがなければ人は安心できない。清水氏が指摘するような名古屋コミュニティとは違うが、同じ名古屋圏の中にありながら、ここは別種の「安全・安心モデル」が支配していた。

 

だが、その経営思想や文化は、先に述べたような(Google等の)企業のそれとは対極にあると言わざるをえない。それは私自身、この自動車会社勤務の後、IT系の雰囲気が濃厚に漂う時代の今所属する会社に移って、同業者との交流が増えることで身を持って知ることになった。あらゆる点で違う。違い過ぎる。早晩維持が難しくなる(と私が考える)豊田市を含めた名古屋圏の文化とは、これとは水と油以上の違いがある。

 

◾️ 収奪から育成へ

 

起業家/実業家の古川健介氏は、メルマガ記事にて、米国のプログラマーで、シードファンディングのY Combinatorの創立者としても知られる、ポールグレアムのエッセイ「都市と野心」*4を引用して、都市は不特定多数の複雑かつ巧妙な方法で人々にメッセージを送り、そのメッセージは都市によってぜんぜん違うこと、ニューヨークは「もっとお金をかせげ」「もっとカッコよくなれ」であり、シリコンバレーは「もっと影響力を持て」「世界を変えろ」というメッセージを発していると彼が述べていることを紹介している。その文脈で言えば、古川氏によれば、東京が発するメッセージは『真面目に遊べ』なのだと言う。しかも、その東京は世界で有数のクリエイティブな都市と評価されているとを紹介している。

 

共産主義社会主義のイデオローグが理想とした「社会設計主義」が有効ではないことは、ほぼ世界の常識として定着したと思うが、都市設計についても同様に、合理性ばかりを追求して、社会や土地の発生するメッセージを何の脈絡もなく強引に変えてしまうようなモダニズム建築は、少なくとも「人が住みたくなるかどうか」という点においては、もはや有効とは言えない。そう考えれば、ポール・グレアムの言う、都市や地域のメッセージは設計してつくるものではなく、『探し、栄養を与え、育てる』ことを主眼に考えて行く必要があることになる。

 

それは、「効率」「清潔」等の単一価値を土地に強引に押し付けるような手法とは正反対で、先ず長い歴史を経て、その土地の地層に溜まって熟成した習慣、習俗、感情等が発するメッセージに注意深く耳を傾け、探すところから始める必要がある。もちろん、そのように苦労して探しても、結果的に経済価値につながる成果をえることができるのか、との不満も出てきかねないが、幸い、東京もそうだが、日本の持つポテンシャルは、その点では非常に大きい。この点の説明をし始めると、今回の記事をいつまでたっても閉じることができなくなるので、今回は控えておくが、すでに世界で高く評価された「クールジャパン」についても、その成果物の上澄を掬って海外に持ち込むだけではなく、それが出てくる場所/土地が育つような取組として継続的に成果物を生むしくみを作っていく必要がある。それはまた世界市場でさらなる大きな価値を生むポテンシャルを持っている。しかも、そこに人間がどのようなコミュニティを作り生活していくのか、生活文化を豊かにしていけるのか、という点と不即不離であり、人間不在の「モダン」とは正反対のモデルということになる。

 

◾️ 今の名古屋に繋がる歴史

 

そのように述べると、名古屋圏はもはや変わることもできず、日本の工業の衰退とともに衰退が運命づけられているように読めてしまうかもしれない。だが、そうあきらめたものでもない。名古屋圏が今のように、「ケチ、お金に意地汚い、効率一辺倒」というようなイメージになったのは、清水氏によればそれほど古い話ではない。

 

江戸中期、八代将軍吉宗は、質素倹約を旨として強引に緊縮財政を推し進めたわけだが、その当時尾張藩は七代藩主徳川宗春の時代だった。宗春は、反吉宗思想の持ち主で、治世者たるもの豊かな生活文化を活性化して人々を楽しませるべきで、倹約だけでは人を思いやる心が薄くなり、人々は痛み苦しみ、不都合もあると考えた。そして、実際に、派手な政治をして、人々にもパッと遊べと号令をかけた結果、全国から人が集まり、人口は治世中に40%も増えたという。そして、日本中が注目するほどの繁栄を見せた。だが、この政策の成果が出る前に、尾張の経済は借金まみれになってしまった。将軍吉宗はこれを責めて、最終的に宗春は幕府から謹慎処分を受けてしまう。残された名古屋人は、宗春を反面教師として、吉宗のように倹約引き締めの非常に慎重で保守的な、無借金を理想とするような経営に揃って鞍替えしてしまったというのが清水氏の見解だ。確かに今の名古屋の経営者は、吉宗のような人ばかりで宗春のような人を見ることは希だ。

 

◾️ 吉宗から宗春へ

 

だが、宗春の影響はしっかりと残っていて、名古屋人の生活文化は非常に豊かなのだとも言う。名古屋人は生活を豊かにして楽しむことに積極的であり、観劇のような賑やかのことが好きで、茶の湯のような習い事も好まれ、外食文化が根づき、お菓子文化も色濃くある。宗春の時代の大いに楽しめ、という賑かな残り香があるのだというのが、清水氏の見立てだ。宗春に遡るのかどうかは別としても、豊かな生活文化が残っていることは確かだ。思えば名古屋のこの二面性は非常に興味深い。そして、何かのきっかけがあれば、この豊かな生活文化に『栄養を与えて、育てて』さらに大きく開花させることができる可能性があるということになる。うまくいけば、人を呼び込むこともできるはずだ。宗春がそれに成功したように。

 

このように考えて来ると、旧来の製造業ベースとしたモデルに捉われる必要はないし、むしろ、脱工業化の時代に適した、というより、来るべきデジタル革命本番の時代に備えて、土地に残る文化を積極的に育てていくことを意識していくことで、今のところ人を呼び込むという点で圧倒的に最下位の名古屋が、反転、次代の日本を切り開いていく可能性もあるように思える。願わくば、私自身にとっても懐かしい土地、名古屋がこのような意味で、21世紀をリードして行って欲しいものだ。