杉田水脈議員の発言問題から見えてくる日本の分断と困難な未来

 

燎原の火の如く広がる批判

 

自民党杉田水脈衆院議員による『新潮45』への寄稿文「『LGBT』支援の度が過ぎる」が多くの批判を集めている問題で、私も言いたいことは山ほどあるので、すぐに何か書いておこうと思ったのだが、少し自制して、どのような意見が出てくるかまずできるだけ見てみることから始めようと考え直した。というのも、この発言を巡る反応が『批判と擁護の複雑な諸相』となるであろうことはあらかじめ予想できたし、その『諸相』は来るべき近未来に、社会を大きく揺りうごかす問題への対応能力をはかる指標となると考えたからだ。また、それが私が最近非常に気にしている問題について述べるきっかけになるようにも思えた。

 

本件は、先ず、名指しされた形の『LGBT』の怒りが燃え上がり、早速に大規模(5,000人!)なデモ隊となって、自民党本部前に押し寄せた。加えて、寄稿文を読むと、子供を産んで国家に貢献できるかどうかを『人間の生産性』と規定した上で、その尺度で人間の価値の軽重をはかろうとしており、そこから、『LGBT』だけではなく、子供が産めなければ誰であれ生産性が低いとする意図が読み取れ、そうなると、すべての社会的弱者ばかりか、子供が欲しくても産めない悲運の人まで対象となるため、狭義の『LGBT』差別の問題を超えて、『社会的弱者』一般への差別、さらには人権問題全般に関わる大きな問題へとエスカレートして、批判は燎原の火の如く広がることになった。

 

もっとも、多少なりとも好意的に解釈すれば、杉田議員の『新潮45』への寄稿文から推察できる含意に、『人間の生産性』という用語をあてるのは、明らかに用語の使い方の間違いで、この場合『少子化抑止という政策目標を実現するために、限りある資源の中から予算配分しようとすると、子供を産み育てる親の経済負担をできるだけ軽減するために重点配分する必要がある』とでも述べておけば済んだはずだ(それでさえ反論や非難が殺到する可能性はあるが・・)。その意味で、杉田議員を心情的にサポートしたいと考えている人たちからは、発言の一部の言葉尻を捉えて過剰反応するのは、杉田議員を悪意を持って貶めているだけではないか、というような意見が出てくることになる。

 

しかしながら、杉田議員の過去の発言を一通り読んでみると、仮に今回の記事にさほどの悪意がなかったとしても、過去に様々な差別を容認するような発言を繰り返しており、政治家としては看過しがたい思想の持ち主であるように感じられる。彼女にも発言の自由を許すのが現代社会(民主主義)の原則とはいえ、人権尊重、法の下の平等等を原則とする現行憲法の遵守を義務付けられている公人としての政治家の資格はない、との意見が出てくるのは無理からぬところだろう。

 

 

一個人の失言ではなく自民党自体の『信念』?

 

ただ、問題は、杉田議員の発言から判断すると、この人が現行の憲法ではなく、『近代家父長制家族』をベースとしていた、明治憲法のような思想を掲げ、その優位を確信していると考えられることだ。そして、それは巷間指摘されているように、安倍首相を始めとした、現行の自民党の主流派に広がる思想でもある。2012年に公開された『自民党憲法草案』を読めば、杉田議員の思想との類似性は明らかだ。そうなると、杉田議員の発言は、失言ではなく、『信念』の表明であり、杉田議員個人の問題ではなく、自民党自体の問題にということになる。

 

ここまで原稿を書いている途中に、映画作家想田和弘氏の寄稿文が、私がここまで書いて来たストーリーとほぼ同じ展開であることに気づいた。文中に『自民党改憲草案』に関連して非常にわかりやすい説明文があるので、引用させていただく。

 

そう、自民党改憲案は、杉田議員の主張「生産性のない人間に税金を使うな」と、全く同じことを言っているのである。

 ちなみに、改憲案の起草委員会のメンバーだった片山さつき参議院議員は以前、ツイッターでこうつぶやいた。

 「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」

 「天賦人権論」とは、男も女も異性愛者も同性愛者も健康な人も病気の人も障害のある人もない人も子供も老人も右翼も左翼もアナーキストも、生まれながらに人権がある、というものである。

 自民党改憲案でそれを公式に否定し、義務とセットにした。つまり義務が果たせない人間には人権がない、とドヤ顔で謳ってしまったわけだ。

第67回:杉田水脈議員の考えは、自民党の考えである(想田和弘) | マガジン9

 

 

杉田議員(および片山さつき議員等自民党改憲草案に関わったり、支持している人達)の信念に基づけば、LGBTの件も、男女差別(杉田議員によれば男女区別)も、人権無視の非道などではなく、『家父長制度の家族』のモラルの問題であり、正義は自分たちの側にあると確信していると考えられる。

 

世界的に見ても、社会学者の見田宗介氏が近著『現代社会はどこに向かうか』*1 でも述べている通り、『近代』という時代の特質は、人間の生のあらゆる領域における『合理化』の完徹であり、国家(ないしそれに相当する)の未来のために現在の『生』を『手段化』して、禁圧することにあった。だから、『手段化』を徹底すれば、個別の人権も当然制限を受ける。このごとく、杉田議員の信念体系においては、今回の寄稿文の内容も、これまで繰り返して来た発言も、皆、正当化されうる正義と確信していると考えられる。

 

通常であれば、これほどの『失言』となれば、本人の発言の取り消し会見であったり、議員辞職であったり、あるいは所属する自民党からの離党勧告であったり、お決まりの解決手法ですぐに決着をつけてしまうところだろうが、杉田議員が自身のツイッターで、党内の『大臣クラスを始め、先輩方』から『間違ったこと言ってないんだから、胸張ってればいいよ』『杉田さんはそのままでいいからね』と声をかけられたとし、『自民党の懐の深さを感じます』と投稿していることからも、多くの自民党議員の本音は杉田議員と同様であることがわかる。

 

ただ、これは表向き『性的な多様性を受容する社会の実現』という公約を掲げてきた自民党とっては大変厄介な問題ではある。そもそも建前と本音が食い違っていることにここであらためて焦点をあてることは、百害あって一利なしだからだ。杉田議員擁護派とされる、自民党の二階幹事長なども『個人の思想/発言の自由』の範囲でお咎めなしとして済ましてしまいたい姿勢がありありだったが、結局、党としては、『個人的な意見』と留保しつつ、不適切な『表現』があると認め、『今後、十分に注意するよう指導した』ようだ。騒動の大きさを勘案すれば、異例なほど軽い処置と感じた人が多いのではないか。

 

 

トランプ大統領登場以降の米国と酷似

 

ここで、あらためて杉田議員や自民党が酷いと批判することはたやすいが、本件はもう少し大きな構図で見直しておくべき問題が底流にある。今回の騒動は、今の日本の『捻れた構造』をあらためてわかりやすく『見える化』してくれているとも言える。トランプ大統領の登場以降、米国が分断されていることが盛んに喧伝されているが、日本にも非常に大きな分断構造があることが改めてわかる。杉田議員シンパは自民党議員だけではない。今はどのメディアでも杉田議員批判記事一辺倒という印象だが、杉田議員批判の記事についている匿名のコメントを読んで見て欲しい。驚くほど杉田議員を擁護する意見が多い。

 

この対立構図は、トランプ大統領候補が急激に支持を獲得していった時期以降の米国と酷似している。当時の米国では、80年代以降大きな流れとなっていた『ポリティカル・コレクトネス』(職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で政治的に不適切な表現を排除しようとする動向)の行き過ぎで、米国のサイレント・マジョリティ(非エリート/プア・ホワイト/一般大衆)が、『息苦しい』、『本当に思っていることが言えない』、『リベラルは人権をたてにとって言論封殺している』等の鬱屈を溜めていたところに、破天荒なトランプ大統領候補が現れて、彼らの本音と不満を代弁して打ちまけ、『暴言』や『差別発言』満載であるにも関わらず大喝采を浴びて、大きな支持を集め、大統領にまで登りつめた。

 

杉田議員はLGBTに有利な法律制定などは、『行き過ぎた逆差別』と述べているが、これなど典型的な、アンチ『ポリティカル・コレクトネス』で、日本でも、『言いたくても反発が怖くて言えないと思っていたことを言ってくれた』というような反応をする人が少なくない状況は、まさに米国で起きたことと同類と言ってよかろう。

 

また、杉田議員は、2016年、産経新聞に連載していた「杉田水脈のなでしこリポート」で、LGBT支援の動きはコミンテルンが日本の家族を崩壊させるために仕掛けた』との陰謀論を唱えているが、*2 これなど、『ユダヤ人が世界を制覇しようと暗躍している』という類の陰謀論と大差ないように私には見えるが、従来ならこのような、事実かどうかはっきりしないことを放言することは、政治家として致命傷になりかねなかったが、昨今では米国でも日本でも『事実』と政治家生命とはそれほど関わりがない。その傾向は杉田議員だけではなく、昨今の自民党政権にはっきりと現れていると言っても過言ではない。有権者にとって、自分が叩きたい対象を叩いてくれる政治家、実現可能な政策に裏付けられているか、あるいは事実に基づいて発言しているかどうか等に関わりなく自分たちの利益代表として大きな声をあげてくれる政治家が喝采をあびて支持層を増やす構図は、まさにトランプ現象そのものだろう。

 

ジャーナリストの田原総一郎氏は、『嘘が常識の安倍内閣をなぜ国民は支持するのか』*3 というタイトルの記事を寄稿して現状の日本の政治シーンを不可解と嘆いているが、トランプ政権の報道官が使って大変話題になった、『オルタナティブ・ファクト代替現実)』(真実に対するもうひとつの事実。世間的には事実と見なされていない、嘘と見なされるべき事柄を『それもひとつの真実だ』と述べる時に使われた用語)が幅を利かせ、客観的な事実よりも、感情に訴えることの方が影響力がある状況は米国だけではなく、日本でも同様となっているということだろう。

 

だから、日本でも、舌鋒鋭く杉田議員を糾弾する言説が出て来れば来るほど、いかに正論でも(逆に正論であればあるだけ)、一方では、リベラルな発言に反発する空気がどんどん膨らんでいくと考えておく必要があると思う。ただ、これは本当に厄介な問題だ。言葉による議論が全く噛み合わず、熟議は機能せず、互いに感情的な反発を強めるだけで、合意形成ができないことを意味しているからだ

 

 

迫り来る真の危機

 

これが現実であることを認めざるをえないとすると、今の日本は(世界も)これからやってくるもっと本質的に厄介な問題に対処できる条件が揃っていないことになる。そういう意味で、『真の危機』が迫っているとも言える。

 

例えば、人工知能に代表される圧倒的にな技術の浸透による、中間層の大量失業の問題がある。著書『サピエンス全史』*4 が世界的にベストセラーとなった、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏など、『未来を読む』という著作におけるインタビューで、人工知能の浸透により、近い将来『役立たず階級』が大量発生する、と述べているが、これは実にリアリティがある。人工知能である種の仕事がなくなるとの見通しに対しては、なくなる仕事があっても、別の種類の仕事ができてくるとの主張があるわけだが、その『新しい仕事』には、従来の中間層(のスキル)ではほとんど対応できなくなる可能性が高い。仕事は高度なスキルを持つ人材と超低賃金労働者にしか残らないと考えられる。大量の人を労働市場から押し出し、世界中で新たな社会的・政治的問題が発生すると考えられる。このような脅威に対しては、グローバルなレベルでしか解決できない問題であることハラリは指摘するが、ブレクジットやトランプ大統領の当選等の、ポピュリスト・リーダーの台頭がはらむ真の危険性は、このような問題に対して、グローバルなレベルで協調する能力をむしばむことだとして、ナショナリズムは決して解決策にはならないと述べている。その指摘はそのまま日本にも該当すると考えざるをえない。

 

さらには、今、世界中で起きていて、しかもこのままではさらに大きな流れになるであろうことは、経済的に圧倒的な強者とその他大勢の弱者の二極化の進展だ。貧困撲滅に取り組む国際NGOオックスファム』の報告書によれば、世界で最も裕福な8人が保有する資産は、世界の人口のうち経済的に恵まれない下から半分にあたる約36億人が保有する資産とほぼ同じであり、トップ10の大企業の収益の合計は、下位180の貧しい国々の収益以上だという。*5 そして、この傾向は今まさに加速化しつつある。

 

そのような分断は、今後は、経済的な問題にとどまらない。遺伝子操作等のテクノロジーの進歩は、人間の生命という点でも、圧倒的な強者と弱者を生み出す構図を強力に推進する可能性がある。しかも、それはもう目前に迫って来ている問題だ。そして、これは非常に判断が困難な問題に社会が決断を迫られることを意味している。中でも懸念されるのが、まさに『優生思想』に対する態度の如何だ。ナチスのように、生きている人間を殺戮するほどの『優生思想』の遂行は流石に許容されることはなかろうが、遺伝子操作によって、優秀な性質のみを次世代に残していこうという意味での『優生思想』は実は今でも脈々と生きている。

 

人間の生のあらゆる領域における『合理化』を完徹し、国家(ないしそれに相当する)の未来のために『生』を手段かして現在の『生』を禁圧する、という『近代』の思想は、『優生思想』との相性が非常によく、実際に米国をはじめとした先進国では、数多くの『優生思想』に基づく政策が行われてきた。(もちろん日本でもそうだ。)脱近代化したはずの現代をもう一度『近代』に引き戻し、個人より家族や国家を上位に置こうという思想にとっては、優生思想を否定する理由がないことになる。従来は思想はあっても手段が限られていた。これからは手段も非常に安価でカジュアルに存在することになる。やろうと思えばいくらでもできる時代がやって来つつある

 

だが、これで懸念されるのは、一般人がほとんど気がついていないが、本質的に重要な問題だ。哲学者のマイケル・サンデル教授が著書『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』*6で述べているのだが、『生』『生命』には本来『被贈与性』があり、それこそが、人間を鍛え、社会を進化させるよすがとなって来た。『生命の被贈与性』というのは、『生命』は原則操作が出来ず与えられるものを受け取るしかない、という意味だ。両親は自分の子供が健康で賢く生まれることを念願するが、実際そうなるとは限らない。どのような障害や劣性形質を持って生まれてくるかわからないのが『生命』だ。だが、だからといって親はそのような子供を見捨てない。条件によって差別するのではなく、自分の子供なら無条件で愛する(もちろん例外はあるが・・)。これは見方を変えれば、人間は子供によって無償の愛を学んでいるとも言える。そして、それは人間社会、というより人類全体に無償の愛を涵養し、広げるために、非常に重要な要素となっていた。だが、仮に子供の『生命』が親のエゴで操作可能となり、実際に安易な操作が一般化すると、社会に必要な人間らしさの概念が決定的に毀損されてしまう恐れがあるとするサンデル教授の主張には、一人でも多くの人が耳を傾けてみて欲しいと願わずにはいられない。

 

 

希望は若年層のマインドの変化にある?

 

そのような、人間社会にとって決定的に重要な判断を下すべき時が来つつある一方で、社会が分断して理性的な合意形成ができず、しかも、『優生思想』が優位になっているとすると、いったいどうなってしまうのだろうか。特に、サンデル教授が提示するようなレベルの概念がどこまで理解されるのか、大変心もとないのだが、それでも、大半の日本人の心底には、人間社会にとって、決定的に重要な要素が毀損されることの居心地の悪さ、気持ち悪さが残っていると思うし、そう信じたい。これについては、昨今の若年僧のマインドの変化を見ていると、多少勇気づけられる部分がある。

 

杉田議員および現在の自民党主流派の思想が、『近代家父長制家族』を支持していることはすでに述べたが、これはかつて日本の高度成長期を推進した『モーレツ』な『企業戦士』を支えた、『夫は仕事に専念し妻は家庭を守ることに専念する』という性別役割分担の家族だ。だが、社会学者の見田宗介氏が『現代社会はどこに向かうか』で述べているように、1973年から2013年までの青年の意識調査の結果によれば、最も目覚ましい変化は『近代家父長制家族』のシステムとこれを支えるジェンダー関係の意識の解体だ(これは日本に限らず、先進国共通の傾向であるようだ)。かつては『性別役割分担』的な家族が理想とする意見が40%の支持を集めていたのが、2013年になるとわずか7%の支持に下がり、逆に夫も妻も家庭中心に気を注ぐ『家庭内協力家族』が60%近い支持を集める、理想の家庭像となっているという自民党主流派を含む中高齢層がいかにこの状況を嘆こうと、若年層の意識の現実はすでにまったく違ってしまっている。

 

しかも、その背景にある思想の違いはさらに重要だ。個人の一回限りの人生を目的や理想のために耐え忍ぶ手段としてきた『近代』の思想には、根本的な欠陥があると言わざるをえない。見田氏が述べるように、この手段主義と名付けることができるイデオロギーは、あらゆる抑圧、政治的利用主義を正当化し人間の一回限りの人生を犠牲にしてきた。だが、それは新しい未来を創造するにあたっての公準とすべきではないという見田氏のご意見に私も賛成だ。そのためには、一回限りの生を最大限生き切ることを(今この時を生きる、現在を楽しむ)こと、自分であれ他者であれ、人間や人間の生を手段化するようなことは一切排除すること、多様性を認めること、これを肝に命じていく必要がある。

 

本書でも指摘されているように、『今この時を生きる』ことは現代の若年層の支配的な思想となりつつある。『手段化』の思想に染め上げられた中高齢層の多くは、これを『享楽主義』と見て批判の眼差しを向ける傾向があるが、そうではなくて、『近代』が悲惨な歴史を通じて学んだ教訓として、新しい公準を構築するべき時が来ていることを認めていく必要があると考える(特に日本では、企業戦士の過労死、自殺等の真因がこの『手段化』にあったことを真摯に認める必要がある)。そして、もっと思想として練り上げていく必要がある。そこを起点として、分断構造を解消して、共通の合意としていけるようにすれば、日本の危機的な状況を乗り切るきっかけが掴めると信じる。

 

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サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

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完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?