正々堂々と消費し経済を回して復興に貢献するためには

静かな都知事選


ふと気がつくと東京都知事選がもう目前だ。長く続いた石原都政への批判も積み重なってきていたこともあり、本来非常に盛り上がるはずであったと思うのだが、やはり震災の影響はいまだに大きく、投票日が近いのが嘘のように静かで淡々としている印象がある。



気になる『お花見自粛宣言』


私自身は東京都民でもなく、どの候補にもまったく思い入れはないが、以前から石原都知事の発言には関心を持って注目してきた。石原都知事の発言はしばし非常に『過激』で物議をかもす事が多い。震災関連でも、『天罰』発言や『お花見自粛宣言』等、本人の真意やコンテキストを離れて言葉が一人歩して誤解されているきらいがあるとは言え、やはり常人ではとても口にできない内容だろう。案の定、今回も非常に厳しいバッシングにさらされている。


ただ、それでも私が石原知事の言葉に(怖々ではあるが)興味を感じてしまうのは、恐らく賛否は全く別として、日本人の意識の奥底にある非合理な感情を引き出してきたり、また、自分でも説明しようのない感情を無視できないほどの強さで揺さぶるようなことが度々起きるからだ。大抵は強い不快感を感じる人のほうが多いように思われるが、時として熱狂的な賛意を引き出す事もある。今回の『お花見自粛宣言』にもそういう意味で、感情的な揺さぶりを感じてしまうと同時にこのような本音も日本人の意識下に厳然とあることを意識させられる。



合理的に考えれば


メディア(ネットメディアを含む)では比較的早い段階から、震災の影響とはいえ、あまりに旅行や外食等を控えてしまうと経済が回らなくなり、結果として復興支援にも支障が出かねないとして、通常の経済活動をできるだけ維持すべきと主張する識者は少なくなかったと思う。そして、その意見は地震勃発当初はともかく、最近では比較的好意的に受容されてきた印象があるし、そのような主旨で書かれた記事も増えてきた。そのタイミングで、ちょうど桜の開花時期も迫り、お花見くらい(被災地のただ中にいる人たちはともかく関東以西の人たちは)心の緊張感を解いて楽しみ、できればお金を使ってサービスに従事する人たちの仕事を潤してあげてはどうか、という論調はそれなり国民に受入れられてきていたと考える。合理的に考えればその通りと思われるからだ。



無視できない『非合理な声』


だが、実際には、どう見てもお花見で日本が盛り上がったとは言えまい。それは影響力のある石原都知事のような人が自粛を呼びかけたから、というようなことではなく、日本人の深層意識が、今は『ばか騒ぎ』をすることを良しとせず、石原知事のような人の口を借りて表出したと言うべきだろう。その証拠に、お花見自粛に反対する人でさえ『ばか騒ぎ』は控えたほうがいいとする人が多く、甲子園の高校野球の応援でも『鳴りもの』は控えることが合意され、中止されていたイベントは少しずつ再会されつつあるとはいえ、『ばか騒ぎ』系のイベントは簡単には復活しないように見える。今はこの『非合理な声』に無視できない影響力がある事がわかる。

この「風評」の半減期はどのくらい?:日経ビジネスオンライン


 
関西での違和感


神戸在住のbabycocoさんという女性のTwitterでのつぶやきが、TwitterまとめサイトTogetterに、『震災以降、感じる違和感について』というタイトルでまとめられているが、これが非常に興味深い。
震災以降、感じる違和感について - Togetterまとめ


震災以降、直接の被災地からかなり離れた関東各地でも日常生活に関わる様々なことが変化し(停電、物資の不足、原発事故の影響等)、心理的インパクトはかなり大きかったわけだが、遠く離れた関西でさえ、やはり今までと同じというわけではないようだ。萎縮/自粛ムードが色濃く浸透していると見られる。しかも、babycocoさんやその発言に喚起された多数の人たちの発言によれば、この動向は多分に非合理で『違和感』があるという。やはり震災の影響は、『合理的で意識的』なレベルではなく、『非合理で無意識的』な感情に突き動かされているようだ。しかも、被災地と関東地域の関係でも言えることだが、実際の被害現場で目の前の生死にリアルに立ち会っている人たちと比べて、情報がメディア等を通じて間接的に入ってくる関東圏では、様々な事象に心理的かつ非合理なバイアスがかかる傾向が見て取れる。さらに離れた関西圏なら尚のことそうだろう。とすれば、いくら識者が経済を萎縮させないためには、従来と同様の消費を続けるべき、という極めて『合理的』なアドバイスをしても、実際の消費者や企業の心理や行動は簡単には切り替わらないと考えられる。



萌え〜』の時代は終わった?


3月30日の日付になるからもう一週間以上前のことになるが、評論家で作家の東浩紀氏がふと非常に印象的なことをつぶやいた。

もう萌えとは言えないのか@東浩紀 - Togetterまとめ

ぼくは今回の震災で日本のエンタメ業界はか大きなダメージを受けると予想している。とくにアキバ系、なかでも20-30代のDVD購買層に支えられていたアニメはかなり深刻な被害を被るのではないか(ジブリなどは例外)。当然それはぼくの仕事にも関係してくる。憂鬱なのはそのせいもある。


今後は「萌え〜」とか言っていても、「こんな時代だからあえて萌えだ」という厄介なコンテクストが付与される。なにも考えず萌え萌え言っていた時代とは、同じ作品・発言でも受け取られ方が異なってしまう。厄介な時代になってしまった。


トラウマを受けるってこういうことなんだな、と思う。

市場心理の変化にあわせて


市場心理の変化を敏感に察知できる感性は本当にさすがだと思うが、東氏の言う通り今回の一連の大災害は、短期的で一時的な混乱による影響に止まらず、日本人の心のかなり深い階層に大きなインパクトを与え、それは今後の日本人の行動様式(消費行動だけではなく)を決定的に変えて行くと考えるべきだろう911では米国人のマインドが一瞬にして切り替わる様に目を見張ったものだが、日本の311もそれ以上に歴史的な転換点となる可能性が濃厚だ。とすると、萎縮する経済を『二時被害』として本当に心配するなら、この変化を冷静に受け止め、構造的に理解し、それをベースにした新しい日本の姿のビジョンに基づきビジネスモデルを変えていく覚悟が不可欠だ。従来の日本のイメージをそのままに消費を喚起しようとしても、あまりうまく機能しないと考えられる。個々の企業にとってもこのトレンドを見誤らず、自らを変革することが求められ、それが企業の生死を分ける分岐点となって行くに違いない。



個人をベースとした戦後の経済発展


戦後からバブル期までの日本経済発は、共同体から個を解放し、個々人の経済的な欲望を最大限肯定し、それを活力源として個が他の個と競い合うことで発展してきた。『家が欲しい』『車が欲しい』『ブランド品が欲しい』・・そういう欲望はすべて経済規模を拡大する貴重な需要の源とされた。他人を少しでも上回りたいという願望を充足するための『記号』として自動車や住宅、高級ブランド品のような物財に資源とエネルギーが惜しみなく投入され、製品は毎年のようにより新しくなり、新しい機能が加わり、すぐに廃棄されるようになった。個の充足の陰で、他者との共感というような価値は忘れられ、家族でさえ教育や家事労働を市場に任せ、共同で活動したり労苦を共にすることが益々少なくなり、バラバラの個に解体されてきていた。



その後、バブル崩壊で中間層の窮乏化が進み、高所得層は他人と競うべきモチベーションをなくし、価格の高い消費財を記号として消費をするような余裕が社会になくなり、物は売れなくなった。いつしか若年層はバブル的な価値そのものに背を向けるようになる。



希有の条件下に咲いた花


いわゆるオタクの『萌え消費』に代表されるエンターテインメント系消費、記号消費、見せびらかし消費等は、旧来のコミュニティが徹底的に個として解体され、永続する平和幻想の中でリアルな生死と向き合うことを一時忘れ、社会から切り離されて個としての美観、芸術性、諧謔趣味等の極地を追求することに心理的な負担を感じる必要のない、歴史的に希有の条件下に咲いた花とも言えた。だが、今回の巨大な震災とそれに続く深刻な問題(原発事故)は、そのような設定を粉々に砕く事になった。



災害ユートピア


だが、これは日本に希望がなくなったことを意味しない。震災後非常に話題になった、『災害ユートピア*1という本に数々の事例が紹介さえているように、未曾有の災害はいつもそれ自体は非常に悲惨で時に長い精神的な苦痛をもたらすものではあるが、一方で、人々の友愛、連帯感、勇敢な行動等、日常では感知できないような歓喜がもたらされることもまた多いという。それは、すでに今回の震災でも発見されて様々に報道され、感動を呼んだ。

すべてが寸断された混乱状態にあった数日のことを話ながら、彼の顔は幸せに輝いていた。誰もが家から出てきて話をし、助け合い、間に合わせの共同キッチンを作り、高齢者たちの安全を確かめ、長時間をともに過ごし、気がつくと、以前のような見知らぬ者同士ではなくなっていたのだそうだ。「目が覚めたら世界が一変していた。」彼は思い出にふける。「電気はないし、店という店が閉まっている。情報を得るすべがない。それで、みんな、ぞろぞろ外に出てきて、ああだこうだ言い始めた。路上パーティというほどではなかったけれど、一度に全員が繰り出した。たとえ知らない人たちでも、彼らの顔を見るとなんだかウキウキしたよ。」彼の喜びはわたしに強烈な感動を呼び起こした。 同掲書 P13

日本の若者も、震災から離れた場所にいた者でさえ、この奇妙な歓喜を垣間見た。それは、911のテロの映像で、ニューヨークだけではなく、全米の人たちが目的意識と連帯感を共有した瞬間があったのと似ている。(但し、911はその連帯感が非常に残念な方向に誘導されてしまったが・・)



新しい消費と経済の形


先に紹介した、babycocoさんも別のTweetでつぶやいているように、昨今の若者は、自動車のような物は買わなくなったが、一方で消費を通じた連帯やシェアのもたらす価値をより重視するような傾向がある。私もそれは何度かブログで書いてきた。このトレンドに、今回の震災で起きた『不幸の中の奇妙な歓喜』のエッセンス(連帯、共感、友愛等の大切さ)をうまくつなげていけば、新しい消費と経済の形を盛り上げて行く事ができるはずだ。

『シェア』の提示するビジネスとライフスタイルの新地平 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

ユーザー構造から見る日本での共有ビジネスの可能性 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る


それでなくても、高齢化の波は否応無く押し寄せ、住宅や自動車等の高額商品の販売は今後とも厳しいことははっきりしていた。『無縁社会』というようなありがたくない未来像を語らざるを得ない状況でもあった。そこに、例えば、『シェア型の消費』を持ち込めば、物自体の販売も(従来より少なくなるとはいえ)維持できて、しかも、サービス消費は逆に大きく増える可能性がある。住宅も個人での購入にだけ頼っていては高齢化/人口減によりじり貧となることは確実だが、仮にシェアハウスの提供が増えれば、リフォームやリノベーションの需要増、家具等の共同購入の増加等は見込める。同時に、コミュニティ/コミュニケーションの活性化も期待できる。



正々堂々と


シェア的な価値観の提唱、シェア型の消費の喚起、シェア型のビジネスの構築にうまくつなげていく事ができれば、後ろめたい気持ちで花見をするような消費ではなく、よりコミュニティを活性化し、連帯感を深め、目的意識を持ちつつ、消費の拡大→経済の活性化が実現するはずだ。一方でその潤滑油というか、ツールとして、ソーシャル・メディアの地位が格段に上がったのは象徴的かつ共事的な出来事だと思う。もちろん、開拓すべきは『シェア型消費』に限らない。罪悪感を感じることなく、正々堂々ビジネスを広げて行けるような領域を見つけて広げることによって経済が自立的に循環/拡大していくよう努めることは自らを助け、経済を活性化し、ひいては社会を活性化する。そういう意味での復興にも奮闘すべきだと思うのだが、どうだろうか。