『転生』を純粋に読み、感じてみた

『転生』とは


ジョナサン・コット氏著、田中真知氏訳の『転生』を読んだ。

転生―古代エジプトから甦った女考古学者

転生―古代エジプトから甦った女考古学者


6歳で自分の前世が古代エジプトの巫女であったことを知ったイギリス人ドロシー・イーディーが29際でエジプトへと旅立ち、謹厳なエジプト学者として評判を高めていく一方で、夜の驚くべき幻視の世界を生きて、エジプト人オンム・セティとしてエジプトで生涯を終える。その軌跡を辿るノンフィクションである。



極東ブログで取り上げられた『転生』


エジプトという地には(行ったことはないが)従来から興味があり、普通の人に比べれば比較的知識は豊富であろうという自負もあり、今回のような設定には大変引かれるところがあるのだが、今のところビジネスを主として扱っている私のブログのエントリーとして書くのは、少々なじまないのではないかと当初は考えていた。


ところが、いわゆる『アルファー・ブロガー』で、いち早くこの本の書評を書いた人がいる。極東ブログfinalventさんだ。[書評]転生 古代エジプトから甦った女考古学者(ジョナサン・コット): 極東ブログこの人がブログで取り上げる題材は、主として、政治や経済、堅めの文化、という印象があるため、多少驚いた。『転生』自体の書評を自分で書く前に、極東ブログで書かれた書評に先に言及するのも失礼な話ではあるが、書評を書くのがとても難しい(と私が感じた)この本について、どのようなことが書かれているのか知りたくなり、まず拝読してみた。

オンム・セティを「虚言症」や「統合失調症」といって片付けてしまいそうな、いわゆる科学的な批判のほうが偽臭いのは、そもそもこうした内的な体験の領域が科学の問題ではなく、また体験の外的な表出が社会のルールの問題であることを隠蔽にする点にある点だ。社会のルール、あるいはさらにその社会的な貢献や規律において律せされるべき問題に、倫理でありえない科学を擬似的に倫理を変形して持ち込み、本来なら社会の融和たるべき倫理性に断罪的な属性を強いるのは欺瞞だろう。


所謂、科学的な批判の偽臭さを読み取る感性とそれを表現する力量は、さすがとしか言いようがない。『アルファー・ブロガー』の中でも、飛び抜けた文章の質の高さを誇るfinalventさんの真骨頂を見た思いがする。

もうちょっと私も踏み出して言えば、この書物は、著者や訳者が意図していたかどうかわからないが、オンム・セティの直の言葉の系列がもたらす、ポリフォニックな奇っ怪な意味合いがあり、その系列をある種の直感力のある人なら読み解いてしまいかねない。


一体どれだけの人がfinalventさんの真意に気づいただろうか。しかも、ちょっと踏み出しただけだという。大部分は隠れているわけだ。そして、カール・ユング氏、小林秀雄氏、本居宣長の名前が出てくる。私にはこれで十分だ。これ以上他人の私が勝手な憶測をするのは、無粋というものだろう。ただ、このような取り上げ方があることは大変勉強になった。



もう一度小林秀雄氏とアンリ・ベルグソン氏へ


実は、一昨日のブログ・エントリーに小林秀雄氏とアンリ・ベルグソン氏のことを書いて、『心身並行説』の否定について言及しておいた。『科学』という迷妄を超えて - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る 本日は、せっかく『転生』という特異なテーマの本の書評を書いているので、小林秀雄氏の『人生について』より、もう一段突っ込んだ小林秀雄氏の見解が書かれた部分を引用しておこう。心身並行説が否定されるなら、当然こう言えるだろう、という文脈だ。


P235

諸君の意識は、諸君がこの世にうまく行動するための意識なのであって、精神というものは、いつでも僕等の意識を越えているのです。その事を、はっきりと考えるなら、霊魂不滅の信仰も、とうの昔に滅んだ迷信というわけにはいかなくなるだろう。もしも、脳髄と人間の精神が並行していないなら、僕の脳髄が解体したって、僕の精神はそのままでいるかも知れない。人間が死ねば魂もなくなると考える、そのたった一つの根拠は、肉体が滅びるという事実にしかない。それなら、これは十分な根拠にはならない筈でしょう

P236

学問の種類は非常に多い。近代科学だけが学問ではない。その狭隘な方法だけではどうにもならぬ学問もある。


唯物論の上に立った自然科学の方法だけを頼んで人間の心を扱う道は、うまく行かなくなったということです。


大昔の人達は、誰も肉体には依存しない魂の実在を信じていた。これは仮説を立てて信ずるという点で、近代心理学者達と同格であり、何も彼らの考えを軽んずる理由はない。


飄々と驚くべきことが語られているが、自分自身の常識に照らしても、ごくあたりまえのことと了解できる。そうではないと感じるとすると、finalventさんの言う、『偽臭いいわゆる科学』のイデオロギーにおかされていないかどうか、反省してみた方がよいと思う。 ただし、このような見解を援護射撃に利用して、安易な俗流オカルティズムにまみれてしまうようであれば、むしろ小林秀雄氏にもベルグソン氏にも失礼というものだろう。


両極端にふれてしまわない、ニュートラルな姿勢を持つことが大事なのだ。そして、おそらくこういう姿勢と心構えを保ち続けることが可能になったときに、小林秀雄氏の言う、『主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験』もまた可能となるのだろう。 そうして、いつしか身にまとってしまった自分の虚妄と偏見をそぎ落とすことができれば、どんなありきたりの『もの』や『こと』からも次々と新しい発見があるように思える。


小林秀雄氏の小品は、この『主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験』に係わる問題にもふれている。 近代科学が私達をいつの間にか虜にしている(そして多くの場合、多くの人が気づかないでいる)あり方として、個別の経験の具体性をそのままに受け取らないで、科学の言う合理的な、観察や実験を通じて計量できる科学の経験に置き換えてしまう、という問題がある。経験は、自分自身の取り替えることのできない、たった一つのものだ。そこから、抽象的な置き換えによって、後解釈でつくられた理論の虚構性には要注意である。 



では今度こそ自分の純粋な読後感想を語ろう


あまりに長い前置きとなったが、このように純粋の自分だけの知覚経験として読むと『転生』は、実にしっとりとしたよい話だ。当時のイギリスとエジプトの空気の缶詰が開いて、その香りとオーラを感じることもできる。


もっとも、理性的、分析的に読むとすぐにいやになってしまうかもしれない。推理小説のように謎を解くように読むこともおすすめはできない。また、狭義の倫理観や宗教観ではおおい切れない愛の形に、自己を投影しきれない苛立ちを感じるてしまう人も多いのではないか。


ただ、昔話や御伽噺はこのテーストに近い。ファンタジックで切ない。それでいて、暗示的、時に教育的だ。 この時間も空間も超越した精神が、一方で実務的で高いレベルの業績を上げることができる理性と共にオンム・セティという個性の中に共存している。そのあまりの落差に、多重人格症をさえ疑われるのも無理はないが、最後まで読み通してみると、実はそのような断絶はなく首尾一貫した彼女の個性が生ききっていることがわかる。だから、荒唐無稽とも思えるファンタジックな物語でありながら、平凡な個性でしかない自分をも対比して読むことができる。そして、永遠とも思われる愛情生活との両立の可能性を垣間見せてくれる。物的には最低の生活でありながら、これほどの充実した時間をすごすことができる姿には憧れの念を禁じ得ない。


また、流れるような詩的な文章の心地よさが、この本のもう一つの特筆すべきところだ。著者のジョナサン・コット氏と訳者の田中真知氏の見事なデュエットと言っていいと思う。同じ題材を違ったコンビが扱っていれば、まったく違ったオンム・セティが立ち現れてきただろう。本来、多義性と複雑さに溢れた個性を扱う、難しい仕事なのだ。大変チャーミングでエキゾチックな女性として日本の少なからぬ読者の心を揺さぶったオンム・セティが今次の転生先を選んでいるとしたら、きっと日本をその候補地の一つとして考えてくれているに違いない。