合理主義でかすむ奥深い価値/ワールドカップの負の置き土産

消化しきれない『ミネイロンの悲劇』


ブラジルのワールドカップが終了して1月半あまり、世界のサッカー界は、ワールドカップ後の新しい勢力地図の構築に向けて動き出している。得点王に輝いた若き新星、ハメス・ロドリゲスは世界屈指のビックグラブ、レアル・マドリードにレアル史上3位という高額の移籍料で引き抜かれた。香川の所属するマンチェスター・ユナイテッドは、オランダ代表を率いて3位という好成績をおさめたルイス・ファン・ファール監督を獲得してチームの立て直しをはかろうとしている。日本でも、アギーレ新監督のもと、新しい日本代表の人選が発表された。人々はもう終ってしまったワールドカップなど関心がないかのようだ。だが、そんな中でも、私は未だにあのワールドカップでの、ブラジルが準決勝でドイツに7−1という歴史的なスコアで敗れた「ミネイロンの悲劇」の衝撃を消化しきれないでいる。



マネーボール


ドイツの徹底したデータの集積、そしてそれに基づいた科学的な分析に基づく統率の取れた戦術は、試合前から紹介されて話題にもなっていたが、これは映画『マネーボール*1で注目を集めるようになった、各種統計から選手を客観的に評価する手法、いわゆるセイバーメトリクス*2のサッカー版であることはすぐに察しがついた。もっとも、『マネーボール』では、当時(2001年)資金に余裕のないオークランド・アスレチックスGMビリー・ビーンが、イエール大卒の英才ピーター・ブランドを引き抜き、その理論に基づき、他球団からは評価されていない埋もれた戦略を発掘し、低予算でチームを改革し、キラ星のごとくスター選手を抱える金満球団を倒していく、というような、弱者が強者を智慧で倒す小気味よさ、カタルシス(代償行為によって得られる満足)があった。



困った風潮


だが、ドイツのケースはこれと逆に、強者がデータと科学的な分析で徹底的に武装し、弱者を容赦なく叩く、という構図だ。私の日本的な、判官贔屓(弱い立場に置かれている者に対して同情を寄せる心理現象)の心情を逆なでしただけでなく、この影響は、サッカー界だけではなく、世界全体に、困った風潮が及ぶきっかけになるのではと思い、陰鬱な気持ちにさせられることになった。だが、サッカー界のことも、ブラジルについてもさほど知見のない私は、この気持ちを表現する適当な言葉が見つけられずにいた。



今福龍太氏の明快な説明


ところが、ニュース専門ネット局 ビデオニュース・ドットコム (神保哲夫代表、有料放送)の7月19日のプログラム、『ブラジルサッカー惨敗に見る「世界の危機」』を何気なく視ていると、ゲストの今福龍太氏(東京外国語大学大学院教授)に自分のもやもやした気持ちを驚くほど明快に説明していただいたような気がして、本当に驚いてしまった。

今回ドイツが圧倒的な強さを見せたことで、今後はドイツ的な合理主義サッカー、高度統制サッカーが主流となり、王国ブラジルが誇るラテン的な偶然性と即興性に溢れた美しいサッカーは衰退してしまうとの見方も出始めている。
 今大会の結果について、サッカーの専門家たちの間ではさまざまな意見、さまざまな見方があるだろう。しかし、文化人類学者として長年ブラジルやラテンアメリカを研究してきた東京外国語大学大学院の今福龍太教授は、今大会、ブラジルが大敗しドイツが優勝したことについて、これは単にブラジルサッカーの危機を超えた「サッカーの危機」、ひいては「世界の危機」を反映するできごとだと評する。
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世界の危機


『サッカーの危機』だけではなく、『世界の危機』だと今福氏。世界は今、ビッグデータの分析が驚くべき成果をあげることを知り、あらゆる局面にこれを有効活用すべく動き出している。だから、野球でもサッカーでも同様のことが起きて来るのは当然とも言える。私自身、これが世界を良くする方向にも役立つことを知っているし、この動向に必ずしも否定的ではないつもりだ。だが、あまりに金科玉条のごとく、安易に掲げすぎると、世界の反面の重要な価値を見失う恐れがある

現代サッカーは高度に科学化、情報化しつつある。試合を観戦しているだけでは分からないが、選手のプレーは逐一モニターされ、どういう動きをしてきたかがデータ化され蓄積されている。選手の走行距離やパスの回数まで自動的にカウントされるICチップを埋め込んだスパイクすら開発されているという。そして監督、コーチ、選手自身の判断ではなく、あくまでもデータに基づいた戦術が組み立てられ、選手交代のタイミングすらデータ分析の結果に基づいて行われるようになりつつある。そこにはもはや人間の感性が有機的に作用しあう「偶然性」などが介在する余地はない。むしろそうした不確定なものを徹底的に排除することこそが、勝利への最適解であるという考え方が主流になりつつある。これをとことん突き詰めていけば、リモコンで指令を受けたサイボーグ同士が戦っているのと、さして変わらないようなものになってしまう。正にサッカーの危機である。
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今回のワールドカップで顕在化した「合理性」対「偶然性」の価値対立は、サッカーの枠を遙かに超え、今日われわれの社会生活の至るところで衝突している価値対立と共通していると今福氏は言う。その価値の衝突に自覚的にならない限り、われわれは今大会でドイツが見せた「合理主義」を無批判によいものとして受け入れ、その対価としてブラジルのサッカーに見られるような「別の大切なもの」を無自覚に捨て去っている場合が多いのではないかと。



テイラーの科学的管理法


思えばこれは、20世紀初頭にフレデリック・テイラーが提唱し、生産現場に持ち込んだ、科学的管理法(非効率的なその場しのぎの生産現場に、科学的で客観的な管理手法を持ち込み、生産性を格段に向上させた)と、その批判(労働強化や人権侵害につながる、心理学や社会学の見地からの考察が無く、効率の追求を重視するあまりに労働者の人間性を軽視している等)に構図が似ているとも言えなくもない。


科学的管理法が大きな成果を上げたことは間違いないが、人間の時間を経済価値と完全に同一視するような、『似非科学的管理法』が雨後の筍のように出現して、物議を醸すことになった歴史は、経営学説史を少しかじった人なら誰でも認識しているところだろう。また、現場で経営管理の仕事を経験した人なら、いやでも科学的管理法だけでは処理しきれない体験の一つや二つは必ずあるはずだ。問題は科学的管理法自体が悪いのではなく、この思想に安易にかぶれてしまうこと(狭義の合理性が全てに勝る、等)や、適用すべきでない局面にこの手法を持ちこんでしまうことにある。



合理性の反面の価値


試合中にも管理統制を及ぼし易い野球と比較して、サッカーは試合中は選手の自主性と自由度が高く、それ故にこの競技に、管理を超えた人間の自主性の価値、さらには、偶然性と即効性の価値等、『人間の奥深い潜在力』の発露を感じてきた人も多いはずだ(私もその一人だ)。それだけに、『サッカーに及ぶ管理統制』には、過敏に反応してしまうのかもしれない。だから、今回のワールドカップも、『合理的』サッカーを過大評価し過ぎで、ブラジルに、ペレやロナウジーニョジーコに匹敵する人材が不足していただけで、そんな人材がいれば、『合理的』なサッカーも蹴散らしていたに違いない、とのお叱りを受けてしまうかもしれない。


ただ、今福氏が指摘した問題自体には、徹底的に探求してみる価値があると私には思える。世界に蓄積するデータが幾何級数的に増加する現代、その活用が促す可能性もまた膨大であることは論を待たない。その価値を十二分に生かしていくためにこそ、足下に、意外に大きな落とし穴があいていることも忘れない方がいい。