インドの差別との戦いは世界規模の課題を暗示している

 

 

▪️ 世界の中心に踊り出るインド

 

昨今の世界のビジネスシーンにおけるインドの勢いはものすごい。少し前までは、いくらそのように説いても皆半信半疑だったものだが、今ではそのパワーを疑うものは逆に少数派になった。21世紀は「アジアの世紀」とは、ずっと前から言われていたことだが、時の経過と共に、その意味と中心は大きくシフトして来ている。当初は日本、そしてそれを追随する韓国の急成長が注目され、発展の中心は東アジア、あるいは、儒教経済圏が中核、と言われていたものだ。だが、今やその中心は中国および華僑経済圏(シンガポール等)に完全にシフトしているし、同時にインドが次の主役として認知されるようになってきた。しかも、中国は一人っ子政策が仇となって日本に続いて急激な高齢化に悩まされることが確定していて、いわゆる人口ボーナス(子供と高齢者の数に比べ、働く世代の割合が増えていくことによって、経済成長が後押しされること)を使い果たしつつある。ところが、インドはまさにこれから人口ボーナスの恩恵を受けることもあり、将来性で言えばダントツの存在と言っていい。大抵の日本人には、中国と比較しても、その実態がほとんど知られていないインドだが、これからはそうはいかなくなる。否が応でも、あらゆる意味でインドやインド人のことを理解せざるをえなくなって行くだろう。

 

その日本人の中では、少数派ということになるのかもしれないが、私は多少なりともインドのことを知っているという自負があった。ある時期ビジネスで関係を持って、広くインド中に出張し、現地の友人もたくさんできた。もともとインドの思想や宗教に興味もあったので、歴史から現代の宗教に至るまでかなり時間を割いて探索した。それはその後仕事がかわってビジネスの関係が切れてからも続いた

 

だが、それはまったくの思い上がりであることをごく最近になって思い知らされることになった。きっかけは、インドで相次ぐあまりに悲惨なレイプ事件について、あらためて(今頃、という感じでもあるが・・)調べていたことだ。私が知るインド人の友人達のたたずまいや、垣間見たインド人社会からはこれほどの残忍な事件が頻発するという光景がどうしても想像できなかかった。よって、従来の自分の先入観を一旦横に置いて、事の真相を明らかにしてみたいと思った。

 

 

▪️ インドの深層理解の鍵

 

その途上で、私は、外国人の目には触れにくい不可触賎民の実態のことをよく理解していなかったことを自覚することになった。そして、今まで全く知らなかた偉人の生涯とその事績を知ることになった。その偉人とは、カースト制の最下層の不可触賎民に生れながら驚くべき苦闘を乗り越えて、欧米の最高学府で学位を得て、独立後のインドで最初の法務大臣となりインド憲法の起草を事実上独力で成し遂げたビームラーオ・アンベードカルである。*1*2私がそれまで知っていたインドの偉人の数はおそらく普通の日本人並からすればかなり多いと思うし、その生い立ちや業績の評価、彼らの回顧録の類に至るまでかなり詳しく読んで来た。インドの友人にも随分時間を割いてもらって様々な話を聞いて来た。だが、その友人たちの話にも、私が読んで来た文物のどこにもアンベードカルの名はなかった。ところが、一旦彼のことを知ってしまうと、聖人ガンジーが霞んでしまうほどの偉人としか思えなくなってくる

 

私の無知と浅学はともかくとして、インドのことを詳しく知ると称する私の友人達の顔を思い浮かべても、アンベードカルの名前が出てくるとはとても思えない。どうやらこのギャップ、この空白にこそ、日本人がこれから本当のインドを知り、彼らと深く付き合っていくにあたっての一つの鍵があるように思えてならない。アンベードカルと彼の後継者たちの苦闘から見えてくるインドの現実を知ることの意味は大きいと考える。

 

 

▪️ ガンジーとアンベードカル

 

  黒人解放運動に殉じたリンカーンはじめ、差別と闘った偉人は世界で数多く知られているが、インドでは、ガンジーもまたそのような偉人の一人で、不可触賎民の待遇改善に尽力した人だったはずだ。それは確かにそうなのだが、一つ言えることは、ガンジーは不可触賎民ではなかったし、不可触賎民を構造的に生み出すカースト制には反対ではなかった。むしろ、インド人の生活の基盤であり、心の支えでもあるヒンドゥー教カースト制含みで守ろうとしていた。

 

そのヒンズー教の思想の一端に触れるには、数多くある聖典を紐解いてみるのが手っ取り早いが、「ヴェーダ「マヌ法典」「マハーラーバタ」等いずれも、カースト制の聖なる由来とそれを絶対の義務として守り通すべきことが明記されている。昨日今日できあがったものではなく、何千年もの歴史を生き延びた聖典であれば、その言葉の端々に至るまで信者の心に深々と浸透していると考えられる。聖典を読み継ぎ、語り継ぎ、その教えを守ることを通じて、インド人としてのアイデンティティを形作ってきた歴史があるのだから、巨大な西洋文明を背景とする宗主国のイギリスに対抗するにあたって、このヒンズー教をよすがと頼ることは当然のことで、その教えの一部であっても否定することはガンジーであれ、誰であれ容易ではなかっただろう。だから彼の立場は政治的には理解できる気がする。

 

だが、どうみても、聖典が意図したであろう不可触賎民の扱いより現実の扱われかたははるかに過酷で非人間的としかいいようのないものだ。世襲の職業として、糞尿や動物の死体処理等に縛り付けられ、村の井戸から水を飲むことも禁じられ、殺人やレイプを含む日常的な暴力から法的な保護を受けることもできない。ヒンドゥー教徒なのにヒンドゥー寺院に立ち入ることも、聖職者の説法を聴くことも許されない。しかも、その割合(人数)が半端ではない。何と総人口の20%、約1億8000万人(2001年国勢調査)もいるという。他の社会、例えば西欧世界であれば、革命を起こすにたる理由を持つ大勢力をこの国の支配層はずっと抑え込んできていたわけだ。不可触賎民の側も、現世の幸福を諦め、来世での不可触賎民からの脱出を願い、聖典に定めるとおり過酷な奴隷の地位に甘んじていたことになる。(実際にはそう思っていなくても、どうすることもできなかったからかもしれないが・・)宗教的信念の恐るべき強靭さ、拘束力にあらためて驚いてしまう。

 

だからこそ、その中から這い上がってインド政治の最前線で戦ったアンベードカルという存在は、どこから見ても奇跡としかいいようがない。アンベードカルは、不可触賎民を「ハリジャン(神の子)」という呼称で持ち上げながらも不可触賎民の政治的な地位向上をはかるアンベードカルを否定し、活動を阻止しようとするガンジーにも、堂々と対峙した。当然、すでに「聖人」として崇められていたガンジーに歯向かう存在として、バッシングを受ける。

 

だが、ガンジーも、アンベードカルもその生涯を全体として評価できる立場にある私たちから見れば、この論争はアンベードカルに理があるとしか思えない。だが、あまりに長い歴史を持ち、強い強制力となってインド人民にのしかかるヒンドゥー教徒の宗教的信念を内側から切り崩すことは、どうしてもできなかったようだ。最終的に、アンベードカルは仏教に改宗することになる。残念ながら、死の2ヶ月前というから、彼の支持者も仏教者としての彼の活動を目にすることはほとんどできなかったわけだが、不平等を説く宗教的信念に対しては、平等を説く宗教で対抗するしかない、というところに追い込まれていったことは、実のところ極めて示唆的だ。

 

 

▪️ 補助線としてのベルクソンの思想

 

今、世界は「寛容」や「平等」というような概念が押しつぶされつつあるような状況で、移民、異民族等の「よそ者」の排除を声高に叫ぶことで、自分たちのコミュニティ(国家)の結束を強化しようとするような勢力が跋扈し、拡大しつつある。そして、「寛容」や「平等」を説く者のことを、あろうことか「非現実的」「ナイーブ」と蔑むようなことが横行している。世界は帝国主義に逆戻りして、ファシズムが跳梁した第二次大戦前夜へ逆戻りしようとしているかのようだ。あの恐るべき時代と同色に染まりつつある昨今であればこそ、まさにそのナチスの占領下のパリにあって、混迷の極みにある時代を克服すべく、最後の力をふり絞っていた偉大な哲学者、ベルクソンのことを思い出さずにはいられない。

 

 

ベルクソンはそのパリで最後の時を迎えることになるが、遺作となった「道徳と宗教の二源泉」*3は、今の時代にこそ、再び紐解いて、噛みしめてみる必要があるように思える。特に、上記に述べたような、ヒンドゥー教カースト制を現実的なインドの統合と独立のために肯定したガンジーと人間性を無視したカースト制を肯定するヒンドゥー教を離脱して、仏教に救いを求めたアンベードカルという対比に想いを馳せる機会を得た今の私には、尚のこと、かつて熟読した本書の思想を思い出さないではいられない。

 

「人間は社会的動物である」と言われるが、この社会の維持のために、初期の宗教は個々人に道徳や習慣、教育等の責務を負わせる。この道徳/宗教教育によって植えつけられる責任感によって、社会は崩壊から免れる。そしてその道徳/宗教は、家族、集落、国家くらいまでは合理的に機能する。これをベルクソンは「第一の源泉から生まれる道徳」とする。しかしながら、「第一」は本質的に閉じたものであり、国家の枠を超えることはできない。

 

それに対して、ベルクソンは「第二の源泉」があると述べる。国家の限界を超えた開かれた道徳、人類愛である。ベルクソンによれば「第一の源泉」から生まれる道徳/宗教の範囲を拡大していっても「第二」に到達することはない。従って、「第一」により形成された国家が寄り集まって国連のような組織を組成しても、「第二」に昇華することはないことになる。では、それはどこに起源を持つのか。ベルクソンの言う「エランヴィタール(生命の躍動、生の飛躍)」の根源に触れ、神的達観を得て、魂が高度な感動で揺さぶられ、それを周囲に広げずにはいられない「エランダムール(愛の躍動)」に駆られた一個の人間から、というのがその答えだ。具体的には、釈迦、イエスソクラテス等が該当する。

 

ガンジーはインド社会を統合し、イギリスから独立するために、おそらくは「第一の源泉」が主となっているであろうヒンドゥー教を、その思想の中にあるカースト制もろとも肯定せざるを得なかったようだ。一方、かつて「第二の源泉」に触れたと考えられる釈迦の思想を再発見したアンベードカルは、当初ヒンドゥー教の内側からの改革を目指しながらも、最終的には仏教に改宗する。教派・教団としての仏教は、「第二の源泉」ではなく、自らの教派を守るために「第一の源泉」支配下にあるようなのも多いから、十把一絡げに「仏教といってしまうと語弊があるのだが、自らもバラモン教の苦行を試しつつ、最終的には、ベルクソンの言う「第二の源泉」に触れたと考えられる釈迦の「質的な違い」にアンベードカルは共鳴し、インドの地から生まれた奇跡の人にインドはもちろん、世界を変える根源的な力を感じたようだ。それは単に、政治的なヒンドゥー教から仏教への宗旨替えというようなことではまったくないことは留意しておく必要がある。

 

 

▪️ インドから世界へ

 

アンベードカルは早逝するが、彼が切り開いた道は後を継ぐ者達によって大道となる。驚いたことに、日本からインドに渡った僧侶(佐々井秀嶺がその先頭に立って、アンベードカルの意志を継いで大きな成果をあげている。*4*5アンベードカルが改宗した頃には、ほとんどものの数にも数えられていなかった仏教徒が今では1.5億人もいるという。この数に根拠がないと批判する人もいるようだが、今のインドで仏教徒が非常に大きな勢力になっていることは確かだ。少なくとも、インドで「閉じられた宗教」から「開かれた宗教」へ飛躍しようとする偉人が現れ、その運動が大きな勢力となって来ていることを素直に認めてあげていいと私は思う。まして、同胞の日本人がその先頭に立って心身をインドに捧げているのだ。

 

 

これは経済的に世界の中心に躍り出ようとするインドにとっても好材料であることは確かだろう。同時に、世界の困った潮流に対する「アンチ」の旗頭となる潜在力を秘めている。だから、どんどん「閉じた」方向に向かう世界を、少しでも「開く」ための活動拠点の一角となって欲しいと願ってしまう。もちろん、インドにも狂信的で過激なヒンドゥー至上主義があり、しかもその勢力は近年非常に大きくなり、政権の一端に絡んで来てさえいる。だが、佐々井秀嶺やアンベードカルの思想を受け継ぐ仏教徒には是非負けないで頑張ってほしいと願わずにはいられない。

*1:ビームラーオ・アンベードカル - Wikipedia

*2:

アンベードカルの生涯 (光文社新書)

アンベードカルの生涯 (光文社新書)

 

 

*3:

世界の名著 (64) ベルクソン 中公バックス

世界の名著 (64) ベルクソン 中公バックス

 

 

*4:

*5:

 

豊田真由子議員から見える日本の困った姿

 

 

◾️ 異彩を放つ豊田真由子議員

 


今、日本中が注目しているといっても過言ではない強烈キャラである、豊田真由子議員の謝罪会見がとても印象に残ったので、忘れないうちに感じたことを書き残しておこうと思う。(といっても大分旧聞になってしまったが・・)


 
今年は(今年も、というべきか)、国会議員の失言・スキャンダルの類が非常に目につく年となった。そもそも組織のトップ(安倍首相)自体が疑惑の中心にいて騒がしかったわけだが、自民党の議員の醜聞も実に多かった。
 


だが、その中でも、特に異彩を放ち、強い印象を残した筆頭と言えば、何と言っても、豊田議員をおいて他にはない。不倫であったり、政治的に不適切な発言等については、醜聞と言ってもすでに慣れっこになってしまった国民は、ニュースを聞いた途端に、自分の頭の中にある分類箱に放り込み、すぐに誰が誰だかわからなくなってしまうのが普通だろう。おそらく、どんなに記憶力の良い人でも、一年も経てば、ほとんど忘れてしまうに違いない。まさに「人の噂も75日」である。

 


ところが、豊田議員の場合はそうではない。スマした議員としての表の顔の裏側の般若の顔を「このハゲー!」というような怒声と共に暴露されてしまったのだから、前代未聞もいいところだ。しかも、「ハゲー!」だけではなく、「ちーがーうーだーろーーー!」とか「豊田真由子様に向かって」だとか、お笑い芸人の一発芸のような決め台詞が次から次に出てくる。

 


現代では、こんなネタが出てくれば、ネット上を無限に駆け巡ることは目に見えているわけだが、ネットに加えて、マスメディアでも耳にタコが出るくらい聞かされることになった。音声を繰り返し聞かされることによる記憶への定着度は恐るべきものがある。例えば、雪印集団食中毒事件で、当時の社長、石川哲郎氏がマスコミに放った失言、「私は寝てないんだ!」という逆ギレ発言など、あなたもしっかりと覚えているはずだ。背景や経緯を忘れてしまっても、この強い印象と声は簡単には忘れられない。そして、すぐに思い出す。


 
もっとも、お笑い芸人の決め台詞であれば、どんなに流行ったところで賞味期限のマックスはこれも1年くらいだろうが、本件は(少々気の毒な気もするが)、政治史を彩る残念な事件として、ずっと語り継がれるに違いない。
 

 
 
◾️ 起死回生のチャンスも・・

 


だが、この失態を大転換できる起死回生の機会がただ一度だけあった。謝罪会見である。ここでの印象操作に成功すれば、ものすごく大きく膨らんだ風船のようになっていた大衆のネガティブな空気も、一気に破裂して霧散する可能性はありえた。だからこそ、私もこの機会を見逃すまいと見守っていた。だが、結果はすでに報道でご存知の通り、失敗としか言いようがない。しかも、同時期の雑誌でのインタビュー記事等が輪をかけて逆効果を際立たせてしまっている。では、どうすれば良かったのか。大変難しいところだが、次の記事の見解は私も的を得ていると思う。
 

 これは謝罪会見をおこなう企業、役所、政治家が必ず陥る「落とし穴」である。「危機管理のプロ」を名乗る人のなかにも勘違いをしている方が多いが、危機管理に「勝ち」はありえない。不祥事や事故というマイナスからスタートしているので、「いい負け方」か「悪い負け方」しかないのだ。捲土重来するために、どのような「負けっぷり」をしておくべきなのかを決断して、それをメディアに介して世の中に知らしめるのが、「謝罪会見」である。

豊田真由子氏から学ぶ、謝罪会見大失敗の根本的な理由 | 情報戦の裏側 | ダイヤモンド・オンライン

 

 


法廷闘争だけを前提とするのであれば、「いい負け方」作戦は場合によっては致命的となる恐れもあるが、昨今のようにSNSが社会の隅々にまで浸透して、そこで問題があれば、法的に正しくても炎上(時に、正しければ正しいほど炎上することもある)する。それを勘案すれば、「いい負け方」の追求は、本件に限らず、公的に仕事に携わる誰もが意識して追求すべき価値となっていると言わざるを得ない。

 

 

◾️ おかしくなってしまった日本人の価値観

 


だが、これは言うほど簡単ではない。特に、豊田議員の履歴を見れば、子供の頃から「自分は正しい」「自分は負けない」ゲームを徹底して繰り返してきた典型的な人物と言える。しかも、事は一人豊田議員だけの問題ではなく、今の日本のエリート組織全般に言えることで、偏差値は高くても、生きるうえでの美意識を欠いており、計測可能な指標をひたすら伸ばして行くことばかり重視している。*1(この点は、コンサルタントの 山口周氏の受け売りながら、私自身本当にそう思う)。

 

国会議員に限ってみても、豊田議員に限らず、いわゆる「安倍チルドレン」あるいは、「魔の2回生」と呼ばれる若手議員が昨今特に評判がよろしくないが、総じてこの法則が当てはまってしまっているのではないかと思える「What the World Thinks in 2007 The Pew Global Attitudes Project」という調査で、「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と答えた人の割合が、各国比較でみると日本人がダントツ(38%。独立心の強い米国でさえ28%程度)で高いことが以前話題になったものだが、豊田議員を含む「魔の2回生」は、日本全体を覆うこのような傾向の典型事例のように見えてしまう(自民党片山さつき議員が、生活保護の不正受給者に非常に厳しくツッコミを入れて炎上したこともあった)。

「成長論」から「分配論」を巡る2つの危機感:日経ビジネスオンライン

 

 

ちなみに、この割合は日米以外の各国では、どこも8〜10%くらいで、「自分の力だけでは生活できない人を見捨てるべきではない」と感じる人が9割くらいいるのが人間社会の相場とされているというから、今の日本に違和感を感じるほうが正常な感覚といっても許されるだろう。

 

 


◾️ 弱者に寄り添える人間の魅力

 

 

俳優の渥美清主演で、日本の映画史に残る作品「男はつらいよ フーテンの寅」*2をみればわかる通り、寅さんのように一見負け続けている人にこそ滲み出る魅力は厳然としてあるし、それがわからないようでは弱者を虐げるような政治家ばかりが跋扈する困った世の中になってしまう。(なりつつある?)また、これも時代が違うし、毀誉褒貶あるので、同レベルで比較することができないことはわかっているが、かつての田中角栄元首相など、今で言う不倫どころか外に子供をつくってそれが公開されても平然としている人だったが、一方で徹底的に弱者に向き合って「負けている人」の気持に寄り添える人だった。悪人と罵られても、滲み出る魅力は否定できなかったし、現実に最後まで非常に人気があった。

 


こうなるとまさに美意識の問題にもなるので、人にその価値観を押し付けることはできないが、豊田議員や「魔の2回生」に違和感を感じるのであれば、自らを振り返って、弱者に寄り添えなくなっている自分がいないか、そのような議員を選んでしまっていないか選挙も近いことだし少しは考えてみてもいいのではないか。

 

情報通信白書読書会/日本の問題はもっと深刻では?

 

 

先日(9/8)に国際大学GLOCOMに於いて「『平成29年版情報通信白書』読書会」が開催されたので出席してきた。少々遅くなったがレポートしておこうと思う。

概要は、以下の通り。

 

日時

 201798日(金)14:3016:30

 

 講師

 高田義久(総務省情報通信国際戦略局情報通信経済室長)

 

コメンテータ

 庄司昌彦国際大学GLOCOM主任研究員/『情報通信白書』アドバイザリーボード)

 

会場

 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター

 

概要

 国際大学GLOCOMは公開コロキウム『平成29年版情報通信白書』(総務省発行)読書会を開催します。編集を担当した総務省情報通信経済室の室長の高田義久氏にポイントを解説いただき、参加者と議論を深めます。

今年の白書の特集テーマは「データ主導経済と社会変革」です。データ主導経済下での社会経済活動の再設計・課題の解決等の展望をしています。第1章「スマートフォン経済の現在と将来」ではスマホ普及と利用時間増加の状況を示し、生成・蓄積されたデータの利活用による価値創造の可能性を紹介。第2章「ビッグデータ利活用元年の到来」では企業のデータ活用意欲と市場動向、第3章「第4産業革命がもたらす変革」ではIoT化と企業改革の同時進行によりGDPへの莫大な寄与が見込まれる可能性を解説しています。また第4章「社会的課題解決に役立つICT利用」と第5章「熊本地震ICT利活用」では、テレワークによる労働生産性の向上やWi-Fi整備等による観光振興へのインパクト、スマートフォンが普及した状況下での災害対応等をまとめています。

 

登壇者略歴

 

高田 義久

1993年郵政省(当時)入省、その後、国際電気通信連合(ITU)戦略政策部プロジェクト・オフィサー、総務省総合通信基盤局移動通信課推進官、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所准教授、総務省情報通信国際戦略局国際展開支援室長などを経て2017年より現職。著書:Internet for a Mobile Generation(2002)Promoting Broadband: The Case of Japan(2003)、デジタルメディアと日本社会(2013)、グローバル・コミュニケーション(2013)地域メディア(2014)(いずれも共著)など。

 

情報通信白書は、総務省の下記URLで全文が公開されています。

http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/index.html

http://www.glocom.ac.jp/events/2899

http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h29/pdf/index.html

 

 

◾️ テーマ設定

 

このイベントは、都度何等かの気づきを得ることができるため、この数年可能な限り参加している。調査自体には、本来国勢調査のように、かなり長いレンジのデータを継続的に収集して蓄積/分析するというニーズは当然あるわけだが、ICT分野というのは特に近年では進歩のスピードが異様に早いため、年度ごとの着目点/注目点も目まぐるしく変わらざるをえない。そういう意味で、特に近年ではテーマの差異が非常に大きくなってきている。

 

昨年の白書の特集テーマは、『IoTビッグデータAI ~ネットワークとデータが創造する新たな価値~』と設定され、デジタル技術の全体的な進歩を視野に入れ、境界線を越えることをいとわず非常に挑戦的に取り組まれていた。表明されている識見も(もちろん賛否はあろうが)大変参考になったと記憶している。本年は、越境もいとわずという姿勢はそのままに、『データ主導経済と社会改革』という設定で、昨年以上に「データ」に力点をおいた内容となっている。今、世界ではAIを始めとするデジタル技術が今後経済の中核エンジンとなることが確実視されて来ているが、その技術を最大限生かすためには、データが非常に大きな役割を果たすことについても一般にも認知されるようになって来ている。よって、一方で技術的な優越性および技術インフラ、一方で有用かつ大量の活用可能なデータを継続的に増大できるシステムを持つことが国際的な競争優位を築く要件であるとの認識の下、国際比較における日本の現状のステータスを明らかにして、競争優位点・劣位点および今後の課題を引き出すための材料とするという意図が見て取れる。

 

 

◾️ 白書のメッセージ

 

詳細は、資料をご覧いただくとして、全般としては、スマートフォンの普及/利用時間増、改正個人情報保護法の施行、企業側の生成データの蓄積(およびそのデータ利活用意欲の高まり)等、インフラに相当する部分については準備ができてきていると評価しながらも、日本の一般利用者は、米・英・独・中・韓の各国の比較で見ると、パーソナルデータ提供の許容度は低く、ネットショッピング時のスマホの活用度合いも英米より遅れ、フィンテックやシェアリング・エコノミー等の各種サービスの利用意向は低い。そういう意味で企業と一般利用者の認識ギャップが大きく、企業についてみても、いわゆる『第4産業革命』に向けた取り組みでは、情報通信業においては取り組みも投資意欲も突出して高いが、その他の業種では遅れが目立つ。特に情報通信分野に次いで、世界では『ICT化』が進展しつつある製造業における欧米企業との差は非常に大きい。すなわち、日本は、ある程度準備ができている部分もあるが、このままではデータ主導経済においては他国の後塵を拝する恐れがある、という警鐘として読める内容になっている。従って、企業の利活用意欲と国民の不安とのギャップを解消し、安全性とのバランスをとりながら、利活用の推進を図る必要があるとの提言につながることになる。そこには、今後の日本は一般利用者を啓蒙すれば、十分国際競争に伍していけるとのニュアンスが感じられる。確かに、個々の調査結果はこのような結論を導ける内容となっているように見える。

 

 

◾️ 白書では見えてこない問題点

 

だが、本当にそうだろうか。会場での質疑でも感じたことだが、どこか痒いところに手が届いていないような苛立ちや欲求不満が払拭できない。というのも、このような切り口では本当のところ見えてこない部分に、現状の日本が抱える真の危機が隠れており、血が流れる覚悟で、そのような部分にある問題を引きずり出してこないことには、本当に必要な対策も見えてこないのではないかと思えるからだ。

 

(1) 隔絶したGAFAのパワー

 

 例えば、データ利用意欲があり、比較的先進的と考えられる日本企業にしても、海外の先進企業、特にGAFAGoogleAppleFacebookAmazon)のような企業と比較してしまうと、規模、技術レベル、人材、ビジネスモデル等、あらゆる点で劣っていることは明らかだ。しかも、このGAFAはじめ、デジタル経済の勝ち組であるUberAirbnb等を含めたいわゆる『創造的破壊企業』のインパクトは凄まじく、既存のビジネスをどんどん破壊し、吸収してきている。しかも、AIだけではなく、昨今話題になってきているブロックチェーン技術が本格的に利用されるステージになると、この破壊・吸収の勢いはさらに急加速することは確実だ。ところが一方で、現在のところ、日本企業の中には、このGAFAに比肩しうる企業が見当たらない。しかも日本に有用な人材がいても、GAFA系の企業に吸い取られてしまうような構造になっている。

 

(2) アジアで最低レベルのIT人材を囲む環境

 

しかも、GAFAどころか、アジア各国と比較しても、日本のIT人材を囲む環境は最低レベルにある。経済産業省20166月に公開した国際比較調査『T人材に関する各国比較調査 結果報告書*1は衝撃的と言っていい内容だ。比較の対象として、米国、中国、韓国に加え、タイ、インドネシアベトナム、インドがあがっているが、『IT関連職の人気』『IT関連職の満足度』『IT関連職の給与・報酬に対する満足度』『IT人材のスキルアップに対する意識(自主的に勉強しているかどうか)』等の質問項目に対して、いずれも日本が最下位となっている。この状況が改まらない限り、今後ともIT分野において日本と各国の差が広がることは確実というしかない。

  

(3) 質量とも劣る日本企業のデータ

 

また、データ利用についても、データ利用意欲の旺盛な企業であっても、日本企業の場合は、未だに企業ごとの壁が高く、連携はスムーズに進まないため、企業当たりのデータ量が不足してしまうと見られる。これに対して、データ利用の促進をはかる目的で、『PDSPersonal Data Store』や『情報銀行』というような取組が検討されているわけだが、仮にこれらがそれなりに成功して企業が自社の外にあるデータを利用できるようになったとしても、どうも一番肝心な点が忘れられているように思えてならない。本来情報は生もので、それを発信する生の人間とリアルタイムで密接につながっていてこそ価値が高い。アマゾンのユーザーの購買データ、グーグルが提供する検索やGメール、フェイスブックに投稿されるユーザー情報等まさにその典型例と言えるわけだが、いったんその関係性を切って、どこかにプールされたデータを集合したところで、有機的なつながりが復活するわけではない。そこが金のような財貨とは違うデータの厄介なところだ。人間の体の部位をバラバラにして、それを集めなおしても元の人間になるわけではない。出来上がるのは良くてフランケンシュタインかゾンビだろう。まあ、そこまで言ってしまうと身も蓋もないが、少なくともマーケティングデータという観点で評価すれば天地ほどの開きがあることは否めない。ここでもGAFAの力が圧倒的というしかない。

 

(4) 『赤の経済圏』の脅威

 

GAFAばかりではない。中国企業については特に念入りに精査しておく必要がある。昨今では中国企業によるいわゆる『赤の経済圏』には、単なる企業の断片的な比較だけでは明らかにできない複合的なインパクトがある。例えば日本でも、最近ではモバイルSuicaやアップルペイ等のモバイル決済が浸透してきているが、2017620日に日本銀行が発表した調査レポート『モバイル決済の現状と課題』*2よると、日本のモバイル決済の利用率は6.0%なのだそうだ。ところが、中国は98.3%という驚くべき高率となっている。情報の信憑性に若干の問題もあるだろうし、都市部での調査のため、中国全土というわけにはいかないかもしれないが、利用者の数が日本より圧倒的に多いことはどうやら間違いない。現地の中国人や日本人の駐在員等のコメントもこれを裏付ける。

 

しかも、『QRコード+スマホアプリ』が主流で、決済だけではなく、保険の加入、融資等あらゆる金融系サービスのワンストップ化が実現しているという。この中国モバイル決済の一方の雄である、『アリペイ』は2018年から日本での本格展開を表明しており、中国人ユーザーだけではなく、日本ユーザーの取り込みを画策している。現在でもすでに、中国版のUberAirbnbはこのモバイルを起点として日本でもサービスを展開していると言われており、中には『越境白タク』として問題視されているケースもある。2020年の東京オリンピックに向けて、日本経済も中国人観光客の消費に期待するところ大だが、宿泊も、タクシーも、場合によってはその他の消費に関わる部分においても、モバイル決済を利用して、様々なビジネスが立ち上がり、『赤の経済圏』で完結して、日本企業が期待する中国人観光客の消費による余禄にあずかれるところは小さくなってしまうかもしれない。しかも、日本を含むアジア圏全体に拡大することも考えられるし、GAFAがそうであるように、様々な既存ビジネスを飲み込む、中国版の『創造的破壊者』となる可能性は大きいと見ておくべきだろう。このような動向をできる限り多角的に把握することができる調査方法を考えておく必要があるはずだ。

 

(5) 大企業病に冒される日本企業

 

今の日本が危機的状況にあるという認識は、日本のICTの先頭に立つ、大企業/優良企業でもすでに広く浸透していることに疑いを差し挟む余地はない。だが、そのようなわかりきったはずの問題でさえ、順調に解決に向かっているようには思えない。むしろ、大企業/優良企業であればこそ、成功体験もプライドもあり、改革を阻む勢力の力が強いのが実態だったりする。20169月に発足した、大手企業の若手/中堅社員が組織を超えて集結した『One JAPAN』という有志団体があるが、設立当初26社だった参加企業は、一周年を迎えた現在では45社となっている。若手が結集して大企業病を打破するために立ち上がったのだという。会社を離脱して、『創造的破壊企業』を立ち上げるのではなく、このような団体を立ち上げるところが日本らしいとも言えるが、企業の枠を超えて、企業の上層部が『大企業病』に冒され、改革を阻む抵抗勢力になっているという認識があるからだろう。このような圧力をかけないことには、個別企業のボトムアップではどうにもならないという共通の危機意識の現れとも言える。この団体の一周年イベントで基調講演を行った、AI研究の第一人者である、東京大学准教授の松尾豊氏が、『年功序列イノベーションを遅らせる』と強調し、今の日本経済の状況を、『戦後の焼け野原状態、一人負け』だとしたうえで、『経済成長を牽引しているIT産業は20代が最強で、若者が主役だ』と参加者にエールを送ったという。このような状況をそのままにしたままでは、いかに一般利用者がパーソナルデータ利用を許諾しても、日本企業が勝ち残ることはまず考えられない。

 

「年功序列がイノベーションを遅らせる」大企業の若手が横断的に集まる「One JAPAN」 | ホウドウキョク

 

 

◾️ 現実の直視を 

 

 昨今では、このような話をすると、もはや日本はギブアップするしかないのか、というような弱気な声も実のところ非常に多い。あるいは中国など所詮後進国というような上から目線を脱していない横柄な声か、どちらかという感じだ特に大企業に多い印象がある)。私に言わせれば、いずれも現実を直視していないことからくる両極の幻想だが、現実を現実として直視すれば、本当に『やるべきこと/やめるべきこと』は明らかになってくるはずだし、今までの問題点も明らかになってくるはずだ。そういう意味でも、そのきっかけを提示してくれる白書の役割に期待するところは非常に大きいと言える。期待があればこそ、多少辛口になったきらいはあるが、是非来年度は一層充実した白書を手にできることを期待している。

 

 

「常識」や「信念」と距離を置く重要性について

 

■ 気になった臨死体験の本

 

 この夏の異常な暑さの影響もあって、しばらく持病の片頭痛に悩まされ、ブログ更新のペースも落とさざるを得ないでいるが、加えて、帰省でお休みしていると突然叔母の死去の知らせが入り、急遽、通夜や葬儀に参加することになり、通常の生活への復帰も遅れることになった。このようにイレギュラー続きだった直近の1~1.5月というもの、「仕事脳」をほぼ休止状態にして過ごしてきた気がする。こんなことはここ数年には例がなかったことだ。

 

だったら、しばらくブログ断筆宣言でもして、しばらく休養したらどうかと言われてしまいそうだが、おかしなもので、「仕事脳」は活性化していなくても、今書ける何かを書いておきたいという欲求だけは、意識の底から突き上げてくる。突き上げてくるからには、何か書きたい内容でもあるのだろうと、半ば自分自身を突き放しつつ、こうして書き始めてみることにした。

 

しばらくの間、仕事関連のことを考えていなかったことで、はからずも普段はあまり接していなかった情報に接する機会とはなったのだが、帰省中にゆっくりしたペースで読んでいた本の中でも、「プルーフ・オブ・ヘブン」*1という、臨死体験について書かれた本が妙に印象に残った。叔母の死去という出来事があったタイミングだけに何だか虫の知らせというか、ただならぬ因縁めいたものを感じてしまうが、そもそもお盆で帰省しているので、人間の生死の問題を考えるにはちょうど良い時期ではあった。

 

 

臨死体験に関わる本というのは、いざ調べてみると大量に類書が見つかって驚くことになるが、この本が異色なのは、著者であり、臨死体験をした本人が、最高レベルの脳神経外科医であることだ。アマゾンの紹介文が手っ取り早くその辺りの背景を伝えてくれているので、引用する。

 

 

■紹介文

 

 

フジテレビ系「奇跡体験! アンビリバボー」で紹介!

全米200万部突破! AMAZON.COM&《ニューヨーク・タイムズ》1位の世界的ベストセラー! 生死の境をさまよう医師が見た「天国」とは?

 京都大学教授カール・ベッカー氏 推薦

 「日本人にとってこそ必読の一書として推薦したい」

 (本書解説より)」

 名門ハーバード・メディカル・スクールで長らく脳神経外科医として治療と研究にあたってきたエベン・アレグザンダー医師。ある朝、彼は突然の奇病に襲われ、またたく間に昏睡状態におちいった。脳が病原菌に侵され、意識や感情をつかさどる領域が働かないなかで、医師が見た驚くべき世界とは?

 死後の世界を否定してきた著者は、昏睡のなかで何に目覚めたのか?

https://www.amazon.co.jp/dp/B00GZC2I70/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

 

 

これに加えて、もう一つ、2012年10月17日付けのロケットニュースには、"Afterlife exists says top brain surgeonV"*2というタイトルの英文の記事をベースとした記事があり、補足説明としてわかりやすいので、少々長くなるが引用しておく。

 

最近になって、とある脳神経外科の権威の主張に世界が衝撃を受けている。長らく来世(死後の世界)を否定してきたエベン・アレキサンダー博士は、過去に7日間こん睡状態に陥った経験を持つ。彼はこの経験から「死後の世界はある」と主張し、その内容が米有力紙に掲載され世界的に注目を集めている。その彼の経験とは?

 

エベン博士は2008年に急性細菌性髄膜炎という重い病にかかり、脳の新皮質に深刻なダメージを受けてこん睡状態に陥った。ハーバード大学で教育を受け、25年にわたって神経外科医として一線で活躍する彼は、病気以前に死後の世界を否定していたのだ。クリスチャンではあったものの、決して熱心に信仰している方ではなかった。

 

ところが病から復帰した後は、来世に対して肯定的な意見を持つようになった。それは彼自身の経験によるものだった。博士によれば、死後の世界では脳から独立した意識が現実とは異なる世界を旅していたという。青い目の美しい女性に出迎えられたその世界は、大きなピンク色の雲(のようなもの)が果てしなく広がっていたという。

 

そして「鳥」もしくは「天使」、そのいずれの言葉でも説明し切れない存在が飛び交い、壮麗な「音」が響きわたりまるで雨のように降り注いでいたそうだ。そしてその「音」に触れることさえできたとのこと。

 

 これらは、博士にとって実生活よりもリアルな体験であり、自身の結婚や子供の出産に匹敵するインパクトを受けたという。肉体が正常に機能をしていないながらも、視覚・聴覚・嗅覚をともなう経験であり、言葉ですべてを説明できないと話している。

 

脳科学の権威の発言に、世界中のインターネットユーザーは衝撃を受けているようだ。はたして死後の世界は本当に存在するのだろうか? あなたはどのように考えるだろうか。

死後の世界はある!? 脳神経外科権威の主張に世界が仰天!! | ロケットニュース24

 

 

■ 真実がゆがめられる現代社会の構造

 

著者(および臨死体験車の)エベン・アレキサンダー博士は、世界的な権威と言っていいレベルの脳神経外科であり、現代の科学では説明できない死後の世界を否定してきたわけだが、自らの臨死体験自体はあまりにはっきりとしていて、否定しようもなく、一方で最新の医学を知り尽くしているからこそ、医学では説明がつかない現象であることを確信する。そして、ここからが彼が普通の医学者(科学者)とは異なるところなのだが、そのような現代医学では説明のつかない体験をしたことを公表し、同様な体験談や、研究の成果を探求し、自分の体験を客観的にも理解しようとし始める。

 

世慣れた常識人であれば、アレキサンダー博士と同じ立場にあっても、自分の体験や思うところをそのまま公表することはしないに違いない。トップレベルの医学者としての名声を確立している人であれば特にそうだと思うが、それまでに築き上げた地位や名声を失ってしまうことを恐れるのが普通だからだ。

 

また、残念なことに、医学に限らず、およそどんな学問の領域でも、従来の学説で説明ができないことが少々出てきたからといって、それでそれまでの学説が簡単に覆るようなことはありえない。今回のケースのような場合、「いつか科学で説明ができるはずだが、今は何らかの理由で説明ができない出来事」という範疇に括られて、葬られてしまう可能性が高い。

 

真実の発見と、定説とされる理論の確立と、さらにはそれをベースとした社会常識の成立までには過去の歴史を見る限り、大変長い時間がかかる。まして、今回のような科学の前提自体がひっくり返るような出来事が、仮に臨死体験が本当のことであったとしても、一体どれほどの時間が経過すれば、社会常識として受け入れられるようになるのか、気が遠くなりそうな気がする。それはしばし一人の人間の寿命を軽々と超えてしまう。だから、真実の探求者は社会的成功とは無縁となることも少なくないのはやむを得ないとさえ言える。

 

おそらくアレキサンダー博士もこんなことくらいは当然わかっているはずだ。だが、本書および、博士の次の著作である『マップ・オブ・ヘブン』*3を読む限りでは、彼はそのようなことよりも、真実を真摯に探求すること自体を何より重視しているように見える。まさに科学者(医学者)の鏡と言える。

 

いわゆる普通の『常識人』の主な動機は保身であり、心の中はいつも恐怖心とコンプレックスでいっぱいだ。昨今特に、世界はこんな『常識人』で溢れている。厳しい真実より、安楽な虚偽(フェイク)を易々と受け入れる、変化を嫌い、真実はさほど重要ではない。保身や自己像を支えるのに役立つなら事実を突きつけられてもその口を封じ、虚偽(フェイク)の側に加担することもいとわない。あるいは虚偽や妄想に神経症的に固執するBrexitや米国大統領選挙等を見ていると、世界的にこの傾向はどんどん強まっているように見える。まさに「ポスト真実」の時代だ。

 

あまり詳しくしらべてみたわけではないが、おそらくアレキサンダー博士の周辺でも、臨死が本当なら自らの立場がなくなってしまいかねない医学関係者や科学者は、事実の検証など真面目に行うとは考えられず、頭ごなしに否定するか、良くても沈黙を貫くことになるなっているのではないか。一方、何が何でも死後の世界を認めさせたい動機を持つ人たちは、事実の検証もおろそかに、アレキサンダー博士を持ち上げているはすだ。

 

では、真実を追求しようとする博士の努力も結局報われずに終わるのだろうか。「偏見」や「常識」や「虚偽(フェイク)」に飲み込まれていくのだろうか。流れに抗って、真実を追求する努力は本当に報われないのだろうか。おそらく飲み込まれていくのだろう。旧来の権威側にいる「科学者」が科学の名の元に臨死体験などという「迷妄」を否定し、オカルト好きの一部マニアだけが語り継ぐ。そんなことがこれまで一体どれほど繰り返されてきたことだろう。多少飛躍するが、今の日本経済が崩れ行く現状を変えることができずに、先進各国の中で一人負けになっているのも、この構図がぴったりと当てはまる。

 

 

■ 常識はすでに非常識?

 

だが、真実の探求の目的は、世俗の称賛を受けることにだけあるわけではないはずだ。世界に受け入れられず孤高の存在となったとしても、真実を知り、場合よっては自己の覚醒につながるような強烈な経験自体を求める姿勢というのは確実に存在する。そのような意味での探究を求める人にとっては、実は反転の風は十分に吹いているように私には思える。どういうことだろうか。

 

 既存の医学(科学)では、説明のつかないことが起きた。であれば、ニュートラルに事実の検証を行い、従来の科学を見直すべく淡々と取り組めばよいはずだ。だが、そうではなくて頭ごなしに否定したり無視してしまうとすれば(それが偏見とか保身が理由でなければ)、おそらく次のような信念がベースにあるからだろう。

 

 

「この世以外の世界が並行して存在はずがない。」

「あの世は目に見えずどんな観察器具使っても見つからないから存在しない。」

 

 

だが、その程度の「信念」が臨死体験を否定する根拠というなら、もう少し科学の最先端を覗いて見た方がいい。

 

以前にも書いたことがあるが、現代の科学の最先端(特に物理学)は、すでに我々の通常の社会常識から言えば「非常識」という以上に、妄想の世界としか言いようがないようなものになっている。その意味で、科学の知見のない普通の人が「科学的」を語ることは、実は贔屓の引き倒しとなっていることに大抵の人は気づいていない。

 

例えば、物理学における我々の常識は、おそらく、ニュートン物理学のレベルだろう。この世界は絶対的存在としての、空間と時間があり、それはこの世の誰にとっても不変の存在と普通は考えているはずだが、それはアインシュタインによって明確に否定されている(学説としても定説となっている)。空間も時間も相対的なもので、伸びたり縮んだりする。誰かが光に近い速さで地球と飛び出したとすると、帰ってきた時には、地球では何十年、何百年という時間が経ち、自分の知る人々は全て死んでしまうことになる。まあ、このくらいのことは、昨今ではさすがに常識となってきたように思える。だが、それを本当に自分の実感としている人がどれだけいるだろうか。

 

「自分は目に見えないものは信じない」とおっしゃる方は今でも少なくない。私達の友人や先輩にもそのような信念で凝り固まっている人は多い。だが、最新の科学によれば、宇宙は目に見えるものは全体の5%程度で、95%は暗黒エネルギーや暗黒物質で形成されているという。5%の目に見えるものだけを知ったところで宇宙の真実を知ったことにはならない。

 

 波と粒子というのは、「常識」に従えば全く別物であり、一つのものがその両方の性質を持っていると言われても、イメージすることはできないだろう。だが、電子は両方の性質を持っていて、観察されると粒子としてその位置を知ることができるが、観察される前まで波として存在し、どこに存在するかは確率的にしか決めることはできない(というより「確率的に存在する」)。当然「常識」では全く理解できない。しかも、高名な物理学者である、アインシュタインも、シュレジンガー方程式で知られるシュレジンガーも、「確率的」というような説明に異論を唱えた。だが、その異論を唱えた側の方が劣勢というのがその後の評価だ。この議論を巡って、人間の意識と物とが密接な関係を持つという説や、それぞれの可能性が実現する世界が並行して存在するとする説など、私達のような凡人の常識から言えば、奇怪としか思えないような「科学理論」が出てきて真剣に議論されている。そういう意味では「人間の意識は物自体を知ることはできない」というカントのテーゼも、いつ覆ってもおかしくないと言える。

 

 

■ 真実に向き合う個人の自覚が重要

 

 臨死という体験があり、今までの医学(科学)では説明できない。事実はそれだけだ。だが、現代ではその後に余計な尾ひれが大量についてくるような構造になっていて、それがあらゆる真実を明らかにする上での障害となっている。その構造を分析して熟知し、振り回されないようにすることは、臨死体験の真実を明らかにすることと同様に、場合によってはそれ以上に重要なことのように私には思える。それは不確実な世界で、個人として真実を求め、正しい信念を持って生きていくためには不可欠な姿勢だと思うし、一人一人がそのような生き方を是とするようになれば、その時初めて、「ポスト真実」の世界が反転するチャンスもあるのではないかと思う。

 

*1:

プルーフ・オブ・ヘヴン--脳神経外科医が見た死後の世界

プルーフ・オブ・ヘヴン--脳神経外科医が見た死後の世界

 

 

*2:Afterlife exists says top brain surgeon - Telegraph

*3:

マップ・オブ・ヘヴン――あなたのなかに眠る「天国」の記憶

マップ・オブ・ヘヴン――あなたのなかに眠る「天国」の記憶

 

 

市場のトレンドは『真・善・美』へシフトすると確信している

 

 

◾️ あらためて取り上げたい『真・善・美』

 

前回のブログ記事で、扱った著書、『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』*1は、企業のコンプライアンス活動という比較的特殊な領域に関するイベントに絡めて引用させてもらい、関係者からは予想以上に好評をいただくことができた。ただ、本書で扱われているコンセプトは本来経営の根幹にかかわる大変革を示唆するものであり、前回のように法的な問題に関連して参考に使うことはもちろん可能だが、扱われている範囲から言えば、ほんの一部でしかない。しかも内容的には近年私自身が考えてきたことと驚くほど近い。よって、せっかくなので、前回は構成上言及できなかった部分についてもあらためて参照させていただきつつ、私自身がこの問題について考えていることについても(どちらかというとそれを中心に)述べておきたい。

 

 

◾️ 混迷が続く世界

 

2010年代もすでに最終コーナーが近くなってきた現在、世界は従前の予想をはるかに超えて混迷を極め一寸先を見通すことも困難な情勢だが、とりわけ2016年はまがりなりにも(良くも悪くも)世界に形成されつつあったはずの秩序を押し流してしまうような大変革を象徴する年になった。その頂点にあるのは言うまでもなく、英国のEU離脱国民投票および米国大統領選挙におけるトランプ大統領誕生(旧来の政治エリートを代表するヒラリー・クリントン候補の敗北)だ。それはすでに既定路線のように世界に波及していた『グローバリズム』をその震源地である米国と英国の内側から強烈なアンチテーゼが登場してあっという間に国論を乗っ取ってしまったのだから、世界は唖然とするしかなかった。

 

だが、就任したトランプ大統領も、未だに新秩序を生み出すどころか、混沌の中心にあって世界をかき回し続けている。トランプ大統領は常々『フェイクニュース』とメディアを罵っているが、昨年来、オックスフォード英語辞書が、2016年の世界の今年の言葉として発表した。『ポスト真実』という言葉が、現状の世界を覆う現象を一言で言い表す用語として注目を浴びたことは記憶に新しい。世界は、大量のフェイク(にせ)情報に溢れ、世論は正しい情報より感情に動かされ、まさにポピュリズムが世界中の政治シーンを席巻している。

 

一方、トランプ大統領によって抑制されることも期待された、米国の金融資本やグローバル企業は、その勢いを減じることなく、豊富な資金をつぎ込み優秀な弁護士やロビーストを抱え込み、政治家と結託して、自分たちの有利なようにルールを書き換え、その結果、市民の側の政治的な対抗力は弱まり、「1%とその他」と言われる貧富の格差は益々広がりつつある。経営コンサルタントの小林由美氏は著書『超一極集中社会アメリカの暴走』で、『1%とその他』どころか、さらにその状況はエスカレートしていて、『0.01%とその他』とも言うべき状況になっていると述べる。そして、このトレンドは米国一国にとどまらず、まさに世界のグローバル企業のスタンダード(グローバルスタンダード)として、世界に飛び火しつつある。トランプ大統領のTPP離脱宣言くらいでは、大きな流れはほとんど影響を受けているようには見えない。

 

 米国のジャーナリスト、ポール・ロバーツ氏は近著『「衝動」に支配される世界---我慢しない消費者が社会を食いつくす』*2にて、米国では社会全体が効率的市場の価値観に支配され、自己の欲求を満たすためであれば、社会的な責任も他者への配慮も生態系への負担も一切無視した、モラルの欠片もない社会が出来上がってしまったと嘆く。脳の辺縁系、爬虫類脳に対する刺激で人間の行動は制御されてしまい、欲しいもの、短期的な利益にユーザーは誘導され、ユーザー自身それを求める(求めさせられる)。だれもが、短期的な利益、欲しいものに突き動かされ、その他の社会に重要な価値(自己犠牲、献身等)が忘れられてしまったと述べる。そうして、このようにすべてを短期的な利益に誘導することに長けた経営者は株主から評価されて栄え、そうではない要素を持ち込み、短期利益を悪化させる経営者は、そこに如何に善意があっても、駆逐されてしまう。自己増殖を続ける純化された資本の法則が他の何にもまして猛威を振い続けている。

 

 

◾️ 機能しないCSR

 

この『スーパーキャピタリズム』に対する対抗軸(カウンター・バランサー)は、本来CSR(企業の社会的責任)であり、コーポーレート・ガバナンス(企業統治力)のはずだったが、昨今これが機能しなくなっていることを、編集者の松岡正剛氏は次のように嘆いている。

 

企業として社会的貢献をはたしていたと思われてきたデイトンハドソンやリーバイストラウスは、この20年間で敵対的買収を受けたり、工場閉鎖を余儀なくされている。メセナ企業として知られていたポラロイド社は倒産し、労働基準においてはトップクラスのマーク・アンド・スペンサーは買収され、やはりCSRの先駆者と見られていたボディショップアニタロディックは顧問に追いやられ、ベン・ジェリーズ(アイスクリーム・メーカー)はユニリーバに買収された。

1275夜『暴走する資本主義』ロバート・B・ライシュ|松岡正剛の千夜千冊

 

 

 実は、ここまでのところは、私自身がこの半年くらいの間にブログ記事としてまとめて来たことの抜粋であり、この内容を見れば、スーパーキャピタリズムに対して『真・善・美』なり、『美意識』なるものが対抗軸になるなどと、お前が言うなとおしかりを受けてもおかしくない。実際、企業の長期的な持続的成長のためとは言っても、株主以外のステークホルダーとのバランスといったような議論は、持出しにくくなっていると言わざるをえない。また、先の『ポスト真実』に即して言えば、『真』を求めようにも、フェイクニュースだらけの中から、どうやって『真』を見極めればいいのかわからない、というような疑問が続々と湧いてきそうなのが、昨今の実状ではある。

 

となると、前回のブログ記事は何なのかとあらためて問われてしまいそうだ。『真・善・美』や『美意識』では『ポスト真実』にも『スーパーキャピタリズム』にも対抗できなければ、これをコンプライアンスの文脈で持ち出しても意味がないのではないか、ということになる。確かに、正面から、CSR(企業の社会的責任)であり、コーポーレート・ガバナンス(企業統治力)とか持ち出しても、表面的にはともかく、根本的には拉致があかないと、正直私も思う。特に、短期志向の株主を説得することなどできるとは思えない。

 

 

◾️ 世界は『真・善・美』を必要としつつある

 

しかしながら、少々迂回路を通ってではあるが、やはり『美意識』が機能するトレンドが遠からず訪れるのではないかと、最近考えるようになった。どういうことだろうか。少し説明がいる。

 

山口周氏の著書のタイトルにある通り、そもそも世界のエリートが『美意識』を鍛えようとしている目的は、CSRでもコーポレート・ガバナンスでもない。市場で勝ち抜く経営の力を鍛えることだ。もう少し具体的に言えば(本書からその要因を引き出してきて並べると)次のようになるだろう。

 

1.差別化

 

『論理』や『理性』だけの競争では誰でも同じ結論に到達して差別化ポイントを喪失してしまう(正解のコモディティ化)。人の創造性を開花させるイノベーションが差別化の基本だが、そのためには、特に今後は、『美意識』の鍛錬が不可欠となる。しかも、『美意識』による差別化は競合他社が分析して追随することがしばし難しく、そういう意味で競合他社が入り込めない『壁』を構築することができる。

 

 

2.論理だけでは測れない問題の増加

 

世界が混沌としてきて、数値化が難しく論理だけでは白黒がはっきりしない問題だらけとなっているが、経営者はそれでも正しい意思決定ができる判断力を期待され、そのために何等かの方法を模索せざるをえない。そして、そのような判断力を鍛える方法として、『美意識』の鍛錬が有効と考えられて来ている。従来のファクトベース・コンサルティングの標準的な問題解決のアプローチは陳腐化してきているだけではなく、方法論自体が限界にきている。

 

 

3.地球規模で消費者の要望が高度化する

 

地球規模の経済成長が進展しつつあり、衣食が足りるようになった世界の消費者の欲望は『高度化』し、益々多くの人が自己実現につながる消費を求めるようになってきている。いわば世界は巨大な『自己実現欲求の市場』になりつつある。ノーベル経済学賞を受賞したロバート・ウィリアム・フォーゲルも、世界中に広まった豊かさは、全人口のほんの一握りの人たちのものであった『自己実現の追求』をほとんどすべての人に広げることを可能にしたと述べているというが、それは今後もっと急速にもっと大規模に拡大していくだろう。その市場で勝つためには、機能的優位性や価格競争力を形成する能力より、人の承認欲求自己実現欲求を刺激するような感性や美意識が重要になっている。

 

 

このように、今、世界規模の市場競争を勝ち抜く上で美意識を鍛えるというのは、逆説的だが極めて合理的だ。企業の競争力を(経済的な面でも)大きく上げていくだろう。当然企業の唯一最大のステークホルダーとなった株主も納得せざるをえないはずだ。

 

だが、非常に興味深いことに、目標の主が、経営やビジネスの競争での勝利であっても、美意識の追求というのは思わぬ副次効果をもたらすことになると考えられる。少なくとも下記の3点を指摘することができる。

 

 

1.高まる『真実』の希少価値

 

先ず第一に、フェイクニュースだらけの市場では、『真実』の希少価値はいやがうえにも上がって来ている。同時に、人々の『真・善・美』を求める気持ちは強くなってきている。『真・善・美』の追求が、企業の競争力を確保する上でも必須ということになれば、流が大きく変化する条件は揃ってきていると言える。

 

 

2.ローカルの「善」への希求

 

次に、ローカルの復権としての『ローカルの善』を求める欲求が強くなってきていることがある。グローバル化を純粋に追及すると、ローカルの秩序を壊してしまうことになる。グローバル企業として競争に勝っても、それは従業員に還元されず、それどころか人工知能やロボット等のハイテクの進化とともに、雇用は一層縮減する方向だ。企業の存在する地域経済への還元もその実現は状況次第で変わり、もっと資本の増殖にとって都合が良ければいつでもその場所からシフトしてしまう可能性がつきまとう。1%はそれでもいいだろうが、残り99%にとっては、それでは困るだろう。まさにそれがトランプを大統領に押し上げた原動力だったはずだ。そういう意味でも、ローカルにとっての善を単純に切り捨てる方向は明らかに反転し始めている。

 

 

3.クールで美的でファッショナブルな企業の有利さ

  

そして、自己実現欲求中心の市場における消費者にとっては、物質主義は後退し、精神的な充足を求める傾向が強まると考えられている。その延長で、物資的な満足を充足させてくれれば誰でもよいという人は減り、人をワクワクさせてくれるような企業、美意識を存分に感じさせてくれる企業に対する声望が大きくなると考えられる。その先頭にいる企業として、アップルを上げることができる。西川氏がさりげなく述べている点でもあるが、株式時価総額世界一を争うアップルの最大の勝利条件は、いわゆる『イノベーション』ではない。カリスマ経営者だったスティーブ・ジョブズ亡き後、『イノベーション』の衰退が指摘され、それが今後の企業としてのアップルの将来が危ぶまれる理由となっているわけだが、今のアップルの商品の魅力の源泉は広義の『デザイン』の力であり、アップルはIT企業というより、ファッションの会社と考えたほうがよいかもしれない、と述べる。アップルが提供している最も大きな価値は『アップル製品を使っている私』という自己実現欲求の充足だというわけだ。今後アップルがどの位の期間この価値を提供できるかは正直不透明だが、現時点でのアップルの評価としては私も賛同できるところである。

 

競争の構造自体の一大反転

 

このように、市場での競争に勝ち残るためにこそ、『真・善・美』であり『美意識』が求められており、その付随効果/副次効果として、市場参加者のメンテリティが大きく変化し、競争の構造自体がドラスティックにシフトする可能性がはっきりと見えて来ている。企業の競争力を巡って一大反転が起きてくる可能性がある。このようなトレンド下にあっては、ブラック企業は論外だし、フェイクニュースを垂れ流したり、経営に美意識を持たない企業の競合力が目に見えて落ちてくることは大いにあり得るところだろう。少なくとも、そのように意図を持って世界を変えようと考えている人や企業を大きく後押しする力が湧き出してくると考えられる。

 

ここからは私の勝手な予想だが、これからの2~3年は『偽・悪・醜』の旧来のパワーと、対抗する『真・善・美』のパワーがぶつかり合い、相克の時代になるのではないか。そして、最終的には、そして、最終的には『真・善・美』が勝って、世界全体のシステムも大きく変わることになるだろう。少なくとも、その陣営に自分を置いて、『真・善・美』勝利するために、自分にできること、やるべきことは何か、十分に時間をとって考え、行動に移していきたいと思う。

サイエンスから美意識へーコンプライアンス活動の未来

 

◾️ セミナー概要

 

7月19日に、レクシスネクシス・ジャパン社主催で、『競争戦略としてのコンプライアンス~攻めのコンプラはオモシロい~』というタイトルのセミナーが行われたので、出席してきた。

※満席のため受付終了【Executive Seminar】 競争戦略としてのコンプライアンス~攻めのコンプラはオモシロい~ - LexisNexis

 

下記に、開催概要を引用しておく。 

 

通常、「コンプライアンス」という言葉を聞いて元気が出る人はいません。コンプライアンスという言葉は不祥事を起こした企業の謝罪や、マスコミによる非難という場面で用いられるものだからです。また、細かい法令解釈ばかりのコンプライアンス・マニュアルは、見ているだけで食欲がなくなってしまいます。このように、コンプライアンスは、ビジネス活動を委縮させるものと理解されがちです。

  

本セミナーは、そのような古い概念を打ち破ることを目的としています。コンプライアンスはビジネスの「足かせ」となるものではなく、変化する時代や社会での能動的リスクマネジメントであり、「ストーリーとしての競争戦略」の一環として位置づけられるものなのです。本セミナーでは、コンプライアンスを「ものがたり(ストーリー)」として理解し、企業価値を高める鍵となるものという意識付けをおこない、従来のコンプライアンス活動の見直しを提言します。

 

<プログラム>

 13:00 統計からみるコンプライアンス

  斉藤 太(レクシスネクシス・ジャパン株式会社取締役社長)(10分)

 

 13:10 講演1「ストーリーとしての競争戦略」

  楠木 建(一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授)(40分)

 

 13:50 講演2「ものがたりのあるコンプライアンス~競争戦略の武器として~」

   國廣 正(弁護士、国広総合法律事務所弁護士)(40分)

 

 14:30 講演3LINEの成長戦略とコンプライアンスについて」

   出澤 剛(LINE株式会社 代表取締役社長 CEO)(40分)

 

15:25 パネルディスカッション・Q&A90分)

  ファシリテーター菊間千乃(弁護士、松尾綜合法律事務所)

   パネラー:楠木 建教授、國廣 正弁護士、出澤 剛氏ほか

 

 

◾️ レクシスネクシス社の意図と成果

 

レクシスネクシス社は、米国のオハイオ州デイトンに本社を置くリサーチデータベースプロバイダーであり、主な事業は、英米判例データベースや海外特許データベースといった、オンラインデータベースの提供で、その他、法律雑誌や法律書出版を行っている。そのグループ会社である、レクシスネクシス・ジャパン社も同様に、法律関連のオンラインデータベースによる情報提供、雑誌発行、出版、イベントの企画等が活動範囲である。従って、同社主催のイベントの主なターゲットは法律実務家あるいは、コンプライアンス対応を含む社内統制系業務従事者ということになる。そのため、『コンプライアンス』系のイベントはこれまでにも手を変え品を変えて数多く開催されている。

 

ただ、今回が多少異色なのは、テーマ設定と講師の選定だ。本職の企業のコンプライアンス対応に関わるアドバイザーとしての弁護士(國廣弁護士)に加え、企業経営戦略の専門家(楠木健教授)と先端のITビジネスの経営者(井澤社長)をプレゼンターとして起用しつつ、この3者をパネラーとして主催者の主張である、『コンプライアンスをものがたり(ストーリー)として理解し、企業価値を高める鍵となるものという意識付けをおこない、従来のコンプライアンス活動の見直しを提言』するという趣旨に関連した発言をパネラーから引き出してみせ、メインターゲットの『ビジネス活動を委縮させるものと理解されがち』であり、社内ではしばし疎まれて意気消沈しがちな企業のコンプライアンス担当』に意欲を持って仕事に取り組める道があることを示し、ほぼ予定調和の形に納まってイベントは無事終了した。

 

もっとも、これで本当のところどれだけの出席者が納得して帰ったのかはよくわからない。ただ、少なくとも、この業務の本質を理解している企業のリスク担当であれば、結構複雑な思いをしたであろうことは予想がつく。私自身も、正直なところ、もっと語るべきことがあるのに今一つ踏み込めていないと思い、フラストレーションを感じていた。まあ、今回の出席者の選定(ターゲット層の設定)についてはレクシスネクシス社の思惑もあるだろうから、私のようなオフターゲット(標的外)の参加者が期待するようなことまで全てカバーせよ、というのは酷であることはわかっている。ただ、私の感じる『物足りなさ』に共感する人は案外多く、しかもおそらく重要な問題の入り口になっているように思える点もあるので、この機会に(多少辛口に感じれれるかもしれないが)思うところを書いておこう。

 

 

◾️ コンプライアンス業務の実際

 

従業員の多い大きな企業では特に、コンプライアンス活動というのは、時にビジネスの実態から乖離しているようにさえ見えてしまう、難解だが、内容に誤りのない正確なマニュアルを作成すること、およびそれを従業員に浸透させるための『目に見える』活動を行うもの、というのが一般的な認識だ。この活動には、一定の法的理解を従業員に促すという目的があるのは言うまでもないが、もう一つ、関係者の暗黙の了解として、何らかの問題(従業員の法律違反の露見等)が起きた時に、企業としてはできる限りの回避努力はしていた、ということを目に見える形で示すことで、世間の非難を緩和したり、裁判になった場合に少しでも有利な状況としておく、という目的がある。監督官庁やクライアント企業に対するアピールという意味もあるだろう。必要悪という面があるということだ。だから、社内の従業員からは疎まれ、コンプライアンス担当が意気消沈しても、リスク低減という意味では、これを行うことのそれなりの『意味』はある。

  

だが、単に形式的に実施して、エビデンスを残しておけば良いというような単純な話ではない。水面下では、関連する多くの情報を集めて様々に想定される事態に備えておく必要がある。(判例の傾向、炎上を含む世間の反応と対応の仕方、監督官庁の担当官の癖の把握や過去の事例等)。実は単純に見えるコンプライアンス活動の裏面には一般の人があまりよく知らない、プロにしかわからない活動がある。これも広義の経営戦略であることは確かだが、楠氏や出澤氏が通常意識しているような経営戦略の範疇とはかなり異なった、特殊な領域である。もちろん、こんな構造を知りもせず、単純にマニュアルを従業員に押し付けて回るコンプライアンス担当は論外で、そんな担当はビジネスの現場から鼻つまみ者扱いされて、意気消沈でもなんでもしていればいい。だが、一般の従業員には理解されずとも企業の価値を毀損しないための裏面の戦いが現実に存在することを理解しているプロの担当者であれば、一時的には煙たがられたり嫌われるようなことになってもプロとしての仕事に誇りを持っているから、苦笑しながらも自信と尊厳に揺らぎはないはずだ。

 

 

◾️ 法律が未整備な場合には

 

ただ、そんなプロであっても、昨今の技術進化の影響を強く受けるIT企業のようなケースでは、経営者がどのようにリスクに対応しているのか、という点には興味を持ったかもしれない。技術進化の渦中にいる企業においては、新しいビジネスを始めようとすると、しばしば法律が未整備で、リスク対応についても、過去の事例がほとんどない中で、なんらかの判断を求められる。そんな企業のコンプライアンス担当はどんな判断を下すのか、という課題だ。その点、LINEの井澤氏の回答は明快だった。企業の活動の方向を『フェアネス(公正性)』という観点からチェックするようにしているという。法律がかりにあって、その法律を遵守していたとしても、世間から非難されてしまようでは企業活動としては失敗だし、特にリスク対応という点では評価されないはずだ。一方、世間が評価し納得する姿勢を堅持できていれば、法的な問題でひっかかっても、修復は早いはずだ。だから、井澤氏の経営としてのリスク対応は正しい方向を向いていると私も思う。

 

だが、それでも気になる点がある。LINEのような新しいビジネスを展開する会社にとっては、具体的な法律がないとすると、頼れるのは『倫理観』のみということになる。この倫理観の柱として出澤氏は『フェアネス(公正性)』を挙げた。國廣弁護士は、『お天道様に恥じない行為』と述べた。そして、國廣弁護士はこれを『誰にでもわかるあたりまえのこと』と述べた。だが、今日、『誰もがわかるあたりまえ』という概念はそれほど自明だろうか。

 

 

◾️ 自明とは言えない『お天道様』概念

 

『お天道様』という概念が出てくるのは、外国ならいざ知らず、同質的な日本人の間では、価値観は共通しているからわかりあえるはずだ、という含意があるのだと思う。だが、本当にそうだろうか。例えば昨今の労働問題など時々思わぬ認識の齟齬に出くわすことがある。昭和期を過ごした経営者など、労働哲学に関わる信念は欧米流、あるいは昨今の若年層が持つ常識とはかなり違うはずだ。もちろん法律で決められたことを無視してしまうことは問題だが、一方でアジア諸国とのコスト競争を余儀なくされている経営者など、自分の本当に言いたいことを飲み込んだような顔をしている人が多いことは少し気をつけて見ていればすぐにわかる。

 

また、『内部通報制度』というのがあるが、この制度、私が知る限り、あまり期待されたような成果を上げているとは思えない。それには様々な理由があると思うが、そもそも『お天道様』は内部告発者をどのように評価するだろうか。悪いことをしている者(法律違反をしている者)を告発するのは社会人としての当然の務め、と褒めてくれるだろうか。どちらかというと、同じ釜の飯を食っている同じ会社の仲間を内部で解決せずにいきなりチクるのは人間として恥ずかしい、とか言うのではないか。今の日本では『会社コミィニティ』は急速に消えつつあるから、後者の判断は古いとおっしゃる方も多かろう。だが、昭和を過ごしたサラリーマンの心中は結構複雑ではないだろうか。

 

実のところ、法律とその国やコミュニティの持つ規範意識(常識)とは必ずしも一致しない。特に、日本の場合、明治維新以降、海外の法律体系を導入してきた経緯もあり、日本人的な常識との齟齬は時々表面化して人を驚かすことになる。しかも、そもそも人間の社会は、法律のような概念言語だけでできているのではなく、音楽等の芸術、愛情、感情のような概念言語でないものがあり、その両方のバランスで成り立っており、法律のような規範ばかりに頼ろうとすると、会社内でさえ従業員の素直な合意を得られないことが少なくない。法律の指示することとお天道様の目とはここでも必ずしも一致しない。こんなケースは実際のコンプライアンス活動ではしばし表面化することであり、レベルの低いコンプライアンス担当者は、このような内心の齟齬を無視してマニュアルを押し付け、レベルの高いプロは、このような齟齬から来る不協和音の緩和に対処を怠らない。

 

 

◾️ グローバルとローカル

 

このような齟齬や矛盾は法律だけの問題ではない。昨今では、経済はグローバル化して、そのグローバル競争に勝ち抜くことをどの企業でも要求されている。だが、日本企業の大抵の従業員が持つ経済倫理というかビジネス倫理はグローバル化に対応したものとは言えず、極めて『ローカル』なままなのが普通だ。グローバルという点で突出している米国企業など、今では企業は株主の持ち物という考え方が突出していて、企業のステークホルダーは株主だけという認識が一般化しつつある。ところがその米国でさえ、以前は従業員、地域社会、納入業者等、様々なステークホルダーの調和が社会的存在としての企業の役割であり、企業の長期的な存続のためには不可欠との認識が常識だった。日本でも、古来、事業の社会的意義は非常に重視されてきた。例えば、売り手よし、買い手よし、世間よし。いわゆる『三方よし』は、高島屋伊藤忠商事住友財閥などわが国を代表する企業のルーツとされる近江商人の経営哲学をあらわす言葉として有名である。だが、そんな日本企業も、昨今の資本や労働が自由に国境を超えることを前提としたグローバル競争にさらされて心理的にも引き裂かれるような決断を迫られることが多くなっている。ローカルの従業員の雇用を重視しようと思っても、コスト競争を勘案すると生産を海外に移転せざるを得ないとの決断などその典型だ。このような場合、お天道様は誰に味方をするのだろうか。今後、人工知能やロボットの導入が進むと、世界的に労働者の仕事が奪われるような現象が相次ぐことになるだろう。この場合も、経営者は悩ましい決断を迫られることになるはずだ(たぶんお天道様もそうだろう)。

 

 

 ◾️ 差し迫るさらなるグローバル競争

 

まだ日本国内であれば、同質性幻想に浸って、それを前提に経営を行うこともぎりぎり可能かもしれないが、いったん日本の外に出るとそういうわけにはいかない。お天道様も、仏様も、キリスト様も、モハメット様も、沢山の聖人や神様がいらっしゃる中で、非常に難しい舵取りを強いられることになる。だからこそ、『最低限の合意としての法律』が重要になっているわけだが、先に述べたように、法律が未整備な技術進化のスピードが速い業界で、国際競争を迫られて、様々な人種を抱えてビジネスをやらざるをえなくなると、一体どうすればいいのか。そのようなケースはまだ例外とたかをくくっていられる時間はもうそれほど長くは残されていない。デジタル技術のさらなる進化は、インターネットだけでは超えることができなかった、国境の壁をさらに楽々と超えていける環境を整備しようとしている。(ブロックチェーン、3Dプリンター等)。どんな『ローカル』な企業にもこのグローバルの波が押し寄せてくることを前提として考えておく必要がある。

  

逆にそうであれば、倫理やお天道様などと言わず、むしろ狭義の法律の範囲だけを意識したほうがいいのでは、という意見も出てきそうだ。ところが、昨今の日本の状況を見てもわかる通り、事はそれほど単純ではない。炎上という問題がある。一部の人の倫理観や信念を傷つけて炎上に巻き込まれてしまうのであればまだしも、誹謗中傷、誤解、さらにはフェイクニュースによって炎上に巻き込まれて企業価値を毀損してしまう恐れがあることも忘れるわけにはいかない。企業としての正しさ/信念を持って、そのような炎上に屈することなく善意の第三者の賛同を訴えかけていけるように普段から備えておく必要もあるはずだ。

 

 

◾️ 経営は『サイエンス』偏重から『美意識』へシフトしている

 

このような状況が迫りくることを前提として、今コンプライアンスという業務を真面目に考えることは極めて難しい。もちろん、抽象的に言えば、経営戦略として、ストーリー性を持って取り組むべきという言い方に収まってしまうかもしれないが、問題はその『経営』の中身のほうだ。経営コンサルタントの山口周氏は、新著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』*1

において、これまでのような『分析』『論理』『理性』に軸足をおいた経営、いわば『サイエンス重視の意思決定』では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない。世界は『測定できないもの』『必ずしも論理でシロクロつかないもの』だらけになっており、そこで決められた時間で正しい判断を行うために、リーダーには『美意識』=経営における『真・善・美』が求められている、と述べる。これは、山口氏だけがそう考えているのではなく、実際に世界のトップレベルの経営者は、難易度の高い問題の解決力を高めるためにこそ、論理的・理性的なスキルに加えて『芸術、デザイン、哲学、教養』を学び、この『美意識』を身につけることの重要性を認識して、そのためのプログラムを積極的に履修しようとしている。そのような変化に言及しなければ、単に『経営』を議題として持って来てもあまり意味がないとさえ言っても過言ではない。

 

 山口氏は、この状況を前提として、上記で私が言及した問題も取り上げて、さらに突っ込んだ議論を展開している。

 

現在のように変化の早い世界においては、ルールの整備はシステムの変化に引きずられる形で、後追いでなされることになります。そのような世界において、クオリティの高い意思決定を継続的にするためには、明文化されたルールや法律だけを拠り所にするのではなく、内在的に『真・善・美』を判断するための『美意識』が求められることになります。

 

 グーグルは英国の人工知能ベンチャー=ディープマインドを買収した際、社内に人工知能の暴走を食い止めるための倫理委員会を設置したと言われています。人工知能のように進化・変化の激しい領域においては、その活用を律するディシプリンを外部に求めることは大きく倫理に悖るリスクがあると考え、その判断を内部化する決定を下したわけです。先述した旧ライブドアDeNAと比較すれば、企業哲学のレベルとして『格が違う』と言わざるを得ません。システムの変化に法律の整備が追いつかないという現在のような状況においては、明文化された法律だけを拠り所にせず、自分なりの『真・善・美』の感覚、つまり『美意識』に照らして判断する態度が必要になります。

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』より 

 

 

この『美意識』が意味するものは、単なる自己満足でも、『お天道様』のような日本でしか通用しないものでもなく、まして何もしなくても、常識として誰もが持っているものでもない。世界レベルの評価にさらされても揺らぎなきものにするべく、学び探求する必要があるということだ。そしてそれはまた、『サイエンスだけの経営者』も『明文化された法律しか扱わない法務担当(法曹界)』も不要になろうとしていることを意味する。

 

 

 ◾️ 課題は山積み

 

 私の感じた、今回のイベントの『物足りなさ』や、もっと突っ込んで議論して欲しかった点はまさにここにある。しかも、私の知る限りだが、今回の登壇者の楠木氏や、出澤氏は、このような問いかけに十分答える力量がある。それだけに、残念だったという思いがつのる。しかも、美意識や倫理観、哲学等が重要といっても、一方で、コンプライアンス関連の業務に不可欠とされる、『アカウンタビリティ』をどうするかというような難問もある。美意識による判断を客観的に説明することは至難の技と言わざるを得ない。

 

さらには、これも山口氏が述べていることでもあるが、明文化されたルールだけを根拠として、判断の正当性そのものの考察には踏み込まない、『悪法もまた法である』というような考え方、すなわち『実定法主義』から、自然や人間の本性に合致するかどうか、その決定が『真・善・美』に則るものであるかどうかを重んじる『自然法主義』が今後は主流となってくることは確実であり、そのために何に気をつけ、具体的にはどのように対処していけばよいか、というのもまた重い課題だ。

 

このごとく、まだ議論すべき点はいくらでもある。昨今、日本だけではなく、世界の経営が非常に大きな転換点を迎えているが、それなのに、多くの日本企業では必ずしもそのような理解ができていないと思えてならない。今回のイベントで、そのことをあらためて意識化し、言語化するきっかけを与えていただいたように思う。そういう意味では私自身にとっても大きな成果を得ることができたイベントだったといえる。

GEのジェフ・イメルトCEOから学ぶべきもの

 

◾️ 退任劇では見えないイメルトの凄さ

 

先日(612日)、自分にとっては少々驚きのニュースがあった。多国籍コングロマリット企業GECEOであるジェフ・イメルトが退任するという。イメルトと言えば、『20世紀最大の経営者』とまで尊称されたカリスマ経営者、ジャック・ウエルチの後を継ぎ、厳しい経営環境の変化を冷静に乗り切り、製造業のサービス化(というより徹底したデジタル化)を成功させて、ある意味でウエルチを上回るビジョナリーとして燦然と輝く経営者というイメージであったため、大変唐突に思えたからだ。だが、実際には、特に昨今では、株価低迷が続き、いわゆる物言う株主、『アクティビスト』の圧力が強まっていたのだという。

 

新聞記事等でこの記事を見た普通の人はどのように思っただろうか。ジェフ・イメルトという人も当初は優秀な経営者と言われていたが、ジャック・ウエルチと比べてしまうとやはり格の違いは否めず、とうとう退任させられるのか、という程度の認識ではないだろうか。まあそれも無理はない。例えばこんな比較がある。

 

ジャック・ウエルチの、1981331日から9911月までの在任期間に、GEの株価は4ドルから133ドル(4回の株式分割を織り込んだ修正値)に上昇、その増加率は3200%となる。この同じ時期、GEの売上高は272億ドルから1732億ドルに伸び、利益は16億ドルから107億ドルに増加している。1999年には、収益力世界第2位の企業になった。一方、ジェフ・イメルトのほうはどうかと言えば、イメルトがCEOに就任した2001年以降GEの株価は29%下落しており、しかも、同時期に米国の代表的な株価指数S&P500は2倍以上に値上がりしている。経営者の評価を単純に株価ではかるのであれば、イメルトがウエルチに対し見劣りして見えるのはやむをえないだろう。ネルソン・ペルツ率いる投資会社トライアン・ファンド・マネジメントはGEの業績を批判しつつ、資産売却やコスト削減を要求していたという。経営者であるからには、米国ならずとも、このような批判にさらされるのはやむをえないところではある。

 

だが、これで以上終了としてしまうのは、あまりに惜しい。イメルト の本当のすごさと業績はこのような表面的な比較だけで済ましてしまえるものではない。というより、今の時代、そしてこれからの時代を見据えた場合、これからウエルチ流の経営をまねても得るところがないとまでは言わないまでも、市場での競合力が維持できるとは限らない。一方で、イメルトの推し進めた改革は、すべての企業が参考にすべき教訓に満ちている。特に今の日本企業こそ、イメルト流の経営改革の意味の理解に努め、自らのお手本とすべきと私には思えてならない。

 

 

◾️ ジャック・ウエルチの時代

 

とは言っても、私はウエルチの業績や経営手法を過小評価するつもりはまったくない。それどころか、イメルトの経営にも引き継がれた、『経営者を厳選し教育する仕組み』『学ぶ文化』等があったればこそ、イメルトが後継者に選ばれ、しかも、その学ぶ文化のおかげで、30万人を超える従業員を抱える超巨大企業のGEでありながら、イメルトの号令一下新しい時代、新しい現実に併せて経営戦略をシフトし、従業員がその変化を受け入れることができたとも言える。

 

経営の神様、ピーター・ドラッカーは『Culture eats strategy for breakfast.』という名言を残している。 『文化は、戦略を簡単に食べてしまう』=『どんな緻密な戦略をたてるよりも、優れた企業文化を構築することが重要である』という意味だが、GEほどこの名言を体現できている会社は例がないと言っていい。だが、経営者としてのイメルトが推進して来た経営思想は、結果的にとはいえ、ある意味ウエルチ流の全否定といっていいくらい異なっている。

 

そうなった原因は、何より両者の在任期間中の経営環境の違いに起因するところが大きいと考えられる。ウエルチがCEOに就任した81年と言えば、日本が『ジャパン・アズ・No1』と称賛され、日本の製造業が爆発的に世界にそのパーフォーマンスを誇示し始めたころだ。例えば、米国の当時のビッグ・スリーの生産する自動車が、燃費が悪く、故障が頻発することを酷評されている一方で、日本製の自動車がオイル・ショックを乗り切って、低燃費かつ超高品質であることを米国市場が評価し始めていた。あるいは、家電、特にその王様と言えるテレビでも、ソニートリニトロンテレビやパナソニックといったブランドが、圧倒的な安さと品質の高さで市場を席巻していたころだ。

 

そのような中、かつて『テレビの生みの親』と言われ、米国市場で90%以上の独占的な市場を持っていたRCAという会社も、日本勢の攻勢にあって経営が悪化し、85年にはGEに一旦買収された。しかしながら、GEは、RCAのテレビ事業を大改革してもグローバルな競争で生き残れる可能性は小さいと判断して、87年にRCAをフランスの電機メーカーであるトムソンに売却することを決断する。その後『ナンバー1ナンバー2戦略』として有名になる、有名な戦略の一環だが、市場で競争力が乏しいと見れば、GEを長く支えた伝統産業である家電であれ批判をものともせずに整理した(テレビ事業の売却については、アメリカの魂を売り渡したと批判された)。代わりに、ジェットエンジンや新世代のプラスチック、医療用の画像診断機器など、他社が簡単には真似できない事業を選び、圧倒的に強くする。そのような戦略の帰結として、ウエルチが退任するころには、金融事業であるGEキャピタルの収益はGE全体の収益の50%を占めるに至り、伝統的な家電以外の部門が90%以上を占める変貌ぶりだった。

 

ウエルチは就任早々日本の製造業の攻勢を見るなり、その実力を一早く見抜き、競争力がない部門は売却すると同時に、日本のQCサークルに淵源をたどれる『シックス・シグマ』という品質に関わる戦略を取り入れ、米国経済全体の大きなトレンドとして急速に発展した『金融』を大胆にポートフォリオの中心に据えるなど、この時代の市場環境の本質を理解した見事な戦略を展開した。だが、ウエルチを驚かした日本企業も彼が退任する頃には、『失われた20年』の只中にあって、すっかり状況は変わっていた。一方の米国は政治的にも共産主義に打ち勝ち、経済的にも『金融』と『インターネット』で日本の攻勢を抑えて世界一の勢いを取り戻し、繁栄を謳歌していた。ウエルチ氏の経営手腕はこの時代にジャストフィットで、その手腕は凄まじいとはいえ、米国が勢いよく上昇する時代にうまく相乗りしていたことも確かだ。

 

 

◾️ 経営環境が激変したイメルトの時代

 

だが、一方、イメルトはの時代どうだろう。

 

ドットコムバブルの崩壊、9・11、金融危機エンロン事件、住宅バブル崩壊リーマン・ショック)、それに引き続く景気の停滞。特にかつてはGEの収益の半分を支えた金融の打撃は甚大で、経営の足を大きく引っ張る。まさにイメルトのCEO就任を機に世界は急速に変わり始め、米国経済も大きく揺さぶられることになる。

 

しかも、この時代の、ある意味でもっと大きな変化は、2001年にドットコムバブルが弾けて終わったと見られていた『シリコンバレー』の急激な反攻、というより、シリコンバレーが米国の経営モデル全体を刷新するほどの大変貌を遂げたことだ。それを象徴するGoogleは今やシリコンバレーIT業界を越えて、超巨大な存在となり、全産業を巻込むディスラプター(破壊者)となった。

 

 Netscape Navigator(インターネット・ブラウザ)の開発者として著名なマーク・アンドリーセンは、20118月にウォール・ストリート・ジャーナルのインタビューに応じて、『ソフトウエアが世界を食べている(Software Is Eating The World)』と述べて話題になった。そして、『価値の源泉はソフトウェアにあり、ハードウェア産業は新興国に移ってゆく。この動きにそってすぐれたソフトウェアの開発に特化した企業だけが生き残り、そしてハードウェア企業を飲み込む。』と喝破した。そして、こうも述べている。『企業の世代交代だ。ソフトウェア革命に適応できない企業は、情報産業のみならず多くの産業で退場するだろう。』

Marc Andreessen on Why Software Is Eating the World - WSJ

池田信夫 blog : ソフトウェアが世界を食う

 

そして実際にそうなった。だが、それはほんの始まりに過ぎなかった。


2017年の半ばを過ぎた現在、2011年当時とは比べ物にならないくらい、ソフトウエアは世界を食べている。というより食べ尽くそうとしている。2011年当時にはほとんど話題にならなかった、人工知能もそのベースとなるクラウドIoTも今では辟易するくらいにメディアをにぎわしている。次世代のインターネットにとってさらに大きなインパクトを及ぼす可能性が取りざたされる仮想通貨の基幹技術であるブロックチェーン2011年当時にはほとんど誰も話題にしていなかった。さらには、3Dプリンターがハードウエアでさえ簡単につくり、バージョンアップできるようになって来ている。

 

 ウエルチによってあれほど巨大な存在に成りあがったGEも、金融が失速してしまえば、残る事業の大半はハードウェアだ。それがソフトウェア革命に適応できなければ、退場を余儀なくされるような時代になったのだ。この環境変化の本質をイメルトは早い段階から見抜き、自ら先頭に立って、GEのデジタル化を見事に成し遂げた(厳密に言えば成し遂げつつある)

 

 

◾️ 製造業のデジタル化

 

そのイメルトの偉業を綿密な取材に基づいてまとめた著書がある。『GE 巨人の復活』*1 

である。本書を読むと、イメルト氏が如何に優れたビジョナリーであると同時に、実行力のある経営者であるのかがわかる。金融大崩壊とも言える苦境を乗り切って、GEをデジタル製造業として再生し、『ソフトウェア革命に適応できる企業』としたばかりか、『ソフトウェアで食べることのできる製造業』、そして、『シリコンバレーの攻勢の只中で立っていられる企業』に作り上げた。本書で、ほとんど奇跡とも言えるイメルトの業績の軌跡をたどることができる。

 

シリコンバレーのデジタル戦略の方法論である、『リーン・スタートアップ』*2『A/Bテスト』*3『デザイン思考』*4『ソフトウェアの自社開発化』『アジャイルソフトウェア開発』*5『プラットフォーム戦略』*6ビッグデータ人工知能活用』『失敗を許さない文化から失敗を許容する文化への変革』等、これらの戦略から見るとおよそ対局にいる存在だったGEを率いて、企業文化そのものをシリコンバレー流にあらためて、昨今非常に注目されるようになった『インダストリアル・インターネット』*7を先導して、高収益を確保したばかりか、未来の市場競争をも先導できる存在とした。

 

中でも私が重要なポイントの一つと考えるのは、航空機エンジン等、BtoB(企業間取引)が中心になっていたGEの製造業だが、その取り組みの枠組みを広げて、BtoC(企業対消費者間取引)を想定した取り組みに切り替えていることだ。といっても直接の顧客は基本的にはBであることは変わりないにせよ、受注生産ではなく、提案型を原則とすべく切り替えている。そもそも上記の手法は原則BtoCでなければ機能しないし、やる意味がない。例えばソフトウエアの受注制作では、顧客が要件定義を決めるため、自分たちでデザイン思考でプロトタイプをつくったり、それに対してA/Bテストを行ったり、アジャイルで開発したりといったことは原則できない。逆に顧客(B)の消費者(C)を想定して提案型として、自分たち自身のプロトタイプをつくってそれをベースに顧客を広げていけば、そこからデータを取得し分析してサービス(効率の良い補修をタイムリーに提案する等)するビジネスもまた広げていくことができる。

 

このように書けばさも簡単にできそうに見えてしまうかもしれないが、これは本当にありえないくらいに難しい取り組みだと思う。日本企業を見ていると、せっかくネットベンチャー系としてスタートしながら、成長過程で組織運営のためと称して『経営のプロ』とか『親会社』の役員を受け入れて、折角のネット企業文化を製造業文化に変えてしまったり、製造業の内部で若手社員が危機感を持って、旧来の経営や文化を変えようとしても、それを理解できない中高齢の経営者によって、圧殺されてしまうようなケースばかり目につく。そして、それこそが自社を負け組に追い込んでいることに気づきもしない。

 

 

◾️ デジタルの破壊はこれからが本番

 

ただ、本書の出版された日付を見て、正直何とも言えないタイミングの悪さを感じるのは私だけではないだろう。何とイメルト退任の情報が流れたのとほぼ同時なのだ。先に述べた通り、イメルトに、物言う株主に追い出されようとしているCEOとの印象が付与されてしまった今、想定読者と考えられるビジネスマンが、彼の業績を知るためにあえて分厚い本を紐解く気になるだろうか。しかしながら、できることなら製造業だけではなく、すべての日本企業の経営者、従業員に、このような本や記事を読んで、自社の経営を見直して欲しいと思う。ソフトウェア(デジタル化の波)が本格的に世界を食っていることがはっきりわかるのは、まさにこれからだからだ。このままでは本当に、マーク・アンドリーセンやジェフ・イメルトが見通した未来の意味がわかった時には、すでに会社は消滅の危機、ということになってしまいかねない。正直、もう手遅れの会社も多いと言わざるを得ないが、従業員一人一人は会社が消滅しても生きていく必要があるはずだ。そういう意味では今からでも遅くはない。世界の現実に向き合って改革を進める勇気を持って欲しい。そのためにこそ、ジェフ・イメルトという人の業績を理解する努力をしてみて欲しい。誰より参考にできるお手本であることがわかると思うし、きっとあなたを勇気づけてくれるはずだ。