日本的シンギュラリティ待望論を超えて

 

 

大量の書評が書かれている新井紀子氏の新著

 

発売からだいぶん時間が経ってしまったが、数学者の新井紀子氏の新著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』*1 は非常に評判が良く、この種の書籍としては異例の販売実績を誇り、版を重ねているという。私も発売と同時に読ませていただき、何か書いておこうと思いながら、ついタイミングを失してしまった。だが、どうやらこのタイミングの遅れには思わぬ効用もあったと言えそうだ。というのも、多くの人に注目された本書には非常に多くの書評が書かれていて、それが第三者視点として大変参考になる。

 

書評の中には、多くの批判も含まれ、それこそ新井氏が本書で述べる、日本人の読解力の低下の証左と言えそうなものも多いが、それでも、それなりの論拠を持つ『断固たる批判者』も少なくない。断固たる批判者とは一体誰のことなのか。どうしてそのような断固たる批判者が出て来るのか。今回は主としてその『批判者』に注目して考察を進めてみたい。そうすることで、見えてくる問題は、意外に根深く、かつ重要に思えるからだ。

 

シンギュラリティは来ない?

 

新井氏は本書の前半で、『シンギュラリティは来ない』と断言する。これについては、すっきりと納得できたという感想が非常に多い一方で、少なからず批判も招いたようだ。特に目につくのは『そもそもシンギュラリティの定義が間違っている』という類の批判だ。本書をよく読めば、そこのところは主要な争点とは言えず、しかも、そこで脊髄反射して止まってしまうと、もっと大事な論点に関わる議論が深まっていかないと思われる。よって議論を噛み合わせるべく、少し補足的に代弁すると、ここは、次のように述べるべきところだと考えられる。

 

シンギュラリティの議論では、近々、人工知能が人間の知的能力を全ての点で凌駕する時が来る、という理解をしている人が非常に多いようだが、少なくとも現在の人工知能が達成できているのは、数学/数式に翻訳できることだけである。ところが人間の知的能力や認識能力には数式には翻訳できない領域も大きく(どこまで大きいのかまだ解明できてさえいない)、従ってそういう領域まで含めて人工知能が人間を凌駕するという言説には無理があり、その意味でのシンギュラリティは来ない』

 

そして、このことをさらに読者に納得してもらうために、新井氏が『数学』について詳しい説明を加えている部分も大変参考になる。

 

論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです。そして、それが、科学が使える言葉のすべてです。次世代スパコン量子コンピューターが開発されようとも、非ノイマン型と言おうとも、コンピューターが使えるのはこの3つの言葉だけです。(中略)私たちの知能の営みは、すべて論理と確率に置き換えることができるでしょうか。残念ですがそうはならないでしょう。(中略)数学が発見した、論理、確率、統計にはもう一つ決定的にかけていることがあります。それは「意味」を記述する方法がないということです。(中略)人間なら簡単に理解できる、「私はあなたが好きだ」と「私はカレーライスが好きだ」との本質的な意味の違いも、数学で表現するには非常に高いハードルがあります。

『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』より

 

私をはじめとするとする、文系学問に多少なりとも親しんだ者にとっては、新井氏の説明ですべてが腑に落ちて、さらなる議論は不要に思えるはずだ。というのも、基本的には『論理、確率、統計』では人間の意識や心の領域(特に、主観的な意識体験や心的生活のうち内観によって知られうる現象的側面、すなわち『クオリア』)のことは記述しきれないことは言うまでもなく、その膨大な記述しきれない領域に取り組んできた長い人類の知的営為にこそ人間の人間たる所以があることを確信しているからだ。

 

 

それでもシンギュラリティは来る?

 

しかしながら、おそらくそれでも納得できない人達もいる。しかもその数はかなり多そうだ。そして、その人達を論破することは思った以上に難しい。そういう人達の人工知能に関わる典型的な物言いは、次のようなものになると考えられる。

 

人間の脳も電気信号と化学変化によって動いているから、全てコンピュータで再現できる』

 

このような主張/信念の背後には本人が意識しているかどうかは別としても、『物理主義』あるいは『要素還元主義』および『因果的思考』として括られるような思想があると考えられる。

 

物理主義とは、この世界の全ての物事は物理的であり、また世界の全ての現象は物理的な性質に還元できるとする立場のことを言う。人工知能の文脈で言えば、知能の中で、物理的説明が成り立たない心的なものの存在を否定する。そして、要素還元主義および因果的思考に基づけば、現象はすべて個々の要素に還元でき、要素相互間に確固とした因果関係が存在していると考え、対象を分解し、分解された部分の因果関係を見れば元の複雑な全体の性質や振る舞いも理解できるはず、ということになる。

 

 

近代科学は限界に突き当たったはずだったが・・

 

この考え方は、19世紀末くらいまでの近代科学のベースにあって、技術の進歩に大いに寄与したことは確かだ。しかしながら、ニュートン物理学のように、要素還元主義の手法が馴染む領域はともかく(そもそも要素還元主義は近代物理学から借用してきた概念とも言える)、心理学はじめ、歴史学社会学言語学等の人間の『心』に関わる社会科学にまで応用されるようになると、その欠陥や限界が随所で指摘されるようになる。中でも批判者として有名かつその後の影響力が甚大だったのは哲学者のフッサールで、彼は、近代科学の発想の基礎にある、『客観的な世界があるのだという暗黙の想定』を否定して現象学*2を構築した。そして現象学は20世紀の哲学の新たな、そして巨大な流れを形成することになる。

 

当の自然科学の分野でも、分解してしまうと本質が抜け落ちてしまうもの、全体としての挙動は個々の要因や部分からは明らかでないような(『複雑系』等)現象が続々と指摘されるようになる。物理学においても、巨視的現象を論じる古典物理学では要素還元主義がベースとなっていたが、微視的現象を論じる量子物理学が進歩することによって、微視的現象は要素還元主義的なアプローチでは解明できないことがわかってきた。

 

このように、20世紀に至って近代科学は限界に突き当たった、というのが、哲学史科学史の『常識』といっていいと思うが、ただ、現実には、『要素還元主義+因果的思考』を乗り越える手法が完全に確立したわけではなく、まして、一般人の世界観として浸透しているとは言い難い。

 

 

いまだに一般の組織内での主流は要素還元主義

 

例えば、通常のビジネスの現場でも、まず社員教育は要素分解に基づく『論理的思考』を鍛えるところから始まる。マニュアルも作りやすくその成果は試験等を通じて数値評価できるから、企業組織においては非常に扱いやすい。特に、いまだに製造業における品質管理活動で世界的な競争力を実現したと自負する企業の多い日本では、要素還元的主義的なマインドを持つ人が非常に多い。

 

だが、実際の組織は人間が構成している有機物であり、特に営業のような仕事が長い人は、肌感覚として、要素還元主義がしばし通用しないことを実感している。ところが、これを合理的な教育メニューに、それこそ要素還元的に落とし込むことには非常な困難が伴うから、勢い、伝統的な手法である、営業現場を身を以て直接体験し、身体でその仕事の全体性を感じることをもって教育とすることになる。ところが皮肉なことに、この『教育』は手法や成果を言語化/数値化することが難しいから、教育を受ける若手からは評判が悪かったりする。

 

組織内での、現場に近い部署と管理組織の対立はどの企業でも見られることだが、その背後にはこの要素還元主義をめぐる認識の違いがあると考えられる。近年の日本では、短期的成果主義を中途半端に受け入れた結果、要素還元主義的なマインドを社内に蔓延させてしまった企業はすごく多い。(その結果、現場の暗黙知は軽視され、競争力が削がれるようなことが起きた。)『要素還元主義+因果的思考』をモダン、これを乗り越えようとする立場をポストモダンと定義するなら、ほとんどの組織では、未だにモダンの世界観が主流と言っても過言ではない。

 

 

現代物理学/数学の目の眩むような成果

 

しかも、手法としての要素還元主義はともかく、『物理主義』自体は、過去の遺物と斬って捨てることができるほど明快に決着がついているとは言えない。いまだに科学の最前線で活躍する人たちの中にも、『物理主義』的な信念を固守する人たちは少なくない。しかも、現代の物理学と数学のタッグによる成果は凄まじく、量子物理学や宇宙論など、目の眩むような素晴らしい発見が相次いでいて、それこそ通常の人間の認識の限界である4次元(縦×横×高さ×時間)をはるかに超える世界の解明が進んできている。この世界は、何故か数学で解明が進み説明できる構造になっているようなのだ。すべての謎が物理学/数学で解明できるに違いないというのは『仮説』に過ぎないが、とはいえ、現実に驚くべき達成の数々を見せられると、無下にこの仮説の可能性を否定しにくい気もしてくる。

 

もちろん、だからといって、人間の意識や心の解明が進んだのかというと、そういうわけではなく、物理学/数学で解明できた世界と人間の意識や心との邂逅は相変わらず非常に大きな課題として残っている。ただ、スティーブン・ホーキングと共にブラックホール特異点定理を証明した、イギリスの数学者/理論物理学者のロジャー・ペンローズのように脳内の情報処理に量子力学が深く関わっているという仮説(ペンローズの量子脳理論)を提示して、意識は原子の振る舞いや時空の中に存在していると述べているような人もおり、今後はこの課題の解明も物理学/数学によって、急速に進む可能性は大きい。(但し、それでさえ、主観的な意識体験等を説明するには不十分と私には思えるのだが・・)

 

このように見ていくと、新井氏が『シンギュラリティは来ない』と断言しても、それでもシンギュラリティは来ると断固として自説を曲げない人がいるのも無理はないように思えて来る。

 

 

ゴジラが破壊しアトムが再創造する?

 

加えて、今の日本でシンギュラリティ論を積極的に支持する人の多くは、現状の日本の非常に鬱屈した状態を破壊してくれる存在として、いわば、戦後の日本の歴史上繰り返し登場する『ゴジラ』による破壊の派生系の一つとして待望しているのではないかと思われるふしがある。

 

さらには、日本の独自のアニミズム、すなわち、すべてのものに魂が宿る、というような一種の生気論がもう一つの背景としてあって、脳の電気信号と化学変化を電子的にトレースできれば、人工知能に何らかの魂が宿るに違いないという、ある種の信念が見え隠れする。

 

この二つが合体して、人工知能ゴジラのように牢固な既存の秩序を破壊して、その後に来る新世紀を、鉄腕アトムのような魂の宿る人工知能が再創造して欲しいとの潜在願望(夢?)があるのではないか。だから、感情的にもシンギュラリティの夢を捨てたくないという『気分』が皆が思う以上に広く浸透していて、新井氏のように理性的にシンギュラリティを否定しても、感情的に反発してしまう素地があるように思える。

 

若干、妄想気味な仮説とお叱りを受けそうな気もするが、個人的には案外ありそうなストーリー(仮説)と考えている。今後の日本は、特に東京オリンピックの後には、高齢化が一層進み、日本企業は世界との競争に勝てず、経済的には停滞し、人工知能によって失業者が増加し、それなのに、社会の中枢は相変わらず高齢者に握られていて固定的で、変革も難しい状況が予想される。となると、上記で述べたような『日本的シンギュラリティ待望論』は、今は一時期に比べてかなり沈静化したかに見えるが、形を変えながらも何度でも復活するのではないか。特に人工知能囲碁のチャンピオンに勝った、というような技術的な達成に関わる情報が出てくる度に復活して盛り上がる、という構図が繰り返されると考えられる。このように、シンギュラリティ待望が盛り上がる現象を社会学の立場からも、もう少し腰を据えて探求してみる必要があるのではないか。

 

 

本当の課題は?

 

本書の後段で、新井氏は、中高生の教科書くらいの文章を対象とした読解能力が著しく落ちている現実を知って、衝撃を受けたと語る。ただでさえ現状の仕事の半分は人工知能が奪うと言われているのに、こんなことでは『人工知能ができないこと/人間でなければできないこと』を担いうる人材が日本から払拭してしまい、大変悲惨なことになる、との危機感が表明されている。オリジナルの(シリコンバレー的な)シンギュラリティの言説には、技術が何でも解決するというような楽観論がベースにあることが指摘されているが、今のままでは大半の日本人は、その成果を享受できるどころか、搾取される側に堕する恐れが大きい。仮にシンギュラリティが技術的に達成されても、日本社会が破壊されてしまう恐れがあることにもっと注目する必要がある。そういう意味で、徹底したリアリズムで臨む必要がある。

 

少なくとも、個人レベル、あるいは個々の企業のレベルでは、新井氏の言う、論理、確率、統計、すなわち数学で記述できる以外の人間の能力を可能な限り伸長させ、そこから生み出しうる成果物を徹底的に大きくしていくことに真剣に取り組む必要があると言わざるを得ない

 

私は正直なところ、『日本的シンギュラリティ待望論』を標榜する人達に少なからず同情的だし、そもそも人工知能は人間の知能全般を超越する必要もなく、人工知能の特徴を最大限に生かした達成自体が人間社会を根本的に変えてしまうインパクトを持っている、と言う点については確信がある。その意味での現状を破壊するゴジラは間違いなくやって来る。だから、人工知能の限界を見極めた上でのマックスをゴールに設定し(そのゴール自体がとんでもなく凄い)、一方で、人間ならではの能力をあらためて評価し直して開拓し、来るべき近未来に備えることが賢明だ。しかも、ここにはまだ見ぬダイヤモンドの原石が眠っていることは間違いない。それを見つけ、掘り出し、磨くこと。そのために時間を最大限使っていくべきだと思う。

*1:

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

 

*2:現象学 - Wikipedia

教養のない実務家が跋扈する時代を終わらせるべき時

 

 

暴力志向は日本人の国民性?

 

前回、日大アメフト事件に言及するにあたり、これが主として今だに残存する『昭和的価値/意識』に起因する問題であることを指摘しておいた。ここでは、昭和といっても、戦後の高度成長期以降の後期~末期の昭和を想定していた。では、その『昭和的価値/意識』は一過性で、ある時期に特徴的なものなのなのかと言えば、そうではない。少なくとも、先の戦争(太平洋戦争/日中戦争)における帝國陸海軍には、いたるところに同様の類型を見つけることができる。そのあたりの事情は、経営学者の野中郁次郎氏らの共著である『失敗の本質―日本軍の組織論的研究*1 や評論家の山本七平氏の一連の著作に非常にわかりやすくまとめてあるので、是非ご自分であたってみていただきたいし、私のブログでも何度となく取り上げてきたトピックでもあるから興味があれば読んでみて欲しい。

 

実のところこれは今では比較的よく知られた論点であり、遠からずこのことを指摘する記事も出てくるであろうと考えていたが、果たして、ノンフィクションライターの窪田順生氏は『日大「内田・井上コンビ」にソックリな人物は日本中の会社にいる』という記事*2 にて、今回の事件が、戦争中に、小笠原諸島の父島の陸海軍部隊が、米軍捕虜数人を軍刀の試し切りなどで殺害して、その遺体の一部を食べたといわれる事件にそっくりであることを指摘している。そして、それに関連した山本七平氏の解説が紹介されている。そこから、窪田氏は、昔も今も『力で言うことを聞かせないと、秩序維持ができない』のが日本人の国民性であると述べる。では、どうしてそのような結論となってしまうのか。そして、本当にそのような国民性は今も引き継がれているのだろうか。

 

 

現代にも引き継がれる日本人の精神の階層

 

後期~末期の昭和(戦後の昭和)はどちらかというと成功体験として語られてきたわけだが、先の戦争以前の昭和(戦前の昭和)は、明治維新以来の日本の帝国主義の終焉と悲惨な敗戦で国が破滅に追い込まれた失敗体験として歴史に刻まれている。戦争の終結を機に、確かに日本はアメリカの支配下で、根本的な変革を迫られ(民主主義の導入、明治憲法の廃止/現行憲法の制定等)、それでも経済的には『奇跡の復活』をとげ、その余勢を駆って一時期は『ジャパン・アズ・No1』の地位にまで登りつめ、少なくとも表向きは、日本人のマインドや価値観も戦前の昭和のそれとはまったく異なったものになったとされた。しかしながら、一見根本的に変わってしまったように見えながら、一皮剥くとそのすぐ下には戦前の昭和と同質の精神の階層が現れ出てくる。注意して見ていると日本社会のあらゆる部分にその痕跡が見つかる。中でも組織運営については特にそれが顕著で、調べれば調べるほど、戦前の昭和の時代の帝國陸海軍と戦後の昭和の(民間企業を含む)組織には、驚くほど共通点が多いことがわかってくる。

 

 

外的動機と内的(内発的)動機

 

円滑に組織を運営し続けるためには、構成員がその組織に服属して働くための『理由』、すなわち『動機』が不可欠となる。そして、『動機』には、金銭報酬(身分の保証、就職の口利き等も含む)のような『外的動機』と承認欲求や組織目的を尊崇する等の『内的(内発的)動機』がある。民間企業の場合特に、通常、『外的動機』が第一の『理由』であり『動機』となるわけだが、軍隊組織のような場合、職業軍人でもなければ、民間企業のような金銭報酬が主な『動機』となることは(本人が余程食い詰めているような例外を除けば)考えにくいから、原則的には、勲章授与のような名誉(承認欲求)、天皇陛下への忠誠心、国を守ることに対する誇り等の『内的(内発的)動機』が(建前であるにせよ)あり、その一方で、上官の暴力や村八分となることの恐怖等が『外的動機』として機能していたと考えられる。

 

ただ、上記の文献を初めとするいくつかの研究や考察を参考にする限り、どうやら昭和期の帝國陸海軍では、敗戦濃厚で厭世気分が漂う末期的な時期だけでなく、一貫して暴力(肉体的暴力だけではなく、精神的な暴力も含む。例えば、軍隊内で村八分になると、除隊後にも自分だけではなく、家族を含めて村八分となる恐れがあった)という『外的動機』が最大の『動機』となっていたようだ。

 

 

 

日本人の暴力志向の背景にある『思想のなさ』

 

窪田氏の記事で、先とは別の例としてあげられている、フィリピン戦線に軍属として派遣された後、捕虜収容所に送られた小松真一氏という人が書き残した『虜人日記』*3 では、そのあたりの事情が生々しく語られている。

 

捕虜収容所では、日本人同士によるすさまじい暴力、リンチなどが横行。小松氏が「暴力団」と呼ぶ勢力が幅をきかせ、恐怖政治を行っていた。が、ある日それらが一掃され、捕虜内の選挙でリーダーが決められるという民主主義的な動きができた。喜ばしいことだと思ったのもつかの間、すぐに問題が起きる。収容所内の秩序が崩壊してしまったのである。

暴力団がいなくなるとすぐ、安心して勝手な事を言い正当な指令にも服さん者が出てきた。何と日本人とは情けない民族だ。暴力でなければ御しがたいのか」(同書)

日大「内田・井上コンビ」にソックリな人物は日本中の会社にいる | 情報戦の裏側 | ダイヤモンド・オンライン

 

小松氏はこのような状況を含めた当時の日本人を冷静に分析して、『日本の敗因二十一か条』としてまとめ、日本人には大東亜を治める力も文化もなかったと結論づけている。

 

小松真一氏の『虜人日記』に触発されて、自身同様の体験を持つ評論家の山本七平氏がこの二十一か条を解説する形で書いた『日本はなぜ敗れるのかー敗因21ケ条』*4 において、山本氏は日本人の『暴力志向』と深く関係しているのは、小松氏が二十一カ条の中に掲げたものの一つ、『思想として徹底したものがなかった事』だと考察している。

 

山本氏は、本書で次のように述べている。

 

文化とは何であろうか 。思想とは何を意味するものであろうか 。一言でいえば 、 「それが表わすものが 『秩序 』である何ものか 」であろう 。人が 、ある一定区域に集団としておかれ 、それを好むままに秩序づけよといわれれば 、そこに自然に発生する秩序は 、その集団がもつ伝統的文化に基づく秩序以外にありえない 。そしてその秩序を維持すべく各人がうちにもつ自己規定は 、その人たちのもつ思想以外にはない 。従って 、これを逆にみれば 、そういう状態で打ち立てられた秩序は 、否応なしに 、その時点におけるその民族の文化と思想をさらけ出してしまうのである ― ―あらゆる虚飾をはぎとって 、全く 「言いわけ 」の余地を残さずに 。そしてそれが 、私が 、不知不識のうちにその現実から目をそむけていた理由であろう 。確かにそれは 、正視したくない実情であった。

『日本はなぜ敗れるのかー敗因21ケ条』より

 

 

今も残る思考/思想のなさと暴力志向

 

これは戦後解消され変化したのかと言えば、少なくとも思考/思想に関しては、むしろ戦前以上に弱体化してしまった。そして、それは平成時代を通じて、さらに拍車がかかっていると言わざるをえない。暴力体質についてはどうだろう。流石に物理的な『体罰』については、戦前に比べれば少なくなったことは間違いない。だが、『精神的な暴力』については、なくなるどころか、形を変えて戦後の昭和にも色濃く残っていたし、昭和が終わって30年経った今でさえ、より陰湿に形を変えながら残り続けているのが実情ではないか。いじめ、坊主頭の強要、連帯責任、スクールカースト、企業でのパワハラ/セクハラ等、その例には枚挙にいとまがない。

 

 

誰も満足していない日本のシステム

 

民間企業について見ても、昭和期のように、まだ組織が『共同体』の体をないしてたころには、多少なりとも愛社精神のようなものが、『内的(内発的)動機』として機能していたと私は思うのだが、実のところそれも怪しいというデータもある。作家の橘玲氏は、1980年代後半(バブル最盛期)の頃に行われた日米比較調査の結果を引用して、日本経済が絶好調の頃の日本と、その一方リストラが相次ぎ企業への信頼感が低かった当時の米国を比較しても、米国人のほうがはるかに仕事に愛着とプライドを持ち、会社に忠誠心を抱き、自分の選択が正しかったと思っていたことを明らかにしている。*5

 

それでも、日本でも、経済が成長して、会社の業績が伸びている間は我慢することにメリットがあった。ところが、バブル崩壊後、企業業績が振るわなくなると、日本でも、多くの企業でゲマインシャフト共同体組織)からゲセルシャフト(利害関係に基づいて人為的に作られた社会組織)化が一層進み、(少数派だったかもしれないが)愛社精神や、日本的経営に対するプライド等に代わる『内的(内発的)動機』の開拓にはほとんど手付かずのまま、年功賃金を成果主義的な賃金体系へシフトし、正規雇用非正規雇用に置換え、賃金格差を大きくするような、欧米流の経営を真似て『外的動機』で組織運営を乗り切ろうとする企業が続出する。しかしながら、一方で解雇規制が強く残り、生涯賃金で見ると転職が圧倒的に不利な体制をそのままに、『欧米流』を木に竹を継ぐように導入しても状況を悪化させるだけだ。現実に、世界価値観調査等の統計で見ると、今や日本人は、『世界でいちばん仕事が嫌いな国民』となり、仕事は収入を得るための手段であって、それ以外のなにものでもない』という意見にそう思うと答える人の比率が上位の国となり*6『企業に任せておけば自分の国の経済問題はうまく解決されていく』と考えている人の比率は圧倒的に世界最下位となってしまった。*7

 

驚くべきことに、日本人から見れば、業績が悪くなれば、従業員を簡単にリストラするように見える冷徹な『欧米流』の経営が主流の国のほうがむしろお金には換えられないやりがいを仕事に見出しているということになる。このデータを紹介している橘氏は、『連合がほんとうに労働者の幸福を考えているのなら、成果主義の導入と解雇規制緩和(あとは定年制の廃止と同一労働同一賃金)こそが目指す道だろう』とコメントを述べているが、今の日本では、成果主義が幸福に繋がることは難しそうだ。

 

 

内発的動機を喚起できない日本企業の経営者

 

というのも、近年の学習心理学の研究等で明らかにされて来たように、金銭のような報酬による外的動機は、常に上がり続けなければ維持できず、しかもある段階以上は『動機』としては機能しなくなるばかりか、様々な面でその報酬の対象となる人々の創造性や健全な動機を破壊することが知られている(アンダーマイニング効果等)。そのため、優れた企業の経営者は、世界の中に置かれた自らの立場を徹底的に分析し直して、企業の社会における存在意義や社会的使命を再定義し、社員の『内的(内発的)動機』を換気することが大きな(世界的な)トレンドとなっている。ところが、今のほとんどの日本の経営者には『確固たる思想』があるわけではないため、それが本当に(建前ではなく)理解できている企業が非常に少ない。

 

まだ企業業績も全般に良かった昭和期には、企業の経営者への『あなたの企業の社会的使命は何か?』という問いかけに対して、『企業収益を増大して、税金を沢山納め、従業員に報酬を多く出すことが企業本来の使命』と答えて胸を張る経営者が多く、そのような物言いが、思考や思想のなさを覆い隠すベールとして機能していたものだが、日本の労働者の賃金が高騰して、非正規社員比率を増やさざるをえなくなり、また、海外にシフトしないと経営が成り立たない時代になると、そのような言い訳も通用しなくなり、これにかわる社会的使命を示すこともできず、思想などなかったことがばれて、馬脚を露わすことになってしまった。

 

こうなるとおよそ健全な動機が機能しなくなるから、勢い最後の手段として、管理を強化して減点主義を徹底したり、トップダウンの強圧的な恐怖政治を敷く等、まさに『暴力/パワハラ』による経営に頼るしか無くなってしまう。近年、社会的使命を語ることができないどころか、どこから見ても社会的使命を終えている企業まで政府系ファンドに泣きつくことでゾンビのように生き残る、いわゆる『ゾンビ企業』が非常に多くなっているが、特にそのような企業では、『暴力/強権経営』が幅をきかしている例が非常に多い。思想がないのは、経営者だけではなく、従業員も同様なので、結局日大アメフト部のような組織だらけとなる。上位者がどんなに酷くても、そんな上位者の指示に黙って従ってしまう。これでは、日本の企業が海外企業と比較して、どんどんその存在感を無くしているのも当然というしかない。

 

 

教養のない実務家は危険な存在

 

哲学科出身という異色の経歴を持つコンサルタント、山口周氏は、『日本には、教養がないまま地位だけを手に入れた実務家が多い』と述べ、現代のほとんどの日本の経営者に『確固たる思想』がないことを別の角度から述べている。そして、エリート経営者の教育機関として名高いアスペン研究所の発起人の一人であるシカゴ大学教授(当時)のロバート・ハッチンス氏の『無教養な専門家こそ、われわれの文明にとっての最大の脅威』との指摘を引用している。*8 ハッチンス氏は、哲学を学ばずに社会的な立場だけを得た人、そのような人は『文明にとっての脅威』、つまり『危険な存在』になってしまうと指摘している。ただ、組織として弱体化してしまうというだけではなく、文明にとっての脅威、というのは非常に辛辣だが、思想や哲学より感情の動員だけで乗り切ろうという政治的リーダーであふれた昨今の世界の情勢を見ているとその意味がわかろうというものだ。

 

 

思考しなければどんな犯罪でも犯してしまう

 

哲学者のハンナ・アーレント女史は、ナチス親衛隊の一員として数百万人のユダヤ人を収容所に送ったアイヒマンの裁判を傍聴した。アイヒマンは被告席で『上からの命令に従っただけ』と繰り返す。アーレント女史は、その言動のあまりの矮小ぶりに驚愕し、アイヒマン巨悪に加担した残虐な怪物とは程遠い、単なる凡庸な小役人だったと断じた。そして、人は『思考しなければ、どんな犯罪を犯すことも可能になる』と結論づけている。

 

このアイヒマン裁判に着想を得て、スタンリー・ミルグラムという心理学者が行った有名な実験(ミルグラム実験アイヒマン実験とも呼ばれる)*9があるが、そこから導かれた結論は、閉鎖的な環境では、誰でも権威者の指示に服従して、悪魔のように振る舞ってしまうことがある、ということであり、まさにアイヒマンのように、権威の庇護にある安全圏で、個人の思考を放棄すると、善悪やモラルの判断まで放棄してしまうことがありありと示されていた。ここに、ハッチンス氏が、哲学を学ばずに社会的な立場だけを得た人が『危険な存在』になってしまうと述べたことの典型的な事例が示されているわけだが、今の日本の実務家の多くはまさにこの『アイヒマン』状態にあるように思えてならない。先の窪田氏の記事にあるような、日本人の暴力志向とも見える国民性というのも、日本人が残虐な怪物なのではなく権威者にも配下にもしっかりした思想がなく、権威者は暴力以外に組織を運営するすべを持たず、配下は権威者にさからわず、個人の思考を放棄しがちなため、客観的に見れば法律違反であったり、モラルに反していたり、時には人道に反するようなことでさえ黙々とやってしまいがちになる、ということではないのか。

 

今の日本の危機的な状況は、哲学せず、教養がなく、あまつさえ、それを不要と強弁し、教養教育より実学重視と、深い思想の裏付けもなく述べるような実務家が、その実務で得た強い立場を生かして、組織運営を行ったり、発言したりして、その影響力が大きくなりすぎていることにその主要な原因があるように思う。そして、その結果として、先に述べた通り、今や企業経営者も政治家も官僚も、国民から世界で最も信頼されない存在と成り果ててしまっている。

 

 

昭和を終わらせ新しい時代へ

 

山口氏は、著書『武器になる哲学*10で、平成という時代を総括して、『昭和を終わらせることができなかった時代』であったと述べているが、これは卓見だと思う。バブルが崩壊してもその株価は回復するとの夢から覚めることができず、ものづくり世界一と賞賛された夢から覚めることができず古い製造業のビジネスモデルに固執し続ける等、ここに様々な『終わらせられなかった夢』を列記することができる。戦後~昭和末期くらいまでは、冷戦期ということもあり、世界の秩序は今より安定していて日本は世界政治に関与せず経済問題に集中できたし、日本は賃金もまだ低かったから、あまり難しいことは考えずに目先のカイゼンに切磋琢磨していればよかった。実務家は実務以外のことは考えないことが一種のモラルであり、真面目さと考えられてさえいた。日本の『思考しない/思想のない実務家』が高い地位を得て承認されていたことにはそれなりの時代背景もあったということだ。それもまた一つの昭和の夢であったが、もうその夢からも覚めなければやっていけない時代になった。世界ははるかに複雑で、誰も考えなかったようなイノベーションが必要となり、自動運転、遺伝子工学人工知能等一歩間違うと人間の存在が危うくなるようなテクノロジーに日常的に対峙しなければならない。世界は実務以外知らず、思想のない人に任せられるほどのんびりした場所ではなくなってしまった。

 

平成も終わりが近づいているが、来るべき新しい時代は、あらためて昭和をいい形で終わらせ、一人々々が自分で思考し、哲学し、教養を涵養し、そして新しい世界を切り開いていける時代にしていく必要がある。

日大アメフト部が提示する問題は通り一遍では解決しない

 

根深い構造問題から浮かび出た氷山の一角

 

今、メディア騒がす大問題となっている、日大アメフト部の反則タックルの問題は、次々と新しい展開が出てきて、どのように収束するのか、どこまで広がるのか現段階では予想がつかない事態となっている。おそらく何らかの第三者委員会の調査は始まるだろうし、被害者は刑事告訴にも言及しているようだから、今よりは真相がクリアになることは期待そうだが、それでも臭いものに蓋をされてしまう可能性もあり、真相がはっきりするまで発言を控えているといつまでたってもその機会が来ない恐れもある。よって、見切り発車ではあるが、今言えること、言いたいことを述べておこうと思う。


本件に対する世間の注目度は、異例と言っていいほど高い。それは、おそらく、大半の人の身近に、多かれ少なかれ同様の事例があることを感じているからだろう。すなわち、本件は日本の根深い構造問題から浮かび出た氷山の一角と考えられる。但し、その受け取り方は年齢によってはっきりと二分される。切れ目は、40代の半ばくらいというところか。(もう少し上かもしれないが・・)しかもそこには皆が思う以上の、思想的ともいえる対立構図がある。



かつてはありふれていたパワハラやセクハラ

 

かつての日本では、少なくとも『昭和』の時代まで遡れば、日大アメフト部のような大学の体育会組織はもちろん、企業でも、官僚でも、政界でも、今回と同様とまでは言わないまでも、どこでも似たような光景があたりまえのように見られた。そこは男性支配が徹底した村社会で、実力に関係なく年長者の意向に逆らうことは許されず、特にその組織の最上部にいる者の言は、理屈が通っていようがいまいが絶対で、体罰も日常茶飯事、今でいうパワハラやセクハラはどこにでも普通にあったが、それが公的な問題として糾弾されるようなことはなかった。当時でも、特に新入社員など、そのような組織のあり方に内心違和感を感じたり反発していたものはいくらでもいたが、村組織で村八分になってしまうと、日本社会の中ではどこにも生きる場所がなくなってしまう。中途入社というのは、特に大きな企業では大変なハンデになったし、今のようにSNSなどなく、社外のコミュニティを頼ることもできなかった。村八分になることによるデメリットは、今の若年層には想像できないほど大きく感じられた。

 

成功体験と組織としての整合性


このように書くと、日本はとんでもなく悪辣な国だったように思う人もいるかもしれないが、そうとばかりも言えない。当時には当時なりの組織道徳もあって、整合性もあり、少なくともある時期の企業は非常な成功をおさめていたこともあって、このような組織を持つ日本に、当時の男性(男性社会)は自信と誇りを持っていた。


また、日大アメフト部の事例だけ見ていると、中のメンバーは皆奴隷のように扱われて、何か問題が起これば上位者の保身のために、下位のメンバーが無慈悲に切り捨てられてしまうのが典型的な昔の日本の組織のように見えてしまうが、それも必ずしもそうではない。むしろ、ある点では今以上に包摂性があり、無能な社員でも抱えて生かそうとする姿勢もあった

 

例えば、今でも昔でも、どの組織にもどうしようもないお荷物のような構成員はいるもので、現代の企業では、何らかの理由をつけてリストラしたり、直接手は下さずとも、最低の処遇で仕事も与えず、自ら企業を去るよう仕向けて、追い出してしまうだろう。しかしながら、かつては企業でも、そのような者にもそれなりの居所を与えていた。理屈の通じない、理不尽な組織で、先輩から殴られ、貶され続けていても、しばらく黙ってそれに耐えていれば徐々に組織内に自分より年齢の若い構成員も増えていき、そうなると実力の有無に関係なく、今度は上位者として、若い社員に威張りちらすことができる。その中から本当の実力者は、権力の階段を登っていくことになるが、そこまで実力がなくとも、ある年齢になるまで同期に極端な差がつくこともあまりなかったし、権力者の腰巾着のようなポジションは今以上にあったから、その組織の構成員としてそれなりに居心地よくすごすこともできた。組織の理不尽を我慢して耐えていれば、それなりの見返りはあった、ということだ。


今回の日大アメフト部のケースで、販促タックルで相手のクオーターバックを潰してこい、というような指示が、まるでヤクザの鉄砲玉のようだという意見が出ているが、そのヤクザの鉄砲玉も、ムショで臭い飯を食ったとしても、出所してくればヤクザ組織の中で幹部の立場を保証されていたはずだ。実は、企業内でも、総会屋担当とか、談合担当とか、必要悪のような組織や担当は(あまり大きな声ではいえないが)いわば、企業の鉄砲玉のような立場だったが、ちゃんとそれなりの処遇がなされていた。そのまま組織から追い出すようなことをしていては、さすがに鉄砲玉の役割を引き受ける者はいなくなってしまう。もちろん、表立ってそういうことをやっていることがわかるとまずいので、外からはわかりにくい構造になっていたとはいえ、企業内では、それほど悪い扱いはされないことを皆知っていた。


当時の企業の多くは、やることは大方決まっていたから、人がやりたくないようなことでも、低賃金で黙って長時間懸命に働く社員がいることは大変な競争力になった。それは、一時期海外企業との競争でも明らかに日本企業に優位性を感じられるくらいの差となっていた。海外の友人達は、低賃金で文句も言わず、休みもとらず、場合によっては過労死するくらいに長時間働く日本の労働者に呆れていたものだが、それでも、そのおかげで日本企業が世界を席巻していた時には、日本的経営は賞賛され、その仕組みを学ぼうとする者は海外にも多かった。

 

理想的なリーダー像


今回の日大アメフト部では、表に出てくる監督が指導者として尊敬できる人物には見えないが、かつての日本の組織の長がみなそうだったわけではない。全てを包摂するような包容力に富み、節度を重んじ、場合によっては理屈や利害を超えて社員に情愛を感じ、自らも質素で、一兵卒とも腹を割って気軽に接する、そういうタイプの、いわば『人格神』のようなタイプのリーダーは確かに存在したし、日本の労働者の多くは、そのようなリーダー像を理想としていた。そして、そんなリーダーがいる組織では、社員は、組織内に多少の暴力やパワハラ、あるいはセクハラがあっても、リーダーのために、身命を賭して働くことを厭わなかった。それがいわば日本人の勤労道徳のエートスであった。そして、暴力、パワハラ等も組織で人が成長していくための砥石のような存在で、そこで理不尽を耐えて成長した者こそ、次世代のリーダーとなる資格があると下位者を諭す上位者さえいた。この点でよく引き合いに出されるのが、明治の元勲、二大巨頭の西郷隆盛大久保利通だ。冷徹な切れ者で海外の研究者にも非常に評価の高い大久保利通より、客観的に見ると何が実績なのかよくわからないが、部下に対する愛情にあふれていた西郷隆盛のほうが日本人には好まれるリーダーだ。この理由を言語化して説明するのは意外に骨がおれるが、当時の日本の労働者なら皆わかっていたはずだ。



麻生大臣の言い分


昨今、今回の日大アメフト部のケースに限らず、レスリングでオリンピック4連覇を成し遂げた、伊調馨選手のパワハラ告発、セクハラで辞任した、財務事務次官のケース等、非常に多くの同様の事例が相次いでいるが、本件に関連して、思想家の東浩紀氏が日経新聞への寄稿記事で述べている通り、*1どのケースにも共通しているのは、対象となった男性達の常識と現代の社会常識に非常に大きなズレが生じていることだろう。このような男性達の中には、ズレが生じていることを本当に知らない人もいるだろう。だが、それ以上に、本音のところ、自分たちの常識の方が正しいし、あるべき姿であるとの確信を持っている人は少なくないはずだ。その典型的な例は、麻生財務大臣の非常に物議をかもした、『セクハラという罪はない』という一連の発言だろう。*2この背景には、モラルの問題を何でも法律問題に落とし込んで人を裁くようなことは日本人の美意識に反しているし、そのような風潮がはびこることは好ましいことではない、というような思いがあると考えられる。

 


麻生大臣を弁護する意図はまったくないのだが、この点には別の重大な問題があることも確かで、かつては共同体の中で解決すべき問題まで、法律や規制を持ち込むような風潮がいつのころから日本でもはびこり、その影響もあいまって今では共同体は崩壊し、個人の孤立感/孤独感は深まり、猜疑心ばかりが強くなってしまった。麻生大臣や同年代の人から見れば、本当に大事なことを忘れ、日本が『美しくない国』になっていると言いたいに違いない。もちろん、それだからといって、セクハラやパワハラが許容されるわけではないが、分断された両者(上の年代と下の年代)は別の思想に基づく信念を持って対峙していることを前提として認識しておく必要がある。そして『昭和』の理想を信じた人たちの中では、理想はまだ死んでいない。だから、自分たちのコントロールが効く組織の中では、相変わらず『本音』で組織運営に関わっている。



変質/組織の『ブロン』化


ただ、このような理想は理想として、日本の現実を見ると、すでにそのような理想が機能せず、それどころか各所で逆効果となり、問題が噴出していることは冷静に見ておく必要があると思う。


特に企業について言えば、国際社会での日本企業のかつてのプレゼンスはもはや微塵もなく、日本の経営や組織について学ぼうとするものは皆無といっていい。当の日本でも、バブル崩壊後は特に欧米流の経営手法を導入していくべきという風潮は強くなった。かつて、従業員とそれほどの差はなかった企業の役員報酬は欧米企業を見習って高騰し、従業員との格差はかつてないほど大きくなった。その従業員も、パートや派遣など、いわゆる「非正社員」が占める割合が、2015年には全体の40%に達した(1990年には20%。25年間で倍増)。解雇については、日本の法律の運用は今でも厳しいことは確かだが、自主的に退社に追い込む『社内いじめ』のような陰湿で巧妙な手段が横行するようになった。日本人の雇用を維持しようとする経営者も、安価で優秀な労働者のいる海外への進出をためらっていると株主から首をすげ替えられてしまう。


ところが、そんな企業のトップはかつての日本の家父長的な経営で育ってきた世代で、昔の日本の企業の手法やメンタリティと、欧米流の経営手法が奇妙なキメラ状態になってしまっている。しかもこれが星新一の小説で出てくる『ブロン』(ブドウとメロンを掛け合わせた架空の新品種。ブドウのように小さな実がメロンのように少ししかできない。)のように、両者の悪いところだけ選って合体したような状態になっている。

 

従業員は今では転職は当たり前で、しかも年功序列で賃金が上がることは期待できなくなっているから、かつてのような忠誠心を持ちようがなく、訴訟へのハードルは低くなっているから、法的手段を厭わないし、インターネットでの内部告発など日常茶飯事だ。一方経営者は、従業員には相変わらずかつてのような忠誠心を要求し、全人格を企業に預けて、規定の労働時間を超えて働くことを求め、組織防衛のためには法的な問題があっても隠蔽し、一方では、上意下達、強権、パワハラ体質をそのままに無軌道に保身を図る。しかも、仕事以外に能がなく全てを会社で過ごしてきた無教養な人が多いから、かつての良質な経営者のように人格が陶冶されていないし、社会の変化と自らの企業の正しい相対位置を客観視できない。官僚も政治家もかつてのように日本を背負い、献身的に働く、という気概が生かせるような環境がなくなって、油断するとすぐに訴訟やSNS等による炎上に巻き込まれる。


日大アメフト部事件のような問題が噴出するのは、『ブロン』組織が社会に溢れ出してきているから、と言ってもあながち間違いではないのではないか。日本の組織が軒並み『ブロン』状態にあるとすると、単純に過去を懐かしんで『美しい国』や『昭和の理想』を目指しても、逆に法律をさらに精緻に組み上げたり、関係者を訴えて糾弾しても、それだけでは解決しない。そのような自覚をもって現状を眺望し、表面的な問題の奥にある真の問題に対処しないと、問題が解決するどころか、さらに一層の『劣化ブロン』化を招きかねない。

 

では、この問題の解決のための具体的なアプローチにはどのようなものがあるのか。多少の腹案はあるが、それを語り出すと本稿も終わらなくなってしまうので、とりあえず今回はこれ一旦終了して、次回以降にあらためて述べてみたい。

 

不透明な未来を生き抜くために『教養』が最重要である理由とは?

 

 

▪️ 不透明な時代の指針とは?

 

人工知能(AI)のような先端技術に関わる報道は、そのインパクトが強烈だったこともあり、『仕事がすべて機械に奪われてしまう』から始まって、『人間の知性を上回る存在になる』『人類は滅ぼされてしまう』というような極論まで、この数年、大変センセーショナルな言説がメディアを賑わせてきた。さすがに最近では比較的冷静な現状分析も出てきて、トーンダウンしてきたが、今度はその反動もあってか、先端技術の影響力を過小評価する論調も目立ち、また、さらにはアンチ先端技術を標榜する立場も勢力を盛り返してきている(欧州のGoogle嫌い、トランプ大統領のアマゾン嫌い等も広い意味ではここに括られると思う)。加えて、昨今ではフェイクニュースまがいの真偽が不明確な情報もすごく多いため、先端技術のもたらす未来像に関わる不透明感は以前よりむしろ濃くなってしまったように思える。

 

こんな時代に、これから一体何を指針にしていけばいいのか。どのような未来がくるにせよ、自分や自分の家族や大事な人を守っていくためには、どうすればいいのか。

 

このような問いを立てると、何よりまず、プログラミングを学んで、AIに使われる側ではなく、使う側になるべき、という意見は当然のように出てくる。単なるコーディングをかじる程度では、さほどの役には立たないという専門家の意見もあるが、それでも、まずは入り口として参入して見ることは(食わず嫌いで敬遠しているのに比べれば)貴重な第一歩ではある。そしてこれが突破口になって、個人としても社会全体としても、論理や数学の基礎力養成にしっかりと取り組んで行くべきとの認識に昇華するのであれば、次の時代のサバイバル戦略として、正しい道程にいると言える

 

しかしながら、それだけではだめだ。AIと対話は出来ても、さらに進んで本格的なAIの研究を目指すことが出来たとしても、『AIには出来ないこと』に取り組まなければ、早晩AIに飲み込まれてしまうだけだ。特に仕事に関して言えば、皆が思う以上に現状の仕事はAIが進歩すれば十分代替できてしまうものが多い。では、AIでは出来ないこと、人間でなければ出来ないことを学ぶにはどうすればいいのか。そもそもそのような環境で生きるということはどういうことなのか。しかも、幸か不幸か、これからは平均寿命も100歳を軽々と超えてくるだろうし、健康寿命も伸びることは確実なので、100歳が極端だとしても、相当な高齢まで元気で活動できることを前提に人生設計を考える必要が出てきている。制度も追いつかないし、見本となるロールモデルもない。誰もが海図もなく未開の大海原に漕ぎ出すようなものだ。もちろんAIに聞いても正しい答えを教えてはくれないだろう。

 

 

▪️ 日本は実学重視にシフトして来たが・・

 

その問いに対して、昨今ブームと言っても良いくらい持ち出されている回答が『教養』だ。教養こそ、今後もっとも重要だというのだ。実際に教養について学ばせるために、教育機関に社員を派遣するような企業も増えているという。企業教育もMBAからデザイン思考へシフトしてきていると思ったら、さらに教養にシフトする傾向が見られるという。 

 

だが、その『教養』の中味というか、意味が問題だ。これを聞いてすぐにピンときた人は、すでに未来社会を迎えるにあたっての心構えができている上位数%に入っているとさえ言えると思うが、大半の人はそうはいかないはずだ。むしろ教養など一部のエリート気取りのスノッブの優雅なお遊び、というくらいの認識の人が特に今の日本では多いのではないか。

 

実際、1990年代以降、特に新設学部を中心に『実学重視』を標榜する大学が急増した。産業界でも、日本の大学の実学からの乖離を批判し、実学重視を説く人の影響力は明らかに大きくなった。比較的最近でも、文部科学省が2014年の10月に開いた有識者会議の委員を務める経営共創基盤の冨山和彦CEOが『日本の大学の大半を職業訓練校にするべきだ』と提言して物議をかもしたことは記憶に新しい。

 

2015年になると、文部科学大臣から『国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて』という通知があり、その中に、教員養成系学部・大学院人文社会科学系学部・大学院について、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう提言があったことが、大変な反響を呼び起こした。この背景にも『実学重視/人文系の教養軽視』という文脈があったと言える。国家にとって重要なのは、実用的な情報や技術であり、その『量』であるという考え方が透けて見える。

 

ところが、皮肉なことに一方では、多くの大学が『役に立つ』『実学』を身につけた人材を育てるために行って来た専門教育は、その専門のことは詳しいが、それ以外は知らないという社会では役に立たない人材を生み出しているという批判が、産業界からも頻出することになる。しかも、AIが未来社会を席巻することを現実として受け止め、AIと共生する未来像を描こうとしてみると、ここで言う実学に基づく仕事』こそ、AIが真っ先に代替してしまうであろうことがわかってくる。

 

 

▪️ 陳腐化が早い先端技術より『リベラルアーツ』を重視する米国

 

それどころか、今では最先端の技術分野でさえ、5年も経てば陳腐化して次の先端と入れ替わってしまうため、米国のMITのような先端科学の総本山のような大学でも、最先端の科学も、すぐに役立つ技術もほとんど教えないという。それより、自らの考えや知のベースになる『リベラルアーツ』を豊かに学んだ方がはるかに役に立つという明確な教育方針を持っているというのだ。そして、そのような方針は一人MITだけのものではなく、ハーバード大をはじめ、米国の一流大学全体の基本方針となっているという。

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MITは理系の大学でありながら、その教育は、哲学、人類学、歴史学等、文系の学問分野だけではなく音楽のようなアートにも及んでいて、しかも音楽の理論を教えるだけではなく、実際に楽器の演奏まで教えているというから徹底している。これを読むと、今はな亡きアップルのスティーブ・ジョブズ氏が、『われわれは常に、テクノロジーとリベラルアーツの交差点に立とうとしてきた。技術的に最高のものを作りたい。でもそれは直感的でなければならない。これらの組み合わせがiPadを生み出した』と語っていたことを思い出してしまう。どうやら、米国における『リベラルアーツ』と現代の日本において『教養』として一般に認識されているものにはかなりの違いがあるようだ。

 

 

▪️ 日本の『教養』教育の問題点

 

文科省の方針もさることながら、一方で、今の日本の多くの大学の文系学部の方も、米国の『リベラルアーツ』教育のように目的意識を持って本気で取り組んでいるとは到底思えない。確かに大抵の大学には『教養課程』もあれば中には『教養学部』もあるとはいえ、自覚を持って『教養』に取り組んでいいる学生は少ないし、教える側(教員等)でも専門課程に比べて日陰者扱いされているのが実情だろう。

 

日本では、高校から数学の成績(あるいは好き嫌い)で『理科系』と『文科系』に分けられ、『文科系』に進むと、理科系の教科はほとんど履修することもなく、大学に入っても、教養課程があったとしても、最新の理科系の学問の到達点を学ぶ学生は稀だろう。だが、これは非常に危機的な状況と言わざるをえない。今や技術進化が世界全体の構造を根本的に変えてしまいかねない状況なのに、日本の『文科系』にはそのような認識を持つための素養がほとんど涵養されていない上に、仮に多少の素養があっても、情報の真贋を見極めるための基礎力がないから、正しい認識を持つことも期待薄だ。逆に、昨今の自動運転でも、生命科学でも、最先端技術を社会にどのように位置付けていくのか、そのための哲学なり倫理の重要性が盛んに喧伝されているが、日本の『理科系』の中で、哲学や倫理を本格的に学んだ人に出会うことはまずない。では、『文科系』の学生が哲学や文学等の人間理解の助けになる学問に真剣に取り組んでいるのかと言えば、これもかなり怪しい。

 

 

▪️ 京大総長の山極氏の『賢人の知恵』

 

このように、日本の大学の『教養』に対する取り組みは、根本的な改革が必要に思えるだけに、人文社会系軽視とも取れる文科省の提言に対しては、私も違和感を禁じ得ない。京都大学総長の山極寿一氏はこの提言が出た時に『幅広い教養と専門知識を備えた人材を育てるためには人文社会系を失ってはならない』と述べて反旗を翻したが、AIに関連して、『教養』に注目が集まっている今だからこそ、あらためてその意味をよく考えてみる必要があると思う。

 

その山極氏だが、『これからの教養 激変する世界を生き抜くための知の11講』*1という著書で、インタビューされる側の11人目として登場しており、自らの専門である霊長類研究に基づきインターネットが普及した現代に独特の警鐘を鳴らしていて、これが極めて興味深い。まさに『教養』の重要性を自ら体現している。

 

霊長類の中で、サルには人間のような高い『共感力』がない、という。例えば、母ザルにとっても子ザルは大切な存在だが、わが子の能力は自分より未熟である、ということがわからないから(共感できないから)、肉食獣が迫ってきた時、目の前に川があれば、子供が泳げる能力がないことがわからず、自分だけ川を渡って逃げ、子供は食べられてしまうようなことが起きるそうだ。共感力のない猿は、サル社会の中で、お互いの関係を調整するために、強い・弱いという序列というルールを設けて争いを避けているのだという。人間で言えば、法律を作って調整しているイメージだ。

 

これは驚くべき指摘だ。高い『共感力』は人間ならではの能力で、このような身体感覚を生かすことで信頼社会をつくってきたのに、今では人間はどんどんルールや法律を作ってそのルールに従うことで安心を得ようとしている。これはまさに人間の『サル化』で、しかも『サル化』された社会というのは、すごく脆弱な砂上の楼閣なのだという。インターネットでバーチャルに、身体感覚とは関係のないところでの繋がりが増えれば、ルール化、立法化はある程度やむを得ない方向とは言え、これが信頼や安心を損ねる元凶となっていることを山極氏は指摘する。だが、このような認識はあまり今の社会で共有されているとは言えない。われわれが本当に信頼できるのは、生身の身体を通して得られる感覚なのだ、という知見(=教養)は、今後の社会のあり方を考えるにあたっても極めて重要だ。

 

また、第三世代のAIは膨大なデータで賢くなり、また膨大のデータを一瞬で解析することができるが、裏を返せば、データがなければ賢くもならず、何もできない。人間には、データがなくても判断し行動できる『直感力』という能力が備わっていることを山極氏は指摘する。そして、このことを説明するのに、経営の神様松下幸之助氏を持ち出して語る。幸之助翁が新入社員を面接した時に『こいつは将来リーダーになる』と思える条件としてあげているのは、『愛嬌があること』『運が良さそうに見えること』『背中で語れること』の三つだったというが、いずれも幸之助翁の長年培った直感力があればこそ見えてくる参照点と言える。しかも彼の見立ては非常に鋭く、人を見る目は人後に落ちなかったことはよく知られている通りだ。これは浅薄な科学者は、『非科学的』と簡単に切って捨ててしまいかねないところだが、過去に成功した人物の評伝等を丹念に読んでいれば、このような『直感力』の存在は『常識』以外の何物でもない。本物の教養を養っている人にとっては、それこそすぐに『直感』できることだろう。

 

 

▪️ 根本的なフェイクニュース対策

 

昨今、世界にはフェイクニュースが溢れ、これが大変な問題となり、実効的な対策を見出せずにいるが、いくら小手先の法律をつくったり、制度をいじったところで、一人一人がフェイクでない情報、本質的な情報を見分ける洞察力を持たなければ、根本的には解決できない。東京大学名誉教授の村上陽一郎氏は、この洞察力を養うためには、フェイクの恐れがない『本物』、すなわち『古典』にじかに出会い、正面から向き合って格闘してみることが一番確かな道だと述べているが、*2 私も本当にそうだと思う。古典と格闘することこそ、本物の教養を養う道でもあり、それが溢れかえる情報から本物を掴み取るためにも、一見遠回りだが一番の近道ということだ。昨今、フェイクニュースの問題に関わる議論は、百家争鳴と言える騒がしさだが、村上氏のような見解をほとんど見かけることがないのは、今の日本で教養が軽視されていることの証左とも言える。

 

 

▪️ 本当に人間らしい生き方を見つける時

 

AIの登場で、人は隅に追いやられるのではなく、本当に人間らしい仕事や生き方を見つけることができるかもしれない。皮肉なことにAIのおかげで、『人間とは何か』という問いに真剣に向き合う気運が高まっている。だからこそ、AIのような技術が氾濫する時代に生き残るための最も有効な策は、実は人間形成のための教養を見直し、追求することにあり、しかも、先端技術やビジネスで先端を行く米国でこそ、そのような認識がしっかりと根付いていることは、この際日本でもあらためて、よく考え直してみるべきだろう。

日本の文化価値の底力を過小評価してはいけない

 

経済やビジネスの明るい話題が少ない日本

 

 最近、巷では政治的な話題がものすごく賑やかだ。モリカケ問題のようなスキャンダルで騒がしいということもあるにせよ、長く蔑ろにされていた未解決の問題がこの時とばかりに次から次へと暗い穴の底から這い出して来ている感じだ。長い間の日本人の政治無関心のつけが一気に出て来ているように見えてしまう。やはり日本は長い間、「経済一流、政治は二流」の国だったのだなとあらためて思う。

 

ところがその経済、あるいはビジネスに関わる話題も、ウキウキするような明るい話題は昨今本当に少なくなった。もちろん、人工知能等、技術に関わる話題は毎日溢れるように出て来るし、そういう意味ではその関連のビジネスに関わる情報も山のようにあるとも言えるのだが、よく注意して見ていると、それで日本企業が、これならやっていけるという確信を持てるような話題はほとんど含まれていない。その逆に、このままでは日本企業も日本自体も壊滅してしまうという類の悲観的な言説は増える一方だ。残念なことだが、これが2010年代の終盤を迎えた今の日本の現状だ。

 

本来、こんな時には、かつての日本の凄さを思い出せ、というような話がもっと出て来てしかるべきところだが、昨今では、「かつての日本の成功(重厚長大第二次産業での成功)はこれからの日本の成功(ソフトウェア/第三次産業での成功)の足枷」、という認識もかなり浸透してきているせいか、ほとんど目にすることもない。近年、成功している日本企業の代表の役割を一手に背負って、お手本であり続けたトヨタでさえ、最近ではお手本としては賞味期限切れ気味で、「あのトヨタでさえ生き残れないのではないか」という悲観的な論調に変わりつつある。それもあって、「日本企業は本当にどこも生き残れないのではないか」という漠然とした不安が日本中を覆っている。

 

こんなことを書くと、日本企業としてユニコーン企業に認定された、フリマアプリ運営のメリカリやアパレルのZOZOTOWNあるいは深層学習の産業応用でトヨタ自動車からも出資を受けた、プリファード・ネットワークスなど、今の日本にもいくらでも成功例があるのだから、もっとそういう企業を注目すべき、というお叱りを受けることも少なくない。まあ、それはごもっともなのだが、それでも、どうもこのような企業の成功例が、大勢を占める旧来の日本企業を触発して、全体として市場や、さらには国家が活性化するという方向には行っていないように思えてならない。この両者を繋ぐ何かが欠けている。

 

日本は高齢化が進み、生産年齢人口も総人口自体も減って、社会全体の活力も弱り、税金も高く、法律等の環境もベンチャー起業家が活動しにくいとなれば、米国流のマインドを持っていて英語も流暢な人や、そういう人の多い企業なら、あえて日本に留まる理由もなくなってしまう。成績優秀な高校生で、日本の大学ではなく、米国等の一流大学の進学を目指す学生が出て来ているが、それが日本の優秀な学生のスタンダードになって、日本に残るのは二流人材ばかり、しかも資本は外資が牛耳っていて、日本人社員は収奪されていく、そんな未来がこのままでは本当に現実になってしまうだろう。

 

 

日本ならではの価値に寄り添うことが必要

 

そういう意味で、日本という国土の内部、あるいは日本文化に発生起源を持ち、日本人の心の深層にある思想や行動原理にそった、より歴史を生き残った要素を核とする成功のエッセンスを見つける努力がどうしても必要なように思う。またその方が、多くの人が納得して、普遍的で息が長く、未来にもつながっている道を示すことができるはずだ。

 

そのように言うと、「日本人の習慣や心性は製造業の成功には大いに寄与したが、インターネット時代になって、ソフトウエアやサービス業が主流になると、米国人や中国人のほうが相性が良く、日本人には不利というステレオタイプな反応が必ず返ってくる。たしかにそれはあたっている部分もあるのだが、それで以上終了とするのは少々結論を急ぎすぎだ。日本人にとって、幸いなことに、この国にはまだ磨けば光る巨大な資源が眠っている。

 

トヨタや松下(現パナソニック)、東芝等の日本の製造業が世界を席巻している間も、日本発の文化が国境を超えて他国に大きな影響を与えるという現象は見られなかった。だが、どういうわけか、バブルが崩壊した後になって、日本の文化産業は世界中で注目され、経済的な成功を実現するようになり、いつのまにか海外からの日本のイメージは、テレビや自動車のようなプロダクトから、ポケモンガンダムのような文化産業へシフトし、しかも外国人から「クール」と評価され、世界で確固たる地位を築くことになる。

 

 

クール・ジャパン戦略の挫折

 

このアップトレンドに相乗りすべく、第二次安倍政権の誕生後、内閣府経産省主導で、いわゆる「クール・ジャパン戦略」が開始され、日本の魅力を海外へ情報発信して、日本の商品やサービスによる売り上げの増大を目論んだ。そして、政府の支援を受けて日本文化輸出を支援するクールジャパン機構(CJF)が設立された。失われた10年、20年とどんどん「失われた」時期が長くなっているという焦りにも似た感情が日本を覆っていたこともあり、大いに期待され、鳴り物入りで始まった活動だったと記憶する。

 

ところが、どうやらクールジャパン機構(CJF)はあまりうまくいっていないのでは、という噂が飛び交っていると思ったら、昨年秋には、日経新聞から非常に状況が悪化している旨を伝える記事が出る。事業の過半数が収益などの計画を達成できていない、ガバナンスが効かない等、散々な言われようだ。

www.nikkei.com

 

だが、あらためてクールジャパン機構の出資先を見てみると、残念ながらとてもではないが「クール」とは程遠い案件が並んでいる。そもそも文化産業というのは、工業製品のように数値目標を決めて、一様に管理できるようなものではない。こうなると、国際政治学者のジョセフ・ナイ氏が述べていた「政府は文化を管理できないし、管理すべきではない」あるいは「文化を管理する政策がとられていない点自体が、魅力の厳選になりうる」という意見が正しかったように思えてくる。しかも、関わる人達の感性や年齢の問題もあるように思える。

 

世界で喝采を受けたのは、「日本文化」といっても、マンガ、アニメ、ゲーム等のポップカルチャーであり、その良さを肌感覚でわかるのは、日本人でも、40歳くらいまでで、それより上の年齢層は(人によって違うのはもちろんだが、一般的には)実のところほとんど理解できないのが本音だろう。クール・ジャパンも失敗なのか、としょげる前に、世界で受け入れられている「クール」の」正体を、もっと徹底的に分析しておく必要がある。

 

 

何が世界で評価されたのか?

 

もちろん、すでに優れた分析もある。例えば、「ポケモン」の成功の理由については、人類学者の中沢新一氏は著書「ポケモンの神話学 」*1で、ポケモンが、子供の無意識に潜む(場合によっては危険な方向に向かう恐れもある)欲動を知的に昇華する働きをして、カオスを秩序に変える場とすることができたことにあると述べる。また、ポケモンは、子供の衝動を人類学者のレヴィ=ストロースが説く「野生の思考」(科学的思考よりも根源にある人類に普遍的な思考)に昇華させたとも述べ、ポケモンを非常に高く評価している。そして、これは「野生の思考」の痕跡を身近に残す日本文化を持つ日本人なればこそできたとしている。

 

確かに、ポケモンに限らず、90年代以降の日本のポップ・カルチャーは、日本的なアニミズムであったり、異世界への憧憬であったり、霊性、無常観、もののあわれといったような、世界にも珍しい独特の文化の香りをデジタルに置き換えて見事に表現していて、その結果、そこで表現されるものは、ロボットのような機械であれ、怪獣であれ、精霊であれ、非常に不可思議ながら世界のどこにも類例のない種類の、生命の息吹を感じることができるものが多い。

 

米国の文化人類学者である、アン・アリスン氏は、著書「菊とポケモン*2で、米国人の若年層にとって、日本の漫画やアニメ等のポップ・カルチャーが、その斬新さ、ストーリー性の豊かさと人物描写の複雑さ等において、ハリウッドが提供するものよりもはるかに面白く、創造性に富んでいて、それを「クール」と評価している様子について述べている。それは、単なる日本文化というより、そのエッセンスを汲みあげながらも、それをハイテクの娯楽商品として創造性に富むプロダクトに仕立て上げるプロデューサーとして、日本の評価は世界的に高まっているのだという。

 

だから、今では、欧米の若年層にとって日本を象徴するのは、キモノでも茶道でもカミカゼでもなく、ホンダでもトヨタでもなく、任天堂ビデオゲームや、漫画、アニメ、トレーディングカードやエンターテインメントのテクノロジーになっている。そして、その中心にいる現代日本のクリエーターは、グローバル経済下にある現代人が生活する上での希望や欲求不満をとらえることにディズニーよりも長けているという。そのような日本のクリエーターは、ポスト・モダンの時代に子供達が感じているストレスを解消し、願望をかなえてくれて、時代にどう対応したらいいか教えてくれている、とまで評価している。

 

これほどグローバルな視点からの分析を日本人の識者が述べるところはあまり見たことがないが、アン・アリスン氏の分析を読んでいると、日本のポップ・カルチャーの成功の理由について、日本のクール・ジャパンの関係者には、まだ学ぶべきことがたくさんあったのではないかと思えてくる。直接の当事者ではない政府関係者や、40才以上の年長者ばかりが仕切る企業での成功はおぼつかないのも当然で、クール・ジャパン戦略」のつまづきは、日本のポップカルチャーが世界で証明して見せた成功自体とはまったく違うと考えられるのだ。だから、(繰り返すが)この国にはまだ磨けば光る巨大な資源があることは決して否定されたわけではない。

 

 

日本の文化価値が否定されたわけではない

 

上記の分析は、ある程度文化人類学や日本の思想について知見がある者にとっては、非常に的を得た分析に思えるし、新たな創造を喚起する智恵に溢れているようにも見える。また、ポップカルチャーだけではなく、日本の経済活動のあらゆる場面に応用していける汎用性もあることを示唆している。日本や日本企業、日本人全般で生かすことができ、元気にする原理を引き出してくることができる可能性を秘めている。

 

だが、普段あまりこのような学問分野に触れることのない、大半の人にとっては、単なる謎めいた疑わしい言説に見えてしまうの無理はない。普通の経済活動に適用するためにはもう少し「解釈」や「注釈」が必要なことは確かだ。自分にそれができる能力があるかどうか若干疑わしいが、何とか自分自身を叱咤しながら、取り組んでいこうとは考えている。というのも、これこそ、日本文化の奥底に淵源がありながら、それを元に、日本のクリエーターが創造した、グローバルに通用する価値であり、日本ならではの経済価値としてもっと大きくしていけると確信しているからだ。そう確信してしまった者の「責任」と受け止め、出来ることから始めてみようと思う。

*1:

 

*2:

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力

 

 

世界から取残され迷走する日本企業が今掲げるべき道標とは

 

創業時のソニーこそ今後の日本の道標?

 

書店でふと、元ソニー社員でGoogleの日本法人の社長も務めた、辻野晃一郎氏の名前を見つけたので、思わず手に取ってみた。なんと、評論家の佐高信氏との対談本である。*1 両者の個別の意見については、他所でもずいぶん読んできたこともあり、それぞれどのようなお話しが出てくるのかある程度想像できるのだが、この異色の組み合わせとなると、どのように議論が展開するのか予想できない。その点に興味を感じて読み始めてみることにした。

 

辻野氏と言えば、創業時代のソニーの遺伝子を受け継ぎ、それをGoogleという場でも見事に開花して見せた、今や日本では貴重かつ希少な存在となっている、世界に通用するビジネスマンの一人だ。一方、佐高信氏と言えば、歯に衣を着せないバリバリの左派の論客で、言及しただけで、右翼系のアンチ佐高が殺到してきて、炎上してしまいかねない強面の人、というイメージだ。その先入観だけで言えば、この二人を対談させようとしても、すぐに喧嘩別れになってしまうのではと思えてしまう。

 

ただ、佐高氏には、先日亡くなった、日本を代表する保守論客であった西部邁氏との対談本もあって、*2それこそ一見水と油の関係に見えるが、本書を読んだ限りでは二人の思想の核はすごく近いところにあるように感じる。日本でも政治的な右派、左派の定義が最近))頓に変質しているが、それを象徴しているとも言える。同様に、ビジネスに関わる価値意識や、分析軸も急激に変化して来ていて、旧来の概念が当てはめにくくなって来ている。そういう意味では、辻野氏との対談も、最早、さほど驚くようなものではないのかもしれない。

 

実際に読み始めてみると、やはり辻野氏は辻野氏であり、佐高氏は佐高氏だなと思う。旧来の主張とそれほど違いはない。それでいて二人の認識は、少なくとも今回の対談に関しては、ほぼ完全に一致している。そして、私もそのご意見に大筋同意できる。もちろん、具体的な人物評価や、好み等の詳細に関わる部分の中には同意しにくいところもないわけではないが、些末な問題だ。

 

その二人の共通認識とは、創業時~初期のソニーの思想/価値観こそ、かつて日本の企業社会が持つことができた、そして道を見失った時に繰り返し参照できる、輝かしい歴史であり、すっかり混迷して将来のビジョンを見失ってしまっている昨今の日本企業や経営者、ビジネスマンが今こそ掲げるべき道標であり、希望である、ということだ。「新しい価値をつくり出すためには、人のやらないことをやる」という思想を徹底したソニーは日本を超えてアップルやグーグルが手本とするほどの世界性があった。アップルの創業者スティーブ・ジョブズソニーの創業者である盛田昭夫氏を尊敬していたのは周知の事実だ。

 

 

成功から一転凋落する「日本教」型企業

 

かつては、ソニーは、成功はしているけれども日本企業としては異端、という扱いだったのが、今や数少ない希望になろうとしている。それだけ日本企業の大半は迷走し、煮詰まってしまっているということでもある。そのように言うと、企業の内部留保は過去最高レベルであり、今の日本企業の業績は良いと反論する向きもあろう。だが、そのうちの誰が、2020年のオリンピックを越えて、日本企業が堂々と世界の競争に伍していけると胸を張れるだろうか。冷静に考えれば、没落の時が迫っていることは誰にもわかるはずなのに、とりあえずオリンピックまではかりそめであれ好景気の賑わいに踊ろうというような、刹那的でよどんだ空気が蔓延している。

 

佐高氏は、彼が批判の目を向ける、神道系の宗教思想を背景に戦前に設立され、戦後も生き残った企業研修団体である『修養団*3によるファナティックで、宗教的な研修(禊研修等)*4を社員に受けさせることを良しとする企業をカルト日本企業と呼んで批判する。そして、そのような「日本教」とは一線を画し、個人を大事にして自由闊達な社風を良しとするかつてのソニー(およびホンダ)のような企業を高く評価する。一方、辻野氏は、ソニーに入社する以前の学生時代から、ソニーの思想に心酔し、入社後もそれを信奉し、ソニーの企業規模が大きくなって創業経営者がいなくなっていわゆる「大企業病」に冒されて変質してしまった後も創業理念の復活を願って戦い続けた人だ。両者が、それぞれの立ち位置は違うとはいえ、かつてのソニーの思想、そして、それを体現する会社を創り上げた創業者の盛田昭夫氏おおよび井深大氏を理想の経営者とする点については、一致していることがわかる。))

 

私が佐高氏の評論を初めて読んだのは、まだ自動車会社、それも佐高氏が批判する側の企業(トヨタ自動車)に勤務していた時代だが、その頃は、自動車業界で言えば、ソニーに近い体質を持つホンダも非常に高く評価されていた。私自身、白状するが、海外企画で商品を担当していた時は特に、斬新な製品を次々と投入するホンダを眩しく仰ぎ見ていたものだ。一方で、ソニーとは正反対と言っていいほど異なる経営思想を持つ、『禊研修を受け入れる会社』である、日立、東芝松下電器産業(今のパナソニック)、三菱電機等も、総じて業績は良かった。戦後の高度成長の波に乗り、これからバブルに突入というタイミングくらいまでは、日本企業の多くは世界の勝ち組だった。だから、ソニーやホンダも個性的で面白い経営をしているが、パナソニックトヨタ、あるいは日立、東芝等の方が日本の経営としては本流であり、その両方が切磋琢磨している日本は強いのだ、というような楽観的な物言いが一般的と言えた。

 

 後者のタイプの企業の中には、松下電器産業(現パナソニック)の松下幸之助氏や、京セラの稲森和夫氏や、会社を潰してしまったが、ヤオハンで一世を風靡した和田一夫氏のように、はっきりと宗教と経営を統合するような思想を表に出していた経営者もいたし、そこまではっきりと表明はしないものの、同等の思想を受け入れることを是とする会社は実のところ非常に多く、祭壇や神道の社、従業員のための墓を持つ会社も確かに存在した(今でも存在している)。表立って具体的な宗教色がなくても、公私へだてなく従業員に会社への没我的な貢献を求め、毎晩のように社員が(男性ばかりだが)家族を犠牲にして飲み歩く日本企業は、他国から見れば背後に何等かの宗教的な(でなければホモセクシュアルの)紐帯があるように見えても不思議ではなかった。

 

当時の日本企業は、日本の社会に残された主要な中間共同体であり、その共同体への所属意識と忠誠心、共同体内での相互扶助精神が製品の品質を異常なまでに高くし、従業員は長時間労働を厭わず(しかも残業代を請求せず)、それが日本企業の強さと直結していた。そこには、やはり一種の、宗教教団に比肩できるような精神構造があると私自身感じていたものだが、そのような「宗教色」が特に強かった、松下電器産業トヨタ等が日本の強さの象徴であった時代には、「日本教」の浸透度合いが高い会社ほど強いと述べる識者もいたと記憶する。ソニーと松下がビデオの企画を争ってソニーが負けた時など、「所詮はソニーなど松下の開発会社のようなもので今は元気が良いが、そのうち飲み込まれてしまうに違いない」というような意見を支持する人も少なくなかった。そして、ホンダとトヨタの関係も似たようなもの、と言われていた。

 

 だが、その後、電機業界は坂道を転げるように凋落の一途を辿ることになる。松下に合併されたサンヨー、台湾企業傘下となったシャープ、今ではかなり持ち直したとはいえ一時期巨額の赤字を計上したパナソニック、あるいは軒並み業績を落としてしまった日本電気や日立、極めつきは経営者が経団連会長職を得るために業績を偽って巨額の損失を隠し続け、企業破綻寸前に追い込まれてしまった東芝など、かつては自他共に世界一と認められていたはずの栄光は地に落ち、将来の展望も示せなくなってしまっている。昨今では、躍進するアジア企業の後塵を拝しているばかりか、その差はさらに開きつつあるようにさえ見える(その中では、パナソニックだけは例外的に経営改革が進みつつあるようではある)。

 

かつては、短期的な業績に過度にこだわらず、従業員を組織の単なるパーツではなく、コミュニティの成員(家族)として遇する家父長的な経営者も少なくなかったが、東芝の例に見るように、温和な家父長だったはずが冷酷な独裁者に変貌したり、自らのエゴイスティックな権力欲で、会社に大打撃を与えるような、とんでもない経営者も目立つようになってしまった。しかも、もっと残念なことは、ソニーも創業者が存命のころのソニーではなく、自動車業界で言えば、ホンダもかつてのホンダではない。皆が仰ぎ見ることのできる理想の企業は、もはや伝説の中にしか存在しないとも言える。

 

 

日本教」では乗り切れない

 

もっとも「日本教」のなにが悪いのか、その良い部分を正当に評価せよと迫る人たちも多いことは私も知っている。ただ、宗教と組織、あるいは国家が一体化すると、状況が良い場合は宗教の良い面が出て更に状況を好転させる原因になることも期待できるが、状況が悪くなると(不況、収益悪化等)、成員に滅私奉公を強要して、暴走してしまうことも少なくないことは歴史が証明している。昭和初期のテロ(5.15事件、血盟団事件2.26事件等)など宗教がテロを抑制するのではなくむしろ奨励していた典型的な例だし、大東亜共栄圏や八紘一宇というようなイデオロギーも、その理想とは裏腹に、帝国主義的な強国の論理に堕してしまったのも、曲解された宗教的信念が背後にあったことは疑いえない。宗教の良さや宗教一般を否定するつもりはまったくないが、企業のような組織や、国家と結びついた場合に、シャーマニズム的な熱狂が引き出されて手に負えなくなってしまう事例は枚挙に遑がない。このあたりをあまり断定的に述べると炎上ネタになりかねないし、私自身がまだこの問題の本質を語るほどの資格も力量もないことは正直に認めるが、少なくとも非常に慎重に対処すべき何事かがあることは確かだろう。

 

そのような視点で、昨今の企業を見ていると、日本教」の負の部分が露呈しているケースが多くなってきているように思えてならない。その典型例が昨今非常に騒がしく問題になる、過労死やパワハラだろう。上司や先輩等の直接の虐めだけではなく、村社会の掟に従わないものは、成員の全員が徹底的に虐めて村八分にするようなことは、昔から多かったが、昨今では、一層陰湿になっていて、虐めの対象にならないように空気を読んで息を詰めないとやっていけない企業も増えている。一方で昨今の「働き方改革」など、昭和の時代に「日本教」精神を「禊研修」等で叩き込まれた今の企業の上層部には、本音のところまったく受け入れられないはずだ。それは彼らの表情を見ていれば一目瞭然だろう。このままでは、解決は程遠いと言わざるをえない。

 

日本の企業のシステムは、製造業で、低コストかつ高品質を実現する点では比類ない強さを発揮した。だが、日本の賃金が高くなり、品質の点でもアジア企業が追いついてきて窮地に立たされるようになることは、実はずっと前からわかっていたことだ。だから、既存の「モノ」を低価格高品質で提供するような、かつての松下が標榜したやり方は早晩行き詰まるから、これからは人真似をせずにオリジナリティで勝負するソニーのようにならないとだめだ、という物言いも耳にタコができるくらい聞かされたものだ。だが、結局日本企業の大勢は変われないままで来てしまった。企業における昭和的な価値観も亡霊のように生き残り、昨今では「日本教」的な手法を払拭するのではなく、むしろそこから離れたことが日本を悪くしたのだから、もう一度古き良き日本(日本教、あるいはその色の強い日本的経営)に回帰すべき、という声さえ大きくなってきている。

 

しかしながら、時代はさらに先に進もうとしている。インターネット普及で外部調達のコストが下がり、ユーザーが直接参画するようなモデルが優位性を発揮している現代では、企業や企業グループの結束の強さを強みとしてきた日本企業が、外部経済の恩恵を受けることができず、かつての強みが弱みへと暗転してしまっている。Googleやアップル、アマゾンのようなIT系企業のモデルが製造業を含むあらゆるビジネスを破壊し、変革の渦に巻き込んでいるのはご存知のとおりだが、今の方向をさらに助長して押し上げることに寄与すると考えられる、人工知能ブロックチェーンといった技術が日進月歩で進歩している。このような変化の激しい経営環境には、日本の従来の企業より、中国企業の方がうまく適応して、世界経済の最前線に躍り出てきている。昭和マインドや日本教では、周回遅れどころか、2周も3週も遅れてしまってる現状を挽回出来るようには思えない

 

 

進化型組織「Teal」が起死回生のヒント?

 

今の日本の組織の典型的な問題は、複雑で官僚的な組織がガン細胞のようにはびこり、前例主義等の保守主義が新しいチャレンジを阻むようになってしまっていることだろう。そして、組織内で権力者は、近親者や仲間、あるいは子飼いの部下ばかりを優遇し、既得権益や権力を守ることに汲々としている。企業の成長が止まり、先行きが不安になり、利益のパイが先細りであることは本音のところわかっているから、小さなパイを争って組織内は小競り合いが激しくなる一方だ。

 

組織が問題なのは、日本だけではない。株主の意見が強すぎて、あまりに短期業績ばかりで評価される米国型の組織も、会社の将来を見越した長期投資ができず、一部の経営者に権力が集中して、報酬も極端な上下差ができて、一般労働者の賃金は下がり続け、今や企業内だけではなく、国自体が分断されようとしている。ある意味、世界は国家であれ、企業であれ、組織が病み、試行錯誤を重ねても良い方向に行かずに混迷し、泥沼にはまっていると言っても過言ではない。

 

企業であれば、提供するモノであれ、サービスであれ、より良いものを提供することが本来の目的だったはずだ。まさにかつてのソニーのように、世界でまだ誰も見たことがないものを世の中に出していく、そのことを他の何よりも優先し、目標に据えて邁進していれば、従業員の意欲やパーフォーマンスは向上し、顧客満足度は上がり、その結果、経営者の評価も高まり、株価も結果として上がるというプラスのスパイラルが期待できるはずだ。だが、抽象的な決算数値だけを評価軸にしていると、従業員の熱は冷め、顧客は企業から遠ざかり、結果的に経営者の評価も株価も下がってしまう。そして、経営者は管理と保身に走る。ソニーの歴史を辿っていると、上下両方の典型的な事例を見つけることができる。

 

もう世界には、かつてのソニーの良い部分を彷彿とさせるような企業や組織はないのだろうか。社会に提供するモノやサービス自体を経営者のエゴより優先させて、権限が現場に委譲され、それでいて業績も良い会社、それは望むことはできないのだろうか。いや、どうやらそんなこともなさそうだ。まだ知る人ぞ知る存在だが、Teal」という組織のことはご存知だろうか。最近日本でも、これを解説する本の訳書が出版されて、一部の人たちに圧倒的に支持され、研究されている。*5これは、一言で言えば「一人一人が意思決定して信頼だけで成り立つ進化型組織」ということになる(もっとも一言で言うのはかなり無理がある)。本書の宣伝コピーには、上下関係も、売上目標も、予算もない!? 従来のアプローチの限界を突破し、圧倒的な成果をあげる組織が世界中で現れている。」とあって、私など、あまりに理想を追いすぎていて、かえって現実味がない印象を与えてしまうことを危惧してしまうのだが、そこまで極端ではなくても、「企業トップや経営者がいても、コストのかかる官僚組織を作って権力を振るうのではなく、その企業の理念を実現するための企業文化の醸成や緊急時の経営判断や調整に注力し、普段は可能な限り現場に権力を委譲して、自主管理に任せるというタイプの企業」とやや定義を柔軟にすれば、すでにいくつかの事例は知られている。

 

ネットの情報を漁って見ると、靴のネット通販会社ザッポスや アウトドア衣料などを扱うパタゴニア等がTeal組織の理念に近い例として紹介されている。ザッポスは、アマゾンが屈服した会社として昨今では喧伝されているが、CEOのトニー・シェイ氏は、長期的なビジョンを「市場の顧客サービスとエクスペリエンス(体験)を提供すること」として企業文化やコア・バリューをつくることを何より重視し、それが、顧客、社員、取引先、そして最終的には株主に幸せを届けることにつながると信じていると述べている。パタゴニアも環境への配慮を中核的な価値に据え、自身サーファーでもある、CEOのイヴォン・シュイナード氏は、「社員をサーフィンに行かせよう―パタゴニア創業者の経営論」という著書でも話題になった人だが、Teal組織の特徴である、「崇高な目的、意思決定の分散、個人の全体性、自己管理、進化を続ける目的」等、確かに以前より彼が経営理念として据えていた要素と重なっている。波が良ければサーフィンに行ってもいいが、そのかわり自己で時間を管理し、仕事は責任を持って行うことを求めているわけだ。

 

このTeal組織のコンセプトを読んで見ると、かつてのソニー自体、この組織の類型にかなり近い経営を行なっていたことがわかってくる。そんなことが可能なのか?というのは、私自身の最初の疑問でもあったわけだが、成功事例はすでにかなり出て来ているし、世界は(特に今の日本は)全力でこの方向を目指すべきと思えてくる。

 

ただ、そのためには、少なくとも当面は、企業が提供するモノやサービスを良くすることを第一として、企業を自分の権力欲や自己顕示欲を満たすための道具にしないリーダーが不可欠だし、従業員もその思想を理解し、受け入れる人が多くないと維持出来なさそうだ。ザッポスも、パタゴニアも、CEOが率先して企業文化を醸成することに尽力して来たのもそのためだ。では、このような組織を持つ企業を増やして、主流としていくためには、具体的にはどうすればいいのか。まだ探求すべきことは多そうだ。だが、いずれにしても今世界がはまり込んでしまっている問題への回答、あるいはヒントがここにあるように私には思える。

 

 

Teal組織が主流となる必然性

 

昨今の日本の若手の企業経営者は、従来の経営者と比較するとかなり違って見える。昭和の経営者のように、能力もあってエネルギーも旺盛だが権力欲や自己顕示欲がその源泉となっているのが見え見えのタイプは少なくて、社会を良くしたいということ自体が目的で、本人は名誉欲もあまりなくてサバサバしているタイプがとても多い。また、今、話題になっているブロックチェーン技術は、中央管理がなくても、そのシステムが維持/運営できるようなインフラとなろうとしている。視点を変えれば、日本でも、Teal組織に移行すべく準備が進んでいるようにさえ思えてくる。

 

biotope代表取締役兼チーフストラティジックデザイナーの佐宗邦威氏がその辺りを非常に的確に語っている。将来的にどのような企業組織が主流になるのか、そのイメージの一端を垣間見ることができるコメントだ。

Teal型組織で提唱されている自己組織化する組織とは、インターネットによって可能になった自律分散型の世界観に応じて可能になった、組織という人間の集団での動き方のイノベーションの試みと言えるでしょう。インターネットによって、リナックスMozillaなどのオープンソースが哲学になったコミュニティ型の組織が生まれ、そこでは中央で強いガバナンスを持たずに、明確な目的やミッションの元に、場のルールや環境、組織文化をデザインすることで、その場・プラットフォームを繁栄させるという、新たな組織のあり方が可能になってきました。このような組織においては、顔の見えるビジョナリーなリーダーは必要ありません。中空構造の組織というところが、今までの組織と一線を画す部分です。

medium.com

 

日本人はソニーという学びの多い歴史を持っているのだから、まず、これをしっかりと勉強して、平成という「失敗した時代」を繰り返さないよう、次の時代を本当に良くするために、準備を始めるべき時が来ている。未来は明るくできるし、そのためにできることは沢山ある。

 

*1:

日本再興のカギを握る「ソニーのDNA」 (講談社+α新書)

日本再興のカギを握る「ソニーのDNA」 (講談社+α新書)

 

*2:

ベストセラー炎上

ベストセラー炎上

 

*3:

修養団 - Wikipedia

*4:

*5:

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

 

情報強者に向けて直走る中国をどう考えておけば良いのか

 

◾️情報が石油以上の資源となる時代

 

日本で「情報爆発」という用語が巷にあふれるようになったのは、いつのころからなのだろうか?Googleトレンドで遡れるのが2004年の1月からなので、それ以前の状況はわからないが、どうやら最も盛んにこの用語が使われたのは、2005年から2008年頃だったようだ。*1それ以降は、むしろ抑制気味にさえ見える。ところが面白いことに、米調査会社IDCによれば、実際のデジタルデータの量の推移は、2000年には62億ギガバイトだったのが、2013年には4.4兆ギガバイトと13年で約700倍に膨れ上がっており、近年では、スマートフォンの普及や、モノどうしが情報を交換し合うIoTの進展もあって、2020年には、さらにこの10倍の44兆ギガバイトまで膨らむと予想されている。実際には、今まさに加速度を上げて爆発的に情報が増えているのだが、人の(日本人の)思考がすでにそれこそオーバーフローして、このトレンドの凄まじさに追いつけないでいる様子が浮き彫りになっているとも言える。技術や環境の変化が人の意識とは必ずしもシンクロしない一例を見る思いがする。

 

普通の人々の認識がどうあれ、実際にこの期間に起きたことは、この情報環境を最適利用できた企業(フェイスブックGoogle、アマゾン等)が圧倒的な力をつけて、市場を席巻し、旧来のビジネスモデルを破壊し、そこに追随できない企業を退場させ、置き去りにしてきた。そして、今、さらなる量の情報が蓄積し、分析のためのCPUパワーも加速度的に向上している上に、フィードした情報でスマートになっていく第三世代の人工知能が実用域に入ったことで、大量の情報を持つことの意味が根底から変貌しようとしている。それゆえ、情報は「石油」以上に価値のある資源とさえみなされるようになって来ていることはご存じの通りだ。だから、このことに気づいている企業は、様々な形でさらなる情報の確保に邁進し、国家単位でも戦略として取り組まれるようになってきた。



◾️最前線に躍り出る中国

 

この過程で、従来はほとんど蚊帳の外にいたはずの中国が、世界の競争の最前線に躍り出てきた。国内の大手IT企業が急速に力をつけて、収集した大量の情報を経済価値に変え始めただけではなく、国家単位で情報の蓄積/分析/利用に本格的に着手するようになり、しかも、欧米のような個人主義を基礎とした民主主義社会であれば強い社会的要請のあるプライバシー保護の制約が緩いことが(是非は別として)この局面では、極めて強い追い風となりつつある。

 

欧州と米国を比較すると、欧州は、人間の尊厳やデータに関わる個人の自主的判断を最優先するため、情報利用の点では制約的な環境だが、自由で公正な競争を重視する米国は競争が阻害されるような規制を設けることには概して否定的で、従来は、欧米は別種の二極を構成していた。ただ、昨今のフェイスブックに関わる情報漏えい騒動を見ているとわかる通り、プライバシー侵害のリスクがあらためて認識されるようになると、フェイスブックのような自由競争の先頭に立つ企業に対しても、制約強化の社会的な要請が強くなることが予想される。先に述べたように、実際に起きていることと普通の人の認識のギャップはこの分野(ITC関連)では特に大きい。米国でのフェイスブック公聴会のやりとりなどその典型例を見る思いだ。だが、一般人の不安感が煽られたときの政治的な逆風を甘く見ることはできない。当面、フェイスブックに限らず、情報戦略で勝ち上がってきた企業(Google、アマゾン等)には全般に逆風が強くなると考えられる。


そのような制約要件が緩く、国家ぐるみで情報強者を目指す中国が、数年の内に、世界で最も情報蓄積量が多く、最もスマートかつ大量の人工知能を持って産業のあらゆる面で世界に覇を唱えるという未来図は決して絵空事ではない。しかも中国一国だけではなく、他のアジア各国、中東、アフリカ等、この路線を追随する国は今後増えて行くことが予想される。情報が新たな「石油」であるとすれば、新たな経済圏として各国、あるいは各経済圏が相互に覇権を争う可能性すら予感される。欧州、米国、中国の三極、あるいは欧州と米国が小異を捨てて大同で連携する可能性もあるとするなら二極、いずれにしても、今後の世界の経済環境を分析するにあたって、非常に重要な視座となることは間違いない。しかも、中国タイプのモデルが最強となる可能性があるとすれば、現状すでに人権意識が弱い強権的な国家は言うまでもなく、欧米諸国(ないし欧米並みの民主主義を標榜する国家)にさえ大きな影響が及ぶことも考えられる。



◾️方向が定まらない日本

 

例えば、日本だが、日本の個人情報保護法は、欧州と米国の法律を両にらみで、折衷案を採用したような(失礼!)法律となっている印象があるが、最新の改正にあたっては、「利用の促進」と言う「目的」が織り込まれた。だが、最近のように中国のIT企業の台頭を目の当たりにして、そして、日本が経済的に劣勢立たされる近未来にリアリティを感じれば感じるほど、欧米流のプライバシーの概念に追随すること自体の意味がわからなくなる、というような一種の「人心の揺らぎ」が起きてきている。

 

そもそも日本では、個人情報の流失の部分にのみ、神経症的と言われるほどに敏感になってしまっており、法規制範囲外の利用に対してさえ、場合によっては炎上の憂き目を見る事例がトラウマとなって、企業は萎縮してしまっている。個人情報保護法改正により、情報の利用が進むことを目論んだ経産省など、日本企業のあまりの萎縮ぶりに呆然としてしまっている。「笛吹けども踊らず」とはまさにこのことだろう。

 

一方で、EUの一般データ保護規則(GDPR)の対応準備に振り回されている法務の担当でさえ、この規則の思想的バックグラウンドである人権概念には疎い者が多いのが実情だ。企業単位で見ると、ただでさえ、炎上が怖くて萎縮気味なのに、GDPRを参考にしてこれ以上規制を上増しするようなことは勘弁して欲しい、といった感じの非常に率直な意見が普通に出てくる。その気持ちは充分理解できるし、実際、意味もなく制約的な法律が少なくないのも確かだが、原理原則が曖昧で、矛盾だらけで、真剣に議論すべき問題にスポットライトがあたっていない日本の現状は危なっかしくて仕方がない。

 

 

◾️過剰な情報プロファイリングの恐ろしさ

 

昨今、躍進する中国企業のサービスの中でも、ビッグデータから個人の信用力をスコアリングするサービスが非常に注目されている。代表的なのは、ネットEC企業のアリババの決済サービスであるアリペイで収集されるユーザー情報に基づいて構築されている「芝麻信用」だ。アリババグループは、これをベースに融資サービスも展開しており、賃貸、企業の採用、ビザの取得等あらゆる生活の局面に影響力が及んで来ているという。日本でも、みずほ銀行ソフトバンクが共同で設立した、J.Score(ジェイスコア)が提供する個人向け融資サービスなどその先駆けで、 今後、様々な業界と提携してビッグデータの種類を増やして、金融以外のサービス拡大を計画しているという。他の企業からも注目されている。

 

だが、この個人の情報のプロファイリングが過剰になると、自分が納得のいかない評価を下され、一旦出来上がった評価は他社でも使いまわされ、人事採用、融資、保険、教育等の人生の重要な場面で重大な影響が及び、そこから抜け出せなくなる恐れがある慶應義塾大学大法務研究科の山本龍彦教授は著書「おそろしいビッグデータ 超類型化AI社会のリスク*2の中でこの現象に「バーチャル・スラム」という用語をあててその恐ろしさに警鐘を鳴らしているが、実際、このサービスの先進国、中国でもその弊害や恐ろしさについて言及されるようになってきている。(だが、中国人があまり声高にこれを述べると、自分のスコアの点数が下がってしまうことを恐れて、抑止してしまうのかもしれない。)

 

これは、日本であまり議論にならないこと自体が不思議なほど、非常に恐ろしい社会の現出に道を開く可能性がある問題だ。欧米では、ジョージ・オーウェルの小説「1984」がそのディストピア的な類比的イメージとして持ち出されることが多いが、日本で言えば、自分のスコアが上がるように(下がらないように)、昨今の流行語である「忖度」を生活のあらゆる部分で働かせねばならず、それでも、何らかの誤解でスコアが下がったりすれば、そんな自分と交流する人も、自分のスコアが下がる恐れがあるから、皆自分の周囲から潮が引くように去って行く、そんな感じだろうか。あるいは、今の100倍も空気を読むことを強いられる社会、とでも言うべきだろうか。いずれにしても、そう聞けば、誰でもそんな社会には住みたくないと思うのではないか。一方で、この種のサービスを推進することのメリットはもちろん大きく、それを無視して全面禁止しろというような乱暴な議論は不毛だが、少なくとも危険性を熟知した上で、対処できる仕組みを社会に装備しておくことは不可欠だ。

 

◾️究極のジレンマ

 

その点、欧州は、少なくとも思想のレベルでは先進的であることを認めざるをえない。山本氏が同書で指摘していることでもあるのだが、GDPRではこの問題にも先回りして、プロファイリングに対して異議を唱える権利を認めており、この権利が行使されると、事業者は原則としてプロファイリングを中止しなければいけない。また、プロファイリングを含むコンピューターの自動処理のみに基づいて、自身に法的効果を及ぼす、またはそれと同じ程度自身に重要な影響を与える決定を下されない権利も認められている。もちろん、GDPRの運用が実際に始まってみないとわからない部分も多いが、いわゆる「人権」に関して、中国と欧州に明確な違いがあることはわかるだろう。

 

だから、情報から最大価値を引き出すことを第一優先として、国家ぐるみで情報強者を目指す路線に追随する国が今後増えてくるとすれば、欧米の人権思想の観点からいえば、世界が「前近代」に逆戻りしかねないことを意味しており、大変由々しい事態と言える。だが、人権を守ることが出来ても、経済的には従属的な立場に追いやられる恐れがある。しかも情報強者となることが、経済だけではなく、科学技術、軍事、金融等、非常に多くの領域での優位性の源泉となる可能性もあるとなれば、深刻なジレンマに苛まされることになる。もちろん、日本もこのジレンマから逃れることは容易ではない。

 


◾️変貌する中国社会と人間像

 

ただ、この問題を考えるにあたって、非常に重要な視点がもう一つあると私は考えている。中国の社会とそこに生きる人間の問題だ。『中国では欧米流の人権概念がなく、政府が強権的だからやりたい放題だ』というのが、普通の日本人のあからさまな感想ではあるのだが、本当にそれで済むのだろうか。中国は、鄧小平の改革解放後、経済的には完全な競争社会で、米国流グローバリズムとの相性も(少なくとも日本よりずっと)良いと言われて来た。昨今、競争は一層エスカレートしている。グローバリズムというのは、各国・各地域の土着の社会システムを破壊する側面があり、大量の負け組を輩出する仕組みでもあるため、そのような負け組を何らかの形で包摂する装置(コミュニティ等)がなければ、社会が崩壊してしまうとされる。欧米ではキリスト教コミュニティが該当するとされてきた。(昨今の米国のようにそれでも手に余るようになると、トランプ大統領のような既存のシステムの破壊者を大統領に選んでしまうようなバランスの取り方も大きな意味ではシステム内の調整機能とも言える。)では、競争が激化する中国ではどうなのか。

 

著書『中国化する日本』*3で注目された歴史学者の與那覇 潤氏によれば、中国は宋の時代に一君万民(皇帝のみに権利があり君主を除く人々はみな平等であること)の完全な競争社会を作り上げ、その苛烈な競争社会では、振り落とされる者が大量に出てくるから、それを補填する、「宗族」という父兄血縁のネットワーク(同族間の相互扶助の仕組み)も宋代に完成したと述べる。この「宗族」は共産中国では否定され、一旦は破壊されたが、鄧小平の改革開放政策が始まって以降、台湾が近い、中国南部を皮切りに復活し始めたと聞く。国家が意図的に規制するようなことがなければ、今後とも(形を変えながらであれ)復活していくのではないか。とすると、中国社会は、グローバリズムの旗頭の下、全員が参加する無期限の競争社会という額面とはかなり違った様相となってくるとは考えられないだろうか。かつての中国では、宗族の中の秀才がとことん競争できるよう、一族をあげて応援し、彼がめでたく科挙に合格すれば、一族にその権限を使ってお返しする、という仕組みが機能していた。歴史に沈潜した社会の遺伝子は意外と根強いのではないか。

 

また、中国人像も特に若年層を中心に、急速に変化して来ているようだ。一昔前の、「人前で平気で唾を吐き、列に並ぶこともない」という中国人イメージは、昨今の礼儀正しく、スマートな若年層には当てはまらない。また、「中国人は日本人よりお金に執着し、アグレッシブだ」というイメージも、徐々にではあるが、崩れ始めているのではないか。昨年来、中国で「仏系青年」という用語が大流行しているという。これは、1990年代生まれの、競争と距離を置き、「低欲望」で、自分の世界に閉じこもる若者のことを言うとされる。なんだか日本の草食系男子と似ているなと思ったら、なんと由来は、2014年に、日本の女性ファッション誌が使った「仏男子」という用語にあるという。「仏男子」は「草食男子を通り越し、草も食べない一人が好きな男子」のことらしいから、日本と中国の「仏」の意味するところの相違はありそうだが、系統は近いとは言えそうだ。人民日報は2017年12月13日の記事で、仏系青年を「こだわりもやる気もない。何か聞くと『何でもいい』と答える若者たち」と説明し、現代の速すぎる生活リズムや激しい競争、プレッシャーで疲弊した1990年代生まれの、社会に対する一つの対処法と分析している*4私の周辺でも、競争が苛烈過ぎる中国より、清潔で穏やかな日本社会のほうが良いと述べる日本在住の中国人は少なくない。

 

また、日本との類比どころか、中国人なのに、「心理的に自らを日本人とみなす若い中国人」が出現していて、これを「精日(精神日本人)」というのだそうだ。*5水面下で増えているという情報もある。親日が増えるのは結構なことだが、『中国など滅んでしまえ』だの『中国人などいなくなってしまえ』とまで考えているというから穏やかではない。中には、南京大虐殺が起きたとされる場所で、中国人男性二人が日本の武士の格好をして問題になったケースもあったというから、こうなると完全に贔屓の引き倒しというべきだろう。ただ、断片的にであれ、中国社会からこのような若年層が出現しつつあるというのは、要注目だ。中国人といっても、新しい(若い)中国人は、ますます激化する競争社会化を是として、唯々諾々と従っているわけではなさそうだ。

 


◾️中国の全体像を知ることの重要性

 

日本としても、中国の産業政策の側面ばかりではなく、中国の社会や、若年層のマインド等の心理や意識に関わる部分にも注目して、動向を把握しておく必要があるはずだ。全体としての中国はどこへ向かうのか、それは産業政策だけ見ていてはわからないし、中国を参考にするにしても片手落ちということになりかねない。しかも、どうやら一定数の中国の若年層は、日本に対する良いイメージ(実態とは違うかもしれないが)を自分の在りたい姿に投影しているようだ。そうだとそれば、人権よりも産業政策というような中国よりの政策を日本企業が無節操に選択してしまうようでは(決して産業政策を全面否定しているわけではないが)、せっかくの良き萌芽が摘まれてしまうことになりかねない。逆に、日本人のほうこそ、本当の意味での成熟を目指して、世界にメッセージを発信出来るくらいになれば、それこそ良い意味での、精神的な国際連帯が出来て行くことが期待できる

 

昨年来、誰よりも、中国の台頭に脅威を感じ、今後の世界は、人権vs経済成長という困った構図になるのではないかと述べたのは私自身ではあるのだが、上記で述べたような別軸の視点とそれに基づく新たなシナリオはありうると考える。私自身が中国の専門家というわけではないので、もっと識者や中国の人たちに意見を聞く必要があるが、このような議論が少しでも深まることを期待したい。