2018年とそれ以降をどう予測すればいいのか?    

            

2025年くらいまでをどう予測するのか

 

2018年が明けた。昨年後半は特に、ブログを描くペースを落としたこともあり、恒例にしていた年末のその年の総括も書かなかった。言い訳がましくなるが、この1〜2年というもの、変化のあまりの速さにショートレンジの予想の難しさを痛感することしきりで、2017年に起きたことを列記するのはいいが、それに対するコメントを書くことに戸惑いがあった。それは今も変わらないのだが、せっかくの年初なので、それでも何か書いてみようと思う。

 

将来の見通しを聞かれたとき、最近いつも答えているのは、「2030年くらいの未来については、シンギュラリティとは言わないまでも、テクノロジーの影響がかなり浸透して、否応なく、世界は大きく変わっていることは間違いないと考えている」、ということだ。だが、本当に予測が難しいのは、テクノロジーの過激なほどのスピードと、短期間に変化を迫られる社会や人間の側の対応能力が限界を超えて、混乱の最中にあるであろう、2025年くらいまでの間だ。しかも日本の場合、2025年に団塊世代後期高齢者入りすることに象徴されるように、高齢化や人口減少の影響も大きく顕在化してくることが予想され、それでなくても政治的にも、経済的にも、社会的にも非常に難しい時代に突入することが予想されている。

 

もちろん、ここで噴出する問題の解決については、まさに技術、特に人工知能関連の技術の寄与するところは大であり、可能な限り問題解決のために利用されて行くことは間違いない。だが、技術が先導し社会に変化を要求するスピードのあまりの速さに、受容する側の社会が追いつかず、特に日本の場合は制度の変更にも通常極めて長い時間がかかるため、今から数年で問題が解決している姿は想像することが難しい。しかも、これまで以上に本質的に解決が難しい問題が次々に表面化してくることになる。(この「解決が難しい問題」については、別途、日を改めて少し詳しく書いてみようと考えている。)

 

 

変化のスピードが対応能力を大きく上回っている!

 

「フラット化する世界」*1の著者、トーマス・フリードマン氏は最新の著書、「Thank you for Being Late」*2 でこの問題、すなわち技術の進化と社会の需要の問題を取り上げている。1000年前までは、人間が何か新しい生活習慣を身につけるのに、2〜3世代(約100年)の時間が必要だったが、 1900年代以降、一世代(約30年)くらいに、今では10〜15年で対応できるまでに対応能力を上げてきたと述べる。ところが、昨今では、社会を支えるテクノロジー基盤が57年で完全に入れ替わるようなことがあちこちで起きているという

 

しかも、このスピードアップはこれからが本番だ。そして、その程度も、範囲も、規模も、どんな識者にも、専門家にも最早予測不可能となりつつある。世界中で不安の渦が大きくなるのは当然だ。社会が受容するためには、ある程度の時間が欲しいと誰もが感じているはずだし、それは人間社会にとって当然の要求ではある。だが、その一方で、社会で受容が遅れることは、その社会(国)の企業が競争に負けることに直結するから、とにかく早く受容しろという企業側(場合によっては国家)からのプレッシャーが強くのしかかることになる。ところが、企業が競争に勝っても、米国が典型例だが、企業と富裕層(上位1%)の資産を増やすことには貢献しても、その他(99%)にその恩恵が及んでくるどころか、仕事が海外に流出したり、IT技術やロボット等による省力化で仕事が奪われてしまったりする。

 

 

驚くべき2017年の米国の実情

 

 In Deepというブログで、今年 1月1日に、米国の人気ブログ「エコノミック・コラプス・ブログ」で発信された、「信じるにはあまりにも狂気じみた 2017年の 44のことがら」という記事が紹介されているが、これが実に興味深い。米国の実情をリアルに見せてくれている。

数字からわかる「狂気じみていた2017年」。そして、おそらくはこの狂気は今年も継続する | In Deep

44 Numbers From 2017 That Are Almost Too Crazy To Believe

 

内容を見ると、一方で先端技術が浸透していることを示す内容がある。

2. ビットコインの価格は 2017年に 1,300%以上も上昇した。

14. 2017年のある時点で、すべての暗号通貨(ビットコインリップルなどの仮想通貨のこと)を合わせた時価総額は、5000億ドル(55兆円)を超えた。

 

その一方で、先端技術や先端技術を駆使する企業等の影響によって、社会が大きく変化していると考えられることを示す内容が目白押しだ。

6. アメリカでの小売店閉鎖件数の記録は、2017年に壊滅的なものとなった。最新の数字によると、2017年は、アメリカで 6,985の店舗が閉鎖された。 2018年も同じペースでアメリカの小売店の閉鎖が起きると予測されている。

7. 信じられないことに、2017年のアメリカ国内の小売店閉鎖件数は、2016年に比べて 229%増だった。(TEC

10. 最新の数字によると、現在 4,100万人のアメリカ人たちが貧困状態で暮らしている。 (TEC

24. 超自由主義的な都市であるシアトルでホームレス状態が拡大しており、市の周囲には 400の無許可のテントキャンプが出現している。

25. 2017年に実施された調査では、アメリカの全常勤労働者のうちの 78%が給料ぎりぎりのその日暮らしをしていることがわかった。

26. 米連邦準備理事会(FRB)によると、アメリカの平均的な世帯は現在 13万7,063ドル (約 1500万円)の負債を抱えており、その数字は平均世帯収入の2倍以上だ。

31. ビル・ゲイツジェフ・ベゾスウォーレン・バフェットは、その3人の資産だけで、アメリカの最も貧しい人口の 50%の資産すべてを合わせた以上となる。

32. 2017年の時点で、アメリカすべての世帯のうちの 20%は、「資産0、あるいはマイナス資産」となっている。

39. すべてのアメリカ人のうちで 1万ドル(110万円)以上の貯蓄をしているのは 25%にしか過ぎないことが報告された。 (TEC

40. 連邦準備制度理事会が実施した調査によると、アメリカのすべての成人のうちの 44%は「予想外の 400ドル(4万5000円)の出費をカバーする」ことのできる資金を持っていないことが分かった。

 

極めつけは、これだ。

44. 調査によると、今、アメリカ人の 40%が「資本主義より社会主義のほうが好ましい」と考えていることが判明した。michaelsnyderforidaho.com

 

どのような状況でこのアンケートが行われたのか、詳しく知りたいところではあるが、本当にこの数値が米国民の実態に近いのであれば、この国は早晩統合することができなくなって、崩壊してしまうのではないかとさえ思えてしまう。

 

トランプ大統領は、米国のプアーホワイトの経済状態の改善を公約に掲げて大統領になったわけだが、少なくとも2017年について言えばその公約が実現したとは言い難い。それどころか、格差はむしろさらに広がってしまったとしか考えられない。33.にある通り、アメリカの株式の総資産はトランプ氏が大統領に選ばれて以来、 5兆ドル(550兆円)以上増加しているのだ。その恩恵が大多数の国民には及んでいないと言わざるをえない。

 

米国の例は極端ではあるだろう。だが、すでに日本でもこのような兆候は見られるし、今後は同じような状況になりかねないことは、覚悟しておく必要がある。しかも、日本では米国以上にコミュニティが崩壊しており、日本の方が、社会に包摂性がなくなりつつあるのではという懸念もある。

 

 

物理インフラシフトの本格化/エネルギー革命

 

2018年が社会の大きな混乱が顕在化してきそうと考える理由には、直近のテクノロジーの影響の方向性にもある。と言うのも、これから2030年くらいまでに起きて来ることの中で、社会の屋台骨に関わると考えられることの一つが、社会のインフラ/システム/プラットフォームの入れ替えだ。

 

第二次産業革命によって出来上がって来たインフラ、すなわち中央集権型の電気通信、化石エネルギー、原子力発電、内燃機関による運輸、鉄道、水道、航空輸送だが、これが、デジタルによって統合されたスマート・インフラに今後そっくり入れ替わることになる。そして、5G通信インターネット、デジタル化された再生可能エネルギーインターネット、電気および燃料電池自動車によって推進されるデジタル化された自動モビリティ・インターネットで構成され、IoTによってノード同士が接続されたスマートなビル群の上に構築される。このあたりのイメージは、著書「限界費用ゼロ社会」*3で知られる、文明批評家のジェレミー・リフキン氏が昨今、ネットニュースサイトのNewsPickesや日経ビジネス等でも勢力的に語っているので、ご確認いただきたいが、リフキン氏に言われるまでもなく、昨今の趨勢をきちんとウオッチしている人であれば、「常識」の範囲だろう。

 

これまでは、デジタル革命=情報革命と見なされがちだったが、これからは、それが物理的なインフラ、目に見えるインフラを根こそぎ変えるフェーズに入ると考える。それが本格化するためには、「モビリティ」の領域が本格的に構造変化を起こすことが前提となると私は考えてきたが、どうやらそれが現実に具体化する情勢となってきた。(自動運転、EV自動車への転換の動向等)。2018年にどこまで顕在化するかを   正確に言い当てることは正直難しい。だが、2025年までということであれば、すでに主要プレーヤーの中では、具体的な市場投入案件として扱われてきている。そして、もちろんこれは狭義の「モビリティ」の問題ではなく、エネルギー革命の本格化を示唆している。

 

エネルギー革命の本格化ということになると、これまでのインターネット革命と比較して、格段に社会や経済に与える影響は大きくなる。それが見えてくると日本の場合も、「第二次産業で出来上がったインフラ」従事者、およびこれに乗っかった(戦後営々と構築され、高度経済成長期には全盛を誇りながらも、昨今では、変化を阻む遅れの象徴とも見なされるようになった)「日本的経営」に馴染んだ企業や従業員にも、自らの身に迫る危機や不安感としてリアルに感じられるようになるはずだ。

 

ただ、これは日本経済にとって悪いことであるどころか、昨年好調で本年も上昇が期待されている株高を引っ張る原動力ともなっている。具体的には、IoT、ロボティクス、自動運転、半導体等、まさに新しいインフラ関連企業は、今非常に潤っている。先行する世界の動向を見ても、もはやこの流れが逆転することはない。賽はすでに投げられたのであり、2018年は「旧インフラ」の終わりの始まりがはっきりと見えてくるだろう。そして、社会の混乱と不安感は従来に増して大きくなるこれを如何にうまく、良い方向で乗り切れるよう、それぞれの立場で身の振り方を考えておかないと、時が進むとともに変化の振れ幅は(ある時点からは幾何級数的に)大きくなっていくことはもはや避けることができないトレンドだ。

 

繰り返すが、2018年というショートレンジではっきりとこういうことが起きてくるという具体的な見通しを語ることは極めて難しいが、上記のように少し中期的なレンジでの傾向、そして、そこで予想されること、すなわち「2018年はこのインフラシフトがはっきりと見えてくる」「社会の混乱と不安感は非常に強くなる」ということであれば、ある程度自信を持って予測として申し上げることができる。

 

 

常識にもイデオロギーにも捕らわれない態度

 

問題はこれをどのように解決していくのか、あるいは、どのような解決のされ方が世界で起きてくるのかだが、安易な先祖返りやノスタルジーは論外だし、これまでの常識に捕らわれたままでは問題が解決するどころか、問題をこじらせてしまいかねない。

 

例えば、米国で言えば、この国の富の偏在が社会に及ぼす影響は、自由競争を至上の価値とするお国柄でありながらも、場合によっては、その国柄自体に変革を迫ることにもなりかねない。だからといってトランプ大統領のような技術進歩にあからさまに抗おうとする政策が有効とは思えない。それ以前にトランプ大統領は、この歴史上類を見ない変動期を乗り切る世界のリーダーとしての資質に疑問を感じざるをえず、米国の行く末を大きくミスリードしかねない。

 

一方で、中国の習近平国家主席など、自由主義陣営から見ると恐るべき覇権国家の親玉として忌み嫌う人が多い事は承知の上で言えば、むしろリーダーとしての資質はトランプ大統領を凌ぐと言っていい。直近でも、世界最悪と言われたMP2.5の数値を短期間にすっかり改善して見せたり、中長期的にも先端技術の促進策はもちろん、徹底した情報収集/情報管理を通じて「社会信用体系」を構築し、「約束を守らない国」として知られる中国を「約束が守られる国」へ矯正しようとするビジョンなど、時代の要請を理解し、中国の強みを最大限強化する方向性がはっきりしており、非常に合理的だ。直接真似をすることは難しいが、日本にとっても大いに学ぶべきところがあることは認めるべきだと思う。

 

このごとく、従来のイデオロギーや思想、歴史的経緯等に過度に捕らわれているようでは、問題の本質も、進むべき方向も見えてこない。そういう意味では、日本にとっても、理系脳以上に今こそ文系脳がフル回転すべき時で、存在価値も大きく問われるようになる」ということを予測に加えておいても良さそうだ。

*1:

フラット化する世界 [増補改訂版] (上)

フラット化する世界 [増補改訂版] (上)

 

 

*2:

Thank You for Being Late: An Optimist's Guide to Thriving in the Age of Accelerations

Thank You for Being Late: An Optimist's Guide to Thriving in the Age of Accelerations

 

 

*3:

限界費用ゼロ社会 〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭

限界費用ゼロ社会 〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭

 

 

世界を理解するための入り口?「カイロ大学」

 

今は必要ないのか、今だから必要なのか

 

敬愛する著述家で冒険家でもある田中真知氏がブログでとある本(「カイロ大学*1 )を紹介しているのを見て、ハッとした。今、この切り口(エジプトのカイロにある有名大学に関する著作)が非常にタイムリーだと感じたからだ。少なくとも、今の自分にとっては、この角度から中東問題を見直してみることが、この複雑怪奇な問題の理解を深めるために(というより、少しでも理解に近づくために)非常によい切り口になるであろうことを直感した)。

 

といっても、ほとんどの人には、私が何を言いたいのかわからないだろうし、そもそも、大半の日本人にとって、カイロ大学と言えば、小池百合子東京都知事の出身大学としての印象くらいしかないだろう。(それさえもピンとこないかもしれない)。だから、この本の企画が商業的に有効だったのは、小池氏が都知事に当選したころ、あるいは、先の総選挙で小池氏が「希望の党」を立ち上げて国民が一時的に非常に盛り上がり、政権交代の騎手となるとの幻想がかきたてられた時期までなのでは、と思われているはずだ。まあ、実際だれが考えてもそうだろうから、小池氏の賭けが失敗に終わり、あれほど膨らんだ期待も萎みきったばかりか、残るのはネガティブなイメージばかりということになれば、本書のセールスにも悪影響しか残っていないのではと、訝ってしまう人の方が多いのも無理はない。


それ以上に、9.11同時多発テロイラク侵攻、「イスラム国」が急速に膨張していた頃等であれば、もっと切迫した意味で日本人にも、カイロ大学で行われている教育や、卒業生の思想について知りたいというニーズがあったようにも思える。というのも、この大学は、これらの事件に絡む著名な人物を数多く輩出しているからだ。だが、イラクにある「イスラム国」の拠点の中心部を政府軍が奪回したというニュースが流れたのは8月のことだが、喉元過ぎれば熱さをすぐ忘れてしまう日本人は、あれほど大騒ぎした中東の騒乱に対しても、そろそろ関心が薄れかかっているように見える。(少なくともそのような空気が支配的だろう)。そういう意味でも、今がセールスに適正な時期とは言えないし、読むべき必要性があるとも思えない、というようなことを、「空気がよめる」普通の人のなら言うのではないか。

 

だが、そのような空気がどうあれ、中東問題は本当にもう沈静化したのだろうか。事実はその真逆だろう。世界はトランプ大統領という旧来の常識が遠く及ばない怪物に掻き回されていることもあり、中東問題もこれまで以上にこじれつつある。次の暴発がいつどこで起きてもおかしくない。例えば、トランプ大統領は、オバマ大統領の時代のイランとの核合意破棄を宣言したり、つい最近でも、イスラエルの首都をエルサレムと宣言した。これを受けて、パレスチナ自治区や、中東、アジア等でのイスラム教徒の抗議デモが沸騰している。

 


世界を理解したいという渇望

 

一体今後の世界をどう理解すればいいのか。中東問題に限らないが、これまで積み上げられてきた政治の常識はもはや通用しない。出口の見えない不安感は、日本でも非常に大きくなってきている。それに呼応する現象と考えられるのが、2017年に思想書等の硬派な人文書が非常によく売れたことだ。小林秀雄賞を受賞した思想家の國分功一郎氏による「中動態の世界 意志と責任の考古学」*2毎日出版文化賞を受賞した哲学者の東浩紀氏の「ゲンロン0 観光客の哲学」*3はじめ、非常に印象に残り、しかもよく売れた名著が数多く世に出た。書籍や雑誌全体の売り上げが激減している中、ちょっとした事件と言っていいレベルだ。世界を根本的に理解し直す必要がある、そういう渇望は実のところ今とても大きくなってきている。本書(「カイロ大学」)はその渇望に連なる需要の一端を満たす切り口を持つように思えるのだ。

 


混乱と闘争に生き抜く強さ

 

あらためてカイロ大学の出身者で、テロに関わる重要人物を列挙してみると、これが本当にすごい。


オマル・アブドゥルラフマン(世界貿易センタービル爆破事件の首謀者)
ハメド・アタ(アルカイーダのテロリスト。同時多発テロの首謀者/実行犯)
アイマン・ムハンマド・ラビーウ・アッ=ザワーヒリー(アルカイーダの最高指導者。)
サダム・フセイン(元イラク共和国大統領)
中田考イスラム法学者。「イスラム国」に戦闘員として参加を希望する日本人学生に、「イスラム国」司令官に参加を仲介。但し、中田氏がテロリストというわけではなく、中立的な第三者の立場。)
マハムード・アルザハル(イスラム主義組織ハマスの共同創設者)

 

これだけ並べると、まるでカイロ大学というのは、世界のテロリスト養成大学のように見えてしまうかもしれないが、一方で平和運動に貢献した人物も数多く輩出している。

 

プトロス・ガリ(アフリカ初の国連事務総長
ヤセル・アラファト(元PLO議長。ノーベル平和賞受賞)
ムハンマドエルバラダイ(元IAEA事務局長。ノーベル平和賞受賞)
ワエル・ゴニム(2011年エジプト革命に貢献。ノーベル平和賞候補)
アハマド・マヘル(エジプト民主化運動の若きリーダー)

 

著者の浅川氏が述べているように、カイロ大学は、世界で一番「混乱」に強い卒業生を輩出する場所となっていて、実際にそれを卒業生が実証して見せてくれているように思える。ここに列挙された錚々たる人物を見ると納得がいくはずだ。また、カイロ大学は「中東のハーバード」とも「混乱と闘争で生き抜く強さで世界一」とも言われているというが、後者の「価値」こそ、今後の世界で何より重要視されて行くに違いないと考えるのは私だけではないはずだ。

 


命がけのアイデンティティの探求

 

本書で私が特に印象的だったのは、歴史的にこの大学の教職員や学生が苦闘し、模索している自らのアイデンティティの探求だ。

 

アラブ人
世界的な文明発症の地としてのエジプト人
イスラム教徒(スンニ派シーア派、その他)
西洋主義
軍閥ナショナリズム

 

エジプトだけではなく、周囲の国々からの優秀な留学生を迎え、激しい議論の応酬を繰り広げる。そのような環境の中から、感染力の強い思想を練り上げ、優秀なリーダーが育ち、国を超えて連帯していく。しかも単なる抽象度の高い「遊戯」とは正反対の、生死をかけた闘争の中でこれが行われている。昨今話題になった日本の学生のデモをこれに対比させるとその違いは明らかだろう(SEALDsとは何だったのか、カイロ大学での政治活動との対比で考え直してみることも有効に思える)。

 

それは、外側からでは、全く理解も想像も及ばない何かだ。本当に理解したければ、内側にいて、この場を体験すること、すなわち実際にカイロ大学のような場所に身を置くことだろうが、せめて、カイロ大学という切り口で、ここで起きていることを理解する努力をしてみるというのは、一つのきっかけになるように思える。本書を読むとその入り口が開いていることを感じることができる。


日本から海外の大学への留学生は著しく数が減っていると言われて久しい。それは、日本という国にとって、やはり本当に危機的なことであることを、あらためてひしひしと感じてしまうのも、ある本書を読むことの「意味」の一つと言えるかもしれない。

 


グローバリズムの世だからこそ

 

グローバリズムというと、世界のルールが統一され、文化の差異が目立たなくなり、世界が均一の場所となることをイメージする人は今でも少なくないが、残念ながら、それは大変ナイーブな幻想というしかない。ルールが取り払われて、人の交流が増えた結果、実際に起きたことは、こういう場でこそ人は自らのアイデンティティを意識し、ちょっとした違いに敏感になり、その結果紛争も増えるということだ。だから、繰り返すが、そのような紛争や混乱に強いことの重要性は今後ますます高まって行く。カイロ大学に実際に行くかどうかは別としても、もっと理解を深めていくことの意義は特に今の日本人にとって大きいと思う。

*1:カイロ大学 (ベスト新書)

カイロ大学 (ベスト新書)

 

 

*2:中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

*3:ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

AI(人工知能)で本当に勝てる企業とは?

 

 

具体的な戦術に落とし込まれているか

 

AI(人工知能)等の新技術は、昨今、経営者なら誰でも口にするような(というより一応口にしておかないと恥ずかしいとみなされるような)バズワードになってきた。この技術の本当の意味もわかりもせずに口にする人が大量に溢れるようになった現状を横目で見ていると、次に起きることを言い当てることができる気がする。おそらく、遠からず「言葉の過剰」のバブルは弾け「実際の達成」との落差に愕然とすることになり、多くの人が失望の憂き目を見ることになるだろう。だからといって、AIが企業の競争戦略上無用ということではなく、むしろまったくその逆だ。この時点で、AIによって勝つ企業と負ける企業が峻別されていると考えられるからだ。勝ち残る企業であるためには、現時点で漠然と口にしているようでは話にならない。AIを自社の競争力向上のために、どのように応用していくのか、どのような準備を進めて行くのか、というような具体的な戦術に落とし込まれているようでなければ手遅れだ。少なくとも手遅れになる可能性が高い。

 

 そういう観点で少し冷静に市場をウオッチしていると、大半の日本企業が具体性どころか、方向喪失して右往左往している様が見えてくる。例えば、その典型例が、自社の方向性も決まっていないのに、いきなりAIを専攻したエンジニアを採用しようとしたり、自社のエンジニアにAI講座を履修させたり、経営者が具体的な事業プランもなくシリコンバレーの有力企業を表敬訪問するようなことだ。もちろんそのような行動自体がまったく意味がないとまでは言わないまでも、そのレベルで止まってしまっている企業は、断言してもいいが、「来るべき選別の時」を乗り切ることは難しい。

 

 

正しいデータ戦略推進が鍵

 

では、その選別の時を乗り切ることのできる企業はどんな企業なのか。生き残る企業の共通点として指摘できる特徴はあるだろうか。私が考える共通点は、「正しいデータ戦略を推進していること」である。

 

先日、最近は IT批評家として幅広く活動している、尾原和啓氏による、News Picksの有料記事の寄稿の一節が、かねてから私自身述べていた論旨に非常に近いため、我が意をえた思いをした。 尾原氏はAIの強みは「データ×アルゴリズム×計算インフラ」で決まると述べる。このアルゴリズムの部分は、Googleのような米系企業が非常に強力な競争力を発揮して世界に覇を唱えていることはご存知の通りで、例えば、Google傘下のDeep Mind社が開発したAlfaGoが囲碁の世界チャンピオンを撃破して世界を驚かせたことは記憶に新しい。今やAI専攻の学生はメジャーリーガー並みの報酬で先進企業に迎えられ、激しい開発競争が繰り広げられているわけだが、ここに今から日本の普通の企業が新規参入することは極めて難しいと言わざるをえない。一方、計算能力のほうも、スーパーコンピュターや、AIチップ等の能力向上の競争に見られるように激しい競争が繰り広げられており、こちらも新規参入は難しいのが現実だ。(余談だが、例外として、日本のスーパーコンピューターの少人数で後発のベンチャーでありながら、世界クラスの競争力があって非常有望視されていた、「Pezy computing」の斉藤元章社長は、詐欺の容疑で逮捕されてしまった。事情通からは、日本は大丈夫か?という嘆きが噴出している。)

 

ところが、このアルゴリズムと計算インフラは、AIのビジネス利用を目論む参入者が自社開発せずとも、昨今では、GoogleAmazonマイクロソフトのような会社が、クラウドサービス(GoogleTensor Flow等)の形で提供しており、プログラムを書いたこともない文系出身者でさえ、AIを使うことができるようになっているという。従って、AI利用という点では、競争力の焦点は、データ、それも、AIが育ちやすくなるような学習データが自然と湧いてくるような構造をつくることに移ってきている。これを短くまとめて尾原氏は「学習データが自然と独占できる生循環をつくること」と述べている。そして、その「3つのパターン」として、gumi社長の国光宏尚氏の発表を引用している(コストダウンの生循環、付加価値の生循環、需要アップの生循環)。

 

いずれも、AIによって予測・自動化ができて、付加価値が高いプロセスを見極めてAIの機能を織り込み、その付加価値があるがゆえに、利用者がそこに集まり、集まってデータの軌跡を残すから益々AIの精度があがり、付加価値も高まるという循環を意図したものだ。具体例として、Google Maps等の例があげられているが、Google Mapsが大量のデータをもとに渋滞予測をすると、その精度が高いが故にたくさんのユーザーがこれを利用し、たくさんのユーザーの情報が収集できることで、リアルタイムの渋滞を感知できるようになり、そのようなデータがあれば渋滞予測の精度が上がるばかりか、ドライバーが抜け道を使う時の情報がリアルタイムでわかるため、本道に戻す誘導のタイミングの精度があがる。そうするとさらに多くのユーザーがGoogle Mapsを使うようになる。このような正の循環の存在とメリットは、すでに実際にこのアプリを使っている人なら、誰しも実感しているはずだ(かくいう私もすごく実感している)。

 

 

GAFAに負けないためには

 

ただ、このような大規模なインフラに関わるサービスは特に、結局のところ、規模の経済がものを言うから、GoogleAmazonフェイスブックのような企業(昨今では、これにAppleを入れてGAFAと略称されることが多い)が市場を席巻してしまう可能性が高い。規模を大きくすることのメリットがある限り、ベンチャー企業が先行しても、企業買収等によって巨大企業がこれを飲み込んでいく力学には抗しがたいように思われる。

 

そういう意味で、日本の「普通の企業」が今からでも参入できて、しかもある程度成長しても、GAFAのような企業に押しつぶされないためにはどうするべきか、という条件を加味した上でなければ、結局のところ参入には現実味がないことになる。そのため、情報全般ではなく、あるカテゴリーに特化したり、日本の文化(含むサブカルチャー)を誘因の核としてユーザー投稿や視聴ユーザーを収集できるしくみをつくることが(料理レシピのコミュニティウェブサービスクックパッドや、日本独自のオタクカルチャーを誘因の核として投稿や視聴ユーザーを集めるニコニコ動画等が具体例)、GAFAとの直接の競合を回避し、競合力を中長期的に担保する拠り所となる、ということを私のブログ記事でも何度か述べて来た。

 

あるカテゴリーに特化して、「プラットフォーム・オン・プラットフォーム・サービス」(アップルやGoogleスマホのプラットフォームの上で機能するプラットフォーム等)を作り上げる、という意味では、ライドシェアのウーバー等もその代表例ではあるが、クックパッドのように、コミュニティが育つように仕掛けて、集まった熱心なファンのエネルギーを投稿のエンジン(原動力)としたり、ニコニコ動画のように、日本のサブカルチャー(オタクカルチャー)を理解してサービス設計するなど、より特定の(この場合日本のユーザー)にアピールするほうが、競争上の防壁を作りやすい。

 

この戦略のキーワードを並べると、「ユーザーコミュニティー」「プラットフォーム」「日本文化、習俗、思想等」ということになるが、これをうまく生かしてベストミックスのサービスをつくり、ここに、「学習データが自然と独占できる生循環をつくること」を工夫していくことが今後の日本企業の競争戦略上の一つの鍵になると考える。

 

 

無印良品は優等生

 

ただ、困ったことに、例にあげた、クックパッドニコニコ動画の業績が最近芳しくないようだ。それでも、クックパッドは内紛、ニコニコ動画は「画質の悪さ、重さ」が原因のようなので、ここで述べているロジックを毀損するものではないと考えられる。とはいえ、移ろいやすいユーザー心理に立脚することの難しさ、特に、安定的な収益モデルとすることの独自の難しさが露呈していることは否定できない。日本文化を背景にして成功したと評価される「ポケモン」にしても、爆発的な人気はあくまで一時的で移ろいやすいことは確かだ。

 

もう少し、安定的で普遍的という意味ではネットサービスではないが、(株)良品計画が提供する「無印良品」など、日本文化をベースとして、日本発世界標準として成功している典型例にあげることができそうに思える。良品計画の松﨑曉社長は、「無印良品の商品は、無駄を省いた日本的な『わびさび』なものと消費者に受け止められ、特徴を出せている」と述べている(日本経済新聞、2016年3月20日)が、確かに、そのシンプルさの中に、日本的な美意識が実現されていることを感じることができるし、市場でもそのように評価されてもいる。

 

(株)良品計画は、AI等のハイテクを押し出しているわけではないが、実は、このような成功の在り方にこそ、来るべき本格的なAI普及の時代の勝ち組になる前提条件が形成されている。無印良品は自らを「アナログ」と称しているようだが、実際の活動をつぶさに観察すると、「ユーザーコミュニティー」「プラットフォーム」「日本文化、習俗、思想等」のキーワードがすべて生かされていることが見て取れる。この先には、AIを最適利用して次の大きな競争上の優位につなげていく条件がそろっているように私には見える。

 

 

急いだ方がいい

 

「正しいデータ戦略を推進していること」が重要と述べて来たが、もちろん、「アルゴリズム」や「計算インフラ」、あるいは、情報収集インフラ等の部分についても、アプローチは様々にありうる。戦略性のあるAIに対する取組み手法のほうも、まだ工夫次第で競争できる余地はある。ただ、いずれにしても、今重要なのは「正しく理解して、具体的な戦術に落とし込む」レベルまで早急に到達することだ。あまり時間は残されていない。急いだ方がいい。

日本の異界(名古屋)の持つポテンシャルを生かす未来

 

◾️ 日本の異界

 

 「日本の異界 名古屋」*1という本のタイトルの奇抜さに思わず目をとめてしまった。私も、昔、仕事の関係で7年くらい愛知県に住んでいて、その文化の特殊性に、辟易し、反発しながら、時に包摂され、それまで真面目に振り返ることのなかった「文化」という非常に高い壁に直面して悶々としていた体験がある。そのためもあってか、当時のことが走馬灯のように浮かんできて、つい購入してしまった。

 

よく見ると著者は、かつて「蕎麦ときしめん*2という名古屋の特性を非常に巧みに表現することで喝采を受けた本の著者でもある、清水義範氏ではないか!だとするとこれは単なる上滑りのマーケティング本でも、単なるルサンチマンのはけ口でもなく、洒脱でリズミカルな文章の妙味を期待できると直感した。そして、実際その通りだった。

 

 

◾️ 誰も名古屋には行きたくない?

 

名古屋ネタですでに何冊かの著作のある清水氏が、今回また名古屋本を書くに至った理由は、2016年の6月に行われたインターネットによる「都市ブランド・イメージ調査」*3の調査結果だという。このような調査は昔からあって、今回も「文化不毛の地:名古屋」を名古屋人が自虐的に調査データで実証してみせる、というような調査の焼き直しなのではないかとも思っていたが、調査結果を見て驚愕してしまった。名古屋市への訪問意向指数(訪問したい指数-訪問したくない指数)があまりにぶっちぎりの最下位なのだ。下から3位は福岡市25.7ポイント、大阪市16.8ポイント、何と名古屋市は一桁以上低い1.4ポイントだというそのような傾向があることは十分認識していた私も、この数値を見て、そのまま捨て置けなくなってしまった。

 

もっとも、この調査結果は、すでに旧聞もいいところだ。この「衝撃」を受けて週刊誌の特集記事が出たり、ブログ記事も多数出たようだ。そういう意味では今まで気づかなかった自分の情報感度の低さに恥じ入る思いなのだが、それでもあらためて議題として取り上げておきたい気にさせられるほど、この調査結果にはインパクトがある。   

 

この結果を見て、私が一番初めに知りたいと思ったことは、「どうしてこれほどまでに数値が低くなってしまったのか」という点だ。昔からこのような傾向があったとはいえ、さすがに私の知る名古屋の評価はここまでは低くはなかったはずだ。アンケートのバイアスや何等かの不備がなければだが、何か私が知らないことが起きているのか。だとすれば、一体何が起きているのだろう。残念ながら、本書から(他の情報をあたっても)直接回答を見つけることはできなかったが、ある程度の仮説を思い浮かべる役にはたったように思う。

 

◾️ どこよりも住みやすい名古屋

 

 本書でまず私が注目したのは、清水氏の主張する次の重要な指摘だ。すなわち、他所から訪問したくない/する興味のない名古屋だが、今住んでいる人/名古屋の地元民(あるいはこの文化や習俗を受け入れしまっている人)にとっては、名古屋はどこよりも住みやすい場所であると感じていることだ。だから、地元民は、他所から人を招くことにほとんど興味を持っていない。

 

今、自分自身が観光地である鎌倉に住んでいるから余計感じるのだが、住民としては他所から来る人が多すぎることは決してうれしいことではない。混雑、騒音、犯罪等の増加が不可避だからだ。だが、それでも地元の経済の活性化に寄与すると思えばこそ、アンビバレントな思いや、地元民どうしの意見対立を乗り越えて、他所からの訪問者や移住者の増加を受け入れる。たいていは観光客を迎える必要がなく自足している名古屋のようになろうと思ってもなれないのが実情だ。ただ、何らかの策で本当に名古屋のようになれるのであれば、今の日本の危機的と言われている状況に対する一つの解決策を名古屋が提示しているようにさえ思えてくる。

 

清水氏によれば、名古屋で生まれた人たちは、名古屋を出ないで地元の大学に行き、地元で就職する人の比率が高く、その結果として、小学校や中学校くらいのころにできた人間関係が一生続くという。そして、緊密に助け合い、その関係の絆の中で生きていくことができる。さらには、結婚しても夫婦ともに地元という人が多いから、両親と住む人が多く、同居に伴う葛藤もどうやら他地域に比べるとずっと少ないようだ。しかも、名古屋では早く「大人っぽくなること」が若者の一般的な価値観というから、親の世代に反発してやんちゃな若者文化を作り上げるというような気運に乏しい変わりに、周囲の大人たちに溶け込みやすいと言える。

 

かつて、私もこの地域に住んでいたとはいえ、ここまで一般化して語ることができるほどの経験/情報はないが、それでも、地元出身の友人たちが、とにかく地元の人達と普段から非常に緊密なつながりを持っていることはひしひしと感じたものだ。最初のうちは個別の友人の個性かとも思ったが、少なくとも私の周囲の友人たちには、誰にもそのような傾向があったことを思い出す。名古屋の友人宅に行くと、ご両親が気軽に登場して話しこみ、場合によっては、そのご両親と直接連絡を取り合う友人のようになることも少なくない。考えてみるとこれは他地域ではあまりないことだ。しかも、その頃にはまだSNSなど普及していなかったから、今のように「Facebookで友達になった」というような気軽な関係とはわけが違う。

 

◾️ 日本で一番「安心」が確保されている?

 

 今の名古屋が相変わらずこんな様子だとすると、今日および今後の日本の問題として盛んに喧伝されている、コミュニティの崩壊」「少子化」「孤独な老人」というような問題に対して、一番耐性があるのは名古屋ということになるのではないか。清水氏自身が述べているように、過剰なほどの「べたべたした人間関係」が苦にならなければ(苦になる人も私を含めて多いと思うが)名古屋では、今日本から急速に失われつつある「安心」がどこよりも確保されているようにさえ見える。もっとも、どの地域でも地元のコミュニティを維持したいが、仕事がなくて、若者が他地域に流出してしまうことが問題になるわけだが、名古屋には地元に仕事がある(逆に言えば、地元にしっかりと雇用機会があることがこの独特な文化を支える重要な要因と考えられる)。

  

だから、名古屋の地元民は、この環境を変えてしまうようなよそ者に来て欲しくないと思っているというのも、よく理解できる。積極的に排除するかどうかはともかく、積極的に受け入れるインセンティブはないのだ。となれば、同質性の高い者どうし、ハイコンテキストなコミュニケーションが交わされ、文化は保守的かつ閉鎖的、よそ者が益々入り込みにくい構造になるのは当然とも言える。よって、この傾向がスパイラル状に強まることになった結果、私の昔の認識より、今はもっとよそ者が入り込みにくい、あるいは訪れるインセンティブのない場所になっているということではないのか。検証はできないが、ありそうな仮説だと思えるのだが、どうだろうか。

 

◾️ 持続可能とは言えない

 

では、今後の日本が目指すべきなのは、名古屋のような場所/あり方なのだろうか。昨今の巷の議論に耳を澄ましていると、ダイレクトに「名古屋」とは言わないまでも、このような未来像を持っているようにしか考えられない「識者」は少なくない。世界はすでにグローバルで競争できるエリート層と、そこにはついていけず、自分の生まれた場所を離れたくても離れることができない層(下層)に二極化しつつある。この「下層」のロールモデルとして、名古屋は適当に見えるのだろう。

 

繰り返すが、この議論が成立するためには、そこに仕事があることが条件となるのだが、名古屋の場合、日本でも有数の製造業出荷実績を誇り、製造業を中心としたしっかりとした企業とその仕事がある。しかも、工場だけではなく、開発拠点や営業本部を含む本社機能があるから、いわゆる「エリート層」の担う仕事も多い。そうしてみると、名古屋には、戦後の日本の発展を支えた社会モデルが崩壊を免れて最後まで残っているとも言えそうだ。なんといってもこの地域には、戦後の日本の輸出産業の中核を担ったトヨタグループがある。清水氏は、名古屋出身ということもあるのだろうが、大いなる田舎:名古屋はそのままでいいではないか、というご意見のようだ。まあそれは私も理解できないわけではない。少なくとも、ここに無用の混乱の要素を持ち込んでも、今より良くなるとは考えられない。但し、これが持続可能なモデルなら、という条件付きだ。だが、この条件が問題だ。

  

今後の持続可能性、という一点において、正直私は悲観的だ。トヨタを代表とする日本の製造業がそのまま生き残れる可能性は低いと考えているからだ。それは会社としてのトヨタに生き残れる可能性がないと言っているのではなく、もがきながらも生き残るであろうトヨタは、戦後の日本を支えた代表的ロールモデルではなくなっており、大きな変化を余儀なくされているだろうと考えているのだ。過去のブログ記事でも何度も語ってきたように、今後、世界市場で起きているデジタル技術革命を逃れられる企業はなく、その勝者は、そこでの勝利条件を理解して最大限生かすことによって世界に覇を唱えているGoogleやアマゾンのような会社だ。となると、いかにトヨタであれ、生き残っているのであれば、地元の雇用を頑なに守り、地域のコミュニテイの守護神のような今の顔を維持することは難しいと考えざるをえない。

 

そのため、今後(地方都市を含めた)都市のあり方を検討するにあたっては、デジタル技術革命を乗り切れる企業(Google、アマゾン、UberAirbnb等)およびそこに集う従業員にとって、拠点を置きたい/住みたいと思うのはどんな場所(都市)なのか、という観点に焦点をあてざるをえなくなると思えてならないのだ。

  

◾️ 豊田市の特殊なモデル

 

ただ、このような議論を展開すると、どうしても、鉄筋コンクリートを利用し、平面と技術と伝統から切り離された合理性を追求し、規格統一によって均質な製品を効率的に大量生産する、モダニズム建築のことを想起する人が今でも少なくない。実際、戦後の日本もそのようなコンセプトで開発された都市ばかりだった。名古屋圏で言えば、トヨタ自動車の本社のある愛知県豊田市など、まさにそのようなコンセプトの代表格のような街と言える。少なくとも私が在籍(在住)していた時は、そのような都市づくりと共にある「豊かな社会」の理想が何の衒いもなく語られていた。ただ、トヨタの場合が特殊なのは、モダンな住宅&街づくりと、会社コミュニティの同心円状に展開する密接な地域コミュニティが合体することによる「豊かな社会」だったことだ。そこで語られていたのは、自由主義経済学者のフリードリヒ・ハイエクが批判したような「社会設計主義」の一種だったと言っていい。自由主義経済をリードする先端企業の表の顔と違って、この場所は、社会主義的な「設計」と「統制」がはばをきかせていた。私を始め、その思想に強い違和感と居心地の悪さを感じていた人は少なくなかったが、一方で心酔している人も決して少なくなかった。ここの思想を受け入れた社員=住民にとっては安価で清潔かつ会社に最寄の住宅と自家用車を取得でき、さらには、強力に価値統一されたコミュニティがあり、会社に在籍している限りは「安全」で「安心」、ということになる。箱物としての街と住宅だけあっても、コミュニティがなければ人は安心できない。清水氏が指摘するような名古屋コミュニティとは違うが、同じ名古屋圏の中にありながら、ここは別種の「安全・安心モデル」が支配していた。

 

だが、その経営思想や文化は、先に述べたような(Google等の)企業のそれとは対極にあると言わざるをえない。それは私自身、この自動車会社勤務の後、IT系の雰囲気が濃厚に漂う時代の今所属する会社に移って、同業者との交流が増えることで身を持って知ることになった。あらゆる点で違う。違い過ぎる。早晩維持が難しくなる(と私が考える)豊田市を含めた名古屋圏の文化とは、これとは水と油以上の違いがある。

 

◾️ 収奪から育成へ

 

起業家/実業家の古川健介氏は、メルマガ記事にて、米国のプログラマーで、シードファンディングのY Combinatorの創立者としても知られる、ポールグレアムのエッセイ「都市と野心」*4を引用して、都市は不特定多数の複雑かつ巧妙な方法で人々にメッセージを送り、そのメッセージは都市によってぜんぜん違うこと、ニューヨークは「もっとお金をかせげ」「もっとカッコよくなれ」であり、シリコンバレーは「もっと影響力を持て」「世界を変えろ」というメッセージを発していると彼が述べていることを紹介している。その文脈で言えば、古川氏によれば、東京が発するメッセージは『真面目に遊べ』なのだと言う。しかも、その東京は世界で有数のクリエイティブな都市と評価されているとを紹介している。

 

共産主義社会主義のイデオローグが理想とした「社会設計主義」が有効ではないことは、ほぼ世界の常識として定着したと思うが、都市設計についても同様に、合理性ばかりを追求して、社会や土地の発生するメッセージを何の脈絡もなく強引に変えてしまうようなモダニズム建築は、少なくとも「人が住みたくなるかどうか」という点においては、もはや有効とは言えない。そう考えれば、ポール・グレアムの言う、都市や地域のメッセージは設計してつくるものではなく、『探し、栄養を与え、育てる』ことを主眼に考えて行く必要があることになる。

 

それは、「効率」「清潔」等の単一価値を土地に強引に押し付けるような手法とは正反対で、先ず長い歴史を経て、その土地の地層に溜まって熟成した習慣、習俗、感情等が発するメッセージに注意深く耳を傾け、探すところから始める必要がある。もちろん、そのように苦労して探しても、結果的に経済価値につながる成果をえることができるのか、との不満も出てきかねないが、幸い、東京もそうだが、日本の持つポテンシャルは、その点では非常に大きい。この点の説明をし始めると、今回の記事をいつまでたっても閉じることができなくなるので、今回は控えておくが、すでに世界で高く評価された「クールジャパン」についても、その成果物の上澄を掬って海外に持ち込むだけではなく、それが出てくる場所/土地が育つような取組として継続的に成果物を生むしくみを作っていく必要がある。それはまた世界市場でさらなる大きな価値を生むポテンシャルを持っている。しかも、そこに人間がどのようなコミュニティを作り生活していくのか、生活文化を豊かにしていけるのか、という点と不即不離であり、人間不在の「モダン」とは正反対のモデルということになる。

 

◾️ 今の名古屋に繋がる歴史

 

そのように述べると、名古屋圏はもはや変わることもできず、日本の工業の衰退とともに衰退が運命づけられているように読めてしまうかもしれない。だが、そうあきらめたものでもない。名古屋圏が今のように、「ケチ、お金に意地汚い、効率一辺倒」というようなイメージになったのは、清水氏によればそれほど古い話ではない。

 

江戸中期、八代将軍吉宗は、質素倹約を旨として強引に緊縮財政を推し進めたわけだが、その当時尾張藩は七代藩主徳川宗春の時代だった。宗春は、反吉宗思想の持ち主で、治世者たるもの豊かな生活文化を活性化して人々を楽しませるべきで、倹約だけでは人を思いやる心が薄くなり、人々は痛み苦しみ、不都合もあると考えた。そして、実際に、派手な政治をして、人々にもパッと遊べと号令をかけた結果、全国から人が集まり、人口は治世中に40%も増えたという。そして、日本中が注目するほどの繁栄を見せた。だが、この政策の成果が出る前に、尾張の経済は借金まみれになってしまった。将軍吉宗はこれを責めて、最終的に宗春は幕府から謹慎処分を受けてしまう。残された名古屋人は、宗春を反面教師として、吉宗のように倹約引き締めの非常に慎重で保守的な、無借金を理想とするような経営に揃って鞍替えしてしまったというのが清水氏の見解だ。確かに今の名古屋の経営者は、吉宗のような人ばかりで宗春のような人を見ることは希だ。

 

◾️ 吉宗から宗春へ

 

だが、宗春の影響はしっかりと残っていて、名古屋人の生活文化は非常に豊かなのだとも言う。名古屋人は生活を豊かにして楽しむことに積極的であり、観劇のような賑やかのことが好きで、茶の湯のような習い事も好まれ、外食文化が根づき、お菓子文化も色濃くある。宗春の時代の大いに楽しめ、という賑かな残り香があるのだというのが、清水氏の見立てだ。宗春に遡るのかどうかは別としても、豊かな生活文化が残っていることは確かだ。思えば名古屋のこの二面性は非常に興味深い。そして、何かのきっかけがあれば、この豊かな生活文化に『栄養を与えて、育てて』さらに大きく開花させることができる可能性があるということになる。うまくいけば、人を呼び込むこともできるはずだ。宗春がそれに成功したように。

 

このように考えて来ると、旧来の製造業ベースとしたモデルに捉われる必要はないし、むしろ、脱工業化の時代に適した、というより、来るべきデジタル革命本番の時代に備えて、土地に残る文化を積極的に育てていくことを意識していくことで、今のところ人を呼び込むという点で圧倒的に最下位の名古屋が、反転、次代の日本を切り開いていく可能性もあるように思える。願わくば、私自身にとっても懐かしい土地、名古屋がこのような意味で、21世紀をリードして行って欲しいものだ。

風前の灯の「高品質日本」のイメージ

 

 

◾️優良企業の品質偽装事件

 

神戸製鋼所の品質データ改ざん事件は内外に非常に深刻な影響を与えている。偽装は非鉄金属のみならず、主力事業の鉄鋼にも及んでいることが判明しており、さらに別会社である建設機械の「コベルコ」等にも飛び火しているというから、特定部門に限定された問題ではない。しかも、OBの証言によれば、偽装は40年前から常態化していたということなので、そうなると、経営を含めて会社の体質自体の問題ということになる。偽装の悪影響を被る出荷先企業は500社を上回り、しかも顧客は海外企業にもおよび、訴訟の可能性も取りざたされており、直接的な損害だけでも 膨大な金額が積み上がる恐れがある。だが、それ以上に、顧客に対する信頼が失われたことによる将来の損害は計り知れない。もはや、神戸製鋼所は単独では生き残れないと指摘する向きもある。

 

 

  日本企業の️高品質イメージを毀損してしまう

 

世界の市場がつながってしまった現在、日本企業は低コストで競争することはできない。一方で、イノベーションによる市場創造や、新しいビジネスモデルによって競争することも苦手だ。だが、これまでに営々と築いてきた「高品質の日本企業製品」というイメージはかろうじてまだ残っているし、現場で真面目にコツコツ改善に取り組んで、世界一の品質を実現して、このイメージを崩さず競合力の拠り所とする、これならできそうだ(そもそも日本企業の強さは、経営トップではなく、現場の力にあったはずだ)。その点、神戸製鋼所と言えば、「歴史があり、人材も一流で、製品の品質は世界一、官公庁を始め業界での信頼も厚く、世界レベルの熾烈な競争下次々と敗退していく日本企業の中にあって、古き良き日本企業として21世紀にも生き残り日本のプライドをアピールしてくれる存在」と認識されていたはずだ。ところが、そのような優良企業の代名詞とも言える企業が自らのイメージに泥を塗ることになってしまった。

 

しかも、ここしばらく、神戸製鋼所と同様の日本の優良企業が、実は裏では企業ぐるみで品質の偽装に手を染めていたと思われる事件が相次いでいた中で起きただけに、発覚の時期も最悪だった。このままでは日本企業の「高品質」イメージも音を立てて崩れてしまいかねず、ただでさえバブル崩壊以降「一人負け」と揶揄される日本経済がさらに奈落の底に転落しかねない。突然冷や水を浴びせられたような気がしたのは、一人私だけではなかったはずだ。

 

 

◾️君子豹変す?

 

近年の、品質に関連した不正に係わった企業名を挙げてみると、本当に歴史のある一流企業の名が並ぶ。昨日今日出てきたベンチャー企業などではない。

 

日産自動車三菱自動車旭化成東洋ゴムパロマ・・

 

これに粉飾決算等の不正会計の事例を加えると、さらにここに日本を代表する一流企業が連なることになる。

 

 東芝富士ゼロックスオリンパスカネボウIHI西武鉄道・・

 

中でも、現在進行形で経営的にぎりぎりの綱渡りを続けている東芝など、「君子豹変す」の代表格と言っていいだろう。近年、東芝と同業の日本のエレクトロニクス企業の経営は軒並み「惨状」と言わざるをえず、東芝と近い体質の会社も多いことから、一つ間違うと同じ穴に転落してしまいかねない危惧がある。日本のプライドどころか、これからドミノ倒しのように、昨日の君子が次々と豹変してしまうのではないか。神戸製鋼所の不正は、そのような、今日本企業に対して色濃く漂う不安感をいたく刺激することになった。

 

 

◾️企業トップの人災

 

「君子豹変す」の代表格と述べた東芝だが、最近出版された、ジャーナリスの大鹿靖明による「東芝の悲劇」*1「伝統的優良企業」がどのような経緯を辿って、不正に手を染め、無謀としかいいようがないM&Aを強行し、破滅の淵に追いやられたのか、克明な取材に基づいて解明しており、物語としても非常に面白い。本書では、ごく最近亡くなった、西室泰三氏に始まり、岡村正氏、西田厚聡氏、佐々木則夫氏の歴代の経営者の「人災」であることが強調されている。本書の紹介文には「権力に固執し、責任をとらず、思考停止したトップを擁する組織は必ず滅びる――これは東芝という一企業の悲劇でなく、日本の政官財の縮図であり、日本社会への教訓である」とあるが、実際に歴史のある日本企業に勤務している人や勤務した経験のある人であれば、共感するところも多いのではないか。

 

企業トップの「人災」の例は、あまりにあからさまに述べると、それこそ自らに禍が降りかかりかねないため(広告契約破棄等)、メディアでさえ「忖度」する傾向にあるから、表ざたにはなりにくいが、それでも目を凝らし、耳を澄ませばいくらでもその事例を見つけることができる。

 

例えば、東芝の西室氏が経団連副会長を務めた時の会長であるキャノンの御手洗冨士夫会長(現名誉会長)や当時の副会長でその後会長に昇格した、住友化学米倉弘昌会長(現相談役)など、いずれも社業のほうは大きく業績を落としており、社内外の評判は芳しくない。

「老害」経営者に蝕まれる日本企業…高収益企業キヤノンの没落、巨額買収連発も効果なし(Business Journal) - goo ニュース

 

財界活動を行う企業のトップの全てが問題というわけではないが、東芝のように、社業より自らの栄誉欲を露骨に追及するようなトップが如何に企業価値を毀損するのか、あらためて考えさせられる。

 

 

◾️相談役/顧問の問題

 

また、本書によれば、東芝は03年に西室氏主導で、委員会等設置会社(現在の指名委員会等設置会社)に移行し、その時、社長を選ぶ「指名委員会」を設置した。その指名委員会を通じて、会長が社長選びに関与できるようになり、結果として(というより意図的に、というべきだと思うが)、「院政が可能となる体制が構築され、実際に悪用された。しかも、会長を退いて「相談役」となった西室氏が東芝の闇将軍として影響力をふるい続けた。このようにトップが社長や会長のような役職にある間だけではなく、その役職を降りて「相談役」等の役職に退いた後にも、悪影響を与え続ける構造は、これまた歴史ある日本企業にありがちな問題点の一つである。

 

およそ6割の日本企業に相談役・顧問がいるというが、その制度は会社法に規定がなく、海外にはない制度でもあり、以前から投資家はその不透明さに不満を表明してきた。東芝のように相談役や顧問等が経営に悪影響を及ぼす例は、外からは見えにくいとはいえ実際に非常に多い。経産省の「コーポレート・ガバナンス・システム研究会」(CGS研究会)で委員を務める経営共創基盤の冨山和彦CEOは、カネボウダイエーなどを再生支援した経験から次のように述べている。

 

相談役や顧問が経営の役に立っていたケースは一つもない。百害あって一利なしだ。日本企業の中で何十年も続く先輩後輩の関係は、ある意味で血縁以上に濃い。自分を社長にしてくれた先輩OBには逆らえない。OBは良かれと思ってアドバイスするかもしれないが、自分が死んだ後のことまでは考えられない。百歩譲ってOBのアドバイスが『会社のためになる』と言うのなら、彼らに払っている報酬と、秘書、車、個室にかけるコストを全て開示し、『対価に見合う価値がある』と合理的な説明を株主にすべきだ。

大企業「相談役」「顧問」は老害か | 文春オンライン

 

このような批判を受けて、東京証券取引所は8月に、上場企業が相談役・顧問の役割を開示する制度を設けると発表した。具体的にどの程度の効果があるかはわからないが、一定の牽制にはなるだろう。だが、本当の問題は、現象としての相談役の存在自体ではなく、それを生んでしまう日本企業の体質のほうだ。この体質がある限り、どこかの穴が塞がっても、必ず他の穴を見つけて問題が噴出する。だから、昨今では、特定の経営者や相談役等に限らず、社内を壟断する「老害という括りで声高に問題が指摘されるようになってきた。

相談役・顧問問題 本質は日本的社長選び(安東泰志)|マネー研究所|NIKKEI STYLE

 

 

 ◾️団塊世代老害

  

中でも、特に(数が多いこともあるのだろうが)、団塊の世代に対して、若い世代からの反発、恨み節が大変多くなっている。例えば、こんな感じだ。

 

団塊世代の特徴

・説教大好き

・矛盾した事しか言わない

・自分はさて置き。と言う事しか言わない

・相手が反論すると直ぐ恫喝

・派閥大好き

 ・金に物凄く汚い

・自分の価値観を相手に押し付ける

・自分の言う事を聞かないと直ぐ排除しようとする

なんで、団塊の世代ってカス、クズ人間が多いんですかね? - 恐ろしくカス人間... - Yahoo!知恵袋

 

私は人間的にすばらしい団塊世代の人達を沢山知っているから、このような事例を出すことは身が縮まる思いだが、若年世代の多くがそのように感じていることは認めざるをえない。それに、私自身何度も悩まされた「質の悪い団塊世代」について言えば、なまじ成功体験があるからかもしれないが、自分の意見や価値観を絶対と信じてしまい、他の世代より柔軟性に乏しいと感じることは確かだ。だから不幸にして、「質の悪い団塊世代」が跋扈した企業ではまさに辞書的な意味*2での老害が、組織内に蔓延ってしまうことになる。

 

 

 ◾️若年老害大企業病

 

しかも、評論家の常見陽平氏が指摘するように、この老害は今では多くの企業の組織の中で下方にまで浸透していて、「若年老害」としか言いようがない現象となって現れている。常見氏によれば、次のような特徴が典型例として見られるという。

 

自分の小さな成功体験を大きく語り、俺は若い頃凄かったと言い出す(伝説になるのが早すぎ)

 

『俺の頃は……』と自分の新人時代を語りだす(勤務し始めて数年であるにも関わらず)

 

企画書の書き方を細かく指導する(自分のパワポ技の凄さをアピールする。一方で後輩が色やフォント、アニメを使いすぎると叱りだす)

 

自分も成長しなくてはいけない立場なのに「あいつも成長してきたな」的な話をする。

 

こうなると老害というより、企業文化自体の問題であり、そこにいる若手(劣化した若手というべきだが)がどんどんその文化に染まって、老害を再生産しているということになる。これを称して「大企業病」と呼ぶことも可能だろう。

 

このような「大企業病」に対しては、本来、それぞれの企業の若年層や中途入社者等、自社の文化に染まっていない、あるいは他社の文化を知る人材による改革がボトムアップで起きて来るべきではあるが、今でも特に日本の大企業では「終身雇用」「純血主義」の文化は残っており、よそ者の改革は内容の如何に関わらず排除される傾向にあるし、問題意識を持つ若年層も問題を社内で口にするより「忖度」するほうがメリットがあると思えるようなシステムになっているこの文化を嫌気して、会社を離脱する人は昨今では少なくないが、長期的に考えて、その企業に終身で勤めることよりメリットがあることはほとんどない。新進のベンチャー企業外資系企業はやりがいと大きな成果を得ることができる可能性はあるが、その分競争も厳しく、脱落してしまう恐れもまた大きい。総合的には日本的な大企業に終身で勤めることは(ぬるま湯であるとしても)、少なくともこれまではメリットが大きかったことは認めざるをえな

 

 

◾️日本企業に決定的な敗北が迫る

 

だが、これも企業が生き残ることができることが前提だが、どうやらそうもいかなくなってきている。足元が大きく揺らぎ始めている。1992年と2016年の株価時価総額トップ50社を比較すると1992年の時点では時価総額世界トップ50に日本企業が10社ランクインしていたが、2016年ではトヨタ1社のみとなってしまった。この期間、世界中の株式は大きく上昇しているが、(トヨタ以外は)日本のみ株価が上昇していないということになる。これと比較して、躍進著しい中国企業は、テンセント/アリババ/4大銀行をはじめ多くの企業がトップ50にランクインしている。トップ10を見ると、2016年には、1992年にはトップ50にも入っていなかった、アップル、グーグル、マイクロソフト、アマゾンドットコム、フェイスブックがランクインしている。いかに日本企業が成長せず、新しい企業を生み出していないかがわかる。

時価総額上位企業(1992年と2016年) / グローバルでは大きな変化、日本は同じ顔ぶれ - ファイナンシャルスター

 

 

新しい企業という点では、未公開で時価総額が10億ドル以上の企業は「ユニコーン企業」と呼ばれるようになったが、Sage UK社がまとめた調査結果によると、最新のユニコーン企業数は、アメリカ144社、中国47社、インド10社などとなっている。残念ながら日本のユニコーンは1社だけだ。

 

世界のユニコーン企業に共通する13の事実 - Onebox News

 

ユニコーン企業のような急成長ベンチャー企業を「創造的破壊企業」と呼ぶことも一般化してきている(UberAirbib等が典型例)。日本企業に限らず、図体だけ大きくて動きが鈍い恐竜のような大企業は動きが鈍く、俊敏で鋭い牙を持った哺乳動物=「創造的破壊企業」の餌食になりつつある。

 

昨今では、この個別の創造的破壊企業をM&A等で飲み込み、超巨大化して猛威を振るうGoogleAmazon等のようなIT企業自体が、おそるべき破壊者として君臨しつつあるが、実際、先んじてそのような競争にさらされた日本のエレクトロニクス産業は惨敗した。そして、同種の競争の局面はさらに広がりつつあり、今後それがもっと大きく広がることは確実視されている。

 

例えば、IT技術を使った新たな金融サービスである「フィンテック」については、昨今日本でも法制度を整備したり、銀行等の投資額も急増しているが、国際会計事務所大手のKPMGとベンチャー・キャピタルのH2 Venturesが作成する「2016 フィンテック100 - 最も成功しているグローバルなフィンテックイノベーター」を見ても、アメリカが35社、中国が14社ランクインしているが日本企業は1社も入っていない。このままでは、ますます日本企業は成長できず、新分野も開拓できず、創造的破壊企業の恰好の標的となってしまいかねない。

「ビジネスモデル革命」に中国が成功し、日本が乗り遅れる理由(野口 悠紀雄) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

 

最近では、すっかりAIブームということもあり、これから仕事の大半はAIが肩代わりする、という議論もにぎやかだが、様々な技術進化の成果と共に、ビジネスモデルも劇的な変化を余儀なくされることは確実だ。いずれにしても今は歴史的転換点にあり、1992年から2006年に至る変化をはるかに上回る激変が予想されている。今のままでは、日本企業は決定的な敗北を喫してしまうだろう。 

 

 

◾️真の危機を見据えた対策を

 

ずいぶんまどろっこしい文章になってしまったが、神戸製鋼のような会社が、現場改善にだけに頼る「品質」頼りというのでは、従来の栄光を維持できるどころか、創造的破壊企業の恰好の餌食となってしまうだけだ今起きている目前の危機にパッチワークのようなその場の対処をするのではなく、根本的な構造変革のきっかけとしなければ、結局、絶滅した恐竜の後を追うことになりかねない。よって今回の日本ブランドの危機の背後の真の危機を見据える機会として、災い転じて福となすではないが、痛みを覚悟の上で改革に着手する企業が増えることを願いたいものだ。

*1:

東芝の悲劇

東芝の悲劇

 

 

*2:老害」を辞書で調べてみると、次のように表記されている。「企業や政治の指導者層の高齢化が進み、円滑な世代の交代が行われず、組織の若返りがはばまれる状態」(大辞林「企業や政党などで、中心人物が高齢化しても実権を握りつづけ、若返りが行われていない状態」(デジタル大辞泉

インドの差別との戦いは世界規模の課題を暗示している

 

 

▪️ 世界の中心に踊り出るインド

 

昨今の世界のビジネスシーンにおけるインドの勢いはものすごい。少し前までは、いくらそのように説いても皆半信半疑だったものだが、今ではそのパワーを疑うものは逆に少数派になった。21世紀は「アジアの世紀」とは、ずっと前から言われていたことだが、時の経過と共に、その意味と中心は大きくシフトして来ている。当初は日本、そしてそれを追随する韓国の急成長が注目され、発展の中心は東アジア、あるいは、儒教経済圏が中核、と言われていたものだ。だが、今やその中心は中国および華僑経済圏(シンガポール等)に完全にシフトしているし、同時にインドが次の主役として認知されるようになってきた。しかも、中国は一人っ子政策が仇となって日本に続いて急激な高齢化に悩まされることが確定していて、いわゆる人口ボーナス(子供と高齢者の数に比べ、働く世代の割合が増えていくことによって、経済成長が後押しされること)を使い果たしつつある。ところが、インドはまさにこれから人口ボーナスの恩恵を受けることもあり、将来性で言えばダントツの存在と言っていい。大抵の日本人には、中国と比較しても、その実態がほとんど知られていないインドだが、これからはそうはいかなくなる。否が応でも、あらゆる意味でインドやインド人のことを理解せざるをえなくなって行くだろう。

 

その日本人の中では、少数派ということになるのかもしれないが、私は多少なりともインドのことを知っているという自負があった。ある時期ビジネスで関係を持って、広くインド中に出張し、現地の友人もたくさんできた。もともとインドの思想や宗教に興味もあったので、歴史から現代の宗教に至るまでかなり時間を割いて探索した。それはその後仕事がかわってビジネスの関係が切れてからも続いた

 

だが、それはまったくの思い上がりであることをごく最近になって思い知らされることになった。きっかけは、インドで相次ぐあまりに悲惨なレイプ事件について、あらためて(今頃、という感じでもあるが・・)調べていたことだ。私が知るインド人の友人達のたたずまいや、垣間見たインド人社会からはこれほどの残忍な事件が頻発するという光景がどうしても想像できなかかった。よって、従来の自分の先入観を一旦横に置いて、事の真相を明らかにしてみたいと思った。

 

 

▪️ インドの深層理解の鍵

 

その途上で、私は、外国人の目には触れにくい不可触賎民の実態のことをよく理解していなかったことを自覚することになった。そして、今まで全く知らなかた偉人の生涯とその事績を知ることになった。その偉人とは、カースト制の最下層の不可触賎民に生れながら驚くべき苦闘を乗り越えて、欧米の最高学府で学位を得て、独立後のインドで最初の法務大臣となりインド憲法の起草を事実上独力で成し遂げたビームラーオ・アンベードカルである。*1*2私がそれまで知っていたインドの偉人の数はおそらく普通の日本人並からすればかなり多いと思うし、その生い立ちや業績の評価、彼らの回顧録の類に至るまでかなり詳しく読んで来た。インドの友人にも随分時間を割いてもらって様々な話を聞いて来た。だが、その友人たちの話にも、私が読んで来た文物のどこにもアンベードカルの名はなかった。ところが、一旦彼のことを知ってしまうと、聖人ガンジーが霞んでしまうほどの偉人としか思えなくなってくる

 

私の無知と浅学はともかくとして、インドのことを詳しく知ると称する私の友人達の顔を思い浮かべても、アンベードカルの名前が出てくるとはとても思えない。どうやらこのギャップ、この空白にこそ、日本人がこれから本当のインドを知り、彼らと深く付き合っていくにあたっての一つの鍵があるように思えてならない。アンベードカルと彼の後継者たちの苦闘から見えてくるインドの現実を知ることの意味は大きいと考える。

 

 

▪️ ガンジーとアンベードカル

 

  黒人解放運動に殉じたリンカーンはじめ、差別と闘った偉人は世界で数多く知られているが、インドでは、ガンジーもまたそのような偉人の一人で、不可触賎民の待遇改善に尽力した人だったはずだ。それは確かにそうなのだが、一つ言えることは、ガンジーは不可触賎民ではなかったし、不可触賎民を構造的に生み出すカースト制には反対ではなかった。むしろ、インド人の生活の基盤であり、心の支えでもあるヒンドゥー教カースト制含みで守ろうとしていた。

 

そのヒンズー教の思想の一端に触れるには、数多くある聖典を紐解いてみるのが手っ取り早いが、「ヴェーダ「マヌ法典」「マハーラーバタ」等いずれも、カースト制の聖なる由来とそれを絶対の義務として守り通すべきことが明記されている。昨日今日できあがったものではなく、何千年もの歴史を生き延びた聖典であれば、その言葉の端々に至るまで信者の心に深々と浸透していると考えられる。聖典を読み継ぎ、語り継ぎ、その教えを守ることを通じて、インド人としてのアイデンティティを形作ってきた歴史があるのだから、巨大な西洋文明を背景とする宗主国のイギリスに対抗するにあたって、このヒンズー教をよすがと頼ることは当然のことで、その教えの一部であっても否定することはガンジーであれ、誰であれ容易ではなかっただろう。だから彼の立場は政治的には理解できる気がする。

 

だが、どうみても、聖典が意図したであろう不可触賎民の扱いより現実の扱われかたははるかに過酷で非人間的としかいいようのないものだ。世襲の職業として、糞尿や動物の死体処理等に縛り付けられ、村の井戸から水を飲むことも禁じられ、殺人やレイプを含む日常的な暴力から法的な保護を受けることもできない。ヒンドゥー教徒なのにヒンドゥー寺院に立ち入ることも、聖職者の説法を聴くことも許されない。しかも、その割合(人数)が半端ではない。何と総人口の20%、約1億8000万人(2001年国勢調査)もいるという。他の社会、例えば西欧世界であれば、革命を起こすにたる理由を持つ大勢力をこの国の支配層はずっと抑え込んできていたわけだ。不可触賎民の側も、現世の幸福を諦め、来世での不可触賎民からの脱出を願い、聖典に定めるとおり過酷な奴隷の地位に甘んじていたことになる。(実際にはそう思っていなくても、どうすることもできなかったからかもしれないが・・)宗教的信念の恐るべき強靭さ、拘束力にあらためて驚いてしまう。

 

だからこそ、その中から這い上がってインド政治の最前線で戦ったアンベードカルという存在は、どこから見ても奇跡としかいいようがない。アンベードカルは、不可触賎民を「ハリジャン(神の子)」という呼称で持ち上げながらも不可触賎民の政治的な地位向上をはかるアンベードカルを否定し、活動を阻止しようとするガンジーにも、堂々と対峙した。当然、すでに「聖人」として崇められていたガンジーに歯向かう存在として、バッシングを受ける。

 

だが、ガンジーも、アンベードカルもその生涯を全体として評価できる立場にある私たちから見れば、この論争はアンベードカルに理があるとしか思えない。だが、あまりに長い歴史を持ち、強い強制力となってインド人民にのしかかるヒンドゥー教徒の宗教的信念を内側から切り崩すことは、どうしてもできなかったようだ。最終的に、アンベードカルは仏教に改宗することになる。残念ながら、死の2ヶ月前というから、彼の支持者も仏教者としての彼の活動を目にすることはほとんどできなかったわけだが、不平等を説く宗教的信念に対しては、平等を説く宗教で対抗するしかない、というところに追い込まれていったことは、実のところ極めて示唆的だ。

 

 

▪️ 補助線としてのベルクソンの思想

 

今、世界は「寛容」や「平等」というような概念が押しつぶされつつあるような状況で、移民、異民族等の「よそ者」の排除を声高に叫ぶことで、自分たちのコミュニティ(国家)の結束を強化しようとするような勢力が跋扈し、拡大しつつある。そして、「寛容」や「平等」を説く者のことを、あろうことか「非現実的」「ナイーブ」と蔑むようなことが横行している。世界は帝国主義に逆戻りして、ファシズムが跳梁した第二次大戦前夜へ逆戻りしようとしているかのようだ。あの恐るべき時代と同色に染まりつつある昨今であればこそ、まさにそのナチスの占領下のパリにあって、混迷の極みにある時代を克服すべく、最後の力をふり絞っていた偉大な哲学者、ベルクソンのことを思い出さずにはいられない。

 

 

ベルクソンはそのパリで最後の時を迎えることになるが、遺作となった「道徳と宗教の二源泉」*3は、今の時代にこそ、再び紐解いて、噛みしめてみる必要があるように思える。特に、上記に述べたような、ヒンドゥー教カースト制を現実的なインドの統合と独立のために肯定したガンジーと人間性を無視したカースト制を肯定するヒンドゥー教を離脱して、仏教に救いを求めたアンベードカルという対比に想いを馳せる機会を得た今の私には、尚のこと、かつて熟読した本書の思想を思い出さないではいられない。

 

「人間は社会的動物である」と言われるが、この社会の維持のために、初期の宗教は個々人に道徳や習慣、教育等の責務を負わせる。この道徳/宗教教育によって植えつけられる責任感によって、社会は崩壊から免れる。そしてその道徳/宗教は、家族、集落、国家くらいまでは合理的に機能する。これをベルクソンは「第一の源泉から生まれる道徳」とする。しかしながら、「第一」は本質的に閉じたものであり、国家の枠を超えることはできない。

 

それに対して、ベルクソンは「第二の源泉」があると述べる。国家の限界を超えた開かれた道徳、人類愛である。ベルクソンによれば「第一の源泉」から生まれる道徳/宗教の範囲を拡大していっても「第二」に到達することはない。従って、「第一」により形成された国家が寄り集まって国連のような組織を組成しても、「第二」に昇華することはないことになる。では、それはどこに起源を持つのか。ベルクソンの言う「エランヴィタール(生命の躍動、生の飛躍)」の根源に触れ、神的達観を得て、魂が高度な感動で揺さぶられ、それを周囲に広げずにはいられない「エランダムール(愛の躍動)」に駆られた一個の人間から、というのがその答えだ。具体的には、釈迦、イエスソクラテス等が該当する。

 

ガンジーはインド社会を統合し、イギリスから独立するために、おそらくは「第一の源泉」が主となっているであろうヒンドゥー教を、その思想の中にあるカースト制もろとも肯定せざるを得なかったようだ。一方、かつて「第二の源泉」に触れたと考えられる釈迦の思想を再発見したアンベードカルは、当初ヒンドゥー教の内側からの改革を目指しながらも、最終的には仏教に改宗する。教派・教団としての仏教は、「第二の源泉」ではなく、自らの教派を守るために「第一の源泉」支配下にあるようなのも多いから、十把一絡げに「仏教といってしまうと語弊があるのだが、自らもバラモン教の苦行を試しつつ、最終的には、ベルクソンの言う「第二の源泉」に触れたと考えられる釈迦の「質的な違い」にアンベードカルは共鳴し、インドの地から生まれた奇跡の人にインドはもちろん、世界を変える根源的な力を感じたようだ。それは単に、政治的なヒンドゥー教から仏教への宗旨替えというようなことではまったくないことは留意しておく必要がある。

 

 

▪️ インドから世界へ

 

アンベードカルは早逝するが、彼が切り開いた道は後を継ぐ者達によって大道となる。驚いたことに、日本からインドに渡った僧侶(佐々井秀嶺がその先頭に立って、アンベードカルの意志を継いで大きな成果をあげている。*4*5アンベードカルが改宗した頃には、ほとんどものの数にも数えられていなかった仏教徒が今では1.5億人もいるという。この数に根拠がないと批判する人もいるようだが、今のインドで仏教徒が非常に大きな勢力になっていることは確かだ。少なくとも、インドで「閉じられた宗教」から「開かれた宗教」へ飛躍しようとする偉人が現れ、その運動が大きな勢力となって来ていることを素直に認めてあげていいと私は思う。まして、同胞の日本人がその先頭に立って心身をインドに捧げているのだ。

 

 

これは経済的に世界の中心に躍り出ようとするインドにとっても好材料であることは確かだろう。同時に、世界の困った潮流に対する「アンチ」の旗頭となる潜在力を秘めている。だから、どんどん「閉じた」方向に向かう世界を、少しでも「開く」ための活動拠点の一角となって欲しいと願ってしまう。もちろん、インドにも狂信的で過激なヒンドゥー至上主義があり、しかもその勢力は近年非常に大きくなり、政権の一端に絡んで来てさえいる。だが、佐々井秀嶺やアンベードカルの思想を受け継ぐ仏教徒には是非負けないで頑張ってほしいと願わずにはいられない。

*1:ビームラーオ・アンベードカル - Wikipedia

*2:

アンベードカルの生涯 (光文社新書)

アンベードカルの生涯 (光文社新書)

 

 

*3:

世界の名著 (64) ベルクソン 中公バックス

世界の名著 (64) ベルクソン 中公バックス

 

 

*4:

*5:

 

豊田真由子議員から見える日本の困った姿

 

 

◾️ 異彩を放つ豊田真由子議員

 


今、日本中が注目しているといっても過言ではない強烈キャラである、豊田真由子議員の謝罪会見がとても印象に残ったので、忘れないうちに感じたことを書き残しておこうと思う。(といっても大分旧聞になってしまったが・・)


 
今年は(今年も、というべきか)、国会議員の失言・スキャンダルの類が非常に目につく年となった。そもそも組織のトップ(安倍首相)自体が疑惑の中心にいて騒がしかったわけだが、自民党の議員の醜聞も実に多かった。
 


だが、その中でも、特に異彩を放ち、強い印象を残した筆頭と言えば、何と言っても、豊田議員をおいて他にはない。不倫であったり、政治的に不適切な発言等については、醜聞と言ってもすでに慣れっこになってしまった国民は、ニュースを聞いた途端に、自分の頭の中にある分類箱に放り込み、すぐに誰が誰だかわからなくなってしまうのが普通だろう。おそらく、どんなに記憶力の良い人でも、一年も経てば、ほとんど忘れてしまうに違いない。まさに「人の噂も75日」である。

 


ところが、豊田議員の場合はそうではない。スマした議員としての表の顔の裏側の般若の顔を「このハゲー!」というような怒声と共に暴露されてしまったのだから、前代未聞もいいところだ。しかも、「ハゲー!」だけではなく、「ちーがーうーだーろーーー!」とか「豊田真由子様に向かって」だとか、お笑い芸人の一発芸のような決め台詞が次から次に出てくる。

 


現代では、こんなネタが出てくれば、ネット上を無限に駆け巡ることは目に見えているわけだが、ネットに加えて、マスメディアでも耳にタコが出るくらい聞かされることになった。音声を繰り返し聞かされることによる記憶への定着度は恐るべきものがある。例えば、雪印集団食中毒事件で、当時の社長、石川哲郎氏がマスコミに放った失言、「私は寝てないんだ!」という逆ギレ発言など、あなたもしっかりと覚えているはずだ。背景や経緯を忘れてしまっても、この強い印象と声は簡単には忘れられない。そして、すぐに思い出す。


 
もっとも、お笑い芸人の決め台詞であれば、どんなに流行ったところで賞味期限のマックスはこれも1年くらいだろうが、本件は(少々気の毒な気もするが)、政治史を彩る残念な事件として、ずっと語り継がれるに違いない。
 

 
 
◾️ 起死回生のチャンスも・・

 


だが、この失態を大転換できる起死回生の機会がただ一度だけあった。謝罪会見である。ここでの印象操作に成功すれば、ものすごく大きく膨らんだ風船のようになっていた大衆のネガティブな空気も、一気に破裂して霧散する可能性はありえた。だからこそ、私もこの機会を見逃すまいと見守っていた。だが、結果はすでに報道でご存知の通り、失敗としか言いようがない。しかも、同時期の雑誌でのインタビュー記事等が輪をかけて逆効果を際立たせてしまっている。では、どうすれば良かったのか。大変難しいところだが、次の記事の見解は私も的を得ていると思う。
 

 これは謝罪会見をおこなう企業、役所、政治家が必ず陥る「落とし穴」である。「危機管理のプロ」を名乗る人のなかにも勘違いをしている方が多いが、危機管理に「勝ち」はありえない。不祥事や事故というマイナスからスタートしているので、「いい負け方」か「悪い負け方」しかないのだ。捲土重来するために、どのような「負けっぷり」をしておくべきなのかを決断して、それをメディアに介して世の中に知らしめるのが、「謝罪会見」である。

豊田真由子氏から学ぶ、謝罪会見大失敗の根本的な理由 | 情報戦の裏側 | ダイヤモンド・オンライン

 

 


法廷闘争だけを前提とするのであれば、「いい負け方」作戦は場合によっては致命的となる恐れもあるが、昨今のようにSNSが社会の隅々にまで浸透して、そこで問題があれば、法的に正しくても炎上(時に、正しければ正しいほど炎上することもある)する。それを勘案すれば、「いい負け方」の追求は、本件に限らず、公的に仕事に携わる誰もが意識して追求すべき価値となっていると言わざるを得ない。

 

 

◾️ おかしくなってしまった日本人の価値観

 


だが、これは言うほど簡単ではない。特に、豊田議員の履歴を見れば、子供の頃から「自分は正しい」「自分は負けない」ゲームを徹底して繰り返してきた典型的な人物と言える。しかも、事は一人豊田議員だけの問題ではなく、今の日本のエリート組織全般に言えることで、偏差値は高くても、生きるうえでの美意識を欠いており、計測可能な指標をひたすら伸ばして行くことばかり重視している。*1(この点は、コンサルタントの 山口周氏の受け売りながら、私自身本当にそう思う)。

 

国会議員に限ってみても、豊田議員に限らず、いわゆる「安倍チルドレン」あるいは、「魔の2回生」と呼ばれる若手議員が昨今特に評判がよろしくないが、総じてこの法則が当てはまってしまっているのではないかと思える「What the World Thinks in 2007 The Pew Global Attitudes Project」という調査で、「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と答えた人の割合が、各国比較でみると日本人がダントツ(38%。独立心の強い米国でさえ28%程度)で高いことが以前話題になったものだが、豊田議員を含む「魔の2回生」は、日本全体を覆うこのような傾向の典型事例のように見えてしまう(自民党片山さつき議員が、生活保護の不正受給者に非常に厳しくツッコミを入れて炎上したこともあった)。

「成長論」から「分配論」を巡る2つの危機感:日経ビジネスオンライン

 

 

ちなみに、この割合は日米以外の各国では、どこも8〜10%くらいで、「自分の力だけでは生活できない人を見捨てるべきではない」と感じる人が9割くらいいるのが人間社会の相場とされているというから、今の日本に違和感を感じるほうが正常な感覚といっても許されるだろう。

 

 


◾️ 弱者に寄り添える人間の魅力

 

 

俳優の渥美清主演で、日本の映画史に残る作品「男はつらいよ フーテンの寅」*2をみればわかる通り、寅さんのように一見負け続けている人にこそ滲み出る魅力は厳然としてあるし、それがわからないようでは弱者を虐げるような政治家ばかりが跋扈する困った世の中になってしまう。(なりつつある?)また、これも時代が違うし、毀誉褒貶あるので、同レベルで比較することができないことはわかっているが、かつての田中角栄元首相など、今で言う不倫どころか外に子供をつくってそれが公開されても平然としている人だったが、一方で徹底的に弱者に向き合って「負けている人」の気持に寄り添える人だった。悪人と罵られても、滲み出る魅力は否定できなかったし、現実に最後まで非常に人気があった。

 


こうなるとまさに美意識の問題にもなるので、人にその価値観を押し付けることはできないが、豊田議員や「魔の2回生」に違和感を感じるのであれば、自らを振り返って、弱者に寄り添えなくなっている自分がいないか、そのような議員を選んでしまっていないか選挙も近いことだし少しは考えてみてもいいのではないか。