平成30年版情報通信白書読書会/敗北の兆しと希望の消失

 

 

 

先日(8/6)、国際大学GLOCOMに於いて『平成30年版情報通信白書読書会』が開催されたので出席してきた。

 

 

イベントの概要

www.glocom.ac.jp

 

 

概観(感想)

 

◼︎ 明らかになってきた大変な現状

 

 

本年のこのイベントは、ここ数年と比較して異例といっていいタイミングおよび環境下で行われた。というのも、白書が例年より早い段階でリリースされ、しかも、アマゾンで無料公開されたこともあり、一足早くそのデータの分析に着手してコメントを述べたブログが非常に大きな話題となり、そのこともあって、情報通信白書自体が『話題の書』となって、大量にアマゾンからダウンロードされることになった。

 

 

そのブログ(永江一石のITマーケティング日記)の記事とその後に飛び交った議論、および今回の説明をあらためて聞いた上で、見えてくる日本のICTに関わる『現況』を一言でまとめれば、次のように言い表せるように思う。

 

『迫り来る本格的な敗北の兆しと希望の消失』

 

話題になったブログの筆者の永江氏にも、私を含む多くのウオッチャーにとっても、昨今では、ICTに関わるあらゆる局面で、ほとんどの日本企業が抜き差しならないほど米国や中国等の先進企業に遅れを取っていることは共通認識となりつつあるわけだが、白書のように比較的、冷静で抑制のきいた文書からでさえ、どうにも言い訳のしようがないほど、そのことが見えてきてしまう。

 

 

◼︎ ICTの導入自体進んでいない

 

 

日本生産性本部が2017年12月にリリースしたレポートによれば、日本の時間あたりの労働生産性は、OECDに加盟する35か国中20位で、先進7か国の中では最下位だったという。しかも、データの取れる1970年以降、37年連続で20位前後に留まり、先進7か国中最下位の記録も更新し続けているという。*1

 

 

少子高齢化のトレンドが不可避となった日本では、生産性の向上は、他のあらゆる経営課題の中でも最優先で取り組むべきものの一つであることは言うまでもなく、その対策としての有効性が最も高いと考えられるICTの活用もまた不可避とされているはずだ。今回の白書では、その具体的な取り組み事例の一つとして昨今話題にあがることの多い、『テレワーク』の導入に関して多くのページを割いている。特に『テレワーク』について言えば、子育てや家事に忙殺されがちな女性の労働力の活用を促進するという意味でも有効で、社会的な期待度も高い。

 

 

だが、活用どころか、ビジネスICTツールの導入自体が、海外と比較して日本は非常に低く、遅れていることが調査結果でも明らかになっている。『テレワーク』についても、積極的に導入した企業はその成果を実感しているにもかかわらず、そもそも導入自体に消極的な大多数の日本企業の姿が透けて見えてくる。

 

 

 

比較的ICTの導入が進んでいる企業でも、日本企業の場合、既存の業務慣行や組織構造をそのままにしたままで、業務効率向上のみを意図する導入が多数との印象がある。だが、ICTを最大限活用するためには、今日のデジタル化/ICTが持つ爆発的な威力(指数関数的に進化する関連技術利用のためのベースづくり、ビッグデータ利用の極大化、外部経済やオープンモジュールの最大活用等。人工知能ブロックチェーンも当然その中に含まれる)を理解して、組織もビジネスモデルもそれに合わせて持続的に変革していくことが必要だ。そのことを理解して、短期間に爆発的に成長したのがGAFAGoogleAppleFacebookAmazonの頭文字を集めた呼称)であり、ユニコーン企業(評価額が10億ドル以上の未上場のスタートアップ企業)ということになる。現在中国企業からは続々とユニコーン企業が誕生しているが、日本企業の姿はほとんど見られない。世界の競争は『デジタル化/ICTの爆発的な威力』の活用を巡って繰り広げられているが、恐るべきことに、日本企業のほとんどはその土俵に乗るどころか、最も基本的な導入や利用自体、他国と比較して大幅に遅れていることがわかる。世界の先進企業と比較すると、周回遅れどころか、何周も遅れていると言うしかない。

 

 

◼︎ 経営者の高齢化との相関

 

 

では、どうしてそんなことになってしまったのかと言えば、これも永江氏がブログ記事で述べている通り、日本の経営者がますます高齢化してきていることと無縁とは思えない。永江氏の分析の中にも出てくるが、東京商工リサーチの調査によれば、2017年の全国の社長の平均年齢は前年より0.26歳のびて、61.45歳となり、調査を開始した2009年以降で最高年齢を更新したという。また、減収や赤字などの業績悪化と社長年齢を比較すると、業績悪化と年齢上昇に一定の相関があることもわかったして、高齢化がビジネスモデル革新や生産性向上への投資意欲を抑制し、業績悪化に拍車をかけているようだ、とも述べている。*2

 

白書の調査でも、60歳以上では、はっきりとICTリタラシーが落ちることが示されている。

 

 

もちろん、経営者の長年の蓄積と経験がまったく役に立たないとまで言い切るつもりはないし、様々な局面で彼らの判断力が生きるケースはあることも否定はしない。テレワークやメールあるいはSNSより、対面コミュニケーションが重要、というようなよく出てくる意見についても、そういう局面もあることを認めるのはやぶさかではない。だが、今世界で起きていることを勘案すると彼らにとって不幸なことに、タイミングが悪すぎる。世界ではICT分野を含む幅広い分野で革命的と言っていいほど日進月歩で技術が進歩しており、その理解と活用の度合いが企業の業績および将来の生き残りの成否と直結してしまっている。そういう意味では、日本の場合、最悪のタイミングで経営の高齢化/硬直化が起きていると言わざるをえない。

 

しかも困ったことに、いまだに転職すると、よほど本人の才覚や運がなければ通常は生涯年収が下がる構造が残り、終身雇用的なセンチメントが濃厚に残る日本では、上位者の横暴に下位者が逆らいにくくなっているだから、内部では、抑圧された不満が高まっている組織が今では本当に多くなっている。その不満が暴発するような形で表に出てきているのが、昨今の日大アメフト部の事件や、ボクシング協会の会長への不満、あるいは頻発する各種スポーツ界のセクハラやパワハラ告発なのだと思う。体育会カルチャーは旧来の日本企業にも深く浸透しており、日大アメフト部で見られた構図は多かれ少なかれ日本企業ならどこにでもあることは、日本企業の中にいる人ならだれでもわかっているはずだ。

 

 

だが、そうであれば、そんな古臭い経営者に見切りをつけて、起業して自分の会社を起こせばいいだろうということになるが、これは古くて新しい問題で、日本では、米国や欧州と比較して、企業のリスクが高すぎる。破産した場合は非常に過酷で、やり直すことは事実上不可能と言っていいほど難しいし、世間の冷たい視線も痛い。資本市場は弱く、起業家に対する世間の評価が低いこともあって良い人材を集めることも難しい。日本の若者にとって、相変わらず大企業に入って一生安泰に過ごすことが一番リスクが小さく、総合的な経済価値は大きく、世間体も良いとの認識は少しも揺らいでいない。

 

 

◼︎ SNSを利用せず人を信用しない日本人

 

 

ただ、そのような不自由な日本社会においても、インターネット、特にSNSのようなツールの利用で、様々な人との『つながり』を広げるチャンスが生まれ、特に、地域コミュニティも、企業コミュニティも衰退の一途にある現在では、これを補完する役割としてのインターネットに対する期待も非常に大きく、ここ何年か白書もそれを理解した上で、様々な分析軸を探求してきたと言える。

 

ところが、その点でも実情は悲惨で、日本では、インターネットがそのような『つながり』を広げるためのツールとしては、ほとんどと言っていいほど利用されていないことが白日の元にさらされてしまった。それこそが、永江氏が一連の記事の先頭に、今回の情報通信白書を元に分析してまとめて、世に多大なインパクトを与えた記事だ。

平成30年版情報通信白書による、日本人はソーシャル全然利用してないの図とその理由 | More Access! More Fun!

 

 

 

永江氏の記事、およびその根拠となっている情報通信白書の該当部分をあらためて見ると、日本でも使われている代表的なSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス。不特定多数とのコミュニケーションが可能)である、FacebookTwitterは、実際に使っている人は、3人に1人、そのうち、自分から発信している人は、わずかに、Twitterで23%、Facebookは17%しかいない。実際にトラブルに見舞われた人は海外との比較でも非常に少ないのに(4人に1人以下。米国では4人に3人!)リスクを過剰に恐れ、オフライン、オンラインを問わず、人に関する信頼度が他国と比較して著しく低い。これでは、SNS利用による社会的な意味での成果はほとんど期待できないとしか言いようがない。活用しているのは、一部の『エリート』『勝ち組』のみ、というのが実態のようだ。しかも、『勝ち組』にとっても、日本のSNSの使用に関わる環境は良好とは言えない(炎上や誹謗中傷の多発等)。今になって、経営コンサルタントのクロサカタツヤ氏の『SNS決別宣言』が思い起こされてくる。*3

 

 

 

◼︎ しぼむ<夜の世界>と希望の消失

 

 

思えば、インターネット本格導入後、日本の若者にも日本なりの活力とパワーが漲っていた時期もあった。欧米のケースとは全く違うが、インターネットの利用に関しても、日本独自の活用が爆発的に広がっていた。日本では、政治や経済/ビジネスでの利用より、サブカルチャーやアングラ的な利用がそれこそ過剰なほどに広く深く浸透し、実際、他国ではあまり見られない日本独自のインターネット関連のサービスを続々と生み出していた。(2ちゃんねるニコニコ動画、pixiv、モバゲー等)そして、ある種の『日本的な生態系』とでも言える世界が怒涛の勢いで広がっていた。この状況について、かつて評論家の宇野常寛氏は、『〈夜の世界〉(=サブカルチャーやインターネット文化)の想像力が、〈昼の世界〉(=政治や経済)を呑み込み、21世紀の〈原理〉となる』とまで述べていた。*4 私自身、この<夜の世界>の想像力/パワーこそ、<昼の世界>で衰退が進む日本の起死回生の反撃を可能とする母体となりうると考えていた。

 

 

しかしながら、そのパワーもいつの間にか風船から空気が抜けるように萎んでしまった。<昼の世界>の秩序を危うくしかねないような、<夜の世界>の『無法で怪しいが新しいものを創り出す旺盛な活力』もすっかり失われ、<昼の世界>の秩序の中に組み込まれてしまった。<夜の世界>の主役だった『荒ぶるオタク』も、すっかり大人しい、いい子になり、それでも不満をためて棘が抜けない一部は、『ネトウヨ』等に身をやつすことになってしまった。そのことと、今回の調査結果とはリンクしていると考えられる。そして、私には日本に残されていた希望が『消失』してしまったように見えてしまう。

 

  

◼︎ 対応策

 

 

ではどうすればいいのか。

 

この問いに答えることが、今非常に難しいことを覚悟の上で言えば、何よりまず、現状の正確な日本の姿を可能な限り多くの人と共有して、問題の本当の所在を明らかにすることが第一歩だろう。現状の最大の問題点の一つに、真に解決すべき点について意見がまとまらず、それどころか、社会が分断されつつあるため、基本的な議論さえかみ合わなくなっていることがある。

 

会社の異動(転職)が不利にならないような制度設計にあらためて根本的に取り組むことも不可欠だ。黙ってそこに留まるのが一番得、というような現状が日本中で日大アメフト部の学生のような『気の毒な人達』を大量生産していることはやはり現代の日本の構造的な欠陥というしかない。劣化した経営者にNOを突きつけるために、日本の場合、株式市場も社外取締役もほとんど機能しないことはもはや明らかになった中、優秀な人材が大挙して企業を離れることほどインパクトのある行為はない。

 

東京医大で発覚したような構造的な男女差別の徹底的な払拭も、この際、本気で推し進めた方がいい。男女差別は、実のところ企業を含む日本社会の隅々にまで浸透しているが、これは結果的に女性の能力を生かせないという意味で、企業業績の足を引っ張り、ひいては日本の国力の衰退につながる。だから、建前では女性の活用を目標に掲げる企業も増えているが、『そうはいっても本音のところ難しい』、というのが大抵の経営者の言い分だろう。現状の組織や経営手法をそのままにしていれば、難しいのが当たり前だが、海外企業のように徹底して取り組めば女性の力が大幅に引き出せることは数多の実例が示している通りだ。

 

 

例えば、テレワークもそうだが、男性の出産休暇等を本気で導入しようとすれば、姑息なパッチワーク的な施策ではすまず、徹底的な改革が不可欠になる。だから、経営者の言い訳を封じ、本気で取り組ませる必要がある。そのためには、『ポリティカル・コレクトネス』を連想して少々気がひける部分もあるが、セクハラやパワハラは社会的に決して許さないという強い姿勢を示していくこともあらためて必要かもしれない。いずれにしても、もはや日本には後がないことを認識する必要がある。

  

まあ、ここでそのような意見を断片的に述べたところで、真意も伝わらないだろうし、ありきたりで、蟻地獄のような出口のない議論を延々と繰り返すだけになる、とのご批判もあろうかと思う。この点、あたらめてもう少し自分の思考を整理した上で、提言としてまとめて見たいと思う。また、ご参考に過去に私が各年の情報通信白書についてまとめた記事を貼り付けておくので、よろしければ参考にしていただきたい。

 

情報通信白書を読んで考えてみたこと - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

 

情報通信白書読書会/日本の問題はもっと深刻では? - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

 

 

 

 

 

 

 

杉田水脈議員の発言問題から見えてくる日本の分断と困難な未来

 

燎原の火の如く広がる批判

 

自民党杉田水脈衆院議員による『新潮45』への寄稿文「『LGBT』支援の度が過ぎる」が多くの批判を集めている問題で、私も言いたいことは山ほどあるので、すぐに何か書いておこうと思ったのだが、少し自制して、どのような意見が出てくるかまずできるだけ見てみることから始めようと考え直した。というのも、この発言を巡る反応が『批判と擁護の複雑な諸相』となるであろうことはあらかじめ予想できたし、その『諸相』は来るべき近未来に、社会を大きく揺りうごかす問題への対応能力をはかる指標となると考えたからだ。また、それが私が最近非常に気にしている問題について述べるきっかけになるようにも思えた。

 

本件は、先ず、名指しされた形の『LGBT』の怒りが燃え上がり、早速に大規模(5,000人!)なデモ隊となって、自民党本部前に押し寄せた。加えて、寄稿文を読むと、子供を産んで国家に貢献できるかどうかを『人間の生産性』と規定した上で、その尺度で人間の価値の軽重をはかろうとしており、そこから、『LGBT』だけではなく、子供が産めなければ誰であれ生産性が低いとする意図が読み取れ、そうなると、すべての社会的弱者ばかりか、子供が欲しくても産めない悲運の人まで対象となるため、狭義の『LGBT』差別の問題を超えて、『社会的弱者』一般への差別、さらには人権問題全般に関わる大きな問題へとエスカレートして、批判は燎原の火の如く広がることになった。

 

もっとも、多少なりとも好意的に解釈すれば、杉田議員の『新潮45』への寄稿文から推察できる含意に、『人間の生産性』という用語をあてるのは、明らかに用語の使い方の間違いで、この場合『少子化抑止という政策目標を実現するために、限りある資源の中から予算配分しようとすると、子供を産み育てる親の経済負担をできるだけ軽減するために重点配分する必要がある』とでも述べておけば済んだはずだ(それでさえ反論や非難が殺到する可能性はあるが・・)。その意味で、杉田議員を心情的にサポートしたいと考えている人たちからは、発言の一部の言葉尻を捉えて過剰反応するのは、杉田議員を悪意を持って貶めているだけではないか、というような意見が出てくることになる。

 

しかしながら、杉田議員の過去の発言を一通り読んでみると、仮に今回の記事にさほどの悪意がなかったとしても、過去に様々な差別を容認するような発言を繰り返しており、政治家としては看過しがたい思想の持ち主であるように感じられる。彼女にも発言の自由を許すのが現代社会(民主主義)の原則とはいえ、人権尊重、法の下の平等等を原則とする現行憲法の遵守を義務付けられている公人としての政治家の資格はない、との意見が出てくるのは無理からぬところだろう。

 

 

一個人の失言ではなく自民党自体の『信念』?

 

ただ、問題は、杉田議員の発言から判断すると、この人が現行の憲法ではなく、『近代家父長制家族』をベースとしていた、明治憲法のような思想を掲げ、その優位を確信していると考えられることだ。そして、それは巷間指摘されているように、安倍首相を始めとした、現行の自民党の主流派に広がる思想でもある。2012年に公開された『自民党憲法草案』を読めば、杉田議員の思想との類似性は明らかだ。そうなると、杉田議員の発言は、失言ではなく、『信念』の表明であり、杉田議員個人の問題ではなく、自民党自体の問題にということになる。

 

ここまで原稿を書いている途中に、映画作家想田和弘氏の寄稿文が、私がここまで書いて来たストーリーとほぼ同じ展開であることに気づいた。文中に『自民党改憲草案』に関連して非常にわかりやすい説明文があるので、引用させていただく。

 

そう、自民党改憲案は、杉田議員の主張「生産性のない人間に税金を使うな」と、全く同じことを言っているのである。

 ちなみに、改憲案の起草委員会のメンバーだった片山さつき参議院議員は以前、ツイッターでこうつぶやいた。

 「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」

 「天賦人権論」とは、男も女も異性愛者も同性愛者も健康な人も病気の人も障害のある人もない人も子供も老人も右翼も左翼もアナーキストも、生まれながらに人権がある、というものである。

 自民党改憲案でそれを公式に否定し、義務とセットにした。つまり義務が果たせない人間には人権がない、とドヤ顔で謳ってしまったわけだ。

第67回:杉田水脈議員の考えは、自民党の考えである(想田和弘) | マガジン9

 

 

杉田議員(および片山さつき議員等自民党改憲草案に関わったり、支持している人達)の信念に基づけば、LGBTの件も、男女差別(杉田議員によれば男女区別)も、人権無視の非道などではなく、『家父長制度の家族』のモラルの問題であり、正義は自分たちの側にあると確信していると考えられる。

 

世界的に見ても、社会学者の見田宗介氏が近著『現代社会はどこに向かうか』*1 でも述べている通り、『近代』という時代の特質は、人間の生のあらゆる領域における『合理化』の完徹であり、国家(ないしそれに相当する)の未来のために現在の『生』を『手段化』して、禁圧することにあった。だから、『手段化』を徹底すれば、個別の人権も当然制限を受ける。このごとく、杉田議員の信念体系においては、今回の寄稿文の内容も、これまで繰り返して来た発言も、皆、正当化されうる正義と確信していると考えられる。

 

通常であれば、これほどの『失言』となれば、本人の発言の取り消し会見であったり、議員辞職であったり、あるいは所属する自民党からの離党勧告であったり、お決まりの解決手法ですぐに決着をつけてしまうところだろうが、杉田議員が自身のツイッターで、党内の『大臣クラスを始め、先輩方』から『間違ったこと言ってないんだから、胸張ってればいいよ』『杉田さんはそのままでいいからね』と声をかけられたとし、『自民党の懐の深さを感じます』と投稿していることからも、多くの自民党議員の本音は杉田議員と同様であることがわかる。

 

ただ、これは表向き『性的な多様性を受容する社会の実現』という公約を掲げてきた自民党とっては大変厄介な問題ではある。そもそも建前と本音が食い違っていることにここであらためて焦点をあてることは、百害あって一利なしだからだ。杉田議員擁護派とされる、自民党の二階幹事長なども『個人の思想/発言の自由』の範囲でお咎めなしとして済ましてしまいたい姿勢がありありだったが、結局、党としては、『個人的な意見』と留保しつつ、不適切な『表現』があると認め、『今後、十分に注意するよう指導した』ようだ。騒動の大きさを勘案すれば、異例なほど軽い処置と感じた人が多いのではないか。

 

 

トランプ大統領登場以降の米国と酷似

 

ここで、あらためて杉田議員や自民党が酷いと批判することはたやすいが、本件はもう少し大きな構図で見直しておくべき問題が底流にある。今回の騒動は、今の日本の『捻れた構造』をあらためてわかりやすく『見える化』してくれているとも言える。トランプ大統領の登場以降、米国が分断されていることが盛んに喧伝されているが、日本にも非常に大きな分断構造があることが改めてわかる。杉田議員シンパは自民党議員だけではない。今はどのメディアでも杉田議員批判記事一辺倒という印象だが、杉田議員批判の記事についている匿名のコメントを読んで見て欲しい。驚くほど杉田議員を擁護する意見が多い。

 

この対立構図は、トランプ大統領候補が急激に支持を獲得していった時期以降の米国と酷似している。当時の米国では、80年代以降大きな流れとなっていた『ポリティカル・コレクトネス』(職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で政治的に不適切な表現を排除しようとする動向)の行き過ぎで、米国のサイレント・マジョリティ(非エリート/プア・ホワイト/一般大衆)が、『息苦しい』、『本当に思っていることが言えない』、『リベラルは人権をたてにとって言論封殺している』等の鬱屈を溜めていたところに、破天荒なトランプ大統領候補が現れて、彼らの本音と不満を代弁して打ちまけ、『暴言』や『差別発言』満載であるにも関わらず大喝采を浴びて、大きな支持を集め、大統領にまで登りつめた。

 

杉田議員はLGBTに有利な法律制定などは、『行き過ぎた逆差別』と述べているが、これなど典型的な、アンチ『ポリティカル・コレクトネス』で、日本でも、『言いたくても反発が怖くて言えないと思っていたことを言ってくれた』というような反応をする人が少なくない状況は、まさに米国で起きたことと同類と言ってよかろう。

 

また、杉田議員は、2016年、産経新聞に連載していた「杉田水脈のなでしこリポート」で、LGBT支援の動きはコミンテルンが日本の家族を崩壊させるために仕掛けた』との陰謀論を唱えているが、*2 これなど、『ユダヤ人が世界を制覇しようと暗躍している』という類の陰謀論と大差ないように私には見えるが、従来ならこのような、事実かどうかはっきりしないことを放言することは、政治家として致命傷になりかねなかったが、昨今では米国でも日本でも『事実』と政治家生命とはそれほど関わりがない。その傾向は杉田議員だけではなく、昨今の自民党政権にはっきりと現れていると言っても過言ではない。有権者にとって、自分が叩きたい対象を叩いてくれる政治家、実現可能な政策に裏付けられているか、あるいは事実に基づいて発言しているかどうか等に関わりなく自分たちの利益代表として大きな声をあげてくれる政治家が喝采をあびて支持層を増やす構図は、まさにトランプ現象そのものだろう。

 

ジャーナリストの田原総一郎氏は、『嘘が常識の安倍内閣をなぜ国民は支持するのか』*3 というタイトルの記事を寄稿して現状の日本の政治シーンを不可解と嘆いているが、トランプ政権の報道官が使って大変話題になった、『オルタナティブ・ファクト代替現実)』(真実に対するもうひとつの事実。世間的には事実と見なされていない、嘘と見なされるべき事柄を『それもひとつの真実だ』と述べる時に使われた用語)が幅を利かせ、客観的な事実よりも、感情に訴えることの方が影響力がある状況は米国だけではなく、日本でも同様となっているということだろう。

 

だから、日本でも、舌鋒鋭く杉田議員を糾弾する言説が出て来れば来るほど、いかに正論でも(逆に正論であればあるだけ)、一方では、リベラルな発言に反発する空気がどんどん膨らんでいくと考えておく必要があると思う。ただ、これは本当に厄介な問題だ。言葉による議論が全く噛み合わず、熟議は機能せず、互いに感情的な反発を強めるだけで、合意形成ができないことを意味しているからだ

 

 

迫り来る真の危機

 

これが現実であることを認めざるをえないとすると、今の日本は(世界も)これからやってくるもっと本質的に厄介な問題に対処できる条件が揃っていないことになる。そういう意味で、『真の危機』が迫っているとも言える。

 

例えば、人工知能に代表される圧倒的にな技術の浸透による、中間層の大量失業の問題がある。著書『サピエンス全史』*4 が世界的にベストセラーとなった、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏など、『未来を読む』という著作におけるインタビューで、人工知能の浸透により、近い将来『役立たず階級』が大量発生する、と述べているが、これは実にリアリティがある。人工知能である種の仕事がなくなるとの見通しに対しては、なくなる仕事があっても、別の種類の仕事ができてくるとの主張があるわけだが、その『新しい仕事』には、従来の中間層(のスキル)ではほとんど対応できなくなる可能性が高い。仕事は高度なスキルを持つ人材と超低賃金労働者にしか残らないと考えられる。大量の人を労働市場から押し出し、世界中で新たな社会的・政治的問題が発生すると考えられる。このような脅威に対しては、グローバルなレベルでしか解決できない問題であることハラリは指摘するが、ブレクジットやトランプ大統領の当選等の、ポピュリスト・リーダーの台頭がはらむ真の危険性は、このような問題に対して、グローバルなレベルで協調する能力をむしばむことだとして、ナショナリズムは決して解決策にはならないと述べている。その指摘はそのまま日本にも該当すると考えざるをえない。

 

さらには、今、世界中で起きていて、しかもこのままではさらに大きな流れになるであろうことは、経済的に圧倒的な強者とその他大勢の弱者の二極化の進展だ。貧困撲滅に取り組む国際NGOオックスファム』の報告書によれば、世界で最も裕福な8人が保有する資産は、世界の人口のうち経済的に恵まれない下から半分にあたる約36億人が保有する資産とほぼ同じであり、トップ10の大企業の収益の合計は、下位180の貧しい国々の収益以上だという。*5 そして、この傾向は今まさに加速化しつつある。

 

そのような分断は、今後は、経済的な問題にとどまらない。遺伝子操作等のテクノロジーの進歩は、人間の生命という点でも、圧倒的な強者と弱者を生み出す構図を強力に推進する可能性がある。しかも、それはもう目前に迫って来ている問題だ。そして、これは非常に判断が困難な問題に社会が決断を迫られることを意味している。中でも懸念されるのが、まさに『優生思想』に対する態度の如何だ。ナチスのように、生きている人間を殺戮するほどの『優生思想』の遂行は流石に許容されることはなかろうが、遺伝子操作によって、優秀な性質のみを次世代に残していこうという意味での『優生思想』は実は今でも脈々と生きている。

 

人間の生のあらゆる領域における『合理化』を完徹し、国家(ないしそれに相当する)の未来のために『生』を手段かして現在の『生』を禁圧する、という『近代』の思想は、『優生思想』との相性が非常によく、実際に米国をはじめとした先進国では、数多くの『優生思想』に基づく政策が行われてきた。(もちろん日本でもそうだ。)脱近代化したはずの現代をもう一度『近代』に引き戻し、個人より家族や国家を上位に置こうという思想にとっては、優生思想を否定する理由がないことになる。従来は思想はあっても手段が限られていた。これからは手段も非常に安価でカジュアルに存在することになる。やろうと思えばいくらでもできる時代がやって来つつある

 

だが、これで懸念されるのは、一般人がほとんど気がついていないが、本質的に重要な問題だ。哲学者のマイケル・サンデル教授が著書『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』*6で述べているのだが、『生』『生命』には本来『被贈与性』があり、それこそが、人間を鍛え、社会を進化させるよすがとなって来た。『生命の被贈与性』というのは、『生命』は原則操作が出来ず与えられるものを受け取るしかない、という意味だ。両親は自分の子供が健康で賢く生まれることを念願するが、実際そうなるとは限らない。どのような障害や劣性形質を持って生まれてくるかわからないのが『生命』だ。だが、だからといって親はそのような子供を見捨てない。条件によって差別するのではなく、自分の子供なら無条件で愛する(もちろん例外はあるが・・)。これは見方を変えれば、人間は子供によって無償の愛を学んでいるとも言える。そして、それは人間社会、というより人類全体に無償の愛を涵養し、広げるために、非常に重要な要素となっていた。だが、仮に子供の『生命』が親のエゴで操作可能となり、実際に安易な操作が一般化すると、社会に必要な人間らしさの概念が決定的に毀損されてしまう恐れがあるとするサンデル教授の主張には、一人でも多くの人が耳を傾けてみて欲しいと願わずにはいられない。

 

 

希望は若年層のマインドの変化にある?

 

そのような、人間社会にとって決定的に重要な判断を下すべき時が来つつある一方で、社会が分断して理性的な合意形成ができず、しかも、『優生思想』が優位になっているとすると、いったいどうなってしまうのだろうか。特に、サンデル教授が提示するようなレベルの概念がどこまで理解されるのか、大変心もとないのだが、それでも、大半の日本人の心底には、人間社会にとって、決定的に重要な要素が毀損されることの居心地の悪さ、気持ち悪さが残っていると思うし、そう信じたい。これについては、昨今の若年僧のマインドの変化を見ていると、多少勇気づけられる部分がある。

 

杉田議員および現在の自民党主流派の思想が、『近代家父長制家族』を支持していることはすでに述べたが、これはかつて日本の高度成長期を推進した『モーレツ』な『企業戦士』を支えた、『夫は仕事に専念し妻は家庭を守ることに専念する』という性別役割分担の家族だ。だが、社会学者の見田宗介氏が『現代社会はどこに向かうか』で述べているように、1973年から2013年までの青年の意識調査の結果によれば、最も目覚ましい変化は『近代家父長制家族』のシステムとこれを支えるジェンダー関係の意識の解体だ(これは日本に限らず、先進国共通の傾向であるようだ)。かつては『性別役割分担』的な家族が理想とする意見が40%の支持を集めていたのが、2013年になるとわずか7%の支持に下がり、逆に夫も妻も家庭中心に気を注ぐ『家庭内協力家族』が60%近い支持を集める、理想の家庭像となっているという自民党主流派を含む中高齢層がいかにこの状況を嘆こうと、若年層の意識の現実はすでにまったく違ってしまっている。

 

しかも、その背景にある思想の違いはさらに重要だ。個人の一回限りの人生を目的や理想のために耐え忍ぶ手段としてきた『近代』の思想には、根本的な欠陥があると言わざるをえない。見田氏が述べるように、この手段主義と名付けることができるイデオロギーは、あらゆる抑圧、政治的利用主義を正当化し人間の一回限りの人生を犠牲にしてきた。だが、それは新しい未来を創造するにあたっての公準とすべきではないという見田氏のご意見に私も賛成だ。そのためには、一回限りの生を最大限生き切ることを(今この時を生きる、現在を楽しむ)こと、自分であれ他者であれ、人間や人間の生を手段化するようなことは一切排除すること、多様性を認めること、これを肝に命じていく必要がある。

 

本書でも指摘されているように、『今この時を生きる』ことは現代の若年層の支配的な思想となりつつある。『手段化』の思想に染め上げられた中高齢層の多くは、これを『享楽主義』と見て批判の眼差しを向ける傾向があるが、そうではなくて、『近代』が悲惨な歴史を通じて学んだ教訓として、新しい公準を構築するべき時が来ていることを認めていく必要があると考える(特に日本では、企業戦士の過労死、自殺等の真因がこの『手段化』にあったことを真摯に認める必要がある)。そして、もっと思想として練り上げていく必要がある。そこを起点として、分断構造を解消して、共通の合意としていけるようにすれば、日本の危機的な状況を乗り切るきっかけが掴めると信じる。

 

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サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

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完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

 

 

天才編集者のお話は本当に素晴らしかった

  

■ 柿内芳文氏という傑物

 

先日(7/7)、アメリカ出版研究会の勉強会への参加を誘われて出席してきた。それまでの自分の経歴の中ではあまり縁のない世界でもあり、興味津々ではあったが、事前の予想を遥かに上回る、驚くほど素晴らしいお話を聞くことができた。少し時間が経ってしまったが、是非とも何か書き残しておきたいと思っていた。

 

登壇者は、編集者の柿内芳文という人であることは事前に知らされていたが、業界に疎い私は失礼ながらそのお名前はまったく存じあげなかった。だが、当日わかったのだが、柿内氏が編集に関わった本は8割方購入して読んでいたし、そのうち何冊かは、ブログに感想を書かせていただいていた。いずれも非常に面白かったし、他の本とは違う『何か』を感じてもいた。そして、どの本も出版不況の渦中にありながら、非常に多くの部数が売れて注目された本ばかりだ。これらがすべて柿内氏が編集者として関わった本であることを知るにいたって、目の前に座っているうら若い穏やかな雰囲気の人物が、実はとんでもない傑物であることを悟って、襟を正した。

 

業界には疎いと言ったが、実のところ、私も編集者とまったく無縁というわけではない。自分の書いたものをいくつかメディアで発信した際に、何度か編集者と関わりを持ったし、偶然の出会いも含めて、数えてみれば何人かは編集者の知り合いもいることに気がつく。ただ、その多くは出版業界に非常に悲観的であったり、長く硬い文章を読まなくなっている一般読者の目線ばかり気にしていたり、妙にマニアックであったり、面白い人たちではあっても、『書籍を売る目的を追求する職業人』という枠を超える人にはお目にかかったことがない。だが、柿内氏はその誰とも違っている。年の頃は40代初めくらいだろうか、見た目はそれ以上に若く見える。それなのに、老成した哲学者然とした、底が知れない雰囲気がある。この人の前に出ると、より年長でしかも大学も先輩に当たるはずの私がドギマギしてしまう。それが多数の販売部数を誇る天才編集者だからなのか(天才編集者なら誰でもそうなのか)、それとも柿内氏が特別なのか、業界に疎い私には、どちらとも言い難いのだが、いずれにしても、非常に異彩を放つ人物であることは間違いない。

 

 

この本を全部担当?

 

取りあえず、この人の関わった(そしてこの日お話の対象となった/特に私の印象に残っている)書籍を下記に並べてみる。私ならずとも、この人が只者ではないことを知ることができるラインアップのはずだ。

『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』*1

ウェブはバカと暇人のもの*2

『99.9%は仮説』*3

『若者はなぜ3年で辞めるのか?』*4

『嫌われる勇気』*5

『漫画 君たちはどう生きるか*6

 

私もブログで書評もたくさん書いて来てたから、本を読んだ時に、その本のコンセプトは何か、それはクリアーに伝わって来たか、従来にない何か(価値)を提供してくれるか、というようなことは意識する癖がついている。本も普通の人に比べるとかなり多くを読んでいる方だと思う。だが、何がしかの書評を書いておこうと思う本はほんの一握りだし、まして、熟読して読書ノートをつけて、繰り返し読むような本は稀だ。だからこそ、今回驚いてしまったのだが、柿内氏が編集した本はいずれも、私が『繰り返し読むに値する本』のカテゴリーに入れた本ばかりなのだ。どれも、それまでにはない、練りこんだコンセプトが、実にクリアーに伝わってくる。

 

優れた著者として認めた人の本は出来る限り全部読むというタイプの読書は、私も昔から繰り返して来た。そして著者に関しては、そのような『私的殿堂入り』は何人もいる。だが、著者ではなく、編集者とという観点で全部読むという読み方があることを、不覚ながら今まで私は考えたこともなかった。そして、それは、優れた編集者とは何か、優れた編集者の仕事とは何かを知らなかったということでもあり、不勉強な私の目から鱗が剥がされた思いだ。

 

 

当日のお話の断片

 

では、当日の柿内氏のお話から、私がメモすることができた内容を以下に列記してみる。あくまで私がメモすることが出来た内容であり、ここに書ききれていないお話も沢山あったことはお断りしておく。

 

『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』に関して/新書とは何か

 

『さおだけ屋はなぜ潰れないか?』を読んでもそれだけでは(この本のテーマである)会計はわからない(わかるはずがない)。ただ、読者に、会計に興味を持たせることはできる。 一般人に『接点』を知らせることが新書の役割。 本当にわかるためのものではなく、エント ランスの役割。 新書に対するスタンスを明確に出来て以降は、新書の編集がうまくいくようになった。

 

一時期新書ブームがあった。皆、安易な気持ちで新書に入ってきたため場が荒れた。新書の根本的な存在理由が理解されていなかった。新書は軽く見られている。 本来新書はライフが長い。そこをちゃんと見ていない人が多い。新書は知への架け橋。川に架ける橋の役割。岩波新書は権威化しすぎ。できた当初はそうではなかったはず。 ずっと違和感を持っていた。教養は武器と捉えている。若年層に対して、武器としての教養を提供したい。

 

『嫌われる勇気』について

 

『嫌われる勇気』はアドラー心理学を扱っているがこの本が『心理学』のコーナーに置かれてしまっては売れないと思っていた。この本は、古典をつくろうという企画であり、そういう意気込みで取り組んだ。 20年後も売れ続けていること、世界中で売れることを目指した。(そうなりつつある。)

 

堀江氏はまさにアドラー的な生き方をしている。 サービス精神が旺盛。 新しいものばかりが良いのではなくて、世の中に伝わっていないが良いものをどう伝えるかが 重要。 そういう意味での知の入り口を若い人に提示したい。

 

出版社/編集者の役割

 

出版社とは、たった一人の頭にやどる知識、思想を公共財にする存在。 文化的遺伝子の爆発をお手伝いする役割。 爆発した後は、出版社の手には負えない。 『書き手の狂気』『狂っている人』を扱いたい。知名度はあまり関係ない。基本的 に無名の人を相手にしたい。 狂気を持っている人の強い言葉をそのまま出せれば売れる。 平均的な、バランスを取っている表現は、狂気が足りず面白くない。

 

ライターについて

 

ライターは翻訳家。 著者の頭の中を翻訳して文章を書く仕事。 日本では、ライティングは過小評価されている。

 

編集者の心得

 

やることについては、常に必ず言葉にする。そうするとぶれないし、訓練にな る。 編集者は、平均的になりがち。 プロの編集者を定義することが必要だが、難しい。 いかに突き抜けたものを持っているかがプロの条件。 社会性はゼロでも、何かが突き抜けているとプロとしてやっていける可能性がある。

 

普段から何でも定義することを心掛けていて、その点では自分 はプロだと思う。 際立った好奇心、ゼロベース思考も強み。日々鍛えている。 例えば、W杯の試合を見て『勇気をもらった 』とかいう人がいるが、これはそもそもどういう意味なのか。それでなにが起きるのか。 とことん疑い、考えている。

 

その他

 

針の穴を通すくらいに絞り込むことによって、全体像が見えてくる。漠然とした 読者を想定してはだめ。

知識は江戸時代には特権階級のものだった。(独占しないことで寺子屋が広まっ た。 )知識は独占しないのが自分の方針。日本の隅々まで知を届けたい。 明治時代の人から見れば、スマホを見ると知識を解放して共有したいという自分たちの夢が実現したと思うかも しれない。知へのアクセスはスマホで完全に実現した。紙もWebも根本的には変わらない。知を末端まで伝えるという役割は同じ。

 

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一言一言に含蓄があり、聞くものを特殊なオーラで包み込むかのようだ。そのニュアンスや雰囲気までお伝えできないことがもどかしい。ちなみに、柿内氏は次のテーマとして、『教育』を考えているのだという。教育分野で次の素晴らしい本が出来上がることが今から楽しみだ。



個人的に特に共感した点

 

お話の中でも、特に私が共感したのは、編集者は。『世の中に伝わっていないが良いものをどう伝えるかが重要』というところだ。有名人ではなくても、『狂気』と言っていいくらいの強いメッセージ性を持つ人間の頭に宿る、知識、思想を公共財にする、すなわち文化的遺伝子の爆発をお手伝いする役割という定義は本当に素晴らしい。

 

私も、自分のブログについて、時々、何故、何のために書いているのか、自分がなぜ書き続けることができるのか、考え込んでしまうことがあるのだが、柿内氏のお話を聞いていると、自分の内側にも、『知識、思想を公共財にすること』に対する憧れのような気持ちがあって、それが柿内氏のお話に対する共感と響き合ってマインドの表面に浮かび上がってくるような気がする。自分にもそういう気持ちがあったことを教えてもらったような気がしてくる。

 

昨今、インターネット上は偽物やフェイクニュースで溢れかえり、議論しようとしても不毛な攻撃や炎上ばかりで、私がブログを書き始めた2008年当時と比べると、何かを書いて意見表明をすることのハードルは格段に上がってしまった。ページビューを増やして広告費を稼ぐことを目的として、耳目を集めることができれば偽物でも何でもいいという感じの文章は増殖しているが、何がしかの意味や価値を文章に込めて、少しでも深い部分での議論が活性化するようにと願う書き手にとっては、かなり過酷な場になってしまった。ネット上のバーチャルな炎上どころか、場合によっては、物理的な被害(刺殺される等)さえ覚悟しておく必要がある。だが、場が荒れてしまっているからといって、少しでもこの空間を質の高い知識や思想で豊かにすることに貢献するべく努力を続けることの意味は失われていない。そう元気づけてもらったような気もしてくる。

 

出版業界は、20年以上続く不況のどん底にあり、ここに安易な儲け話が転がっているようには決して思えない。だが、出版業界の心ある業界人なら、柿内氏のお話を聞けば、奮い立つに違いないし、是非そうであって欲しい。そのような優れた出版業界人が増えることこそ、日本の出版業界が再活性化する一番の要件のように思える。何より柿内氏の仕事がそれを証明している。

 

 

世の中に伝わっていないけど良いものの発掘

 

しかも柿内氏が述べるように、ことさらに新しいものを創造するのではなくても、世の中に伝わっていないけれども、良いものはまだたくさんある。例えば、柿内氏は心理学者アドラーを発掘したが、アドラーとも交流があり、『人間性心理学』を創始した、エイブラハム・マズローなど、その業績と比較して十分評価されているとは言えないし、研究内容自体も、光のあて方次第で『何十年も世界中で読み継がれる古典』をつくることができるように思えてならない。また、最終的にはマズローの言う『至高体験』を『超越意識』としてさらに先に進めようとした、著書『アウトサイダー*7 で有名なイギリスのコリン・ウイルソンなども、扱いかたを間違えると、それこそ『狂気』に飲み込まれる恐れがあるが、今認識されているより、もっと大きな魅力を引き出せるポテンシャルのある人物だと思う。

 

まあ、人に頼るのだけではなく、自分自身、自分が今できる発信手段(ブログ等)で、可能な限りそのような発掘作業にも挑戦してみようと思う。実のところ、その一端が、前回書いた、オウム真理教関連のエントリーだったりする(全く十分とは言えないが・・)リスクはあるだろうが、挑戦しがいがありそうだ。そのような意欲をかき立ててくれた、柿内氏にあらためて感謝しておきたいと思う。



*1:

さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学 (光文社新書)

さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学 (光文社新書)

 

 

*2:

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 

*3:

99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)

99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)

 

*4:

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)

 

*5:

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

*6:

漫画 君たちはどう生きるか

漫画 君たちはどう生きるか

 

*7:

アウトサイダー(上) (中公文庫)

アウトサイダー(上) (中公文庫)

 

オウム問題を総括すると見えてくる現代日本の『カルト』に対する脆弱性

 

 

◾️ 薄れゆくリアルタイムの感情

 

スマホのポップアップに突然、『オウム麻原処刑』のニュース記事が出て以来、久々にオウム真理教関連の情報がメディアに溢れて来て、かつて本件について考えていたことを次々に思い出すことになった。処刑については、一つの区切りであることは確かだが、これは第一幕の終わりではあっても、続く第二幕が始まってしまうのではとの懸念が咄嗟によぎった。同様の懸念を表明する人は多い。よく気をつけていないと、当事者(旧信者や後継団体)とは関係のないところからでさえ『歴史が繰り返す』恐れは多分にあるように思える。

 

1995年にあの事件が起きてから、本年で23年目ということになる。リアルタイムにあの事件を見ていた私たちには、何らかの報道があるたびに、当時感じた何とも形容しようのない戦慄、怒り、嫌悪、悲しみ等の入り混じった、濁った絵の具のような『感情』が蘇って来る。もちろん、直接の被害者や関係者の強い悲しみや怒りとは比べようもないが、自分にとっても、それまでおよそ経験したことのないような種類の強い感情であることは確かで、それがあのような事件を二度と起こしてはならないとの思いを強く突き動かす。

 

だが、23年も経つと、あの『感情』を誰かに伝え、共有することは至難の技だ。『強い感情』だけでは、抑止力としては片手落ちであることは言うまでもないが、逆にそれがないとするといつまで抑止効果が持続するのか、何とも心もとない。おそらく、これは戦争と同じで、戦争体験者が、戦争を知らない子供達に不安げな視線を投げかける気持ちが今はすごくよくわかる。

 

 

◾️ 消滅に向かうかに見える宗教

 

ただ、多少冷静にこの23年間を振り返ると、かつてオウムがその一つとして数えられた新興宗教団体の信者は激減している。*1 一時期は破竹の勢いで信者を増やした新興宗教は軒並み退潮で、公開されたデータからはわかりにくいが、創価学会や、かつてオウムのライバルとして比較された幸福の科学もその例外ではないようだ。日本人の新興宗教団体への拒否感は強く、昨今では、そのような団体と関わっていることで、社会的な評価を落としてしまうのではないかとの懸念を持つ人が非常に多い。中には真面目な団体や信者もいることは間違いないにせよ、『新興宗教嫌い』は今の日本人の大勢を占めると言っても過言ではない。

 

では、キリスト教、仏教等の伝統宗教はどうかと言えば、こちらは『嫌悪感』とか『宗教嫌い』の対象とは言えないものの、信者の減少という点では同様だ。『寺院消滅』*2 という書籍には『全国約77,000ヶ寺の内、既に住職が居ない無住寺院が20,000ヶ寺以上、さらに宗教活動を停止した不活動寺院は2,000ヶ寺以上にも上る。25年後には、3割から4割の寺が消える』とあるが、これは地方出身の自分も実感するところでもある。

 

宗教学者島田裕巳氏によれば、宗教が退潮にあるのは、経済成長が安定期に入って以降の先進国全般に言える傾向で、その主な理由は資本主義の発達がもたらす『世俗化』なのだという。つまり、豊かになって生活が満ち足りると宗教団体に入る意味を感じなくなってしまうということだ。

 

かつての日本の高度成長期や現在の新興国のように経済が急成長している局面では、地方から仕事のある都市部に大量の労働者が出てきて孤独をかこつことになる。自分が深く関わっていた地域共同体から切り離されて不安を感じている人たち(共同体難民)が大量に発生する環境は、宗教団体の信者獲得という点では絶好の機会となる。教義や信仰で誘うのではなく、宗教共同体に取り込む形で、宗教団体が急拡大するということが起きる。

 

ところが、現代では、特に都市部では、宗教の重要な行事である葬式でさえ不要と考える人は増え、実際に僧侶や親戚を呼ばずに葬儀を安く済ませる人が急増している。宗教団体の盛衰は、家族や共同体の盛衰と並行しており、家族や共同体が解体しつつある現代では、葬儀のような行事に時間やお金を使う意味が感じられなくなっていると言える。

 

実際、どの調査の結果をみても『無宗教』と回答する日本人の数は圧倒的に多い。*3 しかも、仏教や神道と回答している人も(日本人全体の2~3割)その多くは、他国の信者と違って、仏教徒なのにクリスマスを祝う、というようなある種のいい加減さを併せ持っている。少なくとも教義や信仰について突き詰めて取り組んでいる姿は浮かんでこない。

 

このデータだけ見ていると、全体の趨勢としては、日本で再びオウム事件のような出来事が起きる可能性は低そうに思えるかもしれない。だが、本当にそうだろうか。

 

 

◾️どうしてオウム事件は起きたのか

 

オウム事件は完全に解明されたわけではなく、特に、当時の日本のトップエリートが大量にオウムに入信して、しかも最終的には教祖による殺人の指示まで受け入れて実行してしまった理由がわからないと言われ続けてきた。原因が解明できなければ、事件の本質は理解できないし、再発防止も覚束ないとの危惧はもっともだ。

 

しかしながら、そうは言っても、かなりの程度納得できる分析や説明は出てきていて、それを参照点としてオウムのことを語ることも、今後の見通しや再発防止について語ることもある程度はできると考える。少なくともこれまでに出てきているオウム事件の分析を通じてでさえ、十分に現代日本の危うさを浮き彫りにすることはできると考える。

 

では、どのような条件/環境が揃った結果、あのような悲惨な事件が起きたのか。下記にできるだけコンパクトにまとめてみた。その上で、どのような道筋でオウムが興隆し、あのグロテスクな事件をひき起こすことになったのか、今後同様の事件が発生する可能性があるのか、あるとすればそれはどうしてなのか等につき、私の意見を述べてみようと思う。

 

教団の特徴(教団が多数の信者を取り込み、暴走した背景)

 

・科学では説明しきれていないこの世界の全体性を説明できる(と思わせる)

 教義(思想/物語)を持っていた。

 

・世俗の生活世界では自分の価値や生きがいを感じることができず、

 教団がそれを与えてくれるように思えた。それは、特に社会体験のない

 ナイーブな学歴エリートに魅力的だった。

 

・共同体の絆が弱まっているところに(そう感じている者に)ある種の

 共同体の絆を感じさせることができた。

 

・洗脳手法等、人間の心理の仕組みについて精通していた。また信者を

 世間から切り離す特殊な環境等が結果的に、『同調』*4『集団浅慮』*5服従*6 といった社会心理学の概念で説明されるような状況を作り出した。

 

 

社会環境

 

・近代科学や近代思想への不信感が高まり、社会全体にオールタナティブ 

 (代替物)を求める機運が高まっていた。

 

・科学では説明できな不思議な現象を受け入れる人も多くなってきていた。

 

・共同体から疎外されていると感じる人が増えていた。

 

・バブル膨張から崩壊の過程で、欲にまみれて暴走する日本人の姿に嫌悪感を

 感じる人が増えていた。

 

・日本社会が、権力や権威をもつ人物から命令されると満足感を得て不合理な

 要請にも服従するような、心理学用語でいう『服従』が機能しやすい

 構造を持ってた。

 

 

◾️ 科学にはないがオウムにはあったもの

 

科学的発見によって、この世界の解明は進み、まだわからないことは多いが、今後の科学の発展でそれも解明されていく、そのような言説を信じている人はまだ現代の日本にも多い。だが、これは根本的な勘違いだ。科学は仮説/検証というプロセスを経て、物体と物体の関係を明らかにしていくだけで、決してこの世界の全体像を総括的に語ってくれるわけではない。ニュートン万有引力の法則を、アインシュタイン相対性理論を導いた。静止していると考えられていた宇宙は膨張していることがわかった。だが、どうしてそんな法則があるのか、その中で生きる私たちとは何者なのか。どう生きるべきなのか、科学者は何一つ答えてくれないし、答える必要があるとも考えていない。そもそも答えることができない。

 

だが、オウムはその説明/物語を持っていた。巷間言われている通り、それはチベット仏教等を援用したり、それ以外の雑多なオカルト的な知識(神智学等)のごった煮であったりで、首尾一貫しておらず矛盾だらけとの批判は少なくない。ただ、それでも、犯罪が明らかになる前、メディアへの露出が多かった時期には、当時の文化人や宗教研究者からの評価はかなり高かった。少なくとも評価できる要素があったと考えるのが正当だろう。当時多少なりともオウムを持ち上げた人はその後大変な目に会うわけだが、彼らを批判する人達も、実際オウムが何を語っていたか自分で確かめて判断しているわけではなく、こんな悪辣な犯罪集団の思想に一片たりとも評価できるものがあるはずがない、との先入観で頭ごなしに批判している人が大半だろう。

 

 

◾️ 思想の空白状態

 

もちろんだからといって、オウムの教義は正しいなどと述べるつもりはまったくないが、自身が生活する現実世界の全体像を見渡すことができない人々に、この世の意味と、首尾一貫して見える説明を与えることができたことは確かだろう。逆に言えば、オウム程度の教義で埋められてしまうほど、当時も(今でも)レベルの高い思想や世界観が大半の日本人が生きる生活世界にはなかったということになる。いわゆる『空白状態』に近かったわけで、そのことは本来もっと問題にすべきなのだと思う。そして、この『空白状態』は当時より今の方がずっと深刻で、そういう意味では次のオウム的なものが出現する環境はどんどん整いつつあるとも言える。

 

 

脱事実の時代

 

政治学者のハンナ・アーレントは著書『全体主義の起源』*7 等で、大衆は『事実』では動かず、彼らを包み込んでくれると約束する、勝手にこしらえ上げた統一的体系の首尾一貫性だけが、大衆を動かし得ると述べているが、オウムがそのような『統一的体系』を持っていたことは疑いえない。事実ではないにせよもっともらしかった。そして、オウムは事実に見えるように様々の工夫を凝らしていた。ところが、現在では、米国のトランプ政権幹部が使った『代替的事実(alternative facts)』という表現に象徴されるように、米国だけではなく、世界各国が(日本を含めて)事実を重視しない『脱真実』の時代に入ったと言える。もっともらしく事実を取り繕う必要さえなくなりつつある。環境の危うさという点でも、23年前を遥かに上回っているというべきではないか。

 

 

◾️エリートがオウムに入信する理由

 

ただ、一般大衆はそうでも、オウムに大量に入信していた、高学歴エリートは違うのではないか、と考える人も多かろう。だが、これは、明治期以降の日本の学歴エリートの過大評価の産物というべきだろう。しかも、今では忘れ去られているが、当時、もう一つ特殊な環境があった。

 

オウムに当時親和性が高かったのは『ニューアカデミズム』*8ポストモダン*9ニューエイジ*10『ニューサイエンス』*11あたりだった(以降、これらを総称してニュームーブメントと呼ぶ)。オタクとの親和性が高いという人もいるが、私には、少々的を外しているように思える。これらは、いずれも今となっては評価はガタ落ちで、『ニューサイエンス』なども『ニセ科学』と味噌糞に断じられてしまっている有様だが、少なくとも特に70年代以降、オイルショック/資源危機、環境破壊、冷戦/核戦争勃発の可能性等が盛んに取り沙汰されていた時代背景もあり、近代思想や近代科学の限界が非常に声高に唱えられていて、『ニュームーブメント』は今では想像できないくらい大きなものだった。そして、近代を乗り越えるためのオールタナティブ(代替物)として、それなりにしっかりとした思想に裏付けられた言説も少なくなかった。そのエッセンスの比較的良質ものは、現代にも引き継がれている。ニューサイエンスの『要素還元主義を基盤とする西欧近代科学の方法論を批判し、全体論や東洋思想に立脚した新たな科学観や人間観を追求する』といった姿勢や思想もその一つで、最近何かと話題の多い、若手の科学者、落合陽一氏の言説の背後にある思想も、まさにこれだったりする。このようなトレンドの中から生まれたのものの一つがオウムだった。

 

一方、当時の日本社会(特に企業)は、知的権威やエリート主義に懐疑的な立場をとる、いわゆる反知性主義的な空気が支配する場所だったから、当時のナイーブな高学歴エリート、中でも『ニュームーブメント』の薫陶を受けて来た者の多くは、企業の空気が肌に合わず、こんなはずではなかったと嘆き、すぐに挫折し、その結果、オウムのようなオールタナティブを提供してくれて、ナイーブな学歴エリートの心理をくすぐってくれる存在に強い救いを感じ、与えられた仕事にやりがいを覚えたと考えられる。

 

 

◾️ バブルの洗礼とオウムの過激化

 

ただし、日本では、『ニュームーブメント』の全盛期は80年代終わりくらいまでで、その後はバブルの熱狂がすべてを押し流し、難しいことを考えるより、株や不動産に投資して儲けるのが先、というような雰囲気になってしまった。しかも、そのバブルも破裂して、すべての価値や大きな物語が崩壊して見えるようになり、オウムが事件を起こした90年代の中頃というのは、それまでの価値が大きく転換する起点だった一方で、一種のニヒリズムや終末論が忍び寄ってきていた時期とも言える。オウムは確かに、まさに『ニュー・ムーブメント』の時代の濃厚な空気の中から生まれ、これらの影響を受けて形成されてきたが、一方で、バブルの膨張~破裂の時期を経て、すべてが行き詰まりつつあることを強く意識するようになる。同時に世間の自分たちへの評価が冷めていくことを実感していたと考えられる(特に総選挙惨敗以降はそれを意識していたと言われている)。その状況を打開するために、勧誘は強引になり、退会を許さず、組織の締め付けを強め、思想は過激で偏狭になっていった。

 

そんな中で麻原は、転生輪廻思想や、終末思想を都合よく曲解し、来るべき終末を自分たちが媒介となって早く招き寄せ、バブルで堕落した日本人のカルマがこれ以上増えないように、自分たちが早めにあの世に送りこみ、この世を浄化することが高貴な使命と信じ込むようになったと言われる。

 

 

◾️40%の日本人が信じる転生輪廻

 

『ニューサイエンス』が『ニセ科学』と断じられているように、宗教嫌いの日本人には、今では、転生輪廻思想や終末思想などもはや聞く耳を持つものはいないだろうの声も聞こえてきそうだが、そうではない。宗教嫌いと言っても、主としてカルト的な新興宗教を忌避しているだけで、根本的な宗教嫌いというわけではない。『宗教は悪いものか』という問いに対する国際比較では、日本人が一番宗教を悪いものとは思っていない、という結果も出ている。*12

 

以前から言われているように、日本人の思考は本人がそれと気づかないだけで多分に宗教的だ。しかも、問題の転生輪廻についても、調査によれば現代の日本人の40%は何らかの形でこの存在を信じているという。*13 実に驚くべき比率と言える。ただ、『この世で良いことをすれば来世で救われ、悪いことをするとばちがあたる』というような穏健で勧善懲悪的な道徳として受け入れられている間はいいが、転生輪廻を信じると述べる人達は、高度な仏教思想とその用語を使って語りかけられたりすると、麻原のようなとんでもない解釈であっても真実味を感じて、納得してしまう恐れがある。

 

多くの日本人が転生輪廻思想を信じている理由の分析には今回は立ち入らないが、いずれにしてもこれが現実だとすると、『そんな迷信を信じるな』などと上から目線で言うだけでは問題は解決しない。レベルの高い宗教家や宗教思想家に、麻原解釈の迷妄を打破してもらうしかない、ということになる。だが、これも今の日本では難しそうだ。伝統宗教の側も世間の誤解を恐れてこのような場に出ることは躊躇してしまうだろうからだ。

 

 

◾️どうして高学歴の信者が人を殺したのか

 

また、麻原の思想には他人を殺すことまで含まれていたのに、高学歴の信者がどうしてやすやすと従ったのかという疑問は、それこそ社会学の知を援用すればかなりの程度説明がつく。しばらく前の私のブログ記事でも取り上げたが、この問題はヒットラーに従ったナチスの将校(アイヒマン)の心理分析と言う形で、哲学者のハンナ・アーレントが展開した論考が有名だ。手前味噌で恐縮だが、私のブログ記事より、関連する部分を参考のために引用させていただく。

 

哲学者のハンナ・アーレント女史は、ナチス親衛隊の一員として数百万人のユダヤ人を収容所に送ったアイヒマンの裁判を傍聴した。アイヒマンは被告席で『上からの命令に従っただけ』と繰り返す。アーレント女史は、その言動のあまりの矮小ぶりに驚愕し、アイヒマンを巨悪に加担した残虐な怪物とは程遠い、単なる凡庸な小役人だったと断じた。そして、人は『思考しなければ、どんな犯罪を犯すことも可能になる』と結論づけている。

 

このアイヒマン裁判に着想を得て、スタンリー・ミルグラムという心理学者が行った有名な実験(ミルグラム実験アイヒマン実験とも呼ばれる)があるが、そこから導かれた結論は、閉鎖的な環境では、誰でも権威者の指示に服従して、悪魔のように振る舞ってしまうことがある、ということであり、まさにアイヒマンのように、権威の庇護にある安全圏で、個人の思考を放棄すると、善悪やモラルの判断まで放棄してしまうことがありありと示されていた。

教養のない実務家が跋扈する時代を終わらせるべき時 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

 

 

オウムのケースでも、信者は閉鎖的な環境に置かれ、麻原という体系的な思想を持つ権威者が命令を下し、信者は麻原の権威の下で個人の思考を放棄し(放棄することを強制され)、善悪のモラルの判断まで放棄してしまったようだ。まさにアイヒマンのように、あるいは、ミルグラム実験の結果そのままに、信者が振舞ってしまったと考えられる。人は、このような状況では、命令されたことによって自らの責任を回避したかのような錯覚に陥り、倫理に反した行動でさえ許容してしまうということは今では広く知られているが、オウムでもこれが典型的な形で起きてしまったと考えられる。このことは、ナチスやオウムのような特殊ケースだけではなく、最近、日大アメフト部で起きたこと*14も同類系だし、旧帝国陸海軍から現代の企業や大学の体育会のような組織に至るまで、日本では同様の事例をいくらでも見つけることができる。残念なことに、この構造は未だに治癒しない日本社会の病弊の一つだと思う。

 

 

◾️ 神秘体験を悪用したオウム

 

加えて、オウムの場合は、特定の、『神秘体験をするためのプログラム』を持っていて、これを経ると、それまで神秘体験など無経験だったナイーブな人など(ほとんど誰でもそうだろう)、強い感銘を受けて、自分で考えることをやめて麻原をカリスマとして認め、その物言いを信じ込み、がんじがらめに取り込むまれてしまう。本当に神秘な体験があるかどうかに関係なく、そのような体験を人間にさせるノウハウは古くから宗教団体等の秘伝のような形で存在している。

 

ただ、そんな神秘体験で人を取り込むような宗教団体は、あまり筋が良いとは言えず、古来からの『人類の師』ともいえる孔子は『怪力乱神』を語らず、仏陀は霊魂や輪廻等に関連する一般の人の質問には『無記』(答えない)という姿勢で臨んだとされる。神秘体験のような形で人を絡め取るようなことを戒めておられた、ということだ。あるいは、自らの教えの本質は、そんなところにはないという信念のあらわれとも言える。もちろん、キリストのように必要に応じて奇跡を行うような『師』もいて、臨機応変であって良いとは思うが、少なくとも『神秘体験』を悪用するような輩は信用してはならない、ということを教訓とすべきだと思う。だが、残念ながら、普通の人はこのようなことを真面目に議論する機会はまったくと言っていい程無いため、今も非常にナイーブなままだ。ということは、悪用する側にとって、都合の良い状態は今もまったく変わっていない、ということになる。

 

 

◾️共同体難民はどうなるのか

 

共同体の件については、古くからのオウム信者が口々に語る通り、初期のオウムは非常に和気藹々として居心地が良かったと言われており、ある種の『共同体難民』の受け入れ先になっていたと考えられるものの、最後の頃は組織が硬直化して、しかも恐怖支配が徹底していたようなので、必ずしも共同体として魅力があったとは言えないかもしれない。

 

よって、少々オウムに絡めて語りにくい部分もあるのだが、かつては日本でも高度成長期に都市部に出て来た大量の人たちが『共同体難民』となり、それが新興宗教団体の膨張の原因となったことには、今再び注目しておく必要があると考える。というのも今現在も、地域共同体も企業共同体も崩壊過程にあり、今後は人工知能等の導入が進むことによって、中間層/下層の失業が急増し、どの共同体にも属すことができない『共同体難民』はさらに激増する恐れがあるからだ。生涯未婚率もこの20年で20%近く上昇し、15年後~20年後の生涯未婚率は男性で3人に1人(33%)、女性で5人に1人(20%)にまで達するとの予想もある。共同体難民どころか、家族難民も急増している*15

 

日本人はどこまでこの状態に耐えられるのだろうか。インターネットのSNSの登場で、これが共同体難民問題の解決の一助になるのではないかとの期待感が、2000年代中頃以降、高まったこともあったが、今では、SNSは蛸壺的な関係を強化することはあっても、従来のような共同体の代替物にはならないという見解がほぼ定説となってきた。それでも、何らかのSNS共同体づくりについては依然様々な取り組みが続いているが、最近総務省から公開された、2018年度版の情報通信白書は、これに冷や水を浴びせかける衝撃的な事実を浮き彫りにしている。

 

白書によれば、日本のSNS利用者の大半は自分からはほとんど情報発信や発言をせず、他人の書き込みや発言を閲覧するだけで、SNSを情報収集や暇つぶしの手段として利用しており、他人とのつながりを得るために利用しているわけではない、という。

 

しかも、他国と比べ、オンライン・オフライン共に他人に対する信頼度が低く、SNSで知り合う人を信頼していないことがわかる。インターネット時代になって現れ出て来たツールも日本では共同体難民の避難先にはなりきれていない実態が露わになったとも言える。*16

 

暖かで健全な共同体作りに寄与しないどころか、逆に、偏狭で熱狂的な少数意見を炎上等によって非常に大きな動向のように見せることには大いに寄与している。直近でも、インターネットの中での怨恨で殺人事件が起きたばかりだが、ただでさえ炎上で辟易しているところに、こんな事件が起きたりすると、ますます多くの日本人がSNSのコミュニティから距離を置くことになりかねない。

 

ところが、イスラム国(IS)が非常に効果的にインターネットツールを使いこなして見せたように、あるいは、2016年の米国大統領選挙でSNSを利用した世論操作が非常に機能したとされたように、カルト的な団体にとっては、現在のインターネット環境は非常に便利で、有効利用の工夫が進んでいるとも言える。

 

 

◾️危惧されるポスト・オリンピックの時代

 

このように、現在では、再びオウム事件と同様の事件が起きてもおかしくない環境が出揃って来ているように見える。しかも、東京のオリンピック以降の日本では、所得格差の拡大、失業率の増大、インフレ、少子高齢化の進行に伴う税負担の増大等、様々な難題が予想されていて、共同体/家族難民状態の中間層/下層を直撃すると考えられる。この予想に背筋が薄ら寒くなるのを感じるのは私だけではないはずだ。

 

そういう意味で、オウム事件を平成等時代に閉じ込めて封印してしまうのではなく、今ここで、すぐに起きてもおかしくないこととして再認識して、少しでも有効な対策を検討してみる必要がある。テロという最悪の形で表面化しないとしても、潜在する問題はこのまま放っておくと様々な形で、日本社会を歪め、壊してしまいかねない。心のケアーの方も間違いなく必要だが、避難先を設けずに放っておくと、それこそ難民だらけになって、日本社会は疲弊して立ち上がれなくなる恐れもある。そうならないために、具体的に何をすべきなのか。その議論をすぐに始めるために、まず一人一人がオウム事件を検証し改めて総括してみて欲しいと思う。

 

*1:宗教年鑑』の1996年版と、その20年後のものである2016年版を見比べて、その間に主要宗教団体の公称信者数にどれほどの変化があったのかを検証してみよう。まず立正伎成会は626.8万人が270.5万に。霊友会は250万人が129.5万人に。PL教団は118万人が89.5万人に。生長の家は87.6万人が49.6万人に。天理教は190.9万人が119.1万人に。そういった数字である。

『日本の新宗教50 完全パワーランキング』 - 一条真也の新ハートフル・ブログ

*2:

寺院消滅

寺院消滅

 

 

*3:『ピュー・リサーチ・センター』の調査

2012年にアメリカの『ピュー・リサーチ・センター』という調査機関が発表した調査結果によると、日本人の57%無宗教36.2%が仏教となっています。

『世界60カ国価値観データブック』のデータ

『世界60カ国価値観データブック』には日本人の約52%が無宗教で、35%が仏教を信仰していると書かれております。

残りは神道が占める割合が多いです。

国内機関が日本国民に行なったアンケート

一方国内の調査部隊が日本国民に行なったアンケート調査等では、何かの宗教を信仰している人は日本人全体の2割から3割という結果が出ました。

残りの7割から8割の人は無宗教であるということを自覚しているということが明らかになりました。 

日本の宗教の割合を解説!実は神道が多い?|終活ねっと

*4:同調:心理学用語集 サイコタム

*5:

集団浅慮(集団思考 / groupthink)について理解しておきたいこと | KAIGO LAB(カイゴラボ)

*6:服従:心理学用語集 サイコタム

*7:

全体主義の起原 1――反ユダヤ主義 【新版】
 

*8:

ニュー・アカデミズム - Wikipedia

*9:ポストモダン - Wikipedia

*10:ニューエイジ - Wikipedia

*11:ニューサイエンスとは - コトバンク

*12:宗教は悪であると考える人が最も少ないのは日本?!(海外の反応)| かいこれ! 海外の反応 コレクション

*13:「輪廻転生」と「前世の記憶」~日本人の4割が信じる「生まれ変わり」の神秘(竹倉 史人) | 現代新書 | 講談社(1/3)

*14:日本大学フェニックス反則タックル問題 - Wikipedia

*15:「生涯未婚率」急上昇!婚活専門家が提唱する更に深刻な3つのこと

*16:オンライン上の相手について、「SNSで知り合う人達のほとんどは信頼できる」と答えた日本のユーザーは12.9%だが、アメリカは64.4%、ドイツは46.9%で、イギリスに至っては68.3%にも上る。

「インターネット上で知り合う人達について、信頼できる人とできない人を見分ける自信がある」という人も、日本では20.6%なのに対し、アメリカは66.7%、ドイツは57.1%、イギリスは71%だった。

オフラインでの対人関係でも、「ほとんどの人は信用できる」と考える日本人は33.7%。他3か国が軒並み60%以上を超えているのと比べると、大幅に低い数値だ。「信頼できる人とそうでない人を見分けられる」人も、日本が36.6%なのに対し、他3か国は70%以上だった。

日本人はSNS上で知り合った人を信頼しない傾向 総務省の白書で明らかに | キャリコネニュース

『ルールを守りマナーが良い日本人』はいつまで維持できるのか?

 

 

W杯で世界から賞賛された日本人のマナー

 

サッカーのW杯はいよいよ佳境に入ろうとしている。日本は直前で監督が交代する等の混乱もあり、下馬評では一次リーグで全敗する可能性が高いと酷評されたものだが、それを見事に跳ね返して決勝トーナメントに進出したばかりか、有力な優勝候補とされたベルギー(同じ優勝候補のブラジルも撃破した!)を相手に堂々と渡り合って、後一歩のところまで追い詰め、世界の賞賛を浴びた。

 

賞賛と言えば、日本選手やサポーター(掃除をしてからスタジアムを後にする等)のマナーの良さは、試合での健闘とあいまって、今回も世界から高い評価を受けることになった。*1やはり日本は世界に誇れる『礼節』の国であると誇らしく感じた人も多かったと思う。世界に、『日本、ここにあり』との強烈なメッセージを届けてくれた選手や関係者、現地で応援していたサポーターにあらためて感謝したい気持ちだ。

 

ただ、この日本人の『ルールを守りマナーが良い』という性向だが、困ったことに、今のままでは維持出来なくなっていくのではないかとの危惧を最近感じるようになった。また、表面上はルールも守るし、マナーが良いように見えて、それがむしろ日本人の心を蝕み、社会を停滞させている面もあることを意識させられるようにもなってきた。もしかすると、この日本人の大切な『ソフトパワー』は、意識してメインテナンスしていかないとエネルギーが抜けて霧散してしまうのではないか。

 

今回は、この点につき、思うところを述べてみたい。ルールやマナーという点で、日本と対局にあると言われる中国人と比較しながら論点を詳らかにしていこうと思う。

 

 

正反対の日本人と中国人

 

訪日中国人観光客数は6年連続で年間1,000万人を超えており、2018年も今のペースなら3,000万人を超える可能性は高いという。*2 今や日本の観光地はどこでも中国人で溢れ、一般の日本人が中国人との接点を持つ機会も圧倒的に増えたため、中国人の行動や振る舞いを目の当たりにする日本人は激増した。同時に、日本を訪れた中国人が日本人や日本の風物に接触する機会も増えて、その結果、従来のような政府のお仕着せの日本人像ではなく、自らの体験を通じて得た率直な感想を持つ中国人の方も増えたばかりか、それがSNS等を通じて漏れ聞こえるようになった。

 

その結果、両者(日本人と中国人)が全く正反対の性向を持つことが(従前より直接接触があれば誰でもわかっていたことだが)一般人のレベルにまではっきりと認知されるようになった。

 

日本人から見ると、

『中国人ルールを全く守らず、マナーも悪い』

 

中国人から見ると、

『日本人は皆ルールを守り、礼儀正しい』

 

確かに、普通の日本人の感覚からすれば、中国人観光客は、列に並ばない、静かにすべき場所でも遠慮なく大騒ぎして食事中にも騒ぎ散らかす、トイレを流さない、どこにでも痰を吐くなど、ありえないほどルール無視で、マナーが悪いと感じてしまう。

 

 

ルール遵守/マナー向上を推進する中国政府

 

但し、中国人でも、特に若年層など、海外の情報に触れる機会も多く、旧世代よりマナーが良くなって来ていると言われている。日本への訪問経験のある若い中国人の中には、日本人のマナーの良さに影響を受けたと語る者も少なくないと聞く。それどころか、日本を崇拝し、自身が中国人であることを恥じ、精神的には日本人になりたがる『精神日本人*3と呼ばれる中国人さえ出現していて(しかも増えていて)問題になっているという。

 

習近平政権も、発足当時から党の規律や規則に違反した党員や幹部を徹底的に摘発し(場合によっては粛清し)、ルール遵守の意識を強めようとしてきた。それには権力闘争の一面があることは言うまでもないとしても、目的はそれだけではない。中国今や世界第2位の経済大国となり、海外企業とのビジネスは拡大の一途だ。しかも、一帯一路構想等、ある種のグローバル化を先導する存在になり、ニューヨーク市場への上場や海外企業とのM&A等も急増している。よって、中国人にしか理解できない『コネ』や『賄賂』を排除して、透明かつ公平でわかりやすいルールの確立と遵守を徹底する必要に迫られている。この一連の施策は、『制度化』と呼ばれ、政治や経済、社会面でも『制度化』を進め、環境問題や食の安全、労働の安全等についても厳しいルールを設けて推進しようとしている*4

 

また、ルールやモラル遵守は、文明的かどうかを見る指標であるとの認識に基づき、中国では『文明』という文字が広く使われるようになって来ているようだ。地下鉄では『文明乗車』(秩序正しく乗車し、他人に迷惑をかける行為をしない)、空港では『文明旅行』(訪問国のルールを守り、その国の文化や習慣を尊重する)というスローガンを見かける機会が多くなっているという。

 

 

なぜ日本人はルールを守るのか

 

このように述べてくると、最近では日本は経済やビジネスの点ではすっかり中国にお株を奪われているが、やはり文明の成熟度では上、と胸を張りたくなる人も多いだろう。だが、喜んでばかりもいられない。そもそも日本人がルールを守るのは、民族としての特性とか、民度が高いから、というような理由(少しはあるかもしれないが)ではない。文化の違いでもない。社会心理学者の山岸俊男氏『信頼の構造』*5 等で述べているように、社会の仕組みの違いに起因するという分析が一番納得できる。

 

日本の社会は、いわゆる『ムラ社会』で、営利企業でさえムラ社会的に運営されている企業が圧倒的に多い(多かった)。こうした社会では、集団の意思に反する行動には激しい制裁が課されるため、ルールを守り、お行儀よくすることが重要な生存戦略となる。(ある年代以上の日本人にとっては、ルールやモラルというより『世間体』と言ったほうが実感があるかもしれない。)

 

そんな日本人は、キリスト教徒やイスラム教徒のように内側に神が居て監視されているわけではないから、誰も見ていない環境、例えば海外旅行等では『旅の恥はかき捨て』になりがちで、一昔前の悪名高き『農協ツアー』*6を思い起こすと、中国人の爆買いも、マナーの悪さも笑えたものではない。

 

また、日本人は、状況や空気に合せて法規制でさえ柔軟に解釈する傾向がある。法規制完全遵守が理想だが、理想と現実は異なるケースなど、大筋ではルールを守りつつ、現実にはルール違反が常態化している例は結構多い。そのあたりは、ルールを完全に無視する傾向のある中国人とは違っていて、日本人には主観的には一応ルールを守っているという認識はある。

 

自動車の速度規制などその最たるもので、公道の40キロ規制など厳密に守るドライバーは一人もいないと言い切っていいだろう。取り締まる側も、完全に守られることは期待せず、通常は、片目をつぶり、時々見せしめのために捕まえたりする。このような例は、特に一昔前の日本企業にはいくらでも見られた。例えば『残業』もそうで、社内のQCサークルなど実際には業務起因の活動であっても、『勉強』という灰色な概念を持ち込んで(労働法にそのような概念はない)、残業認定しないという暗黙のルールがあったりしたものだ。

 

 

ルールの源泉『ムラ社会』が解体しつつある日本

 

ところが、昨今では、そのムラ社会が解体しつつある。会社共同体も、地元共同体も、崩壊過程にある。もちろん、まだ完全に解体しきってしてしまったわけではないし、特に大企業などいまだに頑なに『ムラ社会』を維持しようとする経営者は多いが、それでも、若年層の意識や社会の空気には明らかに変化が見られる。上記の『残業』の解釈もそうで、企業内にあった暗黙のルールより、社会全体に広がる空気のほうが優勢になろうとしている。

 

大半の日本人はそれでも、自分を囲む『空気』には敏感に反応し、若年層もSNS内におけるローカルなルール(メッセージを受け取ったら即座に返信する等)でさえ遵守して村八分的なバッシングを避けようとする。しかしながら、それは内発的な動機から来るものではなく、外部環境との調和をはかることが目的だから、その外部環境が激変している今、日本人のルール厳守が非常に不自然で意味がわからない、ということも起こりがちだ。世間体は取り繕いたいが、肝心な世間が見えにくくなっている。

 

 

不自然な日本人のルール遵守

 

だから、このような日本社会の事情を知らない外国人の目には、日本人のルール遵守が時に非常に不自然にうつる。中国メディアからの翻訳に基づく次の記事はその視線がわかりやすく表現されている。

 

中国人から見ると「日本人は誰もが疑うこともなく、ただひたすらルールを守る」ように映るようで、その様はまるで「何かの病気にかかっている」かのようらしい。中国メディアの網易はこのほど、「すべての日本人はまるで『病』に罹患しているかのように、ひたすらルールを守り続ける」と論じる記事を掲載した。

 記事は、敗戦国である日本が戦後、瞬く間に復興を遂げ、世界の経済大国となった背後には「国民がルールを守る」という要因があったとしながらも、ルールを守るということは「古いやり方に固執する」ことにもつながりかねないことだと指摘した。

 続けて、日本人は確かに礼儀正しく、日本社会には秩序が存在するとしながらも、日本に活気がなく、大都市であっても生き生きとした感覚がないのは「日本人がルールに縛られ過ぎているためではないか」と主張。日本人が「古いやり方」かどうかを疑うこともなく、誰に言われるでもなくルールを守ろうと固執する様子はまるで「病気のようだ」と主張し、ルールや規則を守りすぎるのも問題ではないかと主張した。

誰もがルールをひたすら守る日本人はまるで「病」にかかっているようだ!=中国メディア

 

中国人も、もっとルールやマナーを守るようになった方が良いと認めながら、『自分の行動が見えない鎖に縛られたようだった。話す、食べるといった日常的な行動すべてに細心の注意を払わなければならず、窮屈さを覚えた』というのが、中国人観光客の一方の本音のようだ。

 

実際、日本人の側でも、ルール遵守の裏面にある問題点について意識する機会は明らかに増えて来ている。先に指摘した『残業』関連の問題について言えば、日本人の労働時間が他国と比べて圧倒的に長く、その割に能率が悪いため、労働生産性が非常に低いことは広く指摘されるようになって来ているが、それも、企業に根強くある、暗黙のルール(上司や同僚より先に帰ると評価が下がる等)に従わざるをえなかった結果と言える。少なくとも以前は、そのルールに従がうことによる見返りがあった。だから、いくら『働き方改革』というようなスローガンが出て来ても、たてまえはそうでも本音は違う、というような不整合が起きてしまう。

 

今は、見返りがあるかどうか最早よくわからないが、相変わらず暗黙のルールが残っているのでは、との疑心暗着から会社から早く帰れないようなケースも目につくようになった。自分の上司は、世間のスローガンに本当に納得しているのか、それとも、本音は昔と変わらないのに、表面だけ変わったふりをしているのか、それを見誤ると結局自分の評価は下がってしまう。そのような疑心暗着に駆られる日本人が幸福であるはずはない。労働生産性が上がらないのはもちろん、臨機応変な対応も不得手で、創造性も阻害されていることは、盛んに指摘されるようになって来た。*7

 

激変の渦中にある日本人の慣習

 

厚生労働省の調査によれば、今や、企業における男性の約20%、女性の60%は非正規社員であり、企業共同体的な内向きのルール遵守の意識は年々薄れて来ている。地域社会共同体も弱体化の一途にある中、冠婚葬祭等のルール(慣習)が煩雑/面倒で意味がない、という本音もあからさまに聞かれるようになった。特に都市部など一昔前と比較すると冠婚葬祭に関わる行事は、圧倒的に簡素になって来ている。

 

さらに言えば、かつては、共同体的な『人情』も日本の良さの一つとされて来たが、当然それも『簡素化』と共に薄れて来ている。時々、日本に長くいる中国人に、『人情味』に溢れた中国が懐かしいと言われてハッとしてしまうことがある。今の日本は、共同体的なルール遵守からのみならず、『人情』からも離脱しようとしているとすると、今後、『ルールを守りマナーが良い日本人』『人情の厚い日本人』は何を源泉として維持していけばいいのだろう。今まではそれを意識しないでも済んだのが、これからは自分で意識しないと、実質的な価値もないのに疑心暗着からくるルール遵守の強迫観念に振り回されるだけになってしまいかねない。

 

 

『人情社会』の中国

 

中国社会はもともと『人情社会』だった言われる(日本語の漢字として読み取れる意味とは異なることには留意が必要)。一族や同郷の結束が固く、コネが何より優先される。何かする時にはまず友人に頼る。それはお上(政府)が不正だらけでまったく信用が置けなかった数千年の歴史の中で、中国の民衆が生きるための知恵だったとされる。そんな環境では規則や法律を守るといった意識が育たなかったのは当然だが、一方、それを補完するものとして、独自の人間関係が形成され、そこから生まれた『人情味』の良さの部分を今でも感じている中国人は少なくないようだ。(もっとも、昨今ではそのためのあまりの負担の大きさに耐えきれないと述べる中国人もいる。)

 

中国人の人間関係や『人情味』を日本人が実感し理解することは難しいが、ただ、想像できる部分やそのための材料もある。例えば、中国の古典小説である三国志だ。三国志は日本人にもファンが多く、そこに出て来るキャラクターやエピソードについては(誤解も含めて)馴染み深い。特に、劉備関羽張飛の三人が桃園で義盟を結び、それ以降は、他の何よりその義盟が重視され、命をかけてこれを守る姿に感動する日本人は多い。そこには時の行政府が決めた法律より、さらには自分の命より他人を大事にすることがあるという中国人の意識の源流が垣間見える。そこには『ルール無視の中国人』とは全く別の、『命をかけて盟約を守る中国人』がいる。

 

 

変革の時代の拠り所

 

日本人が中国人のように理解することは難しいものの、日本人にもこれに感動できる感性があることは間違いない。例えば、雑誌少年ジャンプに連載される漫画で描かれる『友情』の中には、多分に桃園での義盟に通じるものがある。義盟を交わした相手に限定されるとはいえ、自分の命より『友』との関係を大事にする姿勢、他人のために命をかける姿勢は、国を超えて感動を呼ぶということだ。これが、『友』を超えて『人類全体』に広げることができれば世界はものすごく住みやすい場所になることは想像がつくはずだ。少なくとも、『人に真剣に向き合うことは』社会が崩壊し変革の時期を迎えても、いやそのような時期だからこそ、拠り所とできる、拠り所とすべき価値だと考える。

 

もっとも、自分の縁故の関係だけ大事にして、他は関係ないという意識が広まっても困る(昨今の日本の政界はそのような傾向が強まっているように見える)。日本人は中国人より法意識が高く、法治国家である、という『常識』も実は怪しい。日本の三権分立は建前にすぎず、行政にすべての権力が集中していて、立法府とは関係なく一般国民のわからないところで、『政令』やら『築城解釈』やらがまかり通る。そのことに散々悔しい思いをして来た身としては、司法制度改革の方も不可避だと思うが、1999年以降取り組まれて来た、日本の司法制度改革は、法科大学院の失敗に見られるように、迷走して藪の中に入ってしまっているように見える。だが、簡単に諦めてもらっては困る。これも大事な論点なので、次回以降また取り上げて行こうと思う。

 

*1:日本代表は敗退も…W杯会場で清掃し続ける日本人サポを海外メディアとファンが絶賛!【ロシアW杯】 | サッカーダイジェストWeb

*2:

mainichi.jp

*3:

gendai.ismedia.j

*4:2014年10月の中国共産党第18期中央委員会第4回全体会議(18期4中全会)で「依法治国(いほうちこく)に関する重大決定」が採択された。これは、『法に依って国を治めること』を意味し、法に基づき私権すなわち市民の民事権利を保障しようとする社会の実現であり、従来の関係(コネ)による物事の処理に比べてはるかに公平性が高まると期待される。

*5:

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

 

 

*6:作家の筒井康隆氏の『農協月に行く』など、当時悪名高かった『農協ツアー』を軽妙な風刺で描いていて面白いし、今では大変参考になる資料の一つと言える

*7:

blogos.com

遺伝子編集技術の驚異的進歩に鈍感であってはならない

 

遺伝子(ゲノム)編集の最前線の驚異

 

私が遺伝子(ゲノム)編集技術の最前線の驚異的な進歩、特に『クリスパーキャス9』という技術のことを知ったのは、KDDI総合研究所リサーチフェローの小林雅一氏の『ゲノム編集とは何か「DNAのメス」クリスパーの衝撃*1 という著作を拝読した時だった。その本の発売は、2016年の8月だったので、およそ今から2年弱前ということになる。その時まで、この分野については、遺伝子作物等の遺伝子操作、あるいは京都大学の山中教授の研究で広く知られるようになった、iSP細胞の概要等、多少調べて知っている程度で、よもやここまで『実用的/安価/操作が簡単』な技術が実用段階に入ろうとしているとは知らなかったため、大変驚いた。そのころまでに、私は『急速に進む技術によって、どのような未来が開けてくるのか、それと共生していくためにはどうすればいいのか。避けるべきリスクは何なのか』等の問題意識を持って自分なりに考えてきたこともあり、自分では生命科学の範疇もある程度カバーできていると考えていた。だが、本書を読んでそれがまったく甘い現状認識であることを思い知った。その感想を当時ブログ記事としてまとめたので、この問題に関心がある人は是非読んで見ていただきたい。

ta26.hatenablog.com

 

 

クリスパー技術とは何か

 

前提条件がわからないと、何の話をしようとしているかわからなくなってしまいかねないので、小林氏の著作から、クリスパー技術についてのまとめの部分について引用した部分を再掲しておく。

 

クリスパー

 

1 従来の遺伝子組み換えが基本的にはランダム(確率的)な手法であったのに対し、クリスパーはゲノム(DNA)の狙った場所をピンポイントで切断、改変することができる。もちろん現時点では「オフ・ターゲット効果」などの誤操作の可能性も残されているが、それは本質的に「ランダムなプロセス」というより、むしろ「狙った結果からの誤差」といった範囲に収まる。そして、最近の研究によって、その誤差は休息に縮まりつつある。

2 従来の遺伝子組み換えとは異なり、クリスパーでは父方と母方、両方のDNA(相同染色体、ゲノム、対立遺伝子)を1回の操作で同時に改変できる。これによって(従来のノックアウト・マウスなどを作るのに必要だった)複雑で手間のかかる交配実験が不要になった。

3 従来の遺伝子組み換えは、1回の操作で1個の遺伝子しか改変できなかったが、クリスパーでは1回の操作で複数個の遺伝子を同時に改変することができる。

4 クリスパーは非常にシンプルで扱いやすい技術であるがために、たとえば高校生のような素人でも短期間の訓練で使えるようになる。つまり遺伝子工学の裾野を広げることが期待されている。

5 同じ理由から、従来の遺伝子組み換えに必要とされた膨大な時間や手間、コストなどを大幅に削減できる。

6 クリスパーは(人間を含む)どんな動物や植物(農作物)のも応用できる汎用的な技術である。

ゲノム編集とは何か「DNAのメス」クリスパーの衝撃』より

 

 

 

成果と同時にリスクも満載

 

安価で高校生~大学生程度の知識でも少し勉強すれば実験体がつくれてしまう。しかも、ほとんどピンポイントで狙った遺伝子の編集ができてしまうとなれば、何の制約も課されなければ、ものすごい勢いで新しい利用方法が開発されたり、驚くような形質の生物が次々に生まれてくる可能性もある。その中には難病の治療法等、人類の救済となるような素晴らしいものももちろん出てくるだろうが、一方で、人類を滅ぼしてしまう細菌のようなものもできてしまうかもしれない。そのような危険なものをテロリストが手にする機会も必然的に増えてしまうと考えられる。あるいは、生殖細胞の操作が普通になれば、社会構造そのものが一変してしまうだろう。

 

だが、何より恐ろしいのは、この技術が人間の身近な、あるいは止むに止まれぬ欲望を刺激するがゆえに、経済的にも大きな価値を生むポテンシャルがあり、また、それゆえに、抑制が効きにくいと考えられる点だどんなに倫理基準とか制約について合意しても、それを逃れることのインセンティブが大きいから、時間の経過とともに、なし崩しになる恐れも大きそうだ。特に昨今のように、世界が統合に向かう機運がすっかり廃れ、各国が自らの利害のみに基づいて競い合う帝国主義の様相を呈している状況では、この懸念も弥増してしまう。

 

 

短期間の間に起きたことは?

 

小林氏の著作を通じて、眼前に迫る切迫した状況を知るに至った私がとっさに思ったのは、これほどのインパクトがある『事件』とも言える技術分野の達成は、競争市場において無限の価値を生む可能性があるから、ここまで来ているということは、何らかの今後の方向を示唆する重要な出来事が矢継ぎ早に起きてくるに違いない、ということだった。将来の動向を予測する上でも、これは見逃せない。

 

ただ、一般のメディア等から情報を集めようとしても、どうしたことか、思ったほど情報が集まらない。少なくとも、同時期に異様なほどの盛り上がりを見せた人工知能や仮想通貨等と比べても、ゲノム編集はある意味、より深刻な問題を孕んでいるはずなのに、あまりにメディアでの扱いが小さすぎる。その違和感の正体を解明することも同時に自分の課題の一つになった。

 

そうしているうちに、本年の3月には、この著作の続編とも言える、『ゲノム編集からはじまる新世界 超先端バイオ技術がヒトとビジネスを変える』*2 という小林氏の新著が発売された。そこから引き出せる情報をまとめてみると、案の定、ごく短期間でこの業界の内側の空間は、ますます濃密で息苦しいものになっていることがわかる。

 

 

(1)大きな経済価値があり既に巨額な資金が動いていること

 

例えば、クリスパーキャス9は、技術開発について権利を主張する陣営が二つあり、特許訴訟が起きて、2017年2月には判決が下ったものの、反対陣営はすぐに米連邦控訴裁に上告したため、係争は継続中だ。だが、巨大バイオ企業であるモンサント社、ダウ・デュポン社等はすでにそれぞれの陣営とライセンス契約を結んでおり、また、両陣営が設立したバイオ・ベンチャー企業には欧米の名だたるバイオ・メーカーや製薬会社等が群がっていて、総額数十億ドルもの巨額資金を出資しているという。それに、この特許紛争は2015年12月に始まっているが、わずか半年間で弁護士費用だけで、双方合わせて約2000万ドル(20億円以上)ものお金が注ぎ込まれているというから、関係者がいかに将来的に巨額な利益が見込めると考えているかわかろうというものだ。私も業界の中の人にお話を聞いてみたことがあるが、バイオ企業の多く(特に巨大バイオ企業)はどちらの陣営が勝訴してもすぐにライセンス供与を受けてビジネス展開できるよう準備万端だという。しかも、クリスパーキャス9の発見以来、その代替手段もたくさん編み出されていて、場合によってはその方が優れている可能性もあるというから、さらなる巨額資金が動くことになるのは確実だ。

 

(2)短い間にも日進月歩で技術が進歩していること

 

技術自体も急速に進歩していることがうかがえる。遺伝子組替えの実験動物として使われる『ノックアウト・マウス』というのがあるが、通常のマウスのDNAの上にある遺伝子を、科学者が意図的に破壊して、これによってその遺伝子の果たしていた役割を確かめる目的で作られる。2015年には、クリスパーを使えば、10回に1回程度の確率で狙った場所にある遺伝子を操作できると言われていたのが、2016年には10回に9回は狙った通りに遺伝子を操作できるようになったという。さらに2017年になると、遺伝子の文字列に対して、『・・ACT・・』の真ん中にあるCをGに置き換えるなど、編集作業が1文字単位でできるようになったという。まさに操作精度は日進月歩で高まっている。

 

(3)倫理的な抑止力や法規制等の歯止めが効く、との確信は誰にも持てないこと

 

様々な問題が予想される中でも、現段階で最も深刻で統御不能となる恐れがあるのは、人の生殖細胞の編集で、これを行うと天才も生まれるかもしれないが、致命的な遺伝形質を持つことになったり、場合よっては怪物が生まれる恐れも否定できない。しかも、その形質は遺伝によって次世代に継承されると考えられるから、止めようがなくなってしまう(その遺伝子を持つ個体(人間)をまとめて虐殺するなら止められるかもしれないが・・)。

 

2012年にクリスパーキャス9の技術を「サイエンス」誌に発表したジェニファー・ダウドナ博士らの働きかけで、2015年12月『人遺伝子編集に関する国際サミット』が開催され、すでに何らかの病気を発症している患者の体細胞をゲノム編集で治療する行為については、基礎研究および臨床研究とも認めるものの、生殖細胞の治療については、基礎研究にとどめ、臨床研究(ゲノム編集された受精卵を女性の子宮に移植する行為)は禁止された。(ただし、あくまで一時停止)ところが、2017年に入って、米国の科学アカデミーは、『深刻な遺伝病で、他に合理的な代替手段となる治療法がない場合に限って、ヒト受精卵のゲノム編集による治療を容認する』との指針を発表した。現時点では、臨床研究には制約があるとはいえ、これは米国の科学界がヒト受精卵のゲノム編集を受け入れる方向に転換したと解釈できる。ダウドナ博士も、『今後数年以内にゲノム編集された赤ん坊が世界のどこかで誕生しても驚かない』と述べているというが、商用にも実験自体にも人の抑えがたい欲動を突き動かす技術がますます容易で安価に使えるようになりつつあるとすると、今後本当に『抑止力』が機能しつつけるのだろうか。

 

こうしてみると、やはり恐れていた方向に事態は向かっていると言わざるをえない。

 

 

生き残る『優生学思想』

 

繰り返すが、著者の小林氏も述べているとおり、私も、現段階でゲノム編集に関わる最もセンシティブな問題は、『ヒト受精卵のゲノム編集』なのだろうと思う。仮にこれが容認されるようになると、遺伝病の治療の枠を超えて、身長、容姿、運動能力といったような形質の向上を図ったり、逆に劣った形質を排除することに利用され、いわゆる『デザインベービー』の誕生につながりかねない懸念がある。

 

これで、すぐに思い当たるのは、ナチス・ドイツの『優生学思想』とそれに基づく残虐な政策だが、実のところ『優生学思想』はナチス・ドイツだけの問題ではない。ダーウィンの進化論の影響を受けて大流行した『社会ダーウィニズム』の影響は欧米各国におよんでいた。その結果、社会に望ましくない生命(障害者、精神病患者、犯罪者、社会不適合者、貧困層、人種的マイノリティー)を断種し、隔離し、追放しようとしてきたのが、科学技術の進歩の裏面にある暗い歴史の現実である。その歴史をたどって具体的な事例を漁ると、気持ちが悪くなるような事例がいくらでも見つかる。『社会進化』というけれど、少なくとも精神性という点では、『退化』以外の何物ではないと私には思えてしまう。

 

さすがに現在では、あからさまな優生思想を唱えることは事実上難しくなっているものの、その一方で、今でも、私生児/障害児の中絶であったり、安楽死容認論であったり、犯罪者への断種措置、精神病者の隔離措置等、人種差別、移民の制限等、少なからず『薄められた優生思想』は生き残っている。日本もその例外ではない。実際に自分の子供が出生前診断で障害児であることがわかって、中絶が可能と知ったら、どうするだろうか。簡単に割り切れる問題ではないことは少し考えてみればわかることだ。まして、今の日本人は、生活保護を受けるような弱者に世界の中でも突出して冷たい、というような統計もあって、日本社会の懐は決して深いとはいえない。倫理に関わる社会的合意が冷静に出来上がるとの確信は私には持てない。

 

 

柔軟な社会でなければ・・

 

生命科学に関わる問題に限らず、人工知能、自動運転等、進化が早く人間の身体/生命に関わるような技術の許容の可否を検討するにあたり、二言目には『倫理に関わる議論が必要』という意見が出てくるわけだが、問題はその先だ。一方で、2500年くらい昔に辿れる哲学や宗教、倫理学等に関わる人間の歴史の蓄積を参照するのは絶対に必要だと思うが、もう一方で、社会の柔軟性、許容力、倫理的成熟は決定的に重要で、その備えのない硬直した社会に無理やり最先端の技術を持ち込もうとすると、社会が壊れ、人々は変化を嫌悪し、過剰反応し、収拾がつかなくなってしまう恐れがある。だからといって、日本だけ技術は持ち込ませない、というのは意味のない議論で、技術の恩恵を受けたり、ビジネスを活性化する権利は日本人にも当然あるべきだし、どんなに抑制しようとしても、抑制できないことは前提とせざるをえない。

 

だからこそ、なんとしても社会の側で、これを受容できるような備えをするしかない。できるだけ社会の構造を柔軟に、新しいもの、新しい生活、新しい思想を受け入れても壊れない柔軟さを持つ社会とすべく努力する以外に対処するすべはない。歴史的に見れば、本来の日本の優越性はそこにあったはずだ。西欧のような泥沼の宗教戦争はなく、どんな宗教でも受け入れ、まったく構造の違う西欧近代への対応も、紆余曲折があったとしても実現して来た日本だからこそ、『アジアの奇跡』と賞賛されて来た。ただ、その点、今の日本は少々心配だ。どう見ても、社会の硬直化の傾向は顕著だからだ。

 

先日、ジャーナリストの神保哲夫氏と社会学者の宮台真司氏による、ビデオニュース番組、『マル激トーク・オン・ディマンド』にて、小林雅一氏がゲストとして招かれ、本件(ゲノム編集)について取り上げられていた。そこでの宮台氏の見解は、やはり非常に興味深かった。哲学者のユルゲン・ハーバーマスを引用しつつ、あまりに早い技術進歩によって社会が壊れてしまう危機感を強く表明されていた。まったくその通りだと思うし、だからこそ、日本でも、宮台氏のような識者が、真剣に『技術と社会』に関わる問題を提起し、議論を活発化していくことは不可欠だと考える。

 

ところが、番組を視聴していて、一つ私が日頃もっている危機感がいたく刺激される発言があった。まさに、宮台氏のような日本の社会学の最前線にいて、しかも、誰よりもあらゆる新しい情報に精通していると思われる人が、これまで、クリスパーキャス9のことを知らなかったと述べていたことだ。これこそ、先に私が述べた通り、関係者の間では大変な騒ぎになっているのに、そのサークル外の人にはほとんど問題の本質が伝わっていないことを象徴しているように思われたのだ。これでは、本当に、最も重要な判断を下すべき時に、それをきちんと議論できるレベルの人たちが関与しないままに流れが決まってしまうのではないか。

 

 

現代のマーケティング

 

それは、また日本におけるこの分野のビジネスの正常な流れも阻害することになりかねない。ゲノム編集に限らず、技術進歩については、昨今では、社会の側の影響や反発を過小評価する議論がどうしても多い印象があるが、実際に技術に基づいてビジネスを行う側こそ、これを深く認識しておかないと、思わぬ障害に立ち往生してしまうことになる。ある意味、それこそ現代のマーケティングなのであり、それを人任せにしているようではビジネスに関わることはできないくらいの覚悟でいて欲しいと思う。

知識/教養を身につけ時代を切り開くための7つの心得

 

知識社会で充実して生き、社会にも貢献するには

 

ここしばらく、現代日本における教養の重要性について何度も書いてきたわけだが、『大学の深窓にいる人たちは教養ある人たちのはずだが、そこにも日大アメフト部のような権力構図があったり、新しいことを頑固に否定するばかりでとても未来を切り開くような人種に思えない』という類のご意見や質問をたくさんいただくことになった。

 

実は、記事中に、今の日本の教養教育には問題があり、決して現代日本のいわゆる『教養人』をそのまま肯定しているわけではないことを指摘しておいたつもりなのだが、伝わっていなかったとすれば、あらためてこの場を借りて強調しておきたいと思う。

 

ただ、今度は、『お前のいう教養とは一体何なのか』『どうすれば教養を培うことができるのかよくわからない』、あるいは、『結局問題を嘆くだけで解決策は示さないのか』、というようなご意見をいただくことが予想されるし、そのご意見はごもっともではある。今回はその問いかけに私なりに答えてみようと思う。

 

但し、『教養』の定義については踏み込まない。むしろ、『知識社会で生き残り、それ以上に生きることに真に充実を感じることができ、社会を良くすることにも貢献するために、個人としてどのような姿勢でいればよいのか』、という点について絞って述べようと思う。もちろん、速効性の魔法の薬があるわけではないし、私の答えが誰にも該当するとは限らない。あくまで自分自身で試行錯誤する際の参考にしてみて欲しい。

 

 

具体的には、次の7つを提唱しようと思う。

 

1. 独学で学び続ける覚悟を決める

2. 目標/目的を決める

3. 自分で問いをつくることを習慣化する

4. 発信し続ける

5.語学を勉強する

6. 歴史をおさらいしておく

7. 古典を読む

 

 

■ それぞれの説明

 

1.独学で学び続ける覚悟を決める

 

何よりまず『独学で学び続ける』覚悟を決めることだ。独学でなければ絶対ダメというわけではないし、逆に独学だけでは学べないこともあれば、独学固有の問題もあることを認めた上で、少なくともその『覚悟』を決めることが重要と考える。

 

この点は、あえて『教養』に限定するまでもなく、仕事に必要な実用知を含めて現代は学校教育終了後も、継続して学び続けることが不可欠であるという認識は常識になりつつある。言うまでもないことだが、特にインターネット本格導入後に起きたことをあらためて振り返ると、知識/情報の重要性が急上昇し、知識で勝者になったものが『一強総取り』となる構図が時を追うごとに強くなった。世界市場は相互に緊密に結びつき、競争は国の壁に関係なく行われる。労働コストが高ければ、資本の方で海外に流出してしまう。今後、人工知能が社会に浸透するようになれば、ますます仕事をめぐる競争は激しくならざるをえない。

 

知識はもちろん従来から重要な資源ではあったのだが、これまでは、石油や食料のような物的資源であったり、金銭資本であったり、企業の持つ商権であったり、場所であったり、有名大学卒、あるいは一流企業にいるという権威であったり、多くは企業や大学のような組織に蓄積された(あるいは組織であるがゆえに持つことができる)、多くの場合、知識以外の資源の方が、企業活動における価値は上回っていた。だから、一旦企業に入れば、専門知識を磨いたり、教養を培ったりするより、上司や顧客にいかに覚えめでたくふるまえるか、どうすれば空気を読めるか、という類のノウハウの方が、はるかに価値があった(これも『情報』ではあるが、独学では学べない)。だから、企業は学生に対しては、偏差値の高い大学へ合格した、という足切り指標としてのパスポートがあれば、大学で学んだ学問など評価対象外だった。特に文系の学問など百害あって一利なしで、文系の大学院生など、大抵自意識ばかりが肥大化していて企業内では使いづらいことがわかっているから、できれば採用したくない、というのが企業人事の本音だった。銀行等のように大学で与えられたカリキュラムを要領よくこなせるかどうか、という指標としての成績を採用の際に重視することはあっても、学問としての大成など求めていなかった。それよりも体育会系のように、企業でもすぐ通用するコミュニケーション手法と忍耐力を身につけた学生の方がはるかに価値が高かった。流石に技術系の場合、専門知識の習得度合いが採用にあたって重視されてはいたが、だからといって、技術系の学生が技術知識だけで企業で生きていけるなど誰も思ってはいなかった。

 

職場の空気を乱さないことが最重要となれば、なまじ専門知識とかあっても、それをひけらかしたりすると、嫉妬されて足を引っ張られて逆効果になる。同僚の嫉妬もさることながら、上司(あるいは先輩)であっても、自分より知識豊富で優秀な部下というのはしばし自分を脅かす危険な存在で、よほど優れた上司でなければ、自分に逆らわないという何らかの確信がない限り、実際には巧妙に(あるいはあからさまに)潰されたりすることも少なくなかった。昔から本当の実力者としてのし上がる者の中には、熱心に勉強し続ける者も、もちろんたくさんいたわけだが、決してそれを周囲には悟られないで、嫉妬をかわないように勉強するような智恵は不可欠だった。

 

ところが、今、それが急速に変わろうとしている。どの資源より知識/情報の価値が高くなろうとしているのだ。現行の仕事のほとんどがアルゴリズムで実行できるようになろうとしている。ロボットや人工知能がほとんど何でもやってくれるようになる。これからは、インターネットのようなバーチャル空間だけではなく、物理空間に関わる変革が本格化する。未来学者のジェレミー・リフキンの『限界費用ゼロ社会』という著作があるが、これは、IoT/人工知能によって、コミュニケーション、エネルギー、輸送のインテリジェント・インフラが形成され、効率性や生産性を極限まで高めることが可能になり、モノやサービスを一単位生み出すコスト(限界費用)は、限りなくゼロに近づき、モノやサービスは無料になって、企業の利益は消失するという未来像を提示する、非常にセンセーショナルな未来予測の書だが、多少の程度や時期の見通しの違いはあれ、これから起きようとしていることを端的に指し示してくれていることは確かだ。知識以外の資源の価値は暴落するという予測には十分な根拠があるのだ。

 

今後の競争社会で生きていくため、知識の重要性が極端に重要であることはわかったが、どうして独学なのか、と言う疑問が出てくるかもしれない。その答えは簡単で、教えてくれる『誰か』や『教育機関』をさがそうにも、知識の陳腐化が激しく専門化が進む中では、それがものすごく難しいと言うことに尽きる。特に教育機関の教育メニューに闇雲に飛びつくとお金と時間の無駄になる恐れが大きい。

 

かつては大学には普遍性のある知の体系があり(少なくともあると思われており)、優れた企業にはその企業が成功することに寄与したノウハウが蓄積しており、いずれもそこに参入することでしか学べないか、学ぶためには参入することが一番手っ取り早かった。ところが、今はそれも驚くべきスピードで陳腐化してしまう。当然、組織の側でも新しい状況に併せて知識を更新していく必要があるのだが、歴史が長かったり、組織が肥大化してしまうと往々にして臨機応変には対応できず、『権威』だけが生き残り、現実から乖離してしまう。

 

自分の例を出すのは気恥ずかしいが、私もそれを身を以て体験した一人だったりする。私は大学時代は経済学部に所属していたが、当時の私の大学では、いわゆる近代経済学者とマルクス経済学者が拮抗していた。専門課程でもその両方を履修する必要があった。だが、すぐにベルリンの壁は崩壊し、冷戦は終了し、マルクス経済学は、少なくとも私が習った内容は(当時からそのきらいはあったが)現実解釈には事実上使えなくなってしまった。近代経済学も当時から私は合理的経済人仮説に大いに疑問を持ったものだが、その後の行動経済学等による攻撃は実に鮮やかで、かつて私が習った近代経済学は現実の説明能力を失ってしまった(というより、それが妥当する範囲は極めて狭く限定されてしまった)。そのように述べると研究者からお叱りを受けることは多いのだが、少なくとも、私が大学で習ったことがそのままで企業で役にたつかと言えば、それは絶対にないと断言できる。一方で、最新の学説を一渡り勉強してみると意外にも、現実解釈のヒントをたくさん見つけることができる。

 

また社会人になって最初に入った自動車会社(トヨタ自動車)は、ご存知の通り、トヨタ生産方式のおかげで、日本一を飛び越えて世界一を狙う自動車会社に成長した。トヨタ生産方式は、そのシステム自体の合理性もさることながら、現場改善を徹底的に社員の行動様式として叩き込む、いわば宗教のような性格を帯びていた。そして、それは本当に会社全体に一種の信仰体系として浸透しており、その徹底ぶりが現場を非常に強固なものにしていた。こんなことは、どんなに市販のトヨタ生産方式の本を読んでもわかるはずがない。現場にいないとわからない暗黙知の巨大な体系がトヨタ生産方式の真の姿であることを(少なくともその一端を)知ることができた。その意味で企業に参入しないとわからない知の体系の存在を私は身を以て学ぶ機会に恵まれた。

 

だが、IT化、というか『デジタライゼーション』が世界を席巻している現在、明らかに旧来と同じままではいられなくなっている。トップの危機感は最近報道も多いのでご存知の方も多いかもしれないが、それ以上に古くから現場にいる者の混乱ぶり(あるいは無知ぶり?)は大変なものだ。それでも『改善』で対応しようとする組織の遺伝子が生きているのは大したものだと思うが、一方で、神話的とも言える存在となったトヨタ生産方式が足かせになっている部分があることは否定しようがないはずだ。

 

組織に頼らずとも、インターネットが普及した現代では、自分で正しい探求ができれば、かなりの(ほとんどの)ことを学ぶことができる。確かにインターネットには、ゴミのような情報やフェクニュースで溢れていることは確かだが、驚くべき最新の情報に繋がるチャンスが開けていることもまた確かだ。だから、まずは独学の覚悟を決める。そうして探求していけば、自分にふさわしい『師』や『教育機関』を見つける可能性も広がる。

 

しかもこのことは、いわば、知識/情報、そして教養が人間を組織の束縛から解放し、自由を与えてくれる存在になろうとしていることを意味しているともいえる。独学の覚悟を決めることで、長く、多くの日本人が陥ってきた『精神の奴隷制』から名実ともに解放されるチャンスが広がっている

 

 

2.目標/目的を決める

 

独学を続ける覚悟と同じか、それ以上に大事なことがある。目標/目的を決めることだ。しかもその目標/目的を自分だけの満足だけの範囲に留めず、自分の家族や友人知人と共に喜び合えること、さらには、日本人全体、できれば人類全体にでも広げて共に喜びあえるような、同心円を描けるような目標を据えて、そのために学び続けることを自分に宣言することだ。

 

独学で一番難しいのは、自分を規制するものがないので、すぐにやめてしまう恐れがあることだ。3日坊主になって自己嫌悪に陥る、というのがありがちなことなのだ。だが、目標が決まっていて、しかも他人と共に喜び合えるとなると、それが勉強を続ける大きなインセンティブになる。但し、他人のために自分を犠牲にする(親の期待する通りに生きる等)、という考えを持ち込む必要はないし、それはむしろ有害と考えるべきだ。まず第一に自分が本当に実現したいことを思いっきり書き出して、そこから絞り込んでいく。ある程度絞り込めた時点で、他者と喜び合えるかどうか、という基準でスクリーニングするくらいのアプローチで最初はいいと思う。そして、目標を途中で変えることもいとわないことだ。大目標ができたら、中期目標と短期目標をブレークダウンして、進めていくうちにどんどん入れ替えていけばいい。

 

そうすることで、もう一つ独学で非常に問題になりがちな、具体的に何を学べばいいかわからない、という疑問が解消していく。目標/目的が決まっていると、不思議と学ぶべきことと、後回しにしてよいことが選別できてくる。

 

 

3. 自分で問いをつくることを習慣化する

 

知識/教養を身につけることは非常に重要だし、それは人工知能化が進むこれからも変わりないが、それ以上にその知識を得るごとに、自分で『問いを作る』ことを習慣化することはもっと重要だ。ある問題に対して、正しい問いを発することができれば、その問題の理解が確然と進んでいることの証拠と言っていいくらいだ。目標を持って独学を進めていれば、疑問が山のように湧いて来る。そして、それはとても良い兆候と言える。ただし、ちょっとネットを調べればすぐにわかってしまうような『問い』だけではなく、どんなに調べても脂汗が出るくらい考えても回答が見えてこないくらいの『問い』をつくることが肝心だ。そして、それを徹底的に考え抜くことだ。その問いを朝から晩まで考えて、考えたままいつの間にか寝てしまう、というくらいになると、非常に不思議なことだが、ふとインスピレーションが降りてきて、突然わかったり、突然何を調べる、あるいは誰かに聞くべきことを思いついたりするようになる。イノベーションには何らかのインスピレーションの招来は不可欠だが、そのために一番いい方法は、この『問い』をつくって、徹底的に考えることだ。慣れないうちは、1日3つの問いをつくる、というような目標を設定してもいい。そうして慣れてくると問いをつくることがどんどん上手になっていく。

 

 

4. 発信し続ける

 

これも非常に重要なことなのだが、情報を吸収する以上に、あるいはそのためにこそ重要なのは、発信すること、発信し続けることだ。面前で誰かに教える機会を作ってもいい。おすすめは私がこうして書いているようにブログで発信することだ。もちろん、フェイスブック等でもいい。ただ、Twitterのような短文ではなく、ある程度しっかりした文章としてまとめるほうがより効果がある。

 

発信することで、同じ問題意識を持っている人と繋がれる可能性があることはもちろん大きなメリットだし、発信している間に必ずそういう機会が出てくることを私は身を以て知っているつもりだ。また他人から意見をもらうことで、思わぬ発見もある。自分の至らなかったことや間違いを認めるのは正直楽ではないが、そのような発見のある学びは、そうではない学びに数倍する価値がある。

 

仮に、他者からの反応がまるでないとしても、他人に読んでもらうことを前提に何かを書く(あるいはしゃべる)というのは、独学の中で最も学びの効果が大きい手法であることに変わりはない。本当に手前味噌で恥ずかしいが、私のブログは私にとって非常に大きな学びの機会となっている。毎回ブログを書こうと思ってそれなりのネタの着想を得て書き始めるのだが、書く前の事前の情報収集より、書き始めてからの情報収集のほうがはるかに密度が濃い。しかも、そうしているうちに自分の先入観の誤りに気づいたりすることもすごく多い。書いている最中に貴重な参考文献を見つけて、そこから大幅に書いている方向を修正することもしばしばだ。もちろんこれは大変骨がおれる作業だが、この渦中での情報収集や資料や本の読み込みはほど価値のある学びはない。また、そうしているうちに、いわゆる論理的思考能力も鍛えられることは言うまでもない。

 

 

5.語学を勉強する

 

次に、勉強の中に、語学を入れることだ。誰もが一番身近なのは英語だろうから、英語でいいが、最近では中国語という方法もある。もちろん、もっとマニアックは言語でもいい。一つの言語ではなく、二つ、三つというのは尚いい。これは、日本語以外の情報アクセスルートを広げることができることにつながり、特に、世界中に情報が溢れている現在では昔よりはるかにメリットが大きいということもある(そういう意味ではやはり世界に使う人が多い英語の価値は大きい)。だが、語学を勉強する意味は単なる情報ルートを広げるためだけにあるのではない。日本語と違う語学を学ぶことには、まったく違った思考様式や文化の構造を知ることにつながる。翻訳を通さず他の言語に直接触れて理解することで、普段無意識にはまり込んでいる日本語のもたらすバイアスに気づくことができようになる常に自分を相対化する目を持つことができるようになるわけだ。これは非常に重要なことだ。

 

 

6. 歴史をおさらいしておく

 

歴史を勉強することの重要性は、私がここで述べるまでもなく、多くの識者が語っている通りだが、歴史というのは本当に奥深くて、探求すると限りがない。実のところ普通の人にとってはかなりハードルが高いとも言える。(それでも、深く勉強することはもちろんおすすめではある。)だが、その前に、高校の教科書でも良いし、理想を言えば、市販の全集物(『世界の歴史』とか『日本の歴史』というあれだ)を通読してみることをお勧めする。できれば二度、三度と読むことができれば効果は絶大だ。

 

実際にそれをやってみるとわかると思うが、中学校や高校で歴史を勉強したはずなのに、実はまったく不十分だったり、自分が間違って理解していたことを発見するはずだ。あるいは『流れ』として把握していなかったことを思い知るかもしれない。どんなことを勉強するにせよ歴史の中で理解することの重要性はどんなに強調してもしすぎることはない。歴史の全体像を知ることで、自分の知識が体系だって自分の頭に収まるようになる。目の前に起きていることが実は初めてではない、と言う感覚が目覚めてくればしめたものだ。それが未来予測を行う上でも、非常に重要な『装置』であることがわかるようになる。そして、もっと深く歴史を勉強したい、という気持ちが強くなって、良い学びの循環が確立できていく。

 

 

7. 古典を読む

 

これは亡き恩師が大学卒業時に、卒業生の我々に送ってくれたアドバイスなのだが、卒業から時間が経てばたつほどその重要性を痛感している。恩師からは年間一冊でもよいと言われたが、年間一冊読むことでさえ、ハードルが高いのが正直なところだ。だが、本当にこれが継続できれば、どうして『教養』が重要なのか、もはや私が説明する必要はなくなっているはずだ。

 

そんな古臭い本など読まないで、最新の本を読む方が時間効率が良いのではとあなたは言うかもしれない。だが、あなたのいう『最新の本』が一体何年陳腐化しないで読む価値があるままでいてくれるだろうか。大抵、3年程度が限度ではないだろうか。一方、いわゆる古典として評価されている本は、およそ古くなるということがない。私も大学時代に、マルクスとかマックス・ウェーバーとか恩師に促されて読まされて、あまりの難しさに辟易していた類だ。ところが、大学を出て何十年もたった今冷静に振り返ると、そのような古典は、何度読んでも(もちろん、今この時に読んでも)新たな発見があり、現代の先端の問題を検討するにあたっても大変参考になる。大学時代に同時期に読んでいた他の大半の本など、今思えばクズ同然で、よくあんなものを読んで時間を無駄にしたものだと自分自身に呆れてしまう。

 

特に昨今は、知の陳腐化は早く、フェイクニュースが世に溢れかえっている。前のブログ記事にも書いた通り、本物を見抜く目を自分で養わない限り、この偽情報の洪水の時代を渡っていくことは難しい。その能力を養うために一番いいのは、古典と格闘することだ。そのような力が培われて初めて、本物のインスピレーションを見極め、本当に正しいことを言っている人物を見つけ、価値ある情報を選び取ることができるようになる。

 

 

自戒して、自分でもあらためて取り組む

 

まあ、言いたい放題、まるで聖人君子のような上から目線で語りまくったが、もちろん私自身がこのすべてを完璧にできているなどと言うつもりは微塵もない。ただ、その一部は自分で実践して得た体験知であることは間違いない。そして、もっとちゃんど実践していれば、自分の人生ももっと輝かしく、納得のいくものになっただろうという気持ちはものすごく強い。もっとも、いくつになっても、チャレンジは大事だ。やり直すこともできる。まして、これからは人生100年時代だ。こんな記事を書いた私自身、あらためて自戒して、再度ちゃんと取り組んで行こうと思う。