不透明な未来を生き抜くために『教養』が最重要である理由とは?

 

 

▪️ 不透明な時代の指針とは?

 

人工知能(AI)のような先端技術に関わる報道は、そのインパクトが強烈だったこともあり、『仕事がすべて機械に奪われてしまう』から始まって、『人間の知性を上回る存在になる』『人類は滅ぼされてしまう』というような極論まで、この数年、大変センセーショナルな言説がメディアを賑わせてきた。さすがに最近では比較的冷静な現状分析も出てきて、トーンダウンしてきたが、今度はその反動もあってか、先端技術の影響力を過小評価する論調も目立ち、また、さらにはアンチ先端技術を標榜する立場も勢力を盛り返してきている(欧州のGoogle嫌い、トランプ大統領のアマゾン嫌い等も広い意味ではここに括られると思う)。加えて、昨今ではフェイクニュースまがいの真偽が不明確な情報もすごく多いため、先端技術のもたらす未来像に関わる不透明感は以前よりむしろ濃くなってしまったように思える。

 

こんな時代に、これから一体何を指針にしていけばいいのか。どのような未来がくるにせよ、自分や自分の家族や大事な人を守っていくためには、どうすればいいのか。

 

このような問いを立てると、何よりまず、プログラミングを学んで、AIに使われる側ではなく、使う側になるべき、という意見は当然のように出てくる。単なるコーディングをかじる程度では、さほどの役には立たないという専門家の意見もあるが、それでも、まずは入り口として参入して見ることは(食わず嫌いで敬遠しているのに比べれば)貴重な第一歩ではある。そしてこれが突破口になって、個人としても社会全体としても、論理や数学の基礎力養成にしっかりと取り組んで行くべきとの認識に昇華するのであれば、次の時代のサバイバル戦略として、正しい道程にいると言える

 

しかしながら、それだけではだめだ。AIと対話は出来ても、さらに進んで本格的なAIの研究を目指すことが出来たとしても、『AIには出来ないこと』に取り組まなければ、早晩AIに飲み込まれてしまうだけだ。特に仕事に関して言えば、皆が思う以上に現状の仕事はAIが進歩すれば十分代替できてしまうものが多い。では、AIでは出来ないこと、人間でなければ出来ないことを学ぶにはどうすればいいのか。そもそもそのような環境で生きるということはどういうことなのか。しかも、幸か不幸か、これからは平均寿命も100歳を軽々と超えてくるだろうし、健康寿命も伸びることは確実なので、100歳が極端だとしても、相当な高齢まで元気で活動できることを前提に人生設計を考える必要が出てきている。制度も追いつかないし、見本となるロールモデルもない。誰もが海図もなく未開の大海原に漕ぎ出すようなものだ。もちろんAIに聞いても正しい答えを教えてはくれないだろう。

 

 

▪️ 日本は実学重視にシフトして来たが・・

 

その問いに対して、昨今ブームと言っても良いくらい持ち出されている回答が『教養』だ。教養こそ、今後もっとも重要だというのだ。実際に教養について学ばせるために、教育機関に社員を派遣するような企業も増えているという。企業教育もMBAからデザイン思考へシフトしてきていると思ったら、さらに教養にシフトする傾向が見られるという。 

 

だが、その『教養』の中味というか、意味が問題だ。これを聞いてすぐにピンときた人は、すでに未来社会を迎えるにあたっての心構えができている上位数%に入っているとさえ言えると思うが、大半の人はそうはいかないはずだ。むしろ教養など一部のエリート気取りのスノッブの優雅なお遊び、というくらいの認識の人が特に今の日本では多いのではないか。

 

実際、1990年代以降、特に新設学部を中心に『実学重視』を標榜する大学が急増した。産業界でも、日本の大学の実学からの乖離を批判し、実学重視を説く人の影響力は明らかに大きくなった。比較的最近でも、文部科学省が2014年の10月に開いた有識者会議の委員を務める経営共創基盤の冨山和彦CEOが『日本の大学の大半を職業訓練校にするべきだ』と提言して物議をかもしたことは記憶に新しい。

 

2015年になると、文部科学大臣から『国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて』という通知があり、その中に、教員養成系学部・大学院人文社会科学系学部・大学院について、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう提言があったことが、大変な反響を呼び起こした。この背景にも『実学重視/人文系の教養軽視』という文脈があったと言える。国家にとって重要なのは、実用的な情報や技術であり、その『量』であるという考え方が透けて見える。

 

ところが、皮肉なことに一方では、多くの大学が『役に立つ』『実学』を身につけた人材を育てるために行って来た専門教育は、その専門のことは詳しいが、それ以外は知らないという社会では役に立たない人材を生み出しているという批判が、産業界からも頻出することになる。しかも、AIが未来社会を席巻することを現実として受け止め、AIと共生する未来像を描こうとしてみると、ここで言う実学に基づく仕事』こそ、AIが真っ先に代替してしまうであろうことがわかってくる。

 

 

▪️ 陳腐化が早い先端技術より『リベラルアーツ』を重視する米国

 

それどころか、今では最先端の技術分野でさえ、5年も経てば陳腐化して次の先端と入れ替わってしまうため、米国のMITのような先端科学の総本山のような大学でも、最先端の科学も、すぐに役立つ技術もほとんど教えないという。それより、自らの考えや知のベースになる『リベラルアーツ』を豊かに学んだ方がはるかに役に立つという明確な教育方針を持っているというのだ。そして、そのような方針は一人MITだけのものではなく、ハーバード大をはじめ、米国の一流大学全体の基本方針となっているという。

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MITは理系の大学でありながら、その教育は、哲学、人類学、歴史学等、文系の学問分野だけではなく音楽のようなアートにも及んでいて、しかも音楽の理論を教えるだけではなく、実際に楽器の演奏まで教えているというから徹底している。これを読むと、今はな亡きアップルのスティーブ・ジョブズ氏が、『われわれは常に、テクノロジーとリベラルアーツの交差点に立とうとしてきた。技術的に最高のものを作りたい。でもそれは直感的でなければならない。これらの組み合わせがiPadを生み出した』と語っていたことを思い出してしまう。どうやら、米国における『リベラルアーツ』と現代の日本において『教養』として一般に認識されているものにはかなりの違いがあるようだ。

 

 

▪️ 日本の『教養』教育の問題点

 

文科省の方針もさることながら、一方で、今の日本の多くの大学の文系学部の方も、米国の『リベラルアーツ』教育のように目的意識を持って本気で取り組んでいるとは到底思えない。確かに大抵の大学には『教養課程』もあれば中には『教養学部』もあるとはいえ、自覚を持って『教養』に取り組んでいいる学生は少ないし、教える側(教員等)でも専門課程に比べて日陰者扱いされているのが実情だろう。

 

日本では、高校から数学の成績(あるいは好き嫌い)で『理科系』と『文科系』に分けられ、『文科系』に進むと、理科系の教科はほとんど履修することもなく、大学に入っても、教養課程があったとしても、最新の理科系の学問の到達点を学ぶ学生は稀だろう。だが、これは非常に危機的な状況と言わざるをえない。今や技術進化が世界全体の構造を根本的に変えてしまいかねない状況なのに、日本の『文科系』にはそのような認識を持つための素養がほとんど涵養されていない上に、仮に多少の素養があっても、情報の真贋を見極めるための基礎力がないから、正しい認識を持つことも期待薄だ。逆に、昨今の自動運転でも、生命科学でも、最先端技術を社会にどのように位置付けていくのか、そのための哲学なり倫理の重要性が盛んに喧伝されているが、日本の『理科系』の中で、哲学や倫理を本格的に学んだ人に出会うことはまずない。では、『文科系』の学生が哲学や文学等の人間理解の助けになる学問に真剣に取り組んでいるのかと言えば、これもかなり怪しい。

 

 

▪️ 京大総長の山極氏の『賢人の知恵』

 

このように、日本の大学の『教養』に対する取り組みは、根本的な改革が必要に思えるだけに、人文社会系軽視とも取れる文科省の提言に対しては、私も違和感を禁じ得ない。京都大学総長の山極寿一氏はこの提言が出た時に『幅広い教養と専門知識を備えた人材を育てるためには人文社会系を失ってはならない』と述べて反旗を翻したが、AIに関連して、『教養』に注目が集まっている今だからこそ、あらためてその意味をよく考えてみる必要があると思う。

 

その山極氏だが、『これからの教養 激変する世界を生き抜くための知の11講』*1という著書で、インタビューされる側の11人目として登場しており、自らの専門である霊長類研究に基づきインターネットが普及した現代に独特の警鐘を鳴らしていて、これが極めて興味深い。まさに『教養』の重要性を自ら体現している。

 

霊長類の中で、サルには人間のような高い『共感力』がない、という。例えば、母ザルにとっても子ザルは大切な存在だが、わが子の能力は自分より未熟である、ということがわからないから(共感できないから)、肉食獣が迫ってきた時、目の前に川があれば、子供が泳げる能力がないことがわからず、自分だけ川を渡って逃げ、子供は食べられてしまうようなことが起きるそうだ。共感力のない猿は、サル社会の中で、お互いの関係を調整するために、強い・弱いという序列というルールを設けて争いを避けているのだという。人間で言えば、法律を作って調整しているイメージだ。

 

これは驚くべき指摘だ。高い『共感力』は人間ならではの能力で、このような身体感覚を生かすことで信頼社会をつくってきたのに、今では人間はどんどんルールや法律を作ってそのルールに従うことで安心を得ようとしている。これはまさに人間の『サル化』で、しかも『サル化』された社会というのは、すごく脆弱な砂上の楼閣なのだという。インターネットでバーチャルに、身体感覚とは関係のないところでの繋がりが増えれば、ルール化、立法化はある程度やむを得ない方向とは言え、これが信頼や安心を損ねる元凶となっていることを山極氏は指摘する。だが、このような認識はあまり今の社会で共有されているとは言えない。われわれが本当に信頼できるのは、生身の身体を通して得られる感覚なのだ、という知見(=教養)は、今後の社会のあり方を考えるにあたっても極めて重要だ。

 

また、第三世代のAIは膨大なデータで賢くなり、また膨大のデータを一瞬で解析することができるが、裏を返せば、データがなければ賢くもならず、何もできない。人間には、データがなくても判断し行動できる『直感力』という能力が備わっていることを山極氏は指摘する。そして、このことを説明するのに、経営の神様松下幸之助氏を持ち出して語る。幸之助翁が新入社員を面接した時に『こいつは将来リーダーになる』と思える条件としてあげているのは、『愛嬌があること』『運が良さそうに見えること』『背中で語れること』の三つだったというが、いずれも幸之助翁の長年培った直感力があればこそ見えてくる参照点と言える。しかも彼の見立ては非常に鋭く、人を見る目は人後に落ちなかったことはよく知られている通りだ。これは浅薄な科学者は、『非科学的』と簡単に切って捨ててしまいかねないところだが、過去に成功した人物の評伝等を丹念に読んでいれば、このような『直感力』の存在は『常識』以外の何物でもない。本物の教養を養っている人にとっては、それこそすぐに『直感』できることだろう。

 

 

▪️ 根本的なフェイクニュース対策

 

昨今、世界にはフェイクニュースが溢れ、これが大変な問題となり、実効的な対策を見出せずにいるが、いくら小手先の法律をつくったり、制度をいじったところで、一人一人がフェイクでない情報、本質的な情報を見分ける洞察力を持たなければ、根本的には解決できない。東京大学名誉教授の村上陽一郎氏は、この洞察力を養うためには、フェイクの恐れがない『本物』、すなわち『古典』にじかに出会い、正面から向き合って格闘してみることが一番確かな道だと述べているが、*2 私も本当にそうだと思う。古典と格闘することこそ、本物の教養を養う道でもあり、それが溢れかえる情報から本物を掴み取るためにも、一見遠回りだが一番の近道ということだ。昨今、フェイクニュースの問題に関わる議論は、百家争鳴と言える騒がしさだが、村上氏のような見解をほとんど見かけることがないのは、今の日本で教養が軽視されていることの証左とも言える。

 

 

▪️ 本当に人間らしい生き方を見つける時

 

AIの登場で、人は隅に追いやられるのではなく、本当に人間らしい仕事や生き方を見つけることができるかもしれない。皮肉なことにAIのおかげで、『人間とは何か』という問いに真剣に向き合う気運が高まっている。だからこそ、AIのような技術が氾濫する時代に生き残るための最も有効な策は、実は人間形成のための教養を見直し、追求することにあり、しかも、先端技術やビジネスで先端を行く米国でこそ、そのような認識がしっかりと根付いていることは、この際日本でもあらためて、よく考え直してみるべきだろう。

日本の文化価値の底力を過小評価してはいけない

 

経済やビジネスの明るい話題が少ない日本

 

 最近、巷では政治的な話題がものすごく賑やかだ。モリカケ問題のようなスキャンダルで騒がしいということもあるにせよ、長く蔑ろにされていた未解決の問題がこの時とばかりに次から次へと暗い穴の底から這い出して来ている感じだ。長い間の日本人の政治無関心のつけが一気に出て来ているように見えてしまう。やはり日本は長い間、「経済一流、政治は二流」の国だったのだなとあらためて思う。

 

ところがその経済、あるいはビジネスに関わる話題も、ウキウキするような明るい話題は昨今本当に少なくなった。もちろん、人工知能等、技術に関わる話題は毎日溢れるように出て来るし、そういう意味ではその関連のビジネスに関わる情報も山のようにあるとも言えるのだが、よく注意して見ていると、それで日本企業が、これならやっていけるという確信を持てるような話題はほとんど含まれていない。その逆に、このままでは日本企業も日本自体も壊滅してしまうという類の悲観的な言説は増える一方だ。残念なことだが、これが2010年代の終盤を迎えた今の日本の現状だ。

 

本来、こんな時には、かつての日本の凄さを思い出せ、というような話がもっと出て来てしかるべきところだが、昨今では、「かつての日本の成功(重厚長大第二次産業での成功)はこれからの日本の成功(ソフトウェア/第三次産業での成功)の足枷」、という認識もかなり浸透してきているせいか、ほとんど目にすることもない。近年、成功している日本企業の代表の役割を一手に背負って、お手本であり続けたトヨタでさえ、最近ではお手本としては賞味期限切れ気味で、「あのトヨタでさえ生き残れないのではないか」という悲観的な論調に変わりつつある。それもあって、「日本企業は本当にどこも生き残れないのではないか」という漠然とした不安が日本中を覆っている。

 

こんなことを書くと、日本企業としてユニコーン企業に認定された、フリマアプリ運営のメリカリやアパレルのZOZOTOWNあるいは深層学習の産業応用でトヨタ自動車からも出資を受けた、プリファード・ネットワークスなど、今の日本にもいくらでも成功例があるのだから、もっとそういう企業を注目すべき、というお叱りを受けることも少なくない。まあ、それはごもっともなのだが、それでも、どうもこのような企業の成功例が、大勢を占める旧来の日本企業を触発して、全体として市場や、さらには国家が活性化するという方向には行っていないように思えてならない。この両者を繋ぐ何かが欠けている。

 

日本は高齢化が進み、生産年齢人口も総人口自体も減って、社会全体の活力も弱り、税金も高く、法律等の環境もベンチャー起業家が活動しにくいとなれば、米国流のマインドを持っていて英語も流暢な人や、そういう人の多い企業なら、あえて日本に留まる理由もなくなってしまう。成績優秀な高校生で、日本の大学ではなく、米国等の一流大学の進学を目指す学生が出て来ているが、それが日本の優秀な学生のスタンダードになって、日本に残るのは二流人材ばかり、しかも資本は外資が牛耳っていて、日本人社員は収奪されていく、そんな未来がこのままでは本当に現実になってしまうだろう。

 

 

日本ならではの価値に寄り添うことが必要

 

そういう意味で、日本という国土の内部、あるいは日本文化に発生起源を持ち、日本人の心の深層にある思想や行動原理にそった、より歴史を生き残った要素を核とする成功のエッセンスを見つける努力がどうしても必要なように思う。またその方が、多くの人が納得して、普遍的で息が長く、未来にもつながっている道を示すことができるはずだ。

 

そのように言うと、「日本人の習慣や心性は製造業の成功には大いに寄与したが、インターネット時代になって、ソフトウエアやサービス業が主流になると、米国人や中国人のほうが相性が良く、日本人には不利というステレオタイプな反応が必ず返ってくる。たしかにそれはあたっている部分もあるのだが、それで以上終了とするのは少々結論を急ぎすぎだ。日本人にとって、幸いなことに、この国にはまだ磨けば光る巨大な資源が眠っている。

 

トヨタや松下(現パナソニック)、東芝等の日本の製造業が世界を席巻している間も、日本発の文化が国境を超えて他国に大きな影響を与えるという現象は見られなかった。だが、どういうわけか、バブルが崩壊した後になって、日本の文化産業は世界中で注目され、経済的な成功を実現するようになり、いつのまにか海外からの日本のイメージは、テレビや自動車のようなプロダクトから、ポケモンガンダムのような文化産業へシフトし、しかも外国人から「クール」と評価され、世界で確固たる地位を築くことになる。

 

 

クール・ジャパン戦略の挫折

 

このアップトレンドに相乗りすべく、第二次安倍政権の誕生後、内閣府経産省主導で、いわゆる「クール・ジャパン戦略」が開始され、日本の魅力を海外へ情報発信して、日本の商品やサービスによる売り上げの増大を目論んだ。そして、政府の支援を受けて日本文化輸出を支援するクールジャパン機構(CJF)が設立された。失われた10年、20年とどんどん「失われた」時期が長くなっているという焦りにも似た感情が日本を覆っていたこともあり、大いに期待され、鳴り物入りで始まった活動だったと記憶する。

 

ところが、どうやらクールジャパン機構(CJF)はあまりうまくいっていないのでは、という噂が飛び交っていると思ったら、昨年秋には、日経新聞から非常に状況が悪化している旨を伝える記事が出る。事業の過半数が収益などの計画を達成できていない、ガバナンスが効かない等、散々な言われようだ。

www.nikkei.com

 

だが、あらためてクールジャパン機構の出資先を見てみると、残念ながらとてもではないが「クール」とは程遠い案件が並んでいる。そもそも文化産業というのは、工業製品のように数値目標を決めて、一様に管理できるようなものではない。こうなると、国際政治学者のジョセフ・ナイ氏が述べていた「政府は文化を管理できないし、管理すべきではない」あるいは「文化を管理する政策がとられていない点自体が、魅力の厳選になりうる」という意見が正しかったように思えてくる。しかも、関わる人達の感性や年齢の問題もあるように思える。

 

世界で喝采を受けたのは、「日本文化」といっても、マンガ、アニメ、ゲーム等のポップカルチャーであり、その良さを肌感覚でわかるのは、日本人でも、40歳くらいまでで、それより上の年齢層は(人によって違うのはもちろんだが、一般的には)実のところほとんど理解できないのが本音だろう。クール・ジャパンも失敗なのか、としょげる前に、世界で受け入れられている「クール」の」正体を、もっと徹底的に分析しておく必要がある。

 

 

何が世界で評価されたのか?

 

もちろん、すでに優れた分析もある。例えば、「ポケモン」の成功の理由については、人類学者の中沢新一氏は著書「ポケモンの神話学 」*1で、ポケモンが、子供の無意識に潜む(場合によっては危険な方向に向かう恐れもある)欲動を知的に昇華する働きをして、カオスを秩序に変える場とすることができたことにあると述べる。また、ポケモンは、子供の衝動を人類学者のレヴィ=ストロースが説く「野生の思考」(科学的思考よりも根源にある人類に普遍的な思考)に昇華させたとも述べ、ポケモンを非常に高く評価している。そして、これは「野生の思考」の痕跡を身近に残す日本文化を持つ日本人なればこそできたとしている。

 

確かに、ポケモンに限らず、90年代以降の日本のポップ・カルチャーは、日本的なアニミズムであったり、異世界への憧憬であったり、霊性、無常観、もののあわれといったような、世界にも珍しい独特の文化の香りをデジタルに置き換えて見事に表現していて、その結果、そこで表現されるものは、ロボットのような機械であれ、怪獣であれ、精霊であれ、非常に不可思議ながら世界のどこにも類例のない種類の、生命の息吹を感じることができるものが多い。

 

米国の文化人類学者である、アン・アリスン氏は、著書「菊とポケモン*2で、米国人の若年層にとって、日本の漫画やアニメ等のポップ・カルチャーが、その斬新さ、ストーリー性の豊かさと人物描写の複雑さ等において、ハリウッドが提供するものよりもはるかに面白く、創造性に富んでいて、それを「クール」と評価している様子について述べている。それは、単なる日本文化というより、そのエッセンスを汲みあげながらも、それをハイテクの娯楽商品として創造性に富むプロダクトに仕立て上げるプロデューサーとして、日本の評価は世界的に高まっているのだという。

 

だから、今では、欧米の若年層にとって日本を象徴するのは、キモノでも茶道でもカミカゼでもなく、ホンダでもトヨタでもなく、任天堂ビデオゲームや、漫画、アニメ、トレーディングカードやエンターテインメントのテクノロジーになっている。そして、その中心にいる現代日本のクリエーターは、グローバル経済下にある現代人が生活する上での希望や欲求不満をとらえることにディズニーよりも長けているという。そのような日本のクリエーターは、ポスト・モダンの時代に子供達が感じているストレスを解消し、願望をかなえてくれて、時代にどう対応したらいいか教えてくれている、とまで評価している。

 

これほどグローバルな視点からの分析を日本人の識者が述べるところはあまり見たことがないが、アン・アリスン氏の分析を読んでいると、日本のポップ・カルチャーの成功の理由について、日本のクール・ジャパンの関係者には、まだ学ぶべきことがたくさんあったのではないかと思えてくる。直接の当事者ではない政府関係者や、40才以上の年長者ばかりが仕切る企業での成功はおぼつかないのも当然で、クール・ジャパン戦略」のつまづきは、日本のポップカルチャーが世界で証明して見せた成功自体とはまったく違うと考えられるのだ。だから、(繰り返すが)この国にはまだ磨けば光る巨大な資源があることは決して否定されたわけではない。

 

 

日本の文化価値が否定されたわけではない

 

上記の分析は、ある程度文化人類学や日本の思想について知見がある者にとっては、非常に的を得た分析に思えるし、新たな創造を喚起する智恵に溢れているようにも見える。また、ポップカルチャーだけではなく、日本の経済活動のあらゆる場面に応用していける汎用性もあることを示唆している。日本や日本企業、日本人全般で生かすことができ、元気にする原理を引き出してくることができる可能性を秘めている。

 

だが、普段あまりこのような学問分野に触れることのない、大半の人にとっては、単なる謎めいた疑わしい言説に見えてしまうの無理はない。普通の経済活動に適用するためにはもう少し「解釈」や「注釈」が必要なことは確かだ。自分にそれができる能力があるかどうか若干疑わしいが、何とか自分自身を叱咤しながら、取り組んでいこうとは考えている。というのも、これこそ、日本文化の奥底に淵源がありながら、それを元に、日本のクリエーターが創造した、グローバルに通用する価値であり、日本ならではの経済価値としてもっと大きくしていけると確信しているからだ。そう確信してしまった者の「責任」と受け止め、出来ることから始めてみようと思う。

*1:

 

*2:

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力

 

 

世界から取残され迷走する日本企業が今掲げるべき道標とは

 

創業時のソニーこそ今後の日本の道標?

 

書店でふと、元ソニー社員でGoogleの日本法人の社長も務めた、辻野晃一郎氏の名前を見つけたので、思わず手に取ってみた。なんと、評論家の佐高信氏との対談本である。*1 両者の個別の意見については、他所でもずいぶん読んできたこともあり、それぞれどのようなお話しが出てくるのかある程度想像できるのだが、この異色の組み合わせとなると、どのように議論が展開するのか予想できない。その点に興味を感じて読み始めてみることにした。

 

辻野氏と言えば、創業時代のソニーの遺伝子を受け継ぎ、それをGoogleという場でも見事に開花して見せた、今や日本では貴重かつ希少な存在となっている、世界に通用するビジネスマンの一人だ。一方、佐高信氏と言えば、歯に衣を着せないバリバリの左派の論客で、言及しただけで、右翼系のアンチ佐高が殺到してきて、炎上してしまいかねない強面の人、というイメージだ。その先入観だけで言えば、この二人を対談させようとしても、すぐに喧嘩別れになってしまうのではと思えてしまう。

 

ただ、佐高氏には、先日亡くなった、日本を代表する保守論客であった西部邁氏との対談本もあって、*2それこそ一見水と油の関係に見えるが、本書を読んだ限りでは二人の思想の核はすごく近いところにあるように感じる。日本でも政治的な右派、左派の定義が最近))頓に変質しているが、それを象徴しているとも言える。同様に、ビジネスに関わる価値意識や、分析軸も急激に変化して来ていて、旧来の概念が当てはめにくくなって来ている。そういう意味では、辻野氏との対談も、最早、さほど驚くようなものではないのかもしれない。

 

実際に読み始めてみると、やはり辻野氏は辻野氏であり、佐高氏は佐高氏だなと思う。旧来の主張とそれほど違いはない。それでいて二人の認識は、少なくとも今回の対談に関しては、ほぼ完全に一致している。そして、私もそのご意見に大筋同意できる。もちろん、具体的な人物評価や、好み等の詳細に関わる部分の中には同意しにくいところもないわけではないが、些末な問題だ。

 

その二人の共通認識とは、創業時~初期のソニーの思想/価値観こそ、かつて日本の企業社会が持つことができた、そして道を見失った時に繰り返し参照できる、輝かしい歴史であり、すっかり混迷して将来のビジョンを見失ってしまっている昨今の日本企業や経営者、ビジネスマンが今こそ掲げるべき道標であり、希望である、ということだ。「新しい価値をつくり出すためには、人のやらないことをやる」という思想を徹底したソニーは日本を超えてアップルやグーグルが手本とするほどの世界性があった。アップルの創業者スティーブ・ジョブズソニーの創業者である盛田昭夫氏を尊敬していたのは周知の事実だ。

 

 

成功から一転凋落する「日本教」型企業

 

かつては、ソニーは、成功はしているけれども日本企業としては異端、という扱いだったのが、今や数少ない希望になろうとしている。それだけ日本企業の大半は迷走し、煮詰まってしまっているということでもある。そのように言うと、企業の内部留保は過去最高レベルであり、今の日本企業の業績は良いと反論する向きもあろう。だが、そのうちの誰が、2020年のオリンピックを越えて、日本企業が堂々と世界の競争に伍していけると胸を張れるだろうか。冷静に考えれば、没落の時が迫っていることは誰にもわかるはずなのに、とりあえずオリンピックまではかりそめであれ好景気の賑わいに踊ろうというような、刹那的でよどんだ空気が蔓延している。

 

佐高氏は、彼が批判の目を向ける、神道系の宗教思想を背景に戦前に設立され、戦後も生き残った企業研修団体である『修養団*3によるファナティックで、宗教的な研修(禊研修等)*4を社員に受けさせることを良しとする企業をカルト日本企業と呼んで批判する。そして、そのような「日本教」とは一線を画し、個人を大事にして自由闊達な社風を良しとするかつてのソニー(およびホンダ)のような企業を高く評価する。一方、辻野氏は、ソニーに入社する以前の学生時代から、ソニーの思想に心酔し、入社後もそれを信奉し、ソニーの企業規模が大きくなって創業経営者がいなくなっていわゆる「大企業病」に冒されて変質してしまった後も創業理念の復活を願って戦い続けた人だ。両者が、それぞれの立ち位置は違うとはいえ、かつてのソニーの思想、そして、それを体現する会社を創り上げた創業者の盛田昭夫氏おおよび井深大氏を理想の経営者とする点については、一致していることがわかる。))

 

私が佐高氏の評論を初めて読んだのは、まだ自動車会社、それも佐高氏が批判する側の企業(トヨタ自動車)に勤務していた時代だが、その頃は、自動車業界で言えば、ソニーに近い体質を持つホンダも非常に高く評価されていた。私自身、白状するが、海外企画で商品を担当していた時は特に、斬新な製品を次々と投入するホンダを眩しく仰ぎ見ていたものだ。一方で、ソニーとは正反対と言っていいほど異なる経営思想を持つ、『禊研修を受け入れる会社』である、日立、東芝松下電器産業(今のパナソニック)、三菱電機等も、総じて業績は良かった。戦後の高度成長の波に乗り、これからバブルに突入というタイミングくらいまでは、日本企業の多くは世界の勝ち組だった。だから、ソニーやホンダも個性的で面白い経営をしているが、パナソニックトヨタ、あるいは日立、東芝等の方が日本の経営としては本流であり、その両方が切磋琢磨している日本は強いのだ、というような楽観的な物言いが一般的と言えた。

 

 後者のタイプの企業の中には、松下電器産業(現パナソニック)の松下幸之助氏や、京セラの稲森和夫氏や、会社を潰してしまったが、ヤオハンで一世を風靡した和田一夫氏のように、はっきりと宗教と経営を統合するような思想を表に出していた経営者もいたし、そこまではっきりと表明はしないものの、同等の思想を受け入れることを是とする会社は実のところ非常に多く、祭壇や神道の社、従業員のための墓を持つ会社も確かに存在した(今でも存在している)。表立って具体的な宗教色がなくても、公私へだてなく従業員に会社への没我的な貢献を求め、毎晩のように社員が(男性ばかりだが)家族を犠牲にして飲み歩く日本企業は、他国から見れば背後に何等かの宗教的な(でなければホモセクシュアルの)紐帯があるように見えても不思議ではなかった。

 

当時の日本企業は、日本の社会に残された主要な中間共同体であり、その共同体への所属意識と忠誠心、共同体内での相互扶助精神が製品の品質を異常なまでに高くし、従業員は長時間労働を厭わず(しかも残業代を請求せず)、それが日本企業の強さと直結していた。そこには、やはり一種の、宗教教団に比肩できるような精神構造があると私自身感じていたものだが、そのような「宗教色」が特に強かった、松下電器産業トヨタ等が日本の強さの象徴であった時代には、「日本教」の浸透度合いが高い会社ほど強いと述べる識者もいたと記憶する。ソニーと松下がビデオの企画を争ってソニーが負けた時など、「所詮はソニーなど松下の開発会社のようなもので今は元気が良いが、そのうち飲み込まれてしまうに違いない」というような意見を支持する人も少なくなかった。そして、ホンダとトヨタの関係も似たようなもの、と言われていた。

 

 だが、その後、電機業界は坂道を転げるように凋落の一途を辿ることになる。松下に合併されたサンヨー、台湾企業傘下となったシャープ、今ではかなり持ち直したとはいえ一時期巨額の赤字を計上したパナソニック、あるいは軒並み業績を落としてしまった日本電気や日立、極めつきは経営者が経団連会長職を得るために業績を偽って巨額の損失を隠し続け、企業破綻寸前に追い込まれてしまった東芝など、かつては自他共に世界一と認められていたはずの栄光は地に落ち、将来の展望も示せなくなってしまっている。昨今では、躍進するアジア企業の後塵を拝しているばかりか、その差はさらに開きつつあるようにさえ見える(その中では、パナソニックだけは例外的に経営改革が進みつつあるようではある)。

 

かつては、短期的な業績に過度にこだわらず、従業員を組織の単なるパーツではなく、コミュニティの成員(家族)として遇する家父長的な経営者も少なくなかったが、東芝の例に見るように、温和な家父長だったはずが冷酷な独裁者に変貌したり、自らのエゴイスティックな権力欲で、会社に大打撃を与えるような、とんでもない経営者も目立つようになってしまった。しかも、もっと残念なことは、ソニーも創業者が存命のころのソニーではなく、自動車業界で言えば、ホンダもかつてのホンダではない。皆が仰ぎ見ることのできる理想の企業は、もはや伝説の中にしか存在しないとも言える。

 

 

日本教」では乗り切れない

 

もっとも「日本教」のなにが悪いのか、その良い部分を正当に評価せよと迫る人たちも多いことは私も知っている。ただ、宗教と組織、あるいは国家が一体化すると、状況が良い場合は宗教の良い面が出て更に状況を好転させる原因になることも期待できるが、状況が悪くなると(不況、収益悪化等)、成員に滅私奉公を強要して、暴走してしまうことも少なくないことは歴史が証明している。昭和初期のテロ(5.15事件、血盟団事件2.26事件等)など宗教がテロを抑制するのではなくむしろ奨励していた典型的な例だし、大東亜共栄圏や八紘一宇というようなイデオロギーも、その理想とは裏腹に、帝国主義的な強国の論理に堕してしまったのも、曲解された宗教的信念が背後にあったことは疑いえない。宗教の良さや宗教一般を否定するつもりはまったくないが、企業のような組織や、国家と結びついた場合に、シャーマニズム的な熱狂が引き出されて手に負えなくなってしまう事例は枚挙に遑がない。このあたりをあまり断定的に述べると炎上ネタになりかねないし、私自身がまだこの問題の本質を語るほどの資格も力量もないことは正直に認めるが、少なくとも非常に慎重に対処すべき何事かがあることは確かだろう。

 

そのような視点で、昨今の企業を見ていると、日本教」の負の部分が露呈しているケースが多くなってきているように思えてならない。その典型例が昨今非常に騒がしく問題になる、過労死やパワハラだろう。上司や先輩等の直接の虐めだけではなく、村社会の掟に従わないものは、成員の全員が徹底的に虐めて村八分にするようなことは、昔から多かったが、昨今では、一層陰湿になっていて、虐めの対象にならないように空気を読んで息を詰めないとやっていけない企業も増えている。一方で昨今の「働き方改革」など、昭和の時代に「日本教」精神を「禊研修」等で叩き込まれた今の企業の上層部には、本音のところまったく受け入れられないはずだ。それは彼らの表情を見ていれば一目瞭然だろう。このままでは、解決は程遠いと言わざるをえない。

 

日本の企業のシステムは、製造業で、低コストかつ高品質を実現する点では比類ない強さを発揮した。だが、日本の賃金が高くなり、品質の点でもアジア企業が追いついてきて窮地に立たされるようになることは、実はずっと前からわかっていたことだ。だから、既存の「モノ」を低価格高品質で提供するような、かつての松下が標榜したやり方は早晩行き詰まるから、これからは人真似をせずにオリジナリティで勝負するソニーのようにならないとだめだ、という物言いも耳にタコができるくらい聞かされたものだ。だが、結局日本企業の大勢は変われないままで来てしまった。企業における昭和的な価値観も亡霊のように生き残り、昨今では「日本教」的な手法を払拭するのではなく、むしろそこから離れたことが日本を悪くしたのだから、もう一度古き良き日本(日本教、あるいはその色の強い日本的経営)に回帰すべき、という声さえ大きくなってきている。

 

しかしながら、時代はさらに先に進もうとしている。インターネット普及で外部調達のコストが下がり、ユーザーが直接参画するようなモデルが優位性を発揮している現代では、企業や企業グループの結束の強さを強みとしてきた日本企業が、外部経済の恩恵を受けることができず、かつての強みが弱みへと暗転してしまっている。Googleやアップル、アマゾンのようなIT系企業のモデルが製造業を含むあらゆるビジネスを破壊し、変革の渦に巻き込んでいるのはご存知のとおりだが、今の方向をさらに助長して押し上げることに寄与すると考えられる、人工知能ブロックチェーンといった技術が日進月歩で進歩している。このような変化の激しい経営環境には、日本の従来の企業より、中国企業の方がうまく適応して、世界経済の最前線に躍り出てきている。昭和マインドや日本教では、周回遅れどころか、2周も3週も遅れてしまってる現状を挽回出来るようには思えない

 

 

進化型組織「Teal」が起死回生のヒント?

 

今の日本の組織の典型的な問題は、複雑で官僚的な組織がガン細胞のようにはびこり、前例主義等の保守主義が新しいチャレンジを阻むようになってしまっていることだろう。そして、組織内で権力者は、近親者や仲間、あるいは子飼いの部下ばかりを優遇し、既得権益や権力を守ることに汲々としている。企業の成長が止まり、先行きが不安になり、利益のパイが先細りであることは本音のところわかっているから、小さなパイを争って組織内は小競り合いが激しくなる一方だ。

 

組織が問題なのは、日本だけではない。株主の意見が強すぎて、あまりに短期業績ばかりで評価される米国型の組織も、会社の将来を見越した長期投資ができず、一部の経営者に権力が集中して、報酬も極端な上下差ができて、一般労働者の賃金は下がり続け、今や企業内だけではなく、国自体が分断されようとしている。ある意味、世界は国家であれ、企業であれ、組織が病み、試行錯誤を重ねても良い方向に行かずに混迷し、泥沼にはまっていると言っても過言ではない。

 

企業であれば、提供するモノであれ、サービスであれ、より良いものを提供することが本来の目的だったはずだ。まさにかつてのソニーのように、世界でまだ誰も見たことがないものを世の中に出していく、そのことを他の何よりも優先し、目標に据えて邁進していれば、従業員の意欲やパーフォーマンスは向上し、顧客満足度は上がり、その結果、経営者の評価も高まり、株価も結果として上がるというプラスのスパイラルが期待できるはずだ。だが、抽象的な決算数値だけを評価軸にしていると、従業員の熱は冷め、顧客は企業から遠ざかり、結果的に経営者の評価も株価も下がってしまう。そして、経営者は管理と保身に走る。ソニーの歴史を辿っていると、上下両方の典型的な事例を見つけることができる。

 

もう世界には、かつてのソニーの良い部分を彷彿とさせるような企業や組織はないのだろうか。社会に提供するモノやサービス自体を経営者のエゴより優先させて、権限が現場に委譲され、それでいて業績も良い会社、それは望むことはできないのだろうか。いや、どうやらそんなこともなさそうだ。まだ知る人ぞ知る存在だが、Teal」という組織のことはご存知だろうか。最近日本でも、これを解説する本の訳書が出版されて、一部の人たちに圧倒的に支持され、研究されている。*5これは、一言で言えば「一人一人が意思決定して信頼だけで成り立つ進化型組織」ということになる(もっとも一言で言うのはかなり無理がある)。本書の宣伝コピーには、上下関係も、売上目標も、予算もない!? 従来のアプローチの限界を突破し、圧倒的な成果をあげる組織が世界中で現れている。」とあって、私など、あまりに理想を追いすぎていて、かえって現実味がない印象を与えてしまうことを危惧してしまうのだが、そこまで極端ではなくても、「企業トップや経営者がいても、コストのかかる官僚組織を作って権力を振るうのではなく、その企業の理念を実現するための企業文化の醸成や緊急時の経営判断や調整に注力し、普段は可能な限り現場に権力を委譲して、自主管理に任せるというタイプの企業」とやや定義を柔軟にすれば、すでにいくつかの事例は知られている。

 

ネットの情報を漁って見ると、靴のネット通販会社ザッポスや アウトドア衣料などを扱うパタゴニア等がTeal組織の理念に近い例として紹介されている。ザッポスは、アマゾンが屈服した会社として昨今では喧伝されているが、CEOのトニー・シェイ氏は、長期的なビジョンを「市場の顧客サービスとエクスペリエンス(体験)を提供すること」として企業文化やコア・バリューをつくることを何より重視し、それが、顧客、社員、取引先、そして最終的には株主に幸せを届けることにつながると信じていると述べている。パタゴニアも環境への配慮を中核的な価値に据え、自身サーファーでもある、CEOのイヴォン・シュイナード氏は、「社員をサーフィンに行かせよう―パタゴニア創業者の経営論」という著書でも話題になった人だが、Teal組織の特徴である、「崇高な目的、意思決定の分散、個人の全体性、自己管理、進化を続ける目的」等、確かに以前より彼が経営理念として据えていた要素と重なっている。波が良ければサーフィンに行ってもいいが、そのかわり自己で時間を管理し、仕事は責任を持って行うことを求めているわけだ。

 

このTeal組織のコンセプトを読んで見ると、かつてのソニー自体、この組織の類型にかなり近い経営を行なっていたことがわかってくる。そんなことが可能なのか?というのは、私自身の最初の疑問でもあったわけだが、成功事例はすでにかなり出て来ているし、世界は(特に今の日本は)全力でこの方向を目指すべきと思えてくる。

 

ただ、そのためには、少なくとも当面は、企業が提供するモノやサービスを良くすることを第一として、企業を自分の権力欲や自己顕示欲を満たすための道具にしないリーダーが不可欠だし、従業員もその思想を理解し、受け入れる人が多くないと維持出来なさそうだ。ザッポスも、パタゴニアも、CEOが率先して企業文化を醸成することに尽力して来たのもそのためだ。では、このような組織を持つ企業を増やして、主流としていくためには、具体的にはどうすればいいのか。まだ探求すべきことは多そうだ。だが、いずれにしても今世界がはまり込んでしまっている問題への回答、あるいはヒントがここにあるように私には思える。

 

 

Teal組織が主流となる必然性

 

昨今の日本の若手の企業経営者は、従来の経営者と比較するとかなり違って見える。昭和の経営者のように、能力もあってエネルギーも旺盛だが権力欲や自己顕示欲がその源泉となっているのが見え見えのタイプは少なくて、社会を良くしたいということ自体が目的で、本人は名誉欲もあまりなくてサバサバしているタイプがとても多い。また、今、話題になっているブロックチェーン技術は、中央管理がなくても、そのシステムが維持/運営できるようなインフラとなろうとしている。視点を変えれば、日本でも、Teal組織に移行すべく準備が進んでいるようにさえ思えてくる。

 

biotope代表取締役兼チーフストラティジックデザイナーの佐宗邦威氏がその辺りを非常に的確に語っている。将来的にどのような企業組織が主流になるのか、そのイメージの一端を垣間見ることができるコメントだ。

Teal型組織で提唱されている自己組織化する組織とは、インターネットによって可能になった自律分散型の世界観に応じて可能になった、組織という人間の集団での動き方のイノベーションの試みと言えるでしょう。インターネットによって、リナックスMozillaなどのオープンソースが哲学になったコミュニティ型の組織が生まれ、そこでは中央で強いガバナンスを持たずに、明確な目的やミッションの元に、場のルールや環境、組織文化をデザインすることで、その場・プラットフォームを繁栄させるという、新たな組織のあり方が可能になってきました。このような組織においては、顔の見えるビジョナリーなリーダーは必要ありません。中空構造の組織というところが、今までの組織と一線を画す部分です。

medium.com

 

日本人はソニーという学びの多い歴史を持っているのだから、まず、これをしっかりと勉強して、平成という「失敗した時代」を繰り返さないよう、次の時代を本当に良くするために、準備を始めるべき時が来ている。未来は明るくできるし、そのためにできることは沢山ある。

 

*1:

日本再興のカギを握る「ソニーのDNA」 (講談社+α新書)

日本再興のカギを握る「ソニーのDNA」 (講談社+α新書)

 

*2:

ベストセラー炎上

ベストセラー炎上

 

*3:

修養団 - Wikipedia

*4:

*5:

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

 

情報強者に向けて直走る中国をどう考えておけば良いのか

 

◾️情報が石油以上の資源となる時代

 

日本で「情報爆発」という用語が巷にあふれるようになったのは、いつのころからなのだろうか?Googleトレンドで遡れるのが2004年の1月からなので、それ以前の状況はわからないが、どうやら最も盛んにこの用語が使われたのは、2005年から2008年頃だったようだ。*1それ以降は、むしろ抑制気味にさえ見える。ところが面白いことに、米調査会社IDCによれば、実際のデジタルデータの量の推移は、2000年には62億ギガバイトだったのが、2013年には4.4兆ギガバイトと13年で約700倍に膨れ上がっており、近年では、スマートフォンの普及や、モノどうしが情報を交換し合うIoTの進展もあって、2020年には、さらにこの10倍の44兆ギガバイトまで膨らむと予想されている。実際には、今まさに加速度を上げて爆発的に情報が増えているのだが、人の(日本人の)思考がすでにそれこそオーバーフローして、このトレンドの凄まじさに追いつけないでいる様子が浮き彫りになっているとも言える。技術や環境の変化が人の意識とは必ずしもシンクロしない一例を見る思いがする。

 

普通の人々の認識がどうあれ、実際にこの期間に起きたことは、この情報環境を最適利用できた企業(フェイスブックGoogle、アマゾン等)が圧倒的な力をつけて、市場を席巻し、旧来のビジネスモデルを破壊し、そこに追随できない企業を退場させ、置き去りにしてきた。そして、今、さらなる量の情報が蓄積し、分析のためのCPUパワーも加速度的に向上している上に、フィードした情報でスマートになっていく第三世代の人工知能が実用域に入ったことで、大量の情報を持つことの意味が根底から変貌しようとしている。それゆえ、情報は「石油」以上に価値のある資源とさえみなされるようになって来ていることはご存じの通りだ。だから、このことに気づいている企業は、様々な形でさらなる情報の確保に邁進し、国家単位でも戦略として取り組まれるようになってきた。



◾️最前線に躍り出る中国

 

この過程で、従来はほとんど蚊帳の外にいたはずの中国が、世界の競争の最前線に躍り出てきた。国内の大手IT企業が急速に力をつけて、収集した大量の情報を経済価値に変え始めただけではなく、国家単位で情報の蓄積/分析/利用に本格的に着手するようになり、しかも、欧米のような個人主義を基礎とした民主主義社会であれば強い社会的要請のあるプライバシー保護の制約が緩いことが(是非は別として)この局面では、極めて強い追い風となりつつある。

 

欧州と米国を比較すると、欧州は、人間の尊厳やデータに関わる個人の自主的判断を最優先するため、情報利用の点では制約的な環境だが、自由で公正な競争を重視する米国は競争が阻害されるような規制を設けることには概して否定的で、従来は、欧米は別種の二極を構成していた。ただ、昨今のフェイスブックに関わる情報漏えい騒動を見ているとわかる通り、プライバシー侵害のリスクがあらためて認識されるようになると、フェイスブックのような自由競争の先頭に立つ企業に対しても、制約強化の社会的な要請が強くなることが予想される。先に述べたように、実際に起きていることと普通の人の認識のギャップはこの分野(ITC関連)では特に大きい。米国でのフェイスブック公聴会のやりとりなどその典型例を見る思いだ。だが、一般人の不安感が煽られたときの政治的な逆風を甘く見ることはできない。当面、フェイスブックに限らず、情報戦略で勝ち上がってきた企業(Google、アマゾン等)には全般に逆風が強くなると考えられる。


そのような制約要件が緩く、国家ぐるみで情報強者を目指す中国が、数年の内に、世界で最も情報蓄積量が多く、最もスマートかつ大量の人工知能を持って産業のあらゆる面で世界に覇を唱えるという未来図は決して絵空事ではない。しかも中国一国だけではなく、他のアジア各国、中東、アフリカ等、この路線を追随する国は今後増えて行くことが予想される。情報が新たな「石油」であるとすれば、新たな経済圏として各国、あるいは各経済圏が相互に覇権を争う可能性すら予感される。欧州、米国、中国の三極、あるいは欧州と米国が小異を捨てて大同で連携する可能性もあるとするなら二極、いずれにしても、今後の世界の経済環境を分析するにあたって、非常に重要な視座となることは間違いない。しかも、中国タイプのモデルが最強となる可能性があるとすれば、現状すでに人権意識が弱い強権的な国家は言うまでもなく、欧米諸国(ないし欧米並みの民主主義を標榜する国家)にさえ大きな影響が及ぶことも考えられる。



◾️方向が定まらない日本

 

例えば、日本だが、日本の個人情報保護法は、欧州と米国の法律を両にらみで、折衷案を採用したような(失礼!)法律となっている印象があるが、最新の改正にあたっては、「利用の促進」と言う「目的」が織り込まれた。だが、最近のように中国のIT企業の台頭を目の当たりにして、そして、日本が経済的に劣勢立たされる近未来にリアリティを感じれば感じるほど、欧米流のプライバシーの概念に追随すること自体の意味がわからなくなる、というような一種の「人心の揺らぎ」が起きてきている。

 

そもそも日本では、個人情報の流失の部分にのみ、神経症的と言われるほどに敏感になってしまっており、法規制範囲外の利用に対してさえ、場合によっては炎上の憂き目を見る事例がトラウマとなって、企業は萎縮してしまっている。個人情報保護法改正により、情報の利用が進むことを目論んだ経産省など、日本企業のあまりの萎縮ぶりに呆然としてしまっている。「笛吹けども踊らず」とはまさにこのことだろう。

 

一方で、EUの一般データ保護規則(GDPR)の対応準備に振り回されている法務の担当でさえ、この規則の思想的バックグラウンドである人権概念には疎い者が多いのが実情だ。企業単位で見ると、ただでさえ、炎上が怖くて萎縮気味なのに、GDPRを参考にしてこれ以上規制を上増しするようなことは勘弁して欲しい、といった感じの非常に率直な意見が普通に出てくる。その気持ちは充分理解できるし、実際、意味もなく制約的な法律が少なくないのも確かだが、原理原則が曖昧で、矛盾だらけで、真剣に議論すべき問題にスポットライトがあたっていない日本の現状は危なっかしくて仕方がない。

 

 

◾️過剰な情報プロファイリングの恐ろしさ

 

昨今、躍進する中国企業のサービスの中でも、ビッグデータから個人の信用力をスコアリングするサービスが非常に注目されている。代表的なのは、ネットEC企業のアリババの決済サービスであるアリペイで収集されるユーザー情報に基づいて構築されている「芝麻信用」だ。アリババグループは、これをベースに融資サービスも展開しており、賃貸、企業の採用、ビザの取得等あらゆる生活の局面に影響力が及んで来ているという。日本でも、みずほ銀行ソフトバンクが共同で設立した、J.Score(ジェイスコア)が提供する個人向け融資サービスなどその先駆けで、 今後、様々な業界と提携してビッグデータの種類を増やして、金融以外のサービス拡大を計画しているという。他の企業からも注目されている。

 

だが、この個人の情報のプロファイリングが過剰になると、自分が納得のいかない評価を下され、一旦出来上がった評価は他社でも使いまわされ、人事採用、融資、保険、教育等の人生の重要な場面で重大な影響が及び、そこから抜け出せなくなる恐れがある慶應義塾大学大法務研究科の山本龍彦教授は著書「おそろしいビッグデータ 超類型化AI社会のリスク*2の中でこの現象に「バーチャル・スラム」という用語をあててその恐ろしさに警鐘を鳴らしているが、実際、このサービスの先進国、中国でもその弊害や恐ろしさについて言及されるようになってきている。(だが、中国人があまり声高にこれを述べると、自分のスコアの点数が下がってしまうことを恐れて、抑止してしまうのかもしれない。)

 

これは、日本であまり議論にならないこと自体が不思議なほど、非常に恐ろしい社会の現出に道を開く可能性がある問題だ。欧米では、ジョージ・オーウェルの小説「1984」がそのディストピア的な類比的イメージとして持ち出されることが多いが、日本で言えば、自分のスコアが上がるように(下がらないように)、昨今の流行語である「忖度」を生活のあらゆる部分で働かせねばならず、それでも、何らかの誤解でスコアが下がったりすれば、そんな自分と交流する人も、自分のスコアが下がる恐れがあるから、皆自分の周囲から潮が引くように去って行く、そんな感じだろうか。あるいは、今の100倍も空気を読むことを強いられる社会、とでも言うべきだろうか。いずれにしても、そう聞けば、誰でもそんな社会には住みたくないと思うのではないか。一方で、この種のサービスを推進することのメリットはもちろん大きく、それを無視して全面禁止しろというような乱暴な議論は不毛だが、少なくとも危険性を熟知した上で、対処できる仕組みを社会に装備しておくことは不可欠だ。

 

◾️究極のジレンマ

 

その点、欧州は、少なくとも思想のレベルでは先進的であることを認めざるをえない。山本氏が同書で指摘していることでもあるのだが、GDPRではこの問題にも先回りして、プロファイリングに対して異議を唱える権利を認めており、この権利が行使されると、事業者は原則としてプロファイリングを中止しなければいけない。また、プロファイリングを含むコンピューターの自動処理のみに基づいて、自身に法的効果を及ぼす、またはそれと同じ程度自身に重要な影響を与える決定を下されない権利も認められている。もちろん、GDPRの運用が実際に始まってみないとわからない部分も多いが、いわゆる「人権」に関して、中国と欧州に明確な違いがあることはわかるだろう。

 

だから、情報から最大価値を引き出すことを第一優先として、国家ぐるみで情報強者を目指す路線に追随する国が今後増えてくるとすれば、欧米の人権思想の観点からいえば、世界が「前近代」に逆戻りしかねないことを意味しており、大変由々しい事態と言える。だが、人権を守ることが出来ても、経済的には従属的な立場に追いやられる恐れがある。しかも情報強者となることが、経済だけではなく、科学技術、軍事、金融等、非常に多くの領域での優位性の源泉となる可能性もあるとなれば、深刻なジレンマに苛まされることになる。もちろん、日本もこのジレンマから逃れることは容易ではない。

 


◾️変貌する中国社会と人間像

 

ただ、この問題を考えるにあたって、非常に重要な視点がもう一つあると私は考えている。中国の社会とそこに生きる人間の問題だ。『中国では欧米流の人権概念がなく、政府が強権的だからやりたい放題だ』というのが、普通の日本人のあからさまな感想ではあるのだが、本当にそれで済むのだろうか。中国は、鄧小平の改革解放後、経済的には完全な競争社会で、米国流グローバリズムとの相性も(少なくとも日本よりずっと)良いと言われて来た。昨今、競争は一層エスカレートしている。グローバリズムというのは、各国・各地域の土着の社会システムを破壊する側面があり、大量の負け組を輩出する仕組みでもあるため、そのような負け組を何らかの形で包摂する装置(コミュニティ等)がなければ、社会が崩壊してしまうとされる。欧米ではキリスト教コミュニティが該当するとされてきた。(昨今の米国のようにそれでも手に余るようになると、トランプ大統領のような既存のシステムの破壊者を大統領に選んでしまうようなバランスの取り方も大きな意味ではシステム内の調整機能とも言える。)では、競争が激化する中国ではどうなのか。

 

著書『中国化する日本』*3で注目された歴史学者の與那覇 潤氏によれば、中国は宋の時代に一君万民(皇帝のみに権利があり君主を除く人々はみな平等であること)の完全な競争社会を作り上げ、その苛烈な競争社会では、振り落とされる者が大量に出てくるから、それを補填する、「宗族」という父兄血縁のネットワーク(同族間の相互扶助の仕組み)も宋代に完成したと述べる。この「宗族」は共産中国では否定され、一旦は破壊されたが、鄧小平の改革開放政策が始まって以降、台湾が近い、中国南部を皮切りに復活し始めたと聞く。国家が意図的に規制するようなことがなければ、今後とも(形を変えながらであれ)復活していくのではないか。とすると、中国社会は、グローバリズムの旗頭の下、全員が参加する無期限の競争社会という額面とはかなり違った様相となってくるとは考えられないだろうか。かつての中国では、宗族の中の秀才がとことん競争できるよう、一族をあげて応援し、彼がめでたく科挙に合格すれば、一族にその権限を使ってお返しする、という仕組みが機能していた。歴史に沈潜した社会の遺伝子は意外と根強いのではないか。

 

また、中国人像も特に若年層を中心に、急速に変化して来ているようだ。一昔前の、「人前で平気で唾を吐き、列に並ぶこともない」という中国人イメージは、昨今の礼儀正しく、スマートな若年層には当てはまらない。また、「中国人は日本人よりお金に執着し、アグレッシブだ」というイメージも、徐々にではあるが、崩れ始めているのではないか。昨年来、中国で「仏系青年」という用語が大流行しているという。これは、1990年代生まれの、競争と距離を置き、「低欲望」で、自分の世界に閉じこもる若者のことを言うとされる。なんだか日本の草食系男子と似ているなと思ったら、なんと由来は、2014年に、日本の女性ファッション誌が使った「仏男子」という用語にあるという。「仏男子」は「草食男子を通り越し、草も食べない一人が好きな男子」のことらしいから、日本と中国の「仏」の意味するところの相違はありそうだが、系統は近いとは言えそうだ。人民日報は2017年12月13日の記事で、仏系青年を「こだわりもやる気もない。何か聞くと『何でもいい』と答える若者たち」と説明し、現代の速すぎる生活リズムや激しい競争、プレッシャーで疲弊した1990年代生まれの、社会に対する一つの対処法と分析している*4私の周辺でも、競争が苛烈過ぎる中国より、清潔で穏やかな日本社会のほうが良いと述べる日本在住の中国人は少なくない。

 

また、日本との類比どころか、中国人なのに、「心理的に自らを日本人とみなす若い中国人」が出現していて、これを「精日(精神日本人)」というのだそうだ。*5水面下で増えているという情報もある。親日が増えるのは結構なことだが、『中国など滅んでしまえ』だの『中国人などいなくなってしまえ』とまで考えているというから穏やかではない。中には、南京大虐殺が起きたとされる場所で、中国人男性二人が日本の武士の格好をして問題になったケースもあったというから、こうなると完全に贔屓の引き倒しというべきだろう。ただ、断片的にであれ、中国社会からこのような若年層が出現しつつあるというのは、要注目だ。中国人といっても、新しい(若い)中国人は、ますます激化する競争社会化を是として、唯々諾々と従っているわけではなさそうだ。

 


◾️中国の全体像を知ることの重要性

 

日本としても、中国の産業政策の側面ばかりではなく、中国の社会や、若年層のマインド等の心理や意識に関わる部分にも注目して、動向を把握しておく必要があるはずだ。全体としての中国はどこへ向かうのか、それは産業政策だけ見ていてはわからないし、中国を参考にするにしても片手落ちということになりかねない。しかも、どうやら一定数の中国の若年層は、日本に対する良いイメージ(実態とは違うかもしれないが)を自分の在りたい姿に投影しているようだ。そうだとそれば、人権よりも産業政策というような中国よりの政策を日本企業が無節操に選択してしまうようでは(決して産業政策を全面否定しているわけではないが)、せっかくの良き萌芽が摘まれてしまうことになりかねない。逆に、日本人のほうこそ、本当の意味での成熟を目指して、世界にメッセージを発信出来るくらいになれば、それこそ良い意味での、精神的な国際連帯が出来て行くことが期待できる

 

昨年来、誰よりも、中国の台頭に脅威を感じ、今後の世界は、人権vs経済成長という困った構図になるのではないかと述べたのは私自身ではあるのだが、上記で述べたような別軸の視点とそれに基づく新たなシナリオはありうると考える。私自身が中国の専門家というわけではないので、もっと識者や中国の人たちに意見を聞く必要があるが、このような議論が少しでも深まることを期待したい。

プラットフォーム戦略の正しい理解が企業を成功に導く

 

 

◾️あらためてプラットフォーム戦略を問う

 

2000年代の終わり頃から、特にIT業界を中心として、市場の構造、およびそこでの勝利条件が急速に変化していることを実感するようになった。これは、遠からずIT業界の枠を超えて、広く市場全体に構造的変革を迫るほどの、時代のターニングポイントと言っても過言ではない、重要な変化であった。しかしながら、当時は、事の重要性が正しく理解されたとは言えず、扱いも地味だった印象がある。それどころか、特に日本では、未だに本当に理解している人は、それほど多くないと言わざるをえない(何より、理解している人としていない人の分断が甚だしい)。今回は、そこのところを主題にして、今後の展望についても述べてみたい。(特に、最近翻訳されて出版された「プラットフォーム革命ー 経済を支配するビジネスモデルはどう機能し、作られるのか」*1 がちょうどこのトピックを扱っていてわかりやすい事例もあるので参照させていただく。)


◾️インターネットバブル崩壊からプラットフォーマー台頭まで


私の指摘する市場構造の変化は、インターネットが寄与するところが非常に大きいのは言うまでもないのだが、その点では、95年のマイクロソフトのウインドウズ95導入を契機として盛り上がった、インターネットによって市場もビジネスの法則も劇的に変化するという議論のほうが、もっと賑やかで多くの人を魅了していたように思う。確かにここには非常に大きな可能性があることは誰にでもわかったから、当時も「インターネット革命」として喧伝され、特に米国では非常に多くの有為の人材が集結し、莫大な資金がつぎ込まれた。だが、この賑わいは長くは続かず、2001年頃にはあっけなくバブルとしてはじけてしまう。いわゆる「ドットコム・バブル(インターネット・バブル)」である。


それからしばらくは、今にして思うと、現在~今後の市場の動向を予測するにあたっても大変参考になる、興味深い期間となった。バブル崩壊前のインターネットやデジタル化に関わる言説は、やや話題性先行気味で、まだそれを支えるインフラは 貧弱だった。それでも、その可能性に熱狂したイノベーターやアーリーアダプターたちは、マネジメント、ビジネス、製品やサービス、企業の形態、人材等ありとあらゆる分野ですぐに大きな地殻変動と新旧交代が起きることを高らかにうたっていた。(その辺りが特に、昨今の人工知能等の熱狂ぶりにとても似ている。過去の歴史に鑑みると、おそらく一度は失望/あるいはバブルが弾けるような出来事が起こり、その後に本当の勝者が決まっていくことになるのだろう。)

 

一方、旧世代と名指しされた人たちは不安感を煽られながらも苦虫を噛み潰していた。だから、彼らはネットバブル崩壊に半ば胸をなでおろし、半ば快哉を叫んでいた。私が見た限りでも、当時の多くの日本の大企業などこの典型で、海外でその製品が高く評価されていたメーカーなども、「基本に戻って低コストで高品質なものづくりにまい進することが一番大事」とあらためて自らに言い聞かせているようなところがあった。また、経営戦略として当時もっとも影響力があり、広く企業に受け入れられていたマイケル・ポーターの競争戦略論なども、インターネットの浸透で無用の長物になる、という類の言説も盛んだったから、この機にポーター自身も、ポーターの信奉者も「競争戦略は死んでいない」「戦略の本質は変わらない」との論陣をはって、反抗に出ていた。*2


その日本のメーカー(パナソニック、シャープ、ソニー等)だが、2010年代になると、過去最大規模の赤字を記録することになり、それまで自らの屋台骨を支えてきた製品からも次々に撤退を余儀なくされてしまう。そして、その最大の原因をつくったのが、ネットバブル崩壊後に表に出て来たIT企業であり、そのビジネスモデルだったことはさすがにもう誰にも否定しがたいところだろう。そしてその先頭に立っていたのは、今ではGAFAGoogleAmazonFacebookApple)と畏敬を込めて略称される巨大IT企業ということになる。

 

◾️プラットフォーム戦略成立に至る軌跡


GAFAとその追随者の核にあるビジネスモデルは(私自身この頃から何度も述べて来たことだが)いわゆる「プラットフォーム戦略」であり、このGAFAなど典型的な「プラットフォーマー」ということになる。もちろん、ここで敗退したのは日本企業だけではなく、一度は優れた製品で市場を席巻したノキア(携帯電話)やブラックベリースマートフォン)等も含まれる。だが、もはやどんなに製品単体としての品質が良くてもそれだけでは如何ともしがたいことは明白だった。ネットインフラやSNS等によって、世界中の部品やソフトウェアの提供者からユーザーまで緊密につながり、コスト低減、品質向上、ユーザー情報の収集、マーケティング・宣伝・販売促進等、すべて外部経済によるレバレッジが効くプラットフォーム戦略の巧者に軍配が上がることになった。しかも、ここでは、マイケル・ポーター流の競争戦略が有効とは言えない場となっていた。ただ、インターネット・バブルで潰えた企業も、インターネットによる販売システム等、インターネットの利用を促進しようとしていた。では、どこが勝ち組となったGAFAと違っていたのか。


インタネットバブル崩壊後に起きていたことを振り返りつつ、象徴的と考えられる出来事を以下の通り、時系列に列挙してみる。


Googleアドワーズ(検索連動広告:広告主向け)サービス開始(2000年10月)

ウィキペディア公開(2001年1月)

トラックバック機能のあるブログフォーマットMovable Type 2.2提供開始(シックスアパート、2002年3月)

Googleアドセンス(検索連動広告:サイト運営者向け)サービス開始(2003年6月)

iPod登場(アップル、2001年11月)

Amazon Web Services(AWSクラウドサービス)公開(2002年7月)

iTunes Music Store開始(2003年4月)

フェイスブックサービス開始(2004年2月、日本導入は2008年5月)

YouTubeサービス開始(2005年2月)

Twitterサービス開始(2006年7月)

iPhone販売開始(2007年1月~)

Amazon Kindle発売、電子書籍ストア『Kindle Store』を開設(米国2007年11月)

Googleアンドロイド(携帯電話向けソフトウェアプラットフォーム)発表(2008年11月)


この間の出来事を総称するバズワードとして、今ではすっかり忘れ去られてしまった感があるが、「Web2.0」がある。これは「オライリー・メディア」の創設者で、フリーソフトウェアオープンソース運動の支援者としても知られるティム・オライリーによって提唱された概念で、「旧来は情報の送り手と受け手が固定され送り手から受け手への一方的な流れであった状態が、送り手と受け手が流動化し、誰もがウェブサイトを通して、自由に情報を発信できるように変化したウェブのこと」とされた。この用語自体は、その本質をあまり理解されることなく、2000年の終わり頃には廃語になったとされるが、この現象の背後にある本質を理解して、ビジネスモデルを本格的に再構築して、その強みを最大限生かしたプラットフォームマーとそれができなかった企業との差は劇的に広がることになった。上記のようにあらためて振り返ってみると、GAFAが着々と戦略を展開していたことが浮かび上がってくる。

 

プラットフォーマーのビジネスモデルは、現代の市場において最強であること、そして、これからさらに技術やビジネスモデルが進歩し洗練されるに従って、あらゆる産業に広がり、市場全体を覆い尽くすだろうことは、私も何度か書いてきたし、今ではわかりやすい解説本も出て来ており、ここまで書いたことが理解できないと感じた人は、それらを参照してみて欲しい。その点、先にあげた「プラットフォーム革命ー 経済を支配するビジネスモデルはどう機能し、作られるのか  」は特にプラットフォーム戦略に馴染みのない人にはちょうど良い入門書になるかもしれない。また、もう少し上級者向けとも言えるが、プラットフォーム革命ー 経済を支配するビジネスモデルはどう機能し、作られるのか、著名なIT批評家の尾原和啓氏の「ザ・プラットフォーム:IT企業はなぜ世界を変えるのか?」*3 はプラットフォームの浸透によって変化する消費者の変化にまで言及しており、特に日本市場の特性との関係について言及されているので、続けて読むとさらに理解が深まると思う。



◾️外部経済と双方向性

 

「ドッドコム企業」でも、新しい市場での勝利条件を理解している企業とそうではない企業には大きな差がある。(2010年代も終盤となった今でも、理解していない企業が非常に多いのはどうしたことか)。「プラットフォーム革命ー 経済を支配するビジネスモデルはどう機能し、作られるのか 」には、その勝利条件について、わかりやすい事例が出てくる。


米国の「ペット・ドットコム」は、ドットコムバブル崩壊前、ブームの頂点にいた企業とされている。業態はペット関連商品のネットショップだ。現在の視点で見ても、ずいぶん早い段階から適切な市場に目をつけているように見えるかもしれない。当時は、他社に先駆けて各市場で最初に大きくなった企業にはネットワーク効果が働き成功するという言説が幅を利かせ、それゆえに皆、目前の利益より先を争ってユーザー数と認知度の拡大に奔走していた。先行するスケールメリットが七癖を隠す、というわけだ。「ペット・ドットコム」も120万ドルの製作費をかけてスーパーボウルのCMを流しており、それは非常に好評だったという。早期に認知度を上げるという目的は達成したと言ってよさそうだ。

 

だが、この企業は、結果的に、この時期のドットコム企業の失敗の典型例となってしまった。創業2年弱で3億ドルの調達資金も使い切って破産した。どこが悪かったのだろう。「ペット・ドットコム」は、旧来のビジネスモデル、すなわち、商品を自前でつくり、倉庫を持ち、在庫を抱え、自社が構築する(または契約する)流通ルートで売る、というサプライチェーンはそのままに、ユーザーの購入のインターフェースをインターネット化しただけだった。しかも、ネットショップもまだWeb1.0の時代だから、今日のように、SNS経由で誰かがネットの口コミで宣伝してくれることを期待できるわけではない。さらに悪いことに、まだこの時代にはペット関連用品をネットで購入するという習慣はなかったし、そのインセンティブも自らの利益を削って価格を下げるという程度のことしかできていなかったようだ。仮にこの企業が何とか食いつないで2010年代まで生き残ったとしても、GAFAのタイプのプラットフォーマーが現れれば、簡単に蹴散らされてしまっただろう。


「プラットフォーム革命ー 経済を支配するビジネスモデルはどう機能し、作られるのか」はこれを直線的ビジネスモデルと呼ぶが、物財としての商品ではなくて、ソフトウェアでも、現代のソフトウェア/ソフトウェアサービス企業のほとんども、価値は企業から顧客へと一方向に流れていく直線的モデルであることを指摘している。このビジネスモデルは、情報も直線的に流れ、トップが売り上げや経営環境の予想をして、それが最終的な生産に反映される。そして、このモデルを高度にシステム化して、大幅な効率化を実現した企業は、20世紀を支配していた(GMトヨタ等)。


筆者は、これに対して、eBayを例にあげて、現在のビジネスモデルの中核にあって、もっとも成功しているのは、社内に大量の資源をため込みそれを動かす企業ではなく、デジタルインフラを提供して、その周囲にコミュニティを作り、ユーザーと商品提供者の双方を巻込み、巨大な市場(というよりエコシステム)をつくる企業であることを説明している。そこでの活動は、商品や部品提供者(サードパーティ)は世界中に広がった巨大な市場に参入することを意味し、消費者は大量の情報を取捨選択しつつ、世界中から提供されたもっとも品質が良くて、安いものを選ぶことができる。その仕組づくりに成功すれば、プラットフォーマーからすれば「外部経済」が自動的に広がって参加者を無限に増やし、仲介者であるプラットフォーマーに多大な収益をもたらす。そしてそのビジネスモデルの中核エンジンとなる「拡張の秘密」は、Web2.0以降の技術やビジネスモデルがもたらした双方向性にある。


これは今も続くプラットフォーマーの競争の勝利条件として変わることなく現存している。従って、この方向を補強する技術は有効だが、いかに優れた技術でも、この方向に見合わなければ、経済的な成功の栄誉を受けることは難しい。逆に、ここに集う人々のことを理解するために、社会学や心理学、ネットワーク理論あるいは行動経済学等の知見は、非常に有効な武器になりうるフェイスブックなど、このような知見を最大限有効利用して、金の卵であるユーザーグラフを育て上げた。*4


プラットフォーマーの強みの一つに、ユーザーの大量の情報が流れこんでくることがある。その情報を分析することで、プラットフォームは益々進化し、進化するからユーザーが増加する(それに応じてサードパーティも増加する)、という正のスパイラルが働く。この「激増する情報」を分析する能力は、まさに「ムーアの法則」通りのエクスポネンシャル(指数関数的)な拡張を続けており、情報分析に長けた企業にとっては、情報の価値は指数関数的に増していくことになる。しかも、昨今世間の耳目を集めている、第三世代の人工知能との相性が非常にいい。この人工知能は、大量の情報によって学習(機械学習)することによって、賢くなっていく特性があり、まさにプラットフォーマーとの最良の補完関係にある。このことは、プラットフォーマーとして勝ち残っていくためには、プラットフォームという場に集う参加者(ユーザーやサードパーティー)に価値を提供し続け、参加者を増やし、参加者のさらなる活動を促し、プラットフォームにより多くの情報を残して行く仕組みを洗練させていくことが従来以上に絶対的な条件であることを示唆している。

 

◾️ブロックチェーンGAFAを駆逐するのか?

 

このように考えてくると、昨今、あらゆるビジネスシーンに非常に大きな変革を迫る可能性があるとされるブロックチェーン技術についても、今後の展開について、ある程度の予測が成り立つことになる。ブロックチェーンは中央管理者不在でも、巨大な「信用」システムを回すことができるため、現在のGAFAのような巨大な中央管理者を必要とするプラットフォーマーのビジネスモデルを駆逐してしまう可能性がありうる、という意見がある。運営コストを下げることができるとも考えられるので、その分を参加者に還元して、参加者を増やすこともできそうに見える。

 

だが、上記に見る通り、参加者へのインセンティブは価格だけではなく、むしろ、そこで実現できる価値の多様化と継続的でスムーズな価値提供が競争上の決めてとなる。よって、単純に既存の中央管理者をなくしてコストを下げる、という程度の価値提供では、GAFAとの競争を勝ち抜くことはできない。そういう意味では、ブロックチェーン技術は、むしろ企画力のあるプラットフォーマーの強力な部品として、補完的な役割として機能し(それこそコスト低減等に寄与し)市場における、プラットフォームへのさらなる浸透(プラットフォーム化が難しかったり、馴染まなかったビジネスやバリューチェーンのプラットフォーム化)を促進する役割を担うと考えられる*5 先ごろも、Googleが自社のクラウド事業を支え、対等しつつあるスタートアップ企業との競争をかわすためにブロックチェーン関連の技術に取り組んでいるとの報道があった。*6

 

だが、プラットフォーム戦略においては、エコシステム全体を外部の攻撃から守り、その価値を継続的に増進していく中心的な存在(プラットフォームマー)が必要であること、そして既存のGAFAのような強力な企業ではないとしても(それこそスタートアップ企業でも)人工知能やスーパーコンピュータを最大限活用してそのような価値提供が可能な者でなければ、今後プラットフォーマー同士の競争に勝ち抜くことは難しいと考えられ、そういう意味では、GAFAが今のところ優位な位置にいることは否定できない。

 


◾️ポーター流の競争戦略の終焉

 

プラットフォーマーが市場を覆い尽くすことを前提とすると、マイケルポーター流の競争戦略は今度こそ、そのままでは通用しなくなるだろう。


ポーターの競争戦略では、市場には5つのフォース=競争要因(新規参入者の脅威、売り手の交渉力、買い手の交渉力、代替品や代替サービスの脅威、既存企業同士の競争)があり、個別企業は、業界ごとに形成された競争要因を理解して、自社の最適な位置(ポジション)を見つけてその役割を最適に振舞うものが勝つと説く。そこから3つの戦略(コストリーダーシップ戦略、差別化戦略、集中戦略)があるとする。

 

だが、プラットフォームが市場を覆う現代、そして今後は、この理論は機能しないどころか、これを前提として構築された20世紀型の完成形とも言える組織構造を持つ企業はその構築が精緻になされていればいるほど、決定的な問題点(弱点)を抱える恐れがある。

 

現段階で、プラットフォーマーの荒波を被っていない市場にいる企業も(特に日本の場合は)少なくないから、当面はこの戦略が機能するはずと考える向きも少なくない。だが、この業界構造が変化せずに続くことを前提とするのは、今後どんどん難しくなる(そもそも現状に甘んじていること自体がリスクになる)。GAFAの成功法則をトレースして、昨今短期的に急成長している企業が「創造的破壊企業」呼ばれるようになって来ているが、この典型例であるタクシー配車のUberや民泊のAirbnbのように、既存の業界の外側から突如現れて、従来とはまったく異なったビジネスモデルで業界構造をひっくり返してしまう。昨今話題になる大手銀行の人員縮小計画も、フィンテックを担ぐ競合の参入の可能性が引金の一つになっている。

 

また、いち早くプラットフォームが浸透している業界に特に言えることだが、今や「顧客」「供給業者」を明確に分けることは難しく、それぞれが提携、共同開発、ライセンス契約等によって目まぐるしく関係を変化させ、顧客がライセンスを供与する供給者であるようなことも珍しくない。しかも、昨今では、顧客との価値共創、ネットワーク化といった「共に価値を創り上げる」ことが、最も大きな価値を生む、重要な戦略となりつつある。顧客の側も、単なる「消費者」として財やサービスを消費するばかりではなく、シェアや贈与等の交換の割合も大きくなり、この市場で生き残るには、こうした消費行動の変化を理解し先取りする能力も不可欠になりつつある。いずれも20世紀型の競争戦略とは異質というしかない。

 

昨今、自動運転、EV化、コネクテッド等、自動車関連技術が軒並みIT関連技術の圧倒的な攻勢を受けつつあり、近い将来既存の自動車会社はIT関連企業の下風に追いやられるのではないかという危惧が現実味を帯びてきているが、それは単に技術だけの問題ではなく、既存の自動車会社とGAFAとの間の、企業としての戦略やそのために作られた組織や風土の違いの方がむしろ影響が大きいとも言え、それゆえに、今のままでは既存の自動車会社が覇権を握り続けることは難しいと考えざるをえない。

 

 

◾️アキレス腱と逆転のチャンス

 

このように述べてくると、GAFAやそれに追随する創造的破壊企業は、他の企業の追随を許さない、圧倒的な存在のように見えてくる。だが、必ずしもそうとは言えない。プラットフォーム戦略の中核にあるエコシステムの維持拡大は、それが大きくなればなるほど非常に難しいことが昨今顕になりつつある。ごく最近も、フェイスブックが、英国のデータマイニングと選挙コンサルティング会社ケンブリッジ・アナリティカに情報の流出と目的外使用(政治利用)を許したことが大きな問題になっており、その余波を受けて相対的にプライバシー保護が弱いとみなされたTwitterの株価が大幅に下落するというようなことも起きている。昨年はYouTubeに反ユダヤ動画が流れて大騒動になったこともあった。

 

新興企業でも、DeNA参加で劣悪な情報を流したメディア「WELK」の事件なども記憶に新しい。コミュニティを活性化して検索されやすいようにという目的ばかりが先走っても、プライバシーの管理がおろそかだったり、フェイクニュースや誹謗中傷が溢れるようになると、コミュニティは維持できず、下手をするとシステム全体があっという間に衰退してしまいかねない。(現実に、WELQは閉鎖を余儀なくされた。)

 

そういう意味では、プラットフォーム戦略は今、大きな岐路にあるとも言えるが、逆に言えば、この危機を乗り切ることができた企業が2020年代以降の真の勝者となることは疑いない。この点、現在劣勢に立たされている日本企業の復活のきっかけにできるチャンスもあり得るように私には見える。早く古い戦略に見切りをつけて、一方、昨今の人工知能技術等の表面的な騒ぎに右往左往せず、生起しつつある市場構造の中長期的な展望の把握につとめ、新たな戦略を練り直して起死回生を図って欲しいものだ。




*1:

プラットフォーム革命――経済を支配するビジネスモデルはどう機能し、どう作られるのか

プラットフォーム革命――経済を支配するビジネスモデルはどう機能し、どう作られるのか

 

 

*2:

www.dhbr.net

*3:

ザ・プラットフォーム:IT企業はなぜ世界を変えるのか?

ザ・プラットフォーム:IT企業はなぜ世界を変えるのか?

 

 

*4:GoogleFacebookの2社による2017年の広告売上は、世界のオンライン広告市場の61%、世界の全広告市場の25%を占めている。
 世界のオンライン広告市場における、2巨人(Google+Facebook)のシェアは、2012年の47%、2016年の58%、2017年の61%とはじき出している。今年(2017年)は、Googleが44%、Facebookが18%も占めている。
http://blogos.com/article/264161/

*5:例えば、著作権のように従来はシステマティックに管理することが難しかったものを管理可能とする技術としてブロックチェーンは注目されており、まさにアナログからデジタル/インターネットシステムによるプラットフォーム化を促進する技術として機能することが期待できる。

*6:http:// https://japan.zdnet.com/article/35116554/

日本人の政治リテラシーを格段に上げないと危ない!



◾️構造的な政治無知/音痴の大量生産

今の日本人の多くは(誰よりも私がそうなのだが)政治に関心が薄く、知識も乏しいから、国家運営や民主主義が健全に機能するために期待されるレベルに達しているとは到底思えない。もちろん日本にも政治に高い関心を持って真摯に取組む人たちが少なからずいることを否定するものではないが、問題は政治への無関心や無知が個人の性向とか趣味嗜好ではなく「構造」として再生産されてきたと考えられることだ。


例えば私のような昭和生まれの中でも、学生運動が実質的に消滅してしまった後に大学時代を過ごした年代は、政治に関わることのメリットより無力感、さらにはデメリットの方を感じて育ってきたと言える。(それどころか、「連合赤軍の総括」*1を例に挙げて露骨に嫌悪感を口にする者さえ少なくなかった)。多少は興味が持てる政治的なトピックがあっても、それを人前で語ったりすると、それ自体、周囲から浮き上がってしまうような空気を感じたものだ。現実に両親や学校の先生等からも、友人とは「政治」と「宗教」については決して語り合ってはならず、まして議論を戦わせるなどとんでもないと、真顔で諭された記憶さえある。就職活動にあたっても、具体的な政治活動は勿論、単に政治志向が強いことでさえ就職には有利にならないことは、表立って語られることはなくとも、暗黙の不文律となっていたと思う。このような空気の支配が私たちの年代の後、どれくらい続いたのかは定かではないが、内実は多少は変化したとしても、政治無知、政治音痴の量産自体は、その後も連綿と続いたと考えられる。

 

私のケースでは、早くから海外ビジネスの現場に出ることになり、各国の市場を知るためには現地の法律や政治状況の理解は不可欠で、ロビーイングについても常に意識しておく必要に迫られたため、学生の時には避けてきた、政治や法律関連の勉強に取り組むことになった。おかげで、日本の政治についても、少なくとも学生時代に比べれば、多少なりとも理解度は上がったのだと思う。

 

だが、それも今にして思えば、ほんの上澄みをすくった程度で、テクニカルな情報はそれなりに持っていても、深層の問題把握や、思想レベルの理解にはまったく至っていなかったことを後年思い知ることになる。それが少しはましになったのは、このブログを書き始めて、政治に関わる本を精読したり、IT系のビジネスの現場にいて、しかもその法律に関わる業務を担当する立場で、政治を理解することの重要性を肌で感じるようになってからだ。

 

そうして、政治に関する知識がたまってきて、理解が一定の閾値を超えたとたん、自分が裸であることに気づいた裸の王様状態とでも言うのだろうか、自分のそれまでのあまりの欠落が恥ずかしくもあり、そのような状態で社会生活を送ってきたことも、ビジネスに取り組んできたことについても、とんでもなく危ない状況、あるいは明らかに損をする状況に何度も出くわして来ていることに気づいた。同時に、それまでビジネス全般にある程度の知見があると自惚れていた自分のあまりの未熟さを突如自覚して、その場にへたり込んでしまいそうになった。


さらには、自分自身に対する恥ずかしい気持ちもさることながら、自分の友人等、自分たちの世代全体について大変な恥ずかしさを感じることになった。私達の世代は、社会のどの分野でも今では部下や後輩を指導する立場にいる者が多いが、その実、本当は大抵が裸の王様なのだと思うと、何とも申し訳ないというか、気恥ずかしい。そして、それなりに権力を持ち、権限もある一方で、政治理解は子供と変わらないでというのでは、昨今のように政治が非常に難しい環境に置かれていると、とんでもない方向に社会の舵を切ることに加担してしまう恐れがある。実際そういう兆候を様々な局面で目にするようになってきた。

 

 

◾️扇動に突き動かされやすい大きな母体

 

私の友人達も企業に就職した者の多くはそれなりの立場にいるわけだが、最近、安倍政権支持者が増えている印象があるので、話を聞いてみると、経済を安定させているから、というのがほぼ共通する理由と言えるようだ。企業の経営に近いところにいれば、経済の安定という要素は非常に重要だし、その運営に長けた政権を望むのは当然とも言える。

 

だが、一方で現政権が悲願とする憲法改正について、2012年に公開された、自民党憲法改正草案*2 *3について問いを向けてみると、ほぼ誰もその中味のことは知らない。特に秘匿されているわけでもなく、解説記事も数多く出ているのだから、その気になれば自分で読んで考えることにさほどの労力はいらないはずだ。この草案は、現行憲法に織り込まれた重要な概念である、「国民主権」「基本的人権」「政教分離」等が軒並み否定されたり弱められたりしていることに始まり、果ては本来国家を縛るはずの憲法が国民を縛る内容になっていたり、「家族は互いに助け合わなければならない」というようなおよそ憲法に規定するにふさわしくない道徳律のようなものが織り込まれていたり(そもそもどうやってこれを法制化するんだろう?)本当に目を疑うような代物に私には見える。

 

もちろん、どのような主張を支持するのも自由なのだから、自民党憲法改正がもたらす社会を是とする人を私が頭ごなしに否定することは出来ない。だが、およそ政権の支持というのは、経済政策のような具体的な政策ももちろんだが、他の政策や、何より、このような政権の信条、思想、目標等についても可能な限り情報を取得した上で総合判断するべきものだろう。だが、「経済政策がまともなら後は好きにやらせたら?中国や北朝鮮も危ないから憲法国防軍に格上げして自衛隊にもっと頑張ってもらったら?」という程度の意見しか出てこないのはどうしたことか。何だか、大学の新入生と話しているようで、話しているこちらが恥ずかしくなってくる。政治無関心の空気は何とも物騒な階層というか母体を作り上げてしまったものだなと思う。こんなことでは、意図を持って世論誘導をやろうとする悪賢い政治家の扇動に、いざとなると呆気なく転ばされてしまうと考えざるをえない。ヒットラーナチス党が合法的に独裁政権となったのと同じことが今ここで起きそうに思えて、冷や汗が出てくる。

 

 

◾️「被害者」ではなく「共犯者」の自覚を持つべき

 

こんな有様だから、社会学者の西田亮介氏の新刊、「なぜ政治はわかりにくいのか」*4のような本を読み始めると、まさに針のむしろを転げているような気持ちにさせられる。確かに世界規模で見ても、昨今の政治は非常にわかりにくくなっていることは確かだが、本気で取り組めばいつの時代も政治というのは本来非常に難しく、それほど簡単に竹を割ったように理解できるものではない。ただ、今そのような警鐘とも言えるタイトルが非常に生々しく見えるとすれば、今の世界は政治を知らないで安寧に過ごせるほど、牧歌的な場所ではなくなっているからだろう。

 

西田氏は本書で、「政治を理解せず、そこに背を向けているのが、この社会の一つの特徴だとすれば、メディア・教育、そしてそれらを包括する社会という、非政治的な側面の影響が反映された結果でもあるわけです。」と述べているが、私達も、政治無関心にさせられた「被害者」ではなく、その社会を継続させてしまった「共犯者」として、「共犯者」に向けられた警句と受け取って、襟を正していく必要を強く感じる。日本人が正しく政治を知り理解することこそ、日本の安全保障の根幹ともいえる。

 

 

◾️政治のゲーム化の恐ろしさ

 

西田氏が指摘する問題群の中でも、昨今特に私自身危機感があるのは、インターネットと政治の問題だ。今にして思えば、インターネットを活用して、政治をポジティブに変えることを高らかに宣言していたオバマ元大統領の時代のインターネット(特にSNS)に対する期待感は大変なものだった。日本でも米国を見習って公職選挙法を改正すべしという議論が最も盛り上がったのもこのころだろう。だが、前回の大統領選挙では、選挙活動の主役がインターネットであることは同じでも、その評価は180度反転することになった。

 

選挙戦で、トランプ陣営と契約した「ケンブリッジ・アナリティカ」のような、データマイニングとデータ分析を手法とする選挙コンサルティング会社が主導する、SNS分析や個別の有権者への働きかけなどを見ていると、政治のゲーム化も究極まで来ていて、民主主義のルールや精神とはまったく関係なく、ゲームの熟達者が政治というゲームを支配するようになってきていると言わざるをえない。だが、それ以上に問題なのは、金銭目的でマケドニアから大量の偽情報が発信されたり(そのことによって世論が歪められたり)、ロシアが政治的意図を持ってフェイクニュースを流していた疑いがあったり(最近でも、ロシアによる選挙妨害に関わるTwitterのボットが50000あまりもにも登ったという報道があった)。*5 こうなると選挙の正当性自体が危いことは誰の目みも明らかだ。西田氏は、この点、米国の法学者、ジョナサン・ジットレインを引用して次のように述べている。

 

法学者ジョナサン・ジットレインは「デジタル・ゲルマンダリング」という概念を通して、IT技術を用いた政治的利便性の向上と伝統的な民主主義は両立困難であると指摘しています。その中でジットレインは、政治的影響力が行使されたことさえ気付きにくいというリスクを主張します。

「なぜ政治はわかりにくいのか p131」

 

日本は日本語の壁に守られ(日本語を流暢に使いこなすことは他言語以上に難易度が高い)、また英語圏のような地理的広がりもないため、他国からの干渉にインセンティブが働き難いという利点(?)はあるものの、すでに日本の政治においても、テクノロジーによって世論を歪ませようという水面下の戦いは活発になってきているようだ。2014年の日本の衆議院議員総選挙Twitterの分析による政治的な意見やキーワードの共有・拡散の研究を行った、ドイツのエアランゲン=ニュルンベルク大学日本学部教授、シェーファー・ファビアン博士は、日本でもプログラムされた「ボット」による大量の投稿があり、それらが結果的に言論の多様性を弱めるような働きをしているのではないか、と述べている。*6

 

日本の公職選挙法も2013年4月の改正によって、ある程度選挙におけるインターネット利用を許容するようになったわけだが、まだ完全に解禁されたわけではなく、米国等と比較すれば様々な規制も残っている。

 

全面解禁については、米国の事情に詳しいビジネスマンやインターネット・リバタリアンとでも言えそうなIT系企業の経営者や幹部等を中心に、賛成する者は少なくないが、米国の状況等も勘案した上で、西田氏は慎重な姿勢を取る。私も、西田氏の姿勢に原則賛成だ。選挙のゲーム化の土俵となり避難の矛先が向けられた、FacebookTwitterもそれなりに対策を講じつつあるし、今後とも進展することは期待できるが、一方でそれらもビジネスである限り、コミュニケーションの自由度を制限することへの抵抗感はあるはずだ。また、ケンブリッジ・アナリティカのタイプの会社は世界中に大量にあって、しかもそのスキル/技術は日進月歩で進歩している。政治のゲーム化にインセンティブがある限り、イタチごっこになることは目に見えている。しかも、日本でも、先に述べたように、政治的に非常にナイーブで扇動に突き動かされ易い大きな母体があることを勘案すれば、全面解禁は時期尚早のように思えてならない。

 

 

◾️「正論」をサポートすべき

 

このように偉そうに書いては来たが、私自身、やはり政治については本気で勉強して来てなかったつけは十分回って来ていて、自分のレベルの低さと無知に愕然としてしまうことも少なくない。今回のような内容のブログ記事を書くのも、少しでも西田氏のような「正論」のサポートになれば、という懺悔の気持ちもあるわけだが、ちょっとした火種があれば、あっという間に燃え広がってしまいかねない、可燃性の高い、政治的にナイーブなマスを抱えた日本全体をどうすればいいのか、正直明快な答えを見つけるのは容易ではない。だが、それでも、私達も「被害者」ではなく「共犯者」であり、「当事者」としての自覚を持つべきと今は衷心よりそう思う。



私なりの西部 邁氏への追悼文

 

◾️YouTubeのコンテンツ

 

2月中旬に、突然腰のあたりが痛くなり、動けなくなった。それから約一週間、痛みもあって睡眠もままならず、特に最初の3日は24時間中半覚醒状態にあった。他に何もできないこともあり、手元にあったiPadYouTubeを起動して夢遊病者のように様々なコンテンツを漁って、流し続けていた。今にして思えば、非常に不思議なことではあるが、ほとんど無意識な状態でありながら、肝心なところはいつも以上に鮮明に記憶に残り、これまでずっと長い間疑問に思っていたことの答えにもなっていることに気づく。その中でも、一番印象に残った、評論家の西部邁氏について(それでなくても、何か書いておきたいと考えていたこともあり)少し書いておこうと思う。

 

西部邁氏は、ご存じの通りさる1月21日に自裁し亡くなった。個人的にも非常にショックだったこともあり、西部氏の最近の言動をできるだけチェックしてみたいと思っていたところではあった。近著(そして絶筆となったわけだが)として出版されていた「保守の神髄」*1は早々に読んだが、YouTubeにはそのような著作にはない、人間西部氏を知るための「参考点」となる要素で溢れている。文字情報では伝わってこない、息遣いや、表情、声のトーン等、皆、貴重なメッセージだ。しかも、思った以上に西部氏のインタビューや講演録のようなものは沢山残っている。

 

西部氏と言えば、歯に衣を着せず、場合によっては厳しく人を批判することから、疎ましく感じていた人も少なくなかったと思われる。だが、幅広い経験と深いと教養に基づいた言説自体には説得力があり、賛否は別としても、誰もが一目置く評論界の「重鎮」だったことは確かだろう。私も、近年では、西部氏のご意見に全面賛成と言うわけにもいかないことも多く、「違和感のある言説」に突き当たることも少なくなかったが、その度に自分が持つ見解との差異の分析を通じて、自分自身の現状を検証する「よすが」とさせていただいてきた。

 

 

◾️西部氏の言説との出会い

                                                                                                                                              私自身が最初に触れた西部氏の言説は、西部氏が、スペインの思想家ホセ・オルテガ・イ・ガセット(オルテガを参照して述べる、近代批判、および当時の日本のビジネス文化やビジネスマンに対する批判だった。まだバブル崩壊前ということもあり、日本的経営が称賛され、「ジャパン・アズ・NO1」と持ち上げられ、日本の経営者も舞い上がりつつある時期だったこともあり、オルテガを評価して持ち出す人など他にはいなかった(知らなかっただけかもしれないが・・)せいか、大変新鮮に感じたのを覚えている。ちょうど当時の私も、日本的経営礼賛が次第に陳腐なイデオロギーと化していく様や、思考停止したまま礼賛してまわる輩に辟易しはじめた頃でもあった。

 

確かに、通常ビジネスにおいては、あらゆる活動を数量や金銭価値という一元的な尺度に還元し、それを極大化することが求められる。現代では、株価時価総額至上主義を金科玉条とする米国のグローバル企業等に、最も先鋭化した姿を見ることができる。当時の日本企業では、まだ、村社会と同様の企業コミュニティが良かれ悪しかれ支配的だったこともあり、今にして思えばかなり牧歌的なところもあったが、これからバブル経済に傾斜していくタイミングということもあって、独特の金銭至上主義的な狂奔の兆しが出現しつつあった。

 

株主だけではなく、全てのステークホルダーに配慮し、短期利益だけではなく中長期的な利益を重視し、そのビジネスを通じた文化価値の増大であったり、経済社会に対する貢献等を重視する姿勢等、かつて一流のビジネスマンの「徳」とされたようなものは急激に軽視されるようになり、当時の私達から見ても、あきらかに狭量で歪んだ人物像が新しいビジネスマン象として横行するようになった。後で振り返ると、西部氏のこの当時の言説は非常に予言的でもあった。

 

 

◾️大衆/大衆化批判

 

手元に、NHK市民講座で西部氏が講師として語ったときのテキストが残っている。我ながらよくぞこんな古いものを残していたものだと思うが、当時の西部氏の主張が非常にコンパクトにまとまっている。「大衆化」「大量化」等、当時はいずれも半ばポジティブな文脈で語られていた用語も、西部氏は容赦なく論難する。

 

大衆化あるいは大量化は、いいかえると、物質的快楽や社会的平等といったような単純な価値を過剰に追い求めた結果として達成される。感受しやすいもの、観察しやすいもの、測定しやすいものに執着することによって、いわば統計の世界が出現する。統計の世界は均質化、標準化あるいは平均化を基軸にして編成されるのである。しかし、統計の世界のおける単一価値もしくは少数価値の過剰追求は文明の質的な歪曲であり、退廃である。(中略) 実は、量的表現のなかに質的表現の劣位をみようとするのこそが、ここ二百年におよぶ大衆論をつらぬく不動の視点だといってよい。容易に統計化することのできない人間の特質および活動をないがしろにすまいと構えるとき、均質化・標準化・平均化は凡庸であり、低俗であるとみなされることになる。

NHK市民大学 1986年7-9月期 大衆社会のゆくえ」

 

フォーディズム人間疎外の象徴として批判の対象とされる一方、フォードの工場労働者のような中流のワーカーでも安価で自動車が手に入れることを可能にしたという意味で、経済的平等実現の原動力でもある。日本でも戦後の高度成長期を経て、中流の暮らしは非常に豊かになり、しかもその中流の裾野は急速に広がっていったが、そのことを可能とした大衆化、大量化には一定の評価できる側面があったことは否めない。

 

だが、問題はそこからだった。さらに豊かになれる条件が整い、世界も日本に注目し、日本が世界にどんな貢献ができるのか、それが問われていた。自動車のようなモノづくりにおいても、「安かろう悪かろう」の段階を脱して「安くて高品質」と世界で評価を受けるレベルまで到達していたが、さらにその上を目指すにあたって、自分たちができる自動車文化の進歩への貢献は何か、高いレベルの文化価値を有するプロダクトとは何か、そのような問いかけに責任を持つべき立場に到達していることを自覚することができた。実際に自分たちも自動車の企画に関わっていたから、このような高いレベルを目指せることの高揚感をひしひしと感じていたものだ。しかしながら、そこからの日本は、西部氏が語ったとおりの退廃と低俗に向かい始めた。企業内でも、レベルの高い思想は「大衆」の狂乱にかき消されていった。

 

西部氏は、狭い専門領域における知識しか持たない学者や官僚、ビジネスマン等を含む「エリート」こそ典型的にオルテガの言う「大衆」に該当し、そんな専門家=大衆が社会に横暴で狭量な意見を無節操に押し付ける愚を嘆く。これこそ、まさに当時の自分の周囲で起きていることそのものに感じられた。いわゆる日本を代表する会社の「ビジネスエリート」に囲まれつつも、そのほとんどの者が空疎でまともな議論もできないことに失望していたこともあり、西部氏の言説に救われた思いをしたものだ。

 

 

◾️理性はたかが知れている

 

YouTubeに出てくる西部氏は、東大で経済学を学びながら、「つまんねぇな」と思っていたと述べる。それもまた、まさにかつての私自身の嘆きそのものだった。説明能力を上げるために、高度な数値化や狭い専門領域を設定する当時の「近代経済学」は、私自身(私も経済学部だった)、本当に「つまんねぇ」し「わかってねぇな」と思っていた。そして、人間に関わる現象を説明したければ、「ホモ・エコノミクス」というような隙の多い概念に閉じこもるだけではなく、もっと人間に関わる現象を広く深く探究することは不可避ではないのかとずっと感じてたものだが、どうやら西部氏はもっとはるかに大きなスケールでこれを感じ、実際に渉猟を行った人だったようだ。心理学から、文化人類学社会学等ありとあらゆる分野に関心を持って関連文献を読破していったのだという。

 

その後、行動経済学というような、心理学的に観察された事実を経済学の数学モデルに取り入れていく研究手法が大きな地歩を占めるようになったごとく、時代はある程度、西部氏の正しさを証明していったように私には見える(もちろん西部氏本人は、そんなものは評価できるうちに入らないとおっしゃる気もするが・・)。ただ、広く範囲を広げてしまえばしまうほど、専門家の持つ刃の鋭さをなくし、結局のところ語るべき何がしかに到達すること自体できなくなってしまうのではないか、というしごくごもっともなご意見が出てくる。実際、昨今の大学の実状を見れば、細分化は究極まで進み、どの学問分野でも重箱の隅をつつくことが専門化の証とでも言わんばかりの状況となってしまっている。だが、これでは、表面を薄く切り取る刃物にはなり得ても、決してその奥にあるもっと本質的な理解にたどり着くための武器になるとは到底思えない。

 

もちろん、西部氏のような異彩の人が広く深く探究したところで、神のごとく何でも見通せる理性を会得できるわけではない。結局のところ、人間の理性ができることなどたかが知れている。そこで人間の理性があてにならないとすると、規範をどこに求めるかが問われるわけだが、西部氏は、英国の思想家で保守思想の始祖、エドモンド・バークの思想を是として受け入れて行く。バークは人間の行動規範として理性ではなく、人間が長い時間をかけて住みあげて来た営為の結晶としての「伝統」を重視することを説く。それはたとえ不完全であっても、歴史を通じた「自然のなりゆき(natural cource of things)」の中で生まれた社会の価値観を尊重するほうが間違いは少ないとする。そして、これもその後、経済学者のフリードリヒ・ハイエクの言うところの「理性主義」「設計主義的合理主値」に基づく、ソ連のような共産主義国諸国が瓦解したこともあり、西部氏の「面目躍如」の一つと言える。

 

 

◾️求道者のような生き方

 

それにしても、西部氏の真実を求める求道者のような生き方には、あらためて感嘆の念を禁じ得ない。かつては、大学闘争時代の学生側の幹部であり、それは「極左」というべき立場だろう。だが、そこから転じて最終的には、保守論客の本流、いわば最右翼にまで行き着く。しかも、その経緯もすごい。大学闘争に挫折した後は、パチンコや博打にあけくれ、やっと東大に復学した時は、30歳を超えていたという。しかもそうした苦闘の結果得た東京大学教授をいわゆる「東大駒場騒動」の結果、あっさりと投げ打ってしまう。地位や名誉、金銭等の世俗の価値観にほとんど捕らわれることのない、求道者の姿がここにある。

 

ちなみに、この「東大駒場騒動」のきっかけは、西部氏が東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手(当時)の中沢新一氏を推薦したことにあった。この思想家の中沢新一氏関連のコンテンツについても、YouTubeで幾つも見つけることができる。この時は、「ラジオ版学問のススメ」を聴いていたのだが、学問に対する姿勢と言う点で、あらためて中沢氏と西部氏が同心円上にいたことがうかがえる。

 

中沢氏は大学に入る以前から、大学の既存の学問の範囲では自分が本当に知りたいことを知ることができないと考えていたという。そして、その大学も、早稲田大学文学部に入学しながら、翌年には東京大学教養学部理科二類に入り直し、生物学者を目指すものの、在学中に宗教学者の柳川啓一の講義を聴講し、それがきっかけで宗教学に転じて文学部宗教史学科に進むという遍歴を持ち、さらに驚くべきことに30歳を前にチベットに行って3年間もの密教修業を行っている。学問をキャリアとして立身出世を目論む者は少なくない(というよりそういう人がほとんど)が凡そその対極の姿勢と言える。

 

中沢氏は、その言説や行動に批判も少なくないが、現在までの到達点としての、「カイエ・ソバージュ」シリーズ(旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、人類の考え得たことの全領域を踏破してみるとことをめざして、神話分析、宗教、芸術等に幅広い領域について考察された、中沢氏の講義録をまとめたもの)など、オリジナリティに富み、その壮大なスケールに圧倒されてしまう。重箱の隅をつつくタイプの専門家には絶対に到達できない境地であることは確かだ。

 

二人とも東京大学の出身ではあるが、私の知る多くの東京大学出身者とは別種の人間というしかない。特に、受験戦争を勝ち抜き、優秀な成績で官庁に入省するエリート官僚とはおよそ正反対だ。だが、その日本の誇るエリート教育の結果生まれた人材が、非常に未熟で残念な醜態をさらす事例を特に昨年など次々に見せつけられると(「このハゲー」と絶叫して暴力をふるった官僚出身の元国会議員等)、豊かさを実現して以降の日本が残せたものの貧しさに愕然とする思いだ。西部氏や中沢氏のような巨人と自分を比較しても詮無いが、基本姿勢として学問に限らず、ビジネスでもそうだが、どのような姿勢を自分の基軸におくべきか、という点でずっと師として仰ぎ見て来たが、自分の成果がどこまで出たのかは別として、やはり原則間違っていなかったとあらためて思える。

 

 

◾️西部氏の思想との差異

 

かつて西部氏を通じて知ることになった、オルテガもバークもいまだに自分の貴重な思考の基軸ではあるが、特にバーク流の思想の咀嚼に関して言えば、この10年くらい悶々としてきた。特に直近では、「日本企業の生き残り」をテーマの一つとしてビジネスの在り方について探究してきた(そしてブログ等でも書いてきた)わけだが、そうしていると、日本人の深層に巣食う悪しき「伝統」が今また怨霊のように組織や人間に憑依して、日本を奈落に引きずり込もうとしている様がありありと見えてくる。日本人にとっては、近代的個人の確立の努力がその悪しき「伝統」と荒れ狂う感情を相対化することに寄与する可能性があり、その努力を安易にやめてしまうべきではないと思えてならない。(この点、評論家の大塚英志氏のご見解にやや近いのかもしれない。)

 

また、近代文明の在り方に強い反感を持つ西部氏の技術楽観論者に対する嫌悪は相当なものだったが、私もその基本姿勢には少なからぬ賛意を共有しながらも、一方で米国『WIRED』誌の創刊編集長である、ケヴィン・ケリーが著書「テクニウム」*2で述べるような、人間にとって半ば外的な「自然」として進化する「技術」に背を向けるだけではいかんともしがたい現状(および将来像)を前に、技術の有用性をある程度認めつつ、妥協点を見つけ、それに飲まれてしまわないような関係のあり方を模索することが重要と考えて来た。もちろん私も技術進化が自動的に人間の幸福に直結するというような楽観論は幻でしかないと考えているが、技術進化を完全に退けてしまうことは事実上の思考停止となりかねないとも思う。

 

荒れ狂うような技術の進化の只中にあって、世界は旧来の分析装置では読み解くことが難しくなってしまっており、自分自身の心のバランスを保つことにも苦心し、自信がなくなることも少なくない。そういう時には、今までと同様、これからも時々西部氏の思想にふれて、自らの立ち位置を振り返り、場合によっては修正していきたいと思う。西部氏の冥福をお祈りする。合掌。

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テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

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