日本の宿痾の構造の見える化?/幻想としての東京オリンピック

 

幻想としての東京オリンピック

 

2020年の東京オリンピックがもう目前に迫ってきているが、最近出てくるオリンピック関連の報道には目を疑うものが多い。私自身は、多少なりとも沈滞する日本のムードを変えるきっかけになるのなら、オリンピックというお祭りも悪くないと思ってきたし、そういう意味では、どちらかと言えば『賛成派』のつもりでいた。だが、その私も、次々に出てくる驚くべき報道に、さすがに認識をあらためずにはいられない。そして、ここにも、というより、ここにこそ、日本の抱える構造問題が典型例として表出している。

 

このオリンピックの開催地については、最終段階では、東京とマドリードおよびイスタンブールで争われていたが、その当時懸念されていた候補地としての東京の最大の障壁は、日本国内での『熱気不足』(および夏場の電力不足)で、国際オリンピック委員会IOC)が2012年5月の1次選考の際、独自に実施した世論調査に基づく各都市における招致賛成の比率で見ると、最終候補の中で、東京が最低だった。*1

 

          賛成 反対

マドリード     78% 16%

イスタンブール   73%  3%

東京        47% 23%

 

それでも東京は最終的に選ばれ、その後、東京都知事に当選した猪瀬直樹氏が、『東京オリンピックは神宮の国立競技場を改築するが、ほとんど40年前の施設をそのまま使うので、世界一カネのかからないオリンピックである』と述べたりしたこともあり、また、決まったからには反対していても仕方がない、という、やや消極的な賛成も増え始めて、全体の賛成の比率は上がって行ったと記憶する。2013年9月に行われた調査(読売新聞)では、80%以上の人が、東京開催が決まって良かったと回答している。*2 とはいえ、1964年に開催された東京オリンピックと比較すると、やはり、国民(および都民)の側の受け止め方には天地の開きがあると言わざるをえない。

 

社会学者の大澤真幸氏は、『本と新聞の大学』による講義において、この点に言及している(詳細は、『日本の大問題「10年後」を考える ー「本と新聞の大学」講義録』*3ご参照)。1964年の東京オリンピックは、彼が定義する時代区分である、『理想の時代』に行われたという。『理想の時代』とは、人生や社会にとって何が理想であるかがはっきりと見えていた時代で、その時代に開催されたオリンピックは、戦争に負けて、復興は進んでいたものの、まだ一人前とはみなされていない日本が、世界から一人前と認められるレベルに達したと自他ともに思える象徴的なイベントであった。その意味で、まさに、日本中が心底待望したオリンピックだった。経済効果も大きく、オリンピック後の物的な遺産も沢山残った(国立競技場、日本武道館等)。

 

だが、時代はすでに大澤氏の言う『不可能性の時代』となっており、現在我々がいるこの現実を超える別の現実、ユートピアや理想の実現は不可能になった(少なくとも誰もがそう感じるようになった)。それどころか、現在のところ何とかそこそこに幸福に暮らせる環境が維持されているが、今後は社会保障制度は破綻してしまうのではないか、経済的には没落が進み中流下流国家となってしまうのではないか、地球温暖化が進み、生態系の決定的な破綻が来るのではないか、南海トラフ地震で首都圏は壊滅するのではないか等々、日本はこれからどんどん悪くなっていくのではないかと、皆漠然と思っている。それが『不可能性の時代』の特徴の一つであり、もうどうしようもないと思っている中、今回の東京オリンピックは、すがる気持ちが見せる幻想、あるいは『幽霊船』にあたると大澤氏は述べる。東京オリンピックがあるんだから、東京オリンピックまでは何とかなる、あるいは東京オリンピックで何とかなる、そういう幻想を見せられているのだという

 

 

熱気不足が賛成多数にシフトした構造

 

もともと、『もうオリンピックとかの時代ではないだろう』と冷めていたはずの日本人が、一旦開催が決まって、やるしかない状況になった後、賛成する人が増えていった時期は、日本経済の世界のおける地位が凋落の一途をたどっているとの認識が深まっていった時期でもあった。東京開催が決定したのは、2013年の9月だが、2010年には日本は中国にGDPで追い越され、その後も差は開く一方で、昨今では中国のGDPは日本の倍以上に膨れ上がり、世界を席巻した日本の電気メーカーも軒並み中国の会社の後塵を拝するようになった。しかも、先端技術であるAI等でも、先頭を走る米国企業はおろか、中国企業との差も開く一方だ。一人当たり名目GDPで見ても、2000年の日本は第2位だったのが、2010年には第18位、直近の2017年には第25位まで落ちてしまっている。*4 *5

  

大澤氏が述べるような、東京オリンピックにすがる心理は、直近の調査データにも見て取れる。2018年3月に実施された、『東京オリンピックパラリンピックに関する世論調査*6の質問項目の中に、『東京オリンピックに期待しているもの』というのがあるが、これを見ると、圧倒的なのが、日本経済への貢献(62.0%)、日本全体の再生、活性化(51.7%)だ。国際交流の推進(32.1%)とか、スポーツの振興(30.1%)というような、スポーツイベントらしいと言える項目の数値を大きく引き離している。世界の中でその地位がどんどん低落している日本経済の活性化の起爆剤としてオリンピックを頼りにする心理状態が如実に現れていると言えそうだ。

 

 

経済活性化に期待せずお祭りとして楽しむべき

 

1964年当時、日本はまだ『発展途上国』であり、追いつくべき目標は明確で、ひたすら額に汗して働くことが日本経済発展の原動力になりえた。オリンピックのようなお祭りがあれば、公共投資を含む投資額が増えて、その投資の乗数効果で経済が活性化して、企業業績も上がり、それに乗っかってさらなる成長を期待できた。だが、今はそうではない。日本は先進国となり、労務費等のコストは高く、労働集約的な産業は言うに及ばず、先端的な産業分野も高付加価値を生む技術進化やイノベーションがなければ、どんどん追いつかれてしまう。しかも、特にインターネット革命以降、世界経済の構造や市場での勝利条件も激変してしまった。今この時も変化が加速している。

 

それはとっくにわかっていたはずなのに、今回のオリンピックにも経済の活性化に高い期待を寄せている国民が多いこと自体、日本経済の構造転換が進んでいないことの現れともいえる。日本経済の再活性を本当に望むのであれば、一番肝心なのは、旧来の重厚長大型から、知識集約型のソフトウエア分野への転換であり、先端の科学技術やそれを担う人材への集中的な投資ということになる。だから、1964年の日本経済の成長には効果的だった東京オリンピックも2020年には、もはや効果的とは言えない。もっとも、国民の心理、という点でいえば、『東京オリンピックが効果的でないことはわかっているが、他にすがれるものがない』というのが大半の人の本音かもしれない。だから、そう回答する人もどこか自信がなく、これが淡い夢であることを知っているようにも見える。だが、いつまでも幽霊船に経済再生の淡い夢を託していてよいはずがない東京オリンピックは、猪瀬元東京都知事が言っていたような、『世界一お金のかからないオリンピック』として、経済活性化に過度に期待せず、国際交流やスポーツ振興の活性化を期待し、それを楽しむべきイベントとして迎えるべきなのだ。

 

だから、何より『コンパクト』で『お金がかからない』ことが、東京オリンピック開催の絶対条件だった。オリンピックは、一時的な雇用拡大、観光客の増加、不動産価格の高騰、道路や建物の発注等で一時的に賑わうかもしれないが、オリンピックが終われば、雇用は消失し、観光客は帰り、不動産価格は下落し、道路や建物が残ってもそれ以上に重い負債が残るだけ、ということになりかねない。不動産関係者に聞いても、オリンピック後に日本には『崖』が来ることを前提に、海外シフトを進めようとしているという。

 

 

世界一お金がかかるオリンピックへ

 

ところが、あろうことか、『世界一お金がかからない』どころか『世界一お金がかかる』オリンピックになろうとしているという。東京オリンピックの開催計画を記した立候補ファイルでは、組織委の運営費は約3013億円で、ここに国などの負担分を加えても、約8000億円程度とされていたはずだが、最終的には3兆円を超える可能性もあるという。

 

オリンピックが商業主義化した1984年以降、オリンピックを終えた国は、IT革命の上昇気流に乗って経済が発展した唯一の例外である、アトランタをのぞいて、皆不況に見舞われている。巨大な公共投資が閉会式とともに消え、財政の大盤振る舞いのツケだけが残る。*7ギリシャなど不況どころか経済破綻してしまった。ブラジルも負の遺産に苦しんでいる。*8 このままでは、東京オリンピックもその徹を踏むことは確実だ。ところが、それでも懲りずに、大阪万博誘致の話が出ているのを見たりすると、変わることができなこの国の姿に慨嘆せざるをえない。

 

膨れ上がる予算については、マネジメント不在もそうだが、『オリンピック関連』をこじつけて、余禄にあずかろうという旧来の『お上と日本企業』という構図が透けて見える。長く無駄の温床となって来て悪名高い特殊法人の暗い影はオリンピックの組織委員会にも差している。談合、利益団体内での利権の配分、裏金等、旧来の公共事業の悪弊がすでに様々に指摘されているが、これも、東京オリンピックの特殊性というより、旧来の日本の公共事業にありがちなことが、その典型例として、繰り返されているというべきだろう。

 

そういえば、オリンピックの招致にあたっても、不正疑惑が取りざたされているが、海外の司直から有罪認定され、2億3000万円の支払いが実際にあったことを組織委員会も認めながら、解明が進まず(解明を進めず?)、関係者も口をつぐんでいる。これも、旧来の巨大公共事業でありがちなデジャヴ(既視感)と言えそうだ。1964年の東京オリンピックでも多かれ少なかれ、そのようなことはあったのかもしれないが、その後の経済成長が全てを正当化することを期待できたとも言える。だが、今は全く事情が違う。一部の利権者をのぞけば、ただでさえ不安視される今後の日本経済への悪影響ははかりしれない。世代を担う成長産業が育っていない日本では、オリンピック後に、何一つ頼るべきものがない中、ますます高齢化が進み、財政赤字は膨らむ一方と見られているから、オリンピックが経済の足を引っ張ることを許容するキャパシティなどまったくない。

 

 

太平洋戦争化しつつある?

 

しかも、問題はもはやコスト高だけではない。とめどなく不可解な話が出て来ている。1964年当時は、選手や観客の健康を配慮して、酷暑の7月~8月を対象からはずして、10月に開催されているが、今回は、米国等のスポーツイベントが少なく、視聴率が稼げるというIOCの推奨に乗っかって、7月~8月の開催が早くから決まっていた。だが、1964年当時と昨今を比較すると、東京の(日本全体でも)気温は明らかに上昇している。2020年の気温が本年(2018年)並でも(もっと暑くなるかもしれない)、選手も観客も熱中症で大量に倒れる懸念がある。ところがそのことが話題になると、突然、『サマータイム実施』という『迷案』が出て来た。

 

1964年には影も形もなかったが、今ではコンピュータがネットワークで結びつき、多様なシステムが相互接続されている。こんな中で、基本的な取り決めである『時間軸の整合性』を乱すリスクは甚大で、しかも対応コストが莫大になることが予想されるサマータイム』導入というような話が出てくること自体、心底驚いたが、考えてみれば、『オリンピックで経済成長』とか言い出す御仁には、そのようなことに気づく感度もないのは当然かもしれない。

 

さすがに、すぐにこの騒ぎも沈静化したようだが、その最中に、今度は、『クールシェア』という『迷案』が出てくる。大会の組織委員会がマラソン競技での暑さ対策について、コース沿いの店舗やビルで冷房の効いた1階部分などを開放してもらう取り組みを活用する方向で検討しているという。最初は、『ラソンコース沿いの店舗の玄関口からエアコンの冷気を解放して暑さ対策』かと思ったが、そうではなく、観客に冷房の聞いた1階部分を解放する、と言う意味らしいが、このようなことが真面目に議論されていること自体、何かが壊れてしまっているとしか思えない。太平洋戦争中の『戦車に竹槍』を連想してしまったが、ちょうど近現代史研究者の辻田真佐憲氏が、文春オンラインへの寄稿で「東京オリンピックはいよいよ『太平洋戦争化』しつつある」と述べているのを見て、我が意を得たりの思いだった。辻田氏の言うように、戦時中の精神論の蔓延と似た状況が実際に起きつつある。*9

 

すると、これを裏付けるように、『学徒動員』の話まで出てきた。*10 今回の東京オリンピックは過去最大規模の約11万人の無償ボランティアを動員するという。ボランティアというのは、あくまで自主参加が原則のはずだが、東京都と五輪組織委は、スポーツ庁文部科学省を通じて、全国の大学と高等専門学校に対して、ボランティアに参加しやすいよう、授業を繰り上げたり単位認定等の対応を求める通知を出しているという。想像するに、このボランティアは就職に有利、というような状況が作られ喧伝される可能性もありそうだ。就職を望む学生の『忖度』を期待するわけだ。単位に認定して、就職にも必要となれば、学生にとって強制も同じだ真夏の炎天下で1日8時間、10日間、無償で、労働基準法等の規制も及ばない労働を半ば強制される『ボランティア』というのは、まさに学徒動員そのものだろう。しかもその『ボランティア』には、対面での接客業務も含まれるというから、『テロ』に巻き込まれたり、『テロ』を抑止できない懸念も非常に大きい。

 

労働力だけではなく、物資も不足している模様だ。太平洋戦争では、武器生産に必要な金属資源の不足を補うために、金属回収令が出されたが、なんと戦後70年以上経った今、このアナロジーを現実に目にすることがあるとは思わなかった。オリンピックのメダルの素材確保ができていないため、環境省が全国の自治体に対して、携帯電話やパソコンの回収を呼びかけているという。不要品の有効利用という趣旨自体は結構なことともいえるが、『戦車に竹槍』『学徒動員』とくれば、『金属回収令』という文脈で解釈されてもやむをえないだろう。しかも、まだ目標大幅未達というから、直前になれば、ここでも半分強制の『忖度』誘導が見られるかもしれない。

 

太平洋戦争当時のこのような愚策は、米国という圧倒的な強国を相手に戦争を仕掛けるという根本的な敗因を棚上げして、抽象的な精神論を強制した結果出てきたものだが、今回のオリンピックも酷暑での開催等の根本原因を棚上げして、小手先の『竹槍』を振り回しているように思えてならない。クールシェアをやろうが、サマータイムを無理やり導入しようが、2020年が、殺人的な酷暑だった今年より暑くなる可能性は否定できない。しかも、天候問題は暑さだけではない。台風による洪水等の被害も日本列島を大きく揺さぶった。2020年が今年並みになったとすると、『竹槍』などすべて吹っ飛んでしまうだろう。

 

 

『幽霊船』ではなく『救助船』を迎えるために

 

あえてオリンピック批判に走るつもりは毛頭なかったのだが、このように起きて来たことを淡々と並べて見ただけで、なんだか大批判を繰り広げているように見えてしまう。だが、今回本当に指摘したいのは、オリンピック自体ではなく、経済再活性化をオリンピックのような旧来のお祭りに頼る古いマインドであり、オリンピックのようなイベントの管理もまともにできなくなってしまっている劣化のほうだ。おまけに、追い込まれると、太平洋戦争当時の亡霊までよみがえってくる

 

同様の現象は、今、日本中で起きている。企業、特に大企業に広がる現象にも符合する。今どうしてもやるべきことは、この日本が抱えてしまった宿痾の構造を解明して、その改革に着手することもだろう。個人の立場では改革は無理でも、自分自身の今後のあり方、身の振り方を考え直してみることだ。日本中で蔓延しているマネジメントの劣化と忖度をこれ以上続けることの是非を見直すきっかけとして、オリンピック関連で起きている問題を徹底的に分析してみることだ。そういう覚悟を据えることができれば、そういう人が一人でも増えれば、時代が好転する可能性も出てくるはずだ。そして、それは『幽霊船』ではなく、本当の『救助船』になるはずだ。

夢と挫折の平成時代/次のメガトレンドに向けて

 

失敗? 次の時代への準備?

 

前回、平成の総括ということで、3つの失敗(政治、経済、思想)について書いたたのだが*1、私が思った以上に反響があって、様々なご意見を頂戴した。中でも、失敗というより、次の新しいものが出てくる胎動の時代だったのでは、というご意見には、少なくとも経済に関わる問題については、条件付きながら、私も同意する。本当に新しいものが出て来るためには、既存の枠の中で出来ることは最大限やり尽くして、茫然自失するくらいの方が良いとも言える。その時こそ、従来では考えられなかったようなコンセプトが現れ、状況を根こそぎ変えてしまうようなものが現れる。中途半端に現状の手直しでしのごうとしている間は、本当に新しいものは出てこない。特に日本人にはそういう傾向がある。だから、平成の『失敗』も、既存の枠内で考えられる限り、やるだけやって、やり尽くした状態と見れば、今こそ、予想もしなかったような新しいものが現れる好機とも言える。

 

ただし、それ(新しいもの)が出現した当初は、従来のものとあまりに違うがゆえに、あやしく、取るに足らず、場合によっては疎まれることにもなるだろう。だから、平成の次の時代をリードするメガトレンドを今のうちに見つけていきたいと思えば、そのような、『あやしく、取るに足らず、疎まれさえするもの』を忌避せず、客観的に評価する公平な態度が必須となる。

 

ちなみに、平成は失敗の時期と言っては見たものの、楽しくなかったのかといわれれば、そんなことはない。むしろ、非常に楽しい時代だった。私の前回のブログ記事にも、『失敗?結構楽しかったけど』という感想をいただいたが、実のところ他ならぬ私自身、そう思っている。特に2000年以降、IT業界の片隅に在籍して、仕事でも、プライベートで書いてきたこのブログの周辺でも、実にエキサイティングで楽しい経験をさせていただいたと思っている。

 

インターネットの本格普及はまさに平成が始まってからのことになるが、この時代は、インターネット関連で次々に目新しいものが登場し、従来は一個人ではできなかったことが次々に出来るようになったり、古い仕組みを破壊して、新しいビジネスを立ち上げたり、社会改革を夢想したりすることができた。旧来の仕組みやモラルを守旧する側にとっては、ただの破壊にしか見えなかったかもしれないが、その枠から解き放たれて、新しいものを求める者にとっては、夢に熱狂することができる時代だった。しかも、この環境で、それまで抑圧されて来たオタク的な趣向がインターネットの助けも借りて、爆発的に拡大して、その巨大なパワーを見せつけることになった。

 

だが、残念ながら、あれほどはち切れんばかりに膨らんだ夢も、平成末期を迎える今となっては大方覚めて、熱狂もおさまってしまった感がある。祭りの後の寂しさとでも言うのだろうか、今では、妙な寂寥感と諦念が漂っている。

 

IT業界の周辺での夢と挫折

 

この点については、様々なご意見があるように思うが、あくまで私の立場から見て来た、IT業界の周辺での夢と挫折について、今回も3つあげて説明しておこうと思う。

 

1. インターネットの夢と失望

2. SNSの夢と失望

3.オタク文化の膨張と衰退

 

 

1. インターネットの夢と失望

 

インターネットについて言えば、当初の予想をはるかに超えてあらゆるものを変えてしまったと言っていいだろう。最早、誰にとっても無くてはならない必須のインフラになった。ただ、それでも、インターネットに賭ける夢や理想はもっとずっと高いところにあった。これについては、次の記事が参考になる。

 

MIT Tech Review: インターネットのあの美しき理想はどこへ消えたのか?

 

人によって若干解釈やニュアンスが異なるかもしれないが、この記事の次の部分で述べてあるようなコンセプトに賛同して、インターネットによる政治や腐敗した大企業の浄化に願いを託した人は大変多かった。

 

「本来インターネットは民主的なものだ。インターネットによって個人や自己組織化する共同体が力を持ち、瀕死の状態にある支配体制に対抗できるようになる」と楽観主義者は主張した。

 

 

その夢が最も膨らんだ時期の一つは、いわゆる『アラブの春』の頃と言っていいだろう。インターネットが政権の打倒を目論む人民を連帯させるためのツールとして利用されることで、独裁的な政権が次々に倒れて民主化していく、そのような期待がいやが上にも盛り上がった。だが、実際には、独裁政権が倒れても、直ちに民主化するわけではなく(そのように考えること自体がナイーブというしかないが)、逆に政権側も、インターネットの威力を十分に理解して、ほどなく、国民の管理やテロリストを発見するツールとして活用し始めた。

 

いわばその頂点にいるとも言えるのが、現在の中国で、経済的に豊かになっても民主化せず、それどころか、共産政権はインターネットや監視カメラ、人工知能等のテクノロジーを駆使して、従来の人力では実現不可能だった個人の監視と管理を徹底しつつあり、あまつさえ、個人情報を制限なく使えることを経済的にも最大限生かして、産業政策でも世界をリードしようとし始めている。

 

2016年の米国大統領選挙では、トランプ陣営が起用した、データマイニングとデータ分析を手法とする選挙コンサルティング会社である『ゲンブリッジ・アナリティカ』のフェイスブックデータの不正利用や、巧妙な世論操作ともいえる手法等が明らかになったり、大量のフェイクニュースが吐き出され、ロシアの介入が疑われる等、インターネット選挙のネガや問題点が噴出する。

 

日本でも、インターネットが政治改革に利用できることが盛ん論じられたものだが、今ではすっかりその熱は冷めてしまった。インターネットは、今ではそれ自体は当たり前に存在するものだし、無くてはならないものだが、特に夢を実現するツールとの評価は影を潜めて、今の局面では、同じ意見の持ち主どうしを同じ蛸壺に押し込み、人々の分断を促進するツールとなっている等、どちらかというとネガティブなニュアンスで語られるようになってしまっている。

 

 

2. SNSの夢と失望

 

これは1とほとんど重なっていると言ってもいいのだが、特に、ウェブ2.0 *2命名された動向は、日本でも独特の発展を見せ、夢と熱狂が日本列島を揺さぶったことは記憶に新しい。よって、あえて、分けて述べておく意味はあると考える。

 

これも、参考となる記事がちょうど手元にあるので、参照させていただく。

ウェブはバカと暇人のもの~現場からのネット敗北宣言

    *3でその名を知られる中川淳一郎氏のブログ記事だ。

 

ブログやSNSは“ネットの空気”をどう変えたのか? 平成最後の夏、「ネット老人会」中川淳一郎が振り返る (1/3) - ねとらぼ

 

この記事にもある通り、2000年代には、個人が簡単に意見を表明し、意見交換を行うことができて、しかも、場合よっては非常に大きな知名度を得てサポーターを広げることができるとの期待が盛り上がった。最初に、ブログ、そして、mixitwitterFacebookと登場するたび個人の発信のハードルは下がっていった。

 

従来はマスメディアしかなかったところに、個人でも一企業でも容易に情報を発信できるようになり、マスメディア批判も盛んになった。特に東日本大震災では、メディアが政府広報のような役割しか果たしていない、生活に本当に必要な情報がない、等の批判が強まったこともあって、twitter等のSNSが新たな市民メディアとしての地位を確立することが期待されていた。

 

また、SNSを利用することによって、一個人や一企業が、非常に多くの人を動員できるパワーを持てる可能性があり、それは政治にも、ビジネスにも応用可能であることから、個人がビジネスを立ちあげたり、大きな組織を相手取って幅広い活動ができるとの夢は大いに膨らんだ。

 

だが、上記の記事にもあるとおり、今ではこれらのツールはすっかり当たり前になった代わりに、人気を得るのは、すでにリアル世界でも人気のある芸能人や有名人ばかりになり、テレビや新聞を含む大メディアでも、ネットメディアを補完的な役割としてシステムに組み込み、これもまた当たり前となった。逆に、個人をエンパワーするツールという認識は後退し、むしろ、個人が迂闊に利用すると、炎上したり、思わぬトラブルに巻き込まれる危険なツールという扱いになってしまった。

 

 

3. オタク文化の膨張と衰退

 

『オタク』を定義することは、非常な難事であることは承知しているので、今回は人様の定義を借りることにする。思想家の東浩紀氏が著書『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』*4で述べた定義が平成に巨大なプレゼンスを誇ったオタクの定義として最も妥当に思える。

 

それはひとことで言えば、コミック、アニメ、ゲーム、パーソナルコンピュータ、SF、特撮、フィギュアそのほか、互いに深く結びついた一群のサブカルチャーに耽溺する人々の総称である。

 

平成が始まった頃は、ちょうど連続幼女誘拐殺人事件の最中ということもあり、典型的なオタクだった犯人の宮﨑勤の影響で、強いオタクバッシングが吹き荒れていた。オタクが急速に名誉回復を果たし、逆に、爆発的にその存在を誇示し始めたのは、1995年に登場した、『新世紀エヴァンゲリオン*5あたりからだと思う。『エヴァ』放映直後の19965月には、『エヴァ』にも関わった評論家の岡田斗司夫氏は、『オタクは日本文化の正統継承者である』と主張していたというが、これは今思えば非常に意味深な発言で、オタクが耽溺するサブカルチャーが興隆して、日本文化の中心に鎮座することも見据えていたとも言える。実際、この後、サブカルチャーも、それに耽溺するオタクも猛烈な勢いでプレゼンスを拡大していく。

 

日本のオタク現象の最盛期は2000年から2000年代半ば過ぎくらいまでだと思われるが、その頃、オタクの街として名を馳せていた秋葉原など、毎日がお祭り騒ぎだった。そして、日本のサブカルチャーは世界でも熱狂的に受け入れられ、いつの間にか日本を代表するカルチャーの扱いとなり、これを経済的な収益拡大につなげるべく『クールジャパン』なる名称を戴いて、政府のお墨付きまで拝領することになる。かつて、差別され、蔑まれていた、オタクとオタクの嗜好物が日本経済を活性化する救世主扱いさえされるようになった。

 

しかしながら、2008年に起きた、秋葉原通り魔事件*6は非常に示唆的で、事件の影響で歩行者天国が中止されたが、それは『お祭り』の終わりを象徴する出来事となった。さらに、2011年に起きた東日本大震災の影響はさらに決定的で、『お祭り』はそれ自体不謹慎という空気が日本中を支配することになる。事件から、10年経った秋葉原は、今やすっかりその様相を変え、戦後の日本の発展の軌跡を凝縮して観察することのできる『博物館』として、外国人観光客を迎える街になってしまっている。

 

お祭りは終わったが、オタクがいなくなったわけでも、サブカルチャーがなくなったわけでもない。むしろ逆で、オタクは特殊な人種ではなく、日本人の大半が多かれ少なかれ持っている『傾向』とさえ言っていいような、当たり前の存在になった。サブカルチャーも、どこでも接し、手に入れることができる当たり前のものになった。そのために、秋葉原に来る必要もなければ、人の目を憚る必要もなくなった。一方で、かつてオタクが持っていた、溢れるようなエネルギーは散逸してしまった。

 

 

次の時代に向けて

 

ここであげた現象も、『失敗』と語ることもできるのだが、これこそ、失敗というより、次の時代をリードする『何か』が出現するために、一旦盛り上がるだけ盛り上がった上で、その問題点を洗いざらいさらけ出し、場が平坦に均されて、あらたな場が準備されつつあるように私には見える。というのも、今出現してきていて、胎動している新しい技術(第三世代の人工知能ブロックチェーン等)は、かつては夢想だにできなかったこと、実現不可能と考えられていたことを実現する可能性を持ち、その潜在力は少なく見積もっても、これまで起きてきたことが比較にならないくらい大きいと考えられるからだ。

 

残念なことに日本では、これらの技術トレンドには完全に乗り遅れ、そういう意味でも市場には、一種の『諦念』が広がりつつあるとも言えるのだが、そもそも日本という国は、新しい、独創的な技術を世界に先駆けてつくるようなことは苦手だが、その技術を他の世界では考えられなかったような使い方をして、カスタマイズしてみせることにかけては、世界で一番長けているとも言える。それはインターネットでも同様で、自分たちでインターネットを作り出すことはできず、世界での主流の使いかたをリードすることはできなかったが、『2ちゃんねる』『ニコニコ動画』『初音ミク』等、旧来の常識的な大人にとっては怪しいとしか言いようがないが、非常に独創的な境地を切り開いて世界を驚かせてきたことは確かだ。技術の表の世界では、米国や中国の企業に置いていかれているが、その技術が市場に本格的に普及する時期に至れば、日本が本格的に本領を発揮する時代が始まるとも言える。超楽観的と笑われるかもしれないが、少なくとも経済に関して言えば、『焦土からの復活』『日本独自のカスタマイズ』は、日本人のDNAに潜む、世界に誇れる潜在パワーであることを私は信じて疑わない。(ただし、前回述べた通り、政治や思想に関してはまだ楽観できない。)

 

だから、今は、茫然自失状態だとしても、絶望せず、地に潜む、あるいは、まだその一端しか見えていない新しい潮流を発見すべく目を皿のようにしておくべき時期なのだと考える。そして、そのためには、平成で起きたことを冷静に振り返っておく必要があると思う。そうすれば、きっと萌芽を見つけることができるはずだし、同じ失敗を繰り返すことなく、次の新しいトレンドをリードしていけるはずだ。そう信じる私は、自分に貼られるであろう『超楽観論者』のレッテルが剥がれる日を楽しみに待ちたいと思う。

*1:

*2:

Web 2.0 - Wikipedia

*3:

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 

*4:

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 

 

*5:

新世紀エヴァンゲリオン - Wikipedia

*6:

秋葉原通り魔事件 - Wikipedia

平成の失敗を繰り返さないために『思想』が重要である理由

 

 

 大きな転換点としての平成

 

平成が終了する時期が近づていることもあり、昨今では、平成を総括する著作や記事が増えて来ている。昭和と比較すると、長さも半分以下で、300万人以上の戦死者を出して国が滅びてしまうほどの戦争のような大きな出来事があったわけではないとはいえ、平成という時代には、阪神大震災東日本大震災とそれに伴う原発事故、あるいは世界初の都市型毒ガステロ(オウム真理教事件)、さらにはインターネットの急速な普及等、過去に例のない、そして、時代を一変させてしまうような出来事が凝縮して詰まっており、つぶさに振り返ってみると実に大きな転換点であったことがわかる。

 

しかも、日本だけではなく、この間、日本を囲む世界も激変した。そもそも平成が始まった1989年というのは、世界的な激動の年で、6月に中国で天安門事件が起こり、11月にはベルリンの壁が崩壊し、12月にはブッシュ大統領ゴルバチョフ書記長がマルタ会談を行い、戦後世界を覆っていた、米ソ冷戦という二極構造が終焉の時を迎えた。それは日本にとっても一大事で、軍事はアメリカに任せて、安穏として平和憲法遵守のお題目を唱えていればすんだ時代が終わりを告げたことを意味した。

 


正しく総括できている?

 

このように話題の多い平成を語る人は多いが、『総括』となると、必ずしも容易ではないようだ。どうしても語る側の価値観や信念が表に出てくるせいか、違和感のある総括も少なくない。ただ、それでも共通しているのは、平成が失敗、あるいは、衰退の時代だったという認識だ。だが、何が失敗して、その失敗の本質は何だったのだろう。この点では、議論は錯綜していて、必ずしも収斂しない。あるいは、分析が表層的で、読むに耐えないものも少なくない。例えば、この時期、世界ではグローバリズム新自由主義が市場を席巻したことは誰しも認めるところだろうが、ある人は、その新自由主義を徹底できなかったことが日本の失敗の原因と述べ、またある人は、新自由主義的な政策こそ失敗の原因と述べる。


失敗を真摯に認めて問題点を明らかにすることができれば、失敗は成功のもとにもなろうが、原因を明らかにできずにいたり、問題に直面せずにほっかむりして知らんふりを決め込むようでは、新しい時代を迎えても、また同じ失敗を繰り返えすだけだ。あるいは、何もできずにすくんでいるうちに、衰退が加速してしまうかもしれない。


平成の入り口の時点で、すでに世界も日本も大きな変化の波にさらされていることは誰もが感じていた。だが、日本では効果的な対策が打てないままに、『失われた10年』が過ぎ、『失われた20年』が過ぎて尚、いまだに本当に有効な打ち手は出て来ず、平成は失われたままに過ぎてしまったという印象が強い。だが、そうは言っても、様々な改革や新しい挑戦もそれなりに試みられた時代であったことも確かだ。だが、結果的にはそのほとんどはうまくいかなかった。良かれと思った対策も、思わぬ問題につまづき、行き詰まってしまった。もちろん、やる前から問題に気づくことは容易ではなく、やって見たからこそ問題点が明らかになるということはある。だが、そうであればこそ、平成という『失敗プロジェクト』の『失敗の本質』は徹底的に解明しておく必要があり、それをせずに、また日本人お得意の、『水に流して』しまう、あるいは『問題を先送り』してしまうのであれば、次の時代も平成以上の『失敗プロジェクト』になってしまうだろう。しかも、次の時代には、少子高齢化や巨額の財政赤字等、スタートラインの時点で、すでに大きな荷物を背負っているばかりか、その荷物は何もしなくてもどんどん重くなっていくのだ。


 

いつまでもパラダイスは維持できない

 

平成は結果的に、改革も身を結ばず、手も足も出ずにすくんでしまった時代となってしまったが、逆に言えば、『すくんでいるだけの余裕があった時代』だったとも言える。昭和末期までに積み上げて、世界のトップをうかがうまでになっていた富の余禄は非常に大きく、世界の現実に背を向けてすくみ、『ガラパゴス化』していても、それは、江戸時代という長く続いた平和なまどろみの時代が、世界で帝国主義の嵐が吹いていても、世界の現実から切り離されて、海中に浮かんでいることができたことに似ていて、それなりの幸福と満足を享受できた。経営コンサルタントの海部美知氏は、2008年に日本が『パラダイス鎖国』の状態にあると述べたが、清潔で犯罪も少なく、収入が低くても楽しめることが多い平成日本は、まさに一種のパラダイスの状態にあり、『今のまま、このままがずっと続けば満足』という心理が蔓延した。だが、どうやらそのパラダイスを維持するのも限界に来ている。

 

 

3つの失敗

 

では、私の考える、平成という時代の失敗とは何なのか。私は、平成を大きく『3つの失敗』でくくることができるように思う。その3つについては、それぞれ独立しているのではなく、相互に連関し、より深いレイヤーに共通の『失敗の本質』があると考えられるのだが、まず、『3つ』でくくることで、より具体的にその失敗の全体像を鳥瞰することができるように思う。それは、次の3つである。


1.改革に失敗した政治

 

2.世界のIT /デジタル革命から置いていかれた経済

 

3.宗教や哲学を忌避しすぎて空洞化してしまった思想

 

では、できるだけ簡潔に、それぞれについて説明してみたい。

 

 

1. 改革に失敗した政治


平成の初め頃には、政治に関する国民の最も大きな関心事は、『金権政治の排除』だった。実際、汚職事件が相次いでいたが、中でも直近のリクルート事件*11998年)の影響は大きく、金権政治から脱却すべし、という国民的なコンセンサスが出来上がった。その結果、非自民の細川連立内閣が成立して、戦後日本を長い間支配したいわゆる55年体制が崩壊する。同時に、その金権政治の温床となっていると長らく指摘されていた『中選挙区制度』を排して、1994年に『小選挙区制度』が導入された。

 

中選挙区制度では、一つの政党が過半数を得るためには、同一選挙区内で複数の候補者を当選させる必要があるが、候補者は所属政党からの全面支援を得ることができないため、政党以外の資金源を頼らざるをえず、これが腐敗の原因になるとされた。そして小選挙区制度になれば、小政党が生き残ることは難しいが、米国のような二大政党制となることが期待され、実際に民主党が政権を奪取した際には、今後日本にも二大政党制が根付くとの期待が盛り上がった。


しかしながら、結果的に民主党政権はあっけなく瓦解したばかりではなく、民主党に代わる、自民党に対抗できる政党ができるどころか、野党の弱小化が進み、今では、日本には二大政党制は馴染まない、という説がもっともらしく思えてくる始末だ。しかも、『小選挙区制度』で議員に対する政党の力が増大するのはいいとしても、その流れで、今の自民党のように、官邸や首相に権限を集中させると、議員も自由に意見を述べることさえはばかられるような雰囲気になり、さらに内閣人事局が設置されて(2014年)、官邸が公務員の幹部クラスの人事まで握るようになると、官僚から、司法に至るまで官邸や首相の意向をうかがうようになってしまった。


いかに政権がスキャンダルまみれになろうと、政権交代の可能性がないから、改革は期待できない。党内も、官邸や首相の意向を忖度するばかりで、改革どころか改善のための議論さえ盛り上がらない。こうなるとかつて中選挙区制度の時代に、自民党内で強力な派閥が激突する環境で、様々な議論が白熱していたころが懐かしくなってくる。金権政治という魔物を退治したと思ったら、別の怪物を呼び起こしてしまった。今や国民の政治改革熱はすっかり冷めてしまったように見える。平成前半頃の、改革の熱気も、今では懐かしい思い出だ。



2. 世界のIT /デジタル革命から置いていかれた経済


平成期の経済について否応なく突きつけられるのは、『日本の一人負け』になってしまったという事実だ。平成が始まったころはバブルの絶頂期ということもあり、日本的経営に対する注目もものすごく高かった。一人当たりのGDPもあと一歩で米国を上回りそうな勢いだった。日本の電気製品や自動車が世界中を席巻していた。だが、いつのまにか中国に世界第2位の座を譲ったと思ったら、気がつくと今では日本のGDPは中国の半分だ。一人当たりGDPも下落に次ぐ下落で、2015年には27位(先進国最下位)まで後退した。あれほど世界中に溢れていた日本の電気製品も今では見る影もない。『日本的経営』は今では日本経済の足を引っ張る失敗の象徴とみなされるようになってしまった。


そして、この衰退は、世界のIT/デジタル革命の中で、国家としても企業としても適応できなかったことが最大の原因と言わざるを得ない。1992年の世界の時価総額ランキングを見ると、日本企業が上位を占めていることがわかるが、これを2016年と比較して見ると、時価総額トップは8倍の規模にまで膨れ上がり、上位には米国のIT系企業が並ぶ。その中に、日本企業の名はなく、代わりに台頭しているのは中国企業だ。日本企業の中で上位にいるのは相変わらず製造業(トヨタ自動車)だが、時価総額2017年秋の時点)で比較するとも新興のIT企業であるアリババの半分以下だ。


今や、世界はGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)を擁する米国とBATHバイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウエイ)を擁する中国が激突して経済の覇権を争う様相となっているが、そこに対抗できる日本企業はほとんどない。しかも、今でも世界的な競争力を維持する日本の自動車会社も、IT企業の影に怯え、戦々恐々としている。来るべき人工知能AI)の時代を迎えるにあたっても、技術者の質/量、およびAIを賢くするデータの質/量という点でも、退勢を余儀なくされている。


 

3. 宗教や哲学を忌避しすぎて空洞化してしまった思想


実のところ、1. 2. と比べて、この点はほとんど注目されていないし、一部識者を除けば、重要視もされていない。だが、私に言わせれば、この点での劣化こそ、実は最も深刻な問題で、私は、来るべき未来に日本が本格的な復活を遂げることがあるとすると、思想の重要性が再認識されて、日本の思想に骨格ができて血が通った時だと確信している。

 

大きな物語の終焉』というのは、フランスの哲学者のリオタールが1979年に著書『ポストモダンの条件』において提唱した言葉であり、科学が自らの依拠する規則を正当化する際に用いる『物語』のことを意味したが、これは後に、もう少し語義を広げて使用されるようになった。

 

やや俗化された解釈と言う気もするが、はてなキーワードにある定義がわかりやすいと思う。

 

マスターナラティブ。神、ユートピアイデオロギー等、皆がそれに巻き込まれており、その価値観を共有していると信じるに足る筋書きを提供してくれるもの。

 

これにより個人や全体の行動・思考を方向付けられ、人はこのもとで、無意識のうちに自分の行動を正当化している。 

 

ポストモダン論によって使用された言葉。大きな物語の崩壊によりポストモダンと呼ばれる社会構造が生まれたとされる。

大きな物語とは - はてなキーワード

 

特に平成が始まった1989年以降、社会主義イデオロギーの失敗/幻滅が日本でも強く意識されるようになる。バブル崩壊もあり、資本主義も社会主義も、日本で言えば、日本的経営も信じるに値しないと考えられるようになっていった。物語を信じて学歴社会を生き残って来た一部のエリートは挫折に身悶えして、オウム真理教のように、架空ではあれ、大きな物語を与えてくれる団体に活動の場を見つけるようなことも起きた。これはオウム真理教について扱ったときにも書いたことだが*2、資本主義のオルタナティブ(代替物)としての、『ニューサイエンス』『ニューエイジ』そして、まさにリオタールが言及した『ポストモダン』を主として標榜する『ニューアカデミズム』等非常に盛んだったのが80年代だった。日本では学生運動が廃れて、いわゆる大きな物語としての地位を失い、これらが方向を見失ったいわゆる『意識高い系』の学生の受け皿の一つになろうとしていた。オウム真理教はその一部がグロテスクに突出した形で現れ出た存在とも言える。ところが、あまりに衝撃的かつ醜悪だったこの団体に対する嫌悪感は非常に強く日本人の意識を根底から揺さぶり、宗教全般への忌避感はもちろん、このころまでに盛り上がっていたスピリチュアルな関心も、スピリチュアルな気配が感じられるニューサイエンスやニューエイジまでひっくるめて忌避され、排除されていった。

  

加えて、オウム事件とほぼ同時期に、世界の思想界を揺るがすソーカル事件が起きる。

 

19964月に、ニューヨーク大学の教授であった物理学者のアラン・ソーカルが、「境界を侵犯すること―量子重力の変形解釈学に向けて」という論文を作成し、それを「カルチュラルスタディーズ」の論集として知られる『ソーシャル・テクスト』誌に投稿したところ、その論文が同誌に掲載された。

 

内容は、フランスの現代思想関連の学者の文章を引用しつつ、そこに自然科学の用語を用いて論述したものであり、そのデタラメの内容も、自然科学系の高等教育を十分に受けた者なら指摘できるようなお粗末なものであった。

この事件の発覚により、当時のフランス現代思想に対して批判が浴びせられることとなった。

しかし、ソーカル自身は、現代思想の批判自体が目的なのではなく、批判の対象は、浅薄な知識と理解に基づいて専門用語を用いて権威づける行為であり、ポストモダンのみならず、その他の分野においても批判している。

ソーカル事件とは (ソーカルジケンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

 

ソーカル自身も述べているように、これはフランス現代思想自体の批判ではないとはいえ、少なくとも日本では、ポストモダン等の思想が空っぽで、こうした分野を研究している教授や学生も内容もわかりもせずに知的遊戯をやっているだけ、という批判を誘発したことは確かで、日本ではポストモダン等の思想系に限らず人文系のアカデミズム全体の衰退の契機となったことは否めない。

 

19世紀末から20世紀初頭にかけて、米国の哲学者リチャード・ローティーの言う『言語論的転回』という哲学上の大転換が起きた。ソシュールヤコブソンの言語学、それに影響を受けた構造主義、それ以降のポスト構造主義、さらにはハーバーマスが提唱する『コミュニケーション理論』に至るまで、非常に大きな流れとなり、ポストモダンの思想もその潮流を引き継いでいる。ポストモダンを標榜する思想家が特に強調したのは、『言語構築主義』と『相対主義』だが、これは思想や哲学の枠を超えて、文化全般にまで浸透することになり、道徳的な善悪や法的な正義についても、普遍的な真理はなく、多様な意見があるにすぎないとする考えが、いわば現代人の常識となり、日本でも、特に『ニューアカデミズム』以降、広く浸透した。その思想の多くは、生きる糧として人を鼓舞する思想ではなく、普通の人にはただの高尚な遊戯にしか見えず、遠からず流行は去るであろうことを予測する人も少なくなかった。そういう意味では、ソーカル事件は単なるきっかけにすぎなかったというべきかもしれない。

 

このような動向を総合した結果、日本では思想すること、宗教や道徳、倫理について議論することが、それ以前と比較しても、本当に少なくなってしまった。同時並行で、コミュニティの崩壊も進んだこともあって、人々の行動の動機も、『金銭的な多寡』や『損得勘定』しかなくなり、『損得勘定を超えた止むに止まれぬ行動』とか『価値や大切な人のために命をかける』というような規範的な行動を目にすることは滅多になくなってしまった利他主義に基づく社会規範的行動は、どんどん後退して、互恵性に基づく市場規範的な行動ばかりが前景化した。

 

金銭的な損得勘定は、ある程度経済的に満たされると(あるいは満たされたと感じると)、それ以上のインセンティブにはならないし、そもそも金銭的な損得勘定からは、内発的な動機は生まれない。普遍的な共通の価値観もなく、そこに多様な意見があるに過ぎないということになると、社会の分断化は否が応でも進まざるをえない。結果として、人をまとめたり動員できるのは、劣化した感情のみ、ということになってしまったヘイトスピーチやネットの炎上等はその典型的な現れと言える。

 

太平洋戦争の終結時でもそうだったように、日本人には大きな災害や戦争、挫折等で全て押し流された後の方が、むしろすっきりと切り替えて次の構築に意欲を持って立ち向かえる心理構造があり、またそのための性根も据わっていたと言える。ところが、政治改革に失敗し、世界のIT/デジタル化についていけずに経済でも負け、ギリギリ維持してきた安定が維持できなくなりそうな状態になった今でも、いっこうに反攻の気配がないのは、思想も宗教も倫理も空白状態になっていることが実のところ第一の原因だと思う。この状態では、オウムのような擬似的な、ハリボテのような物語に再び釣られる恐れがあることは前にも述べたが。バラバラになった人々を動員するのが、劣化した感情か、ハリボテのような物語か、というのは本当に困った状態で、これこそ、一番の危機というべきだろう。

 

 

 どうすればいいのか?

 

では、どうすればいいのか。どこから何に手をつければいいのか。何度も繰り返し述べてきたように、やはり、思想の立て直しから始めるしかないと私には思える。そのように言うと、いくら思想や哲学を追求しても、『道徳的な善悪や法的な正義についても、普遍的な心理はなく、多様な意見があるにすぎない』のだから無意味、という反応が返ってくるが、実のところ、それ自体が思想に囚われた発言であることを知るべきだ。ポストモダンを忌避して、遠ざけたにもかかわらず、ポストモダンの、もっといえば、『言語論的転回』以降の思想を無意識に受け入れ、その影響下にあり、泥沼の相対主義に振り回されている。それ以外の選択肢がありえない、との信念に固く囚われている。

 

だが、思想空白の日本ではほとんど話題にもならないが、世界的なポストモダンの流行の終了後に、すでに『言語論的転回』に変わる思想が模索されるようになってきている。今回は、もう詳しく述べる余裕はないが、ポスト『言語論的転回』として、少なくとも3つ、可能性を感じる『転回』が起きてきていてそれぞれ非常に興味深い(メディア・技術論的転回、実在論的展開、自然主義的転回)。個人的には、今は、実在論的転回に最も興味を惹かれているのだが、いずれも、行き過ぎた『相対主義』からの転回の可能性を感じることができる。これらを探求するも良し、あるいはもっと別の挑戦をするも良し、このことによって、まず、自らがどのような思想の影響下にあるかを知る、いわば自分を知ることになり、これが何より大きい。現代人は相対主義を標榜して、『何も信じていない』と表では言いつつ、実は、『言語論的転回』以降の思想を『信仰』していることに気づいていない。まずは、それに気がつくことが大きな第一歩だ。あきらめたり、立ちすくんでいる場合ではない。

 

 

 思想が未来を切り開く

 

思想が社会問題を切り開くに当たっても、不可欠である理由は、今やいくつもあげることができる。

 

1. 新しい技術と共生する未来を切り開く

 

次世代は人工知能のような科学技術が世界を変えていく。この流れはもう止めようがない。だが、人工知能にしても、それを応用した自動運転のような技術にしても、あるいは遺伝子操作のような技術もそうだが、それを社会に導入するためには、思想や倫理の大きな壁を越える必要があり、実は日本の次世代の技術による発展を展望するにあたり、この思想や倫理を練り上げる力が衰退していることが大きな障害の一つとなっている。このままでは、新しい技術を無意識に忌避して、遠ざけ、ますます世界経済の潮流から置いていかれてしまうことになりかねない。新しい技術と共生する未来を切り開くためには、そのための思想を構築し社会的な合意を形成していくことが不可欠だ。

 

 

2. 情報に関わる人間の権利の明確化

 

第三世代の人工知能は、大量の情報をフィードすることによって、スマートに進化していくため、大量の質の良い情報の確保の競争が世界的に起きている。ところが、人間に関する情報の取得は人間の尊厳や権利(知られない権利等)を侵害する恐れがあり、これとどのように折り合いをつけていくか、ということも重要な思想的課題である。しかも、一方で、極端な監視社会化を厭わず産業的な発展に邁進する中国のような国が、世界を巻き込んで勢力圏を広げようとしている今(アフリカ、中近東、アセアン等)、西欧や日本等の先進各国は非常に難しい選択を迫られている。

 

 

3. ポスト真実を超克する

 

また、昨今のポスト真実フェイクニュースの氾濫も、いわばポストモダン的な信念や思想が現実化しているとも言える。『道徳的な善悪や法的な正義についても、普遍的な心理はなく、多様な意見があるにすぎない』という信念があれば、『事実』も、相対的で操作可能な概念、ということになる。トランプ政権の高官が使って知られるようになった、『オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)』などという概念も、世間的には事実とみなされていない(嘘とみなされるべき)事柄を『それもひとつの真実だ』と述べるわけだから、まさに、ポストモダンの思想に大いに影響を受けているといっても過言ではない。これに同じ土俵(相対主義)で対抗しようとしても、議論は永遠に噛み合わないだろう。すなわち、この動向を打破するには、単に技術的にフェイクニュースを締め出すだけでは済まない問題が存在しているということだ。

 

 

越えがいのある壁

 

このように、平成の沈滞を打破する、というだけではなく、世界的な危機的な状況に対処するためにも、技術との共生が不可欠な未来を生きるためにも、今、思想の構築が非常に重要な課題になっている。もちろんそのためには立ちはだかる大きな壁があるが、乗り越える価値のある壁だ。ただ、残念ながら、まだ大半の日本人は、私の意見に耳を傾けることはないだろう。日本の思想空白の現実は甘くないことはわかっている。だが、このままでは早晩、いやでも本当の危機に見舞われざるをえない。せめて、その時にでも、私の意見を思い出し、発掘していただければ幸いだ。そして、私は、その時に備えて、自分にできる範囲で、この思想の問題に全力で取り組んでいきたいと考えている。

 

 

いかにも違和感がある生活満足度調査の結果をどう理解するか

 

 

現在の生活に満足している若者が83.2%?

 

内閣府が行なった『国民生活に関する世論調査』で、現在の生活に満足していると答えた人は、74.7%で2年連続で過去最高を更新したという。これを18歳から29歳までに限定すると83.2%というから、どのような背景があるにしても(あるいは質問の仕方に多少問題があったとしても)、これは本当に驚くべき数値だ。*1 数々のスキャンダルに見舞われながらも自民党の安倍政権の支持率が(特に若者の支持率が)下がらない理由の一端がここにあることを感じた人は少なくないはずだ。確かに、前政権の民主党の経済運営があまりに拙劣だったとの印象が若者の間にも強く残る中、彼らが現状維持が最善と考えるのも無理はないように思える。ただし、この調査結果に安堵できる人は最早それほど多いようには思えない。どう考えても違和感がある。この違和感の正体をあらためて現時点で明らかにしておく必要があることをむしろ強く感じてしまう。

 

 

所得と満足度は相関していない

 

内閣府は、この結果について、『景気や雇用状況が穏やかに回復していることなどが背景にあるのではないか』と分析しているという。確かに、雇用が大幅に悪化したりすれば、多少なりとも満足度が下がる可能性はあるにせよ、今ではこの生活満足度が所得とは相関しなくなっているのは、データを見れば明らかだ。

博報堂研究開発局【楽差社会】とは』より引用

http://www.qom.jp/about/develop.php

 

しかも、そのターニングポイントは2000年前後に遡る。それまでは、所得と生活満足度は比例関係にあり、所得が上がれば消費を拡大することで生活が豊かになり、満足度が上がるのは当然と見なされていた。だが、2000年以降は、所得が下がり続けるのに、満足度が上がり続ける、極端に言えば逆相関とでも言えそうな推移さえ見られるようになる。これを、博報堂研究開発局では、所得=モノを消費する力の差によって豊かさに差がつく『格差社会』から、モノではなく、個人の『楽しめる力』や『楽しもうという動機の強さ』によって『生活の豊かさ』に差がつく社会への転換が進んでいるととらえて、『楽差社会』と命名している。*2 第二次安倍政権の発足は2012年であり、政権の経済運営の良し悪しという軸とは別の、大きなトレンドの変化が起きていたことになる。

 

 

かつての古市憲寿氏の分析

 

所得に関係なく、生活満足度が向上し続け、戦後最も生活満足度が高くなっている現象については、社会学者の古市憲寿氏が、『絶望の国の幸福な若者たち*3(2011年)や『だから日本はズレている*4(2014年)等で取り上げて、非常に大きな話題になったのを覚えている人も多いと思う。当時、私もこのブログで取り上げた。この頃の古市氏の説明につき、当時自分が納得できたものをあらためてピックアップするとざっと以下の通りとなる。

 

 

① 若者が親と同居していてあまり貧しさを感じていないこと

 

② インターネットを利用するお手軽なコミュニティは花盛りで

     手軽に承認欲求を満たせるようになったこと

 

自己実現欲求や上昇志向から降りることで小さなコミュニティの

    比較しかしなくなり不満が減ったこと

 

④『今、ここ』にある身近な幸福を大切にする感性のことは

    『コンサマトリー(自己充足的)』と定義され、何らかの

     目的達成のために邁進するのではなく、仲間たちとのんびりと

     自分の生活を楽しむ生き方のことを言うが、90年代以降、

     若者のコンサマトリー化が進み、客観的な経済指標がどうあれ、

     コンサマトリーなマインドを持つ人が増えるほど満足度は

     上がることになった。

 

 

■ 現時点での再評価

 

2018年現在の視点でこれを再評価してみると、①は親のスネがかなり細りつつあるが、今のところ『最低限の衣食住の充足』という意味では相変わらず機能していると考えられる(ただしこれからもれると貧困に転落する恐れがあり、実際貧困に沈む若者が増えている)。

 

②はかなり怪しくなりつつある。平成30年の情報通信白書勉強会の報告でも述べた通り、日本ではインターネットはコミュニティのつながりを広げるツールとしてはほどんど利用されていないことがわかってきたからだ。*5

 

一方で、不特定多数ではなく、特定の知り合いの間に限定したコミュニケーションツールである、LINE等の利用は浸透しており(2017年7月時点の利用者数は7,000万人、1日に1回以上利用する率である、アクティブ率は72%)若者が狭いコミュニティーに閉じこもる傾向は一層顕著になっている。だから、③の説明は今でも有効だし、強化されたと言っていいかもしれない。日本だけでなく、海外でも、インターネットによって、人は自分が興味があって、心地よい情報しか目を向けなくなる傾向が助長されることがわかってきているから、コミュニティも、情報も、時を追うごとにその人の心地よいものだけに限定されていく。自分の比較の対象となる人も制限されるから、嫉妬したり、不満を感じたりすることも少なくなる。いかに大谷が大リーグで活躍しようと、一般人はそれに嫉妬心を感じたり、それによって自分に不満を抱くことはない。比較の対象にならないからだ(だが、身近な兄弟とか学校や職場の友人となるとそうはいかない)。

 

人が抱く不満は、その人の置かれる境遇の絶対的な劣悪さによるのではなく、主観的な期待水準と現実的な達成水準との格差によるとする、いわゆる『相対的剥奪』という理論があるが、インターネットは、主観的な期待水準を効率的/効果的に下げるツールとなっているとも言える。主観的な期待水準を下げて、自分に心地よく設定することができれば、結果として、不満が少なくなり、相対的な満足度も上がると考えられる。

 

④も③と同樣、特に若者はますます、コンサマトリーなマインドを持つ人が増えていると考えられる。身近な幸福/楽しさ、という点では、今ではスマホが一つあれば、かつては(インターネット本格導入以前には)考えられなかったほど、ほとんど無料で何でも楽しむことができる。音楽はSpotifyを使えば無料で無限と言っていいほどの楽曲を聞くことができる。Youtubeにも大量の楽しめるコンテンツが溢れている。月に1,000円程度払えば、NetflixなりHuluなりで映画でもテレビでも番組でも、延々と視聴することができる。これらのコンテンツをネタにクローズドで心地よく話ができる気の合う友人たちとLINEで連絡を取り合っていれば、お金をほとんどかけずに楽しくすごすことができる。かつて、音楽CDを買うにも映画を観るにもお金がかさんで、コンテンツ消費もままならない学生生活を送っていた自分を振り返ると、楽園のような環境であることは確かだ。先日も、30代の女性美容師と話しをしていたら、テレビ放映している日本や韓国のドラマをビデオで録り溜めていて、これを消化するのに忙しくて、自由時間のほとんどを使っているので、外出もあまりしないのだという。韓国ドラマ好きの友人たちとのコミュニケーションも楽しみなのだそうだ。

 

『コンサマトリー』な行為の対局にあるのが、『インストゥルメンタル』な行為であり、これは賃労働、営利活動、受験勉強、政治的等、外部にある目的のための手段としてある行為だが、『インストゥルメンタル』な行為を最上とする価値観を持つ中高齢層から見れば、『コンサマトリー』な行為はとんでもない時間の無駄遣いに見えてしまうだろう。だが、その中高齢層とて、80年代には、爛熟した高度消費社会の真っ只中にいた。皆、懸命に働いたが、それは所得を増やし、消費活動のレベルを上げるためだった。何も崇高な目的があったからではない。だから、バブルの頃に、働くより株や不動産投資で所得が増えるとわかれば、バブルの狂乱に踊った。

 

だが、当時すでに劇作家の山崎正和氏は著書『柔らかい個人主義の誕生』*6 で、高度消費社会では、人々は『より多く、より早く、よりしばしば』という生産至上主義社会の原理=効率主義に疲れ、欲望があまりに簡単に満足されてしまうことで欲望も快楽も苦痛に変質し、選択の対象の数が増えて、人生が迷いの連続になってしまうこと、そして、消費は効率主義の対局にある行動であり、充実した時間の消費こそ真の目的である行動だとして、消費を自己充足(コンサマトリー)に変換することが消費の最終的な成熟の姿であることを予言していた。当時、高度消費社会で翻弄されていた、今の中高齢層は、所得が増えて、消費が拡大しても、ある時点からは決して幸福でも満足でもなくなっていた。消費を通じた自分探しが流行った時期もあったが、早々と迷路に迷い込みかえって不安のどん底から抜け出せなくなっていた。それをこの目で見てきた私は、現状を若者の堕落と見るのではなく、消費社会が成熟した証と素直に見認める方が自然に思えてしまう。

 

このように、古市氏が分析した当時とは、今は若干環境が違ってきている部分もあるが、インターネットによるコミュニティの細分化の進展という補強材料をえたりして、トレンドとしての『若者の満足社会』は継続していると考えられる。

 

 

今後も安泰とはとても言えない

 

満足度が上がる社会は、それが下がってしまう社会に比べれば良いに決まっているし、『コンサマトリー化』のような社会の大きなトレンド変化は、『必然』と考えるべきだと思うが、ただ、その『満足』も、古石氏も述べているとおり、最低限の衣食住が満たされていることが前提だ。だが、それは今後とも安泰かと問われれば、そうだと胸をはることは誰もできないはずだ。

 

この議論が盛り上がった2010年代の初め頃と現在を比較すると、世界における日本の一人当たりGDPの順位は大幅に下がり、2010年の段階で世界で18位だった順位は、2015年には27位まで下落している。(2000年には2位!)日本のGDPが中国に抜かれたと話題になったのは、2010年だが、今では中国のGDPは日本の2.5倍近い。

 

中でも若者の収入の低下は顕著で、*7 生活環境は急速に悪化してきている。この数年、若者を取り巻く生活環境の悪化については、様々な形でクローズアップされてきているが(非正規雇用の拡大、ブラック企業、若年層の高い自殺率等)、中長期的に見ても、日本企業の年功序列/終身雇用制度の枠にそもそも入れない、あるいは早々とドロップアウトしてしまった若者は一生涯の貧困が余儀なくされるコースにはまり込んでしまっているように見える。*8 当然、結婚等の家族形成もままならない。すでに、2015年時点で生涯未婚率は男性で23.4%、女性で14.1%となっているが、*9この比率は今後さらに上がることが予想されている。つまり、現状が厳しいだけではなく、希望もない。もちろん、日本企業の王道のコースに乗れずとも、実力で外資系コンサル企業にでも入ってのし上がる、というような気合いの入った若者もいないことはないが、それはほんの一握りで、大半の普通の若者はそうはいかない。

 

いずれも、これを問題と捉えて、真剣に対処しないと小手先では改善が見込めない深刻な事態となりつつある。所得格差拡大は今の資本主義社会の必然だが、このままでは早晩、超富裕層とホームレスの二極化というくらいの格差にまで行き着きかねない。当然超富裕層はほんの一握りで、中間はほとんどなく、大半はホームレスに近い貧困層というあまり喜ばしくない未来像だ。何とかしてそうならないようにすべきだが、現状の『若者満足社会』では、若者を大きな改革勢力として糾合することは難しそうに見える。

 

東浩紀氏の発言への若者の過剰な反発

 

かつて、研究者/実業家の落合陽一氏は、Twitterで次のように発言して、注目されたことがあった。

 

  

まあ、これは中高齢層についてはかなり的を得ていて、私の周囲にも、今だに中国との差がまだ僅差で、日本経済は世界の中でも上位レベルを維持していると勘違いしている人がものすごく多い。だが、『満足社会』にいる大半の若者は、そもそもマクロ経済の衰退のインパクトには関心がないように思われる。

 

このツイートを受けて、思想家の東浩紀氏も、何件かのツイートを発信している。*10

日本のGDPがいまやアメリカの4分の1中国の半分以下で、一人当たりGDPは世界27位というのは、90年代に20歳代だったぼくの世代にとってまさに屈辱的な数字だけど、より屈辱的なのは、にもかかわらず日本最高とか言い募る若者がいっこうに減らないことだ。。

 

失われた10年なるものももう25年にまで延びてきて、若い世代は「失われていなかった時代」そのものを思い出すことが難しくなっている。戦争の風化以前に、豊かさの風化を止めないと国にはマジで沈没する。日本最高とか言う前に、一回でも外国行ってみればいろいろわかるんだけどね。。

 

日本が貧しくなっていることを問題だと思わない反応が多くて驚いた。金はあったほうがいいに決まってる。貧しくなったからといって国民が賢くなるわけではないし、実際まったく賢くなってない。若者の愛国と同じ無理な自己正当化だと思うけど。。が、論争はしません。。

 

東氏の懸念はもっともで、このままでは日本経済の底が早晩抜けてしまうと恐れがあるし、昨今の『愛国』が、ヘイトスピーチ等に見られるように、あまりよろしくない方向に向かってしまっているとの嘆きが背景にあることもよくわかる。

 

ただ、このツイートを見た若者の側反発は非常に強かった。正直なところ、過剰反応と感じられるくらいだ。どうしてそこまで強く反発するのだろう。みな現状に満足しているのなら、笑って(余裕を持って)見過ごせば良いはずなのだ。だが、どうやらそのような余裕はなさそうに見える。

 

古市氏は、当時、社会学者の大澤真幸氏の言説を引用しつつ、次のような趣旨の論点についても言及していた。すなわち、もはや自分がこれ以上幸福にはなれないと思えば、人は『今の生活が幸福だ』と答えるしかない。若者の幸福度(生活満足度)が急上昇しているのは、2000年以降、彼らが将来に『希望』を持てなくなったことの裏返しだ、と。

 

『希望』がないこと、若者の『不安感』が強くなっていることについては、いくつかのデータを見つけることができる。そのうちの一つに、若干古いが、2013年の13歳から29歳までの男女を対象に行われた、『我が国と諸外国の若者の意識に関する調査』がある。そのうち、悩みや心配事、将来像についてたずねた結果が特に興味深い。これを見ても、他国と比べて日本の若者は不満が多く、不安定で、『将来への希望がある』と答えた若者の割合は日本が最も低い。

 

不安・不満が多く先進国の中では最低水準 大人たちは「若者の意識調査」を他山の石とせよ | 出口治明の提言:日本の優先順位 | ダイヤモンド・オンラインより引用

 

東氏のツイートに反発した若者も、余裕などないのだろう。しかも将来に対する不安を一番に感じているのは、そういう若者自身なのだと思う。だが、自分たちにはどうしようもないという思いも強いに違いない。だから、若者を批判して、責任を問うているように見えてしまう東氏の発言に過剰に反応してしまうのではないか。

 

 

若者に責任があるとは思えない

 

実際、日本全体が貧しくなったことについても、若者の非正規雇用が増えて、将来が見通せなくなったことについても、若者に責任があるわけではなく、責任があるのは、現状の中高齢層にあたる企業経営者、および官僚や政治家の方だ。若者からすれば、自分たちこそ犠牲者という思いだろう。まして、その中高齢層から、『若者の物欲のなさが日本経済を弱体化させている』というような発言が出てくれば、怒り心頭で、炎上するのも当然とも言える。

 

この実例として、かつて自動車評論家の故徳大寺有恒氏が『女にモテる車を作れば若者の車離れは止まる』と述べて炎上したことがあった。*11  若者の側からすれば、日本が強い時代をイメージすることはもはや難しく、企業では正社員にもなれず、やむなく自己防衛として、過大な夢や目標を持たず、身の回りで楽しみを見つけて充足するよう、自助努力しているのだと言いたいのではないか。

 

 

対策案

 

では、どうすればいいのか。

これもまた、回答が大変難しい問いになってしまうが、何よりも若者の経済状態の改善には最優先で取り組む必要があることは言うまでもない。この課題の優先度が非常に高いことをあらためて強く感じる。そして、将来に希望が持てる人と将来に絶望している人が分裂する『希望格差社会*12 の解消に全力で取り組む必要がある。生活満足度が高いから放っておけば良い、というような意見は論外だ。ただ、その改善策として、『全員正社員化』、というような対策は短期的には一見良さそうに見えても、実際には、事態をさらに悪化させることになりかねない。『全員新卒の正社員で採用して年功序列で終身雇用』というこれまで多くの日本企業が死守してきたコースをさらに強化するのでは、すでに大量のこのコースから落ちこぼれた若者(すでに40代まで含まれている)を、さらに一層追いつめることになってしまう。まさに、希望格差社会を固定化してしまいかねない。

 

途中からでも、何度でも、やり直しがきく制度にあらためていかないとどうにもならない。まして、昨今では、日本はICTの導入や利用が世界の先進企業と比較して大幅に遅れる等の、企業競争力の低下が深刻化しており、この原因が高齢化して劣化した経営者と、『全員新卒の正社員で採用して年功序列で終身雇用』という制度にあることは明らかなのだ。

 

最近、他国と比較して、日本だけ修士や博士の取得者が減っていること(=研究力の低下)が話題になっていたが、*13 修士号や博士号を取ることで、入社年齢が高くなっても、その後の競争や待遇が不利にならない制度が普及しなければ、ますます先細るだけだ。現状では理系の修士等の一部例外を除けば、明らかに不利になる。まして、文系の博士号など、企業にとっては評価の対象どころか、マイナス評価でしかない。また、大学を出てからボランティア等で他国で働く経験をしたり、起業した後に大手企業に入るような、バラエティに飛んだ人材を増やしていくためにも、途中から参入しても不利にならず、何度でもやり直しがきく制度を浸透させていくことは不可欠だろう。特に昨今の若者には、社会貢献やボランティアには自然に共感して参加する者も増えている。その傾向を伸ばしてあげるような制度を定着させることは日本の国柄を上げることにも貢献するはずだ。

 

 

まだ分析は足りていないかもしれない

 

今回も、問題だけ先にクローズアップして、その対策まで熟考する時間の余裕がなく、しりつぼみの論考となった感があるが、本件は日本社会の現状を理解するにあたり非常に重要な論点であり、また、現代のマーケティングや商品開発者にとっても、何としても噛み砕いて理解しておく必要がある事項だと思う。今回の私の意見に不満があったり、不足を感じる人は、是非このテーマを引き取って、分析をもっと先に進めて発表してほしい。私も引き続きテーマとして取り上げて論考を深めて行きたいと思う。

 

『水木しげるロード』が地域振興の星として輝き続けるためには

 

リニューアルした『水木しげるロード

 

私の出身地は鳥取県境港市なのだが、ここは、かつては、日本海側の有数な漁港という以外には、これといって特徴のない土地だった。ところが、昨今では、境港市出身である漫画家の故水木しげる氏の作品をテーマとしてつくられた『水木しげるロード』が大当たりで、全国規模と言えるレベルの知名度を得ており、すっかり境港市の『顔』になった。ちょうど本年の7月にリニューアルして、本格的にライトアップされていたので、写真撮影しつつ夜の『水木しげるロード』を歩き回って見た。

 

 

  

 

 

水木しげるロード』とは

 

水木しげるロード』のことをご存じない人ために、以下にWikipediaの該当部分を引用して紹介しておく。

 

水木しげるロード(みずきしげるロード)は、日本の鳥取県境港市にあある商店街の名称。観光対応型商店街であり、漫画家・水木しげるが描く妖怪の世界観をテーマとした観光名所として日本では広く知られている。正規の日本の妖怪像として文化的価値も認知されている。

境港駅から本町アーケードまでの全長約800メートルの間に、水木の代表作『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターを中心として日本各地の妖怪たちをモチーフとした銅像など多数のオブジェが設置されており、商店街は、同じ主題、共通のイメージコンセプトをもって思い思いの販売・サービスを展開する各種店舗・施設の集合体に成長している。

水木しげるロード - Wikipedia

 

通過型観光地から滞在型観光地へ

 

今回のリニューアル(ライトアップを含む)については、個人的には、長い間欠けていたピースがやっとはまって、とうとう『完成』と言える段階に来た、というくらいの感慨がある。やはり妖怪は夜にこそ映える。

 

これまで、せっかく『水木しげるロード』に多くの観光客が訪れるようになったのに、境港は宿泊施設が貧弱で、昼間に水木しげるロードに訪れた観光客も夜になると、近隣の米子や松江に行ってしまうため、『通過型観光地』というありがたくない呼称をいただいていた。いかに昼間に人が溢れていても、夜にはいなくなるのでは、夜の『水木しげるロード』のために予算を割く意味がない。だが、境港市としてもこれは承知の上で、『滞在型観光地』化に向けて尽力してきたと聞く。そして、2016年2月には、その対策の一貫として最も直接的な効果が見込めそうな、本格的なホテル(客室数195)である、『天然温泉 境港 夕凪の湯 御宿 野乃』*1 がロードの出発点であるJR境港駅の最寄りに完成した。『水木しげるロード』のライトアップの充実は、ホテルの完成と相補的な対策ということになるのだろう。

 

幸い、ホテルは現在までのところ稼働率の推移も順調だという。また、地元民にもリニューアルのライトアップは好評で、私が見た限りだが夜の観光客の出足も悪くない。このようなインフラが整備されれば(もちろん飲食店の充実等残された課題も多いが)、今後の対策にも相乗効果が見込めるはずだ。昨年の夏(2017年)は、スマホゲームのポケモンの大流行もあって、リニューアル前の薄暗い中ではあったが、夜の『水木しげるロード』もポケモン狩りのゲーマーで溢れていた。ゲーマーの顔がスマホに照らされて青白く光り、この大量の青白い光は、壮観を通り越して荘厳ですらあった。今後もこのような(ポケモンのような)イベントなり企画があれば、昨年以上に街全体が賑わうに違いない。関係者の尚一層の努力に期待したいものだ。

 

 

驚くべき発展

 

それにしても、かつては消滅寸前だったアーケード街がここまで変貌を遂げるとは、まったく想像を絶する出来事というしかない。この商店街、私も子供の頃、任天堂のトランプや花札を買いにいったり、クリスマスプレゼントの類を物色に行ったりして、それなりに思い出もあるのだが、その思い出につながるものは、今ではほとんど全てなくなってしてしまった。それでも、閉まったシャッターだらけとなり消滅してしまう危機にあったことを思えば、慶賀の至りというべきだろう。

 

境港にとって本当に幸運だったのは、『ゲゲゲの鬼太郎シリーズ』を中心とする水木作品が大変なロングランヒットとなったことだ。紙芝居物語で『墓場の鬼太郎』が登場したのが1954年というから、そこから数えればすでに64年ということになる。『水木しげるロード』が立ち上がった1993年以降でも、1996年から第4期、2007年から第5期、さらには水木氏の逝去後も2018年には第6期のテレビアニメが開始され、いずれも大人気を博しており、こうなると、一過性のブームなどではなく、国民的作品として揺るぎない地位を得ていると行っても過言ではあるまい。テレビアニメに相前後して封切られた、映画『妖怪戦争』(2005年)、実写版『ゲゲゲの鬼太郎』(2007年)等も後押しとなって、水木しげるロードの訪問者は順調に増えていった。

 

加えて、決定的と言っていいほどのインパクトがあったは、2010年度上半期に、NHK連続テレビ小説の枠で放映された、『ゲゲゲの女房』(水木しげる氏の妻、武良布枝氏が著した自伝エッセイを原案としたテレビ番組)で、その年(2010年)の観光客は過去最高の372万人に達し(それ以前の過去最高の倍)、その後、番組終了の反動はあったものの、現在でもコンスタントに200万人規模の観光客を集める中国地区を代表する観光地の一つになった。25年前にわずか銅像23でスタートした当時を思えば(現在では177体)、誰憚ることのない大成功と評価できるはずだ。(評価と言えば、2011年の『8回関西元気文化圏賞・特別賞』、『第3観光庁長官表彰』はじめ、様々な賞も受賞している)。キャラクターを使った商店街活性化の成功例という以上の、これからの日本の地方のあり方を指し示す、象徴的な場所となったと言っていい。

 

 

アジア都市との交流

 

象徴的という意味では、今また、新たな『風』が吹きつつある。もともとこの土地は港町ということもあって、ロシア人や中国人等の外国人は多かったが、最近では、大型のクルーズ船が寄港して、今日本全国で起きているブーム、すなわち、大量の中国人観光客も押し寄せているようだ。2016年は33回の寄港があって、観光客数3万9,500人(前年の倍)、2017年には、計60回、観光客数6万6,000人と、倍々ゲームが続いている。

クルーズ客船 コスタ・ネオロマンチカ 境港入港 (2-Jul-2017) Costa neo Romantica - YouTube

 

また、境港市の中心部からでも、車でわずか15~20分程度の場所に、空港(米子鬼太郎空港)があるのだが、アジア7都市(ソウル、上海、台北、高雄、香港、バンコクウランバートル)と直行便でつながっている。(海外ではないが、那覇宮古島、札幌といった国内の観光地との直行便もある。)このように、東京や京阪神といった大都市を経由せずとも、興隆するアジア各国の都市と直接結びついている。地方が直接海外の都市と結びついて経済圏を形成していく方向は、地方都市の未来のあり方として注目されてきているわけだが、単なる経済交流や自然観光だけではなく、文化的な交流拡大の可能性を併せ持つ境港市は、その点での実験地としても、貴重な存在と言える。

 

中国を含むアジア全域で、日本のサブカルチャーは日本人が想像する以上に人気がある。しかも、特に中国では、妖怪、幽鬼、神仙等の不思議なものは『志怪』と総称され、六朝から清の時代に至るまでおびただしい数の『志怪小説』が書かれている。日本の奇談・怪談を扱った古典(『今昔物語、上田秋成雨月物語』等)のほとんどはこの影響をうけているという。水木しげる氏が量産した妖怪についても、中国由来のものがかなりあることは水木氏自身、どこかで語っていた記憶がある。要は、水木しげるワールドはアジア各国で広く受け入れられる要素が多分にあるということだ。

 

 

今後の発展に不可欠のコンセプトワーク

 

このように書いてくると『水木しげるロード』は如何にも順風満帆で、これからも安泰という印象を与えることになったかもしれないが、そうではない。確かにここは、ある種の『長く続く秘訣』に恵まれたとも言えるが、それは多分に水木しげる氏の作品群、および水木しげる氏自身のキャラクター(比類のない強烈な個性、おおらかな人格、特異な思想等)が核となって形成されていることは言うまでもなく、その水木氏が2016年に逝去された影響はやはり大きいと言わざるをえない。水木氏亡き後は、残された関係者はこれまで以上に、水木氏の作品やエッセイ等を読み込んで、この成功の秘訣をあらためて解読し、言語化していくことが不可欠だ。特に、異世界のもの=『妖怪』が主人公であり、水木しげる氏の思想は昭和の常識人の枠を完全に飛び越していることもあって、これは言うほど簡単なことではない。だが、この作業を経てコンセプトワークが徹底できるかどうかが今後の『水木しげるロード』の死命を決すると言っても言い過ぎではない。通常の観光業の常識的な策は、この言語化の後に、取捨選択していくことが望ましい。この順序を逆転させてはいけない。そうでなければ、この場所の成功の秘訣を台無しにしてしまいかねないからだ。

 

私の言う言語化というのはどういうことを言うのか。私が帰省中に水木しげるロードを散策しつつ思いついた程度なので、質的にも賛否はあろうし、量的にもこれではまだ足りていないと思うが、いくつか実例を示して見たいと思う。どちらかと言えば抽象度高めの『水木作品・水木思想』分析で、銅像の造形の素晴らしさとか、地元の協力体制等の目に見えやすい成功理由には言及していないことはお断りしておく。数多ある他のキャラクター利用の商店街活性化とは何が違うのか。多少なりとも実地で働くプランナーの人達の参考になれば望外の喜びだ。(あるいは、そんなことはすでに知っているということであれば、頼もしい限りだ。)

 

成功の理由/その言語化

 

1. 野生の思考

 

これはすでに別のところで書いたことでもあるのだが、人類学者の中沢新一氏が著書『ポケモンの神話学』で述べているポケモンの成功の理由は、ほぼそのまま『水木しげるロード』の成功例の説明として当てはまると考える。自分の書いた文章で恐縮だが(そして少々長いが)以下に引用させていただく。

 

人間には、心理学者のジークムント・フロイトのいう「死の欲動」、あるいは哲学者で精神科医ジャック・ラカンがいう「対象 a」がある。「対象 a」とは、いわば「ことば」に されない、意識や知覚の混とんとした領域である。子どもは特に、この「死の欲動」に容 易に突き動かされたり、「対象 a」に強く誘惑されたりするが31ポケモンはそうした子ど もたちの無意識の欲動を知的に昇華する働きをして、カオスを秩序に変える場となる。こ れを中沢は、ポケモンによって子どもの衝動は、人類学者のレヴィ=ストロースが同名の著 作で明らかにしてみせた「野生の思考」に姿を変える、という。 野生の思考とは、科学的思考よりも根源にある人類に普遍的な思考だ。しかし、ただの 未開の心性ではない。ポケモンの最大の特徴は、捕獲したモンスターを他人とやりとりす る「交換」「贈与」にあるが、この贈与こそ「野生の思考」の中心をなす現象である。野生の思考に深い関心を寄せてきた人類学は、人の感じる豊かさや幸福の感情は「贈与」に 関わりがあると認識してきたという。このような、商品の原理だけによらずに人と人との 関係がつくられる世界が、ポケモンによって子どもたちの間で息を吹き返している、と中沢は指摘している。 日本でなければ、ポケモンのように洗練されたゲームはできなかったと中沢は断言する。 百鬼夜行図」や「ウルトラマン」など、日本には他にも「対象 a」の造形と処理につき、 独特の達成をしてきた文化を持つ。日本文化は「野生の思考」の痕跡を身近に残し、この 普遍的だが、普段は人々の意識下に沈潜する「思考」をうまく顕現させる独自の特性がある、という。

http://www.nira.or.jp/pdf/201712report.pdf

 

日本文化は「野生の思考」の痕跡を身近に残し、この 普遍的だが、普段は人々の意識下に沈潜する「思考」をうまく顕現させる独自の特性がある』というところ、まさに水木しげる氏が媒介となって、『野生の思考』を顕現させたのが『ゲゲゲの鬼太郎シリーズ』等の水木作品であり、『水木しげるロード』なのだと言える。そして『野生の思考』は日本だけではなく、人類の心の古層にある普遍的な思考であり、そういう意味では、水木作品も『水木しげるロード』も中国を含むアジア各国の人々の心にも、今以上に大きく共鳴する可能性を秘めている。

 

 

2. 自然との調和/すべての存在の肯定

 

近代は、近代以前には『魔法』と捉えられていたことを科学で解明する、いわゆる『脱魔術化』が起きて、空間から人間に不要な異物がすべて排除されてきた時代とされる。日本でも、明治期以降ヨーロッパ近代思想が席巻したから、当然、妖怪などの異物は無きものとして排除されてきた。キリスト教の影響も相まって、動植物も人間が使役するものの地位に落とされ、役に立たないものは排除されてきた。その果てに、人間でさえ国家に不要であれば排除するというような優生思想が生まれた。

 

だが、その近代は明らかに行き詰まり、特に使役が行き過ぎたことによる自然環境の劣化を招き、気象の変化等により思わぬ自然の反撃を受けることにもなった。それどころか、西洋的な合理では説明できない知識や認識や感情をあまりに安易に切り捨てて言った結果、人間の無意識に広がる衝動は抑圧され、その結果、暴発したり、心の病気や窮乏化を招くことにもなった。昨今では、魔法がとけた時代の行き詰まりを憂慮し、『再魔術化』の必要性を説く社会批評家のモリス・バーマンのような人も出てきているが、水木しげるロード』は、脱魔術化による行き過ぎた近代を反省し、人の心を再活性化して潤す『聖地』となっている。その点、境港のある弓浜半島は古来、『黄泉の島』と呼ばれて、この世とあの世の境界があるとされてきた場所だ。再魔術化が行われる『聖地』としてこれほどふさわしい場所もない。

 

人が生きる空間は人間だけではなく、動植物を始め様々な生物が生きる空間でもあり、さらには妖怪や異形も住んでいる。日本文化にも影響の色濃い、アニミズムで言えば、全ての存在には神や霊魂が宿っており、無下に排除するなどとんでもないということになる。すべての存在の背後の神聖を認めて尊重し、過度な人間中心主義を反省して謙虚になるべき、という包摂性のある思想は、実は排除一辺倒の近代思想よりも持続性も普遍性もある。水木しげるロードに溢れる妖怪たちは、そのような思想の価値を無言で問うているとも言える

 

 

3. 今この時を生きること

 

近代、と言う意味ではもう一つ非常に特徴的なのは、人間の一回限りの人生を、目的や理想(国家であれ個人であれ)のために耐え忍ぶ手段としてきたことだ。日本でも、戦前の軍国主義はもとより、戦後の高度成長期のモーレツ社員に至るまで、その点では一貫した行為態度を見て取ることができる。水木しげる氏の同時代の漫画やアニメの主題もかつてはその種のものが溢れていた。例えば、『ゲゲゲの鬼太郎』よりも梶原一騎氏原作の『巨人の星』等のスポ根もの(スポーツの世界で根性と努力によってライバルに打ち勝っていく主人公のドラマ)の、『禁欲的な男たちの苦行物語』のほうがはるかに流行っていた時代があった。だが、それは時代の変化の波に飲み込まれて衰退してしまった。今は、一回限りの生を最大限生きること、そのためにどう生きるかを考えることがはるかに重要になっている。それを水木氏は半世紀以上も前から一貫して主張してきたとも言える。『スポ根』ものが衰退して行く一方で、ずっと以前から光り輝き続けていた水木作品の存在感がどんどん大きくなって行った。

 

水木氏の思想という点では、『水木さんの幸福論』という本に、『幸福の七か条』というのがあって、これが何とも含蓄がある。戦前や高度成長期にはまったく受け入れられなかったと考えられる思想だが、今ならその真意を理解できる人も(特に若年層には)増えているはずだ。

 

幸福の七カ条

第一条
成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

 

第二条
しないではいられないことをし続けなさい。

 

第三条
他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。

 

第四条
好きの力を信じる。

 

第五条
才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

 

第六条
怠け者になりなさい。

 

第七条
目に見えない世界を信じる。

 

『水木さんの幸福論』*2 より引用

 

 

この第六条の『怠け者になりなさい』という格言は、水木氏の銅像とともに、しっかりと刻まれて屹立し、水木しげるロードに訪れる観光客に感銘を与えている。これを見た若い人の感想として、『ダメな自分でも生きていけるのではないか、という希望を持つことができた』というのを見たことがあるが、老荘思想に匹敵する奥深さがありながら、水木氏の人間にも妖怪にも平等に注がれる暖かな思い遣りが伝わってくる。だからこそ、日本中(あるいは世界中)から人が集まってくる磁力も生まれるのだと思う。

 

kimama1hさんの投稿写真

外国人も熱狂! ゲゲゲの鬼太郎に会いに、妖怪ロードへ行こう |

 

 

活性化する地方都市のモデルに!

 

コンセプトワークが完全にできたからといって、ホテルや飲食店等のファシリティの充実等、物理的な策が伴わなければ、観光地としての成功は覚束ないことは言うまでもない。だが、巨額の投資で『箱』が整っていても、魂が入っていないために寂れてしまう観光地は山ほどある。水木しげるロードにはその轍を踏まず、これからも地方都市に忍び寄る衰退の懸念をはね返し、地域振興の星として輝くことを期待したい。

 

*1:https://www.hotespa.net/hotels/sakaiminato/ 

*2:

水木サンの幸福論 (角川文庫)

水木サンの幸福論 (角川文庫)

 

平成30年版情報通信白書読書会/敗北の兆しと希望の消失

 

 

 

先日(8/6)、国際大学GLOCOMに於いて『平成30年版情報通信白書読書会』が開催されたので出席してきた。

 

 

イベントの概要

www.glocom.ac.jp

 

 

概観(感想)

 

◼︎ 明らかになってきた大変な現状

 

 

本年のこのイベントは、ここ数年と比較して異例といっていいタイミングおよび環境下で行われた。というのも、白書が例年より早い段階でリリースされ、しかも、アマゾンで無料公開されたこともあり、一足早くそのデータの分析に着手してコメントを述べたブログが非常に大きな話題となり、そのこともあって、情報通信白書自体が『話題の書』となって、大量にアマゾンからダウンロードされることになった。

 

 

そのブログ(永江一石のITマーケティング日記)の記事とその後に飛び交った議論、および今回の説明をあらためて聞いた上で、見えてくる日本のICTに関わる『現況』を一言でまとめれば、次のように言い表せるように思う。

 

『迫り来る本格的な敗北の兆しと希望の消失』

 

話題になったブログの筆者の永江氏にも、私を含む多くのウオッチャーにとっても、昨今では、ICTに関わるあらゆる局面で、ほとんどの日本企業が抜き差しならないほど米国や中国等の先進企業に遅れを取っていることは共通認識となりつつあるわけだが、白書のように比較的、冷静で抑制のきいた文書からでさえ、どうにも言い訳のしようがないほど、そのことが見えてきてしまう。

 

 

◼︎ ICTの導入自体進んでいない

 

 

日本生産性本部が2017年12月にリリースしたレポートによれば、日本の時間あたりの労働生産性は、OECDに加盟する35か国中20位で、先進7か国の中では最下位だったという。しかも、データの取れる1970年以降、37年連続で20位前後に留まり、先進7か国中最下位の記録も更新し続けているという。*1

 

 

少子高齢化のトレンドが不可避となった日本では、生産性の向上は、他のあらゆる経営課題の中でも最優先で取り組むべきものの一つであることは言うまでもなく、その対策としての有効性が最も高いと考えられるICTの活用もまた不可避とされているはずだ。今回の白書では、その具体的な取り組み事例の一つとして昨今話題にあがることの多い、『テレワーク』の導入に関して多くのページを割いている。特に『テレワーク』について言えば、子育てや家事に忙殺されがちな女性の労働力の活用を促進するという意味でも有効で、社会的な期待度も高い。

 

 

だが、活用どころか、ビジネスICTツールの導入自体が、海外と比較して日本は非常に低く、遅れていることが調査結果でも明らかになっている。『テレワーク』についても、積極的に導入した企業はその成果を実感しているにもかかわらず、そもそも導入自体に消極的な大多数の日本企業の姿が透けて見えてくる。

 

 

 

比較的ICTの導入が進んでいる企業でも、日本企業の場合、既存の業務慣行や組織構造をそのままにしたままで、業務効率向上のみを意図する導入が多数との印象がある。だが、ICTを最大限活用するためには、今日のデジタル化/ICTが持つ爆発的な威力(指数関数的に進化する関連技術利用のためのベースづくり、ビッグデータ利用の極大化、外部経済やオープンモジュールの最大活用等。人工知能ブロックチェーンも当然その中に含まれる)を理解して、組織もビジネスモデルもそれに合わせて持続的に変革していくことが必要だ。そのことを理解して、短期間に爆発的に成長したのがGAFAGoogleAppleFacebookAmazonの頭文字を集めた呼称)であり、ユニコーン企業(評価額が10億ドル以上の未上場のスタートアップ企業)ということになる。現在中国企業からは続々とユニコーン企業が誕生しているが、日本企業の姿はほとんど見られない。世界の競争は『デジタル化/ICTの爆発的な威力』の活用を巡って繰り広げられているが、恐るべきことに、日本企業のほとんどはその土俵に乗るどころか、最も基本的な導入や利用自体、他国と比較して大幅に遅れていることがわかる。世界の先進企業と比較すると、周回遅れどころか、何周も遅れていると言うしかない。

 

 

◼︎ 経営者の高齢化との相関

 

 

では、どうしてそんなことになってしまったのかと言えば、これも永江氏がブログ記事で述べている通り、日本の経営者がますます高齢化してきていることと無縁とは思えない。永江氏の分析の中にも出てくるが、東京商工リサーチの調査によれば、2017年の全国の社長の平均年齢は前年より0.26歳のびて、61.45歳となり、調査を開始した2009年以降で最高年齢を更新したという。また、減収や赤字などの業績悪化と社長年齢を比較すると、業績悪化と年齢上昇に一定の相関があることもわかったして、高齢化がビジネスモデル革新や生産性向上への投資意欲を抑制し、業績悪化に拍車をかけているようだ、とも述べている。*2

 

白書の調査でも、60歳以上では、はっきりとICTリタラシーが落ちることが示されている。

 

 

もちろん、経営者の長年の蓄積と経験がまったく役に立たないとまで言い切るつもりはないし、様々な局面で彼らの判断力が生きるケースはあることも否定はしない。テレワークやメールあるいはSNSより、対面コミュニケーションが重要、というようなよく出てくる意見についても、そういう局面もあることを認めるのはやぶさかではない。だが、今世界で起きていることを勘案すると彼らにとって不幸なことに、タイミングが悪すぎる。世界ではICT分野を含む幅広い分野で革命的と言っていいほど日進月歩で技術が進歩しており、その理解と活用の度合いが企業の業績および将来の生き残りの成否と直結してしまっている。そういう意味では、日本の場合、最悪のタイミングで経営の高齢化/硬直化が起きていると言わざるをえない。

 

しかも困ったことに、いまだに転職すると、よほど本人の才覚や運がなければ通常は生涯年収が下がる構造が残り、終身雇用的なセンチメントが濃厚に残る日本では、上位者の横暴に下位者が逆らいにくくなっているだから、内部では、抑圧された不満が高まっている組織が今では本当に多くなっている。その不満が暴発するような形で表に出てきているのが、昨今の日大アメフト部の事件や、ボクシング協会の会長への不満、あるいは頻発する各種スポーツ界のセクハラやパワハラ告発なのだと思う。体育会カルチャーは旧来の日本企業にも深く浸透しており、日大アメフト部で見られた構図は多かれ少なかれ日本企業ならどこにでもあることは、日本企業の中にいる人ならだれでもわかっているはずだ。

 

 

だが、そうであれば、そんな古臭い経営者に見切りをつけて、起業して自分の会社を起こせばいいだろうということになるが、これは古くて新しい問題で、日本では、米国や欧州と比較して、企業のリスクが高すぎる。破産した場合は非常に過酷で、やり直すことは事実上不可能と言っていいほど難しいし、世間の冷たい視線も痛い。資本市場は弱く、起業家に対する世間の評価が低いこともあって良い人材を集めることも難しい。日本の若者にとって、相変わらず大企業に入って一生安泰に過ごすことが一番リスクが小さく、総合的な経済価値は大きく、世間体も良いとの認識は少しも揺らいでいない。

 

 

◼︎ SNSを利用せず人を信用しない日本人

 

 

ただ、そのような不自由な日本社会においても、インターネット、特にSNSのようなツールの利用で、様々な人との『つながり』を広げるチャンスが生まれ、特に、地域コミュニティも、企業コミュニティも衰退の一途にある現在では、これを補完する役割としてのインターネットに対する期待も非常に大きく、ここ何年か白書もそれを理解した上で、様々な分析軸を探求してきたと言える。

 

ところが、その点でも実情は悲惨で、日本では、インターネットがそのような『つながり』を広げるためのツールとしては、ほとんどと言っていいほど利用されていないことが白日の元にさらされてしまった。それこそが、永江氏が一連の記事の先頭に、今回の情報通信白書を元に分析してまとめて、世に多大なインパクトを与えた記事だ。

平成30年版情報通信白書による、日本人はソーシャル全然利用してないの図とその理由 | More Access! More Fun!

 

 

 

永江氏の記事、およびその根拠となっている情報通信白書の該当部分をあらためて見ると、日本でも使われている代表的なSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス。不特定多数とのコミュニケーションが可能)である、FacebookTwitterは、実際に使っている人は、3人に1人、そのうち、自分から発信している人は、わずかに、Twitterで23%、Facebookは17%しかいない。実際にトラブルに見舞われた人は海外との比較でも非常に少ないのに(4人に1人以下。米国では4人に3人!)リスクを過剰に恐れ、オフライン、オンラインを問わず、人に関する信頼度が他国と比較して著しく低い。これでは、SNS利用による社会的な意味での成果はほとんど期待できないとしか言いようがない。活用しているのは、一部の『エリート』『勝ち組』のみ、というのが実態のようだ。しかも、『勝ち組』にとっても、日本のSNSの使用に関わる環境は良好とは言えない(炎上や誹謗中傷の多発等)。今になって、経営コンサルタントのクロサカタツヤ氏の『SNS決別宣言』が思い起こされてくる。*3

 

 

 

◼︎ しぼむ<夜の世界>と希望の消失

 

 

思えば、インターネット本格導入後、日本の若者にも日本なりの活力とパワーが漲っていた時期もあった。欧米のケースとは全く違うが、インターネットの利用に関しても、日本独自の活用が爆発的に広がっていた。日本では、政治や経済/ビジネスでの利用より、サブカルチャーやアングラ的な利用がそれこそ過剰なほどに広く深く浸透し、実際、他国ではあまり見られない日本独自のインターネット関連のサービスを続々と生み出していた。(2ちゃんねるニコニコ動画、pixiv、モバゲー等)そして、ある種の『日本的な生態系』とでも言える世界が怒涛の勢いで広がっていた。この状況について、かつて評論家の宇野常寛氏は、『〈夜の世界〉(=サブカルチャーやインターネット文化)の想像力が、〈昼の世界〉(=政治や経済)を呑み込み、21世紀の〈原理〉となる』とまで述べていた。*4 私自身、この<夜の世界>の想像力/パワーこそ、<昼の世界>で衰退が進む日本の起死回生の反撃を可能とする母体となりうると考えていた。

 

 

しかしながら、そのパワーもいつの間にか風船から空気が抜けるように萎んでしまった。<昼の世界>の秩序を危うくしかねないような、<夜の世界>の『無法で怪しいが新しいものを創り出す旺盛な活力』もすっかり失われ、<昼の世界>の秩序の中に組み込まれてしまった。<夜の世界>の主役だった『荒ぶるオタク』も、すっかり大人しい、いい子になり、それでも不満をためて棘が抜けない一部は、『ネトウヨ』等に身をやつすことになってしまった。そのことと、今回の調査結果とはリンクしていると考えられる。そして、私には日本に残されていた希望が『消失』してしまったように見えてしまう。

 

  

◼︎ 対応策

 

 

ではどうすればいいのか。

 

この問いに答えることが、今非常に難しいことを覚悟の上で言えば、何よりまず、現状の正確な日本の姿を可能な限り多くの人と共有して、問題の本当の所在を明らかにすることが第一歩だろう。現状の最大の問題点の一つに、真に解決すべき点について意見がまとまらず、それどころか、社会が分断されつつあるため、基本的な議論さえかみ合わなくなっていることがある。

 

会社の異動(転職)が不利にならないような制度設計にあらためて根本的に取り組むことも不可欠だ。黙ってそこに留まるのが一番得、というような現状が日本中で日大アメフト部の学生のような『気の毒な人達』を大量生産していることはやはり現代の日本の構造的な欠陥というしかない。劣化した経営者にNOを突きつけるために、日本の場合、株式市場も社外取締役もほとんど機能しないことはもはや明らかになった中、優秀な人材が大挙して企業を離れることほどインパクトのある行為はない。

 

東京医大で発覚したような構造的な男女差別の徹底的な払拭も、この際、本気で推し進めた方がいい。男女差別は、実のところ企業を含む日本社会の隅々にまで浸透しているが、これは結果的に女性の能力を生かせないという意味で、企業業績の足を引っ張り、ひいては日本の国力の衰退につながる。だから、建前では女性の活用を目標に掲げる企業も増えているが、『そうはいっても本音のところ難しい』、というのが大抵の経営者の言い分だろう。現状の組織や経営手法をそのままにしていれば、難しいのが当たり前だが、海外企業のように徹底して取り組めば女性の力が大幅に引き出せることは数多の実例が示している通りだ。

 

 

例えば、テレワークもそうだが、男性の出産休暇等を本気で導入しようとすれば、姑息なパッチワーク的な施策ではすまず、徹底的な改革が不可欠になる。だから、経営者の言い訳を封じ、本気で取り組ませる必要がある。そのためには、『ポリティカル・コレクトネス』を連想して少々気がひける部分もあるが、セクハラやパワハラは社会的に決して許さないという強い姿勢を示していくこともあらためて必要かもしれない。いずれにしても、もはや日本には後がないことを認識する必要がある。

  

まあ、ここでそのような意見を断片的に述べたところで、真意も伝わらないだろうし、ありきたりで、蟻地獄のような出口のない議論を延々と繰り返すだけになる、とのご批判もあろうかと思う。この点、あたらめてもう少し自分の思考を整理した上で、提言としてまとめて見たいと思う。また、ご参考に過去に私が各年の情報通信白書についてまとめた記事を貼り付けておくので、よろしければ参考にしていただきたい。

 

情報通信白書を読んで考えてみたこと - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

 

情報通信白書読書会/日本の問題はもっと深刻では? - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

 

 

 

 

 

 

 

杉田水脈議員の発言問題から見えてくる日本の分断と困難な未来

 

燎原の火の如く広がる批判

 

自民党杉田水脈衆院議員による『新潮45』への寄稿文「『LGBT』支援の度が過ぎる」が多くの批判を集めている問題で、私も言いたいことは山ほどあるので、すぐに何か書いておこうと思ったのだが、少し自制して、どのような意見が出てくるかまずできるだけ見てみることから始めようと考え直した。というのも、この発言を巡る反応が『批判と擁護の複雑な諸相』となるであろうことはあらかじめ予想できたし、その『諸相』は来るべき近未来に、社会を大きく揺りうごかす問題への対応能力をはかる指標となると考えたからだ。また、それが私が最近非常に気にしている問題について述べるきっかけになるようにも思えた。

 

本件は、先ず、名指しされた形の『LGBT』の怒りが燃え上がり、早速に大規模(5,000人!)なデモ隊となって、自民党本部前に押し寄せた。加えて、寄稿文を読むと、子供を産んで国家に貢献できるかどうかを『人間の生産性』と規定した上で、その尺度で人間の価値の軽重をはかろうとしており、そこから、『LGBT』だけではなく、子供が産めなければ誰であれ生産性が低いとする意図が読み取れ、そうなると、すべての社会的弱者ばかりか、子供が欲しくても産めない悲運の人まで対象となるため、狭義の『LGBT』差別の問題を超えて、『社会的弱者』一般への差別、さらには人権問題全般に関わる大きな問題へとエスカレートして、批判は燎原の火の如く広がることになった。

 

もっとも、多少なりとも好意的に解釈すれば、杉田議員の『新潮45』への寄稿文から推察できる含意に、『人間の生産性』という用語をあてるのは、明らかに用語の使い方の間違いで、この場合『少子化抑止という政策目標を実現するために、限りある資源の中から予算配分しようとすると、子供を産み育てる親の経済負担をできるだけ軽減するために重点配分する必要がある』とでも述べておけば済んだはずだ(それでさえ反論や非難が殺到する可能性はあるが・・)。その意味で、杉田議員を心情的にサポートしたいと考えている人たちからは、発言の一部の言葉尻を捉えて過剰反応するのは、杉田議員を悪意を持って貶めているだけではないか、というような意見が出てくることになる。

 

しかしながら、杉田議員の過去の発言を一通り読んでみると、仮に今回の記事にさほどの悪意がなかったとしても、過去に様々な差別を容認するような発言を繰り返しており、政治家としては看過しがたい思想の持ち主であるように感じられる。彼女にも発言の自由を許すのが現代社会(民主主義)の原則とはいえ、人権尊重、法の下の平等等を原則とする現行憲法の遵守を義務付けられている公人としての政治家の資格はない、との意見が出てくるのは無理からぬところだろう。

 

 

一個人の失言ではなく自民党自体の『信念』?

 

ただ、問題は、杉田議員の発言から判断すると、この人が現行の憲法ではなく、『近代家父長制家族』をベースとしていた、明治憲法のような思想を掲げ、その優位を確信していると考えられることだ。そして、それは巷間指摘されているように、安倍首相を始めとした、現行の自民党の主流派に広がる思想でもある。2012年に公開された『自民党憲法草案』を読めば、杉田議員の思想との類似性は明らかだ。そうなると、杉田議員の発言は、失言ではなく、『信念』の表明であり、杉田議員個人の問題ではなく、自民党自体の問題にということになる。

 

ここまで原稿を書いている途中に、映画作家想田和弘氏の寄稿文が、私がここまで書いて来たストーリーとほぼ同じ展開であることに気づいた。文中に『自民党改憲草案』に関連して非常にわかりやすい説明文があるので、引用させていただく。

 

そう、自民党改憲案は、杉田議員の主張「生産性のない人間に税金を使うな」と、全く同じことを言っているのである。

 ちなみに、改憲案の起草委員会のメンバーだった片山さつき参議院議員は以前、ツイッターでこうつぶやいた。

 「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」

 「天賦人権論」とは、男も女も異性愛者も同性愛者も健康な人も病気の人も障害のある人もない人も子供も老人も右翼も左翼もアナーキストも、生まれながらに人権がある、というものである。

 自民党改憲案でそれを公式に否定し、義務とセットにした。つまり義務が果たせない人間には人権がない、とドヤ顔で謳ってしまったわけだ。

第67回:杉田水脈議員の考えは、自民党の考えである(想田和弘) | マガジン9

 

 

杉田議員(および片山さつき議員等自民党改憲草案に関わったり、支持している人達)の信念に基づけば、LGBTの件も、男女差別(杉田議員によれば男女区別)も、人権無視の非道などではなく、『家父長制度の家族』のモラルの問題であり、正義は自分たちの側にあると確信していると考えられる。

 

世界的に見ても、社会学者の見田宗介氏が近著『現代社会はどこに向かうか』*1 でも述べている通り、『近代』という時代の特質は、人間の生のあらゆる領域における『合理化』の完徹であり、国家(ないしそれに相当する)の未来のために現在の『生』を『手段化』して、禁圧することにあった。だから、『手段化』を徹底すれば、個別の人権も当然制限を受ける。このごとく、杉田議員の信念体系においては、今回の寄稿文の内容も、これまで繰り返して来た発言も、皆、正当化されうる正義と確信していると考えられる。

 

通常であれば、これほどの『失言』となれば、本人の発言の取り消し会見であったり、議員辞職であったり、あるいは所属する自民党からの離党勧告であったり、お決まりの解決手法ですぐに決着をつけてしまうところだろうが、杉田議員が自身のツイッターで、党内の『大臣クラスを始め、先輩方』から『間違ったこと言ってないんだから、胸張ってればいいよ』『杉田さんはそのままでいいからね』と声をかけられたとし、『自民党の懐の深さを感じます』と投稿していることからも、多くの自民党議員の本音は杉田議員と同様であることがわかる。

 

ただ、これは表向き『性的な多様性を受容する社会の実現』という公約を掲げてきた自民党とっては大変厄介な問題ではある。そもそも建前と本音が食い違っていることにここであらためて焦点をあてることは、百害あって一利なしだからだ。杉田議員擁護派とされる、自民党の二階幹事長なども『個人の思想/発言の自由』の範囲でお咎めなしとして済ましてしまいたい姿勢がありありだったが、結局、党としては、『個人的な意見』と留保しつつ、不適切な『表現』があると認め、『今後、十分に注意するよう指導した』ようだ。騒動の大きさを勘案すれば、異例なほど軽い処置と感じた人が多いのではないか。

 

 

トランプ大統領登場以降の米国と酷似

 

ここで、あらためて杉田議員や自民党が酷いと批判することはたやすいが、本件はもう少し大きな構図で見直しておくべき問題が底流にある。今回の騒動は、今の日本の『捻れた構造』をあらためてわかりやすく『見える化』してくれているとも言える。トランプ大統領の登場以降、米国が分断されていることが盛んに喧伝されているが、日本にも非常に大きな分断構造があることが改めてわかる。杉田議員シンパは自民党議員だけではない。今はどのメディアでも杉田議員批判記事一辺倒という印象だが、杉田議員批判の記事についている匿名のコメントを読んで見て欲しい。驚くほど杉田議員を擁護する意見が多い。

 

この対立構図は、トランプ大統領候補が急激に支持を獲得していった時期以降の米国と酷似している。当時の米国では、80年代以降大きな流れとなっていた『ポリティカル・コレクトネス』(職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で政治的に不適切な表現を排除しようとする動向)の行き過ぎで、米国のサイレント・マジョリティ(非エリート/プア・ホワイト/一般大衆)が、『息苦しい』、『本当に思っていることが言えない』、『リベラルは人権をたてにとって言論封殺している』等の鬱屈を溜めていたところに、破天荒なトランプ大統領候補が現れて、彼らの本音と不満を代弁して打ちまけ、『暴言』や『差別発言』満載であるにも関わらず大喝采を浴びて、大きな支持を集め、大統領にまで登りつめた。

 

杉田議員はLGBTに有利な法律制定などは、『行き過ぎた逆差別』と述べているが、これなど典型的な、アンチ『ポリティカル・コレクトネス』で、日本でも、『言いたくても反発が怖くて言えないと思っていたことを言ってくれた』というような反応をする人が少なくない状況は、まさに米国で起きたことと同類と言ってよかろう。

 

また、杉田議員は、2016年、産経新聞に連載していた「杉田水脈のなでしこリポート」で、LGBT支援の動きはコミンテルンが日本の家族を崩壊させるために仕掛けた』との陰謀論を唱えているが、*2 これなど、『ユダヤ人が世界を制覇しようと暗躍している』という類の陰謀論と大差ないように私には見えるが、従来ならこのような、事実かどうかはっきりしないことを放言することは、政治家として致命傷になりかねなかったが、昨今では米国でも日本でも『事実』と政治家生命とはそれほど関わりがない。その傾向は杉田議員だけではなく、昨今の自民党政権にはっきりと現れていると言っても過言ではない。有権者にとって、自分が叩きたい対象を叩いてくれる政治家、実現可能な政策に裏付けられているか、あるいは事実に基づいて発言しているかどうか等に関わりなく自分たちの利益代表として大きな声をあげてくれる政治家が喝采をあびて支持層を増やす構図は、まさにトランプ現象そのものだろう。

 

ジャーナリストの田原総一郎氏は、『嘘が常識の安倍内閣をなぜ国民は支持するのか』*3 というタイトルの記事を寄稿して現状の日本の政治シーンを不可解と嘆いているが、トランプ政権の報道官が使って大変話題になった、『オルタナティブ・ファクト代替現実)』(真実に対するもうひとつの事実。世間的には事実と見なされていない、嘘と見なされるべき事柄を『それもひとつの真実だ』と述べる時に使われた用語)が幅を利かせ、客観的な事実よりも、感情に訴えることの方が影響力がある状況は米国だけではなく、日本でも同様となっているということだろう。

 

だから、日本でも、舌鋒鋭く杉田議員を糾弾する言説が出て来れば来るほど、いかに正論でも(逆に正論であればあるだけ)、一方では、リベラルな発言に反発する空気がどんどん膨らんでいくと考えておく必要があると思う。ただ、これは本当に厄介な問題だ。言葉による議論が全く噛み合わず、熟議は機能せず、互いに感情的な反発を強めるだけで、合意形成ができないことを意味しているからだ

 

 

迫り来る真の危機

 

これが現実であることを認めざるをえないとすると、今の日本は(世界も)これからやってくるもっと本質的に厄介な問題に対処できる条件が揃っていないことになる。そういう意味で、『真の危機』が迫っているとも言える。

 

例えば、人工知能に代表される圧倒的にな技術の浸透による、中間層の大量失業の問題がある。著書『サピエンス全史』*4 が世界的にベストセラーとなった、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏など、『未来を読む』という著作におけるインタビューで、人工知能の浸透により、近い将来『役立たず階級』が大量発生する、と述べているが、これは実にリアリティがある。人工知能である種の仕事がなくなるとの見通しに対しては、なくなる仕事があっても、別の種類の仕事ができてくるとの主張があるわけだが、その『新しい仕事』には、従来の中間層(のスキル)ではほとんど対応できなくなる可能性が高い。仕事は高度なスキルを持つ人材と超低賃金労働者にしか残らないと考えられる。大量の人を労働市場から押し出し、世界中で新たな社会的・政治的問題が発生すると考えられる。このような脅威に対しては、グローバルなレベルでしか解決できない問題であることハラリは指摘するが、ブレクジットやトランプ大統領の当選等の、ポピュリスト・リーダーの台頭がはらむ真の危険性は、このような問題に対して、グローバルなレベルで協調する能力をむしばむことだとして、ナショナリズムは決して解決策にはならないと述べている。その指摘はそのまま日本にも該当すると考えざるをえない。

 

さらには、今、世界中で起きていて、しかもこのままではさらに大きな流れになるであろうことは、経済的に圧倒的な強者とその他大勢の弱者の二極化の進展だ。貧困撲滅に取り組む国際NGOオックスファム』の報告書によれば、世界で最も裕福な8人が保有する資産は、世界の人口のうち経済的に恵まれない下から半分にあたる約36億人が保有する資産とほぼ同じであり、トップ10の大企業の収益の合計は、下位180の貧しい国々の収益以上だという。*5 そして、この傾向は今まさに加速化しつつある。

 

そのような分断は、今後は、経済的な問題にとどまらない。遺伝子操作等のテクノロジーの進歩は、人間の生命という点でも、圧倒的な強者と弱者を生み出す構図を強力に推進する可能性がある。しかも、それはもう目前に迫って来ている問題だ。そして、これは非常に判断が困難な問題に社会が決断を迫られることを意味している。中でも懸念されるのが、まさに『優生思想』に対する態度の如何だ。ナチスのように、生きている人間を殺戮するほどの『優生思想』の遂行は流石に許容されることはなかろうが、遺伝子操作によって、優秀な性質のみを次世代に残していこうという意味での『優生思想』は実は今でも脈々と生きている。

 

人間の生のあらゆる領域における『合理化』を完徹し、国家(ないしそれに相当する)の未来のために『生』を手段かして現在の『生』を禁圧する、という『近代』の思想は、『優生思想』との相性が非常によく、実際に米国をはじめとした先進国では、数多くの『優生思想』に基づく政策が行われてきた。(もちろん日本でもそうだ。)脱近代化したはずの現代をもう一度『近代』に引き戻し、個人より家族や国家を上位に置こうという思想にとっては、優生思想を否定する理由がないことになる。従来は思想はあっても手段が限られていた。これからは手段も非常に安価でカジュアルに存在することになる。やろうと思えばいくらでもできる時代がやって来つつある

 

だが、これで懸念されるのは、一般人がほとんど気がついていないが、本質的に重要な問題だ。哲学者のマイケル・サンデル教授が著書『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』*6で述べているのだが、『生』『生命』には本来『被贈与性』があり、それこそが、人間を鍛え、社会を進化させるよすがとなって来た。『生命の被贈与性』というのは、『生命』は原則操作が出来ず与えられるものを受け取るしかない、という意味だ。両親は自分の子供が健康で賢く生まれることを念願するが、実際そうなるとは限らない。どのような障害や劣性形質を持って生まれてくるかわからないのが『生命』だ。だが、だからといって親はそのような子供を見捨てない。条件によって差別するのではなく、自分の子供なら無条件で愛する(もちろん例外はあるが・・)。これは見方を変えれば、人間は子供によって無償の愛を学んでいるとも言える。そして、それは人間社会、というより人類全体に無償の愛を涵養し、広げるために、非常に重要な要素となっていた。だが、仮に子供の『生命』が親のエゴで操作可能となり、実際に安易な操作が一般化すると、社会に必要な人間らしさの概念が決定的に毀損されてしまう恐れがあるとするサンデル教授の主張には、一人でも多くの人が耳を傾けてみて欲しいと願わずにはいられない。

 

 

希望は若年層のマインドの変化にある?

 

そのような、人間社会にとって決定的に重要な判断を下すべき時が来つつある一方で、社会が分断して理性的な合意形成ができず、しかも、『優生思想』が優位になっているとすると、いったいどうなってしまうのだろうか。特に、サンデル教授が提示するようなレベルの概念がどこまで理解されるのか、大変心もとないのだが、それでも、大半の日本人の心底には、人間社会にとって、決定的に重要な要素が毀損されることの居心地の悪さ、気持ち悪さが残っていると思うし、そう信じたい。これについては、昨今の若年僧のマインドの変化を見ていると、多少勇気づけられる部分がある。

 

杉田議員および現在の自民党主流派の思想が、『近代家父長制家族』を支持していることはすでに述べたが、これはかつて日本の高度成長期を推進した『モーレツ』な『企業戦士』を支えた、『夫は仕事に専念し妻は家庭を守ることに専念する』という性別役割分担の家族だ。だが、社会学者の見田宗介氏が『現代社会はどこに向かうか』で述べているように、1973年から2013年までの青年の意識調査の結果によれば、最も目覚ましい変化は『近代家父長制家族』のシステムとこれを支えるジェンダー関係の意識の解体だ(これは日本に限らず、先進国共通の傾向であるようだ)。かつては『性別役割分担』的な家族が理想とする意見が40%の支持を集めていたのが、2013年になるとわずか7%の支持に下がり、逆に夫も妻も家庭中心に気を注ぐ『家庭内協力家族』が60%近い支持を集める、理想の家庭像となっているという自民党主流派を含む中高齢層がいかにこの状況を嘆こうと、若年層の意識の現実はすでにまったく違ってしまっている。

 

しかも、その背景にある思想の違いはさらに重要だ。個人の一回限りの人生を目的や理想のために耐え忍ぶ手段としてきた『近代』の思想には、根本的な欠陥があると言わざるをえない。見田氏が述べるように、この手段主義と名付けることができるイデオロギーは、あらゆる抑圧、政治的利用主義を正当化し人間の一回限りの人生を犠牲にしてきた。だが、それは新しい未来を創造するにあたっての公準とすべきではないという見田氏のご意見に私も賛成だ。そのためには、一回限りの生を最大限生き切ることを(今この時を生きる、現在を楽しむ)こと、自分であれ他者であれ、人間や人間の生を手段化するようなことは一切排除すること、多様性を認めること、これを肝に命じていく必要がある。

 

本書でも指摘されているように、『今この時を生きる』ことは現代の若年層の支配的な思想となりつつある。『手段化』の思想に染め上げられた中高齢層の多くは、これを『享楽主義』と見て批判の眼差しを向ける傾向があるが、そうではなくて、『近代』が悲惨な歴史を通じて学んだ教訓として、新しい公準を構築するべき時が来ていることを認めていく必要があると考える(特に日本では、企業戦士の過労死、自殺等の真因がこの『手段化』にあったことを真摯に認める必要がある)。そして、もっと思想として練り上げていく必要がある。そこを起点として、分断構造を解消して、共通の合意としていけるようにすれば、日本の危機的な状況を乗り切るきっかけが掴めると信じる。

 

*1:

 

*2:

*3:

*4:

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

*5:

*6:

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?