葬儀やお墓が消失してもなくならないもの

 

 ■「死」に対する意識

 

私たちの年代になると、友人の両親がちょうど亡くなるタイミングに当たっていることもあり、年末になると年賀状の代わりに喪中ハガキが沢山届くことになる。年途中の今頃でもそのような連絡をしょっちゅう貰っている印象がある。それをきっかけにして、最近死亡した著名人一覧を見ると、一時代をつくった数多くの著名人のうち、自分にも記憶が鮮明で、中にはすごく思い入れのある人達が沢山亡くなっていて唖然としてしまう。もちろん、キューバの独裁者フィデル・カストロのように世界的な著名人であれ、90歳の高齢であれば、天寿を全うしたという納得感のようなものを感じるが、「エビ中」の松野莉奈のように18歳にして逝ってしまう人もいることを思うと、無常というしかなく、普段はあまり考えない『死』についてしばし考えてしまう。

 

但し、さすがに今では、学生時代の頃に感じた自分の死についての実存的な不安感は無くなっていて、従容として受け入れようというような諦念が定まってきた気がするが(意外に、私の友人にもそういう思いでいる者が多いが)、悩ましいのは両親や親族のお墓をどうするのか、という問題だ。自分自身については、昔から、葬儀もお墓も不要とずっと思ってきたし、できるだけ残された人たちに迷惑をかけたくない、という一点しか気にならないが、自分の両親や親族についてはそうはいかない。私の場合も地方から東京に出てきて、普段はあまり意識することはないのだが、いざとなると本当に時間もお金もかかることを思い知って、正直あまり考えたくない問題だったりする。

  

 

■ 寺院消滅

 

だが、そのように感じるのは私だけではないようだ。『日経ビジネス』の記者にして僧侶でもある鵜飼秀徳氏の『寺院消滅』*1という本を読むと、都会で働くビジネスパーソンにとって、お寺やお墓は遠い存在になりつつあり、お寺との付き合いは『面倒』で『お金がかかる』ばかりと考え、できれば『自分の代からは、もうお寺とは付き合いたくない』と思い始めているという。そして、葬儀は無宗教で行い、お墓もいらない、散骨で十分と言っているという。そんな不謹慎なことを考えているのは自分だけかと思いきや、最近は誰でもそうなのだという。それでも、その一方で、まさに私だけではなく、多くのビジネスパーソンも、地方に残る親戚縁者の顔を思い浮かべると、中々簡単には割り切れない、複雑な思いがあるようだ。そんなところも、自分の実感に物凄く近い。

 

もちろん、今後少子化の影響が色濃く出てきて、特に地方では、お墓もどころか、人間もどんどんいなくなっていくことは避け難い。そして人がいなくなれば相応にお寺もなくなっていく。『寺院消滅』でも、今後25年の間に現在日本に存在する約7万7千の寺院のうちの約4割が消滅すると予測している。仮に寺院の維持のために、一人当たりの負担額が増えていくようだと、お寺との縁切りを本気で決断する人が今の想定以上に激増することになるだろう。そもそもまだ死んでいない高齢者の年金も負担できなくなりそうなのに、どうして死者への負担を増やすことができるだろうか。

 

 

無縁社会

 

2010年にNHKにより製作されたテレビ番組で使われた『無縁社会』という造語は、荒涼とした語感ながら思い当たる人が沢山いたと見えて、その後長く使い続けられるようになった。少子化もそうだし、高齢化、生涯未婚率の増加等の影響もあいまって、地縁血縁社会が維持できなくなり、それに加えて、戦後、地縁血縁コミュニティに代るコミュニティとしてそれなりに活性化していた企業コミュニティも終身雇用制度の崩壊、海外進出等の影響により衰退の一途だ。その結果、今の日本社会は、単身者が増え、しかもその単身者が孤立しやすい社会になってきている。これを悲観的な感情を煽る言葉に乗せて語ったものだから、非常に大きな反響を呼んだ。感情は別としても、冷静に現状を分析すればするほど、葬儀もお墓も今後とも簡素(あるいは消失?)な方向に向かうと考えざるをえない。

 

実際、特に関東では、葬儀は急速に簡素になってきている。月刊誌『仏事』を出版する鎌倉新書(東京都中央区)が全国の葬儀社217社を対象に平成26年に実施した調査によると、参列者31人以上の『一般的葬儀』は全体の42%。30人以下の『家族葬』が32%。『1日葬』が9%、『直葬』が16%だった。都市部の葬儀社のなかには『家族葬が5割を超えている』との声も多くあるという。

www.sankei.com

 

 

普段はほとんど意識しなくなっているから、実感はなくなっているが、いわゆる檀家制度(寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた寺と檀家の関係)は少なくとも地方ではまだ生き残っていると考えられるため(しがらみをなかなか振り払えない)、都市部と比較すれば、まだ地方では、『一般的葬儀』が多いと思うが、その地方こそこれからは檀家制度の維持が難しくなっていく(それが『寺院消滅』のメインテーマでもある)から、地方でも葬儀の簡素化は避けられないだろう。

 

 

■ 葬儀は日本人のアイデンティティを顕す?

 

だが、それでも、今の日本人にとって、葬儀は数少ない、親族の存在を意識しその絆を確認しあうことのできる機会であることは確かだ。親戚の葬儀に行くと、自分にとっての親族がどういう人達なのか確認しあうことができる。意外なことに、それまでほとんど意識することはなかったはずなのに、ある種の親しみや、親近感を意識の奥底から引き出すきっかけとなったりする。そして、自分にも、そんな感情が残っていたことに驚くことになる。だが、その無意識にある感情こそ、日本の風土への親しみであったり、愛着であったり、普段は隠れているが、いざとなると表に出てくる感情の塊の一端なのだろう。それは一種の宗教感情とも言える。それがなくなっていくことの影響は、これからの日本社会にとってどのようなものになるのだろう。少なくとも私にとっては、あまり簡単に切り捨ててしまってよいものとは思えない。

 

日本の葬儀を(私の知る限りだが)見ていると、世界に例の少ない、非常にユニークな形式であり、それは、今の日本人が意識しているかどうかは別として、その背後にある特定の『意味』を象徴しており、日本人が非常にユニークなアイデンティティを共有していることを見て取ることができる。そもそも日本の葬儀は、大半は仏式で行われるが、仏陀が起こしたオリジナルの仏教とはほぼ無関係であることは意外に知られていない。何より、日本人は遺骨や位牌を死者そのものといってもいいくらいに大事にし、執着するが、オリジナル仏教では、死者と遺骨とは死ねば何も関係がない。だから、散骨が基本で原則お墓もない。必要がないからだ。もちろん位牌などもない。また、お盆のような先祖をお迎えする行事も仏陀自身がここにおられたら、自分の宗旨が伝わっていないことを知って、さぞ嘆かれることだろう。そもそも、人間は生まれ変わりたくもないのに何度も生まれ変わって来ていて、それは非常な苦しみであり(六道輪廻)、そこから離脱して二度と生まれ変わる必要がない道を説いたのが仏陀だ。だから、死者が悟っていれば、もう生まれ変わってくることもなく、輪廻の途上なら、どこかに生まれ変わっているのであり、いずれにしてもお盆に子孫に呼ばれて帰って来ることはできない。

 

日本の葬式およびその関連の風習は、大半は、儒教の元になった東アジアのシャーマニズムを起源としており、お骨や位牌を大事にして、先祖を奉ってしばし子孫の元に帰って来てもらうというような風習は皆、儒教の風習だ。仏教が中国に伝わった際に、儒教が混ざって、それが日本に伝わったという説もある。(このあたりの事情については、加地伸行氏の著書『儒教とは何か』*2に詳しい。)日本の葬式に出席したり、仏事に参加したりすると、先祖を思い起こさせられたり、親族(一族)の結束のことを意識してしまうのは、実は儒教の持つ思想の影響を受けた儀式だからということもありそうだ。葬式は、このような親族の結束を確認しあう場であるだけではなく、おそらく、それを敷衍することで日本人全体の結束、あるいはアイデンティティを確認しあう場となって来たと考えられる。このような意識は簡単に消えてしまうものなのだろうか。

 

 

■ 消えない宗教心

 

単身者の激増、特に、男性より平均寿命の長い女性の単身比率の激増という現実(および将来)をポジティブに受け入れて、いかに充実して過ごすか、という観点で書かれ、注目された著書がある。社会学者の上野千鶴子氏による『おひとりさまの老後』*3だ。そこには、葬儀のことも書かれており、簡素な『家族葬』ないし、場合によっては『直葬』を受け入れるべきことが書かれてあり、宗教心などまったく関心の外という感じで、ある意味、非常にさっぱりしている。だが、興味深いことに、彼女自身のお骨は、京都の大文字焼きの大の字を『犬』にする『、』の部分に埋めて欲しいのだという。そうすれば、『死後もずっと大好きな大文字焼きをそばで見続けることができるから』だという。これなどまさに、日本人の多くが共通して持っている、『お骨へのこだわり』そのものと言えるし、死後は、『草葉の陰』から見守るという、儒教的な死後の観念と言える。それは、仏教徒の死後でも、キリスト教徒の死後でもない。すなわち、いかに葬儀に関心がないとしても、背後にある宗教心は消えていないということだ。これは、おそらく、大半の日本人に共通するところではないだろうか。

 

また、さらに詳細に日本の葬儀を見るてみると、儒教とも仏教とも無関係の要素も混在していることがわかる。例えば、葬儀に出席すると清めの塩をもらうが、これは日本古来の宗教意識に基づく風習なのだそうだ。すなわち、日本人の葬儀を通じた宗教意識を腑分けすると、メインは儒教(というより東アジア的シャーマニズム)、そして、仏教的要素および神道的要素(というより日本古来の宗教心)が混在していることがわかる。だから、もしかすると、儒教的要素が社会的な条件により維持できなくなったとしても、それをきっかけにもっと日本人の元型に近い宗教意識が引き出されてくるかもしれない。

 

日本人は、やむない状況におかれて、葬儀等の儀礼を簡素化せざるをえなくなっている。だが、だからといって、両親のお骨や位牌を粗末にできるだろうか。できないとすると、やはりそれらに宗教心といっていい心性を残しているということではないのか。研究者の竹倉史人氏の著書『輪廻転生 <私>をつなぐ生まれ変わりの物語』*4によれば、現代の日本人の40%超が『輪廻転生』や『前世の記憶』を信じているという。葬儀は簡素化しても、日本人の宗教心は、形を変えながらかもしれないが、依然、消えることなく残っていると考えるべきではないのか。

 

 

■ 危惧される心の深い部分へのダメージ

 

このあたりの事情を無視して、経済性だけで、宗教儀礼や宗教心をあまりに安易に扱うことは、日本人の心の深い部分に決定的なダメージを与えてしまうことにはならないだろうか。場合によっては民族としてのアイデンティティも維持できず、いわゆるアノミー(社会の規範が弛緩・崩壊することなどによる、無規範状態や無規則状態)に陥る懸念はないのか。もちろんそれは現在の寺院を経済的に補助すれば済むような単純な問題ではないし、既存の宗教にできることは少なくなっているかもしれない。だが、考えなくなってしまうのと、問題ありと意識していることは無限と言っていいほど大きな違いがある。誰かの死というのは、本来厳粛であるべき瞬間だ。せめてそのような機会に、以上のような思考を深めてみることは決して無駄にはならないはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:

寺院消滅

寺院消滅

 

*2:

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

 

 

*3:

おひとりさまの老後 (文春文庫)

おひとりさまの老後 (文春文庫)

 

 

*4: