第三の敗戦を乗り越えるには
■第三の敗戦とは
アップルのiTune上のPodcastで田原総一郎氏の番組、「タブーに挑戦」を聞いていたら、元経済企画庁長官で評論家の堺屋太一氏のコメントに話題が及んで、それが少々耳に残っている。これはどうやら堺屋氏の著作、「第三の敗戦」*1に関するもののようだ。私はまだ読んでいないので、人様の書評等を拝見した限りでは、とお断りしておくが、かなり興味深い。三つの敗戦とは、第一が幕末、第ニが太平洋戦争、そして第三の敗戦は今回の震災なのだと言う。
■概要
概要につき、「独断と偏見@人口現象時代のまちづくり考」 http://blog.goo.ne.jp/mansionsaisei というブログからまとめの部分を以下の通り引用する
堺屋氏は、第一の敗戦とこれに伴う開国は、「武士の文化」が完全に国民の信頼を失い、世界史の中でも、明治維新ほど徹底的な倫理と体制の変更を生んだ珍しい革命だと言う。維新政府には行財政や外交の経験者はほとんどいなかった。「未経験の薩長の奴等になにができるか」と幕府の人たちは言い続けた。
第二敗戦は、軍官の組織の硬直化、つまり高級軍人や官僚たちの組織と思考の硬直化と、地位の身分化にあったという。GHQの手によるとは言え、過去の日本、明治憲法下に創られた「大日本帝国」を再現しようとしなかった。高級将校の中には、「灰燼に帰した国土と結束を失った国民をまとめ、治安と物資流通を保つためには、軍の組織と人材を使わなければならぬ」などと主張した者もいたらしい。内務官僚も「治安と統制が大事な今こそわれわれの出番」と張り切っていたという。しかし、GHQは日本政府幹部を公職追放し、つづいて内務省を解散し、財閥を解体した。霞が関の官僚たちは騒然としていたがGHQの意志が固く、追放を免れたものもおとなしく命令に従った。
二つの敗戦と開国を通して、堺屋氏は、「改革は受け皿を用意してから出発するものではない。まず、前時代の文化を否定することから始まるのだ。」と主張している。
第三の敗戦、1945年の敗戦から、規格大量生産型の近代工業社会を目指してきた戦後日本は、90年代初めに絶頂期を迎えた。それから20年は専ら「下り坂」、そして今回災難に直面し、敗戦が現実のもになったのだという。そしてこの敗戦は、「既得権が作った身分社会」がその原因となっていたとしている。言い換えると「官僚主導・業界協調体制」で近代工業社会を築いてきた戦後日は、国民の選択から見放された。したがって、震災復興は、「古い日本」つまり、官僚主導で規格大量生産を続ける日本を再現するのではなく、未来志向の新しい日本を創設しなければならない。
堺屋太一氏、相変わらず素晴らしい洞察力だと思う。ここで述べてあることの一つ一つはある程度私自身も到達している認識ではある。だが、これだけコンパクトに対比すべきところを絞り込んで簡潔に表現できるのは匠の技と言うしかない。
■本当に敗戦なのか?
ただ、気になる部分もある。本当に敗戦なのか?敗戦だとすれば敵は誰なのか? そのような疑問を持つ人も多いのではないかと思われるところだ。第一と第二の敗戦は負けた敵がはっきりしており(第一は欧米先進諸国、第二は米国)、日本が完敗したことを大方の日本人は理解し、国民の間にも完敗したというコンセンサスがあった。だが、堺屋氏の言う第三の敗戦はそうではない。
■日本人に潜在する強力なパワー
負けた相手がはっきりしていれば、日本人の徹底して真似るパワーが凄まじいことはすでに証明されている。東京空襲、広島・長崎への原爆投下等、非戦闘員まで大量虐殺され、鬼畜米英というようなスローガンの元思想教育が徹底されていたはずなのに、一旦完敗を受け入れた後は、かつての敵をお手本として、それまでのしがらみや怨念の一切合切を「水に流して」真似ることにパワーを集中するというのは、実は世界の歴史にも類例を見つけることが難しいほど、際立った日本人の特性の一つと言っていいと思う。それは明治以降の日本人が欧米の技術や文化を貪欲に受け入れて消化したこととパワーの源を一にするものだ。しかも、お手本を真似ると言う行為をステップにして、改善自体をイノベーションの発露として昇華してしまうのだから実に大したものだ。このパワーを引き出すことが出来れば未曾有の災害に見舞われた日本も必ず再生することができるはず、というのは日本人なら多かれ少なかれ潜在的に感じているところだろう。 堺屋氏の言説からも、 過去の敗戦になぞらえることによって、過去にそうだった様に今回も立ち直ることは可能であるとの、日本人を鼓舞する暗黙のメッセージが伝わってくる。
■パワーを引き出す鍵
ただ、今回の苦境を乗り切るパワーを引き出すための鍵を第一および第二の敗戦を教訓と
して導くとすると、おそらく次の三つが必要なように思われる。
・完敗したというコンセンサス
・明白な敵(負けた相手)
・復興の具体的なお手本
第三の敗戦には、いずれもはっきりとしない。だから、そもそも敗戦なのか?という疑問が起きて来ることも無理からぬところがある。さすがに、今の日本が非常に厳しい状態にあることに反対する人はいないと思うが、根本的な改革をすべきというコンセンサスがあるとは到底思えない。どちらかと言えば、今のまま、悪くても、今より少し劣る程度でよいから、現状を可能な限り永らえたい、というのが本音のところのコンセンサスだろう。
■本音のコンセンサス
最近特に思うのだが、日本社会には、見たくない、認識したくない事実を自ら社会の表面から隠蔽し、忘れ、本当にそのようなものはなかったと信じさせる、「社会の自己防衛システム」が内在していて、状況に応じてそれがしばし自動的に発動する。多発する災害と共に生きることを運命づけられた民族の宿命に対する防衛本能が何時の間にか作り上げたシステムなのだろうし、それは物理的に構成員をどんどん入れ替えていくようなことはできない日本村で生きる上では、有効に機能することも少なくなかったと考えられる。だが、今回のように、それではどうしようも無い状況にまで追い込まれた時に、崩壊の程度を大幅に押し上げるダムのように働きかねないと考えられる。それなのに「完敗」するまでは、途中で方向転換させることは非常に難しい。
■時間の問題?
私の見たてでは、堺屋氏の言う敗戦は、バブル崩壊のころにはすでに濃厚にその兆候が現れていた。だが、社会の方向どころか、一企業の方向を変えることですら、大変困難だった。時代は進んで、今やこのままでは日本が完敗するであろうことは、堺屋氏のレベルの透徹した洞察力を仰ぐまでもなく、私程度のレベルでも十分に予期できるようになってきた。それには、震災もさることながら、原発事故とそれに伴う関係者の対応を通じて日本の「既得権が作った身分社会」「官僚主導・業界協調体制」の病弊がとことん露わになったことが寄与するところが大きい。もちろん、いまだにそれに気づくことの出来ない(気づくことを拒否している)人達も多いが、時間が経てば経つほど、日本の敗戦の有様はもっとはっきりしてくるだろうから、ある時点で日本の大部分のコンセンサスが、「日本が完敗している事を認めざるをえない=社会システムを根本的に作り替えるしか手がない」というところに収斂されていくことになるのはもう時間の問題だ。そうなれば、堺屋氏が言うように、「前時代の文化を否定すること」が始まるはずだ。本当の改革はそれから始まる。追い込まれる程夜明けが近いということになる。
もちろん、もっと追い込まれるまで座してそれを待つのではなく、何とかその「完敗」コンセンサスが共有されるよう自分ができることは頑張ってやってみようと私は思っているし、それを自分の大きな目標の一つにしようとも思っている。
■意志の重要性
実際にそうなった時には、今度はお手本がないことに悩む可能性は十分あるのだが、その点については私は多少楽観的だ。確かに今までにないことにはお手本はないが、やるべきこと、試してみるべきことがないわけではない。今はその意欲を阻む「見えない壁」のために試すことさえ出来ないことが多すぎる。一番大事なのは不要な前時代の文化は敢然と退ける意志の方だ。硬い決意と意志があれば、手段はあるしそれを見つけるクレバーさもけして日本人は失っていないと信じる。
*1: