世界規模で始まった『自由への希求』


音楽を通じた自分再発見


最近とあるきっかけで、ピアニストの辻伸行行氏*1の演奏をDVDで見る(聴く)機会を得た。辻井氏と言えば、盲目の天才ピアニストというふれこみで大々的に宣伝されていたから、その名前だけは知っていたが、実際に演奏を聴いてみると本当に感動的だ。何より一つ一つの音がとても奇麗だ。朝露に朝日がキラキラと輝くような、とでも言うのだろうか。低音部も濁りもこもりもなく、柔らかくまろやかに響く。印象派の音楽や絵画が昔から好きな私のつぼを真っ正面から突いてくる。案の定、彼が弾く印象派ラヴェルドビュッシーの曲を聴くと、もうその場から動けなくなってしまいそうなほどだ。ただ感動したという以上に、自分の奥底にこれほど感動できる自分がいたことに驚き、普段気づくことのできない自分の存在を確認することができた気がする。まさに『自分再発見』である。


辻井氏のことを紹介してくれた人は、自身すごく柔らかで暖かみのある音を奏でるピアニストで、やはりドビュッシー印象派の画家であるクロード・モネ*2が好きなのだと言う。まさに私と好みの中心がピッタリ同じだ。そういう人が推薦してくれるピアニストにはやはり私も非常に強く心を揺さぶられる。私が自分のこういう嗜好に気づいたのは、もう十数年以上前の話だが、それから今日まで同じ好みを持つ人に一人として出会ったことはなかったから、もうすっかり心の奥底に埋もれてしまっていた。今回、厚い土砂に埋まってしまっていた自分の中にある宝石の原石を掘り返して、取り出して見せてもらった感じだ。



インターネットにより拡大するチャンス


リアルな日常生活の中では、このような偶然は十数年に一度しか起きない奇跡のような出来事ということになるが、インターネットが押し進めつつある、ソーシャル・ネットワークが社会に浸透し始めた今は、このようなことが繰り返し起きる予感がある。今回の私は音楽を通じて自分の再発見がかなったわけだが、本でも、スポーツでも、映画でも、思想でも、非常に多方面でしかもさほどお金をかけることなく自分自身を発掘し、発見し、磨き上げることができる。そして、逆に自分からも恩返しに、仲間に彼ら(彼女ら)自身の気づかぬ魅力や興味に気づくきっかけを与えてあげる。そして、そのような貢献ができる自分をまた発見することができる。感謝される自分、与えることができる自分、しかもそれが何かに強制されたりするわけではなく、あくまで自発的かつ可能な範囲で行う。現段階ではインターネットの良いところばかり見過ぎとの誹りを受けそうな気もするが、このような空間を広げていける可能性があることを確かな実感とともに予感することができるのは、とても素晴らしいことだ。



『自分探し』に付着したネガティブなニュアンス


ところが、この『自分探し』『自分発見』という言葉をいざ使ってみると、なにやらネガティブなニュアンスが付着している。なぜだろう。本来それは歴史的に見ても、人がしばし最も前向きになれる生き方の一つだったはずだ。



伝統企業のダブルスタンダード


多少、私の認識のバイアスがかかるかもしれないが、『自分探し』が近年日本で一番鼓舞され、安易に乱発されたのが、教育とその延長上にある職探し(就職活動)と言っていいのではないだろうか。戦後教育は偏差値重視の画一教育であり、その結果受験地獄を招き、日本人は決められたことはちゃんとやるが、個性も創造性もない。このままではキャッチアップ型を卒業して創造的で付加価値が高い方向にシフトしていくべき日本の産業の将来も危うくなる。そういう世論に後押しされて教育改革が叫ばれ、いわゆる『ゆとり教育』が開始される。突然、自分の本当にやりたいことを問われるようになり、いわゆる『自分探し』が始まる。しかも、企業の側も取り敢えず学生側に個性だの、自己実現だの、創造性だのを求めるから、勢い学生の『自分探し』は強制された必須のものになる。学生だけではない。そのようにして会社に入って社会人になっても、強制されたにせよ『自分探し』信仰の強い影響下にあるから、自分の本当にやりたいことが今の自分の会社ではできない、という思いを募らせて転職を繰り返すというようなことが起こる。『自分探し』やその結果としての『自己実現』を半ば強制させられるのは米国でも同じではないか、という声も聞こえてきそうだが、大いに違う。日本企業は、『自分探し』だの『個性の発現』だの、言う側がそんなことはほとんど信じていないし、実際には『こうるさいことを言わずに言われたことをやれ』とか『黙って泥のように10年働け』というようなことばかり言う経営者やマネジャーで溢れている。そして、不況が深刻になってくると、そんな古い体制を守るために若者に門戸を開くこと自体をやめてしまった。



やりがいの搾取


そういう伝統的な企業ではなく、新興のベンチャー企業のようなところでは、逆に入社後もうるさいくらいに『自分探し』や『自己実現』を強要され続ける例もある。今は安月給で長時間労働だが、夢を実現していつかは店長、というたぐいだ。実際、そういう企業では、仕事をやる側もやらせる側も非常にハイテンションで、時には業績も上がり、企業としても急成長を遂げるケースも少なくない。だが、『無駄なことを考えずに自分のやりたいことに集中できることは幸せなことだ』と経営者も従業員も金太郎飴のように口を揃えるような場面を見ると、私は正直暗い気持ちになる。企業が仕事に集中する、そのこと自体を否定するつもりはさらさらない。だが、あまり安易に『自分探し』や『自己実現』を強調して従業員を過度な労働に追い込むのはいかがなものだろう。それは結局、『やりがいの搾取』でしかない。過重労働で体を壊して、「自己実現もできないような駄目な自分』という挫折感もあって、ぼろぼろになった若者が、初めてそんな駄目な自分に真剣に向き合うことで、本当の意味での『自分探し』を始めるような笑えないケースは実は大変多い。



本当に価値ある『自分探し』と『自己実現


本当に価値ある『自分探し』そしてその延長としての『自己実現』は、必ずしも企業活動や何らかの生産活動の中から選ばないといけないというわけではない。生活の糧を得る活動(仕事)と『自己実現』が一致していれば、確かに精神的には楽だろう。だが、いつしか組織内部のしがらみで思考停止や妥協を余儀なくされて強い挫折感を味わうという結果も大いに予想される。生産活動と関係がないほうが、時には精神の独立を保っていられるメリットもある。


中にはお釈迦様のように、一国の王子の座にあって、美しい妻と子供に恵まれていても、自分の内側から突き上げてくる何かに抗しきれずに、そのような恵まれた環境から自ら飛び出す人もいる。与えられた環境の中で自分の一番やりたいことを探し、自己実現すればいいではないかと『大人』なら言うだろう。お釈迦様の例で言えば、王としてその国に善政をひく、なんていう目標を据えれば、客観的にも素晴らしい『自己実現』の道があるとも考えられる。それでも人は時に自分を探さずにはいられなくなる。それなくしては自分がこの世に生を受けた意義がないと思い詰める。『自分探し』を突き詰めていくと、場合によっては反社会、反権力、反常識をものともしないエネルギーが湧いてきて、たいてい安易な妥協はできなくなる。『自分探し』や『自己実現』にはそれほど強力な魅力があるということでもある。



『自由』が何より大事


もちろん、『自分探し』や『自己実現』は、企業の生産活動等と全く関係ないなどと言うつもりはない。だが、少なくともそれは他人に強制されるものではない。『自由』に探し、決めることが何より重要だ。『自由』がなければ本当の『自分探し』はあり得ない。それは間違えない方がいい。


自己実現を語るにあたり、立志伝中の人としていつも例にあがるのが、伝説の都市トロイを発掘した考古学者であり実業家のハインリッヒ・シュリーマンだ。彼は貧しい境遇にあって、発掘に必要な研究、語学の学習、発掘費用捻出のために実業家になり、実業家としての成功があったために、発掘に取りかかることができた。彼にとって貿易等の実業の成功は必要条件であっても十分条件ではなかった。本当にやりたいことを見つけた人のエネルギーは強力だ。確かに、シュリーマンは反社会でも反権力でもない。だが、反常識であることは間違いないだろう。それもそうとうなものだ。当時の常識は彼の自由を全く妨げるものではなかった。



自由への希求


中東の争乱の模様をウオッチしていると、FacebookTwitterそして、実際に政治活動にも一部関与したと見られるGoogle、それに抑圧的な政府等に攻撃をしかけたハッカー集団のAnonymous等、インターネット関連の団体やツールの影響力が非常に大きいことは言うまでもないが、既存の権力にあからさまに対抗したWikileaksを含めて、情報流通の経路としての利便性や広がり以上に、『インターネットの自由』を標榜する関係者の『自由への希求』が共通して非常に大きかったことがわかる。



無言の抵抗運動?


日本では、中東のような熱い争乱が起きることは想像しにくいが、日本の若者はある意味で、ガンジーの無抵抗主義ではないが、既存の価値を受入れないという意味で、既存権力に対する無言の抵抗運動を始めているのではないかと、時々私は真剣にそう感じることがある。もちろん誰かがリーダーシップを取っているわけでなないし、若者自身がそのように聞かれても困ってしまうかもしれない。だが、彼らの潜在意識は、彼らに職を与えず、巨大な借金を背負わせ、既得権益を守ることしか考えない既存権力に対して無意識的な、しかし巨大な抵抗運動を始めているとさえ言えるのではないか。物を買わず、恋愛もせず、結婚もしない。海外にも出かけない。日本の高度成長を支えた大人達は彼らに取っ掛かりを見つけられない。だが、彼らはインターネットを通じて巨大なネットワークと情報をちゃんと持っている。


しかもそれは、単なる権力闘争というよりは、インターネットの(特にソーシャル・メディアとしてのインターネットの)中核にある、『自由』『自己発見』『自己実現』というような創造的な価値に呼応しているとすれば、『自由』求める世界的なトレンドに、日本の若者も自分達なりに参加していると言ってもいいのではないか。



本当の『自分探し』を始めてみては


少々話が飛躍してしまった感があるが、自覚ある個々人は、社会からであれ、既得権益者からであれ、自分に押し付けられ、押し着せられた価値感をはね除け、自由を自分の手に取り戻し、心からわかり合える仲間と共に自分の心の奥にあって輝き続ける本当の自分をみつけるべく、『自分探し』を始めて見てはどうだろう。世界中の仲間が『自由への希求』という点で呼応を始めた今、得る物は大変大きいはずだ。