梅田望夫氏Twitter発言について遅ればせながら一言

梅田望夫氏の発言


梅田望夫氏のTwitterでの発言から火がついて、ちょっとした騒ぎになっている。今回の梅田氏発言の発端となったのは、水村美苗氏の『日本語が亡びるとき*1を紹介するエントリーに対するはてなブックマークのコメント欄(はてなブックマークでは、ブックマークにタグを張る事ができるのと同時に、コメントを記入できる)の一部のコメントにご立腹だったようだ。


はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。
Mochio Umeda on Twitter: "はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。"



炎上パターン?


はてな』『梅田望夫』という、ネットでは非常に高い関心が払われるブランドから、そのユーザー批判とも思える発言が飛び出せば、これは教科書的な『炎上』パターンだ。案の定、あちこちで様々なブログエントリーが上がり、そのエントリーのブックマークにも多くのコメントが乱れ飛んでいる。(予想どおり否定的なものが多い。)


梅田望夫さんの発言があまりにも問題な気がした : けんすう日記
梅田望夫、はてブ「バカ多い」 賛否両論殺到してブログ炎上 : J-CASTニュース
http://anond.hatelabo.jp/20081109153229
- エキサイトニュース


ちょうど、これから予定されている、はてなのリニューアルにあわせて、結果的にだが、非常に効果的な(?)キャンペーンになっており、これが梅田氏が意図したのであれば、非常にクレバーなマーケティングということになる、というような穿った主旨のコメントも申し合わせたように沢山出ている。(水村美苗氏の『日本語が亡びるとき』も沢山売れるだろう。)


だが、私が期待していた意見や議論があまり出てこないことが少々気になる。(あるいは私が気づいていないだけなのか) 結構大事な点だと思うのだが。それなら、私も意見表明しておいてもいいかもしれない。



梅田氏の嘆き


梅田氏のコメントからは、はてぶのコメント欄は、対象となっている本をきちんと読んで(議論の対象をきちんと理解して)自分の意見を表明する人の真剣なコメントで占められるべきで、どうしてそうならないのか、という嘆きが読み取れる。それは、既存のマスコミを駆逐し始めているかに見える、米国の良質な『個をエンパワーメントするツール』としてのブログを念頭において、日本のウェブが、2ちゃんねるはもとより、mixiのようなSNSでも、ブログでも(もちろん、はてぶのようなブックマークでも)、そのほとんどが日常の戯れ言の域を脱しないように見えることを嘆く思いが背景にあるのだろう。


せっかく、インターネットという、個人をエンパワーするツールがあり、世界に自分の活動と連携の場を広げて行ける場が今ここにあり、マスメディアの独占を退けて、総表現社会』の到来さえ間近に見えて来ているのに、なんというもったいないことなのか、ということだろう。それは、梅田氏の過去の著作やブログエントリーを拝見すれば、痛い程伝わってくることでもあり、気持ちはすごくよくわかる。


ただ、『理解不明だ』というのは、本当に梅田氏の本音だろうか。



繋がりの社会性


種々のブログを含めて、日本のインターネット/ウェブ社会(携帯ネットを含む)の発展を支えてきた原動力は、社会学者の北田暁大氏の言う『繋がりの社会性』にあることは、すでに多くの人が指摘して来たことでもあり、もうそろそろ定説と言ってよいのではないかと思う。このあたりのことについては、濱野智史氏の新著、『アーキテクチャーの生態系』*2に非常に解りやすく説明されている。(ちなみに、この本はネット社会考察という点では、名著と言ってよいと思う。別途書評は書きたいと考えている。)

(前略) たとえば、一日に何十通と交わされる『毛繕い的な』ケータイメールのやり取りや、コピペに満ちあふれた2ちゃんねるのコミュニケーションに顕著なように、もはや『交わされるメッセージについて合意できるかどうか』という<内容>の次元ではなく、『コミュニケーション=繋がりが成立している』という<事実>の次元に、主目的が置かれています。もはやそこでは一つ一つのコミュニケーションの内容自体は重要ではなく(あるいは盛り上がるための『きっかけ』にすぎず)、コミュニケーションをしているという事実を確認すること自体が自己目的化している、というわけです。  アーキテクチャーの生態系』P96

(前略) いわば『2ちゃんねらー的色眼鏡』をかけることでー、常に『メタレベル』から解釈のズレを差し挟み、アイロニカルな『嗤い』(相手を見下すような『笑い』のこと)を誘っていく。これが北田氏や鈴木氏の捉える2ちゃんねるのコミュニケーション作法です。(中略)


ネットイナゴ』と呼ぶほうが適していると指摘されています。同記事では『イナゴには悪意も善意もない。あるのはただ食欲のみだ』と形容しているのですが、換言すれば『繋がりの社会性』に興じる者たちは、右か左かといった政治的なイデオロギーの<内容>には関心がなく、祭りや炎上に参加しているという<事実>だけを求めているということです。 同掲書 P97

はてぶでも予想されたこと


ある程度のネットウオッチャーにとっては、これは実にリアリティーある説だ。日本である程度成功しているネット・コミュニティーには多かれ少なかれ見られる現象でもある。だから、はてぶのコメント欄など、典型的に『繋がりの社会性』現象がおきる設計になっているように見えるゆえに、対象となっている本を読まないコメントが互いに共振するように溢れてくるのは、むしろ自然なことに思える。(バカかどうかは判断や価値基準の問題だが・・) 


だから、梅田氏ほどのネットウオッチャーなら『理解不明』なのではなく、『理解できるが理解したくない』のではないか、と思えてしまう。同じく、『アーキテクチャーの生態系』で濱野氏が指摘されているように(P97〜98)、社会学者・吉田純氏の『インターネット空間の社会学*3(二〇〇〇年)にある、『パソコン通信の時代からある、草の根BBSに政治理念的な意味づけを見出すエヴァンジェリスト(伝道者)的言説と、BBSの『現場』でコミュニケーションを娯楽的に楽しむユーザーとの間の温度差』の典型例と言ってもよさそうだ。



日本の現実を認めるところから


この日本のネット社会の現実をどう見るか、どう評価するのか、という点で、私の見るところ、いわゆる『エヴァンジェリスト』にやや苛立ちと性急さが感じられるように思う日本社会の慣習、風土が米国のそれとは明確な違いがあるというところから出発しなければ、日本のネット社会の現実に対処していくことはできないと腹をくくることも必要なのではないか。インターネットが本格的に立ち上がって10年余り、急ピッチで社会の壮大な実験が行われてきたとも言える。インターネットがなければ解らなかったであろう、日本社会や日本人のメタの部分が大量に露出してきている。『ネットイナゴ』と形容されるようなネガの部分も、クローズアップされて誰の目にも明らかにさらされて来たこと自体、改革のプロセスと考えることはできないだろうか。これがなければ、潜在したままであったことを思えば、大変な進化のプロセスが生起していることを私はむしろ喜びたい。



議論をポジティブな方向へ


同時に、すべてネガだとは思わない。2ちゃんねるが玉石混交であることも誰もが認めるところであるとおり、すばらしい『玉』ももたらされている。しかも、泥の池に咲く睡蓮のような成果も、現実に存在する。それをどうすくいとっていくかは、日本のインターネットの更なる発展の鍵そのものだろう。その中で、はてな』のような先進企業に期待されるところはこれからもとても大きいと思う。


しばし、理想論にすぎると形容されることもある、梅田氏の言説だが、私はその志や理想を心から尊敬する一人だ。以前、ネットニュース『Newsing』を運営するマイネット・ジャパンの上原社長が『ブログ限界論』をぶち上げて、論争が起きたことがあったが、結局、議論が活性化して、ブログに対する関係者の理解も深まった。今回の騒動も是非そういうポジティブな方向に行くことを期待したい。

*1:

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

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*2:

アーキテクチャの生態系

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*3:

インターネット空間の社会学―情報ネットワーク社会と公共圏 (SEKAISHISO SEMINAR)

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