『ゼロ年代の想像力』に喚起された私の意見

ゼロ年代を代表する若手思想家 宇野常寛


宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力*1を読んだ。多くの書評でも絶賛されているように、確かに大変な力量のある若手の思想家/評論家が出てきたものだ。 この本は、主として、若年層、中でもいわゆるオタクが想定される読者だと思われるが、オタク文化が広範に、年齢層の枠を超えて浸透している現代の日本では、汎用性も十分にあり、正統な日本文化論/現代日本論と言ってよいと思う。90年代以降の日本の言論界を牽引し続けた、宮台真治氏、および東浩紀氏を批判的に継承するスタイルを取りながら、その二人からも絶賛されており、現段階で名実ともに『ゼロ年代(2000年代)を代表する若手思想家』と言ってよい存在だ。


現代社会の大問題が語られているのだが・・


ただ、惜しむらくは、この本が年代を超えて多くの人に読まれるかと言えば、それはまだ難しいのではないか。用語が特殊ということもあるし、分析の対象となっているのが、漫画、テレビドラマ等、いわゆる大人(だけではないが)には、まだまだ縁遠い分野だからだ。自分の知り合いの顔を思い出してみても、進んで読んでくれる人は少なそうだ。だが、ここで括りだされている問題は、それを知ろうが知るまいが現代社会のど真ん中にある大問題である。論点をできるだけ広い範囲の人にも考えてもらいたいと思わずにはいられない。


95年以降に起きた事


宇野氏の説明にそって、95年〜それ以降の時代に起きたことを書き抜くと、ざっと下記のようになる。



95年は決定的な年として記憶される
。それは、ポストモダン流動性が極点に達し、生きる意味や真正な価値を歴史や社会が示してくれない中で、目的を失った若者たちに、カルト的で幻想的な目的を与えたオウム真理教による、地下鉄サリン事件が起きる。90年代前半に渦巻いていた喪失感は、絶望として社会に共有されることになった。『世の中(社会)が正しい道を示してくれないのなら、何もしないで引きこもる』という思想を示す、『新世紀エヴァンゲリオン*2は若者に熱狂的に支持される。宮台真司氏は、『終わりなき日常をまったり生きろ』と言い、世界の物語=意味を断念することで生残る、という処方箋を示す。そして、『エヴァ』の子供たちは、セカイ系*3と呼ばれる、『無条件で自分にイノセントな愛情を捧げてくれる美少女からの全肯定』で満たされることを望む、引きこもり/心理主義の完成形へと至る。


ただ、ここからが、宇野氏の主張の中核であり、思想が語らなくなった空白というところなのだが、『95年の思想』はゼロ年代(2000年代)を待たずして早くも挫折し、『決断主義』に敗北する。引きこもり/心理主義によって肯定されるアイデンティティを保持するためには、共同性=小さな物語が必要で、その小さな物語は、その存在を維持するために時に他者に対して暴力性を発揮する(オウム真理教のように)。 よって、特定の小さな物語に依存することなく、価値観の宙刷りに耐えながら生きる、という成熟モデルだったはずの、『95年の思想』も、価値観の宙づりや物語から完全に自由ではあり得ない、人間を甘く見積もっていた。結局、性急に小さな物語を求め、その共同性の中で、思考停止する決断主義に回収されていく。そして、ゼロ年代は『物語回帰』していく。さらには、引きこもりでは生残れないことを悟った若者は、『小さな物語同士のバトルロワイヤル』へと移行していく。小さな物語の共同性を維持するために、異物を排除し、他の小さな物語との衝突を繰り返す。


宇野氏は、小さな物語への回帰=決断主義の問題点である、思考停止、排他性、暴力を態度にどう対処するかが私たちの課題とし、すでにその解決への試みとしての、『ポスト決断主義』とも言うべき、決断主義の問題に優れたアプローチを見せた想像力=作品が見れられるという。



ポスト決断主義に関する私の見解


この説明は、非常に明快で、時代の困難が実にすっきりとまとめられている。ただ、『ポスト決断主義』については、残念ながら私の想像力は追いついて行かない。これは、後日、示された作品群を読んで(観て)、再び考えてみたい。ただ、それでも、これからどうするのがよいか、という点については、幾つか疑問を呈し、多少の主張をしておきたい。もしかすると、ポスト決断主義のあり方につき、一つの提案となるのではと思えるのだ。


大きな物語の時代の『問題』

先ず、大きな物語があった時代の評価だが、国民経済の発展という点では、皆疑問を持つ事無く賢明に働く枠組み=共同幻想があったことが大変有効に働き、そういう意味で安定していたことは確かだ。だが、興味深いことに、宇野氏は今の時代が楽しいという。おそらく価値の宙吊り状態の中から自由に物語をつくり、選びとっていく力のある人にとっては、今の時代の自由さは大歓迎なのではないか。では、彼が高度成長期の大きな物語の時代にいたら、どうだろうか。あまりの息苦しさと、孤独にやりきれなくなるのではないか? 


少なくとも私はそうだった。あの時代、皆が大きな物語、特に私の周辺で言えば、日本会社共同体という大きな物語共同幻想に『引きこもり』、『思考停止』していた。表立った暴力は少なかったかもしれないが、比較弱者への抑圧、排除は驚く程強かった。映画『マトリックス*4を最初に観た時に、これは日本会社共同体にまさにピッタリのアナロジーだと感じたものだ。マトリックスが急に壊れれば、それは戸惑うのはあたりまえだろう。また引きこもりたくもなるかもしれない。でも、それは本当に選び取りたい未来なのだろうか? 


物語の貧困

人は世界に物語と意味を求め、それを断念することはできない、というのは私もそうだと思う。だが、小さな物語への回帰に伴う、思考停止、排他性、暴力が不可避となるのは、どうしてなのか。それは一つには物語自体が貧困である事と、物語に執着してとらわれてしまう、物語に対するあり方の問題ではないのか。


日本の戦後の物語は、貧しさからの脱却にリアリティがあった時代は機能しただろうが、消費が実需から記号となるポストモダンの時代には、瓦解するのは当然だ。そして、物語が多様になって豊かになるどころか、マネーという貧困で一元的な価値に誰もがとらわれてしまえば、如何にマネーの幻想、スーパーリッチへの憧れ物語をつむごうが、そこには飲めば飲むほど渇きが止まらない無限地獄しかなく、自己増殖して肥大化した物語が破裂すれば、破滅するしかない。日本では90年代に実際にそれは起きた。今また、アメリカで起きつつあるのかもしれない。物語を楽しむのはよい。しかし、貧困で一元的な価値に基づく貧困な物語に執着して思いっきり引っ張れば、破裂するしかない。


かつてはあった一つの回答

そして、物語への執着を自分で解く自由がなくなっているとすれば、他の物語との衝突は、暴力と排斥、乃至引きこもりしかないだろう。もちろん楽くもないはずだ。これは物語が大きいか小さいかという問題ではない。物語を執着することなく楽しむ、というあり方は、誰もが見失ってしまっている。それは大きな物語に自分自身を預け、思考停止していた結果、決定的に無くしてしまったあり方だとも言える。


だが、日本人の歴史の営為の中では、それは日本的な『締念』として一部に共有化された時代もあった。そして、その中から、『わび』『さび』というような高度な美意識も生まれて来た。日常からかけ離れた物事(=もの)に出会った時に生ずる、心の底から「ああ(=あはれ)」と思う何とも言いがたい感情、すなわちもののあわれというような高度な感情もあった。


なにもそこに戻るべき、というようなことを力説するつもりは無いが、少なくとも執着を排した物語へのあり方、そしてそこから湧き出る物語の豊穣さ、という点で参考にできるモデルであったはずだ。この点では、日本人や日本文化は残念ながら退化したというべきではないのか。だが、それに気づけば日本人の心の古層に眠っているこのお宝を利用できるチャンスはある。実際、日本のサブカルチャーと言われる分野でも、そういうきらめきと可能性を感じさせてくれる作品はちゃんとある。


こんなことを語りたくなるのも、宇野氏のような人が出てくればこそと、実のところ私は彼に感謝したい気持ちだったりする。できれば、もっと特定の年代や領域を超えて、このような議論を広がって欲しいものだと思う。そのきっかけをつくることができれば、それが今自分のできる日本の未来への貢献ではないかと考えている。