いつの間にかまた悲惨な歴史を繰り返すことのないように今考えたい

ナチスの残した教訓


ヨーロッパに赴任した旧友は歴史の大家と言っていい物知りなのだが、赴任早々のヨーロッパレポートは、予想通り、アウシュビッツや、マイダネクの収容所への訪問記だった。言わずと知れた、ナチスがユダヤ人を虐殺した収容所である。私自身、歴史は好きな方なので、ナチスが席巻した時期のドイツの歴史はかなり読んでいるが、何度読んでもあまりの悲惨さに胸が詰まる思いがする。だが、そうであればあるだけ、この歴史の教訓はきちんと勉強して、このようなことを起きないよう、できるだけ多くの教訓を引出しておきたいとも思う。


ヒットラーという狂気の天才がたまたまあの時あの場に登場した、というような一回限りの偶然ではなく、むしろ独裁者ヒットラーを生み出した背景を理解することこそ重要であることは、当時の状況を知れば知る程確信が深まってくる。再現性がある、ということだ。そういう意味では、自分たちにも勉強しておくべきことは沢山ある。


いきなり、ナチスのことを書いたのは、これに関係して最近、非常に気になる事があるからだ。優生学、ないし優生思想についてである。



優生思想とエスカレートしたナチス


優生思想については、その歴史はかなり古く、少なくともギリシアやローマ時代くらいには遡ることができる。ギリシアでもローマでも、奇形や不治の病を持って生まれてきた赤ん坊を遺棄する習慣があったし、中世でも社会的に恵まれない子供が大量に遺棄されたという。


近代の、所謂『優生学』は19世紀の後半に、進化論で有名なチャールズ・ダーウィンの従兄弟である、フランシス・ゴルドンが提唱したとされ、以降アメリカやイギリスを中心に流行することになる。やがて、この思想は、ナチスの優生的政策のバックボーンとなり、当初は、生産には何ら貢献しない人々を排除する目的の不妊化政策から始まるが、次第にエスカレートして、1939年には、精神疾患および身体障害を持つ人々に対する、安楽死計画が開始される。(ガス室も使用された) そして、後に何百万人ものユダヤ人の虐殺につながっていく


ナチスの酷薄さがあまりに際立つために、忘れられがちだが、優生思想というのは、当時イギリス、アメリカ等を中心に幅広く指示されていたゴルドンは従兄弟のダーウィンの進化論に着想を得て、優生学を生んだとされているが、同様に、進化論を社会学に応用した、イギリスのハーバート・スペンサーの社会ダーウィニズム(社会進化論)も思想的には同根と言って良いと思うが、これは欧米で非常に流行した思想であるだけでなく、日本にも紹介されて多くの信奉者を生んでいる。


スペンサーは、貧困層の大部分は生来価値のない人々であり、彼らやその子どもたちの生存に役立つようなことは何ら行なうべきではないと信じていたと言われ、劣等な性質を持つ人間は、ほっておけば将来自然に淘汰され減っていくから、保護や福祉は無駄だし必要もない、と考えていたという。劣等な性質を持つ人間は、殖えないようにしないと優秀な性質の人間の割合が減って人類の将来が危なくなると考える優生思想と表裏をなすものと言えるだろう。


各国に見られる優生思想の影響


ナチスほどの徹底ぶりはないにせよ、優生学的政策は各国で実行されていた。

必ずしも、裏を取った情報ではないので、多少の事実誤認はありうるが、大方下記ようなの状況であったことは事実のようだ。

アメリカは連邦レベルでは「断種法」を成立させたことはないものの、約30の州が、精神疾患精神遅滞の人々を対象にする強制的な断種法を制定した。1907〜60年までの間に少なくとも6万人がそれらの法律の適用を受けて不妊にさせられた。この政策の全盛期にあたる1930年代に断種された人の数は平均して毎年約5000人に達した。


カナダのアルバータ州は、1928〜60年まで同様の積極的計画を採用し、その法律に従って数千人が不妊化されることになった。


ヨーロッパで最初に「断種法」を成立させたのは1929年のデンマークであり、ついで1933年にドイツが法案を成立させ、1934年にはノルウェー、1935年にスウェーデンフィンランド、1936年にエストニア、さらに1937年にはアイスランドが続いた。

ナチスとアメリカの「優生思想」のつながり


日本にもこの影響は及んでいる。

1916年に保健衛生調査会が内務省に設置され、ハンセン病者への隔離を実施し、断種政策とも関連が深いらい予防法の制定へ向けて政府関係者自らが「民族浄化」を叫ぶなどした。

個人的見解


個人的な見解を言えば、そもそもダーウィンの進化論自体、信憑性が疑わしいと考えるのだが、まして、それを社会学に適用することは、単なるイデオロギーでしかなく、科学的でもなければ、蓋然性もない。そもそも何を基準に人間の優劣を決めるのか。その基準は一体何が根拠なのか。遺伝障害を持つ事や身体障害を持つ事と人間の真の価値とは全く別のことではないのか。そもそも進化とは何か? 身体的能力が高くなることだろうか? IQが高くなることだろうか? そんな進化が本当に良いものなのか?『科学の価値中立性』とやらを持って、このような問いは科学の答える範疇にない、というような態度をあからさまに取る人がいるが、少なくとも私はそのような科学は社会の未来に何ら良きものをもたらすことはないと信じる。


新しいタイプの優生学の気配


現代では、優生学は『疑似科学』とされ、さすがにここまで露骨な優生思想は批判も強く、旗色はよくないとは思うが、遺伝子科学自体は非常に進歩してきており、それとともに、新しいタイプの優生学が復活してきているのではないかと思えてならない。http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/b/soc_yusei.html でまとめて述べてあるので、引用させていただくが、多かれ少なかれ、誰もが思い当たるところだろう。


* 精子・胚銀行で好みの遺伝子を選り好み
* 遺伝子情報の内容で就職サベツ、保険サベツ
* 好みじゃない子は失敗作 → 堕胎
* 障がい者は不幸なはずで不経済だから生まれるのがマチガイ
* 良い子を産まない女は劣った女、反社会的な女
* 好みや利潤基準の子供選びが希望の未来を保証するという妄想

アンチテーゼとしてのマザー・テレサ


この話題を取り上げるとき、いつも思い出すのは、亡くなってからすでに10年以上たってしまったが、マザー・テレサのことだ。彼女がインドのコルカタカルカッタ)に開設した、「死を待つ人々の家」のコンセプトを最初に知った時には本当に衝撃を受けたものだ。そこでは、行き倒れた人たちの治療更生が主な目的ではない。これから死に行く人が、誰からも顧みられず死んで行くのではなく、最後に人間として扱われ、人間の尊厳を取り戻してから死んで行けるようにすることが目的だ。まさに、優生思想や社会的ダーウィニズムの対極にある発想である。


社会的ダーウィニズムの考え方で言えば、コルカタカルカッタ)でゴミのように行き倒れた人の面倒を見るなど、無駄という以上に罪悪ということになるのだろう。けれでも、どちらが本当に正しいことなのだろうか? 誰が何と言おうと私は、マザー・テレサを支持する。彼女は、難しい議論をする暇があれば、人を助けなさい、と言い続けた人だ。科学がどうとか理論がどうということは初めから興味がない。だが、彼女の前で、科学や理論がいかほどのものだろうか。


インドのコルカタカルカッタ)のスラムは、様々な国のスラムを見て来た私から見ても、かなりのすごさだ。日本人の清潔感を普通に持った人なら、半日といられないだろう。そんな中で、マザーテレサは平然と倒れた人を抱き起こして来たのだと思うと、尋常な覚悟ではないことがひしひしと伝わってくる。


人間の価値に係わる判断をする時に、しばしば科学も理論も役に立たない。そういう謙虚さは忘れないようにしたいものだと思う。