新しい社会に乗り遅れないように

サービス産業も支配する『工業社会のフレーム』


昨日のエントリー古い価値観を脱ぎ捨てる時 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観るが長い導入部になってしまったが、これから本格的にすべての人、特にビジネスパーソンを巻き込んで行くと考えられる変化についてもう少し具体的にお話してみたい。そのために、小坂裕司氏の新著、『ビジネス脳を磨く』*1に大変わかりやすい説明があるので、引用させていただきつつ進めたい。


小坂氏は、著書で、日本の多くの人は、旧いフレームである、『工業社会のフレーム』から世界を見ている可能性がある、という。では、工業社会とは何か。それは、高品質かつ均質なものが大量に生み出せるようになったこと、すなわち大量生産社会を意味する。そして、高品質な製品をいかに均質に、いかに効率よく大量に生産するか、いかに効率よく運ぶか、いかに効率よく大量に販売するかがビジネスの大テーマとなって広がって行った、とする。


だが、工業というのはいわゆる第二次産業で、すでに日本は就業人口総数に占める第三次産業従事者の比率が65%を超えており、工業社会ではなく、サービス産業社会ではないか、という反論が予想される。昨日もふれたダニエル・ベルの言う脱工業社会は、社会統計上はとっくの昔に来ていたはずで、それから半世紀も過ぎようとしている今、サービス産業社会の価値やパラダイムががまだやって来ていないというのはおかしくはないか、ということにもなろう。しかし、小坂氏は、従来のサービス業は、工業社会の価値の枠内にあるのだという。



P32
同じテーマは、こうしたビジネスを実現するためのテクノロジーの発達とあいまって、サービス業にまで発展した。高品質なサービスをいかに均質に、いかに大量に提供するか。そのテーマに基づいた飲食サービス、理美容サービス、ホテルサービスなど、工業社会の強みを生かしたさまざまなサービス業が生まれていった。(中略)広がって行ったサービス業は、まさに工業社会のものであった。


マーケティングのカリスマの一人、セオドア・レビット氏がかつて、マクドナルドのサービスは工場の管理手法をサービスに取り入れて成功しているということを論文で指摘されていたが、確かに今だにほとんどのサービス業は、工業社会の価値の支配下にあると私も思う。小坂氏のおっしゃる通り、『今もなおビジネスのフレームは工業社会のフレームそのまま』だと思う。



工業社会のフレーム『リザルト・パラダイム


このあたりのことを説明するために、館岡康雄氏の『利他性の経済学』*2という本に言及されているが、工業社会のフレームを『リザルト(結果)パラダイムと規定した上で、下記の部分が引用されている。

P34
リザルトの時代には、過去の活動の結果に注目して計画を立て、活動を左右する要因と結果の直接的な関係によって将来を予測しながら、目標と活動の結果のズレに注目して進めていく方法が有効だったと氏はいう。交通渋滞問題を例に取れば、どれくらいの大きさの橋をいくつ架けるとどのくらい混雑が解消したかという、過去のルール(成功体験)によって橋を架け、その後実際の緩衝結果と目標のズレに注目しながら進めて行くやり方だ。この時代には、およそこうすればこうなるということが読めるので、ある時間幅で計画を立て、成果を最大にしようとすることでよかったのだと。 しがたって、活動は系内で最適な解を求めることになり、ルールの源は過去にあって参加者に共有化されており、結果が大事でそれを高めようとする。いわゆるノルマ(結果)第一主義の世界である。再現性が重視されることになっていく。


社会の変化速度が遅い時代には、このリザルト・パラダイムが有効に機能して、それまでとは劇的に異なる世界を現出させたという。それは、すでに私たちが、産業革命以来の歴史として学んで来たことだ。具体的には、テーラー・システム*3とかフォード・システム*4という単純かつ効率的なシステムが考案され、さらに、人々の嗜好が複雑になって来たあたりから、GMの中興の祖といわれる、アルフレッド・スローン氏*5が構築した、近代のマーケティングの仕組みを含め、すべて再現性が最重視され、『過去の分析 → 仮説 → 結果 → 誤差の発見 → 修正 → 新たな仮説の構築』という工程が科学的で最も優れた手法とされて来ている。


日本でも、品質管理手法としてだけではなく、経営管理手法として、ウォルター・シューハート氏(Walter A. Shewhart)、エドワーズ・デミング氏(W. Edwards Deming)らによって提唱された、PDCAサイクル(Plan Do Check Action) *6は広く浸透しているはずだ。これは、まさに、リザルト・パラダイムを体現した手法と言える。



もはやまったく違う


しかしながら、小坂氏が引用する館岡氏の言として、新たな社会は『もはや一刻も止まっていることが許されない、次から次へと絶え間なく動いているのであり、インプットに対するアウトプットがカオス的で予想が立たない』として、変化に対応したあらたなパラダイムが必要であると主張されているという。この部分は、本当に重要だ。これからどのような変化がやってくるにせよ、根本原因はここにある。


どうしてこういう変化が起こるのか。インターネットによる膨大な量による情報が流通し、それを処理することに慣れることによって、われわれの能力や感じ方は大きく変化するという。そして、高いレベルで情報を処理するメカニズムを身につけた人は感性が高いレベルに発達して、社会は『感性社会』となるというのが小坂氏の考え方だ。ここで言う、『感性』というのは、いわゆるエモーションやセンシティビティー等のことではなく、氏の定義によれば、右脳的な働きと論理を司る左脳的な働きを高いレベルで統合することができる能力とされている。言わんとすることはわからないではないが、これだけで理解するのは、難しそうだ。


多少話を戻して、館岡氏の表現する社会の特徴(小坂氏によると感性社会の際立った特徴ということになるが)は以下の3つだという。

  • もはや一刻も止まっていることが許されない
  • 次から次へと絶え間なく動いている
  • インプットに対するアウトプットがカオス的で予想が立たない


それを受けて、小坂氏の感性社会の特徴は以下の3だという。

  • 『これをやれば必ずこうなる』という決まりきった解答がない(誰もがこれさえやればうまくいくという類いの単一の解もない)
  • 今日の解は明日の解ではない
  • 他社の解は自社の解ではない(真似しても使えない)

工業社会における経営手法の陳腐化


工業社会に有効だった手法を例にあげて説明すると、多少わかりやすくなるだろうか。


PDCA

まず、PDCAサイクルは非常に限定的にしか使えない。特にマーケティング/セールス/商品企画/経営の領域で使うと判断を誤る可能性が高い。(というより、絶対に使っては行けない、と言っておいたほうがよいのかもしれない。あるインプットに対して同じアウトプットが期待できないのであるから、PDCAサイクル手法への過度な依存こそ、要注意ということになる。


ベンチマーキング*7

他社のベストプラクティスを継続的に比較する、というこの手法も、自社で他社事例をそのまま流用して使うようなことはけしてやってはいけない。情報をきちんと取るという点は相変わらず重要だが、ベストプラクティスの実例と同時に、そのことが行われているコンテキスト(文脈)も同時にきちんと調べて、自社に導入するためには、どうすればいいのか、それこそ『感性』を総動員して、スクリーニングをしないといけない。何もしないでまねることが、最も危険だ。


統計分析手法

これも言うまでもあるまい。実際に私自身、精緻な統計を駆使して、予測精度をあげるような仕事に取組んだことがあるが、従来の視点は、完璧に統御された条件をつくることができれば、統計分析で市場をほぼ把握できるというものだった。だが、もうその前提自体が変わってしまっている。この手法で得られる情報を過信するととんでもないことになる。


付加価値による差別化

この付加価値というのも、工業社会で言うところの付加価値は、多くは機能追加だろう。ところが、機能追加というインプットが単純なアウトプット(販売増)にはならない。機能追加競争が、商品のコモディティ化を早めることは、私のブログでも再三述べたことだが、それ以上に、ユーザーに受け入れられるか、はっきりと予想できない、というのがポイントだ。


小坂氏は、工業化社会のパラダイムで今でも仕事をしようとする人に、昔話のたとえを持ってその問題点を指摘する。(小坂氏自身が昔はそうだったと告白されている。) 『花咲か爺さん』や『こぶとり爺さん』の話は、よい爺さんがやったことをそのまま真似してひどい目に遭うよくばり爺さんの話だが、これがまさに他社のうまくいった方策をそのままやって失敗する会社のたとえとして、実に面白い。残念なことに、今の日本市場には、たくさんの『よくばり爺さん』で溢れている。



今の市場で勝つには?


現代の市場で勝つためのコツ、があるとすると、『自ら考え創造し続ける』ことが基本だが、もう一つ、『市場で考えて創ってもらう』というあり方が出て来ている。後者など、工業化社会で育ったビジネスマンには、おそらく本音のところ、全く理解不能なのではないだろうか。それはインターネットの世界ではあたりまえになりつつあって、若年層はそのパラダイムを自然に受け入れているのとは好対照で、ここにも結果的に年齢でわけられてしまう断層が生まれる素地があるように思われる。所謂、『ベータ版*8文化』というのも市場に聞くというありかたの一つなのだが、下記のエントリーにこのあたりの状況が非常にわかりやすく書かれている。少し長いが引用させて頂こう。


またまた「ひろゆき」氏*9の話になります。

僕はPCのベータ版の文化なんですよね。出して間違ったら直すみたいな。ドワンゴってモバイルの課金サイトの文化が強くて、品質を保障した上で出すというのがあるから、根本的に違ううんですよね。(Internet watch


ひろゆき氏の属するニワンゴ社のサービスのリリースについて語った一文ですが、含蓄があります。


ベータ版の文化。


奇しくもこのブログもベータ(β)という単語がついていますが、β版の文化というか、ベータ主義というのが気になってます。


とにかくスピードを重視するとか、間違っていたらすぐに直すリアルタイム性とか、ベータであることを自己責任で理解しつつツッコミを入れるオーディエンスとか、いわゆるベータ主義みたいなものを受け入れるかどうかで世代が分かれるんじゃないかと。ここでいう世代は、必ずしも何年生まれというわけでもないですが。


ブログなんか典型的にベータ文化であって、間違ってたらすぐ直せばいいし、そこから生まれる発展性みたいなものがむしろ重要だったりします。インタラクティブとかツッコミビリティとかいわれたりしますが、むしろベータ版であることが重要であって、それを良しとしつつも改善するという独特の楽天主義というか、とにかく行動する、間違ってることを怖がらないというベータ文化はひとつの本質ではないかと。


世の中はある程度「品質のしっかりしたものを提供する」という、いってみれば完成版の文化で回っているような気もしますが、科学の理論やすべての製品、そして個々の人生を含めて、完成版というのはほとんど存在しないわけです

[ http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/50933372.html]


新しいパラダイムの下では、どうあるべきなのか、という点については、若干のヒントを提示するだけになってしまったが、今後、私のブログの中心テーマの一つとして繰り返しお話していきたいと思っているので、興味のあるかたはまた読んでみて頂きたい。