情報通信白書を読んで考えてみたこと

 情報通信白書 読書会


先日、国際大学GLOCOMで行われた、『平成28年版情報通信白書』読書会に参加してきたので、それをきっかけして考えたことをここにまとめておこうと思う。


イベントの概要は下記の通り。


<日時>
2016年8月10日(水)15:00〜17:00

<講師>
柴崎 哲也(総務省情報通信国際戦略局情報通信経済室長)

<コメンテータ>
砂田 薫(国際大学GLOCOM主幹研究員/『情報通信白書』編集委員

<会場>
国際大学グローバル・コミュニケーション・センター

『平成28年版情報通信白書』読書会【公開コロキウム】 | 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター



 気づきを得ることができる白書の読書会


情報通信白書のような資料は、毎年同時期に発表される最新の総括的なデータ集として、多数のデータの束で切り取られた現在を一覧し、同時に、昨年との差分に注目することで、その背景にある動向を知るきっかけとして大変重宝することもあり、ここ数年発表されると同時にチェックすることにしている。


このような分厚い白書を読み込むにあたっては、自らの先入観や思い込み、勘違い等が妨げとなってしまい、それを是正するどころか強化してしまうことも少なくないため、読書会のような場を設定していただけることは非常にありがたい。白書の編集責任者の作成の意図や方針、あるいは裏話等が補助線として大変参考になることは言うまでもないが、時にはそれ以上に会場の参加者の質問にハッとさせられることも少なくない。幸い今回もそのような貴重な気づきを得ることができた。この場を借りて感謝申し上げたい。



『常識』が妨げになる?


今回は、従来の白書と比較しても、その取扱い範囲はかなり拡大されており、AI(人工知能)、IoT(モノのインターネット)、ビッグデータ等の将来予測にまで言及している。確かにこれらの技術はどれも情報通信技術と渾然一体となりつつある現状を勘案すれば情報通信白書が取り扱うことも必然とも思えて来る。だが、AIにしても、IoTにしても、それぞれに技術的にも、社会の側での需要/受容についても、かなりのレベルの専門性がなければ、そもそも予測を行うこと自体が難しいし、専門家といっても、すべての領域をカバーできるわけではない。加えて、白書の場合、読者の層を狭く限定することはできないだろうから、あまりに斬新な発想を入れることは難しく、どうしても広範囲の読者を相手にして、皆が理解できる程度にまでレベルを調整する必要もあるはずだ。このような前提条件のもとでは、誰が担当しようと大変な労苦を伴う作業となったであろうことは容易に想像がつく。


この結果、やや気になるのは『常識バイアス』だ。常識の範囲内でまとめあげようとの意図が(意識的であれ無意識的であれ)これらの技術の内包する底の計り知れない深淵を覗かせず、議論を穏便な、常識的なレベルに押し留めている印象がある。現代のような破壊的な技術進化の時代には、それ以前の『常識』や『パラダイム』が未来を予測するにあたっては参考にならないばかりか、妨げになってしまうことが多く、それまでの『常識』から如何に自由になれるかどうかで、未来予測の精度は決まるといってもいいくらいだから、これは読む側にとっては見えない壁になりかねない。


『常識バイアス』の実例は、インターネット普及前と普及後を比較すれば、いくらでも見つけることができる。例えば、それ以前の常識が完全に覆った象徴的な事例に、Wikipediaの成功がある。かつては百科事典の類は、専門家によって執筆/監修され、出版社によって発行される一方向からのものであり、それ以外の可能性など想像すらできなかった。だから、当初Wikipediaが出てきて、誰でも執筆や編集に参加できると聞いた時、百科事典と同列に比較すること自体、馬鹿馬鹿しいと誰もが思ったはずだ(恥ずかしながら私もそう思った)。だが、今でも信頼性に問題ありとする意見は根強いとは言え、Wikipediaは規模としては世界最大の百科事典となり、信頼性や正確性でさえ従来の百科事典と比較しても遜色ないと評価されるまでになった。


ソフトウェアについても、従来はマイクロソフトWindowsのようないわゆる、プロプライエタリ・ソフトウェア(ソフトウェアの配布者が、利用者の持つ権利を制限的にすることで自身や利用者の利益およびセキュリティを保持しようとするソフトウェア)が主流であり、その頃は、オープンソース・ソフトウェアは、『市場の片隅で行われている物好きのお遊び』と酷評する向きもさえあったものだが、現在では、軍事や社会インフラなどの高度なセキュリティを要求される特定の分野を除いて、オープンソースの方が主流になりつつある。


このような価値転換を事前に予測することは極めて困難であったが、最大の障害は、その当時の『常識』だったことは、今となっては明らかだ。


今後はインターネットによる変革をはるかに上回るドラスティックな価値転換が起きてくることは確実だ。この価値転換、あるいは、新しい常識の出現につき、何らかの(そしておそらくはかなり斬新な)仮説を提示しない限り、未来予測自体が成立しないと言わざるをえない。そのあたりを白書のような刊行物に求めるのは、過大な期待ではあろうが、一方で大変意欲的な切り口が提示されていて、読む側を非常に刺激する内容であるだけに、期待も過剰気味になってしまう。



 解明しておくべき『シェア』の概念


もちろん、白書にも今後の価値転換の中核とも言える『シェア』等の概念も扱われている。今後はもっと『シェア』が一般的になり、資産保有から資産利用へのシフトが進むと予測している。タクシー配車サービスのUberや宿泊施設・民宿を貸し出す宿泊予約サイトAirbnbの成功もあって、シェアはすでに常識になりつつあるといってもいいのかもしれない。ただ、この『シェア』だが、旧来の『シェア』とは概念自体も、それが浸透するプロセスも、かなり様相が違ってくると考えられる。それを明らかにしておかなければ近未来の価値転換の本質を理解することは難しいように思う。


ある年代以上の人多くは、いまだに『シェア』が新しい常識になるとは本音のところでは信じていない。それどころか、そのような概念は泡沫のようなもので、決して社会に根付くような種類のものではない、という『常識』というか、『信念』を持っている人が多い。従前のインフラを前提とすれば、資産の分配や利用について、市場を介さない(貨幣経済の助けを借りない)『シェア』が機能するとすれば、何らかのコミュニティによる調整機能が必要ということになる。そして、コミュニティの信頼関係、贈与、相互扶助等が『シェア』実現の前提条件となると考えられる。だが、現実にはどんなコミュニティであれ、内部での人間関係の軋轢を避けることは難しく、支配/被支配関係に悩まされ、利害関係の調整に骨が折れ、結局うまくいかないことが多い。だから、結局のところ『シェア』はマイナーな存在であり続ける、それが旧世代の『常識』だ。


だが、今後主流になってくるであろう『シェア』は、既存の市場を補完するプラットフォームが構築され、プラットフォームが介在することで後押しされることになる。『シェア』をめぐる諸相は一変すると考えられる。


 生態系化するプラットフォーム


『WIRED』誌の創刊編集長をつとめ、技術分野の未来予測に関して重要な著作を持つ、ケヴィン・ケリーの新著『<インターネット>の次に来るものー未来を決める12の法則』*1には『必ず起こる未来』が取り扱われていて、『シェア』の本質を考えるにあたっても、非常に示唆に富んでいる。(ケリーは『テクノロジーには、ある方向に向かっていく趨勢していくというバイアスがある』としたうえで、このバイアスを見極めれば、『必ず来る未来』が予測できると言う。)


ケリーが第三世代と定義する最新のプラットフォームは、市場でも組織でもない、何か新しいものになりつつある。その基盤上で他の組織にプロダクトやサービスを作らせ、相互に高いレベルで相互依存する、いわゆる『エコシステム=生態系』が形成される。各プラットフォーマーは、そこにできるだけ豊な『エコシステム』ができて、参加者が増えることで自らの価値が高まることを理解しているから、APIをどんどん公開し、フリーやシェアで使えるものを増やし、サードパーティーがそこで動くプロダクトやプラグインが可能な限り増えるよう、敷居を下げる。そのプラットフォームの持つ性質が『シェア』促進の起爆剤となる。

プラットフォームはそのほとんどすべてのレベルにおいて、シェアすることがデフォルトとなる。ーたとえ競合が基本にあったとしてもだ。あなたの成功は他者の成功にかかっている。プラットフォームの中で所有の概念に固執するのは、「個人の財産」という考え方を前提とするため問題を引き起こす。エコシステムでは「個人」も「財産」もあまり意味をなさないからだ。より多くのものが共有されるにつれ、財産としての意味はなくなっていく。プラットフォームの中で、プライバシーが失われ(個人の生活がいつもシェアされる)、海賊行為(知的財産権の無視)がさらに増えることが同時に起こるのは偶然ではない。(中略)脱物質化や脱中心化や大規模なコミュニケーションはすべて、さらなるプラットフォームを生み出していくことになる。プラットフォームはサービスの工場であり、サービスは所有よりアクセスを好むのだ。

『<インターネット>の次に来るもの』より


さらには、今後は、情報やコンテンツだけではなく、自動車のようなプロダクトでさえ、デジタル情報に還元され、クラウドに蓄積され、利用のためのコストは下がり、個人の所有物という孤立した領域から離れ、AIやその他のクラウドの利点を全面的に活かせるような共有されたクラウドの世界へと移っていくクラウドとAIは一体化し、そのメリットが大きくなればなるほど、デジタル情報化/クラウド化は進むことになる。その結果、資産保有より資産利用のメリットがスパイラル的に向上していくことになる。



 所有からアクセスにシフトする『自己』


これまでは、あるモノ(例えば自動車)を他人に妨げられることなく自由に使うためには『所有』する必要があった。自分が所有するモノには、愛着も出てくるだろうし、場合によっては一種のフェティシズム(物品や生き物、人体の一部などに引き寄せられ、魅惑を感じること)のような感情も湧くことになる。このようなモノをいきなり『シェア』してくれと言われても、いかに経済的な合理性があったとしても、いかに、綺麗に、壊れないように使われたとしても、持ち主は(しばし説明のしにくい)自らの身体を侵食されるような不快な感情を払拭できないはずだ。モノはいわば拡張された自己だったといえる。


ところが、今後は(すでに?)仕事もあらゆる楽しみもすべてクラウド上にあって自分とつながることになる。そうなるとクラウドが拡張された自己になり、そこにアイデンティティーが形成されることになる。ケリーは、拡張された自己は所有するものではなく、アクセスするものになると述べる。そして、十代の娘に約束を破ったお仕置きとして、彼女の携帯電話を没収した友人夫婦の例を紹介している。その娘は気分が悪くなって吐いたという。彼女はまるで自分の体が切断されたように感じたのだ。すでに十代の若者にとっては、クラウドによって得られた快適さや新しいアイデンティティーから引き離されることは恐ろしく耐えがたいことになっていると考えられる。


ここでは、『シェア』は『常識』だが、その『常識』は旧来の延長上にはなく、誰しも想像もできなかったものとして生起しつつある。ここまで踏み込んで初めて、『シェア』の概念を通じて見えてくる未来の本当の意味がわかってくる。


 非貨幣的価値と公共政策の方向


少々脱線が過ぎた気がするが、再び白書に戻ると、今回の白書で、私が最も興味を魅かれ、かつ、評価したいたのは、消費者のICTの非貨幣的価値に言及している部分だ。AIのような先端技術の進化の負の側面として、AIが既存の人間の仕事を次々と置き換えていく結果、その変化についていけずに大量に失業者が出たり、貧富の差が広がり、貧困の問題が深刻になる等の指摘がある。企業主導で技術進化が進む限り、弱者が置いていかれる可能性は常にあるわけだが、これが極端に進む懸念がある。


ところが、一方で、ICTの進化は、副産物として消費者にとっての非貨幣的価値を数多く生むと白書は指摘している。これはここまで述べてきたような、プラットフォームの生態系化が必然的に生み出す副産物ともいえる。白書では、これを経営学者のエリック・ブリニュルフソンの『ザ・セカンド・マシン・エイジ』*2より事例を取り上げて整理し、次のような一覧表を作成して掲載している。


社会で競争が続く限り、技術進化のスピードを押しとどめることは原則難しい。であれば、むしろそれを受け入れた上で、このような副産物を最大限に利用することを検討するほうが賢明だ。近未来の社会政策の中核として取り組むべき課題ともいえる。B to B(ビジネス to ビジネス、企業間取引)あるいは、B to C(ビジネス to 消費者)の仕組みとしてスタートしたはずのプラットフォームは、生態系化が進むうちに、C to C(消費者 to 消費者)のインフラとしての利便性も格段に向上していくであろうことも、この表からも読み取れるはずだ。それはまた、消費者と消費者の交換、すなわち『シェア』が促進されていくことが暗示されているともいえる。


また、現在では、『初期のインターネットの理想や夢』(ヒッピー的な理想主義:相互扶助や贈与で運営されるコミュニティの形成、完全な民主主義の実現等々)から皆が覚めて、あつものに懲りて鱠をふくような空気があるが、ライターのスティーブン・ジョンソンが著書『ピア: ネットワークの縁から未来をデザインする方法』*3で、『コミュニティ内の情報の流れと意思決定をコントロールする力を人にたくさん与えれば与えるほど、社会の健全性が向上する。その向上は漸進的で間欠的だが、確実に起こる』と述べているように、まだ夢のすべてを諦めてしまうのは早計だし、生態系化するプラットフォームはそのような夢の実現を再び後押しする予感もある。企業であれ、公共機関であれ、もっと小さなコミュニティであれ、少数のリーダーに権力が集中しすぎると、ハイエク社会主義体制の中央集権的計画立案者に見出したのとまったく同じ問題にぶつかることになる。意思決定に関与する人のネットワークを拡張して多様化したほうがうまくいくケースはいくらでもあるはずだ。そういう意味ではまだ未踏の領域はたくさん残っている。


このように考えていくと、低所得者や社会的弱者にこのような恩恵が及ぶような政策は不可欠ということになる。会場からの質問にもあったが、白書によれば、年収400万円以下の層のインターネット利用率は低いだけではなく、低減傾向にあるが、これは実に困った兆候ということになろう。次年度の取り組み課題として、この辺りはもっとクローズアップしていくべきだろう。


白書を通じて、私の思考(妄想?)も膨らむだけ膨らんだ感じだが、そのような思考や想像の翼を広げるきっかけとなることは大いに期待してよいと思う。そういう意味でも、この白書を熟読してみることを、あらためておすすめしておきたいと思う。

*1:

〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則

〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則

*2:

ザ・セカンド・マシン・エイジ

ザ・セカンド・マシン・エイジ

*3:

ピア: ネットワークの縁から未来をデザインする方法

ピア: ネットワークの縁から未来をデザインする方法

日本発のネット関連サービスを再び世界へ


 日本発のネット関連サービスの勝ち組


『日本の発のインターネット関連サービスの海外進出による成功はどうすれば可能なのか。そもそも可能性があるのか。』


これは本来とても重要な問いだと思うのだが、さびしいことに昨今ではそのような問い自体が少なくなってしまったという印象がある。それどころか、肝心の日本市場でさえ、強大な外資企業に伍して日本発のサービスが生き残ることができるかどうかがもっと差し迫った重大な課題だったりする。SNSサービスのmixiのように、一旦は日本市場で不動の地位を築いていたはずだったのに、いくつかのサービス設計上の判断ミスが重なったと思ったら、瞬く間にFacebookTwitterのような米国発のサービスに圧倒されて衰退してしまった事例は記憶に新しい。


もちろん、今の日本にもいくつかの優良なサービスがある。例えば、動画共有サービスの『ニコニコ動画』、ネットショッピングの『楽天市場』、メッセージサービスの『LINE』、その他にも口コミ情報からグルメ情報を探せる『食べログ』、料理レシピのコミュニティサイト『クックパッド』等、いずれも日本のユーザーの嗜好や特性を十分に理解した上で設計されたサービスで確固たる地位を築いている。


特に、ニコニコ動画にはYoutube楽天市場にはAmazon、LINEにはFacebookメッセンジャーなど、市場に強力な主要米国大手IT企業、いわゆる、GAFA(GoogleAppleFacebookAmazonの略)のサービスがありながら、押し流されることなく堂々と渡り合っているといえる。もちろんクックパッド食べログとて、Googleの検索やFacebookの友人からの情報等、代替手段が沢山ある中で、日本人の機微に触れる情報やサービスを提供して健闘している。


ソニーやシャープ等のかつては世界市場を席巻した優良企業でさえ、GAFAの攻勢に耐えかねて負け組に転落していく中、これらの日本企業が過激とも言える競争環境で生き延びていく姿は、颯爽としており、また、ここには他企業にとっても重要なヒント/教訓が潜んでいるように思えて、ずっと以前から注目してきた。



 勝っている理由


では、日本市場における『勝ち組』の勝っている根本的な理由、『コア』と言える理由は何だろう。すでにある程度評価も定まってきているこれらのサービスについては、様々な説を見つけることができる。多少異論もあるかもしれないが、大方下記のような説明が一般に認知されている内容といってよいのではないか。


ニコニコ動画

初音ミクなどの『ボカロ曲』や、それらを『歌ってみた』『踊ってみた』動画といったニコ動の人気コンテンツに見られるような、日本の独特なオタク系のテーストに溢れたコンテンツがコアなファンに熱狂的に受け入れられている。


LINE:

もともと日本人のコミュニケーションは、言語で厳密な意味を伝えるより、何気ない気持ちや感情を身振りや素振り等非言語的な表現方法を駆使して伝え合うことを好む傾向が見られるが(言葉を使いすぎることは無粋)、そこにエンタメ性を帯び、日本人の感性にジャストフィットしたスタンプのようなツールを持ち込み、それが新感覚のコミュニケーションとして特にバイラルを生みやすい若年女性を中心に口コミで広がった。


楽天市場

物を売り買いする際にも、必要最小限で事務的なコミュニケーションより、店員や居合わせた客との濃密な会話や一期一会の出会いを楽しむことを大事にして、買う物を時間をかけて選ぶことを楽しむ日本人の性向にフィットした仕組みを、ネット通販の場に持ち込むことに成功した。


効率性、ローコスト、ハイ・スピード、シンプルな使い易さ等、世界中の誰でも簡単に使うことが出来きるような、仕組みを設計することは、米国発のIT企業が最も得意とするところであり、日本市場でもそのようなサービスの多くは成功しているが、それに味気なさを感じてしまうユーザーが日本には少なくないこともあり、それを理解してサービス設計できる日本企業には独自の参入障壁を構築することが可能になる。すなわち、GAFAの出自である米国と、日本との間には明確に文化の違いがあり、これをうまく利用することは、ネットサービスにおける参入障壁構築に有効と考えられるということだ。この『違い』については、すでに言い尽くされた感もあるが、このようなケースでは、ローコンテクスト文化(米国)とハイコンテクスト文化(日本)という対比によって語られることが多い。



 ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化


ハイコンテクスト文化というのは、文化人類学者のE・H・ホールが定義した文化の区分の一つで、コミュニケーションに際して共有されている体験や感覚、価値観などが多く、『以心伝心』で意思伝達が行われる傾向が強い文化のことをいう。日本文化は、『空気を読む』ことや、『状況を察する』ことが重視されることにみられる通り、典型的なハイコンテクスト文化であり、それに対して、米国のように言語による意思伝達に対する依存の強い文化をローコンテクスト文化という。


それぞれ、下記のような特長が指摘されている。

ハイコンテクスト文化

直接的表現より単純表現や凝った描写を好む
曖昧な表現を好む
多く話さない
論理的飛躍が許される
質疑応答の直接性を重要視しない


ローコンテクスト文化

直接的で解りやすい表現を好む
言語に対し高い価値と積極的な姿勢を示す
単純でシンプルな理論を好む
明示的な表現を好む
寡黙であることを評価しない
論理的飛躍を好まない
質疑応答では直接的に答える

ハイコンテクストとローコンテクストの違い


日本では、より短い言葉で多くの状況や気持ちを表現方法することが美意識に叶うと感じる人が多く、語りすぎることことは時に無粋であり、美しくないと感じる傾向がある。もちろんこれは日本の文化、コンテクストを共有できていることが前提となっており、非常に閉鎖性が強いコミュニティケーションであることは言うまでもない。日本人、乃至日本文化に慣れてしまった人は、コンテクストフリー(関係や状況やに左右されない)のコミュニティケーション・スキルが必要とされるグローバル・エコノミーの戦場では不利になりがちだ。これは、時に、ツールとしての英語が苦手、という以上の障害になる。


世界市場に日本で設計されたサービスを直接持ち込んでも、ローコンテクスト文化の地では受け入れられにくいと考えられるし、同じハイコンテクスト文化の地であっても、日本との文化の違いが大きければ、そのままで受け入れられるとは限らない。場合によっては、無用な摩擦やトラブルを招くこともあるかもしれない。



 日本の勝ち組でさえ・・


ここで例にあげた日本における勝ち組も、それぞれ海外進出にチャレンジしている。しかしながら、残念なことにどこも捗々しい実績をあげているとは言い難い。この中では、LINEは、少なくとも海外進出で一定の成果を出してはいる。だが、 当初は、Facebook等を向こうに回して、世界市場を席巻することを宣言していたし、現実にその予感を感じさせられたこともあった。日本はハイコンテクスト文化という意味では最右翼ともいえる存在だが、世界には日本以外にもハイコンテクスト文化はいくらでもあり、ローコンテクスト文化な国家の内部にも、ハイコンテクストを好む一派やコミュニティはある。そこに『スタンプ』に代表されるコミュニティケーションツールやノウハウを提供すれば、十分世界で勝負できる、というふれこみだった。私も大いに期待していた。


しかしながら、それから数年経って、LINEが米国および日本で上場を果たし、その晴れがましい場で再び語られる世界戦略は、現在高いシェアを取っている数カ国、すなわち、台湾、タイ、インドネシア等で、メッセージサービスを軸に様々な事業に多角的に取り組んでいくというような、地域特化型戦略あるいは多角化戦略だ。世界市場全体でのメッセージサービスのシェアを上げていくという旗は降ろしている(完全に降ろしていないのかもしれないが、少なくとも優先度は下がっている)。堅実ではあるが、自ら限界を認めてしまった感がある。


もちろん、このアプローチの難易度が低いなどと述べるつもりは毛頭なく、当然熟達したローカライズ戦略/戦術が必要となるが、こちらは韓国にあるLINEの海外事業を一手に引き受ける『LINE+』に蓄積と実績があり、おそらくうまくやってのけるだろう。余談だが、LINEの経営の本体は韓国にあり、あくまで韓国系企業だが、今でもLINEを日本企業と感じているユーザーは多い。『韓国企業』の影やテーストを徹底的に消して、ユーザーがLINEを日本企業と感じるように仕掛けたローカライズの努力と実績は、賞賛に値する。


日本を代表するオンラインゲーム会社である、greeDeNAも華々しく打ち上げた海外進出は大方頓挫したと言わざるをえないし、そもそも官民挙げて大々的に推進していた、『クールジャパン』の海外展開についても、まったく消えてしまったとまでは言えないものの、すっかりトーンダウンしてしまった。



 諦めるのはまだ早い


やはり、日本の文化を活かしたサービスやコンテンツは、外資の日本市場参入障壁を阻む壁にはなったとしても、こちらから海外にその価値を訴求していくことは難しいということなのだろうか。


そうではない。諦めるのはまだ早い。少なくとも私はそう考えている。


そもそもクールジャパンのお祭り騒ぎにみられるように、はしゃいでいる自分たち自身、本当のところ何が起きていたかよく理解できていた人は少なかったのではないか。海外でオタク・コンテンツが受け入れられているといっても、その原因分析もできていたとは言い難い。まして、その背景にある、日本の文化の本質と多様性を理解できていた人がどれだけいただろうか。


例えば、 この夏、ポケモンGOが大流行しているがその理由をわかりやすく説明できる人がどれだけいるだろうか。すでにそれなりの説明も出てきているが、正直なところ、納得のいくものにはまだお目にかかったことがない。ポケモンGOは、日本では数年前に流行った『位置ゲー』であり『ARゲーム』だが、当時と比較しても、極端に目新しいわけではない。また、昨今、日本で生まれた『絵文字』がそのまま英語で『Emoji』として認知され、世界中に広まっているという。ローコンテクスト文化のはずの米国でも最近では非常に盛り上がっているというのだ。絵文字など、日本での流行はとっくに終わっているし、その発展系とも言える『スタンプ』でさえ、最盛期の盛り上がりはすでに過ぎている。『位置ゲー』『ARゲーム』『絵文字』と今更言われても、と感じている日本の関係者は多いはずだ。『米国ではスタンプは受け入れられなかった』との認識は、この業界の常識として受け入れられきた。もしかすると、私たちはまだ豊穣な可能性を前に、ただ呆然とすくんでいただけなのではないか。まだ、やれることは沢山あるということではないのか


さらに言えば、米国文化を背景にしたグローバルエコノミー/ローコンテクスト・コミュニケーションは確かに世界を覆いつつあるが、一方で、IS(イスラム国)の拡大、英国のEU離脱、米国の共和党大統領候補のトランプの躍進等、反動とも言える『主権回復・自立・個別文化重視』の方向も大きな流れになりつつあるといえる。経済、法、文化は社会の中での役割は違うし違うベクトルを持つ。効率性を重視する経済の仕組みや商法の統合等は一元化のメリットはあるが、文化は多様化=豊かさであり、その共存は本来不可能ではないし、世界は今それを志向していると言えるのではないか。



 予期せぬ成功の窓から見えるもの


経営の神様、ドラッカーは著書『イノベーションと企業家精神』*1において、イノベーションや革新の機会を見つけることができる窓、『イノベーションの7つの窓』というのを紹介していて、その一番初めに『予期せぬ成功・予期せぬ失敗』をあげている。クールジャパンも、ポケモンGOも、Emojiにしても、いずれも典型的な『予期せぬ成功』と言えよう。この予期せぬ成功という窓は、当事者ほど無視し、せっかくの機会を失ってしまう傾向があると言われるが、今こそ、その窓からイノベーション/革新を見つけるべくしっかりと取り組んでいくべきだろう。すくんで縮こまっている場合ではない。今は再び立ち上がるべきときなのだと思う。

*1:

イノベーションと企業家精神【エッセンシャル版】

イノベーションと企業家精神【エッセンシャル版】

『日本の課題を読み解く わたしの構想1(NIRA編)』を使い倒してみよう

NIRAの研究活動が一覧できる


先日、NIRA(総合研究開発機構)から発刊されている『日本の課題を読み解く わたしの構想1』*1という冊子をいただいた。私自身、ここの研究活動の一端に参加させていただいているので、本書について記事を書くことは、一種の「マーケティング」とならざるを得ないことはあらかじめお断りしておく。


本書はNIRAが取り組む研究分野ごとに、その分野の専門家にインタビューを行い、その結果をコンパクトにまとめて一冊に編集する、という構成になっている。目次を見ると、現在NIRAが取り組んでいる研究活動の全体像を一覧することができ、それぞれのCHAPTERに並ぶ専門家のインタビューを読むと、その分野で交わされている多彩な議論の一端を知ることができる。

コンテンツの概要は、以下をご参照いただきたい。
日本の課題を読み解く わたしの構想I|NIRA 総合研究開発機構 編


私自身、本書を拝読してあらためて驚いたのだは、この研究機関の活動の幅広さだ。(私が関わっているのは全体の中のほんの一部に過ぎない!)そして、インタビューを受けている専門家のレベルの高さだ。もちろん、私自身は本書に登場する専門家のすべてを知るわけでもなく、自分の知る分野でなければ論評することもはばかられる立場でしかないが、少なくとも私の知る限りで言えば、これはなかなかのものだ。この組織の底力を感じてしまう。



価値を汲むためには


但し、いかにコンパクトに整然と並べてあるとはいえ、これほど広い活動の多彩な議論をわずか150ページ程度の冊子に詰め込むのはやはり無理もある。どうしても、簡易カタログ的になっていることは否めない。読む側の問題意識や知見がかなり高いレベルに達していないと、本書の価値を汲むことは難しいかもしれない。


だが、編集する側にその責を問うのはやや気の毒な気もする。どちらかと言えば、現代の重要な問題群にはいかに様々な要素が複雑に絡みあい、場合によっては相互に矛盾して見え、トップレベルの専門家や識者であっても驚くほど見解に相違が出てしまうという現実の写し鏡となっていると理解すべきだろう。


そのことが理解できる読者なら、どこかで聞いたようなステレオタイプで、誰が読んでもわかりやすい言説など辟易しているだろうから、仮に自分とは見解が違っても、個性的でクリアカットな言説や論者を見つけることができるほうが、よほど有益であると考えているはずだ。そして、そんな読者であれば、一見全く関係なさそうなインタビュー記事の羅列にさえ、背後に緊密に絡み合う『見えない糸』を発見し、編集者さえ意図しなかった意味を次々に見出していくに違いない。



人工知能に関連する専門家5人


ちなみに、私自身も関わったのは、『CHAPTER05 人工知能の未来』だが、ここに登場する5人の専門家の名前をあらためて見てみると、実にユニークで絶妙なセレクションだ。それぞれに一家言あり、しかもその背景に人工知能を語る上で欠かすことのできない『知の蓄積』を持ち、各人がその分野を代表している(私の説明の都合上、実際に登場する順序とは少し変えてある)。


松尾豊  東京大学大学院工学系研究科 特任准教授
新井紀子 国立情報学研究所 情報社会相関研究係 教授・社会共有知研究センター長
小林雅一 株式会社KDDI総研 リサーチフェロー
塚本昌彦 神戸大学大学院工学研究科 教授
佐倉統  東京大学大学院 情報学環


ご存知の通り、現在この分野は爆発的に情報が増大しており、この5人以外にも有力な専門家や識者も数多いことは確かだが、あなたが今この分野に興味を持ち、これから探求しようと考えているなら(あるいはこの中に知らない人がいるのなら)、まずこの5人の言説をできるだけ多く集めて、精読してみることをおすすめする。決して期待が裏切られることはないはずだ。


松尾豊氏は現在の日本の人工知能研究の中心にいるといっていい。松尾氏の最新の発言をフォローしておくことで、その時点における最新の人工知能の技術レベルと今後の見通しを知ることができる。特に、松尾氏の『未来予測』は、数ある予測の中でも最も信頼性が高く、『スタンダード』と言ってよいのではないか。ただ、松尾氏の『未来予測』を片手に、現実に起きていることを綿密にチェックしているとわかることだが、実際の技術進化は、松尾氏の予測よりどんどん前倒しになって来ている。それは本人も認めていることだが、そのような進化も織り込んで『未来予測』は逐次更新されている。


http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12601000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Shakaihoshoutantou/0000113714.pdf


そんな松尾氏であっても、社会科学の知について言及する際には、思わぬ勇み足もある。例えば、MITメディアラボ所長の伊藤穰一氏との対談において、松尾氏が次のように社会主義国家について述べる機会があった。

松尾:今後社会主義国家が強くなると思う。社会主義国家というのは、努力に応じてみんな再分配し、できるだけ平等であるべきだという理想に基づく社会システム。ところがフリーライダーが出てくることで、人々は頑張らなくなり社会主義の国はおかしなことになってしまった。AIや機械が人々の労働を認識できるようになると、ホワイトカラーの労務管理も変わってくる。今までは成果報酬か時間給しかなかったのが、努力に応じて報酬を出す、というのができるようになる。努力に応じて配分すると理想ができ努力に応じて富を配分することも可能になる。
【伊藤穰一×松尾豊】激論:人工知能とデジタル通貨をめぐって | Biz/Zine


ところが、早速、『ロボット弁護士』としても知られる、花水木法律事務所の小林正啓弁護士からのクレームがついた。人工知能が実現するのは「理想の社会主義国家」か


確かに、松尾氏の『AIによって人々の労働の努力に応じて報酬を出す』という言い方もそうだし、そもそも社会主義国家の理想とは何か、社会主義の理想実現が人類社会にとって良いことなのか等、突っ込みどころが満載ではある。松尾氏ほどの研究者であっても、人工知能に関わるあらゆる分野を一人でカバーできるわけではなく、特に人工知能と社会との関係を考えるにあたっては思わぬハードルが沢山待ち構えていることを小林氏の指摘は示唆している。


新井紀子氏は、昨今では『ロボットは東大に入れるか』のプロジェクトディレクターとしても有名だが、数学者の立場から、人工知能の得手不得手を見極めるリアリズムに説得力があり、将来の人間の役割についてもあらためて考えさせられる。
CROSS × TALK データを活かした社会の知 (1/8) | Telescope Magazine


小林雅一氏については、何より著書『AIの衝撃 人工知能は人類の敵か』*2が秀逸だ。人工知能問題に取り組むにあたっての最大の困難は、短時間に状況が驚くほど変わってしまうことで、2015年3月に発刊された本書は最新とはいえないのは確かだが、それでも(特に初学者にとっては)ビジネス社会における人工知能インパクトや問題の所在等を一渡り把握することができる。


塚本昌彦氏は、私は直接お会いしたことはないのだが、氏の異名である『ウェアブルコンピューティングの伝道師』はその異形とともに以前から知っていた。しかも人間と人工知能との関係、将来像について大変興味深い発言が多く、注目もしていた。塚本氏が指摘するように、今後人工知能と脳や感覚器官は直接接点を持っていくことが確実で、そのような観点からの探求も不可欠であることを教えてくれる。


佐倉統氏は社会と科学技術の関係について造詣が深い。佐倉氏は『日本の課題を読み解く わたしの構想?』の記事における『読者に推薦する1冊』として、ケヴィン・ケリーの『テクニウムーテクノロジーはどこへ向かうのか?』*3を選んでいるが、技術の進化について驚くべき思想を展開するこの非常に難解で謎めいた書物は、社会と人工知能の未来の問題を思索する者にとっては必読書だ。


5人は最適な入り口と申し上げたが、それは5人で全て足りているという意味ではない。ただ、この入り口を通った後には、次に誰の意見を聞いてどの著作を読むべきか、視界が驚くほど開けてきているはずだ。



自分で書き込んでみる


どの問題でもそうだが、一番大事なのは自分自身で考え、探求していくことだ。どんなに優れた意見であれ、他人の意見を読んでいるだけでは、知識を自らの智慧とすることは望めない。本書の最終章は、『YOUR VISION 6人目の識者として、考える。』となっており、読者自身の構想を書き込めるように、空欄になっている。できれば、ここが真っ黒になるくらい自分で書き込んでみて、疑問が出てきたら、NIRAにどんどん質問すればよい。それはNIRAの関係者を良い意味で刺激し、この研究機関のレベルを上げていくことにつながると確信している。

*1:

日本の課題を読み解く わたしの構想?  ―中核層への90のメッセージ―

日本の課題を読み解く わたしの構想? ―中核層への90のメッセージ―

*2:

AIの衝撃 人工知能は人類の敵か (講談社現代新書)

AIの衝撃 人工知能は人類の敵か (講談社現代新書)

*3:

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

東京への人口一極集中の必然とメリットを理解すべき時が来ている


 進む東京への人口の一極集中


総務省発表による今年1月1日時点の人口動態調査によると日本の人口は7年続けて減少し、特に今年は、前年から27万1834人減り、調査を始めた1968年以降で最大の減少数だった。 一方で、東京を中心とする首都圏の人口は前年比11万人近く増加しており、特に東京はそのうち8.6万人を占め、初の1,300万人台を目前にしている。しかも、東京圏の人口の増加ペースはこの数年上がってきている。関西圏、名古屋圏ではともに減少傾向が続いているというから、東京一極集中に拍車がかかっているということになる。日経新聞では、この理由について、『都市部に人が集まる傾向は年々強まっている。働く場や商業施設が多く、住みやすい環境を求めて人が集まってくるためだ』と述べている。

東京圏への人口集中加速 13年、9万6000人流入 :日本経済新聞



 理由がうまく説明できない?


だが、一方で若者たちに東京離れの傾向が出はじめていることは、繰り返しメディアでも取り上げられてきた。若者の○○離れ 今度は地方高校生の東京離れがはじまる? - エキサイトニュース
『景気が悪い状態が長く続き、親世代が子世代を東京など遠くの大学へ出せなくなったことや、若者たちが知らない場所で暮らすことに対し恐怖心を感じていることなどが理由』だという。若者は東京離れの傾向があるのに、どうして都市部に人が集まる傾向は強まっているのか。東京が『住みやすい環境』だからなのか。


だが、本年2月には、『保育園落ちた日本死ね』というブログの投稿記事が非常に話題になったが、東京都内だけでも7,800人(平成27年4月現在)に上る待機児童がおり、解消はほど遠いと言わざるをえない。この結果、神奈川県や千葉県など都市部周辺では25〜44歳の女性の労働力率が相対的に低いという。人口が集中すればするほど、待機児童問題は悪化していくから、都心に住む女性にとっては働きづらい環境のはずだ。


しかも、今急速に進行しているのは、高齢化だ。高齢者のための介護施設の不足は今でも非常に深刻だが、今後はその度合いが極端に上がっていくことは確実だ。待機児童問題と同様、人口が集中すればするほど、状況は悪化することは火を見るより明らかだ。


そもそも東京に一極集中すれば、不動産コストは上昇するから、個人の住宅もさることながら、企業のコストも上昇することになる。その一方でインターネット等の通信インフラの質は格段にあがり、コストも下がっているのだから、経済合理性を勘案すれば、もっと拡散が進んでもよさそうなものだ。だが、実際にはそうなっていない。東京圏ではなく東京、東京の中でも中心部に人口が集中する傾向が見られる。2013年のデータだが、東京都心5区(千代田区・中央区・港区・新宿区・渋谷区)に居住する人口は都区部全体の10.7%を占めるが、都区部の2013年の総転入超過数に占める都心5区の比率は23.3%。その後も都心集中傾向には拍車がかかっているという。*1 )
どうも一極集中の理由がうまく説明できているようには思えない。従来の仮説や分析ツール、あるいは先入観は修正を余儀なくされているように思えてくる。



 変わる都市集中の理由


世界に目を転じると、都市への人口集中の傾向は世界中のトレンドといえそうだ。ただし、その原動力は従来型の製造業やサービス産業ではない。社会学者のリチャード・フロリダは著書『クリエイティブ・クラスの世紀』*2で、新たな経済の支配階級であるクリエイティブ・クラスが主導する経済発展はメガ地域(都市)に集中し、世界のどこであれその都市は相似形になっていくと述べる。


経済学者のエンリコ・モレッティは、著書『年収は「住むところ」で決まる 雇用とイノベーションの都市経済学』*3で、『イノベーション産業の乗数効果』という概念を提示して、伝統的な製造業とIT等のイノベーション産業を対比させ、イノベーション産業が現代の米国経済成長を担っている様子を詳細な調査資料によって描いてみせる。イノベーション産業従事者は互いに近接した場所に住むことで相互に学び、ビジネスチャンスも拡大していくことを実感しており、シアトルやサンノゼのような特定の都市に移り住む傾向がある。しかも、伝統産業の場合は仕事を海外にアウトソースして地域の雇用がなくなるだけだが、イノベーション産業の場合は自分たちも製造等を海外にアウトソースするものの、国内雇用も増加し、しかもイノベーション産業従事者以外の仕事で比較してもこのような都市居住者の方が高収入となっていることを詳細なデータで示している。



 東京でも見られる同様の現象


問題は東京にも、ここで語られているような『クリエイティブ・クラス』がいて『イノベーション産業』が経済成長をリードしているのか、ということになるが、日本のITベンチャーやネット系の先進企業は渋谷や六本木等に集中する傾向があることは従来から指摘されていた。しかも、職住接近のライフスタイルも特にソフトウエアエンジニアの間では進んで来ている。ライターの速水健郎氏は、著書『東京どこに住む? 住所格差と人生格差』*4で、興味深い事例を紹介している。インターネット広告代理店業である(株)サイバーエージェントは、オフィスから2駅以内に住む社員に3万円の補助を出すという制度(2駅ルール)を2005年ごろに導入した結果、社内コミュニケーションの活発化等予想外にメリットは大きく、この成功を見て、多くのITベンチャーが制度として導入していったという。情報技術を扱い、遠隔地で仕事ができるような環境にある会社ほど都心にオフィスを構え、従業員は会社の近くに住むという一種の逆転現象がこの日本でも確かに起きている。


さらに速水氏は、経済学者のエドワード・グレイザーの説を引用して、情報テクノロジーの発達が、むしろ人と人の間の直接的なコンタクトの需要を生んでいると述べる。すなわち、FacebookTwitterを通じたコミュニケーションは、実際に人と人とが対面して会う時間、人間関係の重要性を高めており、そこで深まった関係性が、リアルな現実の場で以前よりも強化/補完されるという。


そう言われてみると、この数年自分でもこれを内々に実感していたことに思い至る。情報テクノロジーの進化は、一方で必ずしもオフィスに行かずとも、自宅で勤務できる可能性を切り開いた。だが、その一方でFacebookTwitterを通じてひっきりなしに飛び込んでくる、旬な話題や、新しい考え方は、その発信者に真意を確かめたり、発信者本人ではなくとも、識者と直接議論してみたいという誘惑を喚起する。そのためにあらためて情報テクノロジーを利用することはもちろんやるにしても、実際に人に会ったり、その友人達が合流して一緒に議論を深めたりということが新たな価値を生み出し、皆の見識を深めることにつながることは、誰よりも私自身が感じていたことだった。



 政策として織り込まれるのは難しいが・・


エンリコ・モレッティの主張が正しいとすれば、日本でもクリエイティブ・クラスを増やし、活動を活発にし、人口が集中する都市の環境を(分散することではなく)改善していくことが、付加価値の高い『イノベーション産業』において日本の競争力を強くし、さらには雇用を生んでいくことにつながる。逆に言えば、これができなければ、日本には『イノベーション産業』は育たず、海外のどこかの都市に負けていくことを意味する。まさに、近未来は国家間の競争ではなく、都市間の競争になるであろうことをリチャード・フロリダも予見している。


だが、ちょうど今東京都知事の選挙戦が始まっているが、このような観点での都市育成のビジョンを持っている候補は見当たらない。(いるのかもしれないが、少なくとも伝わってこない。)企業単位で見ても、集積や近接性の重要性は必ずしも正しく理解されていないように思えてならない。単純に地価等のコストの安さだけでオフィスの立地を決めて、しかも集中より分散が良いと考えている経営者が多いように見える。このような、経営者のマインドの後進性は明らかに日本企業全体の競争力を削いでいる。日本で従来型の企業から『イノベーション産業』への脱皮がうまくいっていないのも、ここにも原因の一端があることは間違いない。


もちろん、これは東京に若年層を吸い取られている地方から見れば、聞きたくもない議論かもしれない。『クリエイティブ・クラス』などという階級の役割を重要と認めることは、同時に、現在でも急速に進む所得格差を所与として受け入れていくことも意味している。『一億総中流』幻想から抜け切れていない多くの日本人にとっては、嫌悪感さえ感じてしまうかもしれない。特に選挙等で票に結びつけることは難しく、誤解されて票を失ってしまう恐れもあるだろう。しかしながら、人口減少社会が進行する現実を受け入れれば、地方は地方で集積を進めて、魅力的な地方都市を形成していくこと、それによってイノベーション人材を引きつけるように努めることは避けられないはずだろう。そのために必要なことを貪欲に学ぶ必要もあるはずだ。



 重要な教訓


速水氏は、著書で、未来学者のアルビン・トフラー未来予測について、ほとんどすべてのことを驚くべき正確さでいい当てているのに、トフラーは『通信テクノロジーが進化すれば誰も都市には住まなくなる』といっていてこの点に限っては外していると述べている。確かに、イノベーション産業における人の集積や近接性の重要性については、トフラーほどの未来学者でも見抜けていなかったといえそうだ。だが、これは非常に重要な教訓を残してくれていると考えるべきだ。人間行動はコストや生産性、物的な合理性によって突き動かされることは今までもこれからも変わらない。だが、時に、それを度外視してでも、世界を動かしてしまう、『社会的』『倫理的』『思想的』『感情的』『歴史的』な要素を忘れてはならないということだ。先日の英国のEU離脱問題にしても、グローバルな経済合理性より国家主権が勝利した典型的な事例になったわけだが、技術が進化し、地域や国家が解体されていくと近未来こそ、人間的な要素がより強く全面に押し出されてくると考えて準備しておくべきだと思う。

*1:http://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=41936?site=nli

*2:

クリエイティブ・クラスの世紀

クリエイティブ・クラスの世紀

*3:

年収は「住むところ」で決まる  雇用とイノベーションの都市経済学

年収は「住むところ」で決まる 雇用とイノベーションの都市経済学

*4:

イチローのような『天才』から何を学ぶべきなのか


 日本人皆にとって誇らしい年


本年は驚くような、そして、どちらかというと陰鬱な事件が相次ぐ一年だが、日本人にとって誇らしく喜ばしい出来事もある。メジャーリーグで活躍するイチロー選手の安打数世界一更新(日米合計)とメジャーリーグ史上30人目の3,000本安打達成がそれだ。シーズン開始前には今期中の達成を危ぶむ声もあったものだが、蓋を開けてみると今年のイチローは近年の不振を吹き飛ばすような目覚ましい活躍を続けており、『世界一』の方はすでに達成してしまったし、3,000本安打のほうも、7月10日現在わずか10本を残すのみとなっている。



 少なくとも50才まで現役?


記録もさることながら、42才というプロ野球選手としては限界域といっていい年齢でありながら、いまだに走攻守ともトップレベルを維持する姿には、すでに生きる伝説の域に達しているこの天才のさらなる飛躍さえ予感させるものがある。周囲の熱狂にもまるで他人事のようにクールなイチローは『少なくとも50才』まで現役を続けたいと、ヤンキース時代の同僚アレックス・ロドリゲスに語ったという。世界のトップリーグで現役で居続けるためには、想像を絶する労苦が伴うはずだろう。生活が苦しくてハングリーな若手選手ならともかく、金も名誉もすべてを手にいれたイチローが、なぜ体が衰えて動かなくなる年齢に至るまで苦しい思いをしてまで選手でいることを選ぼうとしているのか。やはり天才の境地は凡人には計り知れぬものなのか。



 才能か努力か


これほどのレベルになると、もはやお手本にして学ぼうという意欲さえ萎えてしまいそうになるが、それでもほんの少しでよいからイチローにあやかれないものか。少しでも近づくにはどうすればよいのか。そもそも人間の能力は素質や才能だけで決まってしまうからそんなことを考えるだけ無駄なのか。それとも努力で何とかなる可能性があるのか。才能か努力かという誰もが一度は考えたであろう命題は解決できたのか。解決できないまでも、多少なりとも解明は進んでいるのだろうか。


この問いに対する回答として、最新の脳科学の知見を背景に、確信にせまる議論を展開していて大変面白いのが心理学者の今井むつみ氏の『学びとは何かー<探求人>になるために』*1だ。結論から言えば、どの分野であれ超一流になることと遺伝等の持って生まれた才能には優位な関係は見いだせないという。そうなると『努力』が大事ということになるのだが、やみくもに努力すればいいというものではないらしい。今井氏は次のように述べる。

「天才」と呼ばれる一流人に共通しているのは向上への意欲だけではない。自分の状態を的確に分析し、それに従って自分の問題を見つけ、その克服のためによりよい練習方法を独自で考える能力と自己管理能力が非常にすぐれているのである。若くして卓越した熟達者になる、いわゆる「天才」と呼ばれる人たちは非常に早期からこの能力を身につけている。

『学びとは何かー<探求人>になるために』より


自己管理能力という言葉は、まさにイチローのためにあるとさえいえる。イチローが禅僧を思わせるような自分で詳細に決めた生活(ルーティーン)を毎日続けていることは有名だ。寝る時間、起きる時間はもちろん、朝食には毎日欠かさずカレーを食べているというエピソードも広く知られている。


また練習方法についても、自分の体に常に問いかけて改善している。例えば、昨今、プロ野球でもダルビッシュの影響もあってか、筋トレはブームのようだが、イチローは当初こそ普通の筋トレをやっていたようだが、筋肉が肥大するとむしろマイナスになることを実感し、肥大させないで筋力をアップさせたり、弾力性のある柔らかい筋肉をつくるマシーンを工夫して、筋肉の品質を向上させるべくトレーニング方法を進化させているという。

イチローが行っているトレーニング法とは?筋トレをしないって本当?|MARBLE [マーブル]



 具体的な到達目標がイメージできること


今井氏はまた次のように述べる。

どういう自分になりたいか、そのためにどういう訓練をすればよいかということの具体的なイメージなしに「東大に入る」「金メダルを取る」「社長になる」という結果の願望を持つだけでは熟達者になれない。イチロー選手は「プロ野球選手になる」という目標を小学生の時から持っていたが、その目標は単にその地位を獲得して華やかな場に身を置き高収入を得たいためではなかったはずだ。プロ選手がどのようなパフォーマンスをするかという明確なイメージを持ち、そのイメージを実現するのが目標だったのである。

『学びとは何かー<探求人>になるために』より


イチローは子供のころから毎日バッティングセンターに通い、可能な限り最も速いスピードを設定してもらって、バッターボックスの外に出て、プロのスピードを体感しようとしていたという。加えて、今井氏は次のように述べている。

自分が超一流になり、自分よりも上の人がほとんどいなくなっても、自分の中で、いまよりももっと上にいる自分、目指すべきパフォーマンスがイメージできる。自分が(そして他の人も)まだ到達していない地点が見え、そこに至る道筋が見える。それが超一流の熟達者と一流の熟達者の違いである。ここでいう「目指すべきパーフォーマンス」や「そこに到達するための具体的な道筋や方策」が見えるようにあるというのは、その分野の学習での多大な経験と深い知識が要求されることだ。

『学びとは何かー<探求人>になるために』より


イチローは野球の指導者にはなりたいとは思わないという。そのかわりできるだけ長い間現役選手でありたいと望んでいる。驚くべきことに、だれよりも努力しているのに、自分も練習は嫌いだと言い切る。だが、一方で自分の目標を達成して成果が出ることを何よりの喜びとしていることは幾つかの発言からもうかがい知れる。

『そりゃ、僕だって勉強や野球の練習は嫌いですよ。誰だってそうじゃないですか。つらいし、大抵はつまらないことの繰り返し。でも、僕は子供のころから、目標を持って努力するのが好きなんです。だってその努力が結果として出るのはうれしいじゃないですか。』


『準備というのは言い訳の材料となり得る物を排除していく、 そのために考え得る全ての事をこなしていく』


『僕は天才ではありません。 なぜかというと自分が、 どうしてヒットを打てるかを 説明できるからです』


『努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうじゃない。努力した結果、
何かができるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうだと思う。人が僕のことを、努力もせずに打てるんだと思うなら、それは間違いです。』


『少しずつ前に進んでいるという感覚は、人間としてすごく大事。』


イチローの名言・格言集。努力の天才の言葉 | 癒しツアー | Page: 2

 天才に共通すること

今井氏は、イチローに限らず、『天才』と呼ばれる人は、向上のための手立てを常に探索し、実践する『探求人』だという。野球のような競技に限らず、学問分野等では特にそうだとも言えるが、知識を丸暗記するような努力を続けても成果は望めないことを強調している(野球で言えば、コーチの決めたメニューを自分にフィットしているかどうか自分で考えることなく根性でこなす、ということになろうか)。一流であるためには、『知識は自分で発見するもの、使うことで身体の一部にするもの、システムの一部であること、そしてシステムとともにどんどん変化していくものであり、これを身体の一部として理解すること』が必要と述べ、教育の要諦もまさにここにあるとする。


確かに、語学の習得でも、社会科のような暗記が必要な科目でも、単なる暗記だけに頼っている限り、語学を使いこなせるようにはなれないし、社会科学の一流の学者になることも無理だろう。それは、私の拙い経験からも実感しているところだし、一流の仕事をしている友人達なら皆同意してくれるはずだ。


このことを肚の底から理解していれば、努力の仕方も当然変わってくるし、ルーティーンにこだわることも当然だろう。こういう理解が日本の教育の理念の礎となっていれば、もっと多くの分野でもっと多くの天才が生まれることだろう。だが、残念なことに、私の知る限り、このような理解に到達できている教育者、指導者、コーチ等は、日本全体を見回してみても、ほんの一握りしかいないのではないか。私が育ってきた環境でも、良い教育者、良い指導者ももちろんたくさんいたが、ここまで体系的で徹底した理解に到達し、それを語れる人には出会ったことがない。そういう意味では、超一流の仕事師は超一流に到達できるプロセスを人生のどこかの時点で(何らかの方法で)習得することができた(あるいは生まれつき知っていた?)ということになるから、そういう意味では、幸運に恵まれていることは確かだろう。



 自分ができることは


私はこの分析を読んで、自分と『天才』たちとの差がどこにあるのかはっきりと認識することができたように思った。少なくとも、これまで漠然と感じていたことが、整然と言語化されているように感じた。同時に、人生の大半を無駄に過ごしてしまったことがわかって愕然とした(もう遅い!?)。だが、こういう考えはイチロー的ではないというべきだろう。彼は栄光や金を得るために日々の努力をやっているというより、自分で目標を見つけ、そのために何をすればいいのか日々探求し、そしてその成果があらわれて自分の能力が向上して目先の成果(一本のヒットを打つこと)を得る喜びが何より大きいことを知っているし、だからこそ、『練習が嫌い』といいながら、出来るだけ長く現役選手であろうとするのだろう。従って、これは、『もう遅い』と嘆くような性質のものではなく、誰でも今この時から始めることができる。そのような喜びの価値を知ることができた人こそ、人生の熟達人であり、本当に悔いの無い人生を終えることができるのだろう


自分がこれからイチローのようなプロ野球選手になることは不可能だが、今からでも、イチローが到達した境地/心境をその断片くらいはうかがい知ることはできるかもしれない。そしてもしかするとこの境地こそ『世界に発信された日本文化の精髄』というような形で歴史に残っていくのではないか。50才のイチローが一流選手としてメジャーリーグでプレーしている姿を夢想しつつ、これを機会に自分にも取り組めることを何か一つでも取り組んでみたいものだ。

*1:

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

英国のEU離脱問題から学ぶべき真の教訓とは

 大抵の日本人には理解しがたい問題


2016年はまだやっと半分が終わったところだが、何だか世界中から次から次へと驚くべきようなニュースが飛び込んでくる。いつの間にか、それに慣れっこになって、これ以上何が起きても、ちょっとやそっとでは驚かないだろうと思っていたら、そんな自分をあざ笑うかのように、また超弩級のニュースが飛び込んできた。英国がEUから離脱するという。


しばらくは蜂の巣をつついたような騒ぎになって情報も混乱していたが、やっと少し落ち着いてきて、わかりやすい分析記事も多数出てきたため、ようやく何が起こっていたのか、そのメカニズムがわかってきた。


離脱賛成派にとっても、EU離脱による経済的なデメリットがまったく理解されていなかったということはなかったようだが、それよりも身近で深刻な思いに突き動かされた人の数が勝ったようだ。金融業界に勤務するエリートならともかく、工場労働者等の中〜下級に属する大衆にとって見れば、東欧等の非常に平均所得の低い国(英国の1/4〜1/5)から移民が押し寄せ、自分たちの労働を奪い(労働条件を切り下げ)、地元の学校では英語もろくに話せない生徒が大半を占め、不動産価格等の生活コストは高騰する一方で、自分たちに及んでくるのはデメリットばかり、というわけだ。


だが、EUから離脱すれば、英国の自動車会社等、工場の経営者からみれば、移民の安い労働力も使えず、大陸に輸出しようとすると関税がかかることになるから、遠からず工場を他国に移そうとするだろう。製造業だけではない。サッチャー革命以降の英国の経済の復活と躍進を象徴する金融業等のサービス産業も深刻な影響を被ることは避けられない。結局長い目で見るとEU離脱は誰の得にもならないように見える。特に、日本から遠巻きに見ていると、目の前の問題にしか目がいかない、愚かな大衆の妄動に思えてしまう。離脱派は一時の感情に支配され、冷静ではなくなっているように見えてしまう。そして、このような感情にまかせて投票する大衆ばかりになってしまうと、その感情を巧みに掬い取るアドルフ・ヒットラーのような政治家が出てきて、最後には国家ぐるみファシズムの闇に引きずり込まれてしまうのではないかとさえ思えてくる。


私の頭にも、このような定番とも言えるストーリーや言説がごく自然に浮かんでくるし、今回のEU離脱に関する意見の大半はそのような論調で彩られている。そして、今後EUから連鎖的に離脱国が出る可能性があることや、来る米国の大統領選挙で共和党の大統領候補に成り上がった、ドナルド・トランプが同様の勢いに乗って本当に大統領になってしまうことを懸念する。



 合理性の逆説


だが、合理的に考えれば、トランプの躍進もEU離脱もありえないことのはずなのに、どうして自分の(大抵の)予測は外れるのか。そもそも、自分たちは合理的で正しく、EU離脱支持者は間違っていると皆考えているが、本当にそうなのか。それだけで済む問題なのか。いつから私たちは政治は合理的であることだけが正しいと思い込んでしまったのか。あらためて考えてみると、自分がよって立つ根拠(およびその思想)に自分自身確信が持てなくなってくる。


こんな折に、たまたま縁あって、政治学者である吉田徹氏の『感情の政治学』*1を読み始めてみると、私にとって冒頭から大変ショッキングな言説のオンパレードで、自分の不勉強が身にしみる思いだ。いつの間にか気づかぬうちに硬い先入観のからで自らを覆ってしまっていた気がする。


のっけから吉田氏はこのように語る。

有権者が個人として合理的に行動すれば 、より良い解が出るはずだ 、という政治観には何の根拠もないのである 。ここにはむしろ 、人びとが合理的であろうとすればするほど 、政治が自分の望むものとは異なったものになっていってしまうという 、大きな逆説が存在しているといっていいだろう。

『感情の政治学』より


合理的であろうとすること自体が逆説! どういうことなのか。

二一世紀に入ったころから 、人間の非合理性を指摘する研究や主張がくりかえしクロ ーズアップされてきた 。もちろん 、一九六〇年代がそうであったように 、そうした指摘は今になって突如として現れたものではない 。しかしその背景には 、おそらく戦後 、あるいはもっといって二〇世紀を支えてきた 「合理性 」に基づく 「進歩 」という観念そのものが成り立たなくなった今世紀にあって 、人間存在を今一度根底から再定義してみなければ 、どんな社会構想も 、もはやあり得ないという認識によるものなのかもしれない 。

『同掲書』より


思えば、自分が専攻した経済学に関しては、合理的であることの限界や矛盾に気づき、ブログでも世に問うて来たはずではないか。どうして政治や政治行動では、合理的であることばかりを考えていたのか。どうやら政治について不勉強であった報いは自分が考えていたよりもずっと大きかったようだ。



 主知主義を呼び込む原因は

社会学マンハイムは 、政治とは因果関係のはっきりしない 、人間の作為によってつねに動きつづけるものとして把握していた 。政治とは 、客観的な認識や行動などが成立しない 、実践を絶えずともなうものなのである (マンハイム 1 9 2 9 = 2 0 0 6 ) 。だからといって政治を単に剝きだしの権力が横行する世界とみなすのも正しくない 。こうした権力のありようを批判する主体も政治的な存在だからだ 。問題は 、政治を客観的に認識しようとしたり 、そこに法則を見出そうとする態度 (マンハイムのいった 「市民的自由主義 」 )が 、実践的な政治の側面を覆い隠してしまうことにある 。この残余としての非合理的な領域が政治にあることを認めなかった時代が 、反主知主義を肯定的に捉えるファシズムに逆襲されることになったことを思い出すべきだろう。

『同掲書』より


政治のすべてを客観的に認識したり、合理的な法則ばかりにこだわることは、政治に設計主義やイデオロギーを持ち込むことを意味し、社会主義経済の壮大な実験およびその挫折と相通じる。イデオロギーや理想ばかりに固執することは、その反動勢力の勢いを弱めることはできないばかりか、むしろ強化することにつながることはすでに歴史が証明した教訓といってもよく、肝に銘じておく必要がある。



 それは違う


さらにこれをわかりやすく説明するために、吉田氏は『PLAYBOY』誌のインタビューの中で、新自由主義の支柱でありノーベル経済学賞を受賞したミルトン・フリードマンのコメントを紹介している。

物欲の上に立たない社会なんかがありますか。「信じていて絶対間違いのないことは、相手があなたの利益より自分の利益を優先させようとすることだ」とは私の友人の言葉ですが、私も確かにそうだと思います。

『同掲書』より


ここまで言われてしまうと、さすがに私も、それは違うだろうと言いたくなってくる。フリードマンの拠って立つ新自由主義は、いわゆる『グローバリズム』として世界を席巻してきたわけだが、フリードマンのような『合理的な人間』ばかりを前提として、非合理や感情をすべて排除してしまうことを世界標準として世界に押し付けることにはやはり無理があるように思えてくる。  



 もっと尊重されるべき非合理


これに関連して、思想家の内田樹氏は、次のように述べる。

今、『グローバル化』と呼ばれている趨勢は現実にはアメリカが主導しているものですよね。英語が公用語で、キリスト教が『国教』で、金を持っている人間が一番偉いという価値観が共有されているけれど、これは規模は大きくても、所詮はアメリカ・ローカルの民族誌的偏見を量的に拡大したものに過ぎません。(中略)
喜捨の文化』『歓待の文化』というのは遊牧民にとって生き延びるために必須のモラルなわけです。砂漠では利己的にふるまうと生き延びることができない。もっとも重要な生活資源は、それなしでは生きられないがゆえに、見知らぬ他者とでも共有しなければあんらない。そういう発想はグローバリストには絶対理解できないと思います。

『世界「最終」戦争論』*2より


これは何も、米国人が皆金の亡者だとかいうことではなく、もう少し穏当な言い方をすれば、米国人には世俗の成功が神に選ばれた証とするプロテスタンントの信仰が背景にあり、それは砂漠を生きる民の信仰やモラルとは異なるということだろう。そういう意味では、砂漠の民にイスラムの信仰があるように、米国にも(主として)プロテスタントの信仰があり、相応に合理性の背景には非合理(信仰)があるとも言える。


吉田氏は、「社会における正しい決定というのは、ひとりひとりが自らのうちに『社会の眼』をもつことによってのみなしうること、つまり『利益を主張するつっぱり合いではなく、この社会を『わたしたち』がどうするかという観点で自らの意見を表明する人間である、と認知心理学者の佐伯胖氏を引用しつつ語る。だから政治における感情や非合理はそういう意味で、もっと尊重されて良いはずだという。これは私にも非常に素直に納得できる。



 危険な米国とフランス


米国が自国のアイデンティティーを意識して、自国の価値観を同胞の間で共有することは否定されるべきものではないし、他国にもそれを提案していくこともそれ自体が悪いわけではない。だが、それを超越的な理念やイデオロギーに仕立て上げて固執し、他国(他文化圏)にまで押し付けていくとなると話しは別だ。他国との摩擦どころか、ドナルト・トランプを支持する勢力の急拡大にみるように(そして、まさにマンハイムが指摘したごとく)、自国内でさえエリート支配に反発し、反知性主義を肯定的に捉える勢力の拡大を抑制することができなくなってきている。少なくともそのように理解した上でどう対処していくべきか解決策を探るという方向に向かわないと解決の糸口さえみつからないまま、世界をさらなる混乱に巻き込んでいくことになるのではないか。


同様に考えれば、フランスでテロが頻発し、一方で極右勢力が政権をうかがう勢いとなっている現状も理解できる。フランスはイスラム系の移民を人口の1割近く抱えていながら、『自由・平等・友愛』の建前を掲げるばかりで、実際には移民をフランス社会に適切に統合する策をとっているとはとても言えない。それどころか、移民に対する日常的な差別が行われてるというから、自国内でテロリストを育てているようなものだ。このままでは本当に次にEUから離脱するのはフランス、ということになりかねない。



 日本にも同根の問題がある!


日本は移民をほとんど受け入れていないから、一見、このような問題には無縁のように見えるが、そうではない。嫌韓、嫌中を煽る書籍が本屋にあふれ、在特会のように大衆の面前で口汚く在日韓国人を罵るような行為を見ていれば、すでに欧米で起きていることと同根の問題が日本でも現出しているというべきだろう。日本でも政治離れは進み、今回の英国や欧州で起きていること、あるいは米国で起きていることを正しく理解できないでいる(私自身他人事ではない)。今回の英国のEU離脱問題を契機に自らを振り返り、日本の政治についてもあらためてよく考え直してみるきっかけとしたいものだと思う。

*1:

感情の政治学 (講談社選書メチエ)

感情の政治学 (講談社選書メチエ)

*2:

これからの市場で勝つためのフォーミュラとは


 アベノミクスの評価


参院選を目前に控え、アベノミクスの成果についての議論が騒がしくなってきた。有効求人倍率の向上を成果が上がった印として強調する自民党に対して、格差の拡大等をあげて失敗との評価を下す野党の舌戦が始まっている。


私自身は今ひとつこの議論に参加する気になれずにいる。というのも、日本経済の浮沈を真剣に考えるための最重要点についての議論があまり行われていないように思えてならないからだ。少なくともここまでの結果で見れば、既得権益者を温存し、成長戦略を実現するための企業の構造改革は一向に進まなかったと言わざるをえない。市場の構造が急速に変わりつつある現実がありながら、それに合わせて企業も個人もマインドを変えるべき時に、もっとも変化する必要がある企業やその従業員がぬるま湯に浸ることになり、結果的に足腰を決定的に弱くしてしまったように見えてしまう。



 蹴散らされた日本企業


アベノミクスが始まってから今日まで、私はIT/電気市場が比較的見えやすい位置にいて、ここで起きていることを間近で見ることができた。そして、そこから見えた(日本企業にとって)恐るべき出来事については、これまでも何度も書いてきた。かつてこの市場でトップレベルの競争力を誇った企業(ソニー、シャープ、パナソニック等)が、旧来の市場のルールを自分たちのいいように書き換えてしまった米国のITジャイアントであるグーグル、アップル、アマゾン等のいわゆる『プラットフォーマー』に蹴散らされ、すっかり主導権を失ってしまった。




 市場の新しいルール


この新しい市場のルールは、今ではIT/電気市場にはほぼ完全に浸透し、定着した。そしてその余勢を駆って、IT/電気市場の枠を超えて、あらゆる市場に波及し、旧来のルールを書き換えようとしている。市場全体をプラットフォーマーが支配し、旧来の製造メーカーは、部品提供者(シャープ、ルネサス等)、受託生産者(EMS:フォックスコン等)、韓国・中国等の(低コストの)製品メーカー(サムソン、シャオミ、ハイアール、DJI等)に分断され、一方、この新しいルールを理解し独自のポジションを市場に確保することに成功したカテゴリー・プラットフォーマー(ニコニコ動画、LINE、クックパッド等)と、プラットフォーマーが提供するモジュールや仕組み(AWS等のクラウドサーバー、Squqre等の決済の仕組み等)を最大限に活用して異業種に参入し、短期間に巨大に膨れ上がり、旧来の企業を破壊して市場から追い出してしまうデジタル・ディスラプター(創造的破壊者、UberAirbnb等)が跋扈するようになった。この新しいルールが支配する市場では、旧来の日本企業の身の置き所がどんどん狭まっている。



アベノミクスであれ、何であれ、この新しい現実に対処できるように、日本企業や日本企業の従業員のマインドを変革することができるかどうかが最大の問題だ。それができれば(少なくともその方向に向かっていれば)生き残れる可能性があり、できなければ、一時的に何らかの経済指標がどうなろうと結局日本企業の生きていく場はなくなってしまう。そのような観点で経過を見守っていたが、どう見ても私が期待する方向に向かったとは思えない。多くはぬるま湯に浸ってその場でうずくまってしまうか、少し元気があってもむしろ過去の栄光にすがって、夢よもう一度とばかりに反対方向に向かってしまったようにさえ見える。


しかも、今もって、新しい市場のルールを意識してその方向に舵を切るような振る舞いはほとんど見えてこない。ここでは、すべてがデジタル化し、ネットワークで繋がっており(コネクティッド化)、ソフトウエア(アルゴリズム)が支配し、それを前提に、外部経済界や外部経済利用を促進するツール(SNSクラウドファンディング等)、プラットフォーマー等が提供するモジュールや仕組み(AWS等のクラウドサーバー、Squqre等の決済の仕組み等)、新しいデジタル化技術(AR/VR、3Dプリンター等)などの要素を使いこなし、それぞれの最適ミックスによるイノベーションを実現し、そこから出てくるあらゆる情報をクラウドに蓄積して人工知能の学習を促進して、その成果をさらに自らのビジネスの改善や改革につなげていく、そのような市場の特性を十分に理解た上で自らのポジショニングを明確にし、活動の隅々にまで浸透させることができる企業でなければ、生き残ることはできない。旧来の日本企業の閉じたシステム(終身雇用制度、系列だけに閉じた取引き等)への執着は、障害になることはあっても、有利に働く可能性は低い。組織改革や経営者/従業員のマインドチェンジは必須だ。ぬるま湯に浸っている時間などないはずなのだ




 マーケティングの重要性


さらに言えば、技術だけの問題ではない。初期段階では、新技術の有効利用が差別化の大きな要素となるが、遠からず市場での過当競争を抜け出るためには、体系的な深い理解に基づいたマーケティングが経営レベルまで浸透していることが必須の勝利条件となってくるはずだ。自分が他業種にいた経験があるから余計にそう思うのかもしれないが、IT/電気市場では、全盛期の日本企業であれ、経営レベルまでマーケティングが浸透している会社は少ないと言わざるをえない。


もちろん、個々には、TVコマーシャルや、販促や宣伝手法など、素晴らしくクオリティーが高いものも多く、それゆえに誤解もまねきやすいのだが、なまじ製品の品質であったり、新しい機能であったり、そのような訴求で十分に世界で通用してしまったこともあるのだろう、経営レベルまでマーケティング思考が浸透していなくても、技術、製造や品質管理等の出身の経営者が経営を仕切っていればそれで十分だったと思われる。日本では、コカコーラ、P&G、花王等、高い技術力もあるとはいえ、技術力だけでは勝ちきれないことを初めから理解している会社の中にこそ、マーケティング巧者が多く、そのような会社と比較すると明らかに劣って見える。


その結果、技術、品質、人材等、社内に多くの優れた要素を持ちながら、自ら新しいルールをつくることはできず、新しいルールに最適化をはかることもできずに、流されるがままになっている会社が本当に多い。『良い製品を安くつくれれば復活できると今でも信じている』というような発言が経営者から堂々と出てくる。自分自身も何度か経験したことだが、このような会社の経営者等と話しをしていると、マーケティングという用語の意味が正しく理解されていないと感じることがあまりに多い


マーケティングの重要性を知りたければ、現USJユニバーサル・スタジオ・ジャパン)のCMO(チーフ・マーケティング・オフィサー)である、森岡毅氏の著作(『USJを劇的に変えたたった一つの考え方ー成功を引き寄せるマーケティング入門』*1等)を紐解いてみるといい。P&Gで優れたマーケティングを習得した森岡氏のUSJでの奮闘ぶり(ほとんど経営危機寸前だったUSJを短期間に過去最高の売り上げと収益を達成できる会社に蘇生させた)を知れば、USJというハイテク技術が重要な成功要因となっている会社であれ、いかにマーケティングが浸透することが重要なことなのかがよく理解できると思う。


困ったことに、マーケティングについても、そもそもその起源が米国にあることからも、米国企業にその巧者が多く、経営者にもそのエッセンスを理解している人が多い。よく言われるように、米国ではエンジニアとして優秀な人がまたマーケッティングのエッセンスを理解していて、起業し、経営者になる例が多い。多くの日本企業が、今再び、市場におけるマーケティングの重要性を思い知ることになると思うが、このままでは気がついた時には、後の祭りになってしまいかねない。



 勝つためのフォーミュラ


賢明な企業人であれば、アベノミクスの成否がどうであれ、自分以外の他者に頼っている場合ではないはずだ。何度も私が過去の記事で述べてきた通り、IT/電気市場で起きてきたことは、今後あらゆる市場で起きてくる。自分たちのことは自分たちで決めてやっていくしかない。


これからの市場での成功のフォーミュラは、上記で述べたことを総括すると次のようになる。

「デジタル市場の『飛躍の法則』を十全に活用する」
          ✖
「熟達した『マーケティング』でビジネス化する」


だが、これでは勝てる企業は米国企業ばかり、ということになりかねない。日本ならでは、という要素をどう見つけることができるかがもう一つの鍵になる。これも何度も書いてきたことだが、日本的な可愛らしさ、ユーモア、おかしさをうまく訴求することでビジネスを爆発的に拡大してきたLINE(のスタンプ)やニコニコ動画等に例を見るような競争優位を築くことができる要素を可能な限り引き出してくることが、あらためて、非常に重要になるはずだ。だが、どうすればそれができるのか。


やや古い概念になるが、米国の経営学者B.シュミットが1999年に提唱した『経験経済』の概念ツールを使うことは一つのヒントになりそうだ。これは後年、『ユーザーエクルペリエンス:UX』として、もう少し洗練された概念として語られることになっていくが、私見を言えば、逆にその分、当初の概念に含まれていた貴重なエキスの部分がやや溢れてしまった印象がある。


B.シュミットは、『経験経済』を次の5つの側面に分けて説明している。

SENSE(感覚的経験価値)

FEEL(情緒的経験価値)

THINK(創造的・認知的経験価値)

ACT(肉体的経験価値とライフスタイル全般)

RELATE(関係的経験価値)

ここから想起される価値を日本の伝統的文化、現代の日本人の意識、日本人の持つコンテキスト等をタテ糸にして、今一度、深堀してみることが必要なように私には思える。



したがって、私が推奨するフォーミュラは下記のようなものになる。

「日本特有の『経験価値』を徹底的に引き出す」
          ✖
「デジタル市場の『飛躍の法則』を十全に活用する」
          ✖
「熟達した『マーケティング』でビジネス化する」

 組織より個人


日本の若手でも、グーグル、楽天等で執行役員を務めた尾原 和啓氏、筑波大学助教で、メディアアーティストの落合陽一氏など、この市場の現実を理解して活動している人が出てきているのは頼もしい限りだが、本番はこれからだ。新しい市場の法則さえ理解すればできることはまだ沢山ある。


参議院選挙の後、アベノミクスが継続されるのか、葬られるのか私の予想できるところではないが、いずれにしても、ここまで述べてきたような概念を分析ツールとして、よく自分の参加する市場を見直してみることをお勧めしておきたい。そして、併せて、組織がどうあれ、個人としては遅れをとらないよう、準備しておくことを重ねてお勧めしておく。