日本の宿痾の構造の見える化?/幻想としての東京オリンピック

 

幻想としての東京オリンピック

 

2020年の東京オリンピックがもう目前に迫ってきているが、最近出てくるオリンピック関連の報道には目を疑うものが多い。私自身は、多少なりとも沈滞する日本のムードを変えるきっかけになるのなら、オリンピックというお祭りも悪くないと思ってきたし、そういう意味では、どちらかと言えば『賛成派』のつもりでいた。だが、その私も、次々に出てくる驚くべき報道に、さすがに認識をあらためずにはいられない。そして、ここにも、というより、ここにこそ、日本の抱える構造問題が典型例として表出している。

 

このオリンピックの開催地については、最終段階では、東京とマドリードおよびイスタンブールで争われていたが、その当時懸念されていた候補地としての東京の最大の障壁は、日本国内での『熱気不足』(および夏場の電力不足)で、国際オリンピック委員会IOC)が2012年5月の1次選考の際、独自に実施した世論調査に基づく各都市における招致賛成の比率で見ると、最終候補の中で、東京が最低だった。*1

 

          賛成 反対

マドリード     78% 16%

イスタンブール   73%  3%

東京        47% 23%

 

それでも東京は最終的に選ばれ、その後、東京都知事に当選した猪瀬直樹氏が、『東京オリンピックは神宮の国立競技場を改築するが、ほとんど40年前の施設をそのまま使うので、世界一カネのかからないオリンピックである』と述べたりしたこともあり、また、決まったからには反対していても仕方がない、という、やや消極的な賛成も増え始めて、全体の賛成の比率は上がって行ったと記憶する。2013年9月に行われた調査(読売新聞)では、80%以上の人が、東京開催が決まって良かったと回答している。*2 とはいえ、1964年に開催された東京オリンピックと比較すると、やはり、国民(および都民)の側の受け止め方には天地の開きがあると言わざるをえない。

 

社会学者の大澤真幸氏は、『本と新聞の大学』による講義において、この点に言及している(詳細は、『日本の大問題「10年後」を考える ー「本と新聞の大学」講義録』*3ご参照)。1964年の東京オリンピックは、彼が定義する時代区分である、『理想の時代』に行われたという。『理想の時代』とは、人生や社会にとって何が理想であるかがはっきりと見えていた時代で、その時代に開催されたオリンピックは、戦争に負けて、復興は進んでいたものの、まだ一人前とはみなされていない日本が、世界から一人前と認められるレベルに達したと自他ともに思える象徴的なイベントであった。その意味で、まさに、日本中が心底待望したオリンピックだった。経済効果も大きく、オリンピック後の物的な遺産も沢山残った(国立競技場、日本武道館等)。

 

だが、時代はすでに大澤氏の言う『不可能性の時代』となっており、現在我々がいるこの現実を超える別の現実、ユートピアや理想の実現は不可能になった(少なくとも誰もがそう感じるようになった)。それどころか、現在のところ何とかそこそこに幸福に暮らせる環境が維持されているが、今後は社会保障制度は破綻してしまうのではないか、経済的には没落が進み中流下流国家となってしまうのではないか、地球温暖化が進み、生態系の決定的な破綻が来るのではないか、南海トラフ地震で首都圏は壊滅するのではないか等々、日本はこれからどんどん悪くなっていくのではないかと、皆漠然と思っている。それが『不可能性の時代』の特徴の一つであり、もうどうしようもないと思っている中、今回の東京オリンピックは、すがる気持ちが見せる幻想、あるいは『幽霊船』にあたると大澤氏は述べる。東京オリンピックがあるんだから、東京オリンピックまでは何とかなる、あるいは東京オリンピックで何とかなる、そういう幻想を見せられているのだという

 

 

熱気不足が賛成多数にシフトした構造

 

もともと、『もうオリンピックとかの時代ではないだろう』と冷めていたはずの日本人が、一旦開催が決まって、やるしかない状況になった後、賛成する人が増えていった時期は、日本経済の世界のおける地位が凋落の一途をたどっているとの認識が深まっていった時期でもあった。東京開催が決定したのは、2013年の9月だが、2010年には日本は中国にGDPで追い越され、その後も差は開く一方で、昨今では中国のGDPは日本の倍以上に膨れ上がり、世界を席巻した日本の電気メーカーも軒並み中国の会社の後塵を拝するようになった。しかも、先端技術であるAI等でも、先頭を走る米国企業はおろか、中国企業との差も開く一方だ。一人当たり名目GDPで見ても、2000年の日本は第2位だったのが、2010年には第18位、直近の2017年には第25位まで落ちてしまっている。*4 *5

  

大澤氏が述べるような、東京オリンピックにすがる心理は、直近の調査データにも見て取れる。2018年3月に実施された、『東京オリンピックパラリンピックに関する世論調査*6の質問項目の中に、『東京オリンピックに期待しているもの』というのがあるが、これを見ると、圧倒的なのが、日本経済への貢献(62.0%)、日本全体の再生、活性化(51.7%)だ。国際交流の推進(32.1%)とか、スポーツの振興(30.1%)というような、スポーツイベントらしいと言える項目の数値を大きく引き離している。世界の中でその地位がどんどん低落している日本経済の活性化の起爆剤としてオリンピックを頼りにする心理状態が如実に現れていると言えそうだ。

 

 

経済活性化に期待せずお祭りとして楽しむべき

 

1964年当時、日本はまだ『発展途上国』であり、追いつくべき目標は明確で、ひたすら額に汗して働くことが日本経済発展の原動力になりえた。オリンピックのようなお祭りがあれば、公共投資を含む投資額が増えて、その投資の乗数効果で経済が活性化して、企業業績も上がり、それに乗っかってさらなる成長を期待できた。だが、今はそうではない。日本は先進国となり、労務費等のコストは高く、労働集約的な産業は言うに及ばず、先端的な産業分野も高付加価値を生む技術進化やイノベーションがなければ、どんどん追いつかれてしまう。しかも、特にインターネット革命以降、世界経済の構造や市場での勝利条件も激変してしまった。今この時も変化が加速している。

 

それはとっくにわかっていたはずなのに、今回のオリンピックにも経済の活性化に高い期待を寄せている国民が多いこと自体、日本経済の構造転換が進んでいないことの現れともいえる。日本経済の再活性を本当に望むのであれば、一番肝心なのは、旧来の重厚長大型から、知識集約型のソフトウエア分野への転換であり、先端の科学技術やそれを担う人材への集中的な投資ということになる。だから、1964年の日本経済の成長には効果的だった東京オリンピックも2020年には、もはや効果的とは言えない。もっとも、国民の心理、という点でいえば、『東京オリンピックが効果的でないことはわかっているが、他にすがれるものがない』というのが大半の人の本音かもしれない。だから、そう回答する人もどこか自信がなく、これが淡い夢であることを知っているようにも見える。だが、いつまでも幽霊船に経済再生の淡い夢を託していてよいはずがない東京オリンピックは、猪瀬元東京都知事が言っていたような、『世界一お金のかからないオリンピック』として、経済活性化に過度に期待せず、国際交流やスポーツ振興の活性化を期待し、それを楽しむべきイベントとして迎えるべきなのだ。

 

だから、何より『コンパクト』で『お金がかからない』ことが、東京オリンピック開催の絶対条件だった。オリンピックは、一時的な雇用拡大、観光客の増加、不動産価格の高騰、道路や建物の発注等で一時的に賑わうかもしれないが、オリンピックが終われば、雇用は消失し、観光客は帰り、不動産価格は下落し、道路や建物が残ってもそれ以上に重い負債が残るだけ、ということになりかねない。不動産関係者に聞いても、オリンピック後に日本には『崖』が来ることを前提に、海外シフトを進めようとしているという。

 

 

世界一お金がかかるオリンピックへ

 

ところが、あろうことか、『世界一お金がかからない』どころか『世界一お金がかかる』オリンピックになろうとしているという。東京オリンピックの開催計画を記した立候補ファイルでは、組織委の運営費は約3013億円で、ここに国などの負担分を加えても、約8000億円程度とされていたはずだが、最終的には3兆円を超える可能性もあるという。

 

オリンピックが商業主義化した1984年以降、オリンピックを終えた国は、IT革命の上昇気流に乗って経済が発展した唯一の例外である、アトランタをのぞいて、皆不況に見舞われている。巨大な公共投資が閉会式とともに消え、財政の大盤振る舞いのツケだけが残る。*7ギリシャなど不況どころか経済破綻してしまった。ブラジルも負の遺産に苦しんでいる。*8 このままでは、東京オリンピックもその徹を踏むことは確実だ。ところが、それでも懲りずに、大阪万博誘致の話が出ているのを見たりすると、変わることができなこの国の姿に慨嘆せざるをえない。

 

膨れ上がる予算については、マネジメント不在もそうだが、『オリンピック関連』をこじつけて、余禄にあずかろうという旧来の『お上と日本企業』という構図が透けて見える。長く無駄の温床となって来て悪名高い特殊法人の暗い影はオリンピックの組織委員会にも差している。談合、利益団体内での利権の配分、裏金等、旧来の公共事業の悪弊がすでに様々に指摘されているが、これも、東京オリンピックの特殊性というより、旧来の日本の公共事業にありがちなことが、その典型例として、繰り返されているというべきだろう。

 

そういえば、オリンピックの招致にあたっても、不正疑惑が取りざたされているが、海外の司直から有罪認定され、2億3000万円の支払いが実際にあったことを組織委員会も認めながら、解明が進まず(解明を進めず?)、関係者も口をつぐんでいる。これも、旧来の巨大公共事業でありがちなデジャヴ(既視感)と言えそうだ。1964年の東京オリンピックでも多かれ少なかれ、そのようなことはあったのかもしれないが、その後の経済成長が全てを正当化することを期待できたとも言える。だが、今は全く事情が違う。一部の利権者をのぞけば、ただでさえ不安視される今後の日本経済への悪影響ははかりしれない。世代を担う成長産業が育っていない日本では、オリンピック後に、何一つ頼るべきものがない中、ますます高齢化が進み、財政赤字は膨らむ一方と見られているから、オリンピックが経済の足を引っ張ることを許容するキャパシティなどまったくない。

 

 

太平洋戦争化しつつある?

 

しかも、問題はもはやコスト高だけではない。とめどなく不可解な話が出て来ている。1964年当時は、選手や観客の健康を配慮して、酷暑の7月~8月を対象からはずして、10月に開催されているが、今回は、米国等のスポーツイベントが少なく、視聴率が稼げるというIOCの推奨に乗っかって、7月~8月の開催が早くから決まっていた。だが、1964年当時と昨今を比較すると、東京の(日本全体でも)気温は明らかに上昇している。2020年の気温が本年(2018年)並でも(もっと暑くなるかもしれない)、選手も観客も熱中症で大量に倒れる懸念がある。ところがそのことが話題になると、突然、『サマータイム実施』という『迷案』が出て来た。

 

1964年には影も形もなかったが、今ではコンピュータがネットワークで結びつき、多様なシステムが相互接続されている。こんな中で、基本的な取り決めである『時間軸の整合性』を乱すリスクは甚大で、しかも対応コストが莫大になることが予想されるサマータイム』導入というような話が出てくること自体、心底驚いたが、考えてみれば、『オリンピックで経済成長』とか言い出す御仁には、そのようなことに気づく感度もないのは当然かもしれない。

 

さすがに、すぐにこの騒ぎも沈静化したようだが、その最中に、今度は、『クールシェア』という『迷案』が出てくる。大会の組織委員会がマラソン競技での暑さ対策について、コース沿いの店舗やビルで冷房の効いた1階部分などを開放してもらう取り組みを活用する方向で検討しているという。最初は、『ラソンコース沿いの店舗の玄関口からエアコンの冷気を解放して暑さ対策』かと思ったが、そうではなく、観客に冷房の聞いた1階部分を解放する、と言う意味らしいが、このようなことが真面目に議論されていること自体、何かが壊れてしまっているとしか思えない。太平洋戦争中の『戦車に竹槍』を連想してしまったが、ちょうど近現代史研究者の辻田真佐憲氏が、文春オンラインへの寄稿で「東京オリンピックはいよいよ『太平洋戦争化』しつつある」と述べているのを見て、我が意を得たりの思いだった。辻田氏の言うように、戦時中の精神論の蔓延と似た状況が実際に起きつつある。*9

 

すると、これを裏付けるように、『学徒動員』の話まで出てきた。*10 今回の東京オリンピックは過去最大規模の約11万人の無償ボランティアを動員するという。ボランティアというのは、あくまで自主参加が原則のはずだが、東京都と五輪組織委は、スポーツ庁文部科学省を通じて、全国の大学と高等専門学校に対して、ボランティアに参加しやすいよう、授業を繰り上げたり単位認定等の対応を求める通知を出しているという。想像するに、このボランティアは就職に有利、というような状況が作られ喧伝される可能性もありそうだ。就職を望む学生の『忖度』を期待するわけだ。単位に認定して、就職にも必要となれば、学生にとって強制も同じだ真夏の炎天下で1日8時間、10日間、無償で、労働基準法等の規制も及ばない労働を半ば強制される『ボランティア』というのは、まさに学徒動員そのものだろう。しかもその『ボランティア』には、対面での接客業務も含まれるというから、『テロ』に巻き込まれたり、『テロ』を抑止できない懸念も非常に大きい。

 

労働力だけではなく、物資も不足している模様だ。太平洋戦争では、武器生産に必要な金属資源の不足を補うために、金属回収令が出されたが、なんと戦後70年以上経った今、このアナロジーを現実に目にすることがあるとは思わなかった。オリンピックのメダルの素材確保ができていないため、環境省が全国の自治体に対して、携帯電話やパソコンの回収を呼びかけているという。不要品の有効利用という趣旨自体は結構なことともいえるが、『戦車に竹槍』『学徒動員』とくれば、『金属回収令』という文脈で解釈されてもやむをえないだろう。しかも、まだ目標大幅未達というから、直前になれば、ここでも半分強制の『忖度』誘導が見られるかもしれない。

 

太平洋戦争当時のこのような愚策は、米国という圧倒的な強国を相手に戦争を仕掛けるという根本的な敗因を棚上げして、抽象的な精神論を強制した結果出てきたものだが、今回のオリンピックも酷暑での開催等の根本原因を棚上げして、小手先の『竹槍』を振り回しているように思えてならない。クールシェアをやろうが、サマータイムを無理やり導入しようが、2020年が、殺人的な酷暑だった今年より暑くなる可能性は否定できない。しかも、天候問題は暑さだけではない。台風による洪水等の被害も日本列島を大きく揺さぶった。2020年が今年並みになったとすると、『竹槍』などすべて吹っ飛んでしまうだろう。

 

 

『幽霊船』ではなく『救助船』を迎えるために

 

あえてオリンピック批判に走るつもりは毛頭なかったのだが、このように起きて来たことを淡々と並べて見ただけで、なんだか大批判を繰り広げているように見えてしまう。だが、今回本当に指摘したいのは、オリンピック自体ではなく、経済再活性化をオリンピックのような旧来のお祭りに頼る古いマインドであり、オリンピックのようなイベントの管理もまともにできなくなってしまっている劣化のほうだ。おまけに、追い込まれると、太平洋戦争当時の亡霊までよみがえってくる

 

同様の現象は、今、日本中で起きている。企業、特に大企業に広がる現象にも符合する。今どうしてもやるべきことは、この日本が抱えてしまった宿痾の構造を解明して、その改革に着手することもだろう。個人の立場では改革は無理でも、自分自身の今後のあり方、身の振り方を考え直してみることだ。日本中で蔓延しているマネジメントの劣化と忖度をこれ以上続けることの是非を見直すきっかけとして、オリンピック関連で起きている問題を徹底的に分析してみることだ。そういう覚悟を据えることができれば、そういう人が一人でも増えれば、時代が好転する可能性も出てくるはずだ。そして、それは『幽霊船』ではなく、本当の『救助船』になるはずだ。