平成の失敗を繰り返さないために『思想』が重要である理由

 

 

 大きな転換点としての平成

 

平成が終了する時期が近づていることもあり、昨今では、平成を総括する著作や記事が増えて来ている。昭和と比較すると、長さも半分以下で、300万人以上の戦死者を出して国が滅びてしまうほどの戦争のような大きな出来事があったわけではないとはいえ、平成という時代には、阪神大震災東日本大震災とそれに伴う原発事故、あるいは世界初の都市型毒ガステロ(オウム真理教事件)、さらにはインターネットの急速な普及等、過去に例のない、そして、時代を一変させてしまうような出来事が凝縮して詰まっており、つぶさに振り返ってみると実に大きな転換点であったことがわかる。

 

しかも、日本だけではなく、この間、日本を囲む世界も激変した。そもそも平成が始まった1989年というのは、世界的な激動の年で、6月に中国で天安門事件が起こり、11月にはベルリンの壁が崩壊し、12月にはブッシュ大統領ゴルバチョフ書記長がマルタ会談を行い、戦後世界を覆っていた、米ソ冷戦という二極構造が終焉の時を迎えた。それは日本にとっても一大事で、軍事はアメリカに任せて、安穏として平和憲法遵守のお題目を唱えていればすんだ時代が終わりを告げたことを意味した。

 


正しく総括できている?

 

このように話題の多い平成を語る人は多いが、『総括』となると、必ずしも容易ではないようだ。どうしても語る側の価値観や信念が表に出てくるせいか、違和感のある総括も少なくない。ただ、それでも共通しているのは、平成が失敗、あるいは、衰退の時代だったという認識だ。だが、何が失敗して、その失敗の本質は何だったのだろう。この点では、議論は錯綜していて、必ずしも収斂しない。あるいは、分析が表層的で、読むに耐えないものも少なくない。例えば、この時期、世界ではグローバリズム新自由主義が市場を席巻したことは誰しも認めるところだろうが、ある人は、その新自由主義を徹底できなかったことが日本の失敗の原因と述べ、またある人は、新自由主義的な政策こそ失敗の原因と述べる。


失敗を真摯に認めて問題点を明らかにすることができれば、失敗は成功のもとにもなろうが、原因を明らかにできずにいたり、問題に直面せずにほっかむりして知らんふりを決め込むようでは、新しい時代を迎えても、また同じ失敗を繰り返えすだけだ。あるいは、何もできずにすくんでいるうちに、衰退が加速してしまうかもしれない。


平成の入り口の時点で、すでに世界も日本も大きな変化の波にさらされていることは誰もが感じていた。だが、日本では効果的な対策が打てないままに、『失われた10年』が過ぎ、『失われた20年』が過ぎて尚、いまだに本当に有効な打ち手は出て来ず、平成は失われたままに過ぎてしまったという印象が強い。だが、そうは言っても、様々な改革や新しい挑戦もそれなりに試みられた時代であったことも確かだ。だが、結果的にはそのほとんどはうまくいかなかった。良かれと思った対策も、思わぬ問題につまづき、行き詰まってしまった。もちろん、やる前から問題に気づくことは容易ではなく、やって見たからこそ問題点が明らかになるということはある。だが、そうであればこそ、平成という『失敗プロジェクト』の『失敗の本質』は徹底的に解明しておく必要があり、それをせずに、また日本人お得意の、『水に流して』しまう、あるいは『問題を先送り』してしまうのであれば、次の時代も平成以上の『失敗プロジェクト』になってしまうだろう。しかも、次の時代には、少子高齢化や巨額の財政赤字等、スタートラインの時点で、すでに大きな荷物を背負っているばかりか、その荷物は何もしなくてもどんどん重くなっていくのだ。


 

いつまでもパラダイスは維持できない

 

平成は結果的に、改革も身を結ばず、手も足も出ずにすくんでしまった時代となってしまったが、逆に言えば、『すくんでいるだけの余裕があった時代』だったとも言える。昭和末期までに積み上げて、世界のトップをうかがうまでになっていた富の余禄は非常に大きく、世界の現実に背を向けてすくみ、『ガラパゴス化』していても、それは、江戸時代という長く続いた平和なまどろみの時代が、世界で帝国主義の嵐が吹いていても、世界の現実から切り離されて、海中に浮かんでいることができたことに似ていて、それなりの幸福と満足を享受できた。経営コンサルタントの海部美知氏は、2008年に日本が『パラダイス鎖国』の状態にあると述べたが、清潔で犯罪も少なく、収入が低くても楽しめることが多い平成日本は、まさに一種のパラダイスの状態にあり、『今のまま、このままがずっと続けば満足』という心理が蔓延した。だが、どうやらそのパラダイスを維持するのも限界に来ている。

 

 

3つの失敗

 

では、私の考える、平成という時代の失敗とは何なのか。私は、平成を大きく『3つの失敗』でくくることができるように思う。その3つについては、それぞれ独立しているのではなく、相互に連関し、より深いレイヤーに共通の『失敗の本質』があると考えられるのだが、まず、『3つ』でくくることで、より具体的にその失敗の全体像を鳥瞰することができるように思う。それは、次の3つである。


1.改革に失敗した政治

 

2.世界のIT /デジタル革命から置いていかれた経済

 

3.宗教や哲学を忌避しすぎて空洞化してしまった思想

 

では、できるだけ簡潔に、それぞれについて説明してみたい。

 

 

1. 改革に失敗した政治


平成の初め頃には、政治に関する国民の最も大きな関心事は、『金権政治の排除』だった。実際、汚職事件が相次いでいたが、中でも直近のリクルート事件*11998年)の影響は大きく、金権政治から脱却すべし、という国民的なコンセンサスが出来上がった。その結果、非自民の細川連立内閣が成立して、戦後日本を長い間支配したいわゆる55年体制が崩壊する。同時に、その金権政治の温床となっていると長らく指摘されていた『中選挙区制度』を排して、1994年に『小選挙区制度』が導入された。

 

中選挙区制度では、一つの政党が過半数を得るためには、同一選挙区内で複数の候補者を当選させる必要があるが、候補者は所属政党からの全面支援を得ることができないため、政党以外の資金源を頼らざるをえず、これが腐敗の原因になるとされた。そして小選挙区制度になれば、小政党が生き残ることは難しいが、米国のような二大政党制となることが期待され、実際に民主党が政権を奪取した際には、今後日本にも二大政党制が根付くとの期待が盛り上がった。


しかしながら、結果的に民主党政権はあっけなく瓦解したばかりではなく、民主党に代わる、自民党に対抗できる政党ができるどころか、野党の弱小化が進み、今では、日本には二大政党制は馴染まない、という説がもっともらしく思えてくる始末だ。しかも、『小選挙区制度』で議員に対する政党の力が増大するのはいいとしても、その流れで、今の自民党のように、官邸や首相に権限を集中させると、議員も自由に意見を述べることさえはばかられるような雰囲気になり、さらに内閣人事局が設置されて(2014年)、官邸が公務員の幹部クラスの人事まで握るようになると、官僚から、司法に至るまで官邸や首相の意向をうかがうようになってしまった。


いかに政権がスキャンダルまみれになろうと、政権交代の可能性がないから、改革は期待できない。党内も、官邸や首相の意向を忖度するばかりで、改革どころか改善のための議論さえ盛り上がらない。こうなるとかつて中選挙区制度の時代に、自民党内で強力な派閥が激突する環境で、様々な議論が白熱していたころが懐かしくなってくる。金権政治という魔物を退治したと思ったら、別の怪物を呼び起こしてしまった。今や国民の政治改革熱はすっかり冷めてしまったように見える。平成前半頃の、改革の熱気も、今では懐かしい思い出だ。



2. 世界のIT /デジタル革命から置いていかれた経済


平成期の経済について否応なく突きつけられるのは、『日本の一人負け』になってしまったという事実だ。平成が始まったころはバブルの絶頂期ということもあり、日本的経営に対する注目もものすごく高かった。一人当たりのGDPもあと一歩で米国を上回りそうな勢いだった。日本の電気製品や自動車が世界中を席巻していた。だが、いつのまにか中国に世界第2位の座を譲ったと思ったら、気がつくと今では日本のGDPは中国の半分だ。一人当たりGDPも下落に次ぐ下落で、2015年には27位(先進国最下位)まで後退した。あれほど世界中に溢れていた日本の電気製品も今では見る影もない。『日本的経営』は今では日本経済の足を引っ張る失敗の象徴とみなされるようになってしまった。


そして、この衰退は、世界のIT/デジタル革命の中で、国家としても企業としても適応できなかったことが最大の原因と言わざるを得ない。1992年の世界の時価総額ランキングを見ると、日本企業が上位を占めていることがわかるが、これを2016年と比較して見ると、時価総額トップは8倍の規模にまで膨れ上がり、上位には米国のIT系企業が並ぶ。その中に、日本企業の名はなく、代わりに台頭しているのは中国企業だ。日本企業の中で上位にいるのは相変わらず製造業(トヨタ自動車)だが、時価総額2017年秋の時点)で比較するとも新興のIT企業であるアリババの半分以下だ。


今や、世界はGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)を擁する米国とBATHバイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウエイ)を擁する中国が激突して経済の覇権を争う様相となっているが、そこに対抗できる日本企業はほとんどない。しかも、今でも世界的な競争力を維持する日本の自動車会社も、IT企業の影に怯え、戦々恐々としている。来るべき人工知能AI)の時代を迎えるにあたっても、技術者の質/量、およびAIを賢くするデータの質/量という点でも、退勢を余儀なくされている。


 

3. 宗教や哲学を忌避しすぎて空洞化してしまった思想


実のところ、1. 2. と比べて、この点はほとんど注目されていないし、一部識者を除けば、重要視もされていない。だが、私に言わせれば、この点での劣化こそ、実は最も深刻な問題で、私は、来るべき未来に日本が本格的な復活を遂げることがあるとすると、思想の重要性が再認識されて、日本の思想に骨格ができて血が通った時だと確信している。

 

大きな物語の終焉』というのは、フランスの哲学者のリオタールが1979年に著書『ポストモダンの条件』において提唱した言葉であり、科学が自らの依拠する規則を正当化する際に用いる『物語』のことを意味したが、これは後に、もう少し語義を広げて使用されるようになった。

 

やや俗化された解釈と言う気もするが、はてなキーワードにある定義がわかりやすいと思う。

 

マスターナラティブ。神、ユートピアイデオロギー等、皆がそれに巻き込まれており、その価値観を共有していると信じるに足る筋書きを提供してくれるもの。

 

これにより個人や全体の行動・思考を方向付けられ、人はこのもとで、無意識のうちに自分の行動を正当化している。 

 

ポストモダン論によって使用された言葉。大きな物語の崩壊によりポストモダンと呼ばれる社会構造が生まれたとされる。

大きな物語とは - はてなキーワード

 

特に平成が始まった1989年以降、社会主義イデオロギーの失敗/幻滅が日本でも強く意識されるようになる。バブル崩壊もあり、資本主義も社会主義も、日本で言えば、日本的経営も信じるに値しないと考えられるようになっていった。物語を信じて学歴社会を生き残って来た一部のエリートは挫折に身悶えして、オウム真理教のように、架空ではあれ、大きな物語を与えてくれる団体に活動の場を見つけるようなことも起きた。これはオウム真理教について扱ったときにも書いたことだが*2、資本主義のオルタナティブ(代替物)としての、『ニューサイエンス』『ニューエイジ』そして、まさにリオタールが言及した『ポストモダン』を主として標榜する『ニューアカデミズム』等非常に盛んだったのが80年代だった。日本では学生運動が廃れて、いわゆる大きな物語としての地位を失い、これらが方向を見失ったいわゆる『意識高い系』の学生の受け皿の一つになろうとしていた。オウム真理教はその一部がグロテスクに突出した形で現れ出た存在とも言える。ところが、あまりに衝撃的かつ醜悪だったこの団体に対する嫌悪感は非常に強く日本人の意識を根底から揺さぶり、宗教全般への忌避感はもちろん、このころまでに盛り上がっていたスピリチュアルな関心も、スピリチュアルな気配が感じられるニューサイエンスやニューエイジまでひっくるめて忌避され、排除されていった。

  

加えて、オウム事件とほぼ同時期に、世界の思想界を揺るがすソーカル事件が起きる。

 

19964月に、ニューヨーク大学の教授であった物理学者のアラン・ソーカルが、「境界を侵犯すること―量子重力の変形解釈学に向けて」という論文を作成し、それを「カルチュラルスタディーズ」の論集として知られる『ソーシャル・テクスト』誌に投稿したところ、その論文が同誌に掲載された。

 

内容は、フランスの現代思想関連の学者の文章を引用しつつ、そこに自然科学の用語を用いて論述したものであり、そのデタラメの内容も、自然科学系の高等教育を十分に受けた者なら指摘できるようなお粗末なものであった。

この事件の発覚により、当時のフランス現代思想に対して批判が浴びせられることとなった。

しかし、ソーカル自身は、現代思想の批判自体が目的なのではなく、批判の対象は、浅薄な知識と理解に基づいて専門用語を用いて権威づける行為であり、ポストモダンのみならず、その他の分野においても批判している。

ソーカル事件とは (ソーカルジケンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

 

ソーカル自身も述べているように、これはフランス現代思想自体の批判ではないとはいえ、少なくとも日本では、ポストモダン等の思想が空っぽで、こうした分野を研究している教授や学生も内容もわかりもせずに知的遊戯をやっているだけ、という批判を誘発したことは確かで、日本ではポストモダン等の思想系に限らず人文系のアカデミズム全体の衰退の契機となったことは否めない。

 

19世紀末から20世紀初頭にかけて、米国の哲学者リチャード・ローティーの言う『言語論的転回』という哲学上の大転換が起きた。ソシュールヤコブソンの言語学、それに影響を受けた構造主義、それ以降のポスト構造主義、さらにはハーバーマスが提唱する『コミュニケーション理論』に至るまで、非常に大きな流れとなり、ポストモダンの思想もその潮流を引き継いでいる。ポストモダンを標榜する思想家が特に強調したのは、『言語構築主義』と『相対主義』だが、これは思想や哲学の枠を超えて、文化全般にまで浸透することになり、道徳的な善悪や法的な正義についても、普遍的な真理はなく、多様な意見があるにすぎないとする考えが、いわば現代人の常識となり、日本でも、特に『ニューアカデミズム』以降、広く浸透した。その思想の多くは、生きる糧として人を鼓舞する思想ではなく、普通の人にはただの高尚な遊戯にしか見えず、遠からず流行は去るであろうことを予測する人も少なくなかった。そういう意味では、ソーカル事件は単なるきっかけにすぎなかったというべきかもしれない。

 

このような動向を総合した結果、日本では思想すること、宗教や道徳、倫理について議論することが、それ以前と比較しても、本当に少なくなってしまった。同時並行で、コミュニティの崩壊も進んだこともあって、人々の行動の動機も、『金銭的な多寡』や『損得勘定』しかなくなり、『損得勘定を超えた止むに止まれぬ行動』とか『価値や大切な人のために命をかける』というような規範的な行動を目にすることは滅多になくなってしまった利他主義に基づく社会規範的行動は、どんどん後退して、互恵性に基づく市場規範的な行動ばかりが前景化した。

 

金銭的な損得勘定は、ある程度経済的に満たされると(あるいは満たされたと感じると)、それ以上のインセンティブにはならないし、そもそも金銭的な損得勘定からは、内発的な動機は生まれない。普遍的な共通の価値観もなく、そこに多様な意見があるに過ぎないということになると、社会の分断化は否が応でも進まざるをえない。結果として、人をまとめたり動員できるのは、劣化した感情のみ、ということになってしまったヘイトスピーチやネットの炎上等はその典型的な現れと言える。

 

太平洋戦争の終結時でもそうだったように、日本人には大きな災害や戦争、挫折等で全て押し流された後の方が、むしろすっきりと切り替えて次の構築に意欲を持って立ち向かえる心理構造があり、またそのための性根も据わっていたと言える。ところが、政治改革に失敗し、世界のIT/デジタル化についていけずに経済でも負け、ギリギリ維持してきた安定が維持できなくなりそうな状態になった今でも、いっこうに反攻の気配がないのは、思想も宗教も倫理も空白状態になっていることが実のところ第一の原因だと思う。この状態では、オウムのような擬似的な、ハリボテのような物語に再び釣られる恐れがあることは前にも述べたが。バラバラになった人々を動員するのが、劣化した感情か、ハリボテのような物語か、というのは本当に困った状態で、これこそ、一番の危機というべきだろう。

 

 

 どうすればいいのか?

 

では、どうすればいいのか。どこから何に手をつければいいのか。何度も繰り返し述べてきたように、やはり、思想の立て直しから始めるしかないと私には思える。そのように言うと、いくら思想や哲学を追求しても、『道徳的な善悪や法的な正義についても、普遍的な心理はなく、多様な意見があるにすぎない』のだから無意味、という反応が返ってくるが、実のところ、それ自体が思想に囚われた発言であることを知るべきだ。ポストモダンを忌避して、遠ざけたにもかかわらず、ポストモダンの、もっといえば、『言語論的転回』以降の思想を無意識に受け入れ、その影響下にあり、泥沼の相対主義に振り回されている。それ以外の選択肢がありえない、との信念に固く囚われている。

 

だが、思想空白の日本ではほとんど話題にもならないが、世界的なポストモダンの流行の終了後に、すでに『言語論的転回』に変わる思想が模索されるようになってきている。今回は、もう詳しく述べる余裕はないが、ポスト『言語論的転回』として、少なくとも3つ、可能性を感じる『転回』が起きてきていてそれぞれ非常に興味深い(メディア・技術論的転回、実在論的展開、自然主義的転回)。個人的には、今は、実在論的転回に最も興味を惹かれているのだが、いずれも、行き過ぎた『相対主義』からの転回の可能性を感じることができる。これらを探求するも良し、あるいはもっと別の挑戦をするも良し、このことによって、まず、自らがどのような思想の影響下にあるかを知る、いわば自分を知ることになり、これが何より大きい。現代人は相対主義を標榜して、『何も信じていない』と表では言いつつ、実は、『言語論的転回』以降の思想を『信仰』していることに気づいていない。まずは、それに気がつくことが大きな第一歩だ。あきらめたり、立ちすくんでいる場合ではない。

 

 

 思想が未来を切り開く

 

思想が社会問題を切り開くに当たっても、不可欠である理由は、今やいくつもあげることができる。

 

1. 新しい技術と共生する未来を切り開く

 

次世代は人工知能のような科学技術が世界を変えていく。この流れはもう止めようがない。だが、人工知能にしても、それを応用した自動運転のような技術にしても、あるいは遺伝子操作のような技術もそうだが、それを社会に導入するためには、思想や倫理の大きな壁を越える必要があり、実は日本の次世代の技術による発展を展望するにあたり、この思想や倫理を練り上げる力が衰退していることが大きな障害の一つとなっている。このままでは、新しい技術を無意識に忌避して、遠ざけ、ますます世界経済の潮流から置いていかれてしまうことになりかねない。新しい技術と共生する未来を切り開くためには、そのための思想を構築し社会的な合意を形成していくことが不可欠だ。

 

 

2. 情報に関わる人間の権利の明確化

 

第三世代の人工知能は、大量の情報をフィードすることによって、スマートに進化していくため、大量の質の良い情報の確保の競争が世界的に起きている。ところが、人間に関する情報の取得は人間の尊厳や権利(知られない権利等)を侵害する恐れがあり、これとどのように折り合いをつけていくか、ということも重要な思想的課題である。しかも、一方で、極端な監視社会化を厭わず産業的な発展に邁進する中国のような国が、世界を巻き込んで勢力圏を広げようとしている今(アフリカ、中近東、アセアン等)、西欧や日本等の先進各国は非常に難しい選択を迫られている。

 

 

3. ポスト真実を超克する

 

また、昨今のポスト真実フェイクニュースの氾濫も、いわばポストモダン的な信念や思想が現実化しているとも言える。『道徳的な善悪や法的な正義についても、普遍的な心理はなく、多様な意見があるにすぎない』という信念があれば、『事実』も、相対的で操作可能な概念、ということになる。トランプ政権の高官が使って知られるようになった、『オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)』などという概念も、世間的には事実とみなされていない(嘘とみなされるべき)事柄を『それもひとつの真実だ』と述べるわけだから、まさに、ポストモダンの思想に大いに影響を受けているといっても過言ではない。これに同じ土俵(相対主義)で対抗しようとしても、議論は永遠に噛み合わないだろう。すなわち、この動向を打破するには、単に技術的にフェイクニュースを締め出すだけでは済まない問題が存在しているということだ。

 

 

越えがいのある壁

 

このように、平成の沈滞を打破する、というだけではなく、世界的な危機的な状況に対処するためにも、技術との共生が不可欠な未来を生きるためにも、今、思想の構築が非常に重要な課題になっている。もちろんそのためには立ちはだかる大きな壁があるが、乗り越える価値のある壁だ。ただ、残念ながら、まだ大半の日本人は、私の意見に耳を傾けることはないだろう。日本の思想空白の現実は甘くないことはわかっている。だが、このままでは早晩、いやでも本当の危機に見舞われざるをえない。せめて、その時にでも、私の意見を思い出し、発掘していただければ幸いだ。そして、私は、その時に備えて、自分にできる範囲で、この思想の問題に全力で取り組んでいきたいと考えている。