インターネット文化の未来について


インターネットの総括の時期


今年は、年の中ごろに、昨年(2013年)は『ゼロ年代のインターネットの夢の挫折の年』だったのではないかという主旨の記事を何度か書いた。当時はこの視点をさらに深堀して、『インターネットの夢』とは何だったのか、誰が夢を見ていたのか、どうして挫折したのか等、もう少し思考を熟成しようと思っていた。だが、残念ながら手をつけかねてそのままにしてしまった。追求しようにも、自分でもどうしても今ひとつはっきりと考えをまとめることが出来なかったのが正直なところだったりする。


だが、2014年も暮れようとしているこの時期になって、もう一度この案件を拾って、書けるところまででよいから何か書いておこうという気になって来た。そうすることが、これからの日本の文化を解読するにあたって、不可欠な作業に思えてならないからだ。確かに、夢は挫折し、インターネット文化にも陰りが見られるのは確かだが、だからといって、インターネット文化、あるいはインターネット文化の周辺で起きたことの本質を総括せずして、日本で今起きつつあること、今後起きて来るだろうことを解読することはできないと思うのだ。



確かに危機に瀕しているように見える


インターネット文化の盛衰を何でもって見るのがわかり安いのか。これは突き詰めると案外奥深い問題だが、少なくとも手軽な手段の一つとして、インターネット・サービスの盛衰はわかり安い目安と言えるだろう。もっともそうなると、厳密にアクセス数や、そのサービスの検索履歴の多寡等、いくつかの指標となる数値を分析してみるのが常道だが、その種の分析はまた別途行うとして、ここではもっと直感的な印象論をそれに替えて先に進みたい。この場合の『直感』は存外あてになる。というのも、『旬』『勢い』『熱さ』等、この種のサービスは、数値以外の定性的な評価に真実が垣間見えることが少なくないと思うからだ。


そういう意味で、時代を代表するサービスの昨今の状況について、非常に巧みに、直感的に表現しているブログ記事を見つけたので、先ずこれをご覧いただきたい(但し、残念ながら、記事としてはすでに削除されているようで、URLからサイトをたどっても見つけることができないことは、あらかじめ申し上げておく)。


• facebookはグルメガイドになった。

  • Twitterはどうでもいい投稿が8割以上を占め、残る2割もTogetterなどの力を借りなければ議論にならない。

  • Wikipedia編集合戦の嵐になり、集合知モデルは崩壊した。

  • mixiGreeDeNAはゲーム屋さんになった。mixiのコミュニティの濃い議論が復活する日は永遠に来ない。

  • 2ちゃんねるは権利関係で揉めてて、泥沼の争いを繰り広げている。

  • 日本のTumblrは艦これのエロ同人の収集クライアントと化した。

  • インターネット広告の予算規模はテレビの半分しかないのに、「ビッグデータ!」とか「DSP!」とか威勢の良いことを言ってる

  • PinterrestやLinkedInにはもはやほとんどの日本人はアクセスしていない。

  • はてなブックマークには日々、ライフハッカーなどの自己啓発系記事が大量の無言ブクマがついてあがってくる

  • アメーバブログlivedoor Blogアフィリエイト業者御用達のブログサービスになった。

  • スマホアプリで生活をチョット便利にするサービスが流行りだ。でもチョットしか便利にならない。多くのサービスは数日経つと利用者は大幅に減る。


 ブログ記事『日本のネットおたく文化は絶滅の危機に瀕している』より
[netcraft.hatenablog.com:title]


サービスの関係者の方々に見られると怒られてしまいかねないから、私自身の作ではないことは強調しておく。だが、確かにここで述べてあるようなことを感じている人は、案外多いのではないか。要は、日本のインターネット・サービスを象徴するような著名なサービスであっても、当初の大きな期待と比べて、こじんまりとまとまってしまったり、すっかり衰退してしまったり、当初とはまったく違った方向に変わってしまったりしているものが多くなっているということだ。



理由/原因


では、こうなった理由/原因は何だろうか。取りあえず、3つ思い浮かぶ。



1. スマホ


2. 普通の人の大量参入


3. 過度なランキング依存



1. スマホ


この1〜2 年のスマホの普及の勢いは本当にすごい。インターネット視聴についても、PCからスマホへのシフトが顕著だ。スマホしか使わない人も増えている。
ヤフーもGoogleもFC2も……日本の上位10サイト、PCからの利用者数が軒並み2けた減 -INTERNET Watch Watch


ところが、あまりの急激な変化にサービス提供側が追いついていない。このシフトによって、長文→短文、文章→画像へのシフトも並行して起きてきているし、情報やコンテンツを提供するパッケージやプラットフォーム(日経新聞Yahoo!等)の違いより、コンテンツ自体の優劣がより重要になった。情報への導線もパソコンのような検索エンジン経由ではなく、SNS等を通じた友人経由が益々増える傾向にある。PCベースのサービスの重要成功要因の多くが通用しなくなりつつある。初期のインターネット文化は、パソコン通信以来の、『長文テキスト』だったと言われるが、それが維持しにくくなっているのも、スマホ化による影響は大きいはずだ。



2. 普通の人の大量参入


インターネット本格導入から約20年、今では、初期のインターネット文化はもとより、多少なりともインターネット文化の薫陶を受けた人々とは何の関係もない、普通の人や、高齢者がインターネットに大量に参入してきている。初期ユーザーや初期の頃のサービス設計者とはテーストが違ってしまうのは避けられない。



3. 情報爆発と過度なランキング依存


2007年の時点で、インターネット上にある情報量は、10年前と比べて410倍になったと言われているが、現在では、18ヶ月ごとに2倍になって、さらに加速的に増えようとしている。ユーザー側の時間は変わらないから、情報を効率的に取得しようと思えば、皆一様に『ランキング』『ニュースまとめ』や『キュレーション』に頼らざるを得ない。皆がランキング等に頼るようになると、全体の情報が増えても、閲覧される情報は画一的になってくる。個性的なサービスより、誰もが使っているサービスにより皆が集中することになりやすい。そうなると便利だが、次第に感動はなくなり、全体としてはつまらなくなる。


[http://spaceboy.jp/internet/information_10years_compare/
Internet data heads for 500bn gigabytes | Business | The Guardian]



インターネット文化の担い手


ちなみに、初期のころからインターネット文化を牽引したのは、どんな人で、その文化はこれからどうなっていくのか。本当に、衰退して消滅してしまうのだろうか。


今秋、KADOKAWA/角川学芸出版より、『インターネットの商用化から20年経過して、地球を包み込むまでに発達したインターネットによって変わりつつある社会の全貌を15のテーマにまとめて解説する』と銘打って、『角川インターネット講座15巻』の企画が発表され、すでに配本が始まっているが、その第4巻、『ネットが生んだ文化』*1を監修する(株)KADOKAWA•DOWANGOの会長、川上量生氏のインターネット文化の説明が、非常に正鵠を得ていて納得できる。ここに、日本のインターネット文化を良くも悪くも黎明期から担い、支えて来た『グループ』の姿が活写されている。


川上氏は、ユーザー視点に立った日本のインターネットの歴史とは、現実社会に住む人々(現実世界=旧大陸)から分化して、新しく発見された仮想世界=ネット新大陸へ移住して、勢力圏を拡大していった歴史であるとする。そして、早くから新大陸に移住したのは、進歩的な考え方をもった知的エリートではなく、旧来陸になじめず、現実社会において居場所がない人達で、彼らが『ネット原住民』とでもいうべき人だという。このネット原住民には、独特の文化があり、日本のネット文化を特徴づけ、独特の文化空間を構築し、旧大陸に足場を置きつつ、旧大陸にも新大陸の文化とルールを持ち込もうとして後から参入してきた『ネット新住民』としばし文化的衝突(炎上)を起こし、一方で『ネット原住民』の一部は時に非常にレベルの高い創作活動を行って来た。『ネットが生んだ文化』より、この『ネット原住民』の特徴を抜粋してみる。



ネット原住民の特徴



•非リア充である


リア充とは友達や彼女がいたりして現実での人間関係が充実している人のことを指すが、非リア充とはそうではない人のことで、人間関係の構築が不得手なため、現実社会から逃げ出して、新大陸に安息の場所を見つけた人たちが『ネット原住民』である。だから、世の中への恨みという負のエネルギーを潜在的に持っていて、攻撃対象への怒りという一時的な負の方向での連帯を生むが、コミュニケーション能力や社会性が欠けているため、仲間同士の助け合いなどは苦手だ。概して、コンピューターゲーム、アニメ、ライトノベルといった『オタク』コンテンツを好む



ニート(若年失業者)が供給源


ニート(若年失業者)がネット原住民の大きな供給源となった。他国では失業者はネットにつながる経済力も持てないことが多いが、日本のニートは親に経済力があり、ネットにアクセスすることはできた。ヒマで一日中ネットにアクセスしていて、通常のネットユーザーよりネットにおける存在感が桁外れに大きい。



•世界的な広がりを持つ


同種のインターネット文化は世界的な広がりを持っていて、欧米にも似たタイプの人種がいる。このネットワークを通じて日本のオタク文化が国境を超えて受容されている。



•独特な価値観とプライドの持ち主


無断コピーが悪いことという認識は必ずしも共有されていない(コンテンツが無料になることは時代の流れで正しいことという意見も根強い)。だが、コンテンツとその作者に対するリスペクトは非常に高い。現実にあるものを『模倣』して讃え合うという文化が伝統的に存在する。その背景として、『二次創作』的な文化が世界的にも類がないほど盛んだ。この『模倣』に対して罪の意識はない。ただし、違法ソフトや動画を丸々コピーするというのは嫌われる。自分たちは単純なコピーをしているのではなく、クリエイティブな活動を行っているという自負がある。



嫌儲


そもそもコンテンツは無料コピーされて当たり前で、ネットにおいてコンテンツでお金儲けをすること自体がそもそも許せないとする感情は存在するし、中には過激にその信念に基づいて行動する人もいる。インターネットで儲ける=自分たちが搾取されているという意識がある。


先に指摘したように、今、普通の人=ネット新住民の数が激増している。ネット新住民の無神経な振舞いは、ネット原住民の神経を逆なでし、その結果、炎上は今でもあちこちで起きている(川上氏は炎上はネット新住民に対する原住民の怒りが爆発して起きるもの、と定義する)。一方、ネット新住民は、ネット原住民の現実世界での常識のなさを嘆き、怒り、日本のネットカルチャーにつき絶望する。その創造的なポテンシャルの高さも、ごく一部を除いて、正当に評価されているとはいえない。



影響力は低下しない


数は新住民の方が多いし、今後もっとその比率は高くなると考えられる。だとすると、遠からず、ネット原住民はアメリカン・インディアンのように追いやられ、飼いならされ、牙を抜かれてしまうのだろうか。そのように語る識者も少なくないが、私にはそうは思えない。川上氏も指摘していることだが、今の日本社会を見ていると、ネット原住民のマインドの持ち主があっさりと消えてしまうとは考えられない。それどころか、格差が拡大する未来では、むしろ増大する可能性も高い。若い世代の『非リア充』は、皆、インターネットに流れ込み、ネット原住民的なマインドをかなりの部分受け継いで行く可能性は高いと思う。しかも、彼ら(彼女ら)は、基本、ヒマで時間はあるから、影響力が低下する事もなさそうだ。



ネット新住民もインターネット的になってきてる


しかも、ネット新住民のほうも、そのままのマインドかといえば、どうもそうではなさそうだ。『ほぼ日刊イトイ新聞*2を主宰する、コピーライターの糸井重里氏は、著書『インターネット的』*3で、インターネットに遅れて入って来る側(人口の80%)の人達のほうも、身体や考え方、生き方は、どんどんインターネット的(『人とつながれる』『乱反射的につながる』『ソフトや距離を無限に圧縮できる』『考え方を熟成させずに出せる』等)になって来ているという。『情報社会』に生きているうちに、身体や考え方、生き方は、どんどん、このようなインター的なものになっていくと語る。普通の人も変わりつつある! 本当にその通りだと思うし、私自身その変化を日々実感している。



きっとブレークスルーは起きる


リア充と言われる、現実社会での生活が充実している人たちが、コミュニケーションに自信がないゆえにインターネットに逃げ込んだ先住民を駆逐して、インターネットを欧米の市民社会の日本版を築くための基盤に洗い換えていく、というようなイメージをいまだに信じている人も多いし、逆に、それが無理だから日本のインターネットは腐っていてもうだめだという極論も相変わらず少なくない。


だが、昨今の欧米を見ていても、『欧米市民社会』の根底にある近代思想自体、あちこちが綻んで、このままでは立ち行かないと考えられる時代だ。日本は日本の現実をありのままに認めて、ここから再出発することを考えるべきだし、そのように開き直ることが、むしろ新たなブレークスルーに繋がると思えてならない。少なくとも『旧大陸』の分析装置をそのまま『新大陸』に当てはめるような愚行はもうそろそろやめておいたほうがいいと思う。


しかも、上記で述べて来たように、確かに、今は停滞の最中と言わざるをえないにせよ、マクロで見ると今まで以上に社会が『インターネット的』な方向にシフトする胎動は感じられる。KADOKAWAの企画ではないが、今は、これまで起きて来たことを総括して、次の大きな波に乗り遅れないよう、準備しておくべき時期であることをあらためて強く感じる。そうすれば、近未来のあるとき、2010年代の前半は、インターネット幼年期が終って、次の飛躍を準備していた時代だったという評価を余裕を持って聞くことができるに違いない。