組織に残すべき要素は市場では得られないものだけ

取引コスト


米国の経済学者、オリバー・ウィリアムソン氏(ノーベル経済学受賞者でもある)が提唱する概念に、『取引コスト』というのがある。


市場では、人間は完全に合理的に効用を最大化することを新古典派経済学では仮定してきたが、実際に社会に出てみればすぐにわかることだが、実際にはいつも型通りに合理的に行動できるとは限らない。特に日本ではよけいそうだと思うが、実際の市場での取引は、駆け引きも起きるし、しがらみもある。儀礼的なコストや手順の複雑さ等もある。この取引を行う上での、狭義の経済合理性の観点から言えば『無駄』にあたる部分のことを『取引コスト』という。この取引コストの部分を節約し、能率よくこなし、結果として総コストを下げるために、組織(会社組織等)が形成される。



劇的な転換


かつての日本の製造業では、『系列取引』等、取引コストへの組織的な対処が結果としてうまくいったことが、世界的なコスト競争に勝ち残るにあたって重要なファクターの一つとなった。ところが、情報技術の進化により、市場での情報流通コストが劇的に下がり、市場での取引コストも下がった結果、日本企業の相対的な競争力は大幅にダウンすることになった。日本企業は、従業員の解雇が難しかったり、いまだに残る系列的なしがらみも強く、より効率的になった市場のパワーを有効に引き出す事ができず、市場の活用に熟達する米国等の国際企業の後塵を拝することになってしまった。



後手に回る日本企業


もちろん、日本企業もこの現実に完全に無関係でいることはできず、旧来の法制度の隙間をすり抜けるように、可能な範囲で転換を進めては来た。米国発のツールや手法の導入も大変な勢いで進んだ。業務はアウトソースされ、若年層を中心に正社員は契約社員に大幅に入れ替わることになった。だが、こうしたビジネス環境の激変に対応すべく、企業が手探りで進めたいくつかの『改革』は、むしろ足腰を一層弱める、皮肉な結果となってしまったものも少ないない


成果と報酬を『わかりやすく』関連づける、成果主義人事制度などはその一例だ。そのように『わかりやすく』業務を標準化して、成果に対する報酬体系も透明化できるのであれば、その仕事は速やかにもっとコストの安い外部(市場)に出すべきだ。一方、会社の仕事がすべてそのように透明化できてしまうのであれば、市場で対抗できる競争力の源泉はどこにもない、ということを意味する。


成果主義人事制度と一括りに言われても、という反論は予想できるところだし、確かに、多少なりともクレバーな設計や運用はあるはずだと人事労務の専門家の中には熱く反論する人もいるかもしれない。だが、現実に多くの会社でウイルスのように病気を広めてしまった後で、ほぞを噛む経営者はかなり多いのではないだろうか(気づくならまだいいほうか)。自分自身、そのような事例を数多く見ることになったこともあり、この数年、現時点での最も優れた組織の作り方、人事制度のあり方等は何なのか、ずっと自問自答してきた。



戦略読書日記


ところが、本当に同じようなことを考えている人はいるもので、経営学者の楠木建氏の『戦略読書日記』*1を読んでいたら、ほとんど同じ文脈でこのことが語られている一節があって、驚いてしまった。少々長くなるが、該当部分を引用する。

市場における取引は、『技術的分離可能性』が前提となっている。(中略)仮に仕事を技術的に分離できたとしても、人間の『態度』に関しては分離不可能なものものがあるという。人間の態度までも分離可能なものとして扱うと、部分最適となって、結果的に全体のアウトプットは下がってしまう。


たとえば、自発的な献血がいいのか、売血がいいのかという議論がある。ウィリアムソンの見解では、市場メカニズムを使う『売血』は、献血システムを衰弱させる。なぜなら、血液市場をつくると人間が本質的に持っている利他主義という『態度』が減じられてしまうからである。値段のつかないものを提供する自分たちは不可欠の存在だと思えるからこそ、利他的な行動が触発される。その結果として、自発的献血がせっかく起きているのに、血液を商品化すると取引の性質が変わってしまうというわけである。


だったら血液の価格を上げたら血が集まるかというとそれはうまくいかない。つまり無料で行う献血利他主義は不可分であり、売血利他主義の実践による満足をもたらさないので、結果的に血液を提供する人が減ってしまう。
こういう『満足を呼び起こすような交換関係』といった『雰囲気』は、市場メカニズムでは十分に扱えない。

戦略読書日記 P254〜255

雰囲気の重要性


楠木氏は、この『雰囲気』こそが、これからの組織のよりどころではないか、というが、私も諸手を上げて賛成だ。市場メカニズムで集められない人をどう集めるのか、というのが、市場がパワーを持つ時代だからこそ何より重要だと思う。


では、その『雰囲気』をどうつくればいいのだろう。

 

 ・社会的な意義/やりがい
 ・人間関係の良さ/心地よさ
 ・成長実感
 ・リーダーの人間的な魅力
 ・尊敬に値する『企業哲学』
 ・仕事自体の楽しさ/面白さ
 ・・・・


いざ列記してみると、月並みなものばかりで、少々げんなりしてきた。


楠木氏は言う。

そうしたことをよくわかっている組織は、やる気があって、本当にその仕事が好きな人を引き寄せる『雰囲気』をつくっている。これからの経営者は、労働力も開発も生産も営業も企画も、その気になればすべて市場で『効率的』に調達できる時代に、なぜ自分の会社は組織として存在し続けるべきなのかについて、誰もが納得する答えを持っていなければならない。

同掲書 P256

客観ではなく主観


大方その通りだが、一点気になる部分もある。『誰もが納得する答え』というところは要注意だ。第三者にもわかるように数値化、客観化することに過度にこだわると逆効果ということになりかねない。数値化、客観化の極地こそ『市場』だからだ。楠木氏はそのような意味で言ってはいなくても、読む側でいかにも誤解してしまいそうな気がする。『そうかなと思うが実感がない』というのでは意味が無い。『企業哲学』『思想』『美意識』、『バランス』等、触れた側が自分の奥底から揺り動かされるようなものでないとだめだ。社会学者の宮台信司氏の言葉を借りれば、『感染力』のあるものでなければ機能しないと思う。


だが、こう言うと出てくるであろう反論にも予想がつく。強力な『企業哲学』を説く経営者を抱く会社こそ、しばし『ブラック企業』なのではないかと。かりに最初は健全な哲学を信奉していても、トップが権力に溺れると『権力は腐敗しやすく、絶対的な権力は絶対に腐敗するーアクトン卿(イギリスの歴史家・思想家・政治家。)』ということになりかねない。


ここに立ち入ると、話は簡単には終らなくなり、今回のエントリーの主題とも違ってくるので、あまり語らないでおこうと思うが、米国大統領ではないが、トップの最長任期(8年)が決まっていたり、トップに諌言が届く何らかの仕組みを構築する等、それこそ客観的に見ても機能しそうな仕組みが織り込んでなければ、その企業は長続きしないことは肝に銘じておく必用があると思う。