読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ソーシャルグッド・サミットに参加してしきりに考えてしまったこと

ソーシャルグッド・サミット 東京ミートアップ


もうかなり時間が経ってしまったが、先日(9月24日)に、ふとしたことから、『ソーシャルグッド・サミット 東京ミートアップ』というイベントに参加した。まず、このイベントの主旨を以下の記事から抜粋する。(当日の開催概要は、下記URLの記事をご参照いただきたい。)

ニューヨークで2日前から始まっていた「ソーシャルグッド・サミット」とは、世界中のリーダーが集まり、「テクノロジーがいかに世界の課題解決に寄与するか」、「新しいメディアとテクノロジーがいかにコミュニティの課題を解決できるのか」について、大きな構想とアイディアを練る場です。

ニューヨーク、中国、ケニアの公式イベントに加え、「ソーシャルグッド・サミット」がきっかけとなり、世界の半分以上の国々で、有志による自発的にローカルイベントが各地で開催されました。今回、東京でも「ソーシャルグッド・サミット」の場に期待する約150名が集い、有志による「ソーシャルグッド・サミット東京ミートアップ」が実現しました。
http://netsquared.jp/socialgood_summit_tokyo/

見えてくるかもしれない日本の問題


3年前にニューヨークで始まった『ソーシャルグッド・サミット』のことは、何となく聞いたことがあるという程度にしか知らなかったのだが、米国発のこの活動が日本でどのように受容され、どの程度活動をしているのかという点には結構興味があって、機会があれば知りたいとは思っていた。そこに、ジオメディアサミットの主催者でもある関さん(Georepublic Japan CEO 関治之氏)がゲストスピーカーとして登壇するという情報があったため、関さんならどんな話をするのか、そしてこのイベントの主催者や、ソーシャルグッドの活動家、そして、この日会場に訪れた参加者にどのような反応が見られるのか、それを実感できる機会になるのではと思い、参加してみることにした。


社会を良くするために、『テクノロジーがいかに世界の課題解決に寄与するか』『ニューメディアやテクノロジーが私たちのコミュニティでどのような解決策を創り出すことができるか?』を考える、という明確な目的があるとするなら、活動が成功しているのであればそれでいいし、うまくいっていないとしてもその原因を知ることで、少なくとも、海外と比較した日本固有の特徴や問題が鮮明に浮かび上がって見えてくるかもしれない。こんなことを書くと、真面目にボランティア活動等を行っている人から怒られてしまうかもしれないが、その点は予めお詫び申し上げておく。



これまではあまり盛り上がらなかった?


私とて、社会を少しでも良くするためという『意図』や『善意』を見下すつもりはまったくない。それどころか、日本でこそ、もっとそういう活動が社会全般に広がればよいと心から願っている一人でもあるつもりだ。ただ、どうしたことか、この種の活動は、日本ではすんなりと受け入れられたり、広がって行くという気がしない。現実に、『Social Good小辞典』*1の著者であり、今回のイベントの司会をつとめた市川裕康氏も、海外に比べて日本の活動はもう一つ盛り上がりに欠けることを認めていたし、登壇者の一人、ハリス鈴木絵美氏(Change.org 日本キャンペーンディレクター)は、自分の活動は、日本の友人からは『日本では成功しない』と言われる旨を非常に率直に語っていた。これぞまさに日本の現実を物語っているように思う。当日の参加者は人数的には盛況だったが、市川氏がいくら司会で盛り上げようとしても、淡々とそれを見守る会場の冷静さが際立つ感じだった。このギャップは一体何だろう。これを明確にせずして、ソーシャルグッドの活動を日本で浸透させることは難しいのではないか。



日本に『私達のコミュニティ』があるか


『ニューメディアやテクノロジーが私たちのコミュニティでどのような解決策を創り出すことができるか?』という『米国発』の問いかけには、社会の問題は国や企業の手を借りずとも『私たちのコミュニティ』で解決する、という強い決意を感じることができる。ところが日本ではどうだろう。社会の問題を『私たちのコミュニティ』で解決しようというその『コミュニティ』に今どの程度リアリティを感じるだろうか。コミュニティがかろうじて残っているとしても、その多くは国や地方公共団体等の行政府、あるいは企業に圧力をかけるための受け皿でしかないのではないか。その点では、過剰ともいえる『活動』が活発になっているところもある。非常にヒステリックに行政府に要求を突きつける人も珍しくない。行政府の側もそれなりに対処しようという気があったとしても、国民は『島宇宙』と言われるがごとく分断され、価値観や要求もバラバラで多種多様ということになると、すべての要求に満足に答えることなどそもそも不可能と音を上げているのが本当のところだろう。結果、相互に矛盾し、公平な運用さえ難しい法律を矢継ぎ早に成立させて自己防衛をはかるようなことになりがちだ。国民の側の不信感やフラストレーションはエスカレートし、一層過剰な要求をし、さらにフラストレーションは強まるという負のスパイラルにはまってしまっている。


複雑になりすぎた現代社会にあっては、国にも企業にも過度に頼らず、『私たちのコミュニティ』がそれぞれ考え、解決策を創りだすことを目指すほうが道理にかなっていると思う。だが、日本には肝心の『解決策を創り出す』ようなコミュニティが極端に少なくなってしまっている。だから、今日本で問うべきことの一つは、『私たちのコミュニティ』をニューメディアやテクノロジーで組成したり、復活したりすることができるか、できるとすればどうすればいいのか? ということになるはずだ。



日本にもボランティア精神はあるとはいえ


ちなみに、米国ではボランティアの伝統はしっかりしていて活動も活発だが、日本人はそういう活動には無関心とずっといわれてきた。だが、東日本大震災後のボランティア活動、中でも若者が気負いなく熱心にボランティアに向かう姿を見ていると、少なからず自分の側に先入観の壁があったことを認めないわけにはいかない。日本人の『相互扶助』『献身』『善意』等の思いは、震災のような機会に所を得ると、ちゃんと現前してくる。だが、この『思い』を、この『エートス』を、ソーシャルグッドのような恒常的な活動のリソースとすることは相変わらずかなり難しい。どうしてなのか。



ドラマティックな出来事


『恒常的な活動』という点で、どうしても思い出してしまうのは、漫画家の小林よしのり氏の薬害エイズ訴訟における、原告のサポートと、訴訟後の離反というドラマティックな出来事だ。

旧『ゴー宣』時代に薬害エイズ事件を取り上げた事がきっかけで、「HIV訴訟を支える会」代表に就任し精力的に活動する。小林は積極的に朝まで生テレビなどのTV番組へ出演し、問題の重要性を訴えた。自らのネームバリューを生かそうと考え、広告塔であることを積極的、能動的に捉えていた。本編においても支援集会の告知をし、ほぼ同時期にオウムとのトラブルを抱えながらも画面露出は抑えることなくつづけていた。HIV薬害感染者としてカミングアウトした川田龍平を全面的に肯定。厚生省、製薬会社、国に対して対抗する案を本編で提案していた。

ゴーマニズム宣言 - Wikipedia


だが、小林氏は、原告団勝訴後、運動に参加した学生ボランティアが、特定の問題(薬害問題)に限定せず、日常に帰らないこを批判し、川田龍平氏らと決別することになる。この小林氏の行動の分析は、思想家の北田暁大氏の『嗤う日本のナショナリズム*2に詳しい。



政治的ロマン主義

『脱正義論』における小林の主張は、おおまかにいって二点にまとめることができる。第一に、ある特定の目的を果たすべく開始されたはずの社会運動が自己目的化することに対する批判、運動に参加した学生たちは、もちろんまったき善意をもって『支える会』にコミットしたわけだが、HIV訴訟が一段落してもなかなか日常へ帰ろうとせず、いわば『無差別的』に次なる目標を探している。自分が『正義』の立場に立つことができるような『問題』を必死になって探し、自らの『正義』を再生産していく『純粋まっすぐ君』から脱却し、『支える会を解散して日常へ復帰しろ!』ー そう小林は訴える。運動参加が自己実現の手段となり、ボランティアが動員の戦略として流用されていくことに対するラディカルな批判といえよう。 同掲書 P212


小林氏は、社会運動の自己目的化を批判し、『論点別に離合集散せよ、繋がることだけを目的とするな』という。繋がりを自己目的化するような市民主義を批判しているように見える。北田氏は、この批判は、ある主義(思想)へと転化することとなるという。

(前略)かくして、反市民主義という形式主義的・否定神学的な思想へと転化することとなる。『立場をとること』を拒絶する立場、イデオロギー(思想)と心中することを拒絶する思想としての反市民主義の誕生だ。(中略)小林がたどった道筋(転向?)は、戦前より連綿と続く『政治的ロマン主義』の常道といえるものだ。(中略)ロマン主義は(左右を問わず)思想に担保された立場に安住することを拒絶する。 同掲書 P214


加えて、北田氏は、『市民主義なもの』に反発する2ちゃんねらー(何かを信じるという価値観を攻撃する)の多くも、小林氏と同様の道筋をなぞり返しているのではないか、という。



アレルギー


これは、多少のニュアンスの違いこそあれ、ジャーナリストの佐々木俊尚氏が著書『「当事者」の時代』*3で強い違和感を感じるという『マイノリティ憑依』の問題にも通じるところがあると思う。思想の左右にかかわらず、連合赤軍、オーム真理教、そして、戦後民主主義/市民主義者に至るまで、一つの思想に、向き合うのではなく、飲み込まれてしまったかのような行為や行為者に対するアレルギーを感じる人は、昨今意外なほどに多い。しかも、日本的経営、官僚主導の国家運営など、一度はその価値が非常に高く持ち上げられながら、今や幻滅の極みにあるものは枚挙にいとまがない。アレルギーの原因に事欠かないのが現代の日本だったりする。



実存主義思想


一回的な、あるいは偶発的な個物は永続性や普遍性を欠く、という意味で現実性を欠くとした思想(観念論)に対抗して、単独者としての自己自身を問題とする思想、これはまさに実存主義思想』の立場、ということになるが、今の日本では、既存の価値のすべてをうのみにせず、自分自身の実感/直観/体感等を磨ぎすまして、本当に大事にすべきものは何なのか一人一人が考え直すべき時が来ていて、形は違っても、それを感じている人が増えているということではないのか。少なくとも、特定の思想や立場に同一化(憑依)することで、自らをその権威(神)の立場に置くような欺瞞に対して、はっきりと違和感を表明する人は増えていると思う。もっとも、大多数はその混乱に巻き込まれてなす術をなくしているというべきかもしれないのだが。



空洞化の恐れ


米国では、キリスト教と米国流の市民社会の伝統を背景にしてボランティアが成立しており、ソーシャルグッドの活動についても、その系譜にあると考えられるから、価値に迷いがない。だが、その価値の中核に共感できないままに、日本に形式的にこの活動を輸入すると、エッセンスが空洞化し、悪くすると、「自分が『正義』の立場に立つことができるような『問題』を必死になって探し、自らの『正義』を再生産していく」態度、すなわち、自分を正義と認めてもらう立場におくことによって、自らの空洞から目を背けるということになりかねない。当然、その欺瞞に気づいて批判的な目を向けるのは、2ちゃんねらーだけではないだろう。少なくとも、他人はどうであれ、自分自身はこれをやりたい、やるべきだと感じている、というような、『自分自身で考えた結果や態度』が感じられない活動はこれからの日本では支持されなくなっていくのではないか。(そういう意味では、関さんの係わる『Open Street Map』など、良い方のロールモデルになるポテンシャルをすごく感じる。)



日本のソーシャルグッドとは


何だか非常に辛口になってしまったような気がするが、ソーシャルグッドのような活動全般を否定するものではないことはあらためて強調しておく。ただ、自分で確信の持てない、他人のいう『社会正義』に安易に追従するのはいただけない。自分自身で考えてこれをやるべきと感じたら多いにやればいい。(もちろん他人を強制するようであってはいけない。)そうすれば結果として、『日本のソーシャルグッド』が見えてくるだろう。いや、そうやって『日本のソーシャルグッド』を見つけていって欲しいと思う。

*1:

Social Good小事典 (現代プレミアブック)

Social Good小事典 (現代プレミアブック)

*2:

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

*3:

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)