『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』を読んで

待ちに待った本


待ちに待った哲学者・作家・評論家、東浩紀氏の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』が発売されたので、早速入手して拝読した。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル



理解は難しい


今回の著作で扱われている内容は、私の記憶では、2009年10月25日に放送された、朝まで生テレビ「激論!若者に未来はあるか?!」で東氏がルソーの一般意志と現代・近未来におけるその可視化と利用の可能性に言及して以降特に注目されるようになったように思う。インターネットメディアや個人のブログでも、徐々に取り上げられるようになった。もっとも、当時もおそらく今も、ほとんどの人は東氏の真意を理解しているとは言えないのではないか。実際これを理解するためのハードルはかなり高い。ところがなまじ『ルソー』であるとか『民主主義』というような普通の人でも取っ掛かりのあるキーワードが混ざっていることが災いするのか、とんでもなく的外れな批判や誤解にも少なからずさらされて来ている。東氏自身も『誤解は引き受ける』とは言うものの、唖然とするような批判に閉口し、しばし苛立ちを隠さない。



理解しようと努力してきた


かく言う私も初めてこのお話を聞いたときから完全に理解できたのかと言えば、そうではなかったことを白状せねばならないが、それでも非常に強く感じるところがあり、何とか少しでも理解しようと努めてきた。そのかいがあって、ある程度私にも理解できてきたと感じたタイミングで一度この件に言及するブログ記事を書くことができた。

『無意識可視化装置』の無限の可能性 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る


ただ、まだ、あくまでまだ私の淡い『直観』程度のものであったため、もっと東氏本人のまとまった論考を読んでみたいとずっと考えてきた。だから、本書は(必ずしも読みやすい本とは言えないと思うが)あっという間に読了した。そして、私のブログでの理解がまんざらでもなかったことを密かに喜んだと同時に、東氏が言いたかったことの全体像、このタイミングで言うしかなかった必然性、さらにその先を見通したパースペクティブ等を併せて多少理解することが出来た気がする。もちろん、これは私自身の思い込みに過ぎない可能性も十分にあるわけだが、少なくとも私なりに合点が言った疑問点も多々あり、同時に、沢山のもっと考えてみるべき課題に気づかされることになった。



理解のためのガイドライン


しかし、理解できたように思っても次の瞬間、あいまいになってしまうのが、『ルソーの一般意志』の意味だ。『ルソーの全体意志とは違う』『一般意志は数学的存在である。』・・・説明されればされるほど大抵の人はますますわからなくなってしまうのではないだろうか。そのせいだろうか、今般の著作では、誤解をさらに別の種類の誤解に置き換えてしまうことを覚悟の上だろうと思うが、理解のためのガイドラインとして次のような主旨の説明がなされている。

ルソーの一般意志=集合的無意識=データベース=情報環境に刻まれた行為と欲望の集積=情報技術の進化により可視化できるもの


意識に対して、フロイト以降の無意識の概念を対置させる(一般意志=無意識、全体意志=意識とされる)。そして、それは近年『ライフログ』という概念が成立しつつあるように、個々人の行為、欲望、呟き、断片的な思考、何気なく撮影された写真や動画等が大量に蓄積され始めている。そして、その超大量のデータは情報技術の進化に伴って可視化され、分析されてきている。これは長期的な未来というより、すでに一部実現されつつある近未来というべきだろう。



無意識は排除すべき?


だが、無意識? 欲望や感情の集積? そんなものを知ってどうなるというのか。そんなものを政治的決定や判断に使ったら、ひどくミスリーディングなことになってしまうのではないか。大抵の人はそう言うだろう。普通の人が無意識という言葉から連想するのは、『集合愚』『集団浅慮』『ポピュリズム』『暴動』『熱狂的な革命や宗教行動』等々、ネガティブなニュアンスばかりだろう。こんな危険なものを持ち出したら、熱狂的な殺し合いと堕してしまったフランス革命や、ヒットラーの登場と似たような悪夢を招き入れてしまうのではないか。歴史の教訓はこのような無意識に蓄積する情念の力が時に恐るべきものであることを教える。だから、感情や情念のようなものは極力排除し、理性を唯一の判断軸とすることを勧める。日本でも、混乱気味の政治を立て直す鍵として、『責任ある大人』『理性的な対話や議論』を揚げる言説は多く、すっかりその理性を軸にする政治思想が浸透していることがわかる。



無意識/非合理はつきもの


だが、本当にそうだろうか。これは私自身が昔から感じていることでもあるのだが、無意識にエネルギーが溜まって破裂寸前の風船のような状態になっている時に、理性や合理性だけでこれを押さえつけることは可能だろうか。一つの出口を抑えても、結局別の出口から暴発するだけではないのか。大抵の場合、理性の無力を深く感じ入ることになるのではないか。過去の歴史を見ても、近年の政治の実際を見ていても、ほとんどのケースでは結局濁流のようなエネルギーのなすがままになるか、自分自身をだましたり、妥協しながら、エネルギーが霧散するのを見送るというようなことが大半だと思わざるをえない。政治に非合理はつきもので、合理、非合理あわせて、最終的な目標へ政治課題を誘導していく力量が政治家には求められる。何もそれは日本だけではあるまい。東氏は次のように述べる。

政治の良識はしばしば大衆の不合理な要求と対峙しなければならない。だからこそ、あらかじめそれに曝される必要がある。無意識の欲望を無視し、選良の論理だけで事態をやりすごそうとしても、結局は抑圧されたリビドーが溢れ出し病が深くなるだけだ。

同掲書P103


ただ、だからと言って、この無意識や不合理の盲目的な僕になることが民主主義というわけではない。為政者はこの可視化されるようになった無意識を常に念頭に置き、意識し続けることによって、より政治が良質なものになると述べる。逆に可視化することによって、独裁者や特定の集団がこれを作為的に利用することに対する歯止めになる。

選良が大衆に従うわけではない。選良が大衆の暴走を抑えるのでもない。逆に大衆の呟きによって選良の暴走を抑制するのだ。理性が欲望に従うわけではない。欲望を可視化することでむしろ理性の暴走を抑制するのが、この提案の目的である。無意識民主主義は、ポピュリズムと似ているようでいて、まったく異なる思想なのだ。

同掲書P189

無意識とどうつきあうか


無意識を理解し、統御することは昔からの大課題で、政治家の力量はここのところで量れると言っても過言ではない。ただ、かつてはそれは政治家個々人の力量にまかされてきた。しかも、それゆえに、政治家に若干なりとも悪意があれば、エネルギーが大きいだけに政治はガタガタになりかねない。無意識のエネルギーに担がれれば、カリスマや独裁が生まれ、投票行動を誘導するために使えばポピュリズムへ一直線だ。あるいは衆愚政治と堕してしまうかもしれない。政治家個人の利益誘導になってしまうことも考えられる。いずれも民主主義に潜むリスクそのものだったりする。悪意が無くても正確に集合無意識を正しく理解し続けることは至難の技だ(至難というより不可能というべきかもしれない)。だが、情報技術の進化でこの無意識をかなりの程度正しく可視化することができて、しかも一般に開示されていくようになれば、これは古今未曾有の出来事だ。政治での利用価値は無限だろう。確かに民主主義という言葉の意味はこれを機会に根本的に変わってしまうかもしれない。



無意識の集約や分析は必須


さらにやむにやまれぬ現代的な事情もある。現代の政治危機の本質は、社会が複雑になりすぎて、すべての政治課題に関して、政治家や市民が勉強して、『熟議』することが事実上不可能になりつつあることだと東氏は指摘する。一方では勉強するための材料は沢山ある。インターネットを利用して、特定の問題に対して詳しく学ぶことが昔よりずっと容易になった。未成熟とはいえインターネット内に議論をかわす場もある。だからこそ、来るべきインターネットの政治利用の可能性として一番初めに取りざたされたのは、直接民主主義の可能性と、インターネットを通じて、論理的な議論を活発に交わし、政治課題を市民のレベルで考え抜くことによって改善しくという可能性だった。だが、東氏はそれは『現実逃避』だという。


確かに現代のように複雑になった社会で、あらゆる問題を綿密に勉強して議論を交わした上で、選挙や市民政治活動にのぞむというのは、職業政治家であってさえ難しいと言わざるをえない。とすれば、政治家も市民も、自分たちが少しでも正しい判断をするためにも、参加コストを少しでも下げるためにも、『無意識』の集約や分析は必須というべきだ。未来のある日、昔は無意識分析データなしで選挙をやっていたということが笑い話になる日が来るかもしれない。そんな情報なしで選挙をやるなんて、当てずっぽうのギャンブルをやってるのも同じじゃないかとか言っているかもしれない。



理性では連帯できない


ここまで話についてくるのもかなりの労苦を強いることになったのではないかと思うが、上記のような論理展開のもう一つ先に、アメリカの哲学者リチャード・ローティーを引用しつつ、さらに言葉の力、議論の力の限界と人間の動物性を通じた共感による共存、という問題が提示されている。人間は論理で世界全体をとらえられるほどには賢くなく、論理こそ共同体を閉じるときがある。ローティーによれば、人間は理性によっては決して連帯できない(理念はすべて相対的で熟議は決して終わることがないから)。けれども想像力によっては連帯できる。

言葉が通じなくても、世界観や人生観が異なっても、理念がいくら離れていても、目の前で苦しんでいるひとがいたら人間は自然と心が動いてしまう、その事実こそが大事なのだ。

同掲書P210


これはまた実に興味深い内容ではあるのだが、ここまで読んでいただいた人はすでに腹一杯だろうから(そして私自身腹一杯なので)、今回はこれ以上触れないでおく。ただ、これだけは言える思うのだが、人間の理性には比較的限界が早く来る。皆が思う以上に許容量は小さい。だが、無意識は実に奥深い。許容量も無限大と言っていい。だから将来に向けた活用や研究の可能性は非常に大きい。人類未踏の発見の可能性も十分にある。



すべてはこれから


方向性という意味では、もう簡単に方向が変わるとは思えないし、賽はとっくに投げられていると思う。だが、実際には無意識がどのようにどれくらい可視化されるのか、その結果として何が見つかるのか、どのような活用の方法があるのか、無意識が意識とぶつかり合うとき何が起きるのか。まだ未知数なことが非常に多い。今回、東氏の著作を読んでこれまで感じてきた疑問点のいくつかは解消したが、また新たな疑問が沢山湧いてきて、課題も増えたことはすでに述べた。どうやら本書は、読んで終わりなのではなく、読むとすべてが始まるという種類の本のようだ。当然議論も沢山起きてくるだろう。その議論に入るためのチケット、それがこの本の本当の役目なのかもしれない。