『社会』より『会社』を大事にしてきた日本を変えるとすれば

重要な研究材料としての『九州電力やらせメール事件』


いわゆる九州電力のやらせメール事件は責任者の処分等をめぐってまだくすぶっているようだ。だが、重苦しい不信感を後に残しながらも、すでに世間の関心は薄らぎ始めている印象がある。確かに、原発事故発生以降、東京電力初め、電力会社の迷走ははなはだしく、これを上回る驚くべき事件も目白押しだから無理もない。

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110707/dms1107071100004-n1.htm

電力業界、信頼回復一段と難しく 九電やらせメール問題 :日本経済新聞


ただ、本件は普通の人が考えているよりずっと重要かつ象徴的な事件だと当初から私は思ってきた。何より日本の企業社会のメタ構造を解明するための入り口として貴重な題材だし、分析の仕方によってはここから日本社会自体の奥深い構造まで覗き込むことができる。



社会より会社(官僚組織)


幾多の企業の不祥事を経て、2000年代には日本でもすっかり定着した感のあるキーワード、CSR(企業の社会的責任)も、このような事件が起きる度、結局かけ声先行で本心からは取り組まれていない実態がありありと見えてくる。この事件が明るみに出た直後にも、社員や関係者からは何が問題になっているのかよくわからないとのコメントが少なくなかったという。この事件について知らされた側も、特に日本企業の勤務が長い人は、酷い話だとは思っただろうが、同時にいかにもありそうな話だとも感じたはずだ。露骨にやるか巧妙にカモフラージュするかは別として、社会と会社(官僚組織)の利害が相反する場合、大抵優先されるのは会社(官僚組織)のほうだ。



日本の組織の実態


ビデオジャーナリストの神保哲生氏の有料動画配信番組、『マル激トークオンデマンド』の2011年6月18日(第531回)にゲストとして登場した、 経済産業省大臣官房付の古賀茂明氏のお話を聞いていると、省内で天下り先を作り、守る省員の実態が赤裸に語られていて大変興味深いが、注目すべきは、そうした人たちが『既得権益に固執し自分たちの利益しか考えない悪人』と看做されるどころか、省内では仲間や先輩後輩を大事にする、信義に厚い人物として高い評価を受けているということだ。ただ、これは普通の会社でもさほど違うわけではなく、普段からよく目にする光景だ。皆さんの会社で犯罪や不祥事が起きた時に、率先して内部告発を行う人物は社内で評価されているだろうか。恐らく日本では、内部告発するような人は社内で総スカンを食らうだけではなく、次の就職先を探そうとしても苦労することになるだろう。社会正義より仲間の信頼が大事なのは、良くも悪くも日本の大方の組織の実態と思った方がいい。

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抽象度が高いと判断不能になる日本人


そもそも日本人にとって『社会正義』というのは何なのか。会社の立地する地域のコミュニティーの利益を重視することは、まだはるかに想像しやすい。目身見える利害調整なら、ある意味日本人の得意とするところでもある。ところが、さらに抽象度が高い問題、今回のような『原発継続の是非』といった問題もそうだが、脳死の判断の問題であったり、人権問題等、抽象度が高い、あるいは国際的な問題、宗教や哲学/思想に関わる問題など、判断不能になってしまう人が実に多い。



確信のない日本人


この原因の一端は、日本人には特定の宗教や思想等に確信を持っている人が少ないことにあるようだ。その点について、とても興味が引かれる調査結果が『日本の親はなぜ子どもに甘いのか? 日本の親はなぜ子どもに甘いのか? | 橘玲 公式サイト というブログで紹介されている。この調査自体は慶応大学教授の大垣昌夫氏のチームが手がけたもので、「死後の世界がある」「神様、仏様がいる」「人間は他の生物から進化した」などの11個の世界観に関する信条に対する賛否を点数化してまとめてみると、米国人が少なくとも質問の半分に賛成か反対の確信を持っているのに比べて、日本人は何事にも確信がない実態が浮かび上がる。(確信がない=0点がもっとも多く満点は一人もいない)


確かに、教義信仰であるキリスト教イスラム教とは違って、日本では神道のような教義のない自然信仰のようなタイプの宗教に漠然と信仰心らしきもの感じている人がマジョリティーと考えられるため、この調査結果にはさほど違和感はない。しかもこれ自体は必ずしも悪いこととはいえず、信徒同士が争う血まみれの宗教戦争は日本の歴史には圧倒的に少ないし、仏教神道を共存させてしまうような世界でも類のない平和共存思想は、本来もっと貴重な存在として学習され研究されてもいいくらいだ。



何が起きているのか


しかしながら、実際には、何事にも確信のない日本人は社会正義や確固たる価値観のような依りどころがなく、価値の大変動の時代にうまく対処できず、確信と確信をぶつけ合う国際関係の場からは身をひいてひたすら古い体制と価値観にしがみついてますます内向きになっているように見える。しかもこの先には『緩慢な死』しかないはずなのだが、確信の持てない社会正義より企業共同体の安定的共存を大事にして、中には共に滅びることを美学と感じているかに見える人さえいる。そして日本人はこれまで他国の人が驚くくらいに敵対的な自然についてもこれを手なずけ、利用し、共存してきた自負と実績があったのだが、原発事故はこれを吹飛ばしてしまったかに見える。



パラドクス


こういう状況にある人たちに、狭義の経済の合理性、グローバルな競争へのコミットの必要性等に説得力があるだろうか。どこかで聞きかじった程度の社会正義を振りかざして、誰かついてきてくれるのだろうか。経済合理性を標榜する人は本来できるたけシンプルに利益の最大化/損失の最小化のみを追求し、社会の他の側面の価値を語らずにおくことで体系をわかりやすく、しかも万人の関与を容易にしようとしてきた。だが、皮肉なことに本来切り離しがたい他の側面、他の要素を切り離した結果、体系としてはシンプルでわかりやすくなったが、一方で経済学はより説得力を失い、有効性を喪失しつつあるようにさえ思える。実際にすでに起きているグローバルエコノミーに背を向けることは現実味はないが、そのグローバル市場での競争力を回復するべく、経済学の言葉をもって臨むと逆効果になりかねないというパラドクスに囚われてしまっているようだ。



不合理をあわせた全体の理解を


このような膠着からの解放を求め、過去の歴史、すなわち明治維新であったり、太平洋戦争後の復興物語に改革のヒントを求める人は今非常に多い。そして、そういう人は大抵は、旧来のアジア的不合理に対して、欧米的合理主義思想を対置して、その浸透に成功の秘訣を見る。だが、それでは本当の所は何もわからないだろう。そもそも明治維新は日本の独自の存在/価値観を守るために、そういうものを守るためにこそ、進んだ西洋の制度や武器を手に入れた、というのが実態に近いはずだ。戦後についても、確かに米国の制度や文化が大幅に導入されて、戦前の価値観が一層されたかに見えるが(かなりの部分そいう面もあるが)、実際には戦前から連綿とつながる『ムラ・メンタリティー』が十分に機能する企業ムラをつくりあげ、日本人が納得してコミットできる場を造り上げたことに急激な復興/急激な成長の秘密があったというべきではないか。明治維新でも太平洋戦争でも変化しなかった、『何ものか』を最大限働かせることができたことが成功秘訣だとすれば(そしてその『何ものか』をコントロールできなくなりつつもある)、明治維新や戦後に匹敵する大改革期になりそうな今も、できるだけ広く視野を広げて、経済の合理性のベールの下の不合理をあわせて全体を理解することがまず第一に必要なことだと思う。