インターネットの『生みだす力』


インターネットに対するネガティブな反応


本格的な夏休みのシーズンに入り、学生時代の同級生や、昔の会社の同僚に会う機会が増えてきた。お互いにすっかり環境が変わってとまどいながらも、しばらく話しをしていると昔話だけではなく最近の状況に話しが及ぶことになる。特に、ビジネスの一線でバリバリと働いている連中も多いため、普段自分の知らない業界の話など、興味深深だ。思わぬ発見も多い。


ただ、自分が関わる、IT・インターネット系の話になると、どうもあまりよろしくない印象を持つ者が多い。どの業界にいても、ビジネスをしていれば、今では誰でもツールとしてのIT・インターネットの利用は避けられないし、女性でも私達が驚くほどにケータイを駆使している友人達は多い。だが、発信/受信の双方向性を帯びて、巨大に拡大し始めたケータイを含むインターネットの現状には、総じてネガティブな反応が多いと言わざるをえない。確かに、昨今では、インターネット全体が拡大する中で、マスコミでもネガティブな部分がクローズアップされがちなことは事実だ。得体の知れない不安感を感じるのも無理からぬところもある。



批判のパターンの奇妙な類似


だが、少々気になるのは、その反応や批判の仕方が奇妙なほど似ていることだ。これはどういうことだろう。我々の世代に共通する『何か』(信念? 思い込み?)があるからではないか。そう考える理由は、何より自分自身の内側から時として湧き出てくる、インターネットへの不安感、問題意識は、旧友達の反応や批判とそっくりであることだ。(もちろん、今の私は、インターネットのポジティブな可能性がネガティブな部分を上回って重要であると考えている。)非常に雑駁な議論になることを覚悟の上で言えば、次のようなことがあるからではないか。



理想のあった時代


幼少期、思春期を通じて、私達の世代は、『正しい科学の無限の発展』『正義のジャーナリズム』『理想的な社会改革』ような、理想の時代の思想/イデオロギーに影響を受けて来たと言える。今では信じられないかもしれないが、『科学的に証明されない事は信じない』『いつか科学が解き明かす』『正義のジャーナリズムが社会悪をえぐり出す』『社会主義革命によって理想の社会が作られる』『中長期的な経済成長で豊かな社会をつくる』というような奇妙に明るい雰囲気と言説に包まれていた。そして、皆、傲慢なほどの自信に溢れていた。


もちろん、そうは言っても、その後オイルショックであったり、バブルの崩壊であったり、いわば最盛期まで積み上がったものが崩壊する過程も見てきたから、さすがに楽観一辺倒というわけにはいかない。それどころか、特にバブル崩壊後は、すっかり自信をなくしてしまっているのが実情だったりする。だが、どこかに理想像があって、社会が正気を取り戻して皆が一生懸命がんばれば、そこに到達できるはず、という意識は今でも多かれ少なかれ共通して持っているのが我々の世代の特徴と言えるのではないか。それはもはや『特殊な』思想なのだが。



エリート主義


そういう意識を植え付けられた私達の世代には、日本のインターネットは、サブカルチャーと二次情報と誹謗中傷で膨れ上がったゴミの山に見える傾向がある。そんなインターネット情報をあさることなど時間の無駄でしかなく、権利あるマスコミや、高級官僚、権威ある大学教授、評価の高いエコノミスト等、競争に勝ち抜いたレベルの高いエリートの厳選された情報だけを選別するほうが効率的、あるいは正しい姿勢と考える傾向がある。(そういう私自身、心のどこかにそういう意識が潜んでいることを感じることがある。)ことだろう。その延長上に、梅田望夫氏の、日本のインターネットは『残念』という意見があるのだと思う。


しかしながら、そもそも、我々がいつのまにか受け入れたあの時代の思想/イデオロギーとは一体何だったのか。あらためて自分で特徴的な言説を並べながら振り返って見ると、あまりのナイーブさに身がすくむ思いがする。例えば、ジャーナリズムだが、ジャーナリストの佐々木俊尚氏が指摘するように、戦後民主主義的価値を疑うことを知らぬかのような平板で、思想の衰退を象徴するような記事で溢れていた。マスコミはスポンサーシップにすっかり取り込まれて健全な批判精神を失っていた。イデオロギーという信仰で凝り固まった共産主義社会主義、物的な繁栄を社会の繁栄と単純に置き換えてしまう狭量な経済学者や経営者、謙虚さを失い、牢固なパラダイムにしがみつく官僚や科学者等々で溢れていた。一歩間違えば、その実態は実に危ういものだった。こういうことに自覚のない『エリート主義』は、実に奇怪で邪悪ですらある。


日本のブログの他言語化を手がける、Global Voicesの記者でもある、クリス・サルツバーグさんは自らのブログ記事で次のように書いている。
日本のWebは「残念」じゃないよ。 - 日々の色々・The colour of the sun


「知に関する最高峰の人たち」って、もうイヤーな感じ。大嫌い、こういうのは。本当に。「学習の高速道路」などって話。あまり説明できないけど、生理的に受け付けない、僕は。

それについて梅田氏がこう書いた:

素晴らしい能力の増幅器たるインターネットが、サブカルチャー領域以外ではほとんど使わない、“上の人”が隠れて表に出てこない、という日本の現実に対して残念だという思いはあります。そういうところは英語圏との違いがものすごく大きく、僕の目にはそこがクローズアップされて見えてしまうんです。

「上の人」?気持ち悪いなー。

私も「バカと暇人」の一人かな。

私は、『上の人』がすべて気持ち悪いとまでは思わないが、自分自身の危うさに自覚のない『エリート主義』に凝り固まった『上の人』は確かに気持ち悪い。だが、その『エリート主義』の問題に気づく冷静さのある人なら、今の日本のインターネット現象に、時代を変革する胎動、生成力を見つけることができるはずだ。それは清濁両方を含む、濁流のようなものだが、浄化の過程と見ることも十分可能だと思う。経済発展の明るさの影に隠れてきた、沢山の問題を浄化していく好機でもある。



生みだす力


サルツバーグさんは、続いて、次のように言う。

そういえば、佐々木俊尚が梅田氏のインタビューについて面白いことを書いた:

「バカと暇人から文化は生まれるんだよ。」


そうだよ!もう、この「上の人」の話をやめようか。もうイヤです。アメリカをとりあえず無視して、日本のサブカルチャーの可能性に集中しようか。そこは価値があるから。

梅田さん、日本のWebは残念じゃないですよ。



中俣暁生氏は、最近のブログエントリーで、ジョナサン・ジットレイン氏の『インターネットが死ぬ日』*1を引用しつつ、インターネットが持続してきた「生みだす力 generativity」とそれが脅かされつつある事例について述べている。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20090705#p1


 対象が海外を含むインターネット全般に及んでいるきらいがあるが、日本のインターネットに限定しても十分該当すると思う。今の日本は創造力の欠如に悩み、企業も学校も創造力育成をうたいながら、一向に成功しているようには見えない。だが、少なくともインターネットは日本においても、『生みだす力』の源であり、『生みだす場』としてこれまで機能してきた。中俣氏の言うように、インターネットが規制のない自由な空間であったことが大きかったと私も思う。 だが、今、その本質に無理解な様々な批判や規制によって、存在が脅かされている。


日本では若年層が選挙に無関心であることも手伝って、制度・規制のコントロールは中高齢層が名実ともに握っている。インターネットに拒否感があることはある程度仕方のないことだと思うが、何とか今よりもう一歩踏み込んで、インターネットがもたらす『正』の部分を理解する努力をして見て欲しい。それが日本の将来を決定する非常に重要な一歩であったことを必ずや後で知ることになるはずだ。


*1:

インターネットが死ぬ日 (ハヤカワ新書juice)

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