『次世代マーケティングプラットフォーム』は面白い!

献本、ありがとうございます!


湯川鶴章さんから、献本いただいた、『次世代マーケティングプラットフォーム 広告とマスメディアの地位を奪うもの』*1を読了したので、自分なりに感じたことを書いてみたい。


今回の著作のアイデア部分は、今年の春に、湯川さんが米国取材出張から帰国されて以降の講演会で、何度か骨子を伺っていたので、ある程度の内容は予測することができた。また、取り上げられた事例も、ある程度事前に知っている事も少なくない。だが、湯川さんの著作の最大の魅力は、個々の情報をつなぐ、ストーリーライン、ないしシナリオだと思う。自分の手元にある、ほぼ同等の断片情報が、湯川さんのシナリオに生気を得て、『生もの』となり、生き生きとその関連性が見えてくる。その独特のテーストがまた心地よい。すべて同意できるかどうかは別として、自分の考えとの差異がどこにあって、それは何なのかを発見をするのにとても重宝する。コロンブスの卵ではないが、語られてしまえば、さも自分が前から気づいていたような気になるものの、実は、自分から見つけることは必ずしも簡単でない。



ストーリーライン(私の理解)


本書のストーリーラインを大雑把にまとめるとおよそ次のようになると思う。(少なくとも私はそのように理解した。)


  • 従来の広告宣伝は、その効果測定に必ずしも有効な手法がなく、必要とされない広告宣伝の大量配布、効果のはっきりしない制作物、広告営業による押し込み販売等、不合理なものを多く含んでいる。
  • テクノロジーの進化、インターネットの普及等により、より明確な効果測定が可能となり、顧客へのリーチもきめ細かにできるようになり、より多くの顧客の意見をタイムリーに集約でき、マスではなく、個別対応ができるようになりつつある。(その方向に向かって進化しつつある。) 
  • その結果、ユーザー/消費者にとって必要充分な商品/サービス情報が、必要最小限なコストで提供できるようになる。そしてサザエさん宅に来る三河屋さん』に象徴されるような、きめ細かなサービスが可能となり、広告宣伝の『無駄』な部分、例えばクリエーターによる抽象的なイメージ広告などは、大幅に縮小されていく。
  • テクノロジーの進化は、企業とユーザーのコミュニケーションの規模と密度を圧倒的に上げることを可能とするため、狭義の広告宣伝だけではなく、販売促進、広報、IR、など所謂コミュニケーションに係わる企業活動全体におよび、個々の精度が上がるだけではなく、渾然一体と成って、企業活動全般を変えてしまうような革命的な大津波となって行く。(企業の経営そのものが変わって行く。)
  • ユーザー/消費者もインターネットの浸透等により、ユーザーの側も情報を持ち、スマートになり、従来とは全く違った行動を取る存在となっていく。企業もその進化したユーザー/消費者に対応することが求められ、テクノロジーだけではなく、ソーシャルメディア対応、ユーザーコミュニティーづくり等の能力、蓄積等が勝敗を分ける鍵となっていく。

  • また、個々人の情報をより高度に取得、分析、利用することになるため、プライバシー問題に代表されるユーザーの不安感との対峙、企業の信頼性等が一層重要となる。
  • 米国では、すでに企業とユーザーのコミュニケーションを革新するテクノロジー企業が台頭し始めているが、これはマイクロソフトGoogleのような一極支配と過当競争の方向には向かわず、個々の特性を生かした協力(共生)関係により巨大なインフラが構築されつつある。

中核的なメッセージ:三河屋さん


企業の広告宣伝(販促)活動の未来像が、『三河屋』さんのようになっていく、というイメージは、湯川さんの今回の著作の中核となるメッセージと言える。三河屋さんが象徴するのは、地域商店のような、地元民と全人格的な関係を持ち、そのことによって個々の住人の非常に豊富な情報を持ち(しかも逐次更新し)、住人のニーズを時には住人以上に良く知って、きめ細やかにご用聞きをしてくれる存在だろう。新しい概念ではなく、むしろ懐かしい存在だ。


だが、資本主義の大量生産/大量消費の波に飲まれ、効率化の元に地元商店街も大手大規模スーパーに取って変わられて行った。大量生産/販売によって、価格も安くなり、そのメリットのほうが住人(消費者)に取っても大きくなる。そのかわり三河屋さんのような個別のきめ細かいサービスを受けることはできなくなる。(ニーズそのものは存在する。) ところが、インターネットのようなテクノロジーの発展で、それが低コストで実現できるようになると、本来ニーズはあるのだから、三河屋さんが復活してくるのはあり得る話だ。ただし、これは昔の三河屋さんではない。テクノロジーによって進化した三河屋さんだ。 



歴史的必然


これは、まさに私が自分のブログの9月24日および10月4日のエントリーでご紹介した、弁証法的な発展のうちの、螺旋式の発展の法則そのものとも言える。
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同様の事例、すなわち、紙の手紙→電話→電子メールという順序で、テクノロジーによって、手紙の良さが復活したような事例はすでに沢山起こって来ている。だから、この大量生産/大量消費の能率/効率性の影で犠牲になって消えたサービスを見つけて行けば、三河屋さんに限らず、復活する可能性のあるサービスはまだ沢山あるだろう。元々のニーズをテクノロジーが実現しているのだから、人のサービスが技術に置き換わる、という方向は、今以上に進展していくだろう。


消費者の側から見た三河屋さんの必要性を今度は、企業側から見ると、本当はサザエさんの磯野家に必要な情報とその他の家に届けるべき情報は違っていてあたりまえで、そんなことは解っている。だが、従来は、広告宣伝のコストを下げるために、全部情報が入った一種類の宣伝物を機械的に全部の家庭に届けるというような大雑把な手法を取らざるを得なかったのだが、本来これは、資源効率も、情報伝達効率も悪いに決まっている。だから、新しい、機械仕掛けの三河屋さんが、必要な情報を必要な人に、最小限のコストと労力で届けることができるなら、それにこしたことはない。だから、何らかの障害(政治的? 抵抗勢力?)がなければ、どんどんそういう方向に進んでくるのは、自然なことだ。そして、その過程で、TV宣伝に象徴されるような旧来メディアの非効率さは是正されていくだろう。



三河屋さんの限界


ただ、一つ疑問がある。三河屋さんが扱うことができる商品やサービスには、自ずからその範囲に限界があるのではないか。湯川さんも本の後段で、磯野家も気づいていないような思いもよらなかった商品との出会いを演出(偶然の演出)しなければならない、というようなことを書かれているが、これは三河屋さんに対して、しばし高すぎる要求ではないだろうか。


食料品のような日常必需品はともかく、耐久消費財など需要が飽和してきている中、消費者自身何を買えばよいのかわからないことが多くなっている。しかも、最近日本では、見せびらかし消費(ブランド消費)のような消費意欲も減退して来ていると言われている。だから、インターネットの双方向性等を生かして、最大限消費者のニーズを正確に把握することはますます重要になるものの、過去の情報(ユーザーの明示的な要求を含む)の収集/分析では需要の開拓に限界がある。アップルのスティーブ・ジョブズの例をあげて、湯川さんが書いている通り、『顧客データをもとに商品を開発するのではなく、スティーブ・ジョブズの発想だけで次々と画期的な商品を生み出している。P198』 というタイプの商品開発の重要性は、今後高まって行く可能性が高い。そして、そういうアップルの宣伝は、きわめてエモーショナルでクリエイティブな(しばし抽象的な)宣伝が中心となっていることは言うまでもない。(三河屋さんには難しいだろう。) 



リエーターは今よりももっと必要になると思う


さらに言えば、私が過去、何度か書いてきた(引用して来た)ことだが、『どんなモノやサービスも十分な水準を満たしている』時代に重要なのは、『見える価値』より『見えない価値』を創り出すことだ。見えやすければ、過当競争のなかすぐに他社の参入を招き、価格の叩き合いなってしまう。(コモディティ化してしまう。) 『良い』か『悪い』か、あるいは、『便利』か『不便』か、ではなく、『好き』か『嫌いか』がより重要になる。そのために重要なのは、『カテゴリーイノベーション』を起こすことなのだが、それは顧客の声を集約する方法(コモディティ化への方向)から如何に離脱するのかが問題となる。そして、その競争条件を勝ち抜く第一条件は、クリエイティビティーだ。それは、商品やサービスの設計から、広告宣伝を含むユーザーとのコミュニケーションに全般に及ぶことになる。だからこそ、『クリエイティブクラス』が重要になる。ある意味で、皆、スティーブ・ジョブズの方向を目指す必要があるという事だ。だから、本当に創造的なクリエーターは(広告宣伝においても)、むしろ今後ますます必要になると思われる。


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昨今の世界恐慌がやってくるかもしれない、というような環境下では、そのような見えない価値より、より即物的な見える価値へ振り子がふれてくるのではないか、という意見も聞こえてきそうだが、むしろ私はその逆だと思う。心に不安を抱え、将来の展望が見えにくくなってくると、ますます、冒険、逃避、教育投資、娯楽、といった見えにくい価値を追う消費が増えることになると思う



コミュニケーションを軸に企業のすべてが変わる


ユーザーとのコミュニケーションの変革が企業活動の全般を変える、というのは、諸手を上げて賛成だ。ユーザー/消費者はあらゆる意味で賢明となり、コミュニティー内の口コミ情報をより重視して来ており、企業からの一方的な情報を鵜呑みにすることは無くなって来ている。広告宣伝、販売促進だけではなく、広報、IR、採用活動を含むあらゆるコミュニケーションが、まったくその質を変えていることを理解し、対応することを考えていかないと、企業は生残れない。これは、個人情報を活用する企業としての責任というような観点でも同様で、会社のあり方をきちんと言語化し、消費者の心へ届くメッセージを送ることができなければ、消費者から見捨てられるようになりつつある。だから、湯川さんの、『テクノロジーを使ったコミュニケーション力こそが、企業の競争力の源泉になる時代に突入したのである。P198』という見解にはすばらしい洞察力を感じる。



米国と日本では・・


最後に、米国で起きて来ているような、『棲み分け』による発展が日本でも起きて来るかどうかだが、湯川さんのニュアンスは少々悲観的だ。それは、端的に言って、日本の市場が、『完全市場』ではなく、数多くの規制や既得権益が市場をゆがめる『不完全市場』だから、ということではないか。それは、実のところ他の様々な局面で私を含む多くの人が感じているところだし、誰より湯川さん自身が感じておられるところだろう。そういう意味で、思い切った改革の波が日本の市場に及ぶかどうか、まだ予断を許さない。むしろ我々がブレークスルーを積極的に起こさないと行けないのかもしれない。



何とインスピレーションが刺激されることか!


なんだか、思うがままに書き散らかしてしまったが、まだまだ沢山書けそうな程、インスパイアーされた。繰り返すが、(湯川さんが喜ばれるかどうか、多少心配だが)私が湯川さんの本がどれも本当に面白いと思うのは、こういう教育効果だ。どんどん人と語り、自分でも考えてみたくなるのである。私のブログを読まれた人も、本書を手に取って是非体験してみて欲しい。