「studygift(スタディギフト)」の炎上問題ついての一考

「studygift(スタディギフト)」の炎上問題について


当初の予想をはるかに超えて、議論がものすごく白熱してきた、クラウドファンディングの「studygift(スタディギフト)」の炎上問題に、一言口を挟んでおこうと書き始めたが、ものすごく迂遠な雑文になってしまった。だが、こういう観点もありうる、という一考にはなっているのではないかと思う。よろしければ少し我慢しておつきあいいただければ幸いである。



日本の市場を席巻していた政官財のトライアングル


最近でこそ、特に、IT業界の内側にいると、法律的な判断が難しい案件を安易に行政府や官僚、司法、政治家等に丸投げすると、時代錯誤の珍妙な判断が下って苦労することが少なくない事は自分自身でも骨身にしみるようになってきたが、旧来の業界(特に監督官庁の管理の強い業界:金融、エネルギー産業等)にいたころは、今とはずいぶん違った環境/心境であったことを時々思い出して何とも言えない気持ちになることがある。


こういう業界にいると、官庁の裁量は逆らうことなど絶対にありえない『ご神託』だし、一方、官庁の側から見ても、業界の繁栄は管轄官庁が所轄する外郭団体、独立行政法人、あるいは関連の民間企業等の天下り先を増やすための絶対条件だから、業界を肥沃に保とうとする動機が働くことになる。いわゆる『持ちつ持たれつ』というやつだ。特に海外勢や自らの手の及びにくい新興勢力の攻勢に対しては、その悪影響が既存の業界団体所属企業にできるだけ及ばないような『ご神託』を下そうとする傾向があり、所属企業の側から見ても、しばし法律より重要な『既存の業界内のルール』に従っている限り、極端に悪い事にはならないだろうことが期待できる。


逆に、これに逆らって自分たちだけでルールを変えようとしたり、ルールから逸脱しようとすると、しっぺ返しを受け、とんでもない労苦を背負うことになる。政治家はこの業界団体所属企業の票や献金が欲しいから当然この業界の利益をの利益を保全する側だ。ここに政官財の強い連携構図が出来上がることになる。強弱の差こそあれ、このトライアングルは業界ごとにあって、日本の市場をこのトライアングルが多重に覆い尽くしていた。この構図の中では、欧米的な概念で言うところの『公共』『市民』『消費者/消費者の権利』『個人』等、民主主義や純粋な市場経済の構成要素は、存在していなかったと言い切っても過言ではない。



改革したければトライアングルの中で登りつめろ!


当時ももちろん改革すべき問題点は沢山あったし、そのために既存のルールを障害に感じることも沢山あった。だが、当時は、本当に実のある改革をしたければこのトライアングルの中のルールで先ず勝ち上がり、自らの権力が揮える場所までまず到達するところから始めるべき、という暗黙の『大人の常識』があったように思う。私がかつて在職した石油会社でも、社長になってから急に『和製メジャーを目指す』と宣言して改革を始めた人物がいたが、社長に登りつめるまでは自らの本心を隠して、とにかくこの地位(社長)に登りつめることに専念したというようなお話を直接伺ったことがある。真偽は本当のところわからなかったものの、当時の私は妙に納得したものだ。


その前にいた自動車会社でも、新入社員の頃の課長から、『これから仕事を始めると会社の矛盾を沢山見つけて発言したくなるようになるに違いないが、立場をわきまえずそれを発言してしまうことはけして自分の為にならない。だから、とにかく今はそれを自分の手帳に書きためて、しかるべき地位に就いた時に備えよ』と言われたことを今でも昨日のことのように覚えている。組織の中の個人がいくら正論をはいても、組織での権力がなければ何も変わらない。まして、組織の外に出て何かを変えることなどありえない、という、当時の強烈なリアリズムに圧倒されたものだ。ナイーブな学生の論理は企業では通用しない、というわけだ。



恐るべき虚構


製造業を中心に日本経済が全盛期を迎えていたころには、この物語は確かにリアルだった。だが、今はあらゆる意味でこの前提が成り立たない世の中になった。それどころが、天下りに象徴される、古くなり機能しなくなった日本の従来システムのスクラップアンドビルドこそ、時代が要請する第一の課題であるはずなのに、この昭和の亡霊はいまだに死んではいない。それどころか、従来システムを守るためならなりふり構わない、という露骨な姿勢があからさまになってきている。それなのに、どの企業も若年層を正社員として迎えるべき門を非常に狭くして、結果として『昭和物語』を共有するムラへの参入を益々狭き門にしている。狭き門をくぐって実際に企業の中に入っても、企業改革どころか、企業そのものの存続が危ういことに気づき呆然としてしまうだけだ。何と恐るべき虚構だろう。舞台は海中に沈みつつあるのに、まだ船の上では音楽が流れ、役者は古い演目を演じ続けている。



ソーシャル・リバタリアリズム


だが、インターネットが登場して、やっとこの日本でも、『強力な昭和のトライアングル』に対する初めての本格的なアンチテーゼといえる勢力が出来上がりつつある。少なくともそう期待させてくれるだけの力を感じることが出来るようになってきた。まず、ソフトバンクの孫氏や楽天の三木谷氏のような、旧システムに、自ら組織をつくって対抗しようとする人たちが登場して、実績を残すようになった。そして、今、さらに次のステージが始まりつつあるようだ。


特にソーシャル・メディアが普及するようになって、個人がエンパワーされ、動員力を持てる事例が沢山出て来ていることを受けて、これを利用して活動を拡大し、経済的にもある程度自立できるようになった人たちの登場だ。この第二世代ともいうべき人たちの一部は、第一世代より一層、旧勢力の影響力を排除することはもちろん、既存の社会の常識やモラルにもとらわれずに完全に自由に活動し、自分たちの理想郷を追求しているように見える。旧来の仕組みでのんびり組織の階段を登っているような時間はない、賛同する人をすぐに集めて、未成熟でも良いからまず始めて、市場の反応を見ながら修正していきたい、皆そう考えているように見える。これをブログHartLogicを主催する小林祐一郎氏は、『ソーシャル・リバタリアリズム』という思想の誕生ではないかと言う。

http://www.heartlogic.jp/archives/2012/05/social_libertarianism.html


リバタリアリズム(英: libertarianism):自由主義思想の中でも個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する政治的イデオロギー
リバタリアニズム - Wikipedia



リバタリアニズムリバタリアンといった用語の厳密な定義にこだわると、折角の貴重な提言の本質がかえってわかりにくくなりそうだし 、あまりこだわる段階ではないと思うが、ここで特に対象として具体的に意識されているのは、今、「studygift(スタディギフト)」で非常な物議をかもしている、実業家の家入一真氏ということになる。非常に勢いある若手ではあるが、奔放とも見える発言に反発する人も少なくない、イケダ・ハヤト氏等も意識されているのだろう。あるいは、流行語になりつつある、『ノマド』を標榜している若者たちも大方その範疇といっていいのだろうと思う。



良いところはのばして欲しいが・・


私なりに彼らの言い分を代弁させていただくとすれば、『旧世代の道徳やモラル等になんら捕われることなく、ソーシャルメディア等を通じて思うがままに活動したい。新しいビジネスを立ち上げたり、新しい働き方をどんどん試していきたい。試行錯誤で世を騒がすこともあるかもしれないが、干渉しないでほおっておいて欲しい。』 というところだろうか。確かに、長く停滞から抜け出る事が出来ない日本では、旧来のモデル、制度、人脈に頼ることなく、自活していこうというバイタリティーのある人自体が希少なので、多少の混乱や逸脱は大目に見て、一本立ちできるように見守ってやろうではないか、という意見も少なくないし、私自身多分にそういう気分がある。賞味期限が切れても強力な地縛霊のように居座るトライアングルの亡霊を払拭することこそ最大の課題と感じてきた私としては、この現代の『歌舞伎者』たちの良い部分、勢いのある部分をのばすことで、日本が立ち枯れてしまわないようにすることは大事だと今でも信じている。



世間は甘くない


だが、この『ソーシャル・リバタリアン』達に対して、『世間』は甘くはないようだ。特に、問題になっている「studygift(スタディギフト)」に関わる議論では、本人達だけではなく、彼らを少しでも擁護するような論もバッシングの嵐になってしまっている。このバッシングの中には、出る杭を打とうとする日本的嫉妬心、『世間』や『空気』を語って自らの優越感を充足しようとする心貧しい人たちの劣等感等が溢れていることは間違いない。だが、中には、どうしても看過できない、日本的良識や倫理・道徳、公共心などの問題を指摘する、いわゆる『コミュニタリアン』、しかもかなりレベルの高い『コミュニタリアン』からの正当なお叱りも少なくない。このような声を無視したり、攻撃してしまうと、『ソーシャル・リバタリアン』達が正当性を得ることは相当に難しい。折角ソーシャルメディアで得た評価もすべて『悪評』に転じてしまいかねない。

コミュニタリアリズム(英: communitarianism):20世紀後半のアメリカを中心に発展してきた共同体(コミュニティ)の価値を重んじる政治思想。
共同体主義 - Wikipedia



どこで議論すればいいのか


質の高いリバタリアンを目指すのであれば、少なくとも自由に伴う責任が相応に重いことを理解して覚悟を決める事、思想的にも一貫性を持って、コミュニタリアンが挑んでくる哲学論争にも簡単には揺らがない思想基盤を持つ等は不可欠だろう。だが、そのような熟議を行い、思想を熟成する場など、ほとんどどこにもなかった日本で、人生経験の少ない、試行錯誤最中の若者にそれを強要するのは酷かもしれない。実際、日本では、そんな熟議ができる場がどこにもなかったばかりか、そのようなことをしようとすること自体、トライアングル内での出世街道を踏み外すことになりかねなかった。現段階でも、相変わらずそのような熟議ができる場は、インターネット空間を含めてどこにも存在しないことは、残念なことだが震災を経由して再確認されてしまったことの一つだ。


さらに困った事に、コミュニタリアンの主張する『倫理』『道徳』についても、(レベルの高い意見ではなく)質の低い功利主義的意見の山に阻まれて、まともな議論ができる環境があるようには到底思えない。日本にも、ちゃんと議論をつくしておくべき、倫理、道徳問題は存在するし、良識ある人たちも沢山いる。市場経済社会を健全に維持するためにこそしておくべき、社会倫理/道徳の問題に係わる議論は、特に今の日本には必須だと思う。レベルの高い『リバタリアン』と『コミュニタリアン』の白熱した議論は、日本でも是非とも活発になって欲しいと願う。しかしながら、今のままでは『倫理』『道徳』と聞けば、脊髄反応のように、お上/官僚/大企業等の守旧勢力からのうるさい押しつけや強要と一緒にされて反発を招くだけだろう。



マイケル・サンデル氏の新著


ハーバード白熱教室』で日本でも著名になった、当代の代表的なコミュニタリアンである、ハーバード大学教授のマイケル・サンデル氏の新著*1を拝読すると、この数十年間の間に、従来は市場で扱う対象にすべきではないと考えられていた活動が次々と市場の商品としてお金で売買されるようになってきて、その過程で、社会の豊かさを支えていた非市場的な要素、すなわち、非公式な交換、贈与、相互の義務や信頼、利他心、愛情、尊厳、奉仕の精神などが損なわれてきている事実が豊富な事例と共に数多く語られている。


臓器売買や、人が死ぬ事で利害当事者以外の人が得をするような設計をされた保険など、誰にもわかりやすい事例だけが問題なのではない。効果があるに違いないと誰もが疑わない金銭的なインセンティブのようなものでも、外因的動機として最初は機能しても、内因的動機(仕事への情熱、仲間との連帯意識、社会正義を追求する信念等々)を毀損することで、長期的に見るとインセンティブが機能しなくなるばかりか、意欲全般を削いでしまうような例に思い当たることがある人は少なくないはずだ(成果主義賃金制度における金銭的インセンティブ等)。市場主義に対する単なる反発以上の重要な問題があることをあらためて意識させられる名著だと思うが、この議論を有意義にすすめることが実に難しいことを感じてしまう。今回の「studygift(スタディギフト)」の炎上問題を考えるにあたっても、貴重な切り口が提供されていると感じるだけに、残念なことだ。



ビジネスの武器としての『倫理』『道徳』『思想』


旧システムという亡霊を追い払っても、その後に築くべきシステムが別の問題に捕われて身動きできなくなるようではどうしようもない。自らの活動の背後にある思想をきちんと語れない人には、破壊はできても構築はできないビジネスでも勝ち上がるためにこそ、かかせない武器としての『倫理』『道徳』『思想』があることをこの機会に皆で考えてみたいものだ。

*1:

それをお金で買いますか――市場主義の限界

それをお金で買いますか――市場主義の限界