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『ゲンロン4』を読み、2017年年頭の決意を新たにした

◾️ 予想以上に面白かった『ゲンロン4』


年末年初の休日を利用して、思想家の東浩紀氏が主宰するゲンロン社が出版する『ゲンロン4』*1を読んだ。一連の『現代日本の批評』の連載の最終回としても、2001年以降の平成の批評史としても大変読み応えがあり面白かった。また、昨今、このような内容をまとめ上げることのできる個人も、出版社も、メディアも他にはどこにも存在しないと言わざるを得ず、このような企画自体が待望久しいものであり、そういう意味でも楽しませていただいた。


しかも、私個人が面白かっただけではなく、大変よく売れているというから実に喜ばしい。東氏自身が述べているように、昨今特にこのような批評とか思想系の読物はジャンルとして売れなくなってきているため、この種の企画が商業的に成立しないとなると、日本からこのジャンル自体が消失してしまう危惧がある。それでは困る。



◾️ 東浩紀氏一人勝ちが続いている


特集『現代日本の批評?』の基調報告として、評論家の佐々木敦氏が『ニッポンの文化左翼 - ストーリーを続けよう?』という記事を寄稿していて、80年代以降の現代思想シーンを概観しているが、これは7年前に出版社した自らの著書『ニッポンの思想』*2のその後談ともなっていて、佐々木氏がこの直近の7年間をどう評価しているかがわかって興味深い。


『ニッポンの思想』で、佐々木氏は、ニューアカデミズムは浅田彰氏に始まり、東浩紀氏で終わり、ゼロ年代でメイン・プレーヤーと言えるのは東氏のみ、すなわち『東浩紀一人勝ち』と言い切っている。当時は、世に少なくないアンチ東派を刺激して大変なことになるのではとハラハラした気持ちで読んだものだが(実際、かなりの怒りと嘲笑を惹き起こしたようだ)、一方では、悔しければ、『東氏を乗り越えて我こそはと名乗りを上げよ』という佐々木氏の檄文ともいえるものでもあった(少なくとも私にはそう感じられた)。だが、今回の記事では、7年経過した今も、東氏を超える存在は出てきていないと力なく述べている。ニューアカデミズム以後を東氏だけが、誠実かつ真摯に引き受けてみせたのであり、『日本- 現代 - 思想 - 史』への強い責任と警鐘の意識を自分に課してきたと言えるし、それは現在でもそうだ、という。


この7年間は、ソーシャルメディアが絶頂期を迎え、メディアの多様化の期待感が盛り上がったり、東日本大震災もあって、長く続いた戦後体制に変化の兆しが見られ、日本の思想・言論界にも再出発の機運が見られた時期でもあった。そしてそのような期待感を引き受けるにたる若手の言論人も育って来ていると思われた。しかしながら、残念なことに、その期待が失望に変わるのにあまり時間はかからなかった。結果的に、7年前より今の方がさらに事態は深刻だ。批評や思想の需要は一層瘦せ衰え、言論人も自らの言論を研ぎ澄ますような地味な取り組みに見切りをつけ、既存のメディアに露出して、人々の感情を喚起し、アイコンとしての自分を売ることに血道をあげている人だらけになってしまった。


東氏に揶揄されることの多い、『若手論壇』の若手を含めて、個人個人を見ると、優れた論者がいないわけではないし、中には東氏に匹敵する切れ味のするどい論考を披露できる人もいる。だが、『ゲンロン4』でも出てくる評価軸だが、1.歴史的視野のレンジの広さと言及できる思想(思想家)の幅広さ、2. 現代的な問題にコミットしていること、3. 継続性の3軸で比較すると、やはり東氏が頭一つ抜け出ていることは誰も否できないだろう。しかも、何より、佐々木氏が述べるように、『覚悟』が違う。



◾️ 東氏が評価する中沢新一


では、本当に東氏に匹敵する人は他にはいないのか。いや、少なくとも一人いる。本書ではあまり目立たないが、東氏自身が高く評価するその人は、宗教学者中沢新一氏だ。特に2000年代に中沢氏の復活の象徴となった、『カイエソバージュ』シリーズを高く評価している。中沢氏は昨今でも、『アースダイバー』や『グリーンアクティブ』等重要な発信を続けている。先の3軸でみても、圧倒的な存在感がある。しかも『カイエソバージュ』で示された世界観は昨今では誰もあまり語らなくなった非常に『大きな物語』と言える。


しかしながら、アンチ東以上にオーム事件以降のアンチ中沢の数は今でも大変多く、このような肯定的なコメントを書いただけで、私自身が批判に晒されることを覚悟する必要があるような状況は続いている。かつてニューアカデミズムの騎手として颯爽と世に出た中沢氏が、オーム事件で地に落ち、泥の中を這いずり回るような艱難辛苦を経て、よくぞここまで復活したものと、私など感動すら覚えるのだが、いまだに檜舞台で先頭に立つことがはばかられる雰囲気があるのは残念なことだ。



◾️ 浅田彰氏と柄谷行人


ニューアカデミズムの先頭という意味では、東氏の先輩筋でもある批評家の浅田彰氏を忘れるわけにはいかないわけだが、『ゲンロン4』には、その浅田氏のインタビュー記事が載っている。大方の予想に反して、談話の大半は、浅田氏のデビュー前の青年時代の回顧に割かれ、肝心の批評史やそこに登場するプレーヤーに関するコメントは多くはなく、むしろ大変控えめな印象だ。中沢新一氏が泥にまみれながらも、自らの研究をひたすら深めていったのとは好対照に、早々と舞台の中心から距離をおいた浅田氏らしさが垣間見えるとも言える。心理学者の香山リカ氏が、浅田氏が登場して、ニューアカデミズムに感動して以来、ニューアカデミズムが瓦解してしまった後も、長い間浅田氏が華々しく復活を遂げることを心待ちにしていながら、裏切られた、とどこかで書いていたが、私も香山氏同様、どこかで浅田氏の本格的な再登場をずっと待っていた気がする。だからこそ、佐々木氏の言う、ニューアカデミズム最後の継承者である東氏には、過剰に期待してしまっているのかもしれない。


一方、東氏の師匠筋とも言える、柄谷行人氏についても、かなりの紙片を割いて取り上げているが、戦後の批評界に現れた巨人も、残念ながら『NAM原理』あたりからはすっかり精彩を欠き、過去の人になってしまった印象が拭えない。



◾️ 日本の病は癒えていない


先にも述べたように、昨今益々批評や思想の需要は一層瘦せ衰えてしまっている。しかしながら、だからと言って何もしなくて良いわけではない。東氏が指摘するように、この国では、敗戦と占領の結果言論に押しつけられた特殊な『ねじれ』が日本の言語と現実を切り裂き、戦後のこの国は言葉と現実が一致できなくなってしまった。その結果、批評は『戦後日本固有の病』である、と東氏は述べる。しかも、その病は見えにくくなっているが、いまだに癒えていない。日本の社会はいまだ病んでいて、まだ健康になっていないのに健康なふりをすることが一番の問題で、批評という病、すなわち言葉と現実の乖離は、ねじれそのものが解消されなければ癒えることはない(デモなどの示威行動では癒えることはない)。よって、『ゲンロン』という雑誌のこれからの使命はその病の痕跡を発見し、再起動することにある、という。実に厄介な仕事で、損な役回りにも見えるが、逆に言えば、日本に残された数少ない希望がここにあるとも言える



◾️ 世界の潮流『ポスト真実』/『感情化する社会』


しかも、『言葉の危機』は日本にだけではなく、世界的な潮流となり、不透明な世界をさらに一層曇らせている。オックスフォード辞書が2016年の『今年の言葉』に『ポスト真実/post-truth』を取り上げたことが昨秋大きな話題となったのは記憶に新しい。それはまた世界が『感情化社会』となっていると言い換えることもできそうだが、いずれにしても、言葉は極限まで短くなり、論理や思想を運ぶ器ではなく、即時的で、低次の、きめの荒い、それでいてやたらと強い感情を運ぶだけの器になりつつある。


『感情』という点では、評論家の大塚英志氏が、著書『感情化する社会』*3でも指摘していることだが、近代の始まりに、経済学の父、アダム・スミスが『道徳感情論』で『感情』を体系化したことが知られている。そして、それは社会の常識として近代社会に浸透したはずだったが、それが失われつつあるという意味でも、世界は歴史的な転換点を迎えているように思われる。少々長くなるが、以下、『感情化する社会』の該当部分につき、引用してみる。

そこでは他人の『行為』や『感情』への『共感』が社会構成の根幹に据えられる。しかし、それは『私』の『感情』と他人の『感情』を直接、『共感』させるのではなく、自分のうちに『中立的な観察者』を設け、それが自分や他人の『感情』や『行為』の適切性を判断する基準を形成するという手続きをとる。このようにアダム・スミスは自明のこととして『感情』が適切な回路を通じて『道徳』化することを疑わず、その過程を検証した。(中略)問題なのは、このような回路がいまや失われた、という点だ。その意味で、『感情化』とは『感情化』が『道徳』(広義の規範や公共性)を形成する回路を失った事態を指すと言ってもいい。アダム・スミスのあまりに有名な経済における『見えざる手』も、一人の人間の中に、感情的に自己利益を追求し、『財産への道』を往こうとする『弱い人』(weak man)と、そうでなく、自分や他者にも倫理的な『徳の道』を往こうとする『賢者』(wise man)がいて、両者の均衡によってそれはもたらされる、と読むのが妥当だ。(中略)


このように、スミスにしたがえば、いまの私たちはただ、『感情』的であり、『共感的』である。しかし『中立的な観察者』が私たちの心のなかにはいない、ということになる。そして、この『中立的な観察者』抜きでは『感情』はただ互いに『共感』し合い、巨大な『感情』となってしまうだけである。


言うまでもなく、この内的な観察者は政治やメディアや文学といった形で『外化』され、制度化してきた。『知性』と呼ばれるものもそうだろう。しかし、それらが現に機能不全に落ちいていることは言うまでもない。

◾️『感情』の外に立つ『批評』の重要性


私自身、卒業論文にこのアダム・スミス道徳感情論を題材としただけに、この議論には思い入れはあるが、『感情』も『共感』も人間社会を深いところで支える重要な要素であり、『理性』に対して『感情』を一方的に劣位におこうとするのも、社会を歪ませる一因であることは強調しておきたい。近代西欧社会については、最近まで、むしろこちらの方の問題が指摘されてきた。しかも、『感情』も『共感』も低級から高等へ育て上げることができる。だが、現代の問題は大塚氏が指摘する通り、『知性』の衰退が『中立的な観察者』の役割を弱体化させ、その結果、『感情』は劣化し、『共感』その範囲が狭まり、対立ばかり激化しているところにある。だからこそ、『感情』の外に立つ『批評』の再生は、いかに時代の趨勢に逆行して見えようとその重要性はいくら強調しても足りない。そういう意味でも、『ゲンロン』に期待するところは非常に大きい。


重い課題を前にして、東氏や『ゲンロン』にすがるだけではなくて、自分では何ができるのか。ちょうど年頭ということもあるが、これを自問自答していくことこそ本年の最大の課題とすべきだろう。あらためてこれを年頭の決意の一つとしようと思う。

*1:

ゲンロン4 現代日本の批評III

ゲンロン4 現代日本の批評III

*2:

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

*3:

感情化する社会

感情化する社会