AR/拡張現実が担うべき真の役割とは


一抹の寂しさを感じる『セカイカメラ』の終了


2008年に華々しくデビューし、一世を風靡したと言っていい、Augmented Reality(拡張現実)の草分け的なサービスである『セカイカメラ』が、昨年12月に予告されていた通り、本年1月22日を持って終了した。


若干話題先行のきらいはあり、ネットサービスとしての実用性の乏しさや、目新しさ以上の面白さが今ひとつであることを指摘する人も少なくなかったとはいえ、なにせ『セカイカメラ』のコンセプトが(TechCrunch50にて)発表されたのは、2008年の9月のことだ。iPhoneの日本発売に遅れることわずか2ヶ月(iPhoneの日本発売は2008年7月。iPhone 3G: 2代目iPhone)である。さすがに当時はその先進性に皆舌を巻いたものだ。


コンセプトを発表しても、実際のサービスとして発売されるかどうか疑わしいとの声も多かったが、2009年の9月には、App Storeでアプリを一般公開して、きっちりとネガティブな声も封じてみせた。(アプリは4日間で10万ダウンロードを記録)。


ただ、ARアプリ/サービス全般で言えば、その後のスマートフォンの急激な普及に伴って条件(モバイル、ウェブカメラの普及等)が整ったこともあり、今では数えきれないくらいの様々なアプリが出て来ている。まさに猫も杓子もという感じだ。

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そういう意味では、『セカイカメラ』の歴史的役割はもう終ったと言うべきなのかもしれない。だが、それでも尚一抹の寂しさを感じてしまう(案外そんな人は多いのではないだろうか)。それはどうしてなのだろう。



過剰な期待と満たされない思い


昨今のARアプリは、実用という意味では、すごく進化していて、ARの特徴を生かすことで利便性を大幅に向上させるような秀逸なアプリも非常に多い。ARを使った楽しいゲームもそれなりにある。それを認めるのはやぶさかではないが、それでも、セカイカメラ』のコンセプトが発表された当時のような『沸き立つ気持ち』『ワクワク感』を感じさせてくれるようなアプリやサービスは残念ながらそれほど見あたらない。当時はこれからすごい事が起きる、世界は本当に変わるかもしれない、という興奮が実際にあった。『セカイカメラ』の進化の先には、驚くような世界を本当に見せてくれるのではないか、という(過剰な)期待感があったように思う。


ARによって、単なる利便性を向上させるのではなく、現実世界にARによって仮想世界を重ね合わせて、いわば平行世界を構築することで、可能性が著しく狭められた現実世界に未知の世界につながる孔をあけ、乾涸びてしまいつつある現実世界に潤いを与え、枯渇してしまった想像力を刺激し、あらたな創造の活力源とすることができるのではないか、そんな過剰とも言える期待感が確かに盛り上がっていた。



広義の拡張現実の興隆と停滞


おりしも当時このような世界の一端を具体的に見せてくれた、『電脳コイル*1のようなアニメ作品もあった。ARG(Alternate Reality Game : 代替現実ゲーム)のようなものも(日本ではそれほど盛んにならなかったが)出て来た。そして、必ずしも電子的なARではないが、『現実世界に何らかの情報を重ねる/追加することでその世界の意味を拡張する』という広義のAR的な考え方は非常に盛んになり、日常生活の様々な要素をゲームの形にする、『ゲーミフィケーション』という考え方が盛んに議論の遡上に乗るようになる。さらには、アニメやマンガ、小説などの舞台となった土地をファンが訪ねる観光(コンテンツ・ツーリズム)、中でも『アニメ聖地巡礼』と言われるアニメの舞台になった場所を聖地として特定して、その聖地を訪れる(観光客を呼び寄せる)ような行為も典型的にこの拡張現実の文脈の内にある*2。私は、これらを皆非常に興味深いトレンドとして見守って来た。


しかしながら、正直なところ、今ひとつブレークしない。特に最近では、期待過剰のままブームも終息するのではないかと危惧していたところだ。そんな最中届いた『セカイカメラ終了のお知らせ』だったため、寂しさという以上に、深刻な危機感をいだくことになった。



黒瀬陽平氏の危惧


ちょうどそのタイミングに、この私の危惧/危機感に驚くほど重なってみえる見解をとある本の文中に発見した。美術家/美術評論家である黒瀬陽平氏の『情報社会の情念』*3だ。(この本は驚くほど多義的に読める実に優れた作品で、今回私が引用させていただくのは、そのほんの一部のストーリーラインであることはあらかじめお断りしておく。そして、一読を強くおすすめする。) 黒瀬氏は次のように現状を嘆く。

キャラクターがあしらわれた神輿を指して『メディアと地域文化が融合した新たな観光が創造されている』と喜ぶ社会学者や、『ゲーミフィケーションでビジネスが上手くいく!』と謳うビジネス系ライターたちの姿を見て、なにか大切なことが忘れられているような根本的な違和感を抱いてしまうのは筆者だけではないはずだ。果たしてそれは、本当に現在の情報社会におけるクリエイティビティと呼べるものだろうか。

同掲書P150


加えて、黒瀬氏は、短期的な商業的動機だけで地域に持ち込まれた拡張現実の、長期的スパンでの悪影響について危惧する。

社会学者の鈴木謙介氏は、地域の来歴や生活と何の関係もない『文脈を欠いた』拡張現実が持ち込まれることの弊害として、その拡張現実を『消費できる人』と『消費できない人』の間に断層が生まれてしまう、という可能性を指摘している。そうなってしまえば、町興しどころか、拡張現実によって地域住民が分断されることになってしまうのだ。

同掲書 P151

『ポジティブ』では解決できない問題


地域住民が分断され、その地域がさびれれば、結果的に商業的な旨味もなくなってしまうだろう。実際には、それ以前に、『文脈を欠いた』拡張現実に誰も魅力を感じず、振り向きもしない事例が大変多くなっているとの印象がある。どうしてそんなことになってしまうのか。非常に逆説的だが、どうやら、関係者の『ポジティブ』で『合理的』な姿勢自体が行き詰まった現状をさらに停滞させてしまっているように見える。

現在、拡張現実コンテンツだとされているものの多くは、『ポジティブなもの』の実現に向かって、合理的に組織されている。地域活性化にせよ、『こうありたい』というイメージや努力目標を可視化し、現実に重ね合わせることによって、その達成を促すのである。(中略)しかし、『ポジティブなもの』の実現に向かって合理的に努力しているにもかかわらず、まったく状況が好転しない局面があることもまたよく知っている。(中略)私たちがなにかの問題に直面した時、その問題を解決するための明確な達成目標がわかっていて、実現すべき『ポジティブな』未来が具体的にイメージできるのであれば、ひたすら解決に向かって道理的に動けばよい。しかし、そのようなイメージがほとんど描けない場合、『ポジティブ』なものの拡張現実は、果たしてどれだけ私たちの力になるだろうか。(中略)ほんとうに新しいものは、過去の行動によって決定されている快適な環境の『外部』からやってくるからだ

同掲書 P159


まさに今回私が取り上げたいと考えていた問題意識そのものだ。



過剰な『ポジティブ』の危険性


現代社会が『ネガティブ』を徹底的に、しばし過剰に排除しようとし、その傾向に拍車がかかって来ていることを懸念する人は多い(かく言う私もその一人だ)。昨年は、コンビニ等の若いアルバイト従業員が、勤務先の店舗の冷蔵庫等に入って写真を取ってTwitterに流し、大炎上するようなケースが相次いだ。もちろんその行為は悪いことと言うしかないが、それを過剰にたたき、狭量な道徳を強制し合う包摂性の乏しい社会の雰囲気には非常に寒々としたものを感じる。


社会学者の開沼博氏の話題作、『漂白される社会』*4には、社会が売春島、偽装結婚、ホームレスギャル等のアウトローをまるで『あってはならぬものとして』消去するように弾圧し、そして、グレーゾーンに流れていった者達までさらに外へ追いやろうとする現代日本の姿を『可視化』していて、読むと冷や汗がにじむ思いがするのだが、こんな『ポジティブ』が徘徊して、自らが『ネガティブ』と定義したものを刈り取っているのが、現代日本であることはもっとちゃんと認識しておいたほうがいい。



豊饒性を帯びた闇


黒瀬氏は、文化人類学者の山口昌男氏を引用して、打開の方向性を示す。

我々は通常、我々を取り巻く世界を、友好的なものと敵対的なものに分割する思考に馴れている。その上で、敵対的な世界に、我々にとって好ましからざる傾向と考える性質を次々に付託する傾向がある。こうした思考は、我々にとってまったく身近な世界に対する態度だけに現れるのではなく、人間の意識の展開の歴史的仮定の最も早い時期の記録に残されている。人は多分その意識に現れる状態を、混沌を介して自覚してきたと思われる。

同掲書P151


そのような混沌を、ないものとして見てみぬふりをしている、『ポジティブ』な現代の日本は、自らの創造力や、活き活きと生きるために必要な活力を自ら封じ込めて、生命力が著しく衰えた『安全』『安心』『安定』を求めるような社会になってしまっているように私には思える。それは、極端に言えば、去勢された家畜の群れの『安全』であり『安心』なのではないか。

シュールレアリストが明らかにしたように、混沌こそは、すべての精神が、そこに立ち還ることによって、あらゆる事物との結びつきの可能性を再獲得することができる豊饒性を帯びた闇である。それゆえ、すべての文化は、それが、いかに論理的明晰性を公的な価値として称揚していても、文化構造のあたゆる片隅に、人がこうした暗闇と遭遇することができる仕掛けを秘め匿している。それは夢であるかもしれないし、人の忌み嫌う様々の場所かもしれない。

同掲書P161

豊饒さを取り戻すことの重要性


如何に豊饒性を帯びていても、オーム真理教のように実際にテロや殺人を行う存在は社会の許容範囲を超えてしまうため是認することができない。代わりに、芸術家の創造活動はしばし、常人の理解を超えた『闇』の領域に踏み込み、結果的に社会が豊饒さを取り戻すための役割を果たして来た。(黒瀬氏は著書で、その具体例として劇作家の寺山修司氏と芸術家の岡本太郎氏を取り上げている。)


現代の『商業/ビジネス』も、のっぺりした『安定』を求めているだけでは生き残れないことは理屈ではわかっているはずなのに、どうしたことか、最近の日本の多くの経営者やビジネスマンはまるで『見てみぬふり』をすることを習い性としてしまったかのようだ。これでは日本のビジネスは遠からず次々に枯死してしまう。


創造性/アイデアにしかブレークスルーは望めず、『創造的破壊』こそ今何より必要である旨覚悟を決める必要がある。そうすれば『拡張現実』が本来担うべきだった一番重要な役割も見えてくるはずだ。『セカイカメラ』の真の後継者もきっと現れてくるだろう。

*1:

電脳コイル Blu-ray Disc Box

電脳コイル Blu-ray Disc Box

*2:http://matome.naver.jp/odai/2128046018754839401

*3:

情報社会の情念―クリエイティブの条件を問う (NHKブックス No.1211)

情報社会の情念―クリエイティブの条件を問う (NHKブックス No.1211)

*4:

漂白される社会

漂白される社会