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未来の詰まった玉手箱『PLANETS Vol.8』(後編)


前回のエントリーで予告した通り、今回は、前回書ききれなかった、評論家の宇野常寛氏が編集長をつとめる『PLANETS Vol.8』*1の読後の感想の続きを書いておこうと思う。



ゲーミフィケーション


前回の最後で書いた通り、この本(雑誌)からは、本当に、キラキラし断片がいくらでも出てくる感じで、自分でもどれかを拾って何か語っておきたいという衝動に繰り返しかられる。ただ、少なくとも私にとってはそれはまだあくまで『断片』で、『体系』というわけではない。従って、これは、と思うところがあっても、実際に書き始めるとまとめるのにかなり苦労する。何かしら、ここに出てくる内容をもう少し構造的かつ体系的に理解し、概念化出来ないものだろうか。


そういう意味では、頻出キーワードでもある、『ゲーミフィケーション』については、かなり突っ込んだ分析記事もあり、今回、自分の構造理解を前進させることができた。感謝の意をこめて、『後編』ではこのことを少し書き足しておきたいと思う。


ゲーミフィケーションの定義については、ちょうど本書にKeyword解説があるので、ご参考にまず引用しておく。

ゲームの考え方やインターフェース、動機づけの方法論などを、ゲーム以外の実用的な活動やサービスに利用すること。ゲーミフィケーションという言葉そのものは、2010年ごろからアメリカで使われ始め、2011年にIT分野のトレンドに影響を持つ米国の調査会社ガートナー社が取り上げたことで広く知られるようになった。その応用分野は、企業の組織マネジメント、マーケティング、健康・フィットネス、教育、社会貢献活動など多岐にわたる。
その背景には、幼少期からデジタルゲームに親しんできた世代が大人になり、かつて存在したようなゲームに対する規範的な拒否意識が薄まったことや、インターネットへユビキタスにアクセス可能なモバイル機器の普及により、現実の環境そのものがデジタルゲームのそれに近づいてきたことが挙げられるだろう。


同掲書 P19

ついでに、前回の私のブログエントリーの一節も参考になりそうだ。背景理解の一助にして欲しい。

昨今のスマートフォンの浸透で、誰でも、いつでもどこでもリアルな現実空間を、バーチャルな空間につなぐことが簡単にできるようになり、現実空間での行動も、人間関係も、自我のあり方も、バーチャルやキャラクターとはっきりと分けることができなくなってきた。宇野氏の表現をかりると『現実のコミュニケーション空間そのものが半分虚構化』し、現実空間の意味そのものが、従来とは変わってしまった。


未来の詰まった玉手箱『PLANETS Vol.8』(前編) - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

現実空間と融合するゲーム


かつて、ゲームは、プレーヤーも子供や特別な人種にほぼ限られていたし、現実とははっきり区別された時間と空間で行われる、特殊な行為だったといえる。ところが、そんなバーチャルの代表選手だったゲームも、特にスマートフォン普及と共に現実空間と融合しはじめた。それでも自分はゲームはやらない、と主張する人ももちろん少なくないわけだが、上記の定義にある通り、ゲームの考え方や方法論は、現実の企業マネジメント、マーケティング、教育等の幅広い分野に浸透し始めており、事実上、全ての人が(思わず知らずであれ)関わりを持たざるをえなくなってきた。当然、これを仕事で仕掛ける側にとってみれば、競争に負けないためには、いやでも理解せざるをえない領域になり、『ゲーミフィケーション』を冠にいただいた出版物やセミナーは大盛況になった。



ジェイン・マクゴニガル氏の言説の評価


その中でも、象徴的な存在として印象深いのは、ゲームデザイナーで代替現実ゲーム(ARG)研究者としても知られる、ジェイン・マクゴニガル氏だ。日本でも翻訳された著書、『幸せな未来は「ゲーム」が創る』*2は大変な話題になり、各所で参照された。かく言う、私自身、訳書だけでなく、原著まで買って読んだ。確かに非常に面白く、かつ、タイミングが絶妙だった。『ゲームテクノロジーにより現実世界をより良いものにする』という理想主義的な姿勢にも文句のつけようがない。特に、多少なりともゲームに後ろめたさを感じていた人たちの中には、ゲームがポジティブで有意義に活用されることに、心理的な免罪符を得たような思いをした向きも少なくないだろう。同時に、ゲームが現実社会の変革ツールとして、社会の真ん中で日の目を見る日が来たことに快哉をさけぶ人もいたはずだ。これからはゲームが社会の主要なインフラになるかもしれない、そう思えた。


だが、意外なことに、マクゴニガル氏の主張は、日本でゲームをやりこんできたゲーマーにはあまり届いているとは思えなかった。ある程度ゲームは遊んできた私自身、事例に出てくるゲームに対して、ほとんど面白味を感じることができずに、大変居心地が悪かった。有意義であることが頭ではわかっているのに、腹落ちしない。しかも、そのことをあまりうまく『言語化』できない苛立もあった。



納得できる中川大地氏の記事


だから、文筆家の中川大地氏の記事、『ソーシャルゲームから構想する<拡張近代>の方法論』は、釈然としない私の気持ちが、非常に明快に言語化してある気がして、大変驚いた。

(前略)さらにポジティブ心理学で立証された認知効果のデータと結びつけることで、ゲームの効用に懐疑的だったり倫理的な抵抗を持っていたりする<昼の世界>の人々を理路鮮やかに説得せんとする論陣を展開していく。
 それは<夜の世界>の立場の者には心躍るビジョンである一方で、日本人としては違和感を感じずにはいられない部分もある。というのは、『世界を良くする』という天下りの目的意識がまずあり、それに向けて人々を動機づけてフロー体験を味わわせるためにゲームメカニクスを応用するという立場が、いささか窮屈に感じられるためだ。


同掲書 P75


窮屈というより、私は、取り上げられたゲームに何とも言えない『欠落感』を感じてしまっていた。ゲームで社会改革を、という意図を否定するものではまったくないのだが、ゲーム自体が面白くなければ、この改革も長続きしないのではないか。それではあまりにもったいない、そう思っていた。その理由を、中川氏はずばりと次のように言い当てる。



違和感の正体

(前略)現在アメリカを中心に進められているゲーミフィケーションの実践やその理論的基礎になる『ゲーム』の捉え方が、近年の研究の脈絡の中で、いささか狭い範囲に絞り込まれ過ぎていることにこそ、本質的な理由があるのではないか。とりわけ、本来はゲームを包含した体系としてあるべき『遊び』研究の系譜が現代化されていないことに、筆者はより不足感を感じている。 


同掲書 P76


正直、はっとした。私自身、かつて『遊び』というテーマを徹底的に分析した、歴史学者のヨハン・ホイジンガや思想家のロジェ・カイヨワをかなり読み込んでいたから、『遊び』という一語を見て、自分が抱えていた違和感の正体が突然はっきりとわかった。



ロジェ・カイヨワを通じて


中川氏は、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』*3で定義される、遊びの4つの要素 (『競争(アゴン)』、『運(アレア)』、『模擬(ミミクリ)』、『眩暈(イリンクス)』 ) をあげて、非常に明快に語る。

つまり、ジェイン・マクゴニガル氏が称揚するような西洋文明の基礎となる『ゲーム』とは、あくまでもルールの軸のもとにアゴンとアレアが優勢に結びつく、ギリシア・ローマ的な『闘技(ルドゥス)』のイメージにほぼ限られている。アメリカのゲーム研究は、あくまでもこの範囲の中での手法を精緻化することにしか興味がないようだ。


同掲書 P76


なるほど。言われてみればその通りだ。この『ゲーム』、狭く限定され過ぎている。

だが、カイヨワの着想の真骨頂は、ミミクリとイリンクスという残る二つの分類の発見と脱ルールの軸によってそれが結びつく『子供っぽい遊び・戯れ(パイディア)』の文節化により、西洋近代的な基準からは未開で異様なものに見える自然民族的・シャーマニズム的な文化の存在を視野に入れたことにあったはずだ。


同掲書 P76

対立が常態化する二元論


そして、中川氏は、ルドゥスとパイディアを二つの原理ながら、どちらもシステムの維持には不可分なバイロジックとして一元論的に恊働するのが、本来的なシステムであった、とする。


勝者と敗者を分割するアゴンとアレアが結合したルドゥスの原理


オートボイエティック原則: 


細胞が細胞膜を形成したり組織文化したりして自他を弁別し、
高度な秩序を創発していこうとする作用



ミミクリとイリンクスが結合したパイディアの原理


環境エミュレーション原則: 


一度創られた秩序や構造を部分的ないし全面的に解体して自他の境界をなくし
主体性を解体して環境と合一化あるいは擬似的に模倣(エミュレート)する
方向へとバランスさせる『対称性の論理』


ところが、西洋近代文明は、前者を過大視し、後者を不合理・不健全として抑圧/排除し始める。そして、『現実』を最大の価値とする<昼の世界>と、そこから排除された<夜の世界>が『反現実』となり二元論的な対立が常態化していったという。



バランサーとしての日本のゲーム


たかがゲーム、されどゲーム。アメリカのゲームはルドゥスの原理により過ぎているが、それは西洋近代文明の宿痾の帰結というのだ。一方、日本のゲームは、パイディアの原理が重視されているという。

(前略)パイディアが決して貶められることがない。キャラクターという代理表象によって他なるものに感情移入したり(ミミクリ)、ギミックやエフェクトに凝ってルールをずらしながら身体的快楽の基準をずらす(イリンクス)脱主体の相が、勝敗を分つことよりも明らかに重視されている。だからこそ一本道のJ・RPGや分岐のないノベルゲーム、だらだらと決定ボタンを押し続けるだけのソーシャルゲームに、ひたすらなめこを掻き取るアプリなど、日本ゲーム史ではおよそ『ゲーム』とはかけ離れた遊び体験が高度化していったのではないだろうか。


同掲書 P77


日米それぞれのゲームが『遊び』の普遍的心性を二分する存在になっているということになる。そして、パイディアを代表する日本のゲームの背後にある原理は世界が全体性を取り戻し恊働性を回復するために重要な役割を持つとする。

この時代の情報技術の発展の駆動因となった日米におけるゲームの発展とは、現実と反現実の二元論的な対立を徐々に解消し、ルドゥス化しすぎた近代文明(<オートポイエティック原則>の暴走)の中にパイディアの領域(<環境エミュレーション原則>による中和)を復権させて一元論的な恊働性を回復していく、一種の調整作用だったと考えることもできるだろう。


同掲書 P78

普遍性の一端


このように整理していくと、『遊び』が『ルドゥス』と『パイディア』に分割された日米の『ゲーム』は互いを排除しあい、それぞれを先鋭化させていくのではなく、『遊び』としての全体性を取り戻し、『遊び』本来の目的を取り戻すために、果たすべき日本の役割は重要で、普遍性の一端を担っていることがわかる。日本でも米国でも、『遊び』は単なる気晴らしやリフレッシュと化して本来の意味を喪失し矮小化した。ホイジンガは『ホモ・ルーデンス*4で、遊びは何かのためのものであったり、それが日常化してしまうともはや『遊び』とは言えなくなる(遊びの本質からは遠ざかってしまう)という主旨のことを述べているが、遊びの本質とは生きることそのものであり、生きることの全体性を喪失してしまっている近代文明のバランサーとしての日本の役割は自分たちが考えている以上に大きい。ゲームの分析から垣間見える<夜の世界>はこれが日本固有の問題ではなく、世界全体の問題であることをあらためて教えてくれる。



パイディアにより過ぎる日本


同時に、日本の独自の問題も垣間見える。おそらく、今の日本はやや『パイディア』に寄り過ぎているのではないか。日本人の心の全体性、一体性を取り戻していくためには、『ルドゥス』の要素を探求する方向からのバランスが大きな課題になっているのだと思う。単に米国流で置き換えるのは論外だが、日本人なりの統合を目指す必要はある。世界のバランサーとして真に日本が世界に貢献するためにも忘れてはいけない視点だと思う。

*1:

PLANETS vol.8

PLANETS vol.8

*2:

幸せな未来は「ゲーム」が創る

幸せな未来は「ゲーム」が創る

*3:

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

*4:

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)