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市場を機能させる非市場的要素/隘路からの脱出に向けて

ずっと『失われた』ままの日本


『失われた○年』というような、何やら翻訳もののSF小説のタイトルのような言い方が流布しはじめたのはいつの頃からだっただろうか。そもそもこの言い方の背後には、いつかまた経済成長軌道に復帰できるはずという黙示の了解があったと思うが、この○の部分に、いつしか『20年』というとんでもない長い期間を入れなくてはならなくなるに至って、もはやこの言い方によって『一時的な時代を表現する』こと自体が不自然に感じられるようになってきた。


起死回生の最後のチャンスを『地震津波による大災害後の復興』に対する国民の強いコンセンサスに見たと思ったのもつかの間、原発事故という第二幕が開くや、『ナイーブな子供』/『永遠の少年』となっていた大多数の日本国民は、すっかり忘れてしまっていた政治論争、倫理/思想/哲学論争の迷い道に誘い込まれることになる。議論は空回りし、対策は一向に進まない。本当は、難しい事を考えるのはやめてみんなで汗をかいて懸命に働きたいのに、どうもそんなに簡単にはいかなそうだ。



若者の傾向と大人の不徳


最近の若者は、モノの消費に淡白で、中には嫌儲、嫌消費、というような、何やら悟りを得た仙人のような人たちも増えているのだという。多くの選択肢や体験の結果、このような『悟り』に至るならそれも一つの生き方であり、むしろ文化の成熟の現れと言えるかもしれない。だが、どうやらそれは若者の積極的な選択の結果というわけではないようだ。普通に生業を得て、家族を養い、社会に貢献しようと考える真面目な若者は今でも決して少なくないと思うのだが、年収150万円〜200万円にも満たない、しかも非正規の就労機会しか得る事ができないのでは、将来設計もままならず、『清貧の思想』や『モノより心』『物質主義からの離脱』といった思想や哲学を唯一の依りどころとするしかなくなるだろう。


他国であれば、こんな状況に追い込まれた若者は、デモをするなり暴動を起こすなり過激な行動に走るのかもしれない。だが、日本人はかつて自然災害に何度も見舞われ続けたという民族の記憶もあってか、心の奥底に、『仏教的な諦念』の回路を持ち、西洋人と比較すると、『運命』を淡々と受入れることに比較的慣れているようだ。そしてそれは今回の地震でも随所に見られた日本人の典型的な行動類型と言えそうだし、危機に瀕して世界からも賞賛された礼儀正しさや落ち着きは、本来日本人が誇りとしてよい民族の財産ではある。だが、若者にチャンスや選択肢を与えることができず、このような隘路に追い込むような社会をつくってしまった大人の側は、自らの不徳を恥じるべきだろう。



迷走する大人


しかしながら、その『大人』も、人生の荒波を乗り越えた智慧を今こそ披露し、発揮すべき時のはずなのだが、多くは世の変化のあまりのスピードに翻弄されて自信を無くし、縮こまり、あるいは迷言をはき暴走しているように見える。そして、続々と、『中年の危機』『老年の危機』に飲み込まれている。どうしてそんなことになってしまったのか。


社会制度改革、という点についていえば、戦後最もそれが盛り上がっていたかに見える全共闘世代も、政治運動としての左翼の退潮、社会主義国家の破綻等を経て、むしろ米国が標榜する資本主義の陣営に転向し、日々の経済活動に邁進する。彼らにとって『日本的経営』が世界市場で通用することに浮かれている間がまさに我が世の春だったわけだが、その短い春が終わってみると、多かれ少なかれ違和感を感じながらも、米国の主導するグローバリズムに追随することを自らに課し、むしろ主導者として振る舞ってみせる。都度、突き詰めて考えるのではなく、世界の大勢、特に米国の思惑を察知して身の置き所を間違わないことに注力してきたため、自ら思考し、議論を交わす能力はすっかり萎縮している。よって、あらゆる価値が疑わしくなるような多極化の時代にあってさえ、自ら道を切り開く意欲とてもはや失っていると言わざるをえない。



優れた大人でさえ払拭できないトラウマ


それでも中には、孤立無援を恐れず、全力を尽くす大人達もいないわけではない。しかも、そのような人たちが古い呪縛から解放されて本格的な活動を開始する兆しが全くないわけではない。だが、それでも、日本社会は、特に政治/経済に関わる改革に対して、払拭できないトラウマを抱え、それこそ隘路にはまってしまっているように見える。


あくまで私の見立てだが、何らかの改革、特に経済に関わる改革に取り組もうとする人たちの間に、自由主義経済学者ハイエクの指摘する、いわゆる『ユートピア社会工学に陥る危険』が払拭できていないのではないか。理想的な「ビジョン」の代表格は、『共産主義』『社会主義』ということになるわけだが、いかにその理想が思想的なレベルで優れたものであろうと、社会に『設計主義』で臨むと失敗するというハイエクの考えは現実的で、今では日本でもハイエク支持者はすごく増えた。そして、現実に、ユートピアの無惨な失敗をさんざん見て来た日本の大人たちのトラウマになっているように思える。設計主義者(たち)の能力がいかに優れていたところで、超複雑で難解な市場で都度正しい解を得ることはおよそ不可能だ。市場が完全ではないことは理解しながらも、市場の自由裁量に任せ、市場での再配分能力を期待したほうがまし、という結論には抗い難い。(そして、それ自体は私もかなりの部分賛同するところでもある。)

フリードリヒ・ハイエク - Wikipedia



原発事故が突きつける困難な問題


ただ、今回の原発事故のように、狭義の市場の調整範囲を超える、いわゆる市場の外にある問題が多くなってしまうと、大変悩ましい課題が百出する。市場の調整だけでは対処できなくなってくる一方、市場の解決能力をまったく度外視したユートピアではいかにも危なっかしい。気をつけないと社会の自律的回復能力を破壊し、社会が根底から成り立たなくなる恐れさえある。市場の機能を最大限生かしながらその欠点を補う何らかの方法を生み出す必要があるのだが、具体的な現場では、その方法も、調整の原則も皆目見当がつかなくなっている。どんなに優れた『大人』でも今やこの難問に適切な答を出す事は至難の業だ。



村上春樹氏のスピーチ


例えば、非常に話題になった、6月9日にスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された作家村上春樹さんの受賞スピーチの原稿に書かれている原発問題に関わる部分を見ても、素晴らしい内容ではあるのだが、村上氏のジレンマと苦悩が見て取れる。

我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

理由は簡単です。
「効率」です。
原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。
つまり利益が上がるシステムであるわけです。

村上春樹 カタルーニャ国際賞スピーチ動画と原稿全文


狭義の『効率』を近視眼的に追い求める姿勢を強く戒める一方、この解決が言うほど簡単ではないこと、それなりに批判にさらされるであろうことを村上氏が覚悟していることが、原稿のタイトルにあらわれている。タイトルはこう書かれている。

「非現実的な夢想家として」


では、どのようにこの問題に取り組めばいいのか。



市場の整備がまず重要


まず、市場自体を整備し正常に機能させる必要がある。そもそも市場の外部に置いていた要素はもっと内部に取り組むべきだろう。使用済み燃料の処理コスト、原料のウラン精製コスト、事故を想定した保険料等、正味のコストをすべて反映した上であたらめて市場の調整機能に任せるべきという議論は大変まっとうなものだ。また、発電、小売り、送電の自由化等、電力の自由化をもっと進める必要がある。本当に市場に任せるなら、この是正は不可欠だ。電力卸売市場も整備する必要がある。情報を公開して透明化を促進することも忘れてはいけない。電力市場だけではなく、日本の市場は全般に情報公開が遅れていて、透明性を阻害する要因が沢山ある。市場に任せ、経済効率の最大化をはかること自体の是非を問う前に、市場を公正で透明にしてきちんと機能するようにすることが何より重要だ。



その先の悩ましい問題


だが、本当に悩ましい問題はその先にある。再び村上氏のスピーチを援用すると、こうある。


ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。
それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。
それらはかたちを持つ物体ではありません。
いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。
機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

村上春樹 カタルーニャ国際賞スピーチ動画と原稿全文

失われた倫理や規範/思想


自分の周囲を見ても強く感じることだが、特に『失われた20年』の間に、『効率優先』『経済性優先』礼賛の影で一番失われたのは、社会規範やモラル、あるいは理想、信念だと思う。今回の原発事故でも、こちらのほうの劣化から派生する問題がいやになるほど露見した。それはもう、やらせメール、マスコミや学者を取り込むような諸策、経済官僚との癒着、事故情報等の重要情報の秘匿等枚挙にいとまがない。これではいかに優れた市場システムをつくっても機能しないだろう。市場システムはあくまで社会の一部としてあるものであり、その社会は信頼性とそれを支えるモラル、価値、理想、信念、プライド等により健全性を維持している。社会の健全性がおかしくなると、市場システムも正常に機能することはない。



信頼の欠如と感情的な忌避


今、効率優先、経済優先、経済成長優先等を語られると、反面、目の届かない隠れたところでは不正、あるいは不正ぎりぎりのさまざまな悪行が数限りなく行われているのではないか、という疑問が払拭できなくなっており、そのアレルギー的な反応が『ダメな物はダメ』というような感情的な反発となり、別の問題を生んでいる。市場の透明さ、合理性を阻むもの(既得権益と官僚の癒着、利益誘導等)をこれほど見せられては、合理的な判断だけではなく、感情的な忌避感がないまぜになって、非合理な振る舞いや反応が日本全土を覆ってしまったのも無理からぬところがある。だから、原発問題に限らず、一見、経済とはなんら関係なく見える社会規範、信念、思想のようなものをきちんと再構築することが本来の市場の機能性を取り戻すためにも、最も重要な要素になっているように思う。このままほおっておくと、原発だけではなく、技術進化全般を忌避したり、社会の変革自体を避けようとしたりするようなセンチメントが抑えられなくなり、合理的に進めるべきことも進まなくなる。



重要な文学者の直観



倫理観が狂っている人に向かって倫理観を正せだの、既得権益にしがみついている人に公共のために権益を手放せ等、やみくもに吠えても何ら問題は解決しない。それこそ合理的な思考だけではなく、非合理に満ちた人間の奥深い心理や感情等に立ち入って理解し、社会の倫理、公共意識、思想等を再構築する必要があると考える。それが結果的に市場を合理的に機能させることにもつながるはずだ。そのためには村上春樹氏のような文学者の直観を経済問題とは関係ないと退けず、経済自体の問題としてマクロに取り組んでいくことも大事だと思う。