『滅び行く桃源郷日本』にならないために出来ること


『日本の良さが若者をダメにする』という記事


しばらく前(4 月5日)Newsweek日本語版*1に寄稿された、『日本の良さが若者をダメにする』というタイトルの記事は、Twitterでも引用されて大変話題になっていたので、読まれた人も多いと思う。記事を書いたのは、レジス・アルノー氏というフランス人のコラミストだが、現代の日本の実情を非常によく観察されているので感心した。


現代の日本が世界での存在感をすっかり失っている一方で、生活のクオリティーは非常に高い(社会の柔和さ/格差の小ささ/清潔/安全/効率的/食事がおいしい/王様のような快適な生活/買えるものがたくさんある等々)。18歳まで日本で暮らしたフランス人の多くがフランスよりも日本を選ぶだろう、という。確かにフランスに限らず、日本以外の国は多かれ少なかれ日本にいては気づかないような深刻な民族問題、格差、貧困等を抱えていることが多い。それは私自身の実感でもある。


日本では高齢化、景気低迷がものすごいスピードで進み、どう贔屓目に見ても衰退に歯止めがかからない。その一方で、生活の質は洗練の極みにある。世界に窓を閉ざし内に閉じこもる日本人。このような姿は、かつて海部美知氏が著書のタイトルにした、『パラダイス鎖国*2 のイメージに近い。(面白いことに、本人もこの記事にTwitterでコメントを寄せている。)だが、おそらく今の日本は『パラダイス鎖国』で語られたころより一層悲観的な観測が広まっているように思える。それは滅び行く『幻の桃源郷とでも言うのだろうか。この桃源郷にはそこそこの満足感はあるが『希望』はない。



わかっていてもどうにもならないジレンマ


レジス・アルノー氏は、日本人の若者は自分の国の良さを理解していないというが、多少意味は違うかもしれないが、むしろ日本の若者は今自分の国で起きていることを誰よりも正確に理解していると言えるのではないか。我々の世代のように海外に憧れるようなこともなく、海外に住むどころか旅行にも出かけようとしない。今の生活にはある程度満足していて、海外に出て冒険することが自らの満足度を上げると考えている若者は明らかに少なくなった。日本人でフランスへの憧れを語るのもその多くは30歳以上、特にバブル世代とも言われる40歳代が中心だろう。一方、この『幻の桃源郷』がそれほど長くは続かないことにも薄々気づいている。だが、どうすればいいのか本当にわからないでいる。


団塊世代等、高度成長を支えたと自負する世代を中心に、そんな今の若者に対する失望感はとても強い。だが、そういう人達が語る日本再生も、かつての日本の成功のフォーミュラ、すなわち圧倒的な消費国である米国へ輸出をして外貨を稼ぐ(これからは輸出先をアジアに広げる)、というようなモデルに回帰することを語るのがせいぜいであることが多い。今やその役割は中国を中心とする新興国に移っているのは明らかで、経済の発展段階の違いもあるため、すでにその段階を卒業した日本と比べるのには無理もある。それどころか、旧来のモデルに固執するあまり、すでに耐用年数が過ぎた業界や仕事を頑に守ろうと頑張るためかえって本来なすべき改革が一向に進まない、という意味で足を引っ張る存在になることも少なくない。



『村社会離脱』は幻だったのか


私も、所謂「日本株式会社」全盛期に「日本的経営」が礼賛された時期と、その後のバブル崩壊失われた10年(20年?)を経て日本企業の多くがすっかり自信を失ってしまうところまでを現場で実地に経験してきた。その過程で、日本的経営の光と影、メリットと問題点等、散々研究し議論してきた。結論から言えば、今や日本を囲む環境自体が日本的経営の成立条件に適さず、米国式とまでは言わないまでも、「集団(村)」から「個」の時代に移行せざるをえないという認識では多かれ少なかれ共通していた。転職の拡大、男女雇用機会均等、MBA取得、宴会カルチャーからの脱出、ゆとり教育等々、その過程で涙ぐましいほどの試行錯誤が行われて来た。私自身も、「企業村落社会からの脱出」「空気による決定の否定」等を目標に据えて、新しい日本企業の仕事の進め方を模索してきた。日本が経済的にもいよいよ行き詰まって来た今こそ、なかなか進まなかった企業内の構造改革をもう一段進めるチャンスが来ている、と気合いを入れていた。少なくともそれ以外の選択肢があるようには思えなかった。


ところが、今の20歳代から下の年齢層の若者はなんと『終身雇用/年功序列』を好み、旧来の大企業志向に回帰しているという。専業主婦志向も増え、空気を読むことに非常に長けている。企業社会という村社会がやっと解体しかかっていると思ったのに、村社会も空気読みも復活しているのだという。この様子は、博報堂の原田曜平氏や、原田氏とマーケティング研究家の三浦展氏の共著に生々しく描写されている。
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確かに自分の会社でも人事の採用担当がそのような感想を漏らしていたことを思い出した。その時は、リーマンショック等の一時的な反動程度にしか思わなかったのだが、どうやらそうではないらしい。中学生くらいからケータイを持っている彼ら(彼女ら)は(原田氏によれば、今の10代は平均14.24歳からケータイを持ち始めているという)、メールネットワークで緊密に繋がれ、高校入学時、大学入学時、入社時等、従来なら人間関係が一新されるタイミングでも関係が切れずに人間関係が通算され、友達の友達のような弱い関係の広がりも含めて100人単位の多過ぎる『友達』と毎日何十通のメールのやり取りをしている。(いや、やらされている。)メールが来ると即時に返信するのが決まりで、遅れると人間関係がおかしくなる。そして、その『掟』を守らないと強烈で逃げ場のない『いじめ』や『村八分』が待っているという。これは、昔の『村社会』と比べてもかなり過酷だ。



『新村社会』


村社会復活と言っても、企業村ではない。従来の村社会が『上下の村社会』だとすれば、今できつつあるのは、いわば『横の村社会』だ。だから、彼らが朝会社に来ても、上司や先輩には挨拶もせず、すぐにパソコンを開いて同期の友人たちに挨拶のメッセージを送る、というようなことが起きる。それでいながら、『今の会社に一生務めよう』とか『転職はしないにこしたことはない』という意識が高まり(財団法人日本生産性本部2009年度新入社員意識調査ではいずれもこの回答比率が過去最高を更新したという。)、学生が重視する企業選択ポイントは『安定』『業界上位』という保守化を表す項目に集まるというように、所謂昭和的マインドに回帰しているように見える。当然、起業のようなハイリスクなことは回避する。一方で、高度成長期のようなハングリーな上昇志向は男女ともになく、大きな夢より現実的な安定感を重視するとなると、日本企業の国際競争力が上がる要素はどこからも見えてこない。



素晴らしくて孤独な国


レジス・アルノー氏は、『若者はどうか世界に飛び出してほしい。ジャングルでのサバイバル法を学 ばなければ、日本はますます世界から浮いて孤立することになる。「素晴らしくて孤独な国」という道を選ぶというのであれば別だが。』と述べる。世界の常識で言えば、それは滅びへの道であることがはっきりしているからだ。だが、今や若者に限らず、中高齢層を含めて「素晴らしくて孤独な国」を誰もが求めているように思える。



やるべきことは


では、そうならない道はあるのだろうか。私はあると思う。だが、それは若者からケータイを取り上げるような、団塊世代を中心とした大人世代の多くが考えるような方法によってではない。すっかり浸透してしまった巨大ネットワーク社会を無視するようなことは非現実的だし、建設的でもない。(今若者からケータイを取り上げても、村八分にされるだけだ。)世界の趨勢から言ってもいわゆるデジタルネイティブと呼ばれる世代は、ネットワークで結ばれていることがあたりまえになってきている。大人世代が反省すべきは、『ネットワーク社会』、『インターネット・ソーシャル』をきちんと自分で理解する努力が不足していることだ。建設的な活用という点でも、現状はまったくほめられたものではない。各種の統計を見ても、日本のインターネット利用は世界の中でも非常に遅れていると言わざるをえない。世界に先駆けて若者にはほぼ100%に近いほどのケータイ・ネットインフラが普及した日本だが、その利用は多くはアングラで、選挙のような公的利用も国際的なネットワーク拡大にも活用できているとは言えない。このいびつさこそが、今の日本の本当の問題であることを直視する必要がある。若者のケータイ・ネットワークを利用した『新村社会』がいびつで奇怪に見えるなら、それは建設的なネットワーク社会の構築を自ら進めなかった大人の責任が大きいと知るべきだ。



突破口


原田氏の著書にも、中卒でありながら、ケータイネットを通じて、中国人とのネットワークを拡大し、実際に中国にも出かけ、中国語をあやつるようになった少年の例や、イベントに1万人規模で人を動員するほどのネットワークを持つ若者の例が出て来る。彼らのような建設的な利用を志向する人達を最大限サポートすることができる社会(システム)をつくることが、今『大人』に課せられた最大課題と言えるだろう。滅び行く『桃源郷』を世界に開かれた『竜宮城』に変えることを本当に望むのなら、これを抜きにした議論はすべて片手落ちだ。突破口はここにある。いや、ここにしかないのではないか。