読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

何より先ず大事なこと/『勝間和代vsひろゆき』討論問題 補遺


思いがけず大きな反響をいただいた前回エントリー


前回、5月5日にアップしたエントリー、『「勝間和代vsひろゆき」討論はとても大切なことを世に問うている』には、思いがけず非常に多くの反響があり、ブログのコメント欄だけでなくTwitterはてなブックマーク等も通じて多くのご意見をいただいた。(同時に私のTwitterアカウントである、SeaSkyWindも沢山の方々にフォローしていただいた。)気恥ずかしくなるくらいのお褒めの言葉も頂戴したが、同時に非常に手厳しいご意見も沢山いただいた。いずれも私にとっては非常に貴重なご意見であり、本当にありがたいことだと思う。本来直接御礼したいところではあるが、このような大反響に慣れていない私にとって今回はあまりに数が多いので、大変恐縮だがこの場をかりて、御礼を申し上げたい。また、いただいたご意見に対する私の考えを少しだが述べておきたい。



印象に残った『勝ち負け』の問題


いくつも気になるご指摘を頂いた中でも、大変印象に残ったのが、この対談に『勝ち負け』をつけることはおかしい(ないし、勝間氏的)というご意見である。例えばこんな感じだ。(はてなブックマークコメントより はてなブックマーク - 「勝間和代vsひろゆき」討論はとても大切なことを世に問うている - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る )

この対談を「勝ち負け」で判断するところに「勝間化」する危険性がある。ひろゆき氏は一貫して相対的な価値観でなく彼自身の価値観で発言している。活力のないロスジェネ的意見だと言われればそれまでだけど。noumi_j2

勝敗つけた時点で読む気なくした。その段階で「自分自身が正義」になってるところはスルー。suteacco 


この短い文章だけで、書かれた方の真意まで知る由はないが、少なくとも『勝敗』の概念ですべてに白黒をつけて行こうという態度は多分に西洋思考的で、今回のケースでは勝間氏が代表する姿勢だろう、という主旨であればなるほど非常に鋭い着眼点だと思う。勝間氏の履歴を見れば、アーサー・アンダーセン、ケミカル銀行(現JPモルガン・チェース)、マッキンゼーJPモルガン証券等、ほとんどがバリバリの外資系の履歴であり、普段のお話ぶりからも、正/反、正義/悪を明確に分けて勝/敗をきっちりと着けて行く米国流ビジネスマインドの体現者であろうことは容易に想像がつく。


この対極はと言えば(わかりやすいように極論を言えば)、二極の境界を必ずしも明確にせず、対立や勝敗という概念を持ち込まず、勝敗の土俵そのものを超越してしまうタイプの東洋思想あたりが該当するだろうか。黒と白の境界(灰色)そのものに価値を見出す思想だ。(いや、『境界』という概念さえも超越しているというべきかもしれない。)確かに前回のブログエントリーで私は、勝間氏が代表するように思われる『ビジネス常識』に問題ありとして、背後にある米国流のビジネスマインドの行き過ぎの問題を臭わせ、親鸞上人まで持ち出して、灰色のような中間域の重要性を多少なりとも主張した。それなのに、結局『勝ち負け』で語るようでは、論理矛盾ということになるわけだ。


そういう意味では、少々『勝ち負け』という言葉を安易に使い過ぎたかもしれない。少なくとも私の意図としては、『西洋流でデジタルな勝ち負け』を言いたいわけではなかった。さらに混乱の度を深めることになりかねないが、あえて言えば、『気迫勝ち』『貫禄勝ち』とでも言うのだろうか、言わば、禅の老師が、喝を食らわしたような印象を受けたとでも言えばわかるだろうか。(禅の老師に例えるには、ひろゆき氏にはまだ煩悩が多そうだが・・)それをつい説明抜きで『圧勝』などと言ったものだから、余計な誤解を招いた気がしないでもない。



やむをえず『郷に入って郷に従うこと』もある


もっとも、これも前回も少し書いたことだが、勝間氏が代表するように思われる『ビジネス常識』も、米国流ビジネスマインドも、場合によっては中国華僑流ビジネス常識も、さらにはアラブ式ビジネス思想も、どれも日本人の普通の感覚から言えばとても飲み込めない違和感たっぷりの代物だが、ビジネスの現場では否応なくそれを理解し、相手に合わせて行くしかない場面というのがある。最近では何故か忘れられがちだが、日本は資源小国だし、日本の市場も縮小局面に入っており、海外とのビジネス上の交流がどうしても避けられないケースも多々ある。にしむら氏の言う『しあわせな日本』も何もしないで維持できるわけではない。だから、米国人に囲まれてビジネスをやる時には、好き嫌いは度外視してでも、まさに勝間氏が代表するような『ビジネス常識』の世界にとっぷりと浸からざるをえないことはある。私自身、狭義のビジネスを語る時には、時として勝間氏流に近いことを語ってもいる。同じくはてなブックマークのコメントで、『 この人、勝間和代に共感してるんだろうなぁ(本人は自覚ないかも)そしてその前提でひろゆきが言っていることに一理見付 けたということを主張したい  nazoking 』というのがあったが、共感はしていないが、『郷に入って郷に従う』ことは今でもある。(海外ビジネスに首まで浸かっていたいた時分にはもっとあった。)



ビジネス価値一元はいかがなものか


だが、少なくとも、この価値観だけですべてを量って行くことには無理があると考えている。ビジネスの仮面はかぶるけれども、仮面が顔に張り付いて取れなくなるようなことは避けるべきだと思う。ビジネスを格闘技に例えれば、リング内や土俵では鬼にもなろうが、土俵を降りれば、弱肉強食の論理だけではやって行けない。人間はビジネス世界でだけ生きているわけではない。日本企業が右肩上がりの成長が続く幻想の中にあったころに、生活のすべてをビジネスに捧げるように明に暗に社員に要求するような例は沢山見られたが、先行き不透明な現在に至ってそのようなやり方を引きずっていたら、病人を増やすだけだろう。異論反論を覚悟で言うが、家族の関係や教育の現場等にまで効率第一を主張し、ビジネス世界のアナロジー(類推)を過度に持ち込むような無粋なこともやめたほうがいい。そんなことばかりしていると、着けていた仮面が剥がれなくなってしまいかねない。そんな人だらけの社会はすごくグロテスクだと思うのだがどうだろうか。時に応じて好きなときに仮面を着けたり取ったりできる、そんな自由は失いたくないものだ。



ビジネスの成功でさえ


さらに言えば、日本のような成熟化した市場では、商品やサービスの付加価値を開拓するには人間の価値意識や心理の深いレイヤーへの理解がどうして必要になって来ている。古びた価値観やルール、人が押し付けてくる先入観に捕われているようでは話にならない。まして自分に仮面が張り付いていることにさえ気づかないような鈍感さでは、ビジネスの成功もおぼつかない。(これも前回も述べたことだ。)いつも自分が使っている思考形式に気づき、自分の直観を研ぎすまし、表面的な現象の背後にある哲理に気づくことができるようでなければどうしようもない。



自分自身と向き合うことこそ


各自がどのような価値観に共感を感じているかということより、本当の自分に気づいていられること、そして時には仮の自分を捨て去る自由を持っていることが私には一番大事なことに思える。それに比べれば、『勝間的であること』や『ひろゆき的であること』自体はそれほど重要な問題ではない。個々人がどちらでも好きな方を選べばよいとさえ言える。だから、正義の押し付け合いをやっている暇があれば、自分自身ときちんと向き合うことが何より先ず大事なのだと思う。正義の押し付け合いは、誰であれ相手を見つけては『自分が正しいことを主張するゲーム』に勝つことで、『本音のところ自信を持てない自分』の正しさを自分に納得させることが目的になっていることが少なくない。それは不毛な時間の浪費と言わざるをえない。自分と本音で向き合うことができれば、『少しでも相手から自分の知らない未知の価値を引出したい』、『自分自身の気づかぬ過ちや間違いを討論を通じて見つけたい』、という基本姿勢を錬成していく可能性が広がる。そうなれば、異なった価値観や思考形式を持つ相手と話す場合でも、少しは有意義な討論ができるはずだ。そして、幸福感とまでは言わないまでも、より深い『満足感』や『充実感』を感じることにもつながる。さらには、結果として、そういう基本姿勢が身に付いた人に人はついて行くし、『自分が正しいことを主張するゲーム』に血道を上げる人からは人は離れて行く。このような深慮に思いを馳せる機縁を今回の討論は与えてくれた。


以上、頂いたご意見やご質問の一部に対して、多少なりともお答えになっていれば幸いである。